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佐土原藩

索引 佐土原藩

佐土原藩庁が置かれていた佐土原城跡 佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡および児湯郡を領有した藩。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。島津氏支族佐土原島津家が藩主であり、薩摩藩の支藩とされるが、その関係の正確性は薩摩藩との関係を参照。.

71 関係: 城主大名お家騒動増上寺士族外城制宮崎市宮崎県宇和島藩島津家久島津久寿島津久信島津久雄島津久柄島津久永島津以久島津彰久島津忠寛島津忠将島津忠徹島津忠高島津忠興島津忠雅島津忠持島津豊久島津貴子島津貴久島津氏島津惟久三田 (東京都港区)一ツ瀬川廃藩置県仙台藩伊達宗贇伯爵佐土原城佐土原町征夷大将軍嘉永内分分知内親王児湯郡八戸藩元禄国立公文書館知藩事石崎川綱町三井倶楽部美々津県版籍奉還盛岡藩...芝 (東京都港区)飫肥藩貞享鹿児島県都於郡城薩摩藩那珂郡 (日向国)金丸惣八陪臣江戸幕府戊辰戦争昭和天皇新田分知日向国旗本寄合席支藩慶長1686年1690年1849年1869年 インデックスを展開 (21 もっと) »

城主大名

城主大名(じょうしゅだいみょう)とは、近世江戸時代における大名の格式の一つであり、大名家をその居地・居城で区別する国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)の5階級のうち、国許の屋敷に城が認められている大名をいう。その他、大名統制には、並大名が諸大夫(従五位下)である官位が四品(従四位下)以上に叙任される家格であったり、伺候席によって区別されていた。慶応3年(1867年)で151家。 享保2年(1717年)の『武家諸法度』によると、城主は櫓・塀・門以下は届出をし許可を得たうえで補修することが可能で、石塁・石壁が壊れたときは奉行に報告し、その差図を受けることとなっていた。このことから徳川幕藩体制下における城の定義は石垣の上に塀と櫓を有しているものとされていた。城主の領知の居地を居城といい、陣屋に居地を置く在所と区別して表現した。.

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お家騒動

お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.

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増上寺

大殿の扁額 増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。.

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士族

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。.

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外城制

入来麓(現薩摩川内市入来町) 外城制(とじょうせい)とは薩摩藩(鹿児島藩)が行った地方支配の制度。1784年(天明4年)、この呼称を郷と改めた。.

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宮崎市

ェラトン・グランデ・オーシャンリゾート(154m、43階)。2016年現在、九州一の高さを持つ超高層建築物となっている。 宮崎市(みやざきし)は、宮崎県の南東部にある都市で同県の県庁所在地である。 フェニックス・シーガイア・リゾート、青島、プロ野球・プロサッカーキャンプといった数多くの観光資源を持つ観光都市であり、九州・沖縄地方では長崎市に次いで7番目に人口が多い。1998年(平成10年)から中核市に指定されている。.

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宮崎県

宮崎県(みやざきけん)は、九州地方南東部に位置する日本の県である。県庁所在地は宮崎市。 県木である「フェニックス」に代表される南国情緒豊かな気候から、1960年代には日南地区を中心とした新婚旅行のメッカだった。現在も春季のプロ野球などのキャンプ地として知られる。.

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宇和島藩

宇和島城天守 竹輪笹に阿吽の向かい雀の宇和島紋 宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。藩庁は宇和島城に置かれた。.

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島津家久

島津 家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。.

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島津久寿

島津 久寿(しまづ ひさとし、寛文4年閏5月17日(1664年7月10日)- 元禄6年8月3日(1693年9月2日))は、日向国佐土原藩の第5代藩主。島津久富(第2代藩主・島津忠興の次男)の長男。母は薩摩藩家老・鎌田正統の娘。正室は島津氏。養子に島津惟久、島津久武。官位は従五位下、式部少輔。.

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島津久信

島津 久信(しまづ ひさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・垂水家2代当主 (4代とも)。 文禄4年12月27日(1596年1月26日)、大隅国清水より転じて鹿屋・大姶良所々8千石余を賜う。慶長9年(1604年)2月、祖父・島津以久の上洛の際に、徳川家康より佐土原を与えられた。この時、以久は本領の大隅の地を久信に譲った。慶長9年12月15日(1605年2月2日)に垂水城に移る。 島津宗家16代当主・島津義久には、跡継ぎとなる男子が無く、また、義久の三女・亀寿と島津忠恒(家久)との間にも子は無かったため、義久は外孫である久信も後継者の1人と考えたが、家臣の反対にあい頓挫した。元和2年(1616年)隠居を命じられ、家督を久敏に譲る。 寛永14年5月11日(1637年7月3日)鹿屋にて死去、享年53。.

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島津久雄

島津 久雄(しまづ ひさたか)は、日向国佐土原藩の第3代藩主。.

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島津久柄

島津 久柄(しまづ ひさもと)は、日向佐土原藩の第8代藩主。.

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島津久永

島津 久永(しまづ ひさなが、1934年(昭和9年)3月29日 - )は、日本の実業家。前財団法人山階鳥類研究所理事長。 ソニー株式会社取締役、財団法人ソニー教育振興財団専務理事、財団法人世界自然保護基金ジャパン副会長などを歴任した。.

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島津以久

島津 以久(しまづ もちひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。日向国佐土原藩の初代藩主。初名は幸久(ゆきひさ)、次いで同音で征久とし、以久(もちひさ)を「ゆきひさ」と読むのは旧名からきた誤読。.

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島津彰久

島津 彰久(しまづ てるひさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。垂水家の祖とされる。 永禄10年(1567年)、島津以久(のち日向国佐土原藩初代藩主)の長男として誕生。 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いなどで軍功をあげる。天正15年(1587年)6月、島津義久が上洛した際にその供をし、そのまま父・以久の人質として数年間を京で過ごした。薩摩国に帰還後は清水城に在城した。 文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役は、本家・島津忠恒に従い朝鮮へ渡海するが、文禄4年(1595年)に当地の唐島(巨済島)で病により陣没した。家臣・安田次郎兵衛が殉死している。また、彰久の病死により川上忠実が軍代となった。.

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島津忠寛

島津 忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩の第11代(最後の)藩主。通称は又之進、徳次郎、佐嘉郎。号は蠖堂。.

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島津忠将

島津 忠将(しまづ ただまさ)は、戦国時代の武将。島津氏の家臣。相州家第4代当主。島津忠良の子。子に日向佐土原藩初代藩主・島津以久。.

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島津忠徹

島津 忠徹(しまづ ただゆき)は、日向佐土原藩の第10代藩主。.

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島津忠高

島津 忠高(しまづ ただたか、慶安4年3月4日(1651年4月23日) - 延宝4年8月11日(1676年9月18日))は、日向佐土原藩の第4代藩主。第3代藩主・島津久雄の長男。母は島津光久の娘。正室は亀井茲政の娘。側室は竹井満直の娘。子は島津惟久(長男)。官位は従五位下、飛騨守。幼名は又四郎。万寿丸。堯英坊。国久、久英とも名乗る。 江戸で生まれる。寛文3年(1663年)、父の死去により跡を継ぐ。1666年(寛文6年)、幕府に反抗的であった日蓮宗不受不施派の日講が佐土原に配流されるとその講義を受け、やがて帰依した。藩政においては藩士の格式や知行の制定など、人事面の確立に尽力している。 延宝4年(1676年)8月11日、26歳で死去。死後、子の万吉丸(後の惟久)は幼少のため、従弟の久寿が養子となって跡を継ぐこととなった。法号は松厳院殿隆誉崇雲良心居士。墓所は宮崎県宮崎市佐土原町の高月院。 たたたか たたたか Category:1651年生 Category:1676年没.

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島津忠興

島津 忠興(しまづ ただおき)は、江戸時代前期の武将・大名。日向国佐土原藩2代藩主。 慶長4年(1599年)、初代藩主・島津以久の三男として誕生。 慶長15年(1610年)、父・以久が死去したため、その跡を継いだ。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦したが、翌年の大坂夏の陣には遅参して間に合わなかったとされる。 寛永14年(1637年)、死去。跡を長男・久雄が継いだ。 たたおき たたおき Category:1599年生 Category:1637年没.

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島津忠雅

島津 忠雅(しまづ ただまさ)は、日向佐土原藩の第7代藩主。.

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島津忠持

島津 忠持(しまづ ただもち)は、日向佐土原藩の第9代藩主。宗藩の島津重豪の従弟であり、義理の甥。幼名は勝丸。通称は又之進。官位は従五位下淡路守。.

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島津豊久

島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。名は初めは島津 忠豊で、後に改名した庄内の乱の顛末を記した『庄内軍記』までは「忠豊」の名で書かれている。。.

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島津貴子

1950年(昭和25年)9月24日、兄姉の継宮明仁親王(現・今上天皇)・順宮 厚子内親王(現・池田厚子)とともに。左が清宮。 島津 貴子(しまづ たかこ、1939年(昭和14年)3月2日 - )は、日本の元皇族。昭和天皇と香淳皇后の第五皇女。旧名は、清宮 貴子内親王(すがのみや たかこないしんのう)。お印は橘。 東久邇成子と、久宮祐子内親王(夭折)、鷹司和子、池田厚子は姉、今上天皇と常陸宮正仁親王は兄にあたる。(7人きょうだいの末子)。勲等は勲一等。.

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島津貴久

島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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島津惟久

島津 惟久(しまづ ただひさ)は、日向佐土原藩の第6代藩主。.

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三田 (東京都港区)

三田(みた)は、東京都港区の町名。現行行政地名は三田一丁目から三田五丁目。三田一~三丁目は芝地区総合支所管内、三田四・五丁目は高輪地区総合支所管内に属している。郵便番号は108-0073(高輪局管区)。.

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一ツ瀬川

一ツ瀬川(ひとつせがわ)は、宮崎県中部を流れる一ツ瀬川水系の本流で、二級河川。 上流域の西米良村は、平家の落武者が隠棲したといわれる隠れ里「米良荘」が有名。河口域にある日向大橋下河川敷では、8月下旬に花火大会(サマーフェスティバル in 一ツ瀬)が催される。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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伊達宗贇

三代藩主 伊達宗贇の墓 (龍華山等覚寺東墓所) 伊達 宗贇(だて むねよし、寛文5年1月15日(1665年3月1日宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105)- 宝永8年2月18日(1711年4月5日宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105))は、伊予宇和島藩の第3代藩主。 陸奥仙台藩第3代藩主・伊達綱宗の三男宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105。母は三沢氏(初子)宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105。正室は伊達宗利(宇和島藩第2代藩主)の次女・三保姫宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105。側室に佐藤氏、高橋氏、鴇田氏、中里氏、宮部氏など。仙台藩第4代藩主伊達綱村の次々弟にあたる宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104。 子は宗相(長男)、村年(三男)、村顕(四男)、桑折宗恒(六男)。官位は従四位下、遠江守、紀伊守、侍従。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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佐土原城

佐土原城(さどわらじょう)は、現在の宮崎県宮崎市佐土原町上田島にある城。江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。 佐土原城跡の名称で2004年(平成16年)9月30日に国の史跡に指定された。.

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佐土原町

佐土原町(さどわらちょう)は、2005年12月31日まで宮崎県の中南部に存在していた宮崎郡の町。 2006年1月1日、宮崎市に編入され消滅。宮崎市の合併特例区となり、5年後の2011年1月1日に地域自治区に移行した。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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内分分知

内分分知(ないぶんぶんち)は、江戸時代における武家(特に大名、旗本)の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領知の表高を減らすことなく、新規に分家を興す形態をいう。新田分知は内分分知の形態の一つである。.

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内親王

内親王(ないしんのう、うちのみこ、ひめみこ、Princess)は、皇族女子の身位または称号の一つ。現行の皇室典範では天皇からみて直系で2親等以内の者に与えられる。かつては、親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。.

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児湯郡

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八戸藩

八戸藩(はちのへはん)は、陸奥国三戸郡八戸に藩庁を置いた南部氏族の藩。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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国立公文書館

国立公文書館(こくりつこうぶんしょかん)とは公文書を一般公開している国立機関。本頁では日本の国立公文書館について記述する。.

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知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。.

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石崎川

石崎川(いしざきがわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。.

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綱町三井倶楽部

綱町三井倶楽部(つなまちみついくらぶ)は、東京都港区三田二丁目(旧芝三田綱町)に存在する建造物及び庭園である。通常、三井倶楽部(みついくらぶ)と略して呼ばれる。 一般公開はされていないが三井グループ関係者の倶楽部として用いられている。日向坂を登りきった場所にあり、隣に駐日オーストラリア大使館、正面には株式会社かんぽ生命保険 東京サービスセンターがある。三田二丁目の斜面と高台に位置し、高台上に建築物が存在し、南側の斜面及び低地に庭園が広がる。2009年頃まで、敷地内に佐土原藩藩邸の長屋がそのまま現存していた。.

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美々津県

美々津県(みみつけん)は1871年(明治4年)に日向国北部を管轄するために設置された県。現在の宮崎県北部にあたる。.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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芝 (東京都港区)

芝(しば、中国語:芝/zhī)は、東京都港区の町名。または旧東京市芝区の範囲を指す地域名である。.

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飫肥藩

飫肥藩(おびはん)は、日向国那珂郡と宮崎郡の一部(現在の宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。なお藩主家の日向伊東氏は備中国岡田藩主家の備中伊東氏と同族である。.

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貞享

貞享(じょうきょう)は日本の元号の一つ。天和の後、元禄の前。1684年から1688年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

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都於郡城

都於郡城(とのこおりじょう)は現在の宮崎県西都市にある山城。築城は1337年(建武4年)伊東祐持による。別名、浮船城。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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那珂郡 (日向国)

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金丸惣八

金丸 惣八(かねまる そうはち、文政8年(1825年)5月5日 - 明治31年(1898年)8月8日)は、江戸時代後期から明治時代の武士、治水家。.

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陪臣

陪臣(ばいしん)は、武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称。又者(またもの)、又家来(またげらい)とも呼ばれた。 他の国々の同様の身分についても用いられる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.

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新田分知

新田分知(しんでんぶんち)は、江戸時代における武家の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領地ではなく入封後新規に開発した領地(新田)を分知する方式である。これにより、本家の表高を減少させずに分家を創設する事が出来る。大名および旗本の分家の際に多く認められる。大名家の新田分知において分家も1万石以上の石高がある場合、分家のことを○○新田藩と称することがある。以下においては、大名家の事例を中心に記述するが、特に注釈しない場合は旗本の場合も同様である。 新田分知の形態には、.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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支藩

支藩(しはん)は、江戸時代の藩主家の一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与する(分知)などして新たに成立させた藩のことである。このほか有力家臣の所領も支藩という場合がある。 幕府からの朱印状が本家とは別に発給されている場合は、本藩-支藩関係にはないという考え方もある。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1686年

記載なし。

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1690年

記載なし。

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1849年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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