ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

家司

索引 家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.

37 関係: 受領太上天皇家司家符家政官人富豪層将軍家九条流平安時代侍所御教書従三位律令制地下人内親王公卿四等官納殿白根靖大職事青侍養老親王諸大夫郡司蔵人院司院庁院政権門文殿摂関政治政所散位719年8世紀

受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

新しい!!: 家司と受領 · 続きを見る »

太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

新しい!!: 家司と太上天皇 · 続きを見る »

家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.

新しい!!: 家司と家司 · 続きを見る »

家符

家符(かふ)とは、皇親・公卿の家政機関が下部機関に対して出す命令書。公文書の符の形式が用いられたことからこの名称がある。 公式令に定められた符の書式に準じた書式で作成され、書止と発給年月日の間には令や別当などの家司の位署が記された。家牒と並んで家政機関発給の文書としてしばしば用いられ、後の政所下文の起源となった。ただし、実物は現存せず、『朝野群載』に所収された殿下渡領佐保殿預職を補任する関白内大臣家の家符(嘉保3年10月27日付、関白内大臣は藤原師通)の写しが遺されているのみである。.

新しい!!: 家司と家符 · 続きを見る »

家政

家政(かせい)とは、.

新しい!!: 家司と家政 · 続きを見る »

官人

官人(かんにん、かんじん、つかさびと)とは官吏・役人を指す言葉。 律令制では諸司の主典以上六位以下、平安時代には判官以下、特に近衛府の将監以下の官吏を指した。.

新しい!!: 家司と官人 · 続きを見る »

富豪層

富豪層(ふごうそう)とは、日本の歴史学界において律令制末期にあたる平安時代初期の農村において私営田(佃)や私出挙、商業活動などを運営していく過程で律令制的な土地支配を解体に導いたとされる在地の有力者を指す概念。 当時の六国史や太政官符などに登場する富豪之輩と呼ばれる人たちを概念化したものであるが、地方に下向・土着した中下級貴族やその末裔、郡司・田刀・浮浪など様々な身分に属する中間的な階層より構成されていたと考えられている。私的な経済活動によって資産を増加させるとともにそれによって生じた債務・雇用関係を通じて班田農民を次第に支配下において下人・所従などの形で再編し、時には律令政府や国衙に反抗し、在地領主としての地位を確立していったとされる。 1960年代に戸田芳実が石母田正が唱えていた「在地領主論」(直接生産者である班田農民は奴隷から農奴に、支配者である郡司などの豪族層が私営田領主に変質していくことで律令制的な土地支配が解体されたとする考え)を批判して小規模経営様式の解体によって誕生した一部の班田農民の上昇による富裕層が形成され、やがて私営田領主などに転換されていくことを指摘した。以後の古代の律令制土地支配解体の過程と中世の土地制度成立の過程の研究を巡って議論が行われることになり、戸田の説が注目されることになる。ただし、戸田の説も全面的に支持を受けているものでもなく、戸田や石母田の研究を取り入れながら研究が進められることになった。.

新しい!!: 家司と富豪層 · 続きを見る »

将軍家

将軍家(しょうぐんけ)は、日本の中世において、征夷大将軍または近衛府大将に叙任された武家の棟梁が、政権を樹立する際に公家の家政制度に倣って創始したものである。自身及び、世襲を確立した際には嫡子を始めとする家族と、家政機関である政所を含んだ。 最初にこの概念が導入されたのは、源頼朝が右近衛大将に叙任されたことにより、従来自身の主従関係をこれに当てはめたものである。彼とその家臣団である御家人が朝廷からの自治の確立のために称された。後に、頼朝自身が征夷大将軍に就任し、彼の子である源頼家および実朝へと征夷大将軍の世襲がおこなわれるようになった。そして、頼朝の職名である「征夷大将軍家」・「前右大将家」の略である「将軍家」の称が確立される。 また、源実朝が征夷大将軍兼帯で右大臣に就任したことにより、征夷大将軍が大臣に就任することが可能となった。鎌倉時代においては、摂家将軍・皇族将軍らは将軍職を辞した後も大臣には就任しなかった。再び将軍が大臣に就任したのは、室町時代に入り右近衛大将を任じられた足利義満の、内大臣就任からである。 室町時代には、征夷大将軍に対しては将軍家という言い方より公方(くぼう)と言う言い方が用いられる。江戸時代には御三家・御三卿や将軍庶子に対する将軍の嫡子に対して用いられた。 将軍家は武家政権の時代を通じて日本の統治者の一族としての役割を担った。勅令により任命されたが、武家政権の確立期には天皇家を凌ぐ威勢を誇った。形式上は朝廷の臣下であったが、実際には諸外国からも王家としての待遇を受けるのが通例であった。.

新しい!!: 家司と将軍家 · 続きを見る »

九条流

藤原頼通 |支流.

新しい!!: 家司と九条流 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 家司と平安時代 · 続きを見る »

侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.

新しい!!: 家司と侍所 · 続きを見る »

御教書

御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)とは平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上及びそれに准じる地位にある人の家司が主の意思を奉じて発給した古文書の形態。四位以下の公家や守護大名クラスの武士の家司・家僕が主の意思を奉じて発給した同形式の文書は奉書という。.

新しい!!: 家司と御教書 · 続きを見る »

従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

新しい!!: 家司と従三位 · 続きを見る »

律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

新しい!!: 家司と律令制 · 続きを見る »

地下人

地下(じげ)、地下人(じげにん/じげびと)は、日本における官人の身分の一つである。また、中世以降、官位を持たない名主、庶民などを地下人とも言った。.

新しい!!: 家司と地下人 · 続きを見る »

内親王

内親王(ないしんのう、うちのみこ、ひめみこ、Princess)は、皇族女子の身位または称号の一つ。現行の皇室典範では天皇からみて直系で2親等以内の者に与えられる。かつては、親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。.

新しい!!: 家司と内親王 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 家司と公卿 · 続きを見る »

四等官

四等官(しとうかん、字音仮名遣:しとうくわん)または四等官制( - せい)は、律令制において各官司の中核職員が4等級で構成されていたことを表す用語。元は中国律令に現れ、律令制を支える精緻な官僚システムの基礎制度として機能した。日本も律令制開始と同時に四等官制を導入している。.

新しい!!: 家司と四等官 · 続きを見る »

納殿

納殿(おさめどの)とは、金銀・衣装・調度品など各種の品物を納めて置く場所。後世における納戸の元となった。 宮中においては、累代の御物は宜陽殿、恒例の御物は蔵人所・綾綺殿、紙と屏風は仁寿殿を納殿としていたことが『西宮記』(巻8・所々事)に記されている他、春興殿も納殿として用いられていたことが『日本後紀』(承和4年12月辛卯(2日)条)及び『三代実録』(元慶8年2月21日条)によって知られる。これらは天皇の家政機関であった蔵人所の管理下にあり、同所の蔵人・雑色らが管理にあたった。また、後涼殿にも納殿があったとされている。 また、公卿などの貴人の邸宅や寺院にも同様の施設があり、『今鏡』には藤原師実や源雅実の邸宅の納殿が登場し、『吾妻鏡』(安貞元年6月17日条)にも将軍の御所に納殿が造営された記事が存在している。更に『源氏物語』「須磨」にも光源氏の邸宅の納殿が登場している。 室町時代頃より「納戸」という呼び名が代わりに用いられるようになった。.

新しい!!: 家司と納殿 · 続きを見る »

白根靖大

白根 靖大(しらね やすひろ、1965年 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。博士(文学)。.

新しい!!: 家司と白根靖大 · 続きを見る »

職事

職事(しきじ)とは、律令制における特定の官人集団を指して用いた呼称。本来は一定の執掌を指し、転じてその執掌を持つ官人のことをも指すようになって職事官(しきじかん)とも呼ばれるようになった。.

新しい!!: 家司と職事 · 続きを見る »

青侍

青侍(あおさむらい)は、貴族・公家の家政機関に勤仕する侍のこと。 『大鏡』に登場する「なまざむらい」と同義語とされ、『中右記』や『明月記』などの日記類、『今昔物語集』・『古今著聞集』・『平家物語』・『宇治拾遺物語』の物語類などにも登場する。.

新しい!!: 家司と青侍 · 続きを見る »

養老

養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.

新しい!!: 家司と養老 · 続きを見る »

親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

新しい!!: 家司と親王 · 続きを見る »

諸大夫

諸大夫(しょだいぶ)は、日本の古代から中世、近世にかけての官人の階層の名称。.

新しい!!: 家司と諸大夫 · 続きを見る »

郡司

郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。.

新しい!!: 家司と郡司 · 続きを見る »

蔵人

蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。.

新しい!!: 家司と蔵人 · 続きを見る »

院司

院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。.

新しい!!: 家司と院司 · 続きを見る »

院庁

院庁(いんのちょう)は、日本の古代・中世において、院政を布いた上皇直属の政務機関、または女院の所務・雑務を処理した機関。院庁の実務は院司が担当した。.

新しい!!: 家司と院庁 · 続きを見る »

院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

新しい!!: 家司と院政 · 続きを見る »

権門

権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団を指す言葉。類似した意味を持つ勢家(せいか/せいけ)と組み合わせて、権門勢家ともいった。 「権門」と「勢家」はともに中国の古典に記された故事に由来する語で、平安時代初め頃から使われるようになる。902年(延喜2年)3月13日付太政官符(すなわち『延喜の荘園整理令』)には、「権門」「多勢之家(勢家)」などの語がすでに見られ、諸院諸宮王臣家あるいは五位以上の貴族の意味で用いられていたことがわかる。 摂関政治の時代に入ると、地方の在地領主が国司の介入を排除するため権門に土地を荘園として寄進して不輸権・不入権を獲得するようになった(荘園領主)。特に藤原北家でも摂関の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」として没落するようになった。当時の政治は権門によって運営されていたために、荘園整理などの権門抑制策には消極的だったが、一方で政治的権威の基盤である太政官 - 国衙の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、官物率法の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた。 しかし院政の時代に入ると藤原北家への権力の集中に翳りが見え始め、それと平行して治天の君(皇室の家督)、興福寺や延暦寺などの大寺社勢力、そして桓武平家、清和源氏に代表される武士団を背景とした新しい武家勢力の棟梁などが、新たな権門として浮上するようになる。これらはしばらくの間互いを牽制するかたちで並列的に存在したが、やがて平安時代末期の源平合戦の動乱から鎌倉幕府の成立を経て、いわゆる「荘園公領制」の時代に入ると、「権門体制」と呼ばれる新秩序が確立されたと考えられている。 Category:平安時代 Category:日本の荘園制.

新しい!!: 家司と権門 · 続きを見る »

文殿

文殿(ふどの/ふみどの)とは、太政官並びに院庁において、公文書(公文)や典籍の管理が行われていた場所。他の公的機関の公文所に相当する。 太政官においては少納言局の管理下に置かれて外記及びその史生がその管理実務を行うとともに公文の作成や先例の勘申などを行うようになり、主として内裏内(清涼殿の南側・安福殿の北側)の校書殿(きょうしょでん)が管理場所に充てられていたために同所の別名としても用いられた。少納言の地位が低下すると大夫史(官務)が責任者となり、代わって弁官や官務に属する文殿が設置されるようになった。後に左大弁(官務)小槻氏が太政官文殿を、大外記(局務)中原氏が院文殿を監督するようになり世襲化していった。特に嘉禄2年(1226年)に太政官の文殿が焼失すると、官務文庫にその役目が移された。 院政においては、院庁の文殿に訴訟などの書類が集められると同時に律令法や儒教に通じた中下級公家が寄人(職員)に任じられて、記録所と同様の役割を果たしていたことから、院政の合議・訴訟機関である院評定が行われたのは主として文殿であった。そのため、上皇や法皇が新たに院政を始めること(評定始)を文殿始(ふどのはじめ)とも称した。 Category:日本の律令制.

新しい!!: 家司と文殿 · 続きを見る »

摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

新しい!!: 家司と摂関政治 · 続きを見る »

政所

政所(まんどころ)は、.

新しい!!: 家司と政所 · 続きを見る »

散位

散位(さんい/さんに)とは、日本の律令制において、内外の官司に執掌を持たず、位階のみを持つ者。 なお、散官(さんかん)という別称もある。唐にも散官の制度があり、文官には光禄大夫などの文散官、武官には鎮軍大将軍などの武散官が与えられていたが、品階を有する全ての官人に与えられる性格のものであり、実態としては日本における位階に近い。他の別称としては、女嬬・采女などの下級女官や地方の国衙に仕えた雑任などを指す散事(さんじ)や、同じく地方の雑任を指した散仕(さんじ)がある。.

新しい!!: 家司と散位 · 続きを見る »

719年

記載なし。

新しい!!: 家司と719年 · 続きを見る »

8世紀

イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 家司と8世紀 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

家令

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »