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賞典禄

索引 賞典禄

賞典禄(しょうてんろく)は、明治維新に功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄である。支給期間によって永世禄、終身禄および年限禄の3種に分類される。.

215 関係: 加賀藩十津川郷士吹上藩吉井友実堀之美堀直明士族壬生基修壬生藩大原重実大原重徳大垣藩大垣新田藩大名大山綱良大久保利通大給恒大田原一清大田原藩大関増勤大野藩大村純熈大村益次郎大村藩奥平昌邁宇和島藩宇都宮藩寺島秋介富山藩小倉藩小笠原忠忱小松宮彰仁親王小松清廉尾張藩山口藩山地元治山内容堂山内豊範山縣有朋山田顕義岡山藩岩下方平岩倉具定岩倉具経岩倉具視岩村高俊島原藩島義勇島津久光島津忠寛...島津忠義上田藩与板藩中山忠能中御門経之中牟田倉之助中津藩世襲万里小路通房三条実美九条道孝平松時厚平戸藩久保田藩久留米藩久我通久広島藩広沢真臣五条為栄井伊直安井伊直憲今治藩伊地知正治伊達宗城弘前藩佐幕佐土原藩佐竹義堯佐竹義理佐賀藩彦根藩徳山藩徳島藩徳川義宜徳川昭武徳川慶勝後藤象二郎志筑藩土井利恒土佐藩土方久元別府晋介備後福山藩内藤頼直公卿六郷政鑑前原一誠前山清一郎前田利同前田慶寧四条隆平四条隆謌犬山藩矢島藩王政復古福岡孝弟福岡藩福井藩秩禄処分秋元礼朝穂波経度立花鑑寛笠間藩箱館戦争篠原国幹細川護久真田幸民烏丸光徳生駒親敬由利公正熊本藩鍋島直大鍋島直虎青山朗須坂藩館林藩西園寺公望西四辻公業西郷従道西郷隆盛高田藩高遠藩谷干城賞与鳥取藩鳥居忠文鷲尾隆聚黒羽藩黒田長知黒田清隆蜂須賀茂韶郡山藩船越衛阿部正桓薩摩藩藤堂高猷醍醐忠敬金禄公債長府藩柳原前光柳沢保申柳河藩恩賞東久世通禧松平定法松平忠和 (島原藩主)松平忠礼松平光則松平茂昭松平春嶽松代藩松前修広松前藩松本藩松浦詮板垣退助桐野利秋桂太郎椎谷藩榊原政敬橋本実梁正親町三条実愛毛利元徳毛利元蕃毛利元敏毛利敬親水戸藩江藤新平江戸幕府池上四郎 (薩摩藩士)池田章政池田慶徳河田景与津崎矩子津軽承昭津藩渡辺清 (政治家)清水谷公考澤宣嘉澤為量木梨精一郎木戸孝允本堂親久本荘藩有馬頼咸有馬氏弘有栖川宮熾仁親王戊辰戦争成瀬正肥戸田忠友戸田忠恕戸田氏共戸田氏良戸沢正実明治明治維新浅野長勲新庄藩旧暦曾我祐準1869年1876年6月2日 (旧暦) インデックスを展開 (165 もっと) »

加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

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十津川郷士

菱十印 十津川郷士(とつかわごうし)は、南大和(奈良県)の十津川郷に在住していた郷士集団。.

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吹上藩

吹上藩(ふきあげはん)は、下野都賀郡吹上(現在の栃木県栃木市吹上町)の吹上陣屋を藩庁とし、江戸時代後期の約30年間存在した藩。摂津有馬家が2代にわたって治めた。石高は1万石。.

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吉井友実

吉井 友実(よしい ともざね、文政11年2月26日(1828年4月10日) - 明治24年(1891年)4月22日)は、日本の武士・薩摩藩士、官僚。正二位勲一等伯爵。通称を仁左衛門、中介、後に幸輔。変名を山科兵部。.

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堀之美

堀 之美(ほり ゆきよし、弘化3年12月12日(1847年1月28日) - 明治15年(1882年)8月27日)は、江戸時代の大名で、越後椎谷藩第13代藩主(最後の藩主)。直之系堀家15代。12代藩主・堀之敏の次男。正室は安藤信正の娘。通称は外之助。従五位下、備中守、右京亮。 文久元年(1861年)3月11日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下備中守に叙任する。後に右京亮に改める。文久3年2月1日、父之敏の死により家督を相続した。元治元年(1864年)7月8日、奏者番に就任する。 慶応4年(1868年)3月2日に江戸に滞在中であった藩主・之美に代わって重臣が北陸道鎮撫総督に出頭して恭順の意向を伝え、翌日に之美も江戸を出て帰国するが、途中の岩鼻陣屋で東山道鎮撫総督に遭遇し、恭順の証として金1000両と米700俵を献上の上、北陸道鎮撫総督の命があるまで領国に留まるように命令を受けた。ところが、領国に戻ると今度は北陸道鎮撫総督から上洛の催促を受けて、同月26日に急遽、京都へ出発する。結果的に、管轄外である筈の東山道鎮撫総督からは金と米を徴収されるだけで見返りを得られなかったという一種の災難に出くわす形になった。 4月11日、上洛し、閏4月1日、参内する。戊辰戦争では、椎谷藩領は北越戦争の激戦地となり、多大な被害を受けた。同年9月、戦災が甚だしく2万両の拝借を願うものの、認められなかった。明治2年(1869年)の版籍奉還により椎谷知藩事に任じられる。明治10年(1877年)2月、政府に対し、同族の堀直弘、堀直明とともに奥田姓へ改めることを願う。明治15年(1882年)に死去したが、子がなく、同族の旧村松藩主家奥田家から直紹(堀直賀の嫡男)を養子に迎えて跡を継がせた。.

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堀直明

堀 直明(ほり なおあきら)は、江戸時代末期の大名。信濃須坂藩の第14代(最後)の藩主。直重系堀家14代。.

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士族

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。.

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壬生基修

壬生 基修(みぶ もとおさ基修を「もとなが」と記すものもあるが、「もとおさ」が正しい。、天保6年3月7日(1835年4月4日) - 明治39年(1906年)3月5日)は、幕末から明治にかけての公卿、政治家。庭田重基の三男で、壬生道吉の養子。室は重子(四辻公績の四女)。.

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壬生藩

壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)。.

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大原重実

大原 重実(おおはら しげみ、1833年10月24日(天保4年9月12日)- 1877年(明治10年)9月6日『明治維新人名辞典』208頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。幼名・常丸。旧名・綾小路俊実(あやのこうじとしざね)『幕末維新大人名事典』上巻、「綾小路俊実」62頁。。.

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大原重徳

大原 重徳(おおはら しげとみ)は、江戸時代後期から明治時代の公家。.

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大垣藩

大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。.

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大垣新田藩

大垣新田藩(おおがきしんでんはん)は、美濃国・三河国両国に所領を持つ藩。大垣藩の支藩で、別名は畠村藩。藩庁は三河国渥美郡畠村(現在の愛知県田原市福江町)にあった(畠村陣屋)が、明治2年(1869年)に美濃国大野郡野村(現在の岐阜県大野郡大野町上秋)に移された。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大山綱良

大山 綱良(おおやま つなよし、文政8年11月6日(1825年12月15日) - 明治10年(1877年)9月30日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。.

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大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。 初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。.

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大給恒

大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、日本の大名、政治家、華族。三河奥殿藩の第8代藩主、のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代で最後の藩主。江戸幕府の老中格、老中、若年寄。明治維新後は伯爵となる。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。.

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大田原一清

大田原 一清(おおたわら かずきよ)は、下野大田原藩の第14代(最後)の藩主。.

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大田原藩

大田原城址 大田原藩(おおたわらはん)は、下野国那須郡に存在した藩。藩庁は大田原城(現在の栃木県大田原市)に置かれた。.

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大関増勤

大関 増勤(おおぜき ますとし)は、江戸時代末期の大名。下野国黒羽藩16代(最後の)藩主。維新後は子爵。.

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大野藩

大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。.

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大村純熈

大村 純熈(おおむら すみひろ)は、肥前大村藩の第12代(最後)の藩主。.

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大村益次郎

大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。.

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大村藩

大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。.

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奥平昌邁

奥平昌邁 奥平 昌邁(おくだいら まさゆき、安政2年4月1日(1855年5月16日) - 明治17年(1884年)11月26日)は、豊前中津藩の最後(第9代)の藩主。中津藩奥平家13代。官位は従五位下、美作守。伯爵。.

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宇和島藩

宇和島城天守 竹輪笹に阿吽の向かい雀の宇和島紋 宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。藩庁は宇和島城に置かれた。.

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宇都宮藩

宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.

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寺島秋介

寺島 秋介(てらしま あきすけ『平成新修旧華族家系大成』下巻、124頁。 / てらじま あきすけ『明治維新人名辞典』645頁。 / てらじま しゅうすけ『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』141頁。、1842年11月17日(天保13年10月15日『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』508-518頁。『明治維新人名辞典』645頁では「天保11年10月15日」。)- 1910年(明治43年)7月30日『明治過去帳』新訂初版・1174頁では「7月28日」、『明治維新人名辞典』645頁では「7月29日」。)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・直方、通称・秀之助。.

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富山藩

富山藩(とやまはん)は、江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩である。石高は10万石、加賀藩の支藩であった。藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。.

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小倉藩

小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。.

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小笠原忠忱

小笠原 忠忱(おがさわら ただのぶ)は、江戸時代末期の大名。豊前国小倉藩の第10代(最後の)藩主。小笠原家宗家11代。 第9代藩主・小笠原忠幹の次男。正室は上杉斉憲の娘。子に小笠原長幹(長男)、小笠原長丕(次男、兄・小笠原貞孚の養子)、小笠原豊(三男)、照子(津軽英麿正室)、百子(尚昌室)。幼名は豊千代丸。号は錦陵。官位は従三位。兄に貞孚(安志藩主)。.

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小松宮彰仁親王

小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう、弘化3年1月16日(1846年2月11日) - 明治36年(1903年)2月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。仁和寺宮嘉彰親王と同一人物。 伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。.

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小松清廉

小松 清廉(こまつ きよかど、天保6年10月14日(1835年12月3日) - 明治3年7月20日(1870年8月16日))は、日本の武士、政治家。位階勲等は贈従四位玄蕃頭。 通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。前名は肝付兼戈。維新の十傑の1人。薩摩藩家老、吉利(2,600石)領主。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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山口藩

山口藩(やまぐちはん)は江戸時代の藩。.

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山地元治

山地元治 山地 元治(やまじ もとはる、やまち もとはる天保12年7月25日(1841年9月10日) - 明治30年(1897年)10月3日)は、土佐藩士、迅衝隊士、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将・従二位・勲一等・功三級・子爵。幼名・忠七。.

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山内容堂

山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1848年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。.

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山内豊範

山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名。土佐藩の第16代(最後の)藩主。爵位は侯爵。三条実美の従弟にあたる。.

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山縣有朋

山県 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。 長州藩領内の蔵元仲間山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、後に小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に副官である奇兵隊の軍監となる。 明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、後進を育成。山県が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。 晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。 自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。.

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山田顕義

山田 顕義学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。-->(やまだ あきよし、顯義、天保15年旧暦10月9日(西暦換算1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、日本の幕末の武士、長州藩士、明治時代の政治家、陸軍軍人。諱ははじめ顕孝、のち顕義と改めた。幼名は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎(ようこうさい)・狂痴(きょうち)・韓峰山人(かんぽうさんじん)、不抜(ふばつ)、空斎(くうさい)など。山田 空斎(やまだ くうさい)としても知られる。階級は陸軍中将、正二位勲一等、伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした、ため「法典伯」と呼ばれた。 長門国出身。吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言がある。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。.

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岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

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岩下方平

晩年の岩下方平 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』1頁。、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。.

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岩倉具定

岩倉 具定(いわくら ともさだ、嘉永4年12月27日(1852年1月18日) - 明治43年(1910年)4月1日)は、日本の政治家。第4代宮内大臣、貴族院議員。.

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岩倉具経

岩倉 具経(いわくら ともつね、1853年7月22日(嘉永6年6月17日)- 1890年(明治23年)10月17日『明治維新人名辞典』127-128頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。幼名・八千麿、八千丸。.

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.

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岩村高俊

志士時代の岩村高俊 岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、江戸時代後期の土佐藩士、明治期の官僚、華族である。初名は精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。.

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島原藩

島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。.

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島義勇

島 義勇(しま よしたけ、文政5年9月12日(1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての佐賀藩士、官吏。札幌市の都市開発に関わり、「北海道開拓の父」と呼ばれる。佐賀の七賢人の一人。.

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島津久光

島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。 位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。.

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島津忠寛

島津 忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩の第11代(最後の)藩主。通称は又之進、徳次郎、佐嘉郎。号は蠖堂。.

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島津忠義

島津 忠義(しまづ ただよし)は、幕末から明治時代の大名、華族。薩摩藩の第12代(最後)の藩主で、島津氏第29代当主。官位は従一位参議。勲等は勲一等、公爵。 幼名は壮之助。通称は又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。 第125代天皇・明仁の曽祖父である。.

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上田藩

上田藩(うえだはん)は、江戸時代に信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)周辺を支配した藩。藩庁は上田城。.

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与板藩

与板藩(よいた はん、旧字体:與板)は、越後国三島郡(現在の新潟県長岡市与板地域周辺)に所在した藩。藩庁は与板陣屋。藩主は初め牧野氏、その後幕領を経て井伊氏。家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高(表高)は初め1万石、1705年(宝永2年)井伊氏が藩主となった際に2万石となっている。.

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中山忠能

中山 忠能(なかやま ただやす、文化6年11月11日(1809年12月17日) - 明治21年(1888年)6月12日)は、江戸時代末期から明治時代前期にかけての公家、政治家である。明治政府の議定。父は藤原北家の花山院流権大納言・中山忠頼、母は正親町三条実同の娘・綱子。子に中山忠愛、中山忠光、正親町公董。娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、明治天皇を産んだことから、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。.

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中御門経之

中御門 経之(なかのみかど つねゆき、文政3年12月17日(1821年1月20日)- 明治24年(1891年)8月27日)は、日本の江戸時代後期(幕末)から明治期の公卿、華族。麝香間祗候、大納言、留守長官等を歴任する。位階勲等は、従一位勲一等。妻は堀河康親の娘・富子(岩倉具視の実姉)。.

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中牟田倉之助

中牟田 倉之助(なかむた くらのすけ、天保8年2月24日(1837年3月30日) - 大正5年(1916年)3月30日)は、日本の海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官、子爵。幼名は武臣。金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。.

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中津藩

中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。.

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世襲

世襲(せしゅう)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。家に伝わる爵位を継承することを襲爵、位階・地位などを世襲することを襲位、先祖伝来の名跡などを世襲することを襲名という。法的な根拠を有する場合に限らず、事実上の場合についていうこともある。近代の政治家の世襲については、世襲政治家も参照のこと。.

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万里小路通房

万里小路 通房(までのこうじ みちふさ、1848年6月27日(嘉永元年5月27日) - 1932年(昭和7年)3月4日『明治維新人名辞典』940頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・政治家。貴族院伯爵議員。.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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九条道孝

九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 昭和天皇の外祖父である。.

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平松時厚

平松 時厚(ひらまつ ときあつ、1845年10月11日(弘化2年9月11日)- 1911年(明治44年)8月22日『平成新修旧華族家系大成』下巻、420-422頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・検察官。新潟県令、元老院議官、貴族院子爵議員、錦鶏間祗候。.

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平戸藩

平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。.

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久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

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久留米藩

久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。 米藩(べいはん)とも称される。.

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久我通久

久我 通久(こが みちつね、天保12年11月28日(1842年1月9日) - 大正14年(1925年)1月10日)は幕末の公卿、明治・大正時代の華族、政治家。侯爵『人事興信録.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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広沢真臣

広沢 真臣(ひろさわ さねおみ、天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日(1871年2月27日))は、日本の武士(長州藩士)、政治家。初名は直温。障岳、向山と号した。維新の十傑の1人。賞典禄は大久保利通・木戸孝允と同等の1,800石で、長州藩の旗手であった。.

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五条為栄

五条 為栄(ごじょう ためしげ、1842年5月1日(天保13年3月21日)- 1897年(明治30年)7月16日『明治維新人名辞典』398-399頁。)は、幕末の公家、明治期の陸軍軍人・内政官僚・政治家。陸軍少将、元老院議官、貴族院子爵議員、錦鶏間祗候。.

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井伊直安

井伊 直安(いい なおやす)は、越後与板藩の第10代(最後の)藩主。直勝系井伊家14代。.

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井伊直憲

井伊 直憲(いい なおのり)は、江戸時代末期の大名で、近江国彦根藩第16代(最後)の藩主(17代藩主、14代当主という数え方もある。参照:彦根藩)。明治維新後に華族(伯爵)となった。 安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。号は稲香軒。最初の妻は有栖川宮幟仁親王の王女・宜子女王。2番目の妻は鍋島直紀の娘。子は井伊直忠(二男)。孫に昭和28年(1953年)から36年間にわたって彦根市長を務めた井伊直愛がいる。.

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今治藩

今治藩(いまばりはん)は、伊予国北中部と島嶼を領有した藩。藩庁は今治城(現在の愛媛県今治市)。.

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伊地知正治

伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ、文政11年6月10日(1828年7月21日) - 明治19年(1886年)5月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。伯爵。諱は季靖。通称は竜右衛門、後に正治、号は一柳。.

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伊達宗城

伊達 宗城(だて むねなり)は、幕末から明治初期にかけての大名・政治家。伊予宇和島藩8代藩主。伯爵。 大身旗本・山口直勝の次男。母は蒔田広朝の娘。正室は佐賀藩主・鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物である。.

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弘前藩

弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。.

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佐幕

佐幕(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれる。.

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佐土原藩

佐土原藩庁が置かれていた佐土原城跡 佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡および児湯郡を領有した藩。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。島津氏支族佐土原島津家が藩主であり、薩摩藩の支藩とされるが、その関係の正確性は薩摩藩との関係を参照。.

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佐竹義堯

佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、出羽岩崎藩の第7代藩主。後に出羽久保田藩第12代(最後)の藩主となった。.

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佐竹義理

佐竹 義理(さたけ よしただ(よしさとの説もある)、安政5年9月4日(1858年10月10日) - 大正3年(1914年)4月26日)は、出羽秋田新田藩(岩崎藩)の第9代(最後)の藩主。陸奥相馬中村藩主・相馬充胤の三男。正室は佐竹義堯の娘。幼名は常丸。子に佐竹義立、佐竹義種。 慶応2年(1866年)2月1日、秋田新田藩主佐竹義諶との養子縁組の話が持ち込まれる。同年2月5日、中村を出発、同年2月13日、江戸の中村藩邸に到着。同年3月2日、秋田新田藩主佐竹義諶の養子となる。佐竹義理は佐竹義諶の甥に当たる。同年3月28日、江戸の秋田新田藩邸に移る。戊辰戦争では養父義諶と行動を共にした。そのため、戦後に恩賞として2000両を与えられた。明治2年(1869年)5月25日、養父義諶の隠居により家督を継ぐ。同年6月に版籍奉還で知藩事となり、居館を岩崎村(湯沢市)に移して藩を岩崎藩と改めた。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官された。 明治9年(1876年)9月、司法省から法学生徒を命じられた。明治10年1月、病気を理由に法学生徒を辞退する。明治17年(1884年)7月、子爵を授けられた。同年7月、学習院別則研修科を卒業。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に選ばれた。また。国光生命保険会社社長となり、実業家として活躍した。大正3年(1914年)4月26日、57歳で死去。墓所は東京都板橋区小豆沢3丁目の総泉寺にある。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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彦根藩

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。.

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徳山藩

徳山藩(とくやまはん)は、江戸時代の藩。長州藩(萩藩)の支藩。当初の名称は下松藩(くだまつはん)。 藩庁は最初は周防国下松(現在の山口県下松市)、後に同国徳山(改称前は野上村。現在の山口県周南市)。藩庁の置かれた徳山陣屋(徳山城)は、飯野陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。.

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徳島藩

徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩があった。.

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徳川義宜

徳川 義宜(とくがわ よしのり、1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日)は、江戸時代末期の大名。尾張国尾張藩の第16代藩主(藩主としては最後の人物)。.

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徳川昭武

京都時代(1866年)の昭武 徳川昭武(1867年) ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武 徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ)。 初名は松平 昭徳。字は子明。号は鑾山。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。.

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徳川慶勝

徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。 弟に15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。 維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年(1878年)、この四兄弟は再会している。 幼名は秀之助、元服後(高須松平家時代)は松平義恕(まつだいら よしくみ)を名乗る。尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕(よしくみ)、のち慶勝と改名した。なお、本項ではすべて慶勝に統一する。.

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後藤象二郎

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の幕末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助・佐々木高行)。 幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。.

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志筑藩

志筑藩(しづくはん)は、常陸国新治郡志筑(現在の茨城県かすみがうら市)周辺を知行した小藩。藩庁は志筑陣屋に置かれた。厳密には藩(大名領)として存在したのは明治維新後の短期間であり、それまでは江戸時代の全期を通じて旗本領であった。.

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土井利恒

土井 利恒(どい としつね、嘉永元年7月19日(1848年8月17日) - 明治26年(1893年)3月29日)は、越前国大野藩の第8代(最後)の藩主。利房系土井家8代。第7代藩主・土井利忠の三男。正室は古河藩主土井利則の娘。子は土井利剛(長男)ほか。従五位上、能登守。明治に至って正四位、子爵。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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土方久元

土方 久元(ひじかた ひさもと、天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日)は、日本の武士(土佐藩士)・政治家である。爵位は伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。.

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別府晋介

別府 晋介(べっぷ しんすけ、弘化4年(1847年)- 明治10年(1877年)9月24日)は、幕末から明治初期の武士(薩摩藩士)、軍人。.

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備後福山藩

福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。.

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内藤頼直

内藤 頼直(ないとう よりなお)は、幕末の大名。信濃高遠藩の第8代(最後)の藩主。高遠藩内藤家13代。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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六郷政鑑

六郷 政鑑(ろくごう まさかね/まさあきら)は、江戸時代末期の大名。出羽国本荘藩11代(最後の)藩主。維新後、知藩事・子爵。.

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前原一誠

宇龍港で捕縛される前原一誠(月岡芳年画) 前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本の武士(長州藩士)。諱は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。位階は贈従四位(大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の1人。.

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前山清一郎

前山 清一郎(まえやま せいいちろう、文政6年(1823年) - 明治29年(1896年)3月27日)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の武士、官吏、開拓者。名は長定。.

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前田利同

前田 利同(まえだ としあつ)は、越中富山藩の第13代(最後)の藩主。のち伯爵。.

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前田慶寧

前田 慶寧(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代(最後)の藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家14代。第12代藩主前田斉泰の長男。.

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四条隆平

四条 隆平(しじょう たかとし、1841年6月10日(天保12年4月21日)- 1911年(明治44年)7月18日『平成新修旧華族家系大成』上巻、713-714頁。)は、幕末の公家、明治期の内政官僚・政治家。第一次奈良県令、元老院議官、貴族院男爵議員、錦鶏間祗候。.

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四条隆謌

四条隆謌卿之墓(妙傳寺) 四条 隆謌(しじょう たかうた)は、江戸時代後期から明治時代にかけての日本の華族、陸軍軍人。官位は陸軍中将正四位勲二等侯爵に昇り、元老院議官・貴族院議員を務める。権大納言四条隆生(たかあり)の二男で、醍醐輝久の孫。安政勤王八十八廷臣の一人。.

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犬山藩

山藩(いぬやまはん)は、尾張国に存在した藩(ただし、藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らいによるものであり、江戸幕府の幕藩体制のもとでは、藩として認められていなかった)。居城は犬山城(白帝城)であり、現在の愛知県犬山市犬山北古券を支配した。.

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矢島藩

島藩(やしまはん)は、江戸時代初期、および明治時代初期の藩の一つ。羽後国(旧出羽国)由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)の矢島陣屋(別称:八森陣屋)に政庁を置いた。藩主は生駒氏。.

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王政復古

王政復古(おうせいふっこ)は、君主によって統治された国家において、クーデターや内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が、何等かの理由によって復活する現象である。復辟(ふくへき)、政体が帝国の場合は帝政復古とも言う。.

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福岡孝弟

福岡 孝弟(ふくおか たかちか、天保6年2月5日(1835年3月3日) - 大正8年(1919年)3月7日)は、日本の幕末から明治時代の土佐藩士、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。通称は藤次、雅号は南蘋。栄典は勲一等子爵。.

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福岡藩

福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。 福岡藩領域図(慶長期).

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福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

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(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。.

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秩禄処分

秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。経過措置として公債が支給された。支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされる(落合、1999)。.

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秋元礼朝

秋元 礼朝(あきもと ひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。上野館林藩の第2代(最後)の藩主。館林藩秋元家11代。.

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穂波経度

波 経度(ほなみ つねのり、1837年12月9日(天保8年11月12日 『明治維新人名辞典』877-878頁。)- 1915年(大正4年)10月『平成新修旧華族家系大成』下巻、498頁。『公家事典』561頁では「1912年4月10日」。)は、幕末の公家、明治期の官僚・政治家。元老院議官、錦鶏間祗候。.

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立花鑑寛

立花 鑑寛(たちばな あきとも)は、筑後柳河藩の第12代(公式第11代、最後の)藩主。 第8代藩主・立花鑑寿の次男である一門家立花右京家の立花寿俶の子。母は立花通厚(7代藩主・立花鑑通の三男)の娘。正室は徳川斉匡の娘・純子(松齢院)。側室が多数いる。子に立花鑑良(長男)、立花寛治(次男)、立花寛正(三男)、立花寛篤(四男)ら。.

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笠間藩

間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.

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箱館戦争

永嶌孟斎画 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。.

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篠原国幹

原 国幹(しのはら くにもと、天保7年12月5日(1837年1月11日) - 明治10年(1877年)3月4日)は日本の武士(薩摩藩士)・陸軍軍人である。位階は贈正五位。.

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細川護久

細川 護久(ほそかわ もりひさ)は、肥後熊本藩の第12代(最後の)藩主(藩知事)。熊本藩細川家13代。.

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真田幸民

真田 幸民(さなだ ゆきもと、嘉永3年4月17日(1850年5月28日)- 明治36年(1903年)9月8日)は、信濃松代藩の第10代(最後)の藩主。 伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男。正室は大村純熈の次女・隆子(利宇・真隆院)。継室は伊東祐相の娘・宏子、島津久光の養女(竹内治則の娘)・輯子(おさこ、真浄院)。官位は従二位、信濃守。子は真田幸正(長男)、真田幸久(次男)、清棲幸保(三男)、松子(島津忠麿正室)、田鶴子(大村純英正室)、信子(藤堂高紹正室)など。.

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烏丸光徳

烏丸 光徳(からすまる みつえ、天保3年7月20日(1832年8月15日) - 明治6年(1873年)8月15日)は、幕末・明治期の政治家。尊王攘夷派公家として活動し、明治維新後は初代東京府知事を務めた。.

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生駒親敬

生駒 親敬(いこま ちかゆき)は、幕末の交代寄合旗本、明治初期の大名、出羽矢島藩主。.

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由利公正

由利 公正(ゆり きみまさ(こうせい)、文政12年11月11日(1829年12月6日) - 明治42年(1909年)4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、財政家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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鍋島直大

鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。 佐賀藩第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。.

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鍋島直虎

鍋島 直虎(なべしま なおとら、安政3年2月9日(1856年3月15日)- 大正14年(1925年)10月30日)は、肥前小城藩の第11代(最後の)藩主。明治時代から大正時代にかけての政治家。 肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男。母は側室・木村矩欽の娘。正室は第10代小城藩主鍋島直亮の娘・春子、継室は南部利剛の娘。子は鍋島直庸(長男)、鍋島直顕(次男)、娘(本多忠昭正室)、娘(毛利元良室)。官位は従二位、紀伊守、子爵。幼名は欽八郎。 先代藩主の直亮に男児が無かったため、文久元年(1861年)9月にその婿養子となる。元治元年(1864年)、直亮の死去により跡を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与して秋田の戦いなどで武功を挙げ、その恩賞として明治2年(1869年)8月に5000両を与えられた。それより2か月前の6月には版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されている。 明治6年(1873年)7月、明治政府からイギリス留学を許可される。同年8月、実兄・鍋島直大や実弟・鍋島直柔と共にロンドンへ遊学する。明治8年6月、2年間の留学予定であったものの、1年の延長を願い出ている。帰国後に外務省御用掛となった。 明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に当選した。5期連続で当選した。大正14年(1925年)10月30日に死去した。享年70。法号は威徳院殿全機直雄大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。.

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青山朗

青山 朗(あおやま あきら、嘉永元年6月29日(1848年7月29日) - 大正元年(1912年)7月24日)は、江戸時代後期(幕末)の尾張藩士、明治初期の軍人、政治家(衆議院議員、5代目名古屋市長)。 幼名は増次郎。尾州海東郡西条村(現海部郡大治町)出身。最終階級は陸軍少将。栄典は従四位勲三等。.

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須坂藩

坂藩(すざかはん)は、信濃国高井郡(現在の長野県須坂市常盤町)にあった藩。政庁は須坂陣屋。.

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館林藩

林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.

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西園寺公望

1871年〜1880年、パリ留学時代 西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月22日(1849年12月6日)グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している - 昭和15年(1940年)11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32) 。 戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。 その後、伊藤の立憲政友会の総裁に就任した。明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。.

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西四辻公業

西四辻 公業(にしよつつじ きみなり/きんなり、天保9年3月5日(1838年3月30日) - 明治32年(1899年)10月7日)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した勤王派公家、政治家。父は権中納言・高松公祐。西四辻公恪の養子となる。西四辻家は藤原北家閑院流四辻家の分家にあたり、家格は羽林家・新家。.

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西郷従道

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ佐々木隆(2002)p.96。 文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・2・3・7・8・9・10代)、内務大臣(第4・5・18代)、貴族院議員を歴任した。.

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西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は日本の武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と変更。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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高遠藩

遠藩(たかとおはん)は、信濃国南部(現在の長野県伊那市高遠町)に存在した藩。居城は高遠城。.

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谷干城

谷 干城(たに たてき / かんじょう、天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した、土佐藩士、軍人、政治家。通称は申太郎、守部。号は隈山。 第2代学習院院長。東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。位階勲等爵位は陸軍中将正二位勲一等子爵。 熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。.

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賞与

賞与(しょうよ)とは、定期給の労働者に対し定期給とは別に支払われる、特別な給料のことで、ボーナス やお給金とも呼ばれる。欧米ではいわゆる特別配当・報奨金の類である。 日本では、基本的には夏と冬の年2回支給される場合が多いが、企業によっては年1回や年3回といったところもある。また、もともと制度として導入していない場合もある。.

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鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。.

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鳥居忠文

鳥居 忠文(とりい ただぶみ)は、江戸時代の大名。下野壬生藩の第8代(最後)の藩主。壬生藩鳥居家12代。.

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鷲尾隆聚

鷲尾 隆聚(わしのお たかつむ、1843年1月25日(天保13年12月25日) - 1912年(明治45年)3月4日)は、幕末から明治期の公家。.

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黒羽藩

黒羽藩(くろばねはん)は、下野国那須郡に存在した藩の一つ。藩庁は黒羽陣屋(現在の栃木県大田原市前田)に置かれた。.

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黒田長知

黒田 長知(くろだ ながとも)は、筑前福岡藩の第12代藩主、初代知藩事。.

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黒田清隆

黒田 清隆(くろだ きよたか、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆」ないし「黑田淸隆」である。、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。 薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。.

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蜂須賀茂韶

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名、明治・大正時代の華族。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。.

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郡山藩

郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.

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船越衛

船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年7月13日) - 大正2年(1913年)12月23日)は、広島藩出身の明治期の官僚・貴族院議員。男爵。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆(八百十郎)。幼名は洋之助。号は松窓(松操、しょうそう)。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。.

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阿部正桓

阿部 正桓(あべ まさたけ、嘉永4年12月29日(1852年1月20日) - 大正3年(1914年)8月19日)は、備後福山藩の第10代(最後の)藩主。阿部家宗家14代。 浅野懋昭(安芸広島藩主・浅野重晟の孫)の三男。官位は従二位、爵位は伯爵。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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藤堂高猷

藤堂 高猷(とうどう たかゆき)は、伊勢津藩の第11代藩主。藤堂家宗家11代。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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醍醐忠敬

醍醐忠敬(だいご ただゆき、1849年11月18日(嘉永2年10月4日) - 1899年(明治32年)5月23日)は、幕末・維新期の公家。忠順の次男。兄弟には、兄の醍醐忠告と、弟の一条忠貞、醍醐忠直がいる。子に醍醐忠重、為子(浅野忠純妻、後に小倉英季妻)、信子(水野忠亮妻)、静子(木辺孝慈妻)がいる。.

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金禄公債

金禄公債(きんろくこうさい)は、明治維新で、秩禄処分の一環として、禄制の廃止により強制的に禄を廃止したすべての華族・士族にその代償として交付された公債である。数年前に、自主的に禄を返上したものに交付された秩禄公債とは異なる。.

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長府藩

藩庁である櫛崎城跡(現・関見台公園) 長府藩(ちょうふはん)は、江戸時代の藩のひとつである。長州藩の支藩で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)ともいう。須原屋武鑑の居城・在所表記では当初は長門長府で、宝暦年中より長門府中に改称されている。藩庁は櫛崎城(長府城、長府陣屋)に置かれた。.

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柳原前光

柳原 前光(やなぎわら さきみつ)は、幕末から明治時代にかけての公家。華族。伯爵。柳原家21代当主。大正天皇の伯父。.

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柳沢保申

柳沢 保申(やなぎさわ やすのぶ)は、幕末から明治期の大名、華族。大和郡山藩の第6代(最後)の藩主。郡山藩柳沢家7代。藩主としてよりの事蹟より、明治以降の奈良県の繁栄に貢献した業績のほうが高く評価されている人物である。.

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柳河藩

柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。.

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恩賞

恩賞(おんしょう)とは、近世以前に行われた合戦において、主君が武士が戦功を挙げた家人や武士に対して表彰し、所領もしくは官途状、感状、物品の授与、格式の免許、官職への任官の推薦を行うこと(関連用語→恩給)。.

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東久世通禧

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、天保4年11月22日(1834年1月1日) - 明治45年(1912年)1月4日『平成新修旧華族家系大成』下、384-385頁。)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。 七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族(伯爵)。号は竹亭、古帆軒。.

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松平定法

松平 定法(まつだいら さだのり)は、伊予今治藩の第10代(最後)の藩主。定房系久松松平家10代。.

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松平忠和 (島原藩主)

松平 忠和(まつだいら ただかず)は、肥前島原藩の第8代(最後)の藩主。江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜の実弟。島原藩深溝松平家14代。.

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松平忠礼

松平 忠礼(まつだいら ただなり)は、江戸時代幕末から明治期の大名・華族(子爵)。信濃上田藩の第7代(最後)の藩主、伊賀守系藤井松平家9代。明治維新後はアメリカ合衆国に留学し、外務省に勤務。また、式部官を務めた。.

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松平光則

松平 光則(まつだいら みつひさ)は、信濃松本藩の第9代(最後)の藩主。戸田松平家14代。明治維新後に戸田 光則(とだ みつのり)と改めた。.

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松平茂昭

松平 茂昭(まつだいら もちあき)は、幕末から明治初期の大名、華族。越後糸魚川藩第7代藩主(越前松平家分家9代)、越前福井藩第17代の藩主であり一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第15代となる。、維新後は福井藩知事、侯爵となる。.

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松平春嶽

松平春嶽 松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)は、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉えると第14代となる。。 春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。 田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。.

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松代藩

松代城 旧松代藩藩邸。昭和初期に神奈川県藤沢市の竜口寺へ移築された(現在の竜口寺大書院) 松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)、越前松平家、真田家が就封した。なお本項では、城地は異なるが同じ領地を支配した川中島藩についても記載する。.

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松前修広

松前 修広(まつまえ ながひろ)は、江戸時代末期の大名。蝦夷地松前藩(館藩)最後の(14代)藩主。子爵。.

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松前藩

松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.

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松本藩

松本城(現存天守) 松本藩(まつもとはん)は、江戸時代に信濃国に存在した藩。藩庁は松本城。延宝年間の人口は90,000人。.

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松浦詮

松浦 詮(まつら あきら、天保11年10月18日(1840年11月11日) - 明治41年(1908年)4月13日)は、肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主。松浦家第37代当主、茶人。書家。麝香間祗候、伯爵。 松浦秋(第10代藩主・松浦熈の三男。母は政野氏)の長男。正室は松浦晧の娘、継室は青山幸哉の娘。子は松浦厚(長男、伯爵家を継ぐ)、松浦靖(次男、分家の子爵家を継ぐ)、稲葉正縄(三男)、佐竹義準(四男)、大隈信常(五男、侯爵)、本多正復(六男、子爵)、松浦廉(七男)、井上勝純(八男、子爵)、長女・宣子(前田利嗣夫人)、次女・逸子(松平頼温夫人)、三女・都子(伊達宗基夫人)、正子(松井康義夫人)、冏子(伊達武四郎夫人)。官位は従五位下、肥前守。.

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板垣退助

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。.

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桐野利秋

桐野 利秋(きりの としあき、天保9年(1838年)12月 - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。諱は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作(晋作、新作)。初め中村 半次郎(なかむら はんじろう)と称した。 桐野利秋の書と伝えられる掛け軸など複数に、「鴨溟(瞑)」という雅号が記されている。.

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桂太郎

桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階勲等功級爵位は、従一位大勲位功三級公爵。諱は清澄(きよずみ)。幼名は寿熊、左中。号は海城。元老・井上馨とは義理の親子の関係。 児玉源太郎、川上操六とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。 台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第10・11・12・13代)、内閣総理大臣(第11・13・15代)、内務大臣(第22代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第25代)などを歴任した。首相在任日数2886日はこれまでで最も長い。元老の一人であったという説もある.

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椎谷藩

椎谷藩(しいやはん)は、越後国刈羽郡椎谷(現在の新潟県柏崎市椎谷)に陣屋を構え、周辺を領有した藩。藩庁は椎谷陣屋に置かれた。.

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榊原政敬

榊原 政敬(さかきばら まさたか、天保14年(1843年)2月 - 昭和2年(1927年)3月7日)は、幕末の大名で、明治時代の華族。越後高田藩第6代(最後)の藩主。のち子爵。榊原家14代当主。 榊原政礼(高勝院・伊織・3代藩主・榊原政令の三男)の長男。正室は有馬温純の娘・久仁子。継室は前田慶寧の娘・禮子。子は重子(伊藤忠寿室)、彜子(榊原政和正室)、鑒子(榊原政和継室)。兵部大輔、式部大輔。.

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橋本実梁

橋本 実梁(はしもと さねやな、天保5年4月5日(1834年5月13日) - 明治18年(1885年)9月16日)は、攘夷派の公卿。橋本家19代当主で橋本実麗の養子。戊辰戦争でも戦った功臣で、のち式部寮に籍を置いた。晩年に伯爵に叙勲され、元老院議官となる。幣原内閣で大蔵大臣を務めた澁澤敬三は孫にあたる。.

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正親町三条実愛

正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる、文政3年10月30日(1820年12月5日) - 明治42年(1909年)10月20日)は、日本の江戸時代後期から明治時代の公卿、政治家、麝香間祗候。改名して嵯峨実愛。.

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毛利元徳

毛利 元徳 / 定広(もうり もとのり / さだひろ)、天保10年9月22日(1839年10月28日) - 明治29年(1896年)12月23日)は、長州藩の第14代(最後の)藩主。のち公爵。位階は従一位。勲等は勲一等。.

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毛利元蕃

毛利 元蕃(もうり もとみつ、文化13年7月25日(1816年8月18日) - 明治17年(1884年)7月22日)は、周防徳山藩の第9代(最後)の藩主。就隆系毛利家9代。.

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毛利元敏

毛利 元敏(もうり もととし、嘉永2年5月3日(1849年6月22日)- 明治41年(1908年)4月2日)は、長門長府藩の第14代(最後)の藩主。 第12代藩主・毛利元運の六男。母は土屋彦直の娘・欽麗院。同母姉に毛利宗家の長州藩主・毛利元徳の正室・安子がいる。正室は正親町三条実愛の娘(毛利敬親の養女)・保子。側室に美濃子がいる。官位は従二位。幼名は宗五郎。子に毛利元雄、乃木希典の養子となった乃木元智、毛利邦樹、多栄子(三条公輝室)らがいる。.

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毛利敬親

亀山公園) 毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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江藤新平

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、幕末の佐賀藩士、明治時代の政治家。幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。「維新の十傑」「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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池上四郎 (薩摩藩士)

池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。名は貞固、通称は四郎左衛門というが、明治になってからは四郎と称した。.

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池田章政

池田 章政(いけだ あきまさ)は、備中鴨方藩の第9代藩主、のち備前岡山藩の第10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家の第12代当主。栄典は従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。 肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。正室は戸田氏正の娘鑑子。子は政保(長男)、詮政(次男)。備前守、侍従、左近衛権少将。幼名は満次郎。鴨方藩主時代の名乗りは池田 政詮(いけだ まさのり)。 頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。.

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池田慶徳

池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末の大名。因幡国鳥取藩12代(最後)の藩主、のち鳥取知藩事。鳥取藩池田家宗家14代。 常陸水戸藩主・徳川斉昭の五男で、母は側室の松波春子。15代将軍・徳川慶喜の異母兄にあたる。.

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河田景与

河田 景与(かわた かげとも、文政11年10月18日(1828年11月24日) - 明治30年(1897年)10月12日)は、日本の武士(鳥取藩士)、政治家。幕末期に尊王攘夷の志士として活動し、明治維新後は鳥取県権令(初代)、元老院議官、貴族院議員を歴任した。名(諱)は初め祺景。通称は左久馬(佐久馬)、権次郎。号は研田。爵位は子爵。.

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津崎矩子

『近世人物誌 近衛家の老女村岡』(月岡芳年画) 津崎 矩子(つざき のりこ、天明6年(1786年) - 明治6年(1873年)8月23日)は、幕末の近衛家の老女、勤王家。女中名は最初田鶴、須賀野、後に村岡局と称した。位階は贈従四位。父は大覚寺門跡家臣津崎左京、兄は大覚寺門跡諸大夫の津崎元矩。 寛政10年(1798年)より近衛家に仕えて、中臈を経て老女となり、村岡局を名乗った。近衛忠熙に仕えて信頼を得て、また勤皇活動に熱心で水戸藩家老・安島帯刀や薩摩藩士・西郷隆盛、勤王僧・月照、梅田雲浜などの勤王家と盛んに交流した。島津斉彬の養女・篤姫(後の天璋院)が近衛忠熙の養女として江戸幕府13代将軍徳川家定との婚儀のおり、既に亡くなっていた正室・郁姫に代わり養母役を務めた。安政5年(1858年)の安政の大獄では、京都町奉行所の厳しい取調べの後、関東に送られ、押込30日に処せられた。文久3年(1863年)にも、尊王攘夷運動の活発化に伴い嫌疑を受け、幕府に捕えられている。維新後は賞典禄20石を賜り、郷里の北嵯峨の直指庵で余生を送った。明治6年(1873年)8月23日に同地で死去。享年88。明治24年(1891年)に従四位が追贈された。.

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津軽承昭

津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、陸奥国弘前藩の第12代(最後)の藩主。和歌にも優れていたと言われている。.

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津藩

津藩(つはん)は伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3,000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。.

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渡辺清 (政治家)

渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)は、江戸時代末期の大村藩士、明治時代の官僚、政治家。元は諱を武勝、通称を清左衛門と名乗った。号は東山。 福岡県令、元老院議官、貴族院議員、福島県知事を歴任した。また華族に列し、男爵に叙された。.

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清水谷公考

京都にて(中央が公考) 清水谷 公考(しみずだに きんなる)は、幕末から明治時代の公家。.

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澤宣嘉

澤 宣嘉(さわ のぶよし)は、幕末期の公卿、明治の政治家。.

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澤為量

澤 為量(さわ ためかず、1812年4月25日(文化9年3月14日) - 1889年(明治22年)8月9日)は幕末・明治初期の公卿。官位は参議・外務卿・正二位子爵。.

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木梨精一郎

木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。.

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木戸孝允

木戸 孝允(きど たかよし)/ 桂 小五郎 (かつら こごろう、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士として討幕に努め、薩長同盟を推進。明治維新に貢献し、維新の三傑の一人に挙げられた。維新政府では総裁局顧問専任や参議を務め、版籍奉還、廃藩置県を実現。岩倉使節団にも同行した。西南戦争中に病死。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。.

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本堂親久

本堂 親久(ほんどう ちかひさ)は、江戸時代後期の旗本・大名、明治時代の華族。常陸志筑藩主。男爵。.

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本荘藩

本荘藩(ほんじょうはん)は、出羽国(後の羽後国)の由利郡にあった藩。藩庁は本荘城(現在の秋田県由利本荘市)に置かれた。.

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有馬頼咸

有馬 頼咸(ありま よりしげ)は、筑後久留米藩の第11代(最後)の藩主。久留米藩有馬家12代。 幕末期、久留米藩主としての時期の諱は慶頼(よしより)であるが、本項の記述では明治元年(1868年)改名以後の頼咸で統一する。.

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有馬氏弘

有馬 氏弘(ありま うじひろ)は、下野吹上藩の第2代(最後)の藩主。氏倫系有馬家10代。.

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有栖川宮熾仁親王

有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。 有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られる#三島由紀夫のニ・ニ六事件76-77頁。だが和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。主旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。 明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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成瀬正肥

成瀬 正肥(なるせ まさみつ)は、江戸時代末期の尾張藩・附家老。尾張国犬山藩9代(最後の)藩主。明治維新後、子爵。.

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戸田忠友

戸田 忠友(とだ ただとも)は、下野宇都宮藩の第7代(最後)の藩主。宇都宮藩戸田家13代。.

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戸田忠恕

戸田 忠恕(とだ ただゆき、ただくみ、ただひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。下野国宇都宮藩第6代藩主。戸田氏25世孫にして田原戸田家14代当主。田原戸田家の嫡流。宇都宮藩戸田家12代。4代藩主戸田忠温の六男で5代藩主戸田忠明の弟。正室は戸田光則(松平光則)の娘。養子に忠友。 安政3年(1856年)、兄・忠明の死で跡を継ぎ、従五位下越前守に任官した。幼少だったために家老の間瀬和三郎(後の戸田忠至)や県勇記の補佐を受け、忠至の活躍もあって歴代天皇陵修理を建議して山陵奉行の任務に当たり、主に家老2人が中心となって京都、大和、河内、近江各地の山陵を調査し、修理にあたった。 忠恕は尊王の志に篤く、元治元年(1864年)に天狗党の乱が起きた折、筑波山に出撃した宇都宮藩兵が幕府の命令が下る前に帰陣してしまったことや、元々藩内に藩主一門の戸田光形を始めとする宇都宮天狗党なる攘夷勢力を抱えていたことなどもあり、反勢力に関しては既に処分済みではあったものの幕府の怒りを買うこととなり、再出陣を願い出たが、領国7万7000石のうち2万7000石を減じて5万石とし、忠恕は隠居謹慎の上養嗣子の忠友に家督を譲り、田原戸田家は陸奥棚倉藩に転封とする命が下されることとなった。しかし、県と岡田真吾が山稜補修で親交のあった正親町三条実愛と忠至に温情を請い、その力によってこの処分は延期、中止された。 慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の折は新政府軍に与し、大鳥圭介・土方歳三ら旧幕府軍により攻められ宇都宮城は落城したが、新政府軍の加勢を得て宇都宮城を再び奪回(宇都宮城の戦い)。忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが、病にて果たせず同年5月、22歳の若さで病死した。墓は田原戸田家菩提寺である宇都宮の英厳寺。戒名は霊光院殿神岳忠烈大居士。没後、従三位を贈位された。.

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戸田氏共

戸田 氏共(とだ うじたか)は、江戸時代末期(幕末)の大名、明治から昭和期の華族。美濃国大垣藩第11代藩主。大垣藩戸田家12代。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。官職はオーストリア=ハンガリー全権公使、式部長官など。.

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戸田氏良

戸田 氏良(とだ うじよし)は、美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の第8代藩主。のち美濃野村藩主。大垣藩戸田家分家8代。.

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戸沢正実

戸沢 正実(とざわ まさざね)は、出羽新庄藩の第11代藩主。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと)は、日本の江戸時代末から昭和初期の大名、政治家、外交官、実業家、社会事業家。 安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。.

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新庄藩

新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した藩。居城は新庄城。.

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旧暦

旧暦(きゅうれき)とは改暦があった場合のそれ以前に使われていた暦法のことである。改暦後の暦法は新暦。多くの国ではグレゴリオ暦が現行暦のため、グレゴリオ暦の前の暦法を指す。.

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曾我祐準

曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日(1844年2月13日) - 昭和10年(1935年)11月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将勲一等子爵。.

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1869年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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6月2日 (旧暦)

旧暦6月2日(きゅうれきろくがつふつか)は、旧暦6月の2日目である。六曜は先勝である。.

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