目次
113 関係: 城興寺 (京都市)、南会津郡、大宮御所、天台座主、天皇、女房、宮内庁、守覚法親王、宇治市、寿永二年十月宣旨、小川 (上松町)、小国町 (新潟県)、山城国、山門寺門の争い、岡幸二郎、上松町、三千院、三善康信、下郷町、一期分、九条兼実、九条良輔、平家物語、平家物語 (アニメ)、平安時代、平氏、平清盛、平清盛 (NHK大河ドラマ)、平滋子、京都府、亮子内親王、仁安 (日本)、仁平、令旨、以仁王 (小惑星)、延暦寺、建久、式子内親王、後白河天皇、後鳥羽天皇、応保、土佐国、北大路欣也、北陸宮、園城寺、八条院領、公家、皇子、皇位簒奪、皇族、... インデックスを展開 (63 もっと) »
- 1180年没
城興寺 (京都市)
城興寺(じょうこうじ)は、京都市南区にある真言宗の寺院。山号は瑞寶山(ずいほうざん)。本尊は千手観音。歴史的名称では成興寺とも書く。洛陽三十三所観音霊場第22番札所。
南会津郡
福島県南会津郡の範囲(1.下郷町 2.檜枝岐村 3.只見町 4.南会津町) 南会津郡(みなみあいづぐん)は、福島県の郡。本州にある郡としては最も面積が広い。 以下の3町1村を含む。
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大宮御所
大宮御所(おおみやごしょ)とは、皇太后・太皇太后(崩御した天皇の皇后)の御所(女院御所)を指す。なお上皇(退位した天皇)が存命中の場合は、その御所を仙洞御所と言う。
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天台座主
天台座主(てんだいざす)は、日本の仏教天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。
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天皇
天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。
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女房
女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女官もしくは女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。 天皇に仕える「上の女房」は、朝廷の公的な女官である後宮十二司を含むが、その他の女房は高位の女性使用人ではあるものの、必ずしも常に公的な官職ではない。「上の女房」の筆頭は典侍(事実上の女官長)で、掌侍もこれに次ぐ。中宮(正妃)に仕える女房は「宮の女房」と呼ばれ、宣旨を筆頭に、御匣殿・内侍などが存在した。私的(半公的)な女房の長である宣旨は、中宮だけではなく東宮(皇太子)や斎院、場合によっては斎宮・上皇・摂政・関白などにも置かれた。
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宮内庁
宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関のひとつ。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為である外国大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務および御璽・国璽の保管等を所管する内閣府の機関である。 なお、宮内庁は以前は総理府の外局(総理府設置法17条)であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条、第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法第48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
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守覚法親王
守覚法親王(しゅかくほっしんのう、久安6年3月4日(1150年4月3日)- 建仁2年8月26日(1202年9月13日))は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての皇族・僧。父は後白河天皇。母は藤原季成の娘・成子。真言宗仁和寺第6世門跡。以仁王の同母兄にあたる。
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宇治市
宇治市(うじし)は、京都府の南に位置する市。 京都盆地の東南部にあり、旧山城国宇治郡の南側と、久世郡の北東側を市域とする。 北側は京都市と、東側は醍醐笠取山地により大津市と接する。市域の東半分は標高200-400メートルの丘陵地であり、そこには標高602メートルの千頭岳がある。 当市の古来の集落や近・現代の住宅街は宇治川沿いに発展した歴史がある。琵琶湖から流れ出る唯一の川である瀬田川は南に向かったあと南西に向きを変え、琵琶湖から約16キロメートルの場所、滋賀県と京都府の境界でその名を宇治川と変え、向きも変え北西方向に流れるが、その谷口にあたる場所に、古来の中心集落である宇治地区がある。その北方に位置する宇治川右岸地区には、奈良街道沿いに生じた諸集落を核とした住宅地が広がる。宇治川左岸には、かつて存在した巨椋池の湖岸線に沿う形で集落および農耕地、住宅地、商工業地が広がる。滋賀と京都府の境界から宇治市の中心に架かる宇治橋まではおよそ9キロメートルである。
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寿永二年十月宣旨
寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)は、寿永2年(1183年)10月に朝廷から源頼朝に下された宣旨。頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したものとされる。寿永の宣旨とも。
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小川 (上松町)
小川(おがわ)は、木曽川水系の一級河川。長野県木曽郡上松町を流れる。木曽川本川に合流する1次支川。 小川に沿った谷筋は「小川入」「小川山」などと称し、古くから木曽ヒノキなどの重要な産地とされてきた。これを「日本三大美林」の一つとする場合もある。 また、小川が木曽川へ注ぐ付近一帯を「小川」と呼ぶようになった。明治期には一帯が「小川村」として独立村になっていた時期がある。小川村はのちに合併により駒ヶ根村、さらに上松町となり、今日は上松町大字小川となっている。この地区には寝覚の床や森林鉄道記念館などがある。
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小国町 (新潟県)
長岡市における平成の大合併。当町は南西部に位置する。 小国町(おぐにまち)は、新潟県の中南部に位置していた刈羽郡の町。長岡市への通勤率は14.4%(平成12年国勢調査)。2005年4月1日に周辺の町村とともに長岡市に編入合併した。
山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
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山門寺門の争い
山門寺門の争い(さんもんじもんのあらそい)とは、天台宗が山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分裂し、長年にわたって両派の間で行われた抗争のこと。山寺両門の争乱、山門寺門の相剋などともいう。 9世紀後半に円珍が第5世天台座主に就くと台密が隆盛し、以降しばらくの間は円珍の弟子が天台宗の要職を占めるようになる。これに対し10世紀後半に円仁派の良源が第18世座主に就くと密教に重きを置く円珍派と対立し、円仁派(山門)と円珍派(寺門)が藤原摂関家や朝廷を巻き込んで争うようになった。 11世紀に至り、山門派が比叡山の戒壇から寺門派を排除すると両派の対立が決定的になり、互いに擁した僧兵による武力行使が繰り返し行われた。特に、圧倒的な人数を擁した山門派の山法師は園城寺を繰り返し焼討した。その後に両派の対立は、権門寺院の取り込みを図る武家の政権争いに巻き込まれ、平安末期には源氏と平氏に、中世には北朝と南朝に分かれて争った。
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岡幸二郎
岡 幸二郎(おか こうじろう、1967年10月10日 - )は、福岡県大川市出身のミュージカル俳優。柳川高等学校、大東文化大学外国語学部中国語学科卒業。元劇団四季所属。 マッサージ免許を持っている。
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上松町
風越山から望む上松町と台ヶ峰・御嶽山 上松町(あげまつまち)は長野県の南西部に位置する木曽郡の町。本項では町制前の名称である駒ヶ根村(こまがねむら)についても述べる。 町の東端には中央アルプスの最高峰である木曽駒ヶ岳がそびえ、町のほぼ中央を木曽川が流れている。 木曽郡中北部の町村(木曽福島町、木祖村、日義村、開田村、王滝村、三岳村)と合併協議していたが2004年9月26日に合併の是非を問う住民投票を実施。結果は反対多数だったため、合併をせず自立を目指すことになった。
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三千院
三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺院。山号は魚山(ぎょざん)。本尊は薬師如来。三千院門跡とも称する。 京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗山門派の三門跡寺院の1つに数えられている。
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三善康信
三善 康信(みよし の やすのぶ、保延6年(1140年)- 承久3年8月9日(1221年8月27日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家。三善康光または三善康久の子。鎌倉幕府の初代問注所執事。入道後の法名は善信(ぜんしん)。
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下郷町
下郷町(しもごうまち)は、福島県会津地方に位置し、南会津郡に属する町。
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一期分
一期分(いちごぶん)とは、中世において、対象者の一生涯(一期)に限定して知行が認められた所領のこと。死後には惣領に返還されるか、指定された相手(未来領主)に譲渡されるものとされた。 なお、一期分が与えられた領主を一期領主(いちごりょうしゅ)と呼ぶ。
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九条兼実
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。
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九条良輔
九条 良輔(くじょう よしすけ)は、鎌倉時代前期の公卿。関白・九条兼実の四男。官位は従一位・左大臣。八条と号す。
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平家物語
『平家物語』(へいけものがたり)は日本における作者不詳の軍記物語である。鎌倉時代に成立したとされ、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などが描かれている。
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平家物語 (アニメ)
『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代の軍記物語である『平家物語』を描いたテレビアニメ。作家の古川日出男が現代語訳した『平家物語』を底本としている。制作はサイエンスSARU。2021年9月15日よりFODで先行配信され、2022年1月から3月までフジテレビの深夜アニメ枠『+Ultra』ほかでテレビ放送された。 物語の語り部となる琵琶法師の少女「びわ」が主人公に据えられており、彼女と平家の人々の交流を軸に、叙事的な史実に留まらず、時代に翻弄されながらも懸命に生きた人々の群像劇として描かれる。
平安時代
平安時代(へいあんじだい、、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念と古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。
見る 以仁王と平安時代
平氏
平氏(たいらうじ、へいし、へいじ たいらし)は、日本の皇別氏族で、平(たいら)の姓を賜姓された氏族。姓(カバネ)は朝臣。 平安時代前期に創設された氏族であり、桓武平氏を含め4つの流派がある。家紋は揚羽蝶を中心に使用した。
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平清盛
平 清盛(たいら の きよもり、)は、平安時代末期の日本の武将、公卿、貴族、棟梁。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。
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平清盛 (NHK大河ドラマ)
『平清盛』(たいらのきよもり)は、2012年1月8日から12月23日まで放送されたNHK大河ドラマ第51作。大河ドラマシリーズ生誕50周年記念作品。平清盛の生涯を中心に、壇ノ浦の戦いまでの平家一門の栄枯盛衰を語り部・源頼朝の視点を通して描く。 2005年(平成17年)の『義経』以来となる平安時代を描いた作品であるとともに、1972年(昭和47年)の『新・平家物語』以来40年ぶりに平清盛を主役とした作品となった。松山ケンイチのNHK大河ドラマ初主演作。 大河ドラマの枠を拡大する形で前年まで放送された『坂の上の雲』の終了に伴い、通年放送の大河ドラマはこの作品から再び12月終了に戻った。
平滋子
平 滋子(たいら の じし/しげこ、1142年〈康治元年〉- 1176年8月14日〈安元2年7月8日〉)は、日本の第77代天皇・後白河天皇の女御、皇太后。女院。高倉天皇の母(国母)。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。 後白河天皇の譲位後の妃。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。
見る 以仁王と平滋子
京都府
京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方に位置する府。府庁所在地は京都市。
見る 以仁王と京都府
亮子内親王
亮子内親王(りょうし(あきこ)ないしんのう、久安3年(1147年) - 建保4年4月2日(1216年4月27日))は、第77代後白河天皇の第1皇女。母は藤原成子(高倉三位。藤原季成の女)。伊勢斎宮、のち安徳天皇・後鳥羽天皇の准母・皇后宮、女院。院号は殷富門院(いんぷもんいん)、法名は真如観。同母弟妹に守覚法親王・以仁王・好子内親王・式子内親王・休子内親王がいる。
見る 以仁王と亮子内親王
仁安 (日本)
は、日本の元号の一つ。永万の後、嘉応の前。1166年から1169年までの期間を指す。この時代の天皇は六条天皇、高倉天皇。
見る 以仁王と仁安 (日本)
仁平
仁平(にんぺい/にんぴょう、)は、日本の元号の一つ。久安の後、久寿の前。1151年から1154年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。
見る 以仁王と仁平
令旨
令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。 中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 歴史上有名な令旨としては、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」があるが、これは皇太子でも親王でもない以仁王が命令の正統性を高めるためにあえて親王の身位を冒して発したもので、本来ならば王の命令書は「御教書」と呼ばれるべきものだった。
見る 以仁王と令旨
以仁王 (小惑星)
以仁王(もちひとおう、5650 Mochihito-o)は、小惑星帯に位置する小惑星である。1990年12月10日、静岡県にあった観測施設、ヤキイモステーションで名取亮と浦田武が発見した。 平安時代末期の皇族で、平家追討の令旨を発した以仁王に因んで命名された。
延暦寺
延暦寺(えんりゃくじ、)は、滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。正式には比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と号する。 平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、(1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。 比叡山、または叡山(えいざん)とも呼ばれる。このほか、興福寺を指す南都に対して北嶺(ほくれい)、園城寺を指す寺門に対して山門の異称もある。
見る 以仁王と延暦寺
建久
建久 (けんきゅう、) は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1199年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。
見る 以仁王と建久
式子内親王
式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう)、久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、日本の皇族。賀茂斎院。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。法号承如法。
見る 以仁王と式子内親王
後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉 - 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉)は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。 鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり院政を行った。その治世は保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築した。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。
見る 以仁王と後白河天皇
後鳥羽天皇
後鳥羽天皇(ごとばてんのう、、1180年8月6日〈治承4年7月14日〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。諱は尊成(たかひら・たかなり)。 高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。
見る 以仁王と後鳥羽天皇
応保
は、日本の元号の一つ。永暦の後、長寛の前。1161年から1163年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。
見る 以仁王と応保
土佐国
土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。高知県にあたる。
見る 以仁王と土佐国
北大路欣也
北大路 欣也(きたおおじ きんや、本名:淺井 将勝(あさい まさかつ)、1943年〈昭和18年〉2月23日 ‐ )は、日本の俳優・声優。 京都府京都市紫竹出身。身長174cm、血液型A型。事務所はホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。 父は戦前の時代劇から戦後の東映時代劇全盛時代の映画俳優・市川右太衛門。芸名の由来は右太衛門の邸宅が京都市内の北大路に在ったことから、右太衛門が「北大路の御大」と呼ばれていたため。同世代の俳優仲間からは「きんやちゃん」と呼ばれている。
見る 以仁王と北大路欣也
北陸宮
北陸宮(ほくろくのみや読みを「ほくろくのみや」とすることは『訳註大日本史』第2巻巻之49本紀第49等を典拠とする。、永万元年(1165年) - 寛喜2年7月8日(1230年8月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の皇族。後白河天皇の第三皇子・以仁王の第一王子とされるただし『本朝皇胤紹運録』では第67世天台座主である僧・真性を第一王子としており、北陸宮に相当する人物は認められない。また国立国会図書館所蔵本では第三王子の僧・法円を北陸宮に見立てていると思われる書き込みが認められるが確証はない。。以仁王の令旨に応じて挙兵した木曾義仲に奉じられ、義仲入京後は安徳天皇に代る「新主践祚」の候補に推されたが実らなかった。木曾宮・還俗宮・加賀宮・野依宮・嵯峨の今屋殿などとも呼ばれる。
見る 以仁王と北陸宮
園城寺
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)。本尊は弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。 2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
見る 以仁王と園城寺
八条院領
八条院領(はちじょういん-りょう)は、中世の荘園公領制下における王家領荘園群の一つ。
見る 以仁王と八条院領
公家
日本の公家 公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、源氏・平氏・藤原氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。
見る 以仁王と公家
皇子
皇子(みこ、おうじ)は、皇帝・天皇の息子。ただし広義には男女を問わないがかかる用法はまれである。皇子に対して皇帝・天皇の娘を皇女(おうじょ)という。なお国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがあり、「王」は皇帝の直下の地位を表す。
見る 以仁王と皇子
皇位簒奪
皇位簒奪(こういさんだつ)とは、本来皇位継承資格が無い者が天皇の地位(皇位)を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から皇位を奪取する事。ないしそれを批判的に表現した語。 本来皇位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる。
見る 以仁王と皇位簒奪
皇族
皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく、Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。
見る 以仁王と皇族
玉葉
『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。
見る 以仁王と玉葉
王 (皇族)
王(おう、英:Prince)は、皇族の身位または称号の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。敬称は殿下。
見る 以仁王と王 (皇族)
福島県
福島県(ふくしまけん)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は福島市。
見る 以仁王と福島県
綾部市
綾部市(あやべし)は、京都府北部に位置する市。 絹織物で有名で、繊維・機械産業が盛んだった。グンゼの発祥の地でも知られる。1950年(昭和25年)市制施行。
見る 以仁王と綾部市
義経 (NHK大河ドラマ)
『義経』(よしつね)は、2005年1月9日から12月11日に放送された44作目のNHK大河ドラマ。原作は宮尾登美子で、脚本は金子成人が手掛けた。主演は滝沢秀明。
真性
真性(しんしょう、仁安2年(1167年)- 寛喜2年6月14日(1230年7月25日))は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての天台宗の僧。後白河天皇の第三皇子以仁王の第二皇子。
見る 以仁王と真性
猶子
猶子(ゆうし)は、実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)と読み、中国における本義は兄弟の子。 身分や家格の高い仮親の子に位置付けられることによって社会的に上昇したり、一家・同族内あるいは何らかの関係を有する他氏族間の結束強化のために行われた。つまり、官位の昇進や上の家柄の相手との婚姻を容易にしたり、親子関係を結ぶことで両者一族の融和や統制を強化するといった目的で結ばれたようである。一般的に家督や財産などの相続・継承を目的としない点で養子と異なっており、子の姓は変わらず、仮親が一種の後見人としての役割を果たすなど、養子と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。ただし、実際の用例においては明確な区別はなく、猶子と呼んでいても相続がなされる場合もあり、養子とまったく同義で使用されることもあった。
見る 以仁王と猶子
生存説
生存説(せいぞんせつ)とは、ある時期に死亡したとある人物、あるいは絶滅した生物は実はその時点以後も生存していた、もしくはまだ現在も生存中なのではないかと推測する仮説のこと。
見る 以仁王と生存説
相楽郡
京都府相楽郡の位置(1.笠置町 2.和束町 3.精華町 4.南山城村) 相楽郡(そうらくぐん、さがらかのこおり)は、京都府(山城国)の郡。 以下の3町1村を含む。
見る 以仁王と相楽郡
鎌倉殿の13人
『鎌倉殿の13人』(かまくらどのの13にん)は、2022年(令和4年)1月9日から12月18日まで放送されたNHK大河ドラマ第61作。鎌倉幕府の二代執権となった北条義時を主人公に、平安末期から鎌倉初期を描く。
見る 以仁王と鎌倉殿の13人
道尊 (以仁王王子)
道尊(どうそん、安元元年(1175年)- 安貞2年8月5日(1228年9月4日))は、平安時代末期の皇族・僧侶。以仁王(後白河天皇第三皇子)の第二王子。母は伊予守高階盛章の娘(一説に伊予守平教盛の娘である三位局)。北陸宮の異母弟にあたる。若宮・安井宮ともいう。
親王宣下
親王宣下(しんのうせんげ)、または内親王宣下(ないしんのうせんげ)とは、皇族の子女に親王および内親王の地位を与えることである。ここでは、主に日本の皇室について記載する。
見る 以仁王と親王宣下
高倉天皇
高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日〈応保元年9月3日〉- 1181年1月30日〈治承5年1月14日〉)は、第80代天皇(在位: 1168年3月30日〈仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉)。諱は憲仁(のりひと)。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇・後鳥羽天皇らの父。
見る 以仁王と高倉天皇
高倉神社 (木津川市)
高倉神社(たかくらじんじゃ)は、京都府木津川市に鎮座する神社。
高倉通
高倉通(蛸薬師通付近より北方向を望む) 高倉通(たかくらどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。平安京の高倉小路にあたる。 北は丸太町通から南は十条通に至る。途中、渉成園により中断している。高倉跨線橋で大きくカーブしており、竹田街道に接続している。以南は筋違いとなっている。
見る 以仁王と高倉通
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
見る 以仁王と越後国
蜷川式胤
1879年の蜷川(昭和8年〈1933〉発行 「蜷川式胤 追慕録」蜷川第一編より) 蜷川 式胤(にながわのりたね、1835年6月18日(天保6年5月23日) - 1882年(明治15年)8月21日)は、明治初期の官僚、好古家。 文部省博物館(現在の東京国立博物館)の開設に尽力し、また、日本の陶器を海外に紹介した。
見る 以仁王と蜷川式胤
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。
見る 以仁王と興福寺
閑院流
閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。
見る 以仁王と閑院流
藤原多子
藤原 多子(ふじわら の まさるこ)は、近衛天皇の皇后。次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。養父は藤原頼長、養母は藤原幸子。令和現在においても最後の太皇太后である。
見る 以仁王と藤原多子
藤原大智
藤原 大智(ふじわら だいち、5月1日 - )は、日本の男性声優。香川県出身。ベルプロダクション所属。
見る 以仁王と藤原大智
藤原季成
藤原 季成(ふじわら の すえなり)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公実の七男。官位は正二位・権大納言。加賀大納言と号す。
見る 以仁王と藤原季成
藤原忠綱 (秀郷流)
藤原 忠綱(ふじわら の ただつな、生年不明 - 寿永2年(1183年))は、平安時代末期の武士。上総介・藤原忠清の嫡男。平氏政権の有力家人の一人。弟に忠光、光景、景清がいる。 治承3年(1179年)11月、平清盛のクーデター(治承三年の政変)に伴う除目により左衛門少尉に任ぜられ、検非違使宣旨も受けた。翌年5月、平氏追討の兵を挙げた以仁王・源頼政の追討(以仁王の挙兵)にあたって源兼綱らを斬り、その勲功により従五位下に叙位され、それ以後、上総大夫判官と呼ばれた。寿永2年(1183年)、源義仲の追討にも参加したが、倶利伽羅峠の戦いで戦死した。
藤原忠成
藤原 忠成(ふじわら の ただなり)は、平安時代後期の貴族。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。官位は正五位下・民部大輔。
見る 以仁王と藤原忠成
藤原公光
藤原 公光(ふじわら の きんみつ)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家閑院流、権大納言・藤原季成の長男。官位は従二位・権中納言。
見る 以仁王と藤原公光
藤原成子
藤原 成子(ふじわら の しげこ、生年不詳 - 安元3年3月11日(1177年4月5日))は、平安時代後期・後白河天皇後宮の女官(典侍)。権大納言・藤原季成の娘。別名高倉三位局。 待賢門院璋子の姪で、後白河天皇とは従姉妹にあたる。邸宅が三条高倉にあったことから、高倉三位と呼ばれた。天皇の即位前から10年余にわたって寵愛を受け、守覚法親王、以仁王、亮子内親王(殷富門院)、式子内親王、好子内親王、休子内親王ら二男四女を相次いでもうけたが、建春門院のように正式な妃(女御)として重んじられることはなかった。安元3年(1177年)、従三位で薨去。 しけこ Category:後白河天皇 category:平安時代の后妃後宮 Category:12世紀日本の女性 Category:12世紀生 Category:1177年没。
見る 以仁王と藤原成子
藤原景家
藤原 景家(ふじわら の かげいえ)は、平安時代末期の伊勢国度会郡古市荘を本拠とする武将。父は藤原景綱。藤原忠清の兄。平清盛・宗盛に仕えた譜代の有力家人。『玉葉』(治承4年11月21日条)では平家の「後見」「有勢の武勇の者」と称されている。伊藤景家とも。
見る 以仁王と藤原景家
藤原景高
藤原 景高(ふじわらの かげたか、生年不詳 - 寿永2年5月11日(1183年6月2日))は、平安時代後期の武士。父は藤原景家。左衛門少尉。
見る 以仁王と藤原景高
還俗
還俗(げんぞく)は、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。復飾(ふくしょく)とも。 自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。 仏教用語の一つであるが、日本語においては仏教以外の宗教(キリスト教など)においても一般に用いられている。
見る 以仁王と還俗
臣籍降下
臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような(広義における)皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言う。身分制度が廃止された日本国憲法下においては、皇籍を喪失することを「降下」と表現するのは不適切とされ、皇籍離脱(こうせきりだつ)が用いられる。本記事では、一旦臣籍に下ったもの(あるいはその子孫)が再び皇族となる皇籍復帰についても記載する。
見る 以仁王と臣籍降下
長岡市
長岡市(ながおかし)は、新潟県の中南部(中越地方)に位置する市。県内では新潟市に次いで第2位の人口を持ち、中越地方では最多の人口を有する。施行時特例市に指定されており、長岡まつり大花火大会で知られている。1906年(明治39年)に市制施行。
見る 以仁王と長岡市
長野県
長野県(ながのけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は長野市。 令制国名の信濃国にちなみ、信州とも呼ばれている。海に面していない内陸県であり、日本アルプスを始め大規模な山岳地があるため可住地面積率は低い。関東甲信越(広域関東圏)の一つであり北陸新幹線(長野新幹線)や中央本線、中央自動車道等で結ばれている首都圏(特に東京)との繋がりが深い。名古屋を中心とした中京圏からのアクセスも良好である(特に愛知県と隣接する県南部)。 キャッチフレーズはしあわせ信州。
見る 以仁王と長野県
院宣
院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。
見る 以仁王と院宣
暲子内親王
暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した。
見る 以仁王と暲子内親王
柿澤勇人
柿澤 勇人(かきざわ はやと、1987年10月12日 - )は、日本の俳優。神奈川県出身。
見る 以仁王と柿澤勇人
東京国立博物館
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する、日本の国立博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。1872年(明治5年)に創設された日本最古かつ最大の博物館であり、本館、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。 2023年4月時点で、国宝89件、重要文化財649件を含む収蔵品の総数は約12万件 東京国立博物館。日本政府は同年5月時点で美術・工芸品のうち902件を国宝に、10,820件を重要文化財に指定しているので、当館は美術・工芸品の国宝の約10%、重要文化財の約6%を収蔵していることになる。また2023年3月末時点でこれとは別に、国宝54件、重要文化財260件を含む総数2,668件の寄託品を収蔵している。これらの収蔵品のうち総合文化展(平常展)に一度に展示している文化財の件数は約3,000件で、それぞれの文化財は4週間から8週間ごとに展示替えされており、2020年度の平常展の展示替え件数は5,041件、展示総件数は9,048件。
見る 以仁王と東京国立博物館
東国
alt。
見る 以仁王と東国
松殿基房
松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原 基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿 関白(まつどの かんぱく)。
見る 以仁王と松殿基房
永万
は、日本の元号の一つ。長寛の後、仁安の前。1165年から1166年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇、六条天皇。
見る 以仁王と永万
河内祥輔
河内 祥輔(こうち しょうすけ、1943年10月 - )は、日本の歴史学者。北海道大学名誉教授、元法政大学文学研究科教授。中世史専攻。
見る 以仁王と河内祥輔
河出書房新社
株式会社河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)は、日本の出版社である。 本社は東京都渋谷区千駄ヶ谷にあるが、2024年3月に移転(5月7日より新宿区東五軒町2-13)が公表された。 3代目社長の河出朋久は歌人でもあり、歌集『白葉集』1 - 3(短歌研究社、2004年 - 2006年)がある。佐佐木幸綱、高野公彦、小野茂樹など学生歌人を社員登用していたこともある。
見る 以仁王と河出書房新社
治天の君
治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、皇室の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇(上皇)を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。ただし、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。
見る 以仁王と治天の君
治承
は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。
見る 以仁王と治承
治承三年の政変
治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)は、治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。
見る 以仁王と治承三年の政変
法親王
法親王(ほうしんのう、ほっしんのう)とは、日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の呼称。 すでに親王宣下を受けている親王が出家(入道)した場合は入道親王と呼んで区別した。出家した親王に対しては、他にも法師親王(ほうししんのう)、禅師親王(ぜんじしんのう)などの呼称が存在している。
見る 以仁王と法親王
源兼綱
源 兼綱(みなもと の かねつな)は、平安時代末期の武将。丹後守源頼行の次男(あるいは三男、五男)。源頼政の養子。
見る 以仁王と源兼綱
源光長
源 光長(みなもと の みつなが)は、平安時代末期の美濃源氏の武将。源光信の子。土岐光長とも記される。通称は「出羽判官」。
見る 以仁王と源光長
源義仲
源 義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
見る 以仁王と源義仲
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。
見る 以仁王と源頼朝
源頼政
源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。清和源氏としては初めて従三位に叙せられた。後世においても、源三位(げんざんみ)の通称が伝わる(同時代的に「源三位」と称された人物は頼政に限らない)。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され推挙により、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。 しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。
見る 以仁王と源頼政
源氏
源氏(みなもとうじ/げんじ)は、日本の天皇の皇子・皇孫の中から臣籍降下し、「源(みなもと)」の本姓を授けられた氏族を指す。嵯峨天皇以降に現れた。 姓(カバネ)は朝臣(源朝臣(みなもとのあそん))。新撰姓氏録や華族の宗族制度における分類は皇別。
見る 以仁王と源氏
朝廷 (日本)
朝廷(ちょうてい)とは、日本にかつて存在した政権および政府である。大宝元年(701年)の大宝律令施行までには政治体制が成立し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により廃止された。
見る 以仁王と朝廷 (日本)
木村昴
木村 昴(きむら すばる、1990年6月29日 - )は、日本の声優、タレント、ラッパー、俳優、司会者、ナレーター。 ドイツ出身。アトミックモンキー所属。天才劇団バカバッカ主宰。
見る 以仁王と木村昴
木津川市
木津川市(きづがわし)は、京都府の南部に位置する市。 奈良時代に恭仁京が置かれた。京都府の市としては最南端に位置し、南は奈良県奈良市に接している。
見る 以仁王と木津川市
木曽郡
長野県木曽郡の範囲(1.上松町 2.南木曽町 3.木祖村 4.王滝村 5.大桑村 6.木曽町 薄緑:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入した区域) 木曽郡(きそぐん)は、長野県の郡。 以下の3町3村を含む。
見る 以仁王と木曽郡
本朝皇胤紹運録
本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、天皇・皇族の系図。紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜とも。皇室系図の代表的存在であり、『皇統譜』成立以前の一般的な歴代天皇代数はこれに基づいている片山杜秀『尊王攘夷―水戸学四百年の歴史』2021、p.197。。 後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した。当初おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また本来は満季の祖父の公定編纂の『尊卑分脈』と併せて一対としていたらしい。名の由来は、中国南宋の『歴代帝王紹運図』。
見る 以仁王と本朝皇胤紹運録
最雲法親王
最雲法親王(さいうんほっしんのう、長治元年(1104年)- 応保2年2月16日(1162年3月3日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は堀河天皇。
見る 以仁王と最雲法親王
明雲
明雲(みょううん)は、平安時代末期の天台宗の僧。久我顕通の長男。弟に久我雅通。
見る 以仁王と明雲
流罪
伝藤原信実『承久本北野天神縁起絵巻』。太宰府へ流罪となった菅原道真が恩賜の御衣を見て涙を流している。 流刑(るけい、りゅうけい)とは、刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送り、その地への居住を強制する追放刑の一種。日本においては律令制の五刑の一つ流罪(るざい)が知られ、流刑と同義語で用いられることもある。流刑地に処することは配流(はいる)という。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。
見る 以仁王と流罪
新・平家物語 (NHK大河ドラマ)
『新・平家物語』(しんへいけものがたり)は1972年(昭和47年)1月2日から12月24日まで放送されたNHK大河ドラマ第10作。主演は仲代達矢。原作は吉川英治の大河小説『新・平家物語』。 平家一門の栄華と滅亡を描写している。
新潟県
新潟県シンボルマーク 新潟県(にいがたけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は新潟市。
見る 以仁王と新潟県
5月26日 (旧暦)
旧暦5月26日は、旧暦5月の26日目である。六曜は赤口である。
6月20日
6月20日(ろくがつはつか、ろくがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から171日目(閏年では172日目)にあたり、年末まであと194日ある。
見る 以仁王と6月20日
参考情報
1180年没
- ウード2世・ド・ポルオエ
- カジミール1世 (ポメラニア公)
- コノン (ソワソン伯)
- テレサ・フェルナンデス・デ・トラバ
- ベグテル
- マヌエル1世コムネノス
- ムスタディー
- ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (スモレンスク公)
- ヤロスラフ2世 (キエフ大公)
- ルイ7世 (フランス王)
- ロマン・ロスチスラヴィチ
- 以仁王
- 大庭景親
- 工藤茂光
- 源仲綱
- 源兼綱
- 源頼政
以仁、以仁親王、後白河源氏 別名。

