ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

藤原為房

索引 藤原為房

藤原 為房(ふじわら の ためふさ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、但馬守・藤原隆方の長男。官位は正三位・参議。坊城大蔵卿、勧修寺と号した。 博学かつ、優秀な実務官僚として活躍し、のちの勧修寺流一門の繁栄の基礎を築いた。大江匡房・藤原伊房と共に「前の三房」と称される。日記に『為房卿記』がある。.

125 関係: 加賀国台記受領参議坊城家堀河天皇大江匡房天仁天永家司官位官僚寛信寛治尾張国左大臣中右記中宮職中納言万里小路家三事兼帯平安時代乳母久安康平康和五位蔵人仏罰延久延暦寺弁官強訴後三条天皇従三位従五位従四位修理職応徳僧位僧綱嘉保嘉承周防国備中国内蔵寮八坂神社公卿六位蔵人兵範記勧修寺流...国司神人神輿続柄為房卿記甘露寺家白河天皇遠江国衆徒衛門府鳥羽天皇越前国近衛府興福寺阿波国藤原師実藤原師通藤原伊房藤原忠実藤原忠通藤原忠教藤原北家藤原公実藤原光子藤原経実藤原為隆藤原為輔藤原顕隆藤原親隆藤原重隆藤原朝隆葉室家蔵人蔵人頭長治腫瘍院司院近臣暗殺村上源氏検非違使正三位正五位正四位氏寺永久 (元号)永久の変永久の強訴永保永承源師隆源平盛衰記源俊房源頼国源雅実朝廷春宮坊流罪日吉大社日記日本の大蔵大臣・財務大臣一覧摂家承保承暦1049年1092年1094年1096年1102年1111年1113年1114年1115年4月27日4月2日 (旧暦) インデックスを展開 (75 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 藤原為房と加賀国 · 続きを見る »

台記

『台記』(たいき)は、宇治左大臣藤原頼長の日記。『宇槐記』、『槐記』とも言う。『台記』の名称は、大臣の唐名のひとつ「三台」による。.

新しい!!: 藤原為房と台記 · 続きを見る »

受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

新しい!!: 藤原為房と受領 · 続きを見る »

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

新しい!!: 藤原為房と参議 · 続きを見る »

坊城家

坊城家(ぼうじょうけ)は、名家の家格を有する公家(公家貴族)。藤原北家勧修寺流のうち勧修寺家の支流。「小川坊城」とも称する。家業は紀伝道と装束。家紋は竹に雀。江戸時代の家禄は180石。伯爵。 鎌倉時代に吉田経俊の子・坊城俊定を祖として創設されたといわれているが、俊定の子である定資の長男俊実(俊定の孫にあたる)を祖とする説もある。戦国時代末期、一時期中絶したが、後に勧修寺晴豊の三男、俊昌が入って再興された。 1884年(明治17年)俊章(としあや)が伯爵を授けられる。俊章は貴族院議員、陸軍少将、山形県知事などを務めた。俊良は侍従、皇太后宮大夫、伊勢神宮大宮司を務めた。俊民(としたみ)は東京都立高校の教諭、校長を歴任。1951年(昭和26年)以来、宮中で行われる歌会始の講師(こうじ)を務め、披講会会長を務めた。 坊城俊成は一般社団法人霞会館会員、堂上会会員、1981年から宮中で行われる歌会始の所役を三十余年、講師(こうじ)を二十三回務める。.

新しい!!: 藤原為房と坊城家 · 続きを見る »

堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

新しい!!: 藤原為房と堀河天皇 · 続きを見る »

大江匡房

大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。.

新しい!!: 藤原為房と大江匡房 · 続きを見る »

天仁

天仁(てんにん)は、日本の元号の一つ。嘉承の後、天永の前。1108年から1109年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

新しい!!: 藤原為房と天仁 · 続きを見る »

天永

天永(てんえい)は、日本の元号の一つ。天仁の後、永久の前。1110年から1112年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

新しい!!: 藤原為房と天永 · 続きを見る »

家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.

新しい!!: 藤原為房と家司 · 続きを見る »

官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

新しい!!: 藤原為房と官位 · 続きを見る »

官僚

官僚(かんりょう、bureaucrat ビューロクラート)とは、一般に、国家の政策決定に大きな影響力を持つ公務員をいう。.

新しい!!: 藤原為房と官僚 · 続きを見る »

寛信

寛信(かんしん・かんじん、応徳元年(1084年)- 仁平3年3月7日(1153年4月2日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は参議藤原為房。勧修寺法務とも称される。 東大寺覚樹に三論教学を学び、勧修寺厳覚から真言宗小野流の奥義を受けた。1110年(天永元年)勧修寺別当に就任し、勧修寺における法華八講の整備に力を注いだ。南都三会已講(さんえいこう)の功により1134年(長承3年)権少僧都に任じられ、その後権大僧都に至った。この間東寺長者・法務、東大寺別当を歴任している。真言密教における事相に関する多くの著作を残した。 Category:勧修寺流 Category:真言宗の僧 Category:平安時代の僧 Category:真言宗山階派 Category:1084年生 Category:1153年没.

新しい!!: 藤原為房と寛信 · 続きを見る »

寛治

寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と寛治 · 続きを見る »

尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 藤原為房と尾張国 · 続きを見る »

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 藤原為房と左大臣 · 続きを見る »

中右記

『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。筆者には『愚林』と名付けられたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。.

新しい!!: 藤原為房と中右記 · 続きを見る »

中宮職

中宮職(ちゅうぐうしき)は、律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所。元来は、全ての后妃の世話を行うために設置されたが後には皇后と中宮、皇太后などとの並立によりそれぞれに太皇太后宮職、皇太后宮職、皇后宮職と専属の職が置かれる。.

新しい!!: 藤原為房と中宮職 · 続きを見る »

中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

新しい!!: 藤原為房と中納言 · 続きを見る »

万里小路家

万里小路家(までのこうじけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流の支流。参議吉田資経の四男資通を家祖とし、鎌倉時代中期に始まる。家祖資通がその邸宅地を冠して万里小路と称されてから、子孫代々これを家名とした。.

新しい!!: 藤原為房と万里小路家 · 続きを見る »

三事兼帯

三事兼帯(さんじけんたい)とは、五位蔵人・弁官・検非違使佐を兼帯すること。蔵人佐(五位蔵人で検非違使佐を兼ねる)が弁官に就任して、実現されることが多い。.

新しい!!: 藤原為房と三事兼帯 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 藤原為房と平安時代 · 続きを見る »

乳母

乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。.

新しい!!: 藤原為房と乳母 · 続きを見る »

久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

新しい!!: 藤原為房と久安 · 続きを見る »

康平

康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

新しい!!: 藤原為房と康平 · 続きを見る »

康和

康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と康和 · 続きを見る »

五位蔵人

五位蔵人(ごいのくろうど)は、律令制下の日本における官職(令外官)の一つ。蔵人所の次官で、蔵人頭の次位にあたる。定員は2~3名で、五位の殿上人の中から、家柄がよく学識才能のある者が特に選ばれた。 五位蔵人という言葉が歴史上に出てくるのは、『職事補任』宇多院の項の分注に「仁和四年十一月廿七日、始置五位蔵人二人、止六位二人」とあり、源湛・藤原敏行の2名が五位蔵人に補任されたのが初見で、これ以後頻出している。これ以前にも五位蔵人は存在していたが、無位の蔵人もあり、蔵人8人の位階は必ずしも一定しなかった。当時は五位と六位の間に身分上明確な一線が引かれ、官人の行動や儀制面で大きな差があったため、蔵人を一括することが困難であったとともに、蔵人所の職掌も次第に分化し、身分の高低が密接に関係するようになった。このことが五位蔵人の設置と、それに伴う機構の整備を生んだ理由と考えられる。 これ以後、五位蔵人が四位に、六位蔵人が五位に昇進した場合が、新しい位階のまま蔵人に留まることは許されず、位階と蔵人の職が不可分のものとなり、五位蔵人及び六位蔵人は官職名とみなされるようになった。.

新しい!!: 藤原為房と五位蔵人 · 続きを見る »

仏罰

仏罰(ぶつばち)とは、仏(如来)が悟った根本の真理に背いたために自然に蒙る(とされる)罰のこと。神罰との対比でよく誤解されているが、仏が罰を与えるのではない。ただし、これは仏教全体の解釈ではない(後述)。.

新しい!!: 藤原為房と仏罰 · 続きを見る »

延久

延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と延久 · 続きを見る »

延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

新しい!!: 藤原為房と延暦寺 · 続きを見る »

弁官

弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.

新しい!!: 藤原為房と弁官 · 続きを見る »

強訴

強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。とくに、平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。.

新しい!!: 藤原為房と強訴 · 続きを見る »

後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

新しい!!: 藤原為房と後三条天皇 · 続きを見る »

従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

新しい!!: 藤原為房と従三位 · 続きを見る »

従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

新しい!!: 藤原為房と従五位 · 続きを見る »

従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

新しい!!: 藤原為房と従四位 · 続きを見る »

修理職

修理職(しゅりしき、すりしき)は平安時代に設置された令外官。和名は「をさめ(おさめ)つくるつかさ」。.

新しい!!: 藤原為房と修理職 · 続きを見る »

応徳

応徳(おうとく)は、日本の元号の一つ。永保の後、寛治の前。1084年から1086年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇、堀河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と応徳 · 続きを見る »

僧位

僧位(そうい)とは日本において僧侶に対し与えられた位階のことである。.

新しい!!: 藤原為房と僧位 · 続きを見る »

僧綱

僧綱(そうごう)とは日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職である。.

新しい!!: 藤原為房と僧綱 · 続きを見る »

嘉保

嘉保(かほう)は、日本の元号の一つ。寛治の後、永長の前。1095年から1096年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と嘉保 · 続きを見る »

嘉承

嘉承(かしょう、かじょう)は、日本の元号の一つ。長治の後、天仁の前。1106年から1107年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇、鳥羽天皇。.

新しい!!: 藤原為房と嘉承 · 続きを見る »

周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 藤原為房と周防国 · 続きを見る »

備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 藤原為房と備中国 · 続きを見る »

内蔵寮

内蔵寮(くらりょう)は律令制において中務省に属した機関。和訓は「うちのくらのつかさ」。唐名は「倉」部。また、近代の宮内省に設置された内部部局の一つ。.

新しい!!: 藤原為房と内蔵寮 · 続きを見る »

八坂神社

八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。.

新しい!!: 藤原為房と八坂神社 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 藤原為房と公卿 · 続きを見る »

六位蔵人

六位蔵人(ろくいのくろうど)とは、令外官の役職で、蔵人所の官吏。五位蔵人の次位にあたる。定員はおおよそ4名から6名。天皇の膳の給仕等、秘書的役割を果たした。毎日出仕して働く下級役人であることから日下﨟(ひげろう)とも呼ばれた。六位の者が補任されるが、昇殿が許される殿上人となり、麹塵袍の着用が許されるなど、天皇の側近として名誉な職とされた。 任官資格順位としては「公卿の子弟の非蔵人(蔵人の見習)」、「非蔵人」、「執柄勾当(摂家の家来)」、「院蔵人」 「雑色」、「儒生の修了者(明法道などの難試験に合格した者)」、「判官代」の順である。任官に年齢制限はなく、就任した順に「新蔵人」(しんくろうど)、「氏蔵人」(うじくろうど)、「差次」(さしつぎ)、「極﨟」(ごくろう)という席次があった。 六位蔵人は式部丞・民部丞・外記・史・近衛将監・衛門尉などと同様に毎年正月の叙位で叙爵枠があり、上﨟者(在職年数の長い者)は従五位下に叙される慣例となっていた(巡爵)。この際、通常五位蔵人に転じることはなく蔵人を辞職し地下人になる。こういう人を蔵人五位(くろうどのごい)と呼んだ。なお、殿上人から退くことをよしとしない者はあえて叙爵を受けず、六位に留まり、改めて末席の「新蔵人」となる「鷁退(逆退とも。げきたい)」という慣例が生まれた。 式部丞・民部丞・外記・史・検非違使衛門尉などから叙爵した者と同様に六位蔵人から五位に叙された者は受領に任じられる資格があり、叙爵後一定の待機期間の後、受領に任じられた。そのため、六位出身者にとって六位蔵人は重要な出世コースであった。 中世以降、五位蔵人は次第に名家と呼ばれる堂上家が経る職となり六位蔵人が五位蔵人となることはなくなっていったため、「鷁退」か五位の地下人になるかいずれかを選ばなければならなくなった。さらに時代が下ると六位蔵人を経たものが公卿に至ることもなくなり、近世では『地下家伝』に記載されるなど、殿上人でありながら堂上家ではなく、あくまで地下人の中での上級層とみなされていた。 近世では禁色勅許はもちろん、地下人であっても堂上家同様に鉄漿をつけることができた。禁色は五位になって地下人に降りれば使用できないが、鉄漿のほうは一生つけることができたという。.

新しい!!: 藤原為房と六位蔵人 · 続きを見る »

兵範記

『兵範記』(へいはんき/ひょうはんき)は、平安時代の公家平信範の日記。書名は信範の極官である兵部卿と信範の名から。また住所であった洞院を取って『平洞記』とも、信範の二字の偏を取って『人車記』とも呼ばれる。記載時期は天承2年(1132年)から承安1年(1171年)に至るまで約40年間を網羅する。 信範は、桓武平氏高棟流の流れをくむ「日記の家」と呼ばれた実務官僚の家系であり、その日記は平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知るための基本史料となっている。特に信範は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えたため、当時の上級公家などの動きに詳しく、なかでも保元の乱および乱後の後白河院・平家などについての詳細な記述は、他の諸記録の追随を許さないといえる。 さらに『兵範記』原本の特長としては、大量の紙背文書の存在が挙げられる。信範が摂関家政所別当職や蔵人頭を務めていた際の訴訟・行政文書の裏が日記用の紙に使われており、摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容が窺える貴重な史料ともなっている。.

新しい!!: 藤原為房と兵範記 · 続きを見る »

勧修寺流

勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。.

新しい!!: 藤原為房と勧修寺流 · 続きを見る »

国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

新しい!!: 藤原為房と国司 · 続きを見る »

神人

人(じにん、じんにん / しんじん、かみびと / かみんちゅ)とは日本(琉球を含む)の神職である。読みにより意味が異なる。; じにん、じんにん; しんじん、かみびと; かみんちゅ.

新しい!!: 藤原為房と神人 · 続きを見る »

神輿

日吉大社の神輿 敏馬神社の神輿 神輿、御輿(みこし、しんよ)は、通常、神道の祭の際に、普段は神社にいる神霊が氏子町内、御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが、それを台車(御所車、牛車)に乗せて曳くものなど別形態のものも指すことがある。 祭りによっては、御輿の巡行に山車(山)、鉾(ほこ)、だんじり、などの屋台が随行することもある。 「御輿」は「輿」に「御」を付けたものであるが、さらに「御」をつけて「おみこし」と呼ばれる場合がある。神が乗る輿であるので「御神輿」とも書かれる。 神社の神輿を一般に「本社神輿」(神社神輿・宮神輿)と言い、神社に本社神輿が1基のみ存在する神社もあれば、三社祭で有名な浅草神社のように1社で3基の神社神輿を持つ神社もある。氏子町会が神輿を持っている場合はこれを「町会神輿」と呼び、この中で青壮年部が担ぐものを「大人神輿」、女性が担ぐ輿を「女神輿」子供は「子供神輿」と呼んでいる。 特に胴が箱型で内部が空洞の物を鳳輦(ほうれん)と呼び、実際に人間(主に天皇)や大きめの神器・依代が乗るものとして造られたのが起源とされるため小型の物は存在しない。神輿と鳳輦の定義で議論になるが、文字通りの意味を定義と捉えた場合、鳳凰(ほうおう)を付けた神輿全てが鳳輦(ほうれん)になってしまい、逆に鳳凰を冠してない鳳輦も存在するため、「皇族などの貴人が乗る輿」と定義としている書籍が多い 。 これに比べて神輿は諸説あるが、鳳輦から発展し、神霊が乗ることに特化したものであるという解釈ができ、後述のように成人男性が1人で持てそうな小型の物から、中に入れそうな大型のものまである。 神輿と鳳輦を合わせて「輦輿」(れんよ)と呼ぶが、定義もさることながら、外見では判断しにくいため(特に垂幕や瓔珞が付いている場合)、双方とも「神輿」と総称されているのが現状である。.

新しい!!: 藤原為房と神輿 · 続きを見る »

続柄

続柄の関係図 続柄(つづきがら)とは、血縁関係あるいは婚姻関係を指す語である。俗に「ぞくがら」と読まれることもある。 血族と姻族、直系と傍系、尊属と卑属の意味や親等については「親族」を参照。 本項目において「親族」とは、民法第725条「親族の範囲」で定める「法定親族」を指す。.

新しい!!: 藤原為房と続柄 · 続きを見る »

為房卿記

房卿記(ためふさきょうき)は、後三条・白河・堀河・鳥羽天皇に蔵人・蔵人頭として仕え、大蔵卿・参議として活躍した藤原為房の日記で、「大記」「大御記」「大府記」とも呼ばれる。 延久2年(1070年)から永久2年(1114年)までの記録があるが、治暦年間(1065年-1068年)頃から記していたとも言われるが、京都大学文学部所蔵の自筆1巻を残し、ほとんどが散逸する。ただ、鎌倉期の古写本が京都大学や陽明文庫・宮内庁書陵部などに残る。院政政治についての内容が現存しているが、一年分を完備した年はなく断続的である。また、永保元年(1081年)秋の熊野詣の記事は特に「為房卿熊野参詣日記」として取り上げられることがある。 当時の政治や社会状況を知る上では重要な歴史資料。刊本としては、部分的ではあるが、『大日本史料』第3編や『歴代残闕日記』第7冊、『翻刻為房卿記』(『史聚』第10号)に掲載。.

新しい!!: 藤原為房と為房卿記 · 続きを見る »

甘露寺家

露寺家(かんろじけ)は、藤原北家高藤流(勧修寺流)の堂上家。家格は名家。.

新しい!!: 藤原為房と甘露寺家 · 続きを見る »

白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

新しい!!: 藤原為房と白河天皇 · 続きを見る »

遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 藤原為房と遠江国 · 続きを見る »

衆徒

衆徒(しゅと)は、堂衆(どうしゅ/どうしゅう)とも呼ばれ、本来は平安時代以後に大寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった僧侶身分のこと。大衆の主力であり、衆徒のみを指して「大衆」と呼ぶ場合もある。特に興福寺が守護職を務めた大和国では、国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士(やまとぶし))を指して衆徒と呼ぶ場合もある。.

新しい!!: 藤原為房と衆徒 · 続きを見る »

衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

新しい!!: 藤原為房と衛門府 · 続きを見る »

鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

新しい!!: 藤原為房と鳥羽天皇 · 続きを見る »

越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 藤原為房と越前国 · 続きを見る »

近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

新しい!!: 藤原為房と近衛府 · 続きを見る »

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 藤原為房と興福寺 · 続きを見る »

阿波国

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 藤原為房と阿波国 · 続きを見る »

藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

新しい!!: 藤原為房と藤原師実 · 続きを見る »

藤原師通

藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.

新しい!!: 藤原為房と藤原師通 · 続きを見る »

藤原伊房

藤原 伊房(ふじわら の これふさ)は、平安時代中期から後期にかけての公家。世尊寺流の能書家。権大納言・藤原行成の孫で、参議・藤原行経の子。官位は正二位・権中納言。.

新しい!!: 藤原為房と藤原伊房 · 続きを見る »

藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

新しい!!: 藤原為房と藤原忠実 · 続きを見る »

藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.

新しい!!: 藤原為房と藤原忠通 · 続きを見る »

藤原忠教

藤原 忠教(ふじわら の ただのり)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原師実の五男。官位は正二位・大納言。難波家の祖。.

新しい!!: 藤原為房と藤原忠教 · 続きを見る »

藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

新しい!!: 藤原為房と藤原北家 · 続きを見る »

藤原公実

藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。.

新しい!!: 藤原為房と藤原公実 · 続きを見る »

藤原光子

三条烏丸御所跡・藤原光子が最初の居住者、京都市中京区烏丸西入南側 藤原 光子(ふじわら の みつこ、康平3年(1060年) - 保安2年4月16日(1121年5月4日))は、平安時代後期の女官。但馬守藤原隆方の娘で、藤原為房の姉妹。藤原公実の側妾となり、藤原通季、僧仁実、藤原実能、僧覚源、藤原公子、藤原実子、藤原璋子(待賢門院)をはじめ8人の子女を産んだ。堀河天皇、鳥羽天皇の乳母。 寛治元年(1087年)、堀河天皇の乳母として典侍となり「中納言典侍」と呼ばれる。康和4年(1102年)、従三位に叙せられる。「弁三位」と呼ばれたのは、父隆方が弁官であったためと思われる。翌5年1月、鳥羽天皇の乳母を兼任した。天仁元年(1108年)正三位に叙任。娘の実子が翌年正式に乳母となると、母の光子は大蔵三位と呼ばれた。天永3年(1112年)従二位に昇進した。堀河・鳥羽両天皇の乳母として政界に隠然たる力を持ち、保安2年4月16日、62歳で薨去した。 みつこ Category:1060年生 Category:1121年没 Category:乳母 Category:平安時代の女官 Category:平安時代の公卿の妻室.

新しい!!: 藤原為房と藤原光子 · 続きを見る »

藤原経実

藤原 経実(ふじわら の つねざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政藤原師実の三男。官位は正二位・大納言、贈正一位、太政大臣。二条天皇の外祖父。大炊御門家の祖。.

新しい!!: 藤原為房と藤原経実 · 続きを見る »

藤原為隆

藤原 為隆(ふじわら の ためたか)は平安時代末期の公卿。参議・藤原為房の長男。日記『永昌記』を記した。.

新しい!!: 藤原為房と藤原為隆 · 続きを見る »

藤原為輔

藤原 為輔(ふじわら の ためすけ)は平安時代中期の公卿。右大臣・藤原定方の孫で、左兵衛督・藤原朝頼の長男。甘露寺中納言『公卿補任』または松崎帥と号す。.

新しい!!: 藤原為房と藤原為輔 · 続きを見る »

藤原顕隆

藤原 顕隆(ふじわら の あきたか)は、平安時代末期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)。参議・藤原為房の次男。葉室家の祖。正三位・権中納言。葉室中納言と号す。.

新しい!!: 藤原為房と藤原顕隆 · 続きを見る »

藤原親隆

藤原 親隆(ふじわら の ちかたか)は、平安時代後期の公卿。藤原為房の七男。正三位・参議。四条宰相、四条三位と号す。.

新しい!!: 藤原為房と藤原親隆 · 続きを見る »

藤原重隆

藤原重隆(ふじわら の しげたか、承保3年(1076年) - 元永元年(1118年))は平安時代後期の廷臣。藤原北家勧修寺流の出身で、参議藤原為房の三男。母は源頼国の娘。同母兄に為隆、顕隆がある。右衛門権佐、中宮大進。 堀河朝蔵人、白河院殿上人を務める。殿上人の作法故実書『蓬莱抄』、公事の指図書『雲図抄』を著すなど、識見豊かな官人として活躍した。その一方、その死に際し『中右記』において「心性頗悪、為人有凶」と評されるなど毀誉褒貶も多く、『古今著聞集』には死後冥界において閻魔庁に出仕していたという説話が伝えられている。嗣子はなく、末弟の親隆らを養子に迎えている。 しけたか Category:平安時代後期の貴族 Category:1076年生 Category:1118年没.

新しい!!: 藤原為房と藤原重隆 · 続きを見る »

藤原朝隆

藤原 朝隆(ふじわら の ともたか)は、平安時代末期の公卿。参議・藤原為房の六男。冷泉中納言と号す。.

新しい!!: 藤原為房と藤原朝隆 · 続きを見る »

葉室家

葉室家(はむろけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流の支流。藤原高藤の後裔で、参議藤原為房の二男・顕隆を家祖とする。家名は、3代光頼が洛西葉室(京都市西京区山田)に営んだ別業に因む。分家に姉小路家などがある。.

新しい!!: 藤原為房と葉室家 · 続きを見る »

蔵人

蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。.

新しい!!: 藤原為房と蔵人 · 続きを見る »

蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.

新しい!!: 藤原為房と蔵人頭 · 続きを見る »

長治

長治(ちょうじ)は、日本の元号の一つ。康和の後、嘉承の前。1104年から1105年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と長治 · 続きを見る »

腫瘍

腫瘍(しゅよう、Tumor)とは、組織、細胞が生体内の制御に反して自律的に過剰に増殖することによってできる組織塊のこと。腫瘍ができたことにより、身体に影響を及ぼすことがある。 病理学的には、新生物(しんせいぶつ、Neoplasm)と同義である。なお、Neoplasmはギリシャ語のNeoplasia(新形成)からできた単語である。.

新しい!!: 藤原為房と腫瘍 · 続きを見る »

院司

院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。.

新しい!!: 藤原為房と院司 · 続きを見る »

院近臣

院近臣(いんのきんしん、院の近臣)とは、院政を行う治天の君の側近及びその集団の事を指す。摂関期には諸大夫と呼ばれる下級貴族だったが、院政期に乳母の縁故や荘園寄進・財力奉仕などを通して急速に台頭する。院に従属・密着した存在であり、院の権勢を背景に摂関家や有力寺社と対立した。その大半は大国の受領だったが、一部に有能な実務官僚も含まれる。院近臣間の権力闘争は平治の乱の一因となり、院権力の不安定な後白河院政期には、たびたび解官・追放の対象となった。.

新しい!!: 藤原為房と院近臣 · 続きを見る »

暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

新しい!!: 藤原為房と暗殺 · 続きを見る »

村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

新しい!!: 藤原為房と村上源氏 · 続きを見る »

検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.

新しい!!: 藤原為房と検非違使 · 続きを見る »

正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

新しい!!: 藤原為房と正三位 · 続きを見る »

正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

新しい!!: 藤原為房と正五位 · 続きを見る »

正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

新しい!!: 藤原為房と正四位 · 続きを見る »

氏寺

氏寺(うじでら)とは、飛鳥時代に古墳、特に前方後円墳に代わって在地首長やヤマト王権構成員として君臨してきた有力氏族や王族の新たな祭祀儀礼の場として造られるようになった仏教の寺院である。中世頃からしだいに菩提寺とも呼ばれるようになった。 主な代表例としては聖徳太子が建立した法隆寺(斑鳩寺)や蘇我氏が建立した飛鳥寺、それに秦氏が建立した広隆寺がある。 地方では、その土地の豪族が氏寺を建てているのがみられる。例えば、相模国分寺のように伽藍様式が天平様式より古い法隆寺式伽藍であったり、瓦も白鴎様式であったりするのは、郡司の氏寺を改修して国分寺としたと推定される。また、小田原市千代台の千代廃寺からも白鳳様式の瓦が出土しており、これも郡司の氏寺であったと考えられている。 仏教が、限られた皇族や有力豪族が鎮護国家という形で王権、国家、地域共同体の維持繁栄を祈るための信仰として受容されたものから拡大して個人を救う信仰としても貴族社会全般に浸透し、その信仰が武家や一般民衆まで及ぶ中世に入ると、氏寺も古代のそれとは変化していった。「氏」という一グループの信仰や供養を受ける氏寺のみならず、「氏」を構成する「家」それぞれにも氏寺(家寺と呼ぶべきか)が持たれるようになり、それぞれ氏や家に応じた仏事を執り行うようになった。 仏事といった信仰的・宗教的行為の役割のみならず、氏寺の存続・発展の為の荘園経営や、本来主人たる氏や家へ対しての経済援助や助言といった活動を行う氏寺も出てきた。一方的な保護・援助の対象から、氏や家との密接な関係を保ちつつ、存続と自立的発展を目的としており、氏寺の中世的展開として注目される。.

新しい!!: 藤原為房と氏寺 · 続きを見る »

永久 (元号)

永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

新しい!!: 藤原為房と永久 (元号) · 続きを見る »

永久の変

永久の変(えいきゅうのへん)とは、永久元年(1113年)に発生したとされる鳥羽天皇暗殺未遂事件。下手人とされた童子・千手丸の名前より、千手丸事件(せんじゅまるじけん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 藤原為房と永久の変 · 続きを見る »

永久の強訴

永久の強訴(えいきゅうのごうそ)とは、天永4年・永久元年(1113年)、興福寺の末寺・清水寺の別当に延暦寺で出家した仏師・円勢が任じられたことから閏3月20日に数千人の興福寺大衆が人事の停止を求めて行われた強訴のこと。 円勢は法勝寺・尊勝寺の仏像群の造立を主導しており、白河法皇への奉仕に対する論功行賞ともいえる強引な人事だった。法皇は譲歩し一旦は終結するかに思われたが、興福寺大衆が上洛の折に祇園社神人に暴行を働いたため、29日に延暦寺大衆が報復する。清水寺の堂舎を破壊して神輿をかつぎ、院御所である大炊殿におしかけ興福寺の権少僧都・実覚の流罪を要求した。出羽守・源光国、丹後守・平正盛、左衛門尉・源為義が院御所・内裏を警固した。 その場しのぎの対応で法皇が実覚処分の要求を飲んだことから興福寺が激怒、天台座主・仁豪と法性寺座主・寛慶の流罪、祇園社を春日大社の末社にすること、実覚の配流停止といった3ヵ条を奏上として提出した。大衆の上洛を防ぐため、宇治に平正盛・平忠盛・源重時が、西坂本に源光国・藤原盛重が配備された。宇治において双方が対峙中にたまたま現れた鹿(鹿は春日大社明神の使として信仰されていた)を兵士が射ようとしたことから合戦となり、大衆側に多数の戦死者が出た。宇治に出動した正盛・忠盛・重時は検非違使だったが、検非違使別当・藤原宗忠の指示を介さず法皇の命令で派兵された。検非違使庁・諸衛府の形骸化、院北面の拡大を示す事件だった。 また、延暦寺側の仁豪と寛慶も一枚岩ではなく、寛慶らが清水寺を破壊した責任者として仁豪の天台座主辞任を要求、9月には寛慶を支持する大衆が天台座主の交代を求める強訴を行おうとして、平忠盛・源重時らに阻止される事件も起きている(『長秋記』同年9月30日条)。また、翌年にも延暦寺内で仁豪・寛慶両派の大衆の衝突があり、仁豪が白河法皇に対して寛慶が天台座主を奪おうと企てていると訴えている(『中右記』永久2年7月26日条・『殿暦』永久2年7月27日条)。保安2年(1121年)になって仁豪が死去すると、寛慶が天台座主に任ぜられた。仁豪と寛慶の対立は弟子たちの時代にも引き継がれ、後の祇園闘乱事件では寛慶の弟子である天台座主行玄が仁豪の流れを汲む反対派の襲撃を受ける騒動が発生している他、12世紀後半には両勢力が皇族出身の僧侶を指導者に迎え入れる動きを見せて後の梨本(三千院)・青蓮院両門跡が誕生する遠因ともなった。.

新しい!!: 藤原為房と永久の強訴 · 続きを見る »

永保

永保(えいほう、えいほ)は、日本の元号の一つ。承暦の後、応徳の前。1081年から1083年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と永保 · 続きを見る »

永承

永承(えいしょう)は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1052年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

新しい!!: 藤原為房と永承 · 続きを見る »

源師隆

源 師隆(みなもと の もろたか、承保2年(1075年) - 長承3年(1134年))は平安時代後期の貴族。村上源氏、大納言・源師忠の子。官位は正四位下・大蔵卿。.

新しい!!: 藤原為房と源師隆 · 続きを見る »

源平盛衰記

『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。読み本系統に分類される。(詳しくは『平家物語』を参照).

新しい!!: 藤原為房と源平盛衰記 · 続きを見る »

源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

新しい!!: 藤原為房と源俊房 · 続きを見る »

源頼国

源 頼国(みなもと の よりくに)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。.

新しい!!: 藤原為房と源頼国 · 続きを見る »

源雅実

源 雅実(みなもと の まさざね)は、平安時代後期の公卿。源顕房の長男。久我家の祖。源氏初の太政大臣まで昇進したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。『久我相国記』を著す。.

新しい!!: 藤原為房と源雅実 · 続きを見る »

朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

新しい!!: 藤原為房と朝廷 · 続きを見る »

春宮坊

春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.

新しい!!: 藤原為房と春宮坊 · 続きを見る »

流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

新しい!!: 藤原為房と流罪 · 続きを見る »

日吉大社

摂社樹下神社拝殿(右)と東本宮拝殿(左奥)両宮の参道は直交している。 東本宮 本殿(国宝)西本宮本殿と異なり、隅柱上のみに舟肘木を置く。 日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。境内大宮橋は日本百名橋に選定されている。 全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いとする。西本宮と東本宮を中心とする400,000m2の境内は国の史跡に指定される。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。.

新しい!!: 藤原為房と日吉大社 · 続きを見る »

日記

日記(にっき)とは、日々の出来事を紙などに記録したものである。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅、ある職務、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。.

新しい!!: 藤原為房と日記 · 続きを見る »

日本の大蔵大臣・財務大臣一覧

日本の大蔵大臣・財務大臣一覧(にほんのおおくらだいじん・ざいむだいじんいちらん)では、大蔵省・財務省の長として、近代日本の財務責任を負った歴代の人物をあげる。.

新しい!!: 藤原為房と日本の大蔵大臣・財務大臣一覧 · 続きを見る »

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

新しい!!: 藤原為房と摂家 · 続きを見る »

承保

承保(じょうほ、じょうほう)は、日本の元号の一つ。延久の後、承暦の前。1074年から1076年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と承保 · 続きを見る »

承暦

承暦(じょうりゃく、しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。承保の後、永保の前。1077年から1080年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

新しい!!: 藤原為房と承暦 · 続きを見る »

1049年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1049年 · 続きを見る »

1092年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1092年 · 続きを見る »

1094年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1094年 · 続きを見る »

1096年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1096年 · 続きを見る »

1102年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1102年 · 続きを見る »

1111年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1111年 · 続きを見る »

1113年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1113年 · 続きを見る »

1114年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1114年 · 続きを見る »

1115年

記載なし。

新しい!!: 藤原為房と1115年 · 続きを見る »

4月27日

4月27日(しがつにじゅうななにち、しがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から117日目(閏年では118日目)にあたり、年末まではあと248日ある。誕生花はシラネアオイ、カルミヤ。.

新しい!!: 藤原為房と4月27日 · 続きを見る »

4月2日 (旧暦)

旧暦4月2日(きゅうれきしがつふつか)は旧暦4月の2日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 藤原為房と4月2日 (旧暦) · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »