152 関係: 即位、受領、受領功過定、参議、吉川弘文館、堀河天皇、大江匡房、天皇、太政官、家司、宇多源氏、寺社、寺院、小野宮流、崩御、崇徳天皇、中右記、三事兼帯、平康頼、平忠盛、平知康、平親宗、平業忠、平正盛、乳母、平治の乱、五位蔵人、仙洞御所、伊勢平氏、弁官、侍読、御所、後三条天皇、後冷泉天皇、後白河天皇、従三位、律令制、俊寛、保安 (元号)、信西、応徳、北面武士、別当、嘉承、内覧、内蔵寮、公卿、公家町、典侍、兵衛府、...、勧修寺流、国司、神人、神社、田堵、番、白河天皇、荘園、非参議、衛門府、西光、親王任国、解官、諸大夫、高階為家、高階為章、高階氏、高階泰経、議政官、譲位、貴族、鳥羽天皇、輔仁親王、関白、藤原基隆、藤原季能、藤原定能、藤原実政、藤原実教、藤原家保、藤原家成、藤原宗忠、藤原宗通、藤原師実、藤原師信、藤原師通、藤原伊房、藤原俊盛、藤原忠実、藤原忠隆、藤原信隆、藤原信頼、藤原光子、藤原光隆、藤原範季、藤原経子 (藤原経平の女)、藤原経忠、藤原為隆、藤原為房、藤原隆季、藤原隆房、藤原顕季、藤原顕隆、藤原顕頼、藤原親子、藤原親隆、藤原長実、藤原通俊、藤原氏、藤原清隆、藤原朝隆、藤原朝方、藤原成範、藤原成親、蔵人、蔵人頭、院司、院宮王臣家、院庁、院評定、院政、永久 (元号)、江戸幕府、江戸時代、治天の君、源俊明、源国明、源経信、源資賢、成功 (任官)、新家、日記の家、日野家、摂家、愚管抄、慈円、1086年、1107年、1114年、1120年、1129年、1156年、1158年、1161年、1165年、1179年、1181年、1192年、1996年、2001年、2003年、2009年。 インデックスを展開 (102 もっと) »
即位
即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.
受領
受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.
受領功過定
受領功過定(ずりょうこうかさだめ)とは、平安時代中期に太政官において行われた任期を終えた受領に対する成績審査。除目や叙位の際に参考資料とされた。.
参議
参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
堀河天皇
堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.
大江匡房
大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。.
天皇
天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.
太政官
太政官.
家司
家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.
宇多源氏
宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.
寺社
寺社(じしゃ)は、日本における寺院と神社の総称である。社寺(しゃじ)あるいは神社仏閣(じんじゃ ぶっかく)とも呼ばれる。 寺社という言葉は江戸時代までの仏主神従の考えによるもので、一方、社寺という言葉は平安時代頃から使われた形跡があるが、主に神社優先の考えに基づいた明治期以降に多く使われた。.
寺院
日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.
小野宮流
小野宮流(おののみやりゅう)は、平安時代に始まった有職故実の流派。藤原実頼を祖とする小野宮家に伝わる。.
崩御
崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.
崇徳天皇
崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.
中右記
『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。筆者には『愚林』と名付けられたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。.
三事兼帯
三事兼帯(さんじけんたい)とは、五位蔵人・弁官・検非違使佐を兼帯すること。蔵人佐(五位蔵人で検非違使佐を兼ねる)が弁官に就任して、実現されることが多い。.
平康頼
平 康頼(たいら の やすより、久安2年(1146年)? - 承久2年(1220年))は、平安時代の武士。信濃権守・中原頼季の子『勅撰作者部類』。官位は六位・左衛門大尉。後白河法皇の近習として北面に仕える。平判官入道と称された。.
平忠盛
平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.
平知康
平 知康(たいら の ともやす、生没年不詳)は、平安時代末期の武士。壱岐守平知親の子。検非違使・左衛門尉。鼓の名手で鼓判官(つづみのほうがん)と呼ばれた。.
平親宗
平 親宗(たいら の ちかむね、天養元年(1144年) - 正治元年7月17日(1199年8月10日))は、平安時代末期の公卿。桓武平氏高棟王流、贈左大臣・平時信の次男。高倉天皇の外叔父。官位は正二位・中納言。.
平業忠
平 業忠(たいら の なりただ、永暦元年(1160年) - 建暦2年8月16日(1212年9月12日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の院近臣。成忠とも表記される。大膳大夫・平信業の子。母は藤原基隆または藤原家範の娘。官位は正四位下・大膳大夫。.
平正盛
平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。.
乳母
乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。.
平治の乱
平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.
五位蔵人
五位蔵人(ごいのくろうど)は、律令制下の日本における官職(令外官)の一つ。蔵人所の次官で、蔵人頭の次位にあたる。定員は2~3名で、五位の殿上人の中から、家柄がよく学識才能のある者が特に選ばれた。 五位蔵人という言葉が歴史上に出てくるのは、『職事補任』宇多院の項の分注に「仁和四年十一月廿七日、始置五位蔵人二人、止六位二人」とあり、源湛・藤原敏行の2名が五位蔵人に補任されたのが初見で、これ以後頻出している。これ以前にも五位蔵人は存在していたが、無位の蔵人もあり、蔵人8人の位階は必ずしも一定しなかった。当時は五位と六位の間に身分上明確な一線が引かれ、官人の行動や儀制面で大きな差があったため、蔵人を一括することが困難であったとともに、蔵人所の職掌も次第に分化し、身分の高低が密接に関係するようになった。このことが五位蔵人の設置と、それに伴う機構の整備を生んだ理由と考えられる。 これ以後、五位蔵人が四位に、六位蔵人が五位に昇進した場合が、新しい位階のまま蔵人に留まることは許されず、位階と蔵人の職が不可分のものとなり、五位蔵人及び六位蔵人は官職名とみなされるようになった。.
仙洞御所
仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。.
伊勢平氏
伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.
弁官
弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.
侍読
侍読(じどく/じとう)とは、天皇の側に仕えて学問を教授する学者のこと。 律令制のもとでは大学寮の博士あるいはこれに近い学識を有する人物が任命された。主として四書五経などの儒教の経典が講義されたが、『史記」や『文選』、『老子』などそれ以外からの講義も行われた。だが、平安時代後期以後、紀伝道博士(文章博士)を世襲した大江氏・菅原氏が侍読の役を独占した。また、摂関家や将軍家の当主に学問を教授する学者も侍読と呼ばれるようになる。 Category:日本の皇室 Category:古代日本の教育機関 Category:奈良・平安時代の宮廷.
御所
御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。.
後三条天皇
大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.
後冷泉天皇
後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.
後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.
従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
俊寛
俊寛の墓(喜界島) 俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年) - 治承3年3月2日(1179年4月10日))は平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。.
保安 (元号)
保安(ほうあん、ほあん)は、日本の元号の一つ。元永の後、天治の前。1120年から1123年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇、崇徳天皇。.
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信西
信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.
応徳
応徳(おうとく)は、日本の元号の一つ。永保の後、寛治の前。1084年から1086年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇、堀河天皇。.
北面武士
北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.
別当
別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.
嘉承
嘉承(かしょう、かじょう)は、日本の元号の一つ。長治の後、天仁の前。1106年から1107年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇、鳥羽天皇。.
内覧
内覧.
内蔵寮
内蔵寮(くらりょう)は律令制において中務省に属した機関。和訓は「うちのくらのつかさ」。唐名は「倉」部。また、近代の宮内省に設置された内部部局の一つ。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
公家町
公家町(くげまち)とは、近世の京都にあった内裏(土御門東洞院殿・京都御所)周辺に設けられた公家の居住空間。現在の京都御苑およびその周辺部にあたる。.
典侍
典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。 長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。准位では、従四位であったが、実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。なお、「藤典侍」、「源典侍」や「大納言典侍」などと、前に姓や、父親の官職名を付けて称する者が多かった。.
兵衛府
兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.
勧修寺流
勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。.
国司
国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.
神人
人(じにん、じんにん / しんじん、かみびと / かみんちゅ)とは日本(琉球を含む)の神職である。読みにより意味が異なる。; じにん、じんにん; しんじん、かみびと; かみんちゅ.
神社
出雲大社(神代創建と言われる、島根県出雲市) 八坂神社(飛鳥時代創建)(京都府京都市東山区) 蒙疆神社(昭和時代創建、張家口。写真は1952年のもので、当時はもう廃社された) 神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。文部科学省の資料では、日本全国に約8万5千の神社がある。登録されていない数万の小神社を含めると、日本各地には10万社を超える神社が存在している。また、近畿地方には生国魂神社など創建が古い神社が多く存在する。.
田堵
堵(たと)は、日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層である。田刀、田頭とも。貞観元年(895年)12月付の元興寺領近江愛智荘(えちのしょう)の検田帳である。田堵の堵は、垣を意味する。また、「田刀」を「田刀禰」の略とみて、元は国司・郡司の下にいて田地の境界画定や勧農を担った刀禰を指していたとする見方もある。.
番
(ばん)とは、交替して行われる勤務形態及びそのために編成された集団のこと。現代においても警察官や消防士、病院・工場などでの勤務や警備員をはじめ1個人では賄いきれない時間量・仕事量を必要とする職場における労働形態として存在している(早番・遅番・朝番・昼番・夜番など)。なお、その番に順序をつけて順繰りに行うことを輪番(りんばん)ということがある。.
白河天皇
白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.
荘園
荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.
非参議
非参議(ひさんぎ)とは、以下のことを意味する。.
衛門府
衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.
西光
西光(さいこう、生年不明 - 安元3年6月3日(1177年6月30日))は、平安時代後期の官人、僧。後白河院の近臣。阿波国の豪族・麻植為光の子で、中納言・藤原家成の養子。俗名は藤原師光(ふじわら の もろみつ)。子に師高、師経、師平、広長らがある。.
親王任国
親王任国(しんのうにんごく)は、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。常陸国、上総国、上野国の3国。親王任国の守である親王は太守という。 天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された(『類聚三代格』:親王任国太政官符)。.
解官
解官(げかん)とは、律令制において、現職の官人が解任されること。 解官の理由としては、.
諸大夫
諸大夫(しょだいぶ)は、日本の古代から中世、近世にかけての官人の階層の名称。.
高階為家
階 為家(たかしな の ためいえ)は、平安時代後期の貴族。正三位・高階成章の子。官位は正四位下、備中守。白河上皇の近臣としてだけでなく、関白藤原師実の家司としても仕えた。.
高階為章
階 為章(たかしな の ためあき、康平2年(1059年) - 康和5年12月20日(1104年1月19日))は、平安時代の官吏。父の為家と同じく白河上皇に院近臣として仕えた。12歳で六位蔵人として白河天皇に仕え、永保元年の正月に13歳で叙爵し、越後守に任じられ同年10月に昇殿を果たした。白河天皇が上皇となってからは院近臣として但馬、加賀、丹波など大国の守を歴任した。 しかし父に先立って康和5年12月20日に45歳で卒去した。また長男の仲章も彼の死後の3年後に21歳で頓死した。.
高階氏
階氏(たかしなうじ)は、「高階」を氏の名とする氏族。天武天皇と尼子娘の長子、高市皇子を祖とする。.
高階泰経
階 泰経(たかしな の やすつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。後白河法皇の側近(院近臣)。.
議政官
議政官(ぎせいかん).
譲位
譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.
貴族
貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.
鳥羽天皇
鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.
輔仁親王
輔仁親王(すけひとしんのう、延久5年1月19日(1073年2月28日) - 元永2年11月28日(1119年12月31日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第三皇子。母は源基平の娘基子。異母兄に白河天皇、同母兄に実仁親王がいる。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
藤原基隆
藤原 基隆(ふじわら の もとたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、大膳大夫・藤原家範の長男。官位は従三位・非参議。.
藤原季能
藤原 季能(ふじわら の すえよし)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家末茂流、非参議・藤原俊盛の子。官位は正三位・兵部卿。.
藤原定能
藤原 定能(ふじわら の さだよし)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家道綱流、藤原季行の次男。官位は正二位・権大納言。樋口または二条と号す。琵琶で名高い。また、孫の資季は『徒然草』第135段での登場で知られる。.
藤原実政
藤原 実政(ふじわら の さねまさ、寛仁3年(1019年) - 寛治7年2月18日 (1093年3月17日))は、平安時代中期の貴族。藤原北家日野流(真夏流)、従三位・藤原資業の三男。官位は従二位・参議。.
藤原実教
藤原 実教(ふじわら の さねのり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家末茂流、中納言・藤原家成の六男。官位は正二位・中納言。.
藤原家保
藤原 家保(ふじわら の いえやす)は平安時代後期の公卿。六条修理大夫藤原顕季の次男。.
藤原家成
藤原 家成(ふじわら の いえなり)は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。.
藤原宗忠
藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。別名、中御門宗忠。 日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音楽の才があり、管弦や笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされるが現存しない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。.
藤原宗通
藤原 宗通(ふじわら の むねみち、延久3年(1071年) - 保安元年7月22日(1120年8月17日))は、平安時代後期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原俊家の子で、藤原道長は曾祖父にあたる。官位は正二位・権大納言。坊門大納言と号した。 幼名阿古丸。幼いころから白河院の手元で育てられた。14歳で叙爵され、累進して白河院別当となり、近臣として権勢を振るった。『金葉和歌集』(歌番号554)・『新勅撰和歌集』(歌番号274)に和歌作品が採録されている。.
藤原師実
藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.
藤原師信
藤原 師信(ふじわら の もろのぶ、長久2年(1041年) - 寛治8年正月10日(1094年1月28日))は、平安時代中期から後期にかけての貴族。権大納言・藤原経輔の四男。官位は正四位下・播磨守。.
藤原師通
藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.
藤原伊房
藤原 伊房(ふじわら の これふさ)は、平安時代中期から後期にかけての公家。世尊寺流の能書家。権大納言・藤原行成の孫で、参議・藤原行経の子。官位は正二位・権中納言。.
藤原俊盛
藤原 俊盛(ふじわら の としもり)は、平安時代後期の公卿。藤原北家末茂流、尾張守・藤原顕盛の子。官位は正三位・非参議。.
藤原忠実
藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.
藤原忠隆
藤原 忠隆(ふじわら の ただたか)は、平安時代後期の公卿。藤原基隆(藤原家範の子、師家の孫)の長男。.
藤原信隆
藤原 信隆(ふじわら の のぶたか)は平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。.
藤原信頼
藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。.
藤原光子
三条烏丸御所跡・藤原光子が最初の居住者、京都市中京区烏丸西入南側 藤原 光子(ふじわら の みつこ、康平3年(1060年) - 保安2年4月16日(1121年5月4日))は、平安時代後期の女官。但馬守藤原隆方の娘で、藤原為房の姉妹。藤原公実の側妾となり、藤原通季、僧仁実、藤原実能、僧覚源、藤原公子、藤原実子、藤原璋子(待賢門院)をはじめ8人の子女を産んだ。堀河天皇、鳥羽天皇の乳母。 寛治元年(1087年)、堀河天皇の乳母として典侍となり「中納言典侍」と呼ばれる。康和4年(1102年)、従三位に叙せられる。「弁三位」と呼ばれたのは、父隆方が弁官であったためと思われる。翌5年1月、鳥羽天皇の乳母を兼任した。天仁元年(1108年)正三位に叙任。娘の実子が翌年正式に乳母となると、母の光子は大蔵三位と呼ばれた。天永3年(1112年)従二位に昇進した。堀河・鳥羽両天皇の乳母として政界に隠然たる力を持ち、保安2年4月16日、62歳で薨去した。 みつこ Category:1060年生 Category:1121年没 Category:乳母 Category:平安時代の女官 Category:平安時代の公卿の妻室.
藤原光隆
藤原 光隆(ふじわら の みつたか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家利基流、権中納言・藤原清隆の長男。官位は正二位・権中納言。屋敷があった地名から壬生・猫間を号しており、「猫間中納言」と称された。 『平家物語』巻八「猫間」においては、寿永2年(1183年)に源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲の家で光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食か。猫おろし(食べ残し)をしている。遠慮せずに掻き込みなさい」などと責められて興醒めし、話をせずに帰った、というものである。.
藤原範季
藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原南家高倉流の祖。式部少輔・藤原能兼の子。官位は従二位・式部権少輔。後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。.
藤原経子 (藤原経平の女)
藤原 経子(ふじわら の けいし/ つねこ、生没年不詳)は、平安時代後期の女官。父は従三位大宰大弐・藤原経平。兄弟に通俊、通宗がいる。 後三条・白河両天皇に典侍として仕える。承保2年(1075年)4月、白河天皇の寵愛を受けて皇子(覚行法親王)を産む。後に参議・藤原公定の室となった。 けいし Category:平安時代の女官 Category:平安時代の后妃後宮 Category:11世紀生.
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藤原経忠
藤原 経忠(ふじわら の つねただ、經忠)は平安時代後期の公卿。播磨守・藤原師信の子。官位は従二位・中納言。.
藤原為隆
藤原 為隆(ふじわら の ためたか)は平安時代末期の公卿。参議・藤原為房の長男。日記『永昌記』を記した。.
藤原為房
藤原 為房(ふじわら の ためふさ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、但馬守・藤原隆方の長男。官位は正三位・参議。坊城大蔵卿、勧修寺と号した。 博学かつ、優秀な実務官僚として活躍し、のちの勧修寺流一門の繁栄の基礎を築いた。大江匡房・藤原伊房と共に「前の三房」と称される。日記に『為房卿記』がある。.
藤原隆季
藤原 隆季(ふじわら の たかすえ)は、平安時代後期の公卿。中納言・藤原家成の長男。官位は正二位・権大納言。四条または大宮を号す。四条家の祖。.
藤原隆房
藤原 隆房(ふじわら の たかふさ)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家善勝寺流の出身で藤原隆季の長男。母は藤原忠隆の娘。正二位・権大納言。四条隆房、冷泉隆房とも。.
藤原顕季
藤原 顕季(ふじわら の あきすえ) は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原北家魚名流、正四位下美濃守・藤原隆経の次男。官位は正三位・修理大夫。六条修理大夫と号した。歌道家の流派の一つ六条藤家の祖。善勝寺流初代。.
藤原顕隆
藤原 顕隆(ふじわら の あきたか)は、平安時代末期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)。参議・藤原為房の次男。葉室家の祖。正三位・権中納言。葉室中納言と号す。.
藤原顕頼
藤原 顕頼(ふじわら の あきより)は平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、権中納言・藤原顕隆の長男。正二位・権中納言。九条民部卿を号す。.
藤原親子
藤原 親子(ふじわら の しんし、または、ふじわら の ちかこ、1021年(治安元年) - 1093年11月12日(寛治7年10月21日))は、平安時代の女官である。魚名流藤原氏大和守・藤原親国の娘。東宮大進・藤原隆経の妻。六条修理大夫藤原顕季の母。.
藤原親隆
藤原 親隆(ふじわら の ちかたか)は、平安時代後期の公卿。藤原為房の七男。正三位・参議。四条宰相、四条三位と号す。.
藤原長実
藤原 長実(ふじわら の ながざね)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、修理大夫・藤原顕季の長男。官位は正三位・権中納言、贈正一位・左大臣。八条を号した。.
藤原通俊
藤原 通俊(ふじわら の みちとし)は、平安時代後期の公家・歌人。従三位大宰大弐・藤原経平の次男。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤原清隆
藤原 清隆(ふじわら の きよたか)は、平安時代後期の公卿。因幡守・藤原隆時の子。官位は正二位・権中納言。猫間中納言と号す。.
藤原朝隆
藤原 朝隆(ふじわら の ともたか)は、平安時代末期の公卿。参議・藤原為房の六男。冷泉中納言と号す。.
藤原朝方
藤原 朝方(ふじわら の ともかた、保延元年(1135年) - 建仁元年2月16日(1201年3月22日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。藤原北家勧修寺流庶流の権中納言・藤原朝隆の長男。官位は正二位・大納言。三条大納言・堤大納言と称された。鳥羽法皇・後白河法皇二代に亘って仕えた院近臣。.
藤原成範
藤原 成範(ふじわら の しげのり)は、平安時代末期の公卿。初名は成憲。藤原南家、少納言・藤原通憲(信西)の三男。官位は正二位・中納言。桜町中納言と号す。.
藤原成親
藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。.
蔵人
蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。.
蔵人頭
蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.
院司
院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。.
院宮王臣家
院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)とは、平安時代初期(8世紀末~9世紀ごろ)、天皇権力と結びついて勢力を強めた少数の皇族・貴族の総称。 「院宮王臣家」の「院」とは太上天皇、「宮」とは三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・東宮(皇太子)、「王臣家」とは親王・内親王などの皇親や、おおむね五位以上の公家をそれぞれ指している。 平安時代になると公地公民制は事実上崩壊しており、公営田や官田などの直営田や、諸司田・勅旨田・賜田などの私有地が増大していた。院宮王臣家は下級官人を家人化し、有力農民を保護することで、これらの私有地の集積を進めていった。この動きは、荘園における初期荘園から寄進地系荘園への移行を如実に表すものである。 なお、類した表現として「権門勢家」があるが、これは院宮王臣家だけでなく、宗教勢力や武家勢力をも含む上位概念である。.
院庁
院庁(いんのちょう)は、日本の古代・中世において、院政を布いた上皇直属の政務機関、または女院の所務・雑務を処理した機関。院庁の実務は院司が担当した。.
院評定
院評定(いんのひょうじょう)とは、院政において上皇あるいは法皇が主宰した議定およびその構成員のこと。評定に参加する資格のある公家を院評定衆という。 平安時代末期、院政の進展に伴って内裏における陣定に代わって、上皇や法皇が自分の御所内において議定を行って重要な決定を行うようになった。この際に参加出来たのは公卿全般ではなく、上皇・法皇が認めた特定の公卿並びに院近臣達であった。 後嵯峨院による院政下の寛元4年(1246年)に院政の改革が行われ、鎌倉幕府の評定衆に倣って西園寺実氏(前太政大臣・関東申次)・土御門定通(前内大臣・後嵯峨院の外戚)・徳大寺実基(大納言兼右近衛大将)・吉田為経(中納言)・葉室定嗣(参議)の5名の評定衆が任命されるとともに開催場所も院庁の文殿である「院文殿(いんのふどの)」と定められた。これはこの年に鎌倉幕府から公平な人事と諸人の訴訟を積極的に取り上げることで徳のある政治――「徳政」の興行を提議され、後嵯峨院もその期待に応えたものであり、同年11月3日に新体制による初評定が行われた近藤成一 「鎌倉幕府と公家政権」(初出:宮地正人 他編『新体系日本史1 国家史』(山川出版社、2006年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9)。ここで訴訟や政治問題などの処理が行われるとともに、院文殿に記録所の機能が兼ね揃えられて、律令法や儒教に詳しい中下級公家が職員として置かれて、院評定を円滑に行うための補助的業務を行うようになった。その後、亀山院による院政下の弘安9年(1286年)に院評定は政務を担当する「徳政沙汰」と訴訟を担当する「雑訴沙汰」に分割され、前者は大臣・大納言級によって月3回、後者は中納言・参議級によって月6回行われた。更に伏見天皇の親政によって一時的に朝廷に移された正応6年(1293年)には雑訴沙汰の改革が行われ、院評定を補完する記録所庭中が設けられた。以後、院文殿における院評定が院政の中枢機関として活動するようになり、南北朝末期に室町幕府によってその政治的権限を奪われるまで続いた。 江戸時代に霊元天皇の譲位に伴って復活され、定員3名で家格とは関係なく正三位以上の公卿から選ばれた(ただし、機構改革が試みられた桜町上皇期には停止されている)。院伝奏とともに「院両役」と称され、江戸幕府の同意をもって任命されることとされていたが、禁裏の役職である武家伝奏や議奏とは異なり、京都所司代をはじめとする幕府側は上皇・法皇の人事案を追認するだけの形式上の手続であった。役料は20石で、院伝奏と同様に仙洞御所の内分(蔵米)から支給された。上皇・法皇および院伝奏の補佐を行い、仙洞御所内での事務・雑用を行った。院評定不在の時は臨時に評定加勢が設置される場合もあった。.
院政
院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.
永久 (元号)
永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.
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江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
治天の君
治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.
源俊明
源 俊明(みなもと の としあき、寛徳元年(1044年) - 永久2年12月2日(1114年12月30日))は平安後期の公卿。醍醐源氏で、源隆国(宇治大納言)の三男。官位は正二位大納言。 祖父・源俊賢以来、3代続けて大納言の顕官に至った。『古事談』などに能吏としての逸話を残す一方、『続後撰和歌集』『続拾遺和歌集』等の勅撰和歌集に和歌が入集している。.
源国明
源 国明(みなもと の くにあき)は平安時代後期の廷臣。史料上では源・藤原両姓の表記が錯綜している。.
源経信
源 経信(みなもと の つねのぶ)は、平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。小倉百人一首では大納言経信。.
源資賢
源 資賢(みなもと の すけかた)は、平安時代末期の公卿・雅楽家。宇多源氏、宮内卿・源有賢の長男。官位は正二位・権大納言。.
成功 (任官)
成功(じょうごう)とは、朝廷の公事・行事及び殿舎の営繕、寺社の堂塔修造費用など本来、朝廷の公費で負担すべきところを、任官希望者を募って任料を納めさせるか、または自己負担でそれぞれの事業の功を成らせて、見返りに官職に叙任するという売官制度の一種である。.
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新家
新家(しんけ).
日記の家
日記の家(にっきのいえ/にきのいえ・日記之家)とは、先祖代々の手による家の日記(家記)を伝蔵した公家の呼称。 「日記の家」の代表格は小野宮流藤原氏及び高棟王流桓武平氏である。他にも勧修寺流藤原氏が同様の家柄であったとされ、皇室や摂関家などにも同様の機能が存在していた。.
日野家
日野家(ひのけ)は、日本の貴族の家系のひとつ。藤原北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。.
摂家
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.
愚管抄
『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.
慈円
慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.
1086年
記載なし。
1107年
記載なし。
1114年
記載なし。
1120年
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1129年
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1156年
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1158年
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1161年
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1165年
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1179年
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1181年
記載なし。
1192年
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1996年
この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.
2001年
また、21世紀および3千年紀における最初の年でもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。.
2003年
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2009年
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