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藤原忠実

索引 藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

236 関係: 台記右大臣受領坂上宝剣堀河天皇大納言大隅国大衆 (仏教)大殿大治 (日本)天永天治天承太政大臣外戚宣旨官位宇治市富家語寒河江荘寄進寛治島津荘崇徳天皇左大臣中原師元中右記中外抄中納言平季基平家弘平安時代平忠正平正盛久安久寿康和康治二条天皇今鏡仁平令子内親王伊予国式部省但馬国侍従御堂流御匣殿後三条天皇後冷泉天皇...後白河天皇従三位従一位従二位従四位保安 (元号)保延保元保元物語信西応保北面武士別当嘉保嘉承内覧出家出作出羽国准后公卿兵範記皇后範長白河天皇隆姫女王鎌倉時代荘園荘園整理令預所補任覚信覚法法親王高階基章高階仲行鳥羽天皇践祚近衛基実近衛大将近衛天皇近衛家近衛府興福寺関白薩摩国閑院流藤原多子藤原家忠藤原家隆 (左京大夫)藤原家成藤原家政藤原宗俊藤原宗忠藤原寛子 (藤原頼通女)藤原師実藤原師長藤原師通藤原得子藤原俊家藤原忠通藤原信長藤原北家藤原呈子藤原全子藤原公実藤原兼長藤原経輔藤原璋子藤原盛実藤原隆長藤原道長藤原頼宗藤原頼長藤原頼通藤原顕隆藤原苡子藤原泰子藤原教長藤原教通藤原時平藤氏長者長秋記長治長承院政除目東大寺東宮傅東三条殿栄花物語正三位正二位正五位正四位殿下渡領殿暦永久 (元号)永久の強訴永長没官治天の君源師房源俊房源俊明源義親源義朝源為義源顕房源麗子朱器台盤朗詠春日大社春日祭摂家摂政悔返愚管抄敦実親王慈円承徳承暦1078年1088年1089年1091年1092年1093年1094年1095年1097年1099年10月2日 (旧暦)10月6日 (旧暦)1100年1102年1103年1105年1106年1107年1108年1112年1113年1117年1120年1121年1125年1129年1132年1133年1140年1142年1143年1149年1150年1151年1155年1156年1162年11月12日 (旧暦)11月18日 (旧暦)12月14日 (旧暦)12月25日 (旧暦)12月26日 (旧暦)1月11日 (旧暦)1月13日 (旧暦)1月14日 (旧暦)1月17日 (旧暦)1月21日 (旧暦)1月26日 (旧暦)1月28日 (旧暦)1月5日 (旧暦)2月18日 (旧暦)3月11日 (旧暦)3月24日 (旧暦)3月28日 (旧暦)4月14日 (旧暦)4月15日 (旧暦)4月27日 (旧暦)6月18日 (旧暦)6月5日 (旧暦)7月17日 (旧暦)7月18日 (旧暦)7月19日 (旧暦)7月31日8月17日 (旧暦) インデックスを展開 (186 もっと) »

台記

『台記』(たいき)は、宇治左大臣藤原頼長の日記。『宇槐記』、『槐記』とも言う。『台記』の名称は、大臣の唐名のひとつ「三台」による。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

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坂上宝剣

坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ)は、日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣(現在は所在不明)。田村将軍剣、敦実親王剣とも。 醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けると伝わる。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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大衆 (仏教)

大衆(だいしゅ)とは、多くの仏僧の集まり、また僧侶のこと。のちに主として僧兵のことを指すようになった。.

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大殿

大殿(おおとの)とは、摂関家において摂関経験者にして現在の摂関の父親にあたる人物に対する尊称。摂関(藤氏長者)とは別に独自の家政機関を持ち、家長としての権限を行使していた。.

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大治 (日本)

大治(だいじ)は、日本の元号の一つ。天治の後、天承の前。1126年から1130年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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天永

天永(てんえい)は、日本の元号の一つ。天仁の後、永久の前。1110年から1112年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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天治

天治(てんじ)は、日本の元号の一つ。保安の後、大治の前。1124年から1125年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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天承

天承(てんしょう)は、日本の元号の一つ。大治の後、長承の前。1131年の期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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宣旨

宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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宇治市

朝日山から宇治市市街地 宇治市(うじし)は、日本の近畿地方中部、京都府の南端近くに所在する市。京都盆地の東南部に位置し、京都市や大津市と隣接する。京都市に次いで京都府内第2位の人口を擁する都市である。 ユネスコ世界遺産ともなっている平等院、宇治上神社等の文化財や宇治茶等の特産品で知られる。西側に非常に大きな巨椋池があったが、豊臣秀吉により干拓地となり、現在は農地と住宅街になっている。京都市への通勤率は29.1%(平成22年国勢調査)。.

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富家語

富家語(ふけご)は富家語談ともいい、富家殿と号した関白藤原忠実(1078―1162)の語録。高階仲行筆記。院政期という比較的早い時期において成立し、有職故実・公事を中心とする題材を後世の説話集に提供したため、説話に分類されることもある。 同一談話者の『中外抄』にも載せる久安7年(1151年)から、保元・平治の乱後の応保元年(1161年)まで、全て258段の短い記事がある。『中外抄』と異なり、談話の時期は明記されていないが、概して保元の乱に連座して船岡山山麓の知足院に幽閉されていた忠実晩年の言談である。 「新日本古典文学大系」(岩波書店)に『江談抄 中外抄 富家語』の合冊で収録。 Category:平安時代の歴史書 category:平安時代の文化 Category:説話 Category:有職故実書 Category:12世紀の書籍.

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寒河江荘

寒河江荘(さがえのしょう)は、出羽国村山郡(現在の山形県西村山郡および寒河江市)にあった摂関家の荘園。.

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寄進

寄進(きしん, )とは、ものを「寄せまいらせる」の意であり、寺院や神社などに土地や金銭、財物を寄付することである。 寄進の類義語に「勧進」があり、「勧進」が人に勧めて金銭や物品を奉納せしむる行為であるのに対し、「寄進」はみずから進んで奉納寄付するというニュアンス上のちがいがある。寄進の趣旨や品目などを書いた文書を寄進状という。寄進される財物は寄進物とよばれ、日本では太刀や甲冑、弓矢などの武具や馬、米、銭貨などが寄進物となった。なお、中世日本では「寄進されたものは悔返や徳政令の対象にならない」という慣習があった。 歴史的にみて重要な寄進物は土地であり、土地を寄進する行為は、しばしば世俗の権力と宗教権力とをとりむすぶ役割を果たしてきた。.

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寛治

寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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島津荘

島津荘(しまづのしょう)は、中世の南九州にあった近衛家領荘園。日向国(現在の宮崎県)中南部および大隅国・薩摩国(現在の鹿児島県)の3ヶ国にまたがる日本最大の荘園で、最盛期には8000町を超える規模があった。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中原師元

中原 師元(なかはら の もろもと、天仁2年(1109年) - 承安5年5月20日(1175年6月10日))は、平安時代後期の貴族。中原氏師平流、大外記・中原師遠の三男。官位は正四位上・大外記兼明経博士。.

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中右記

『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。筆者には『愚林』と名付けられたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。.

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中外抄

中外抄(ちゅうがいしょう)は、院政期の聞書集。説話や日記に分類されることもある。知足院関白・藤原忠実(1078―1162)の言談を大外記中原師元が筆録したもの。師元の姓「中原」と官「外記」を合わせて命名。全2巻。 保延3年(1137年)から久安4年(1148年)閏6月までの記事が上巻、同年7月から久寿元年(1154年)までの記事が下巻を成す。一話一話、日時と場所が克明に記されている。そのため、師元の日記から後日になって忠実の言談のみを抄出したとする見方もある。 漢字片仮名平仮名の仮名交じり文で記される。同じ談話者の『富家語』とともに、有職故実・公事を中心に当時の公家社会の実況を伝えて貴重である。 「新日本古典文学大系」(岩波書店)に『江談抄 中外抄 富家語』の合冊で収録。 Category:平安時代の歴史書 Category:日本の説話集 Category:平安時代の日記 Category:12世紀の書籍.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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平季基

平季基(たいら の すえもと、生没年不詳)は、平安時代後期の地方官人。桓武平氏繁盛流大掾氏一門伊佐氏の庶家の鎮西平氏とも、坂東八平氏のうち、良文流の七世の孫とも、平貞時(良持の子)を祖とする薩摩平氏の一族とも伝えられる。.

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平家弘

平 家弘(たいら の いえひろ、生年未詳 - 保元元年(1156年))は、平安時代末期の武将。伊勢平氏の傍流平正弘の子。母は主計允佐伯貞義の娘。官職は従五位下右衛門大夫。 一族は平正度の弟正済の流れを汲み、信濃国に高田郷・市村郷(水内郡)、麻績御厨(筑摩郡)、矢原郷(安曇郡)の4箇所の所領を持っていた。家弘は京において崇徳上皇に近侍し、久安6年(1150年)の興福寺の強訴の際には、検非違使として崇徳院御所に詰める。仁平3年(1152年)には崇徳院御所に乱入した源満義を捕縛している。 こうした縁から保元元年(1156年)の保元の乱においては、一族を率いて崇徳上皇方に参加。藤原頼長の行った除目によって源為義とともに判官代に任ぜられ、春日面の門の守護にあたる。味方の敗戦が決まり総崩れとなると、子の光弘とともに上皇を警護して戦場を脱出。この際、上皇の後を追って出家しようとしたが、上皇の反対によって思い止まったという。最後は京都大江山にて、子弟とともに源義康の手によって斬首されている。 いえひろ category:平安時代の武士 Category:刑死した人物 Category:生年不明 category:1156年没.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平忠正

平 忠正(たいら の ただまさ)は、平安時代末期の伊勢平氏の武将。平正盛の子、忠盛の弟。平清盛の叔父にあたる。.

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平正盛

平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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久寿

久寿(きゅうじゅ)は、日本の元号の一つ。仁平の後、保元の前。1154年から1155年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。.

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康和

康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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康治

康治(こうじ)は、日本の元号の一つ。永治の後、天養の前。1142年から1143年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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今鏡

『今鏡』(いまかがみ)は、歴史物語。10巻。成立は平安時代末期であり、『今鏡』序文によれば、高倉天皇の嘉応2年(1170年)とされるが、それ以降とする説もある。作者は藤原為経(寂超)とするのがほぼ定説になっている。ほかに、中山忠親、源通親説もある。『今鏡』は『続世継』(しょくよつぎ)とも『小鏡』(こかがみ)とも呼ばれる。『続世継』は、『大鏡』の続きであるという意味で、『小鏡』とは、現在の歴史という意味である。『つくも髪の物語』ともいう。 いわゆる「四鏡」の成立順では2番目に位置する作品である。内容的には『大鏡』の延長線上に位置し、3番目に古い時代を扱う。なお、描く年代が4番目の『増鏡』との間には13年間の空白があり、藤原隆信(寂超在俗の子)の著である歴史物語『弥世継』(いやよつぎ、現存しない)がその時代を扱っていたためとされる。.

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仁平

仁平(にんぺい、にんぴょう)は、日本の元号の一つ。久安の後、久寿の前。1151年から1153年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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令子内親王

令子内親王(れいしないしんのう、承暦2年5月18日(1078年6月30日) - 天養元年4月21日藤原頼長『台記』 天養元年四月廿六日条(1144年5月25日))は、平安時代後期の皇女、賀茂斎院である。白河天皇の第3皇女。母は中宮藤原賢子(六条右大臣源顕房の娘、関白藤原師実養女)。同腹の姉に、郁芳門院媞子内親王、弟に堀河天皇。二条大宮、二条太皇太后とも呼ばれた。 上醍醐陵(醍醐寺上醍醐境内).

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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但馬国

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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御堂流

御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門及び彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。.

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御匣殿

御匣殿(みくしげどの)とは、.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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保安 (元号)

保安(ほうあん、ほあん)は、日本の元号の一つ。元永の後、天治の前。1120年から1123年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇、崇徳天皇。.

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保延

保延(ほうえん)は、日本の元号の一つ。長承の後、永治の前。1135年から1141年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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保元物語

『保元物語』・文保本(1318年写) 『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。.

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信西

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.

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応保

応保(おうほう)は、日本の元号の一つ。永暦の後、長寛の前。1161年から1162年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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北面武士

北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。.

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別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

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嘉保

嘉保(かほう)は、日本の元号の一つ。寛治の後、永長の前。1095年から1096年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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嘉承

嘉承(かしょう、かじょう)は、日本の元号の一つ。長治の後、天仁の前。1106年から1107年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇、鳥羽天皇。.

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内覧

内覧.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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出作

出作(でさく、でつくり)とは、ある地域の住民が別の地域にある田畑を耕作することを指す。耕作先の側からは入作(いりさく)と呼ばれる。 古代から中世にかけては、特定の所領(公領・荘園)に属する住民が、別の所領内にある田畑を耕作することを指した。法的な土地所有者と現地における実際の権利関係が錯綜して安定していなかった古代・中世期にはこうした現象は多く存在した。貢租に関しては公事・在家役は居住地の領主に帰属し、年貢・官物は耕作地の領主に帰属する原則であったが、境相論などが盛んになると、領民と土地の一元支配を名目として支配地域拡大を図る居住地側領主と耕作者の取り込みを図る耕作地側領主による対立の一因となった。 近世になると、新田開発によって本村に住む農民が居住地をそのままとして新田側に出作する例が多くなった。当該農民は本村・新田それぞれの耕地において年貢負担を行った。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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兵範記

『兵範記』(へいはんき/ひょうはんき)は、平安時代の公家平信範の日記。書名は信範の極官である兵部卿と信範の名から。また住所であった洞院を取って『平洞記』とも、信範の二字の偏を取って『人車記』とも呼ばれる。記載時期は天承2年(1132年)から承安1年(1171年)に至るまで約40年間を網羅する。 信範は、桓武平氏高棟流の流れをくむ「日記の家」と呼ばれた実務官僚の家系であり、その日記は平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知るための基本史料となっている。特に信範は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えたため、当時の上級公家などの動きに詳しく、なかでも保元の乱および乱後の後白河院・平家などについての詳細な記述は、他の諸記録の追随を許さないといえる。 さらに『兵範記』原本の特長としては、大量の紙背文書の存在が挙げられる。信範が摂関家政所別当職や蔵人頭を務めていた際の訴訟・行政文書の裏が日記用の紙に使われており、摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容が窺える貴重な史料ともなっている。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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箏(そう)は、日本の伝統楽器。十三本の糸を有するが、十七絃箏など種々の多絃箏がある。箏は一面、二面(いちめん、にめん)と数える。弦楽器のツィター属に分類される。 一般的に、「箏(こと)」と呼ばれ、「琴(きん)」の字を当てることもあるが、「箏」と「琴」は別の楽器である。最大の違いは、箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、琴は柱が無く弦を押さえる場所で音程を決める。ただし、箏の柱(箏の駒)は「琴柱」とするのが一般的で(商品名も琴柱)、箏の台は琴台(きんだい)と必ず琴の字を使う。 箏 総象牙巻繰り甲の箏(金子誠次作).

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範長

長(はんちょう、久安元年(1145年) - 没年未詳)は、平安時代末期の法相宗の僧侶。左大臣藤原頼長の四男で末子。母は源師俊の娘で、同母兄に兼長、隆長がいる。幼名は乙麿、また乙法師とも。『保元物語』には範長禅師と記載。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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隆姫女王

隆姫女王(たかひめじょおう、長徳元年(995年) - 寛治元年11月22日(1087年12月19日))は村上天皇第7皇子・具平親王の長女。母は為平親王の次女。後に藤原頼通の正室となり、高倉北政所と呼ばれた。弟に夫・頼通の猶子となった源師房、妹に敦康親王妃、嫥子女王(藤原教通室)がいる。なお史料によっては隆子女王、隆姫子女王とする表記もある。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

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荘園整理令

荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。 特に有名なものは、1069年(治暦5年.

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預所

所(あずかりどころ/あずけしょ/あずがっそ/あずかりしょ)とは、中世の荘園において本所の補任を受けて在地を統括した職。.

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補任

補任(ぶにん)とは、官人に官職・位階を与えること。補任のための儀式を除目という。.

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覚信

覺信(かくしん、治暦元年(1065年) - 保安2年2月8日(1121年2月26日))は平安時代の法相宗の僧。摂政関白太政大臣・藤原師実の子。母は源則成の娘『尊卑分脈』。一乗院大僧正と号した。 興福寺の頼信について出家。康和2年(1100年)興福寺別当に補任され、永久4年(1116年)大僧正に任ぜられるが、南都の僧が大僧正となるのは行基以来であった。一乗院本願。保安2年(1121年)入滅。享年57。.

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覚法法親王

覚法法親王(かくほうほっしんのう、寛治5年12月29日(1092年2月9日) - 仁平3年12月6日(1153年12月22日))は、平安時代後期の皇族・僧。白河天皇の第四皇子。母は源顕房の娘師子。真言宗仁和寺第四世門跡。高野御室・勝蓮華寺獅子王宮とも称される。 異母兄である覚行法親王のもとで出家・受戒し、法名ははじめ真行と称し、のちに行真と改め、さらに覚法と改めた。長治2年(1105年)覚行の没後に仁和寺寺務に就任。寛助・範俊から灌頂を受け、天永3年(1112年)親王宣下を受けている。保延5年(1139年)には自らの観音院を御願寺として東寺に準じる灌頂会を開催することを勅許された。保延7年(1141年)には鳥羽上皇受戒の際には受戒の師をつとめた。皇子誕生や天皇の病気平癒のために孔雀経法を修している。真言密教の事相に詳しく仁和寺御流を創唱している。 背が高く声が美しかったとされ、能筆でもあったという。.

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高階基章

階 基章(たかしな の もとあき)は、平安時代末期の廷臣。.

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高階仲行

高階仲行(たかしな の なかゆき、保安2年(1121年) - 治承3年(1179年))は平安時代末期の廷臣。大膳大夫高階仲範の子。子息に仲基、仲国らがある。従五位上、蔵人。 早くより藤原忠実、頼長父子に近侍し、保延元年(1135年)に頼長の前駆を、永治元年(1141年)には高陽院藤原泰子(忠実の娘)の蔵人を勤める。久安4年(1148年)には頼長の家司、同5年(1149年)にはその子師長の家司となる。 保元元年(1156年)の保元の乱によって頼長が敗死し、忠実が奈良の知足院に逼塞して後も、引き続き忠実の傍近くに仕えた。主にこの時期の忠実の談話を仲行が筆録した『富家語』は、有職故実などを現代に伝える史料の一つとして貴重である。 応保2年(1162年)に忠実が没した後は出家し、四天王寺の周辺に居住したと言われる。治承3年(1179年)に59歳で死去。 なかゆき Category:平安時代後期の貴族 Category:1121年生 Category:1179年没.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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践祚

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.

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近衛基実

近衞 基実(このえ もとざね)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。通称は六条摂政(ろくじょう せっしょう)。五摂家の一つとなった近衞家の祖。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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藤原多子

藤原 多子(ふじわら の まさるこ、保延6年(1140年) - 建仁元年12月24日(1202年1月19日))は平安時代末期の后妃。近衛天皇の皇后、次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。養父は藤原頼長、養母は藤原幸子。21世紀現在においても最後の太皇太后である(近代以降の皇室典範には「太皇太后」に関する規定がある)。.

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藤原家忠

藤原 家忠(ふじわら の いえただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。.

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藤原家隆 (左京大夫)

藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、平安時代後期の貴族。藤原北家、関白内大臣・藤原師通の三男。官位は従四位上(または正四位下)・左京大夫。.

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藤原家成

藤原 家成(ふじわら の いえなり)は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。.

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藤原家政

藤原 家政(ふじわら の いえまさ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師通の次男。官位は正三位・参議、左近衛中将。.

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藤原宗俊

藤原 宗俊(ふじわら の むねとし)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。.

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藤原宗忠

藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。別名、中御門宗忠。 日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音楽の才があり、管弦や笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされるが現存しない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。.

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藤原寛子 (藤原頼通女)

藤原 寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、長元9年(1036年) - 大治2年8月14日(1127年9月30日))は、関白藤原頼通の長女。母は藤原祇子。後冷泉天皇の皇后。別名四条宮。同母弟に藤原師実。.

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藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

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藤原師長

嶋川稲荷(名古屋市瑞穂区)の境内にある尾張配流時代の師長の屋敷跡 藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男。官位は従一位・太政大臣。妙音院太相国と号す。.

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藤原師通

藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.

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藤原得子

藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御、皇后、女院。藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の女、方子。院号は美福門院(びふくもんいん)。.

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藤原俊家

藤原 俊家(ふじわら の としいえ)は平安時代中期の公卿、歌人。右大臣藤原頼宗の次男。正二位・右大臣。大宮右大臣と号す。中御門流の祖であり、子孫からは中御門家(松木家)・持明院家を始めとして、9家の堂上家(羽林家)を出した。.

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藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.

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藤原信長

藤原 信長(ふじわら の のぶなが)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原教通の三男。官位は従一位・太政大臣。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原呈子

藤原 呈子(ふじわら の しめこ/ていし)、天承元年(1131年) - 安元2年9月19日(1176年10月23日))は平安時代末期の皇妃、女院。第76代近衛天皇中宮。父は藤原伊通、母は藤原顕隆の娘・立子。藤原得子(美福門院)と藤原忠通の養女。院号は九条院(くじょういん)。法名は静浄観。.

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藤原全子

藤原 全子(ふじわらの ぜんし/ またこ、康平3年(1060年) - 久安6年11月5日(1150年11月25日))は、右大臣藤原俊家(藤原頼宗の子)の娘。関白藤原師通の前妻。藤原忠実の母。兄に藤原宗俊がいる。一条殿といわれた。 承保3年(1076年)、当時正三位右近中将であった藤原師通と結婚する。承暦2年(1078年)11月、橘俊綱邸にて師通にとっては長男の忠実を産むが、その後師通と離縁している。師通は藤原信長の養女(藤原信子、実は藤原経輔の娘)と結婚し、全子は寛治6年(1092年)から母親と一緒に一条殿に移り住んだ。全子はこの離婚を恨みに思い、亡父俊家の肖像画を描かせて、怨みに報いることを願った。すると夢に父俊家が現れ、必ず報いると告げた。そしてしばらくして師通は亡くなり(康和元年(1099年))、後妻の信子は零落した、という(『台記』久安元年12月24日条)。一方、全子は藤氏長者忠実の母として一族や公卿から尊重され、永久4年(1116年)からは前年に死去した師通母源麗子にかわり親族から正月の拝礼を受けている。天永3年(1112年)には摂政の母として従三位となり、さらに永久3年(1115年)には従一位に叙された。久安6年(1150年)1月22日には准三宮となった。 久安6年(1150年)11月5日、91歳で薨去。.

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藤原公実

藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。.

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藤原兼長

藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の次男。官位は正二位・権中納言、右近衛大将。.

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藤原経輔

藤原 経輔(ふじわら の つねすけ)は、平安時代中期から後期の公卿。中納言・藤原隆家の次男。.

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藤原璋子

藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年)久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。.

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藤原盛実

藤原 盛実(ふじわら の もりざね)は、平安時代後期の貴族。藤原北家勧修寺流、宮内卿・藤原憲輔の子。官位は正四位下・治部卿。藤原頼長の外祖父。.

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藤原隆長

藤原 隆長(ふじわら の たかなが)は、平安時代末期の貴族。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の三男。官位は正四位下・左近衛権中将。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原頼宗

藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。.

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藤原頼長

藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。 通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色始め当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原顕隆

藤原 顕隆(ふじわら の あきたか)は、平安時代末期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)。参議・藤原為房の次男。葉室家の祖。正三位・権中納言。葉室中納言と号す。.

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藤原苡子

藤原 苡子(ふじわら の いし、承保3年(1076年) - 康和5年1月25日(1103年3月5日))は平安時代後期の皇妃。第73代堀河天皇女御、第74代鳥羽天皇生母。父は大納言藤原実季、母は藤原睦子(藤原経平女)。同母兄に藤原公実がいる。 承徳2年(1098年)堀河天皇に入内、女御の宣旨を受ける。康和2年(1100年)従四位下。 康和5年(1103年)第一皇子宗仁親王(鳥羽天皇)を出産するが、難産のため死去。同年従二位を追贈。嘉承2年(1108年)鳥羽天皇の即位で皇太后を追贈。 苡子は白河院の従姉妹(院の生母茂子の姪)で、入内に当たっては院自ら世話をしたという。中宮篤子内親王は高齢で子女に恵まれず、皇子出産の期待をかけられた苡子はめでたく宗仁親王を産んだが、産後の肥立ちが悪く28歳の若さで亡くなった。しかし苡子の兄公実は鳥羽天皇の外戚に、また姪の璋子は鳥羽天皇の中宮となるなど、閑院流発展の元となった。 いし category:平安時代の后妃後宮 Category:1076年生 Category:1103年没 Category:難産死した人物.

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藤原泰子

藤原 泰子(ふじわらの やすこ/たいし、嘉保2年(1095年) - 久寿2年12月16日(1156年1月10日))は平安末期の后妃、女院。鳥羽上皇の皇后。院号は高陽院(かやのいん)。初名は勲子(やすこ/くんし)。 摂政関白太政大臣・藤原忠実(知足院関白)の三女。母は右大臣・源顕房の女・師子(従一位)。同母弟に摂政関白・藤原忠通(法性寺関白太政大臣)、異母弟に左大臣・藤原頼長(宇治左大臣)がいる。.

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藤原教長

藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。.

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藤原教通

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。.

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藤原時平

藤原 時平(ふじわら の ときひら)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原基経の長男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。本院大臣と号した。 藤原北家の嫡子として若くして栄達するが、父・基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇は親政を始め、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。醍醐天皇が即位すると道真と共に左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に道真を讒言して大宰府へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳で死去した。その死は怨霊となった道真の祟りと噂された。.

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藤氏長者

藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.

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長秋記

長秋記(ちょうしゅうき)は、源師時の日記。.

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長治

長治(ちょうじ)は、日本の元号の一つ。康和の後、嘉承の前。1104年から1105年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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長承

長承(ちょうしょう)は、日本の元号の一つ。天承の後、保延の前。1132年から1134年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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除目

(じもく/じょもく)とは、平安時代中期以降、京官、外官の諸官を任命すること。またその儀式自体である宮中の年中行事を指し、任官した者を列記した帳簿そのものを指す(除書ともいう)。「除」は前官を除いて新官を任ずる意味で、「目」は目録に記すことを意味する。 任命の儀式は、年中恒例の行事で通常、春と秋の年二回行われ、春の除目、秋の除目という。その他に小規模な臨時の除目も随時行われた。除目の儀は、行事を通じて、例えば紙の折り方や墨の磨り方にいたるまで、非常に細かい作法が決められた儀式であった。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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東宮傅

東宮傅(とうぐうのふ)は、律令制に定められた皇太子(東宮)付きの教育官の一つである。 皇太子に道徳を説いて輔導する常設官である。定員一名で官位は従四位上相当。大臣が兼ねることが多く、大納言が兼任する例も見られる。 唐の太子三師を模倣したものである。東宮において太政大臣に相当するが皇太子の家政を担当する春宮坊や東宮学士とは独立の関係にあり指揮権限はないに等しい。東宮学士同様、下部機構も上部機構も持たないため式部省が勤務評定を行う。平安時代中期から春宮坊に対して東宮学士と併せて「東宮職」と呼ばれることがある。皇太子傅とも。.

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東三条殿

東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代に平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路南西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院や里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。また、太田静六によって寝殿造の代表例とされて以来、建築史の研究対象としても重視されている。.

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栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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殿下渡領

殿下渡領(でんかわたりりょう)とは、藤原氏の氏長者である藤氏長者の地位に付随して伝領される所領のこと。摂籙渡荘(せつろくわたりしょう)とも。.

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殿暦

殿暦(でんりゃく)は平安時代後期の公卿、藤原忠実(1078年 - 1162年)の日記。別に知足院関白記、知足院殿記、殿記とも。原文は伝わらず、文永4年(1267年)に近衛基平が家臣とともに書写した古写本22冊が伝わり、重要文化財に指定されている。 承徳2年(1098年)から元永元年(1118年)までの記事が現存する。この時期、忠実は政治的に絶頂期にあたり、朝廷における政務・儀式の詳細な記録が残る。.

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永久 (元号)

永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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永久の強訴

永久の強訴(えいきゅうのごうそ)とは、天永4年・永久元年(1113年)、興福寺の末寺・清水寺の別当に延暦寺で出家した仏師・円勢が任じられたことから閏3月20日に数千人の興福寺大衆が人事の停止を求めて行われた強訴のこと。 円勢は法勝寺・尊勝寺の仏像群の造立を主導しており、白河法皇への奉仕に対する論功行賞ともいえる強引な人事だった。法皇は譲歩し一旦は終結するかに思われたが、興福寺大衆が上洛の折に祇園社神人に暴行を働いたため、29日に延暦寺大衆が報復する。清水寺の堂舎を破壊して神輿をかつぎ、院御所である大炊殿におしかけ興福寺の権少僧都・実覚の流罪を要求した。出羽守・源光国、丹後守・平正盛、左衛門尉・源為義が院御所・内裏を警固した。 その場しのぎの対応で法皇が実覚処分の要求を飲んだことから興福寺が激怒、天台座主・仁豪と法性寺座主・寛慶の流罪、祇園社を春日大社の末社にすること、実覚の配流停止といった3ヵ条を奏上として提出した。大衆の上洛を防ぐため、宇治に平正盛・平忠盛・源重時が、西坂本に源光国・藤原盛重が配備された。宇治において双方が対峙中にたまたま現れた鹿(鹿は春日大社明神の使として信仰されていた)を兵士が射ようとしたことから合戦となり、大衆側に多数の戦死者が出た。宇治に出動した正盛・忠盛・重時は検非違使だったが、検非違使別当・藤原宗忠の指示を介さず法皇の命令で派兵された。検非違使庁・諸衛府の形骸化、院北面の拡大を示す事件だった。 また、延暦寺側の仁豪と寛慶も一枚岩ではなく、寛慶らが清水寺を破壊した責任者として仁豪の天台座主辞任を要求、9月には寛慶を支持する大衆が天台座主の交代を求める強訴を行おうとして、平忠盛・源重時らに阻止される事件も起きている(『長秋記』同年9月30日条)。また、翌年にも延暦寺内で仁豪・寛慶両派の大衆の衝突があり、仁豪が白河法皇に対して寛慶が天台座主を奪おうと企てていると訴えている(『中右記』永久2年7月26日条・『殿暦』永久2年7月27日条)。保安2年(1121年)になって仁豪が死去すると、寛慶が天台座主に任ぜられた。仁豪と寛慶の対立は弟子たちの時代にも引き継がれ、後の祇園闘乱事件では寛慶の弟子である天台座主行玄が仁豪の流れを汲む反対派の襲撃を受ける騒動が発生している他、12世紀後半には両勢力が皇族出身の僧侶を指導者に迎え入れる動きを見せて後の梨本(三千院)・青蓮院両門跡が誕生する遠因ともなった。.

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永長

永長(えいちょう)は日本の元号のひとつで嘉保の後、承徳の前。1096年 - 1097年の期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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没官

没官(もっかん/ぼっかん)とは、律令法において科された付加刑の1つで、人身または財物を官が没収すること。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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源師房

源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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源俊明

源 俊明(みなもと の としあき、寛徳元年(1044年) - 永久2年12月2日(1114年12月30日))は平安後期の公卿。醍醐源氏で、源隆国(宇治大納言)の三男。官位は正二位大納言。 祖父・源俊賢以来、3代続けて大納言の顕官に至った。『古事談』などに能吏としての逸話を残す一方、『続後撰和歌集』『続拾遺和歌集』等の勅撰和歌集に和歌が入集している。.

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源義親

源 義親(みなもと の よしちか)は、平安時代後期の武将。源義家の子。尊卑分脈では次男、源為義の父とされるが異説あり。 河内源氏3代目棟梁・源義家の嫡男だったが、対馬守に任じられたとき九州で略奪を働き、官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。だが、出雲国へ渡って再び官吏を殺して官物を奪ったために、平正盛の追討を受けて誅殺された。剛勇の義親が簡単に討たれたことを人々は疑い、その後に幾度も義親を名乗る者が現れている。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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源顕房

源 顕房(みなもと の あきふさ)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。.

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源麗子

源 麗子(みなもと の れいし、長久元年(1040年) - 永久2年4月3日(1114年5月9日))は、平安時代の貴族女性。関白藤原師実の北政所。師実が京極関白と呼ばれたのに対し、その正妻として「京極北政所」と称された。.

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朱器台盤

朱器台盤(しゅきだいばん)とは、藤原氏の家宝として歴代藤氏長者に継承されてきた朱塗りの什器のこと。正月の大臣大饗の際に用いた。 平安時代の酒宴は大饗(だいおう)と呼ばれ、テーブルである台盤と椅子を用いて主人と客が卓を囲む共同膳の様式であった。諸記録によれば、大饗の際に用いた朱器(朱塗りの食器・酒器)が長櫃4台に納められ、また朱器を置くための台盤が大きな物が5つありそれを含めて27個存在したとされている。 伝承によれば、藤原冬嗣が勧学院に納めた物とされ、以後代々勧学院の別当を兼務した藤氏長者が所持していたとされている。ただし、記録上実際に確認できるのは藤原兼家以後のこととされ、朱器台盤の授受(「朱器渡りの儀」)が藤氏長者交替の際に東三条殿において行われたのは藤原師実以後とされている。久安6年(1150年)、藤原忠実が長男の関白藤原忠通を義絶して次男の藤原頼長を藤氏長者とした際に武士達に命じて強引に朱器台盤を頼長のもとに移した故事は良く知られている。 ところが、宮中行事などの衰退によって大饗が開かれることがなくなり、朱器台盤も相次ぐ戦乱や五摂家の成立による短期間での藤氏長者の交替などによって散逸してしまったらしく、延文6年(康安元年/1361年)に近衛道嗣が藤氏長者に就任した際には「朱器渡りの儀」が行われていないために、その以前の段階で朱器台盤は既に存在していなかったと考えられている。 なお、南北朝時代から室町時代にかけて酒宴の形式も変化し、台盤を用いずに床に直接着座し、銘々膳を配膳する本膳料理の形式となる。.

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朗詠

朗詠(ろうえい)は、日本の歌曲の一形式。また、中国にも「吟誦」と言う類似な形式がある。.

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春日大社

一の鳥居 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。.

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春日祭

春日祭(かすがのまつり/かすがさい)とは、奈良県奈良市の春日大社の例祭。かつては2月・11月の上申日(当該月の最初の申の日)に行われたが、明治19年(1886年)以後は新暦の3月13日に統一されている。勅祭。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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悔返

悔返し(くいかえし)とは、中世日本において、和与・寄進などの財産処分を行って所有権の移動が行われた後に元の所有者あるいはその子孫らがその行為を否定して取り戻す行為。悔返し権という権利も存在していた。.

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愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

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敦実親王

敦実親王(あつみしんのう、寛平5年(893年) - 康保4年3月2日(967年4月14日))は、平安時代中期の皇族。宇多天皇の第八皇子。母は贈皇太后・藤原胤子で、醍醐天皇の同母弟。官位は一品・式部卿。六条宮を称した。.

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慈円

慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.

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承徳

承徳(じょうとく)は、日本の元号の一つ。永長の後、康和の前。1097年から1098年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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承暦

承暦(じょうりゃく、しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。承保の後、永保の前。1077年から1080年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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1078年

記載なし。

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1088年

記載なし。

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1089年

記載なし。

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1091年

記載なし。

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1092年

記載なし。

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1093年

記載なし。

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1094年

記載なし。

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1095年

記載なし。

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1097年

記載なし。

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1099年

記載なし。

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10月2日 (旧暦)

旧暦10月2日(きゅうれきじゅうがつふつか)は、旧暦10月の2日目である。六曜は大安である。.

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10月6日 (旧暦)

旧暦10月6日(きゅうれきじゅうがつむいか)は旧暦10月の6日目である。六曜は先負である。.

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1100年

記載なし。

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1102年

記載なし。

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1103年

記載なし。

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1105年

記載なし。

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1106年

記載なし。

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1107年

記載なし。

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1108年

記載なし。

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1112年

記載なし。

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1113年

記載なし。

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1117年

記載なし。

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1120年

記載なし。

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1121年

記載なし。

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1125年

記載なし。

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1129年

記載なし。

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1132年

記載なし。

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1133年

記載なし。

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1140年

記載なし。

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1142年

記載なし。

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1143年

記載なし。

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1149年

記載なし。

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1150年

記載なし。

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1151年

記載なし。

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1155年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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1162年

記載なし。

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11月12日 (旧暦)

旧暦11月12日は旧暦11月の12日目である。六曜は仏滅である。.

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11月18日 (旧暦)

旧暦11月18日は旧暦11月の18日目である。六曜は仏滅である。.

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12月14日 (旧暦)

旧暦12月14日(きゅうれきじゅうにがつじゅうよっか)は、旧暦12月の14日目である。六曜は先勝である。.

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12月25日 (旧暦)

旧暦12月25日は旧暦12月の25日目である。六曜は赤口である。.

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12月26日 (旧暦)

旧暦12月26日は旧暦12月の26日目である。六曜は先勝である。.

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1月11日 (旧暦)

旧暦1月11日は旧暦1月の11日目である。六曜は大安である。.

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1月13日 (旧暦)

旧暦1月13日は旧暦1月の13日目である。六曜は先勝である。.

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1月14日 (旧暦)

旧暦1月14日(きゅうれきいちがつじゅうよっか)は、旧暦1月の14日目である。六曜は友引である。.

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1月17日 (旧暦)

旧暦1月17日は旧暦1月の17日目である。六曜は大安である。.

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1月21日 (旧暦)

旧暦1月21日は旧暦1月の21日目である。六曜は先負である。.

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1月26日 (旧暦)

旧暦1月26日は旧暦1月の26日目である。六曜は友引である。.

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1月28日 (旧暦)

旧暦1月28日は旧暦1月の28日目である。六曜は仏滅である。.

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1月5日 (旧暦)

旧暦1月5日(きゅうれきいちがついつか)は旧暦1月の5日目である。六曜は大安である。.

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2月18日 (旧暦)

旧暦2月18日は旧暦2月の18日目である。六曜は先勝である。.

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3月11日 (旧暦)

旧暦3月11日は旧暦3月の11日目である。六曜は先勝である。.

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3月24日 (旧暦)

旧暦3月24日は旧暦3月の24日目である。六曜は友引である。.

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3月28日 (旧暦)

旧暦3月28日は旧暦3月の28日目である。六曜は赤口である。.

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4月14日 (旧暦)

旧暦4月14日(きゅうれきしがつじゅうよっか)は、旧暦4月の14日目である。六曜は大安である。.

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4月15日 (旧暦)

旧暦4月15日は旧暦4月の15日目である。六曜は赤口である。.

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4月27日 (旧暦)

旧暦4月27日は旧暦4月の27日目である。六曜は赤口である。.

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6月18日 (旧暦)

旧暦6月18日は旧暦6月の18日目である。六曜は大安である。.

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6月5日 (旧暦)

旧暦6月5日(きゅうれきろくがついつか)は旧暦6月の5日目である。六曜は仏滅である。.

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7月17日 (旧暦)

旧暦7月17日は、旧暦7月の17日目である。六曜は大安である。.

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7月18日 (旧暦)

旧暦7月18日は、旧暦7月の18日目である。六曜は赤口である。.

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7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.

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7月31日

7月31日(しちがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から212日目(閏年では213日目)にあたり、年末まであと153日ある。7月の最終日である。誕生花はカボチャ、ビヨウヤナギ。.

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8月17日 (旧暦)

旧暦8月17日は旧暦8月の17日目である。六曜は赤口である。.

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