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籠坂峠

索引 籠坂峠

坂峠(かごさかとうげ)は国道138号(旧鎌倉往還)の標高1104mの峠である。富士山と丹沢山地西端の三国山稜を結ぶ鞍部にあり、山梨県南都留郡山中湖村南西の旭日丘と静岡県駿東郡小山町須走の境目に位置する。古くは加古坂と表記された。「籠坂」は、峠を駕籠で越えたことに由来する説や、籠に石を詰め火山性の地盤を固めたことに由来する説がある。篭坂峠と表記することもある。 富士山の火山灰が厚く堆積し、雪で閉鎖されることもあるため東富士五湖道路でバイパスすることができる。山中湖村側は峠から数百メートルのところまで別荘地になっている。.

43 関係: 南都留郡口留番所吾妻鏡大永官道富士山富嶽三十六景小山町山中湖山中湖村山梨県丹沢山地三国山 (神奈川県・山梨県・静岡県)三国山稜御殿場市後北条氏北条氏綱別荘勝山記国道138号火山灰甲斐路鎌倉街道静岡県駿東郡駕籠葉室光親鉄砲木ノ頭東富士五湖道路東海道武田信虎武田氏戦国時代 (日本)日本の峠一覧承久承久の乱1221年1526年7月12日 (旧暦)8月8日

南都留郡

山梨県南都留郡の範囲(1.道志村 2.西桂町 3.忍野村 4.山中湖村 5.鳴沢村 6.富士河口湖町 薄緑:後に他郡から編入した区域) 南都留郡(みなみつるぐん)は、山梨県の郡。 以下の2町4村を含む。.

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口留番所

口留番所(くちどめばんしょ)とは、江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。また、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものは口留番所と称した。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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中山道の垂井一里塚 塚(つか、旧字体:50px、Mound)とはその周囲の地面より、こんもりと丸く盛り上がった場所を指し、具体的には何かが集積、堆積した盛り上がりや、小さな山や丘や古墳などである。または、それらの場所や、特別な意味のある場所に、建立された石造や木造などの祠や塔や碑など。 遺跡としての塚は古墳(こふん Kofun)・墳丘墓(ふんきゅうぼ Tumulus)を参照。その他の人工的な地盤の盛り上がり(Mound)は、土塁・盛土を参照。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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官道

官道(かんどう)とは、国家によって整備・管理・維持がなされた道路のこと。 特に古代律令制国家においては、中央と地方機関を結ぶための経路として整備された。日本においても七道に沿って計画的な道路整備が行われていたことがその遺構発掘などによって明らかにされている。 律令制度崩壊後は衰退したものの、後世の街道の原点となったものも多い。.

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富士山

富士山(ふじさん、Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.24 m2等三角点「富士山」の標高は3775.51mである。最高地点はこの三角点から北へ約12mのところにある岩の頂上であり、その高さは、三角点より0.61mだけ高い(1991年の観測)。、日本最高峰(剣ヶ峰)日本が玉山(新高山)のある台湾を領有していた時期を除く。の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山『日本百名山』 深田久弥(著)、朝日新聞社、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp269-272、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤りである。.

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富嶽三十六景

『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 落款 『富嶽三十六景』(ふがくさんじゅうろっけい)は、江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎の手になる名所浮世絵揃物の一つで、北斎の代表作である。大錦横判『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(横大判錦絵)、全46図。「富嶽」は富士山の別名であり、本作は、富士見のできる各地を織り交ぜながら富士山の在る景観を描いたものである。 漢字「富」には異体字「冨」があるが、作品自体の示すとおり、出版当時の題名表記は異体字を用いた「冨嶽三十六景」である(■右列の「落款」画像を参照)。一方で、現代に多く見られる表記は正体字を用いた「富嶽三十六景」である『中学社会 歴史』(中学校社会科用教科書。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号:17教出・歴史762)p 149には、「葛飾北斎の風景画(「富嶽三十六景」)」と記載されている。『新しい社会 歴史』(中学校社会科用教科書。平成13年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:2東書 歴史702)p 107には、「葛飾北斎の風景画(富嶽三十六景より「凱風快晴」)」と記載されている。『詳解日本史B 改訂版』(高等学校地理歴史科用教科書。平成10年3月31日文部省検定済。教科書番号:15三省堂 日B 625)p 194には、「葛飾北斎 『富嶽三十六景ー尾州不二見原』」と記載されている。『総合日本史図表』(高等学校日本史資料集。第一学習社。2000年1月10日 改訂11版発行)p 146には、「富嶽三十六景凱風快晴(葛飾北斎筆)」と記載されている。。ほかにも、「岳」が「嶽」の異体字であることから、「富岳三十六景」という表記も見られる小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』。 19世紀のヨーロッパ文化圏に到来したジャポニスムを通じて、ヨーロッパの芸術シーンに多大な影響を与えたことでも、世界的に知られる。.

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小山町

小山町(おやまちょう)は、静岡県の最北東に位置し、富士山を有する駿東郡の町である。富士スピードウェイがあり、1976年・1977年・2007年・2008年にF1日本グランプリが開催された。.

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山中湖

山中湖(やまなかこ)は、山梨県南都留郡山中湖村にある淡水湖。 富士五湖のひとつ。面積は6.57kmあり、富士五湖の中で最大の面積を持つ。また、湖面の標高は富士五湖の中では最も高い位置にあり、日本全体でも第3位。逆に水深は富士五湖の中で最も浅い 13.3m。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。 形が牛に似ているので、別名は臥牛湖である。 「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。.

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山中湖村

山中湖村(やまなかこむら)は、山梨県南東部の村。.

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山梨県

山梨県(やまなしけん)は、本州の内陸部に位置する日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。.

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峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点。なお、峠の片側にのみ大きな高低差があってもう一方の側が平坦に近いものを片峠という。日本での片峠の代表的な事例としては碓氷峠がある。 峠は、中国地方で垰あるいは乢とも書き、「たお」「とう」「たわ」「たわげ」などと呼ぶ地方があり、地名などにも見られる(岡山県久米南町安ケ乢など)。登山用語では乗越(のっこし)、または単に越(こえ、こし)などとも言い、山嶺・尾根道に着目した場合は鞍部(あんぶ)、窓、コル(col)とも言う。 かつて峠はクニ境であり、その先は異郷の地であった。そのため、峠は、これから先の無事を祈り、帰り着いた時の無事を感謝する場所でもあったことから、祠を設けている所が多い。この祠は、異郷の地から悪いものが入り込まないための結界の役割も果たしていたと考えられる。本来の意味から転じて、何らかの物の勢いが最も盛んな時期のことを峠という。.

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丹沢山地

丹沢山地(たんざわ さんち)は、神奈川県北西部に広がる山地。東西約40キロメートル、南北約20キロメートルに及び、神奈川県の面積の約6分の1を占める。秩父山地等と合わせて関東山地とも呼ばれる。丹沢山地の大部分は山岳公園として丹沢大山国定公園と神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。.

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三国山 (神奈川県・山梨県・静岡県)

三国山(みくにやま)は丹沢山地の西端、神奈川県・山梨県・静岡県の境に位置する山である『丹沢 2011年版 (山と高原地図 28)』。.

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三国山稜

三国山稜(みくにさんりょう)は、神奈川県・山梨県・静岡県の3県境にある三国山から富士山東麓の籠坂峠へ伸びる延長約7kmの尾根である。.

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御殿場市

御殿場市(ごてんばし)は、静岡県東部に位置し、富士山周辺や箱根観光への交通拠点の高原都市である。気候は標高が高いので冷涼で降水量が多い。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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北条氏綱

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.

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別荘

別荘(べっそう、英語:cottage、villa、ラテン語:vīlla)とは、普段生活している家とは別に、比較的短期的な避暑・避寒・保養・休養などの目的で気候や風景のよい土地、温泉地などに作られた一戸建ての家。本質は日常生活を送る住居ではなく、余暇のためのレジャー施設である。 現代日本語の場合、集合住宅の形をとる別荘をリゾートマンションと呼ぶ。.

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勝山記

河口湖と富士山 勝山記・妙法寺記(かつやまき・みょうほうじき)は、戦国時代の年代記。甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の年代記。.

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国道138号

富士吉田市内(2004年12月) 御殿場バイパス 御殿場市役所付近から箱根方向を向いて 国道138号(こくどう138ごう)は、山梨県富士吉田市から静岡県御殿場市を経由して神奈川県小田原市に至る一般国道である。.

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火山灰

NASA, public domain 火山灰(かざんばい、)とは、火山の噴出物(火山砕屑物)の一つで、主にマグマが発泡してできる細かい破片のこと。木や紙などを燃やしてできる灰とは成分も性質も異なる。.

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甲斐路

斐路(かいじ)は、律令制下における古代官道。東海道の支路で、東海道から分岐し富士北麓を経て御坂峠を越えて甲府盆地に入り、甲斐国府に至る。別称は御坂路(みさか-)。.

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鎌倉街道

鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在する。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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駿東郡

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駕籠

駕籠 駕籠(かご)は、人を乗せて人力で運ぶ乗り物のこと。人が座る部分を一本の棒に吊し、複数人で棒を前後から担いで運ぶ。.

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葉室光親

葉室 光親(はむろ みつちか、安元2年(1176年) - 承久3年7月23日(1221年8月12日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原 光親とも言う。権中納言・藤原光雅の次男。官位は正二位・権中納言。1928年(昭和3年)11月10日、贈従一位.

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鉄砲木ノ頭

鉄砲木ノ頭(てっぽうぎのあたま)は、神奈川県足柄上郡山北町と山梨県南都留郡山中湖村との境界にある山である。丹沢山地の最西部に位置し標高は1,291m。別名、明神山(みょうじんやま)とも呼ばれる。.

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雪(ゆき、、)とは、大気中の水蒸気から生成される氷の結晶が空から落下してくる天気のこと。また、その氷晶単体である雪片(せっぺん、)、および降り積もった状態である積雪(せきせつ、等)のことを指す場合もある。後者と区別するために、はじめの用法に限って降雪(こうせつ、)と呼び分ける場合がある。.

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東富士五湖道路

東富士五湖道路(ひがしふじごこどうろ、英称:HIGASHI-FUJIGOKO ROAD)は、山梨県富士吉田市の富士吉田ICから、静岡県駿東郡小山町の須走ICへ至る自動車専用道路地域高規格道路の路線等には指定されていないため、ウィキペディアではその他の自動車専用道路に分類している。-->である。全線が中日本高速道路管理の一般有料道路であり、国道138号のバイパス道路である。高速道路ナンバリングによる路線番号は中央自動車道富士吉田線とともに 「E68」 が割り振られている。.

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東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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日本の峠一覧

日本の峠一覧(にほんのとうげいちらん)では、日本国内にある峠を地方別に一覧として列挙する。 注:「読み」欄に関しては、以下のような表記とする。.

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承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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1221年

記載なし。

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1526年

記載なし。

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7月12日 (旧暦)

旧暦7月12日は旧暦7月の12日目である。六曜は赤口である。.

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8月8日

8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.

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