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江戸時代の人物一覧

索引 江戸時代の人物一覧

江戸時代の人物一覧(えどじだいのじんぶついちらん) 江戸時代の人物の一覧。安土桃山時代の人物一覧と幕末の人物一覧も参照。.

595 関係: 加納諸平加藤千蔭加藤美樹加藤枝直加藤民吉原田宗輔十返舎一九千葉定吉千葉周作古川古松軒司馬江漢向井元升吉川惟足吉田光由吉田東洋吉野太夫吉良義央吉沢検校吉成信貞坂田藤十郎堀田正俊堀田正盛塙保己一多田義俊夏目甕麿大原幽学大垣藩大場久八大塩平八郎大岡忠相大久保一翁大久保忠隣大久保忠教大久保長安大前田英五郎大国隆正大石良雄大田南畝大鳥圭介大黒屋光太夫大蔵永常大村彦太郎大槻玄沢天璋院天草四郎天野信景天海太宰春台奥田頴川奥村左近太...奈良屋茂左衛門契沖姉小路公知孝明天皇孫太郎室鳩巣宮崎友禅宮本武蔵安島直円安井道頓安土桃山時代の人物一覧安倍瑞屯安藤信正安藤要人安藤昌益寿三郎富士谷御杖富士谷成章富永仲基小原鉄心小山田与清小中村清矩小幡景憲小笠原長行小田野直武小関三英小野蘭山小林一茶小林佐兵衛小松清廉小栗忠順小栗重吉尾形乾山尾形光琳山岡鉄舟山崎闇斎山下幸内山内容堂山内一豊山県大弐山田宗偏山田長政山田浅右衛門山片蟠桃山鹿素行山脇東洋山東京伝山村才助屋代弘賢岡田以蔵岡熊臣岩佐又兵衛岩倉具視岩瀬忠震岸本由豆流峰崎勾当島田虎之助島津重豪島津斉彬崇源院川崎善三郎川勝広綱川勝隆尚川路聖謨工藤平助左甚五郎上田秋成上田馬之助上杉治憲上杉景勝与謝蕪村中山忠光中山愛親中島広足中川淳庵中井竹山中井正清中御門天皇中甚兵衛中村てき斎中村歌右衛門中江藤樹布田保之助市川團十郎三宅観瀾三井高利三条実美下河辺長流幡随院長兵衛平原善松平住専安平田篤胤平田鐵胤平田靱負平賀元義平賀源内幕末の人物一覧久留島喜内久蔵二宮尊徳亜欧堂田善広瀬淡窓庄蔵井原西鶴井上正就井上文雄井伊直孝井伊直弼井戸正明今川直房今井似閑今井信郎今村知商仁孝天皇仁阿弥道八仁杉五郎左衛門以心崇伝建部綾足建部賢弘建部清庵仙太郎伊奈忠克伊奈忠次伊奈忠治会田安明伊達千広伊達宗城伊達政宗伊能忠敬伊藤仁斎伊東一刀斎会津小鉄 (幕末)会津屋八右衛門会津藩式亭三馬伝兵衛伴信友伴蒿蹊伴林光平住友政友住吉如慶佐久間象山佐々木小次郎佐倉惣五郎佐藤中陵作兵衛徳川吉宗徳川家定徳川家宣徳川家康徳川家光徳川家綱徳川家継徳川家茂徳川家重徳川家治徳川家斉徳川家慶徳川宗尹徳川宗武徳川宗春徳川忠長徳川和子徳川光圀徳川光貞徳川秀忠徳川綱吉徳川義直徳川頼宣徳川頼職徳川頼房徳川茂徳徳川重好徳川治済徳川斉順徳川斉昭徳川慶喜徳川慶勝後光明天皇後西天皇後藤寿庵後藤象二郎後陽成天皇後桜町天皇後桃園天皇後水尾天皇得能関四郎保科正之俵屋宗達志筑忠雄土屋政直土井利勝土佐光起土佐藩土方歳三北条氏長マシュー・ペリーヤン・ヨーステンラザフォード・オールコックロドリゴ・デ・ビベロヴァシーリー・ゴロヴニーンヘンリー・ヒュースケンフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトニコライ・レザノフ別木庄左衛門喜多川歌麿喜多村信節善六周布政之助和宮親子内親王アダム・ラクスマンウィリアム・アダムスウィリアム・ウィリスカール・ツンベルクシャクシャインジョン万次郎ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティタウンゼント・ハリス円山応挙円空内田五観内藤清成児玉南柯八百屋お七八重崎検校八橋検校六人部是香光崎検校光格天皇前原巧山前野良沢勝山 (遊女)勝海舟勇之助国司親相国定忠治矢部定謙矢野玄道石原正明石川勾当石川雅望石田梅岩玉川兄弟玉松真弘神尾春央福原元たけ福羽美静福澤諭吉稲生若水稲葉正勝稲村三伯窪田鎮勝竹居安五郎竹中重義竹内敬持竹本義太夫箕作秋坪箕作省吾箕作阮甫細川重賢紀伊國屋文左衛門続豊治継右衛門緒方洪庵真田幸貫猪飼敬所烏丸光広絵島為永春水生田万田中大秀田中久重田中勝介田中新兵衛田能村竹田田村藍水田沼意知田沼意次由井正雪男谷信友畑中権内牧庵鞭牛牧野成貞狩野探幽瀧山隠元隆き銭屋五兵衛隆光音吉遠山景元荷田在満荷田春満荻原重秀荻生徂徠荒木又右衛門荒木田久老菊岡検校華岡青洲菱川師宣菅江真澄萩原広道萩原兼従青山延于青山忠俊青山忠成青松院青木周弼青木木米青木昆陽頼山陽飯塚伊賀七飯岡助五郎飯田武郷西山宗因西嶋八兵衛西川如見西郷頼母香川景樹角倉了以角田忠行調所広郷高尾太夫高山峰三郎高山彦九郎高島秋帆高田屋嘉兵衛高野佐三郎高野長英高橋坦室高橋筅次郎高橋赳太郎高橋至時高橋泥舟高橋景保高本紫溟谷川士清谷文晁貝原益軒賢順鳥居耀蔵賀茂真淵鴻池善右衛門越後長岡藩足代弘訓鶴屋南北鶴峯戊申鶴賀新内鷹見泉石鹿持雅澄麻田剛立黒川真頼黒川春村黒田長政黒駒勝蔵黒沢琴古鼠小僧近衛基熙近衛家熙近衛熙子近藤富蔵近藤勇近藤芳樹近藤重蔵近松門左衛門霊元天皇茶屋四郎次郎都一中鈴木重胤鈴木朖鈴木春山阿部吉郎次阿部将翁阿部忠秋阿部正次阿曽三右衛門関孝和薩摩藩間宮林蔵藤井高尚葛飾北斎蒲生君平蔦屋重三郎野宮定基野中兼山野呂元丈野々村仁清野村長平金子七郎兵衛金井烏洲長右衛門長州藩長久保赤水長谷川宣以長谷川宣雄長野主膳酒井忠世酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)酒井忠清酒井田柿右衛門良寛色川三中英一蝶雷電爲右エ門逸見宗助柳亭種彦柳生宗矩柳沢吉保柄井川柳林子平林忠崇林玄仲林羅山林鳳岡林述斎林鵞峰林桜園恋川春町李参平来島又兵衛東山天皇東条義門東洲斎写楽松尾芭蕉松岡恕庵松崎浪四郎松平定信松平定朝松平乗邑松平信綱松平武元松前公広松前慶広松倉勝家松倉重政松田伝十郎松林蝙也斎松永貞徳松永良弼松本幸四郎松浦検校松浦武四郎板垣退助板倉勝重板倉勝清板倉重宗板倉重昌杵屋六三郎村垣範正村田春海杉田玄白杉木茂左衛門根岸鎮衛栗本鋤雲桐野利秋桜町天皇桃井春蔵桃園天皇桂川甫周桂昌院梅田雲浜楫取魚彦榊原鍵吉榎本武揚権田直助横井小楠橘守部橘曙覧正親町公通歴史上の人物一覧歌川広重毛利元徳毛利重就毛利敬親水野忠之水野忠邦水野成之永井尚志永光院江戸時代江戸時代の将棋棋士一覧江戸時代の囲碁棋士一覧池大雅池田光政沢庵宗彭沢田名垂河合道臣河上彦斎河井継之助河内山宗春河村秀根河村瑞賢河本にわ泉重千代津太夫津山藩淀屋渡辺崋山清水六兵衛清水次郎長清水浜臣渋川春海渋川景佑源伴存濱口梧陵木内石亭木村正辞末吉孫左衛門末次平蔵本多忠籌本多利明本多正信本多正珍本多正純本寿院 (徳川家慶側室)本居大平本居宣長本居内遠本居豊穎本居春庭本庄晋一本阿弥光悦本木昌造朱舜水月光院最上徳内戸田旭山明正天皇明治の人物一覧明治天皇春山弁蔵春日局浮世絵師一覧浅利義明浅野長勲浅野長矩浅野長訓斎藤弥九郎新井白石新見正興新門辰五郎新蔵支倉常長曲亭馬琴曾我蕭白 インデックスを展開 (545 もっと) »

加納諸平

加納 諸平(かのう もろひら、文化3年(1806年)-安政4年6月24日(1857年8月13日))は、江戸時代後期の国学者。通称は小太郎。別名は兄瓶(えみか)。号は柿園(しえん)。.

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加藤千蔭

加藤 千蔭(かとう ちかげ、享保20年3月9日(1735年4月1日) - 文化5年9月2日(1808年10月21日))は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。父は加藤枝直。姓を橘氏とすることから、橘千蔭とも称する。通称は又左衛門。字は常世麿。号は芳宜園など。.

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加藤美樹

加藤 美樹(かとう うまき、享保6年(1721年) - 安永6年6月10日(1777年7月14日))は、江戸時代中期の国学者・歌人。名は宇万伎とも書く。姓は藤原氏。通称は大助。号は静舎・静廼舎。 美濃国大垣新田藩主戸田家の奥医師河津家に婿として入ったが、辞去後、幕府の大番与力となり、大阪城と二条城の勤番を勤めた。国学者賀茂真淵に学び、将来を託された、大阪在番中に上田秋成の入門を受け、京阪地域に真淵の学問が浸透する機会を作った。 著書に「雨夜物語だみことば」「土佐日記解」「静廼舎歌集」などがある。 Category:江戸幕府幕臣 Category:江戸時代の歌人 Category:国学者 Category:18世紀の学者 Category:1721年生 Category:1777年没.

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加藤枝直

加藤 枝直(かとう えなお、元禄5年12月11日(1693年1月16日) - 天明5年8月10日(1785年9月13日))は、江戸時代中期の幕臣・歌人。本姓は橘氏。初名は為直、後に枝直と書いて「えだなほ」と訓むが「えなほ」と改め、要南甫とも書く。通称は又左衛門、又兵衛。号は南山・常世庵・芳宜園。加藤千蔭の父。.

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加藤民吉

加藤 民吉(かとう たみきち、1772年 - 1824年)は江戸時代の陶工。同名を名乗った人物は6人いるが、本記事では「磁祖」と呼ばれる初代民吉について主に記す。.

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原田宗輔

原田 宗輔(はらだ むねすけ、元和5年(1619年) - 寛文11年3月27日(1671年5月6日))は、江戸時代前期の武士。仙台藩重臣。奉行職仙台藩の役職に家老は存在しない。家老にあたる職を奉行と呼称する。。原田宗資の子。伊達騒動(寛文事件とも)当事者の一人。通称は原田甲斐(はらだ かい)。.

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十返舎一九

十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく、明和2年(1765年) - 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。.

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千葉定吉

千葉 定吉(ちば さだきち、寛政 9年(1797年)? - 明治12年(1879年)12月5日)は、江戸時代末期(幕末)の鳥取藩藩士、北辰一刀流の剣術家。桶町千葉道場の創設者。.

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千葉周作

千葉 周作(ちば しゅうさく、寛政5年(1793年) - 安政2年12月10日(1856年1月17日))は、江戸時代後期の武士、剣術家。北辰一刀流の創始者。姓は平氏、名字は千葉、通称は周作、諱は成政。生年月日は寛政6年(1794年)1月1日とする説もある。.

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古川古松軒

古川 古松軒(ふるかわ こしょうけん)は江戸時代後期の旅行家、地理学者。.

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司馬江漢

寒柳水禽図 (パワーズコレクション旧蔵) 絹本油彩 寛政初期 司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す。.

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向井元升

写本「阿蘭陀外科医方」の奥書 京都向井家の墓(真正極楽寺) 向井 元升(むかい げんしょう、慶長14年2月2日(1609年3月7日) - 延宝5年11月1日(1677年11月25日))は江戸時代の本草学者、医師である。著書に『庖厨備用倭名本草』などがある。 肥前国に生まれた。もとの名は元松、晩年元升に改める。5歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し、22歳で医師となる。慶安4年(1651年)、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し、承応3年(1654年)幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』5巻をまとめた。万治元年(1658年)家族と京都に出て医師を開業した。寛文11年(1671年)加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品460種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである。 次男は俳人の向井去来、三男は儒学者の向井元成である。.

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吉川惟足

吉川 惟足(よしかわ これたり、元和2年(1616年) - 元禄7年11月16日(1695年1月1日))は、江戸時代前期の神道家。初名は元成と称し、惟足・従時と称した。尼崎屋五郎左衛門と称し、号は視吾堂・相山隠山・相隠士。吉川神道の創始者。姓は「きっかわ」、名は「これたる」とも伝わる。.

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吉田光由

吉田 光由(よしだ みつよし、慶長3年(1598年) - 寛文12年11月21日(1673年1月8日))は、江戸時代前期の和算家である。.

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吉田東洋

吉田 東洋(よしだ とうよう)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。.

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吉野太夫

二代目吉野太夫(にだいめよしのたゆう、本名:松田徳子、慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日)) は六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。実父はもと西国の武士であったとも。 六条三筋町「七人衆」の筆頭。また夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれる。彼女の命日は吉野忌として俳句の季語にもある。.

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吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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吉沢検校

吉沢検校(よしざわ けんぎょう、寛政12年(1800年) - 明治5年(1872年)、生年は一説には文化5年(1808年))は、幕末に活躍した盲人音楽家(地歌三味線、箏曲、胡弓、平家琵琶演奏家、作曲家)。初世と二世がおり、ふつう吉沢検校というと二世を指し、初世の長男。.

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吉成信貞

吉成 信貞(よしなり のぶさだ)は、江戸時代後期の水戸藩士。.

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坂田藤十郎

坂田 藤十郎(さかた とうじゅうろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は山城屋。四代目の定紋は五つ藤重ね星梅鉢、替紋は向い藤菱。 初代は上方歌舞伎の創始者の一人で、和事の芸を確立した役者としても知られ、かつてその名跡は江戸の市川團十郎と並んで梨園でも最も権威あるものだった。安永2年 (1774) に三代目が仙台で客死した後は襲名する者がなく、坂田藤十郎の名は伝説的な名跡として生き長らえたが、平成17年 (2005) に231年ぶりの四代目襲名となった。.

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堀田正俊

堀田 正俊(ほった まさとし)は、江戸時代前期から中期の大名。江戸幕府の老中・大老。上野安中藩主。後に下総古河藩の初代藩主。正俊系堀田家初代。.

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堀田正盛

堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、大政参与(御側)。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。 堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。 母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。.

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塙保己一

塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。 四男は、国学者の塙忠宝である。.

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多田義俊

多田 義俊(ただ よしとし、元禄11年(1698年) - 寛延3年9月13日(1750年10月12日))は江戸時代の国学者、有職故実家。浮世絵草紙作家としては多田南嶺と称す。正式な名乗りは多田兵部源満泰。多田満仲の後裔という。別姓は桂。号は春塘、秋斎など。壺井義知に有職故実を学ぶ。.

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夏目甕麿

夏目 甕麿(なつめ みかまろ、安永2年5月5日(1773年6月24日) - 文政5年5月5日(1822年6月23日))は江戸時代後期の国学者。遠江国浜名郡白須賀(現・湖西市)の酒造業を営む名主の家の生まれ。幼名は小八郎。名は英積。通称は小八、のちに嘉右衛門。号は萩園など。加納諸平の父。弟子は八木美穂など。司馬江漢と交友があったという。酒好き。 寛政2年(1790年)名主職を継ぎ、同9年(1797年)、内山真龍門に。翌年、本居宣長の門人となった。宣長の没した享和元年(1801年)には本居春庭に入門、本居大平に兄事。 文化11年(1814年)隠居。地名の語学的研究を行い、文化13年(1816年)『駿河国号考』を著した。文政元年(1818年)『鈴屋大人都日記』などの出版費用を負担し家産傾く。翌年より近畿の山陵研究として岸和田、大坂、昆陽(現・伊丹市)などを転々とする。文政5年(1822年)、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたのだという。享年50。墓は三河吉田普門寺、摂津伊丹正覚院。 主な著作に『吉野乃若菜』『万葉摘草』。.

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大原幽学

大原 幽学(おおはら ゆうがく、寛政9年3月17日(1797年4月13日) - 安政5年3月8日(1858年4月21日))は、江戸時代後期の農政学者、農民指導者。下総国香取郡長部(ながべ)村(現在の旭市長部)を拠点に、天保9年(1838年)に先祖株組合という農業協同組合を世界で初めて創設した。.

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大垣藩

大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。.

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大場久八

大場久八(だいばのきゅうはち、文化11年(1814年) - 明治25年(1892年)12月4日)は、江戸時代後期の博徒で、伊豆・甲斐・武蔵・相模一円におよそ3,000人の子分を抱えた伊豆の大親分。本名は森久治郎。東京湾岸のお台場の製造に尽力した人物として知られる。.

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大塩平八郎

大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。 通称は平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)。字は子起。号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから、養子である可能性は否定されている。平八郎の実の祖父・政之丞が阿波国脇町の出身で、与力大塩氏に養子に入ったことから、この祖父と混同されたと考えられる。.

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大岡忠相

大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。.

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大久保一翁

大久保 一翁(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)は、幕末から明治時代にかけての幕臣、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。.

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大久保忠隣

大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。相模小田原藩の初代藩主。父は大久保忠世、母は近藤幸正の娘。講談で有名な旗本の大久保忠教の甥にあたる。小田原藩大久保家初代。.

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大久保忠教

大久保 忠教(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。徳川氏家臣・大久保忠員の八男。通称の彦左衛門で有名。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。兄に大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為ら。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。.

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大久保長安

大久保 長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。.

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大前田英五郎

大前田 英五郎(おおまえだ えいごろう、寛政5年(1793年) - 明治7年(1874年)2月26日)は、江戸時代末期に活躍した侠客。栄五郎とも書く。本姓は田島。大場久八、丹波屋伝兵衛と並び「上州系三親分」とも、新門辰五郎、江戸屋寅五郎と共に「関東の三五郎」とも呼ばれて恐れられた。昭和期に好まれ、任侠ものの映画の題材とされた。.

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大国隆正

大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日(1793年1月11日) - 明治4年8月17日(1871年10月1日))は、幕末・明治維新期の国学者・神道家。別姓は野之口。名に一造、匠作、仲衛など、諱に秀文、秀清、隆正、字に子蝶、号は葵園、佐紀乃屋「大国隆正」『朝日日本歴史人物事典』。。.

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大石良雄

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。.

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大田南畝

大田南畝像 鳥文斎栄之筆 文化11年 東京国立博物館蔵 大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。 名は覃(ふかし)。字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手馬鹿人(やまのてのばかひと)も南畝の別名とする説がある。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した。法名は杏花園心逸日休。.

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大鳥圭介

大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。正二位勲一等男爵。家紋は鶴の丸。.

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大黒屋光太夫

大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。 天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。 幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。.

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大蔵永常

大蔵 永常(おおくら ながつね、明和5年(1768年) - 万延元年12月16日(1861年1月26日?))は、江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。三河国田原藩産物御用掛や遠江国浜松藩の興産方を務める。.

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大村彦太郎

大村 彦太郎(おおむら ひこたろう)は、江戸時代初期に創業の百貨店白木屋の歴代当主が襲名する名称。.

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大槻玄沢

大槻 玄沢(おおつき げんたく、宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))は、一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。諱は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。出身地の磐井から磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。.

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天璋院

天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。 実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。 幼名は一(かつ)、その後に、市(いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)。.

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天草四郎

上天草市天草四郎メモリアルホール内の天草四郎像 「競勢酔虎伝:天草四郎(月岡芳年作)」 天草 四郎(あまくさ しろう)、元和7年(1621年)/元和9年(1623年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日)は、江戸時代初期のキリシタン。島原の乱における一揆軍の最高指導者とされている。 本名は益田 四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は当初は「ジェロニモ(Geronimo)」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時は「フランシスコ(Francisco)」に変わっていた。一般には天草四郎時貞という名で知られる。また、後述の通り豊臣秀頼(豊臣秀吉の息子)の落胤であったとする伝説もあるが信憑性は低い。.

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天野信景

天野 信景(あまの さだかげ)は、江戸時代中期の国学者、尾張藩士。.

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天海

喜多院山門前にある銅像 天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。.

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太宰春台

太宰 春台(だざい しゅんだい、延宝8年9月14日(1680年11月5日) - 延享4年5月30日(1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。.

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奥田頴川

奥田頴川宅蹟、京都市東山区大黒町通五条上る東側 奥田 頴川(おくだ えいせん、宝暦3年(1753年) - 文化8年4月27日(1811年6月17日))は江戸時代中後期の陶芸家。「頴川」は号で、実家の姓(「えがわ」と読む)でもある。通称「茂右衛門」、本名「庸徳」。 実家は飛来一閑と同様、清の侵攻から亡命した明人の末裔であったといわれる。後に京の質屋「丸屋」の当主・奥田家の養子となり、4代目を嗣ぐ。3代当主は頴川の叔父に当たる。 元来商売より文化活動に向いていた人物で、後を嗣いでも商売は番頭に任せ、諸芸の稽古に精を出していたという。趣味の一つである陶芸には特に熱を上げ、36歳の時には息子に跡を譲り隠居してしまう。清水焼の名工海老屋清兵衛に、また瀬戸の技法を学び磁器の製造実験を行い暗中模索の末に成功。京焼最初の磁器焼成に成功した。呉須赤絵は有名。噂を聞いて集まった若手工人達にその技術を惜しげもなく公開し、京焼の発展に貢献した。これらの若手工人達の中には後の青木木米、仁阿弥道八らがいる。 また作風においても、それまでの京焼とは異なる「染付」「赤絵」「交趾」など中国風の絵付けを施し、一大ブームを起こした。 磁器の開発にしろ、新規な絵付けにしろ、頴川が職業工人ではなく素人陶芸家であったからこそ当時は可能だった事なのだが、京焼ばかりでなく、日本陶芸史に果たした役割は大きい。 死後、作品の大半は菩提寺である建仁寺に奉納された。.

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奥村左近太

奥村 左近太(おくむら さこんた、1842年(天保13年) - 1903年(明治36年)1月11日)は、幕末から明治の剣術家。流派は直心影流を学んだ後、奥村二刀流を創始した。称号は大日本武徳会精錬証。幼名は寅吉。.

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奈良屋茂左衛門

奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、江戸時代中期の江戸の材木商である。.

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契沖

契沖(けいちゅう、寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日(1701年3月4日))は、江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。.

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姉小路公知

姉小路公知 姉小路 公知(あねがこうじ きんとも、天保10年12月5日(1840年1月9日) - 文久3年5月20日(1863年7月5日))は、江戸時代末期の公家。位階は正四位下、維新後に生前の功により正二位を追贈。父は姉小路公前、叔父に澤宣嘉がいる。養子に姉小路公義(万里小路博房男、次代)。.

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孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.

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孫太郎

孫太郎(まごたろう 、延享元年(1744年) - 文化4年(1807年))または孫七(まごしち)は、江戸時代の船乗り(水主)である。 なお、本項の日付はすべて旧暦で記している。.

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室鳩巣

室 鳩巣(むろ きゅうそう、万治元年2月26日(1658年3月29日) - 享保19年8月12日(1734年9月9日))は、江戸時代中期の儒学者。室玄樸の子。諱は直清、字は師礼、通称は新助(信助とも)、号は鳩巣・滄浪。.

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宮崎友禅

宮崎 友禅(みやざき ゆうぜん、承応3年(1654年) - 元文元年6月17日(1736年7月25日))は江戸時代の元禄年間(1688年〜1703年)を中心に京都で活躍した扇絵師。着物の友禅模様という名称の基になった扇絵や小袖の雛形(ひながた)を描いた。来歴不明で出家であったことぐらいしか分かっていない。.

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宮本武蔵

宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。 京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。著書『五輪書』は外国語にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。.

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安島直円

安島 直円(あじま なおのぶ、享保17年(1732年) - 寛政10年4月5日(1798年5月20日))は江戸時代中期の財政家・和算家。新庄藩士。本姓は藤原氏。家系は藤原秀郷流の安島氏。仮名は万蔵。字は伯規、号は南山。諱は直円。名は資料によっては安島万蔵とも載せ、新庄藩の資料では安嶋直円ともある。父は新庄藩御勘定頭・安島庄右衛門清英。兄弟に安島弥惣次清茂、伊東平蔵直休がいる。妻は於なを。家禄は80石。寛政10年(1798年)江戸藩邸にて没。江戸(現在の東京都港区三田)の曹洞宗常林寺に葬られた他、国元の菩提寺である出羽国最上郡新庄町(山形県新庄市)は桂嶽寺に分骨された。戒名は祖眞院智算量空居士。位階は贈従五位。和算に長け、同門の藤田定資をして「当代の名人」と言わしめ、江戸時代の数学の発展に寄与、後世の人は関孝和と並んで和算の二大焦点と評した家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典第1巻』(新人物往来社、1993年)408頁参照。。.

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安井道頓

安井 道頓(やすい どうとん、天文2年(1533年) - 元和元年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての商人。道頓堀の開鑿者として知られる。苗字は安井成安(やすい なりやす)で、通称は市右衛門。剃髪後に道頓と名乗る。.

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安土桃山時代の人物一覧

---- 安土桃山時代の人物一覧(あづちももやまじだいのじんぶついちらん)は、安土桃山時代の人物の一覧。.

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安倍瑞屯

安倍 瑞屯(あべ ずいじゅん、 - 宝永5年(1708年)6月25日)は、江戸時代の医師・旗本・600石。通称は吉十郎、長徳院。.

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安藤信正

安藤 信正(あんどう のぶまさ)は、陸奥磐城平藩の第5代藩主。安藤家第10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた。磐城平藩第4代藩主安藤信由の長男。母は大河内松平信明の娘。幼名は欽之進、後に欽之介。元服時の初名は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行(のぶゆき)、さらに信正へ改名している。.

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安藤要人

安藤 要人(あんどう かなめ、生没年不詳)は、津山藩の家老。津山藩は、公武合体や薩長の和合を求めていたが、征長に幕府側で出陣した。鳥羽・伏見の戦い後に長州の斡旋で恭順が認められた。写真は、存在する。.

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安藤昌益

安藤 昌益(あんどう しょうえき、1703年(元禄16年) - 1762年11月29日(宝暦12年10月14日))は、江戸時代中期の医師・思想家・哲学家。秋田藩出身。号は確龍堂良中。思想的には無神論やアナキズムの要素を持ち、農業を中心とした無階級社会を理想とした。死後、近代の日本において、社会主義・共産主義にも通じる思想を持った人物として評価された。.

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寿三郎

寿三郎(じゅさぶろう、文化10年(1813年) - ?)は、江戸時代の漂流民。 肥後国玉名郡坂下の出身。天保5年(1834年)、同国出身の庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かうが、途中で嵐に遭って庄蔵ら3名とともにルソン島へ漂流する。 その後、現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でマカオに移り、同じくアメリカに漂流していた音吉ら3名と合流する。同年、帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かうが、異国船打払令によって撤退。続いて薩摩山川港では庄蔵と上陸を果たすが、結局帰国は叶わなかった。 その後はマカオで庄蔵と余生を送り、嘉永ころまでには没したという。.

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富士谷御杖

富士谷御杖(ふじたに みつえ、明和5年(1768年) - 文政6年(1823年)12月16日(1824年1月16日))は、江戸時代中期から後期にかけての国学者。父は国学者富士谷成章。名は初め成寿(なりのぶ)・成元(なりはる)、その後御杖に改めた。号は北辺・北野。通称は源吾(吉)・専(千)右衛門。生まれは京都。.

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富士谷成章

富士谷 成章(ふじたに なりあきら、元文3年(1738年) - 安永8年10月2日(1779年11月9日))は、江戸時代中期の国学者。皆川成慶(春洞)の次男で、儒者皆川淇園の弟。柳河藩京都留守居富士谷家の養子となる。通称は専(千)右衛門。字は仲達。号は咸章、北辺。生まれは京都。子に富士谷御杖がいる。.

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富永仲基

富永 仲基(とみなが なかもと、正徳5年(1715年) - 延享3年8月28日(1746年10月12日)は、江戸時代大坂の町人学者、思想史家。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている。.

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小原鉄心

小原 鉄心(おはら てっしん)は、江戸時代後期(幕末)の美濃大垣藩の城代である。鉄心は号で、諱は忠寛(ただひろ)。.

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小山田与清

小山田 与清(おやまだ ともきよ、天明3年3月17日(1783年4月18日)- 弘化4年3月25日(1847年5月9日))は、江戸時代後期の国学者。父は田中本孝、母は平戸稲子。高田与成の養子となった。初名は貴長、通称は寅之助、庄次郎、仁右衛門、茂右衛門、将曹。字は文儒、号は松屋、玉川亭、擁書倉、知非斎、報国恩舎。 武蔵国多摩郡小山田村出身。古屋昔陽・村田春海に師事し、故実の考証学を専門とした。また、書籍を所蔵する書庫をつくり、それを擁書楼と名づけ、国学者の閲覧に提供した。1831年(天保2年)に史館に出仕して、後期水戸学にも影響を及ぼした。 明治から昭和の政治家、高田早苗は孫に当たる。.

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小中村清矩

小中村 清矩(こなかむら きよのり、文政4年12月30日(1822年1月22日)- 明治28年(1895年)10月11日)は、国学者・日本史学者。姓は紀氏。幼名は栄之助・金四郎・金右衛門・将曹と称した。号は陽春廬(やすむろ)。国文学者池辺義象はその養子(のち池辺に復する)。.

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小幡景憲

小幡 景憲(おばた かげのり、1572年(元亀3年)- 1663年4月3日(寛文3年2月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・軍学者。小幡昌盛の三男。養子に小幡景松(かげとし)。幼名は熊千代、別名を孫七郎、勘兵衛。法名は道牛。.

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小笠原長行

小笠原 長行(おがさわら ながみち)は、江戸時代後期の江戸幕府の老中、外国事務総裁。肥前国唐津藩小笠原家初代・小笠原長昌の長男。唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。.

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小田野直武

小田野直武『東叡山不忍池』(1770年代) 秋田県立近代美術館所蔵 小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。.

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小関三英

小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日(1787年7月25日) - 天保10年5月17日(1839年6月27日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。名は好義、幼名は弁助、通称は良蔵。号は鶴斎、鶴洲、篤斎など。出羽国(山形県)庄内地方・鶴岡の生まれ。.

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小野蘭山

小野 蘭山(おの らんざん、享保14年8月21日(1729年9月13日) - 文化7年1月27日(1810年3月2日))は、江戸時代の大本草学者。名は識博(もとひろ)、通称は喜内、字は以文、号は蘭山、朽匏子。しばしば「日本のリンネ」と称される。京都出身。門弟に杉田玄白、木村兼葭堂、飯沼慾斎、谷文晁、桜田欽斎、水谷豊文、三谷公器、狩谷棭斎、吉田立仙、山本盛備(大正年間の総理大臣山本権兵衛の養曽祖父).

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小林一茶

小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))は信濃国柏原で中農の子として生まれた。本名は小林弥太郎「父の終焉日記」の前書き部分で、一茶は自らのことを「信之」と名乗っているが、信之という名乗りはこの時のみである上に、農民の名として似つかわしくないことから、小林(1986)p.23では一茶の作り話としている。、一茶とは俳号である。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。別号は圯橋小林(2002)p.4、菊明、新羅坊矢羽(1993)p.11、亜堂。庵号は二六庵、俳諧寺。.

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小林佐兵衛

小林 佐兵衛(こばやし さへえ、1829年(文政12年) - 1917年(大正6年)8月20日)は、日本の侠客。 大坂・堂島の質屋「明石屋」の長男として生まれ、北の赤万(明石屋万吉)との通称があった。.

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小松清廉

小松 清廉(こまつ きよかど、天保6年10月14日(1835年12月3日) - 明治3年7月20日(1870年8月16日))は、日本の武士、政治家。位階勲等は贈従四位玄蕃頭。 通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。前名は肝付兼戈。維新の十傑の1人。薩摩藩家老、吉利(2,600石)領主。.

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小栗忠順

小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。 通称は又一。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。.

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小栗重吉

小栗 重吉(おぐり じゅうきち、天明5年(1785年) - 嘉永6年1月2日(1853年2月9日))は、江戸時代後期の船頭である。史上最も長期にわたって漂流した人物として知られている。.

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尾形乾山

尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)は、江戸時代の陶工、絵師。名は惟充。通称は権平、新三郎。号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。.

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尾形光琳

尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) - 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家、工芸家。.

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山岡鉄舟

山陣屋前の若き日の山岡鉄舟像 山岡 鉄舟(鐵舟、やまおか てっしゅう)は、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。.

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山崎闇斎

山崎闇斎 山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。 諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。 朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られる。.

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山下幸内

山下 幸内(やました こうない、生没年不詳)は、江戸時代中期の浪人。 紀州藩の浪人で江戸麻布青山周辺に居住し、謙信流軍学者であると言われているが詳細は不詳。1721年(享保6年)、幸内は目安箱に諫書を投稿したが、これが世に言う山下幸内上書であり、享保の改革を批判した内容である。特に経済政策では、奢侈禁令のみを強制するのは金銀流通を停滞させ、市民救済する政策ではないと批判し、また8代将軍徳川吉宗が紀州藩主時代に施行していた小政策は天下の大局には適用出来ないと決め付けた。 これは当時の政局担当者の関心を集め、町奉行・寺社奉行・勘定奉行のいわゆる三奉行は上書を書写保存をした。 また、寛政改革の際、老中松平定信は、上書を諸老中に提示し、彼らの意見を求める等大きな影響を与えた。.

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山内容堂

山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1848年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。.

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山内一豊

山内 一豊(やまうち かつとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子とした。豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。.

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山県大弐

山県 大弐(やまがた だいに、1725年(享保10年) - 1767年9月14日(明和4年8月22日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家。野沢氏の出自。名は昌貞。字は子恒。通称を軍事のち大弐と称した。医号は柳荘、洞斎。戦国時代に甲斐武田氏の譜代家臣である山県昌景の子孫であるという。.

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山田宗偏

山田 宗徧(やまだ そうへん、寛永4年(1627年) - 宝永5年4月2日(1708年5月21日))は、江戸時代前期の茶人。宗徧流茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。.

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山田長政

山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。.

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山田浅右衛門

山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。.

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山片蟠桃

山片 蟠桃(やまがた ばんとう、延享5年/寛延元年(1748年) - 文政4年2月28日(1821年3月31日))は、江戸時代後期の商人であり学者「山片蟠桃」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。。名前は、升屋の番頭をしていたことからもじったもので、本名は長谷川芳秀、通称升屋小右衛門。.

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山鹿素行

赤穂城二の丸門跡そばにある素行の胸像 山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。.

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山脇東洋

山脇東洋解剖碑所在墓地、京都市中京区新京極通三条下る東入 九臓背面図(『蔵志』 山脇 東洋(やまわき とうよう、宝永2年12月18日(1706年2月1日)- 宝暦12年8月8日(1762年9月25日))は、江戸時代の医学者。実験医学先駆者の一人。東洋は後の号で、はじめは移山。名は尚徳、字は玄飛、子飛。子に山脇東門、門下に永富独嘯庵らがいる。.

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山東京伝

山東 京伝(さんとう きょうでん、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けた。.

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山村才助

山村 才助(やまむら さいすけ、明和7年(1770年)- 文化4年9月19日(1807年10月20日))は、江戸時代後期の地理学者。父は土浦藩士の山村昌茂(司)、母はまき。才助は通称で、名は昌永、字は子明、号に夢遊道人。.

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屋代弘賢

屋代 弘賢(やしろ ひろかた、宝暦8年(1758年) - 天保12年閏1月18日(1841年3月10日)は、江戸時代後期の江戸幕府御家人(右筆)・国学者。江戸神田明神下の幕臣屋代忠太夫佳房の子。通称は太郎。号は輪池。初名は詮虎。その後、諱を詮賢、弘賢、詮丈の順に改める。.

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岡田以蔵

岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、江戸時代末期の土佐藩郷士。 司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(読みについては「よしふる」の他「たかのぶ」、「のぶたつ」等諸説あり不明)。幕末の四大人斬りの一人。.

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岡熊臣

岡 熊臣(おか くまおみ、天明3年3月9日(1783年4月10日) - 嘉永4年8月6日(1851年9月1日))は、幕末に活躍した日本の国学者。石見国鹿足郡木部村(現・島根県鹿足郡津和野町)出身。.

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岩佐又兵衛

伝岩佐又兵衛(自画像) MOA美術館 岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい).

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.

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岩瀬忠震

岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された。維新後に正五位を贈られた。島崎藤村の「夜明け前」にも登場する。.

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岸本由豆流

岸本 由豆流(きしもと ゆずる、寛政元年(1789年) - 弘化3年閏5月17日(1846年7月10日))は、江戸時代後期の国学者。やまぶき園、尚古考証園と号した。.

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峰崎勾当

峰崎勾当(みねざき こうとう、生没年不詳)は18世紀末から19世紀初頭に大阪で活動した盲人音楽家(地歌三味線演奏家、作曲家)。峯崎とも書く。.

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島田虎之助

島田 虎之助(しまだ とらのすけ、文化11年4月3日(1814年5月22日) - 嘉永5年9月16日(1852年10月28日))は、江戸時代後期の剣客。諱は直親。号は峴山。 男谷信友、大石進とならび幕末の三剣士といわれた。直心影流島田派を名乗った。虎之助は剣術以外に儒教や禅を好んで学び、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉が知られている。.

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島津重豪

島津 重豪(しまづ しげひで)は、江戸時代後期の大名。島津氏第25代当主で、薩摩藩の第8代藩主。第11代将軍徳川家斉の正室(御台所)・広大院の父。 いわゆる「蘭癖大名」のひとりとされる。.

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島津斉彬

島津 斉彬(しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。島津氏第28代当主。 薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。.

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崇源院

崇源院(すうげんいん、天正元年〈1573年〉8月 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。位階は従一位。浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。 最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子は、姉茶々の猶子となる。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。.

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川崎善三郎

川崎 善三郎(かわさき ぜんざぶろう、万延元年(1860年)4月 - 昭和19年(1944年)4月29日)は、日本の剣道家。流派は無外流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。職業は警察官。諱は重徳。.

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川勝広綱

川勝 広綱(かわかつ ひろつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。秀氏流川勝家(本家)の2代当主。.

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川勝隆尚

川勝 隆尚(かわかつ たかなお)は、江戸時代前期から中期の旗本。元館林藩臣。隆尚流川勝家の初代当主。.

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川路聖謨

川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。 豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。.

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工藤平助

工藤平助(くどう へいすけ、享保19年(1734年) - 寛政12年12月10日(1801年1月24日))は江戸時代中期の仙台藩江戸詰の藩医で経世論家。『赤蝦夷風説考』の筆者で、若き日の林子平に影響を与えた人物。医師としては工藤周庵(くどうしゅうあん)、還俗後は平助を名乗った。名(諱)は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)。号は万光(ばんこう)で、万幸、晩幸とも表記する。.

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左甚五郎

名誉右に敵なし左甚五郎(中央が左甚五郎。歌川国芳・画、江戸時代) 左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。 日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代 - 江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。.

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上田秋成

上田 秋成(うえだ あきなり、享保19年6月25日(1734年7月25日) - 文化6年6月27日(1809年8月8日))は、江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。怪異小説『雨月物語』の作者として特に知られる。.

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上田馬之助

上田 馬之助(うえだ うまのすけ、1831年(天保2年) - 1890年(明治23年)4月1日)は、日本の武士(肥後新田藩藩士)、剣術家(鏡新明智流)、警察官。諱は美忠(よしただ)。 遠江国浜松藩出身の新選組隊士、上田馬之助は同姓同名の別人である。上田馬之丞、上原馬之介、植原右馬之助等も新選組の上田馬之助の別名である。.

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上杉治憲

上杉神社に立つ銅像 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。 上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。 領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。.

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上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

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与謝蕪村

与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数ある。 鳶鴉図(重要文化財) 紙本着色.

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中山忠光

大蘇芳年(月岡芳年)画) 中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日(1845年5月18日) - 元治元年11月15日(1864年12月13日))は、江戸時代末期(幕末期)の公家。.

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中山愛親

中山 愛親(なかやま なるちか)は、江戸時代後期の公家。 宝暦11年(1761年)参議に任命され、安永3年(1774年)権大納言に至る。天明2年(1782年)議奏となり、光格天皇に近侍した。天皇の父閑院宮典仁親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態は紛糾した(いわゆる「尊号一件」)。寛政5年(1792年)幕府の命により武家伝奏正親町公明とともに江戸に喚問され、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰洛したのち蟄居し、議奏を罷免された。 明治時代に入り、明治17年(1884年)従一位が贈られている。なお明治天皇は愛親の来孫に当たる。 尊号一件で愛親が勅使として江戸に下った際に、江戸城の将軍徳川家斉の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、これを元に『中山東下記』『中山伝記』といった小説(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)が密かに書かれている。またこの経過に触れている漫画として、みなもと太郎の『風雲児たち』がある。.

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中島広足

中島 広足(なかじま ひろたり、1792年4月25日(寛政4年3月5日) - 1864年2月28日(文久4年1月21日))は、江戸時代後期の熊本藩士、国学者、歌人。橿園(かしぞの、きょうえん)と号した。 肥後国熊本城下(現・熊本市)に、代々細川家の家臣の家に生まれる。11歳の時、父・惟規が亡くなったため家督を継ぎ、15歳で御小姓役となり細川斉茲に仕えた。病気により24歳で家督を妹婿に譲り、本居宣長に国学を学んだ長瀬真幸に師事し、国学を研究した熊本日日新聞社編『熊本人物鉱脈』熊本日日新聞社、1961年、6-8頁。 30歳の頃、長崎に移り住み、長崎諏訪神社の神官らと交流を持ち家塾を開いて和歌や国学などを教えた。のち大坂に移り過ごしたが、晩年は熊本に戻り藩校時習館の国学教授となって多くの門弟を育てた。著書に、『橿園集』、『志能数多礼』(しのすだれ)などがある。.

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中川淳庵

中川 淳庵(なかがわ じゅんあん/じゅんなん、元文4年(1739年) - 天明6年6月7日(1786年7月2日)は江戸時代中期の医者・本草学者・蘭学者。はじめ純安と名乗る。名は鱗(りん)もしくは玄鱗。字は攀卿。若狭国小浜藩の蘭方医であり、杉田玄白の後輩にあたる。前野良沢・杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳した。向学心と積極性に富み、多くの学者と交わり、蘭学の発展に貢献する。.

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中井竹山

中井竹山(なかい ちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日) - 享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所 懐徳堂の四代目学主として全盛期を支える。中井甃庵の長男。中井履軒は実弟。中井蕉園は子。中井碩果、並河寒泉は孫。中井桐園(履軒の孫)は碩果の養子。中井木菟麻呂は桐園の子。 名を善太、元服後に積善と改名。字は子慶。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁など。.

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中井正清

中井 正清(なかい まさきよ、永禄8年(1565年) - 元和5年1月21日(1619年3月7日))は、江戸時代初期の大工頭。大和国出身。中井正吉の子。通称は藤右衛門。.

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中御門天皇

中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.

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中甚兵衛

大和川治水記念公園(柏原市・安堂交差点北西角)にある中甚兵衛像 中 甚兵衛(なか じんべえ、寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日(1730年10月31日))は江戸時代初期の農民。河内国河内郡今米村(現・大阪府東大阪市今米)の庄屋。次男として生まれた。 大和川の付け替え工事に奔走した人物であり、周辺の芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛らの協力を得て、江戸幕府に大和川付け替えや治水計画を50年近くにわたって嘆願し続け、最後は農民の身でありながら並み居る幕臣に交じって、付け替え工事を指揮した。 甚兵衛の父や家族、初期に付け替え嘆願に携わった関係者等の通説や、甚兵衛の子孫による調査とでは関係者名や活動に関する記述や調査結果が異なるなど混乱が見受けられており、十代目の子孫である中九兵衛が史料の発掘・調査と通説の訂正に取り組んでいる。.

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中村てき斎

中村 惕斎(なかむら てきさい、寛永6年2月9日(1629年3月3日) - 元禄15年7月26日(1702年8月19日))は江戸時代前期の儒学者、本草学者。名は之欽(しきん)。字は敬甫。通称は七左衛門、仲二郎。.

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中村歌右衛門

中村 歌右衛門(なかむら うたえもん)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は初代と三代目が加賀屋、二代目が蛭子屋、四代目以降が成駒屋。定紋は祇園守、替紋は裏梅。 もとは上方の役者だったが、三代目が江戸に下った。四代目までは立役として、五代目以降は女形として活躍。成駒屋系の最も古く権威ある名跡で、現在ある中村姓の名跡は、中村勘三郎系と中村富十郎系を除くすべてがこの歌右衛門系となっている。墓所は、初代・三代目は大阪市中央区中寺の正法寺、二代目・六代目が青山霊園にある。.

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中江藤樹

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日(慶長13年3月7日) - 1648年10月11日(慶安元年8月25日))は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。別号に嘿軒(もくけん)、顧軒(こけん)。出典 「先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成」竹林貫一編.

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布田保之助

藤鎮夫作「布田保之助銅像」 布田 惟暉(ふた これてる)または布田 保之助(ふた やすのすけ、享和元年11月26日(1801年12月31日) - 明治6年(1873年)4月3日)は、熊本県上益城郡(現・山都町)の矢部手永の惣庄屋(そうじょうや)(村長)で、事業家。特に荒地の白糸台地を灌漑した通潤橋を建設した。後に神社に祭られた。.

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市川團十郎

三升 杏葉牡丹 鎌輪ぬ 市川 團十郞(いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。 昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。--> -->.

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三宅観瀾

三宅 観瀾(みやけ かんらん、延宝2年(1674年) - 享保3年8月21日(1718年9月15日))は、江戸時代中期の儒学者。名は緝明(つぐあき)、字は用晦、通称は九十郎、号は観瀾。兄に大坂懐徳堂の学主・三宅石庵がいる。.

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三井高利

三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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下河辺長流

下河辺 長流(しもこうべ ちょうりゅう/しもこうべ ながる、寛永4年(1627年)? - 貞享3年6月3日(1686年7月22日))は、江戸時代前期の歌人・和学者。姓は片桐氏の家臣小崎氏であるが、母方の姓である下河辺氏を名乗る。名は共平。通称は彦六。別号は長龍、吟叟居。大和国立田の生まれとも、宇多の生まれともいう。 木下長嘯子に私淑し、俳諧連歌の祖西山宗因に連歌を学ぶ。三条西家に青侍として仕え、『万葉集』の書写・研究に努めた。その後、徳川光圀から『万葉集』の注釈を依頼されたが、病気のため没し、その後は交流のあった契沖に引き継がれた。1670年(寛文10年)に編修・刊行した「林葉累塵集(りんようるいじんしゅう)」は、最初の地下(じげ=一般庶民)の歌人による撰集である。戸田茂睡とともに江戸時代初期における国学の先駆者となった。 著書に「万葉管見」「万葉集名寄」、歌集に「晩花和歌集」がある。 ちようりゆう Category:江戸時代の青侍 Category:江戸時代の歌人 Category:国学者 Category:17世紀の学者 Category:1627年生 Category:1686年没.

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幡随院長兵衛

江戸時代後期に描かれた幡随院長兵衛のイメージ。歌川国芳「国芳もやう正札附現金男・幡随長兵衛」 幡随院長兵衛夫妻の墓 (源空寺) 幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。.

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平原善松

平原 善松(ひらはら よしまつ、平松善松とも。生年不明 - 文化5年(1808年)6月)は、江戸時代の水主・漂流民である。 記録に残っている中では最初にハワイ諸島に上陸した日本人の一人であり、善松が水主として乗り組んでいた稲若丸の遭難は漂流中に外国船に救助される最初の事例となった。.

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平住専安

平住 専安(ひらずみ せんあん、生年不詳 - 享保19年8月7日(1734年9月4日))は、元禄年間から宝永年間にかけて伊予吉田藩(伊達氏、現・愛媛県宇和島市吉田町)にて御殿医を勤めた儒医で、儒学者、朱子学者(崎門学脈(山崎闇斎)、浅見絅齋-山本復斎門下)、本草学者でもあった。名は「周道」。字は「専安」。号は「専庵」、「専菴」、「建春山人」、「橘墩」、「橘館」、「静斎」、「季直」と称した。.

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平田篤胤

平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。 復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。.

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平田鐵胤

平田 鉄胤(ひらた かねたね、1799年12月31日(寛政11年12月6日) - 1880年(明治13年)10月25日)は、江戸時代後期の日本の国学者。.

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平田靱負

平田 靱負(ひらた ゆきえ)は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。父は平田正房、母は島津準3男家の島津助之丞忠守の娘。諱は宗武のち、宗輔、正輔。通称は初め次郎兵衛のち、新左衛門、掃部、靱負。公的には病死だが、宝暦治水の責任をとって自害したとされる。後に、孫の平田袈裟次郎が家督相続する(「平田靱負関係資料」参照)。その時の石高は533石(「嶋津家分限帳」参照)。.

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平賀元義

平賀 元義(ひらが もとよし、寛政12年7月3日(1800年8月22日) - 慶応元年12月28日(1866年2月13日))は、幕末期岡山の国学者、歌人、書家。 賀茂真淵に私淑し独学により国学を修め、中国地方の地理歴史、神社史研究に打ち込んだが、本人は余技とした万葉調の和歌により名を知られる。また、その独特の筆跡で能書家としても愛好されている。元の姓は平尾、幼名は猪之介、後に七蔵とした。喜左衛門、丹介とも称す。名は直元、長元、義元とも言う。また、祖母の姓を借り、興津(沖津)姓を名乗ったこともあった。号は源猫彦(ねこのひこ)、吉備雄、備前処士等。友人に同じく国学者、歌人の萩原広道がいる。.

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平賀源内

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。.

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幕末の人物一覧

幕末の人物一覧(ばくまつのじんぶついちらん) 幕末に活躍した人物の一覧。幕末の期間には明確な定義はないが、原則としてペリーアメリカ軍の黒船 来航の1853年~(嘉永6年)から1868年(慶応4年・明治元年)大政奉還まで活躍していた人物。 江戸時代の人物一覧・明治時代の人物一覧と一部重複する。.

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久留島喜内

久留島 喜内(くるしま きない、1690年頃? - 宝暦7年11月29日(1758年1月9日))は江戸時代の和算家で将棋指し。本名は義太(よしひろ)。沾数(扇数)と号した。収入のほとんどを酒につぎ込むほどの酒好きで、自身では著書をほとんど残さなかった。その独創的な学説が伝わるのは、弟子が彼の原稿・理論をまとめたことによる。.

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久蔵

久蔵(きゅうぞう、天明7年(1787年) - 嘉永6年6月28日(1853年8月2日))は江戸時代の水主。種痘苗を広島県にもたらした。.

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二宮尊徳

二宮 尊徳(にのみや たかのり)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、有職読みで「そんとく」と読まれることが多い。 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。.

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亜欧堂田善

亜欧堂 田善(あおうどう でんぜん、寛延元年(1748年) - 文政5年5月7日(1822年6月25日))は、江戸時代後期の洋風画家、銅版画家。生れは陸奥国須賀川(現在の福島県須賀川市)。本名は永田善吉で、略して田善と称した。可大ともいった。亜欧堂田善は号で、「AEUDOO DENZENTO」と落款する。別号に星山堂、亜欧陳人。.

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広瀬淡窓

広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号である。通称は寅之助のちに求馬(もとめ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。当初の号は別号は青渓。死後、弟子たちにより文玄先生とおくり名されたという。末弟に広瀬旭荘、弟・広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の広瀬勝貞は現大分県知事。.

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庄蔵

庄蔵(しょうぞう、文化7年(1810年) - ?)は、江戸時代の水主・漂流民。肥後国飽託郡川尻の出身。.

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井原西鶴

井原 西鶴(いはら さいかく、寛永19年(1642年)? - 元禄6年8月10日(1693年9月9日))は、江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。 『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。.

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井上正就

井上 正就(いのうえ まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、譜代大名、江戸幕府老中。遠江国横須賀藩初代藩主。浜松藩井上家初代。.

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井上文雄

井上 文雄(いのうえ ふみお)は、日本の映画プロデューサー。横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)卒業。.

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井伊直孝

井伊 直孝(いい なおたか)は、江戸時代前期の武将・譜代大名。上野国白井藩主、近江国彦根藩2代藩主。.

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井伊直弼

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあるノートページ参照)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。.

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井戸正明

井戸 正明(いど まさあきら、寛文12年(1672年) - 享保18年5月26日(1733年7月7日)は、江戸時代中期の幕臣、大森代官、笠岡代官。享保の大飢饉の際に石見銀山領を中心とする窮民救済のため数々の施策を講じた。その名については「正明」とする文献が多いが、「正朋」とする文献もあり一致していない(なお、この点につき昭和47年版の島根県編『島根県誌』第8巻661頁では享保18年の遺言状などを根拠に「正朋」が正しいとしている)。石見地方などでは通称の「平左衛門」のほうが一般的であり、今日でも「芋代官」あるいは「芋殿様」と慕われている。.

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今川直房

今川 直房(いまがわ なおふさ)は、江戸時代初期の旗本。今川氏13代当主家祖・国氏から数えた代数。。今川範以の子。江戸幕府に仕え、高家今川氏初代当主となった。初名は範英(のりひで)。.

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今井似閑

今井 似閑(いまい じかん、明暦3年(1657年) - 享保8年10月4日(1723年11月1日))は、江戸時代前期の国学者。号は見牛・偃鼠亭。大字屋市兵衛と称する京都の豪商。 はじめ木瀬三之(きせさんし)、下河辺長流に師事したが、ついで契沖に師事して『万葉集』について講義を受けた。契沖の死後、その手沢本(しゅたくぼん)などを集めて京都上賀茂神社の三手文庫(みてぶんこ)に納めたため、後世に伝えられて散逸するのを免れた。 著書に「万葉緯」「神楽歌注釈」などがある。 Category:国学者 Category:18世紀の学者 Category:1657年生 Category:1723年没.

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今井信郎

今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)。京都見廻組に参加しており、近江屋事件で暗躍したとされている。 明治維新後は、自由民権運動を展開した三養社に携わり、榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市初倉地域)の村長を務めた。.

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今村知商

今村 知商(いまむら ともあき、ちしょう とも。通称:仁兵衛とも、生没年不詳)は、江戸時代初期の数学者、和算家。河内国狛庄(現:大阪府)出身である。村松茂清と並んで円理の研究の先駆者として知られる。 1640年前後に活動したとされるが、生涯や伝記はほとんど不明で、幼少期の頃から数学を好んでいたことと毛利重能の弟子であり「毛利の三子」の一人であった。安藤有益、平賀保秀、隅田江雲などが知商の弟子であることしか分かっていない。 著書は現存されており、1639年に漢文で書かれた数学に於ける公式集の『堅亥録』や1640年に、数学の問題の解き方を和歌や長歌で記した『因帰算歌』があり、1642年には中国の政治史、政教を記した最古の歴史書である『書経』に記載が確認される閏月についての注釈が宋の蔡沈によって書かれてあるが、更にそれの注釈として計算を詳らかに説明した『日月会合算法』がある。 また、知商は数値を使った計算方法ではなく図形の問題を好んだとされ、後に知商の弟子である安藤有益が1662年に知商の著書『竪亥録』の注釈書である『竪亥録仮名抄』を書いた。 また、1660年に礒村吉徳の『算法闕疑抄』が著されるまで吉田光由が著者の『塵劫記』と知商の『竪亥録』が当時の教科書であった。.

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仁孝天皇

仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇(在位:文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。.

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仁阿弥道八

仁阿弥 道八(にんあみ どうはち、天明3年(1783年) - 安政2年5月26日(1855年7月9日))は江戸時代後期の陶芸家。二代高橋道八なのだが、一般的に「仁阿弥道八」の名前で有名である。隠居名「道翁」。.

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仁杉五郎左衛門

仁杉五郎左衛門(ひとすぎ ごろうざえもん、?-天保13年1月10日(1842年2月19日))は江戸時代の文化から天保期にかけての南町奉行所与力。本名幸生(ゆきなり)。後に幸信(ゆきのぶ)と改名した。駿河国駿東郡仁杉(ひとすぎ)村を発祥の地とする後北条家の家臣・仁杉伊賀守幸通(ゆきみち)から数えて9代目。.

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以心崇伝

以心崇伝(いしんすうでん、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。本光国師の称は、寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。俗姓は一色氏。徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取った。 起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。.

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建部綾足

建部 綾足(たけべ あやたり、享保4年(1719年) - 安永3年3月18日(1774年4月28日))は、江戸時代中期の俳人、小説家、国学者、絵師。片歌を好み、その復興に努めた。書号、寒葉齋.

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建部賢弘

建部 賢弘(たけべ かたひろ、寛文4年(1664年)6月 - 元文4年7月20日(1739年8月24日))は、江戸時代中期の数学者。父は旗本の建部直恒。号を不休。.

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建部清庵

建部清庵由正像一関市文化ホール前 建部 清庵(たてべ せいあん、正徳2年7月11日(1712年8月12日) - 天明2年3月8日(1782年4月20日))は、江戸時代中期の医者。陸奥国一関の地から杉田玄白と書簡を交わし、蘭学の発展に協力した。諱は由正(よしまさ)。字は元策。.

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仙太郎

仙太郎(せんたろう 天保3年(1832年) - 明治7年(1874年)10月8日)は江戸時代~明治時代の人物。安芸国瀬戸田村(現広島県尾道市)の出身。幼名は三太郎、のちに倉次郎。日本人で最初のバプテスト教会の信者である。.

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伊奈忠克

伊奈 忠克(いな ただかつ、元和3年(1617年) - 寛文5年8月14日(1665年9月22日))は、江戸時代初期の関東郡代。通称半左衛門。関東郡代伊奈忠治の嫡男。弟妹に治詣、忠重、主税、松平重長(図書)室、芦野資俊室。 子に忠常、杉浦正稙室。.

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伊奈忠次

伊奈 忠次(いな ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵小室藩初代藩主。.

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伊奈忠治

伊奈 忠治(いな ただはる)は江戸時代初期の代官頭。.

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会田安明

会田安明 会田安明(あいだ やすあき、「やすあきら」とも、延享4年2月10日(1747年3月20日) - 文化14年10月26日(1817年12月4日))は、江戸時代の和算家。字は子貫、自在亭と号す。安旦と表記されることもある。会田算左衛門とも名乗った。.

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伊達千広

伊達 千広(だて ちひろ、享和2年5月25日(1802年6月24日) - 明治10年(1877年)5月18日)は、幕末の紀州藩藩士で国学者。本名は宗広(むねひろ)。通称は藤二郎、号は自得。陸奥宗光の実父。史論書『大勢三転考』の著者。.

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伊達宗城

伊達 宗城(だて むねなり)は、幕末から明治初期にかけての大名・政治家。伊予宇和島藩8代藩主。伯爵。 大身旗本・山口直勝の次男。母は蒔田広朝の娘。正室は佐賀藩主・鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物である。.

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伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.

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伊能忠敬

伊能 忠敬(いのう ただたか地元などでは親しみと尊敬の念をこめて、有職読みで「いのうちゅうけい」とも呼ばれている。、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。 1883年(明治16年)、贈正四位。.

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伊藤仁斎

伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。 諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。.

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伊東一刀斎

伊東 一刀斎(いとう いっとうさい、生没年不詳)は戦国時代から江戸初期にかけての剣客。名字は伊藤とも。江戸時代に隆盛した一刀流剣術の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。諱は景久、前名、前原弥五郎。弟子に小野善鬼、古藤田俊直、神子上吉明ら。 英雄かく生まれり 過去世物語 英傑編(リバティ編集部)2006年(平成18年)6月29日発行 ISBN4-87688-549-4。 -->.

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会津小鉄 (幕末)

会津小鉄(あいづのこてつ、本名:上坂 仙吉(こうさか せんきち)、1833年7月7日(天保4年5月20日) - 1885年(明治18年)3月19日)は、京都の侠客。浪曲化され 、京山幸枝若により大ヒットした。 行友李風の『近世遊侠録』によると背中の文身は小町桜(小野小町が桜の下にいるとされる)。 1872年(明治5年)に妻(1851年?~1919年)を迎え1子を儲ける。.

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会津屋八右衛門

会津屋八右衛門(あいづやはちえもん、寛政10年(1798年) - 天保7年12月23日(1837年1月29日))は、江戸時代の回船問屋(浜田藩御用商人)。藩御用船「神福丸」船頭、清助の子。 本来は「今津屋八右衛門」であるが、昭和10年(1935年)建立の「八右衛門氏頌徳碑」に「會津屋」と記述され、会津屋が広まった。.

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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式亭三馬

式亭三馬(しきていさんば、安永5年(1776年) - 文政5年閏1月6日(1822年2月27日))は、江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。名は菊地泰輔、字は久徳。通称は西宮太助。戯号は四季山人・本町庵・遊戯堂・洒落斎(しゃらくさい)など。名が久徳で字が泰輔とする文献もある。.

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伝兵衛

伝兵衛(でんべえ)は、江戸時代中期の漂流者。記録に残る中では最初にロシアを訪れた日本人漂流民で、ロシアで日本語を教えた最初の日本人とされる。 大坂谷町の質屋の息子だった伝兵衛は、1696年、海路で江戸に向かう途中嵐に遭い、漂流の後カムチャツカ半島に漂着したが現地民に捕えられる。1697年にロシア人ウラジーミル・アトラソフ(ロシア語: Владимир Васильевич Атласов英語: Vladimir Atlasov)の探検隊に発見された。その後、ロシア帝国のモスクワに連れて行かれ、ピョートル1世に謁見した。さらに、ロシアにおける最初の日本語教師となった。また日本人初の正教徒となった。.

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伴信友

伴 信友(ばん のぶとも、1773年3月17日(安永2年2月25日) - 1846年12月2日(弘化3年10月14日))は、江戸時代後期の国学者。幼名は惟徳。通称は州五郎。号は事負。 博覧強記で、古典の考証に優れており、平田篤胤、橘守部、小山田与清とともに、「天保の国学の四大人」と呼ばれる。 若狭国小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれたが、1786年(天明2年)、同藩の伴信当の養子となる。1801年(享和元年)村田春門を介して本居宣長没後の門人となり、宣長の養子の本居大平に国学を学ぶ。1821年(文政4年)、息子の信近に家督を譲り、以後、学問に専念した。 平田篤胤、黒川春村、本居内遠などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていたが、後に齟齬を来して決別した。師弟関係を好まず、弟子をとることはなかった。 1846年(弘化3年)、京都の堀川で死去。.

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伴蒿蹊

伴蒿蹊(ばん こうけい、享保18年10月1日(1733年11月7日) - 文化3年7月25日(1806年9月7日))は、江戸時代後期の歌人・文筆家。名を資芳(すけよし)と称し、別号を閑田蘆と号した。生家は近江八幡出身の京都の商家で、8歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となった。18歳で家督を継ぎ家業に専念したが、36歳で家督を譲り隠居・剃髪し、その後は著述に専念した。著書『主従心得草』は近江商人の典型的な家訓、他に『閑田詠草』、『閑田耕筆』、『閑田次筆』など。『近世畸人伝』は、著名・無名な人物達の生活と意見が述べられ、17.18世紀江戸時代を知るのに有益な伝記集である。.

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伴林光平

伴林 光平(ともばやし みつひら/ばんばやし みつひら、文化10年9月9日(1813年10月2日) - 文久4年2月16日(1864年3月23日))とは、幕末の国学者、歌人、勤王志士。幼名は信丸、後に左京。通称、六郎。一時、並木春蔵の変名を使用。法名は大雲坊周永。号は破草鞋道人、八丘、斑鳩隠士、蒿斎、岡陵など。伴林の名は、生家近くの伴林氏神社(祭神:高御産巣日神、天押日命、道臣命。大伴氏の祖神を祀る)にちなむ。.

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住友政友

住友 政友(すみとも まさとも、天正13年11月11日(1585年12月31日) - 慶安5年8月15日(1652年9月17日))は、越前国丸岡出身の江戸時代の商人で住友家の初代。元涅槃宗の僧侶(文殊院空禅・員外嘉休)。 住友では商家・住友家を興した政友を家祖、南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発した政友の義兄蘇我理右衛門を業祖としている。.

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住吉如慶

住吉 如慶(すみよし じょけい、慶長4年(1599年) - 寛文10年6月2日(1670年7月18日))は、江戸時代前期の大和絵の絵師。江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖。泉州・堺出身。幼名は千夜叉丸、長十郎(長重麿)。名は広通、広道、或いは忠俊。通称は内記。旧姓は土佐。.

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佐久間象山

佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。.

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佐々木小次郎

一乗滝にある佐々木小次郎像 佐々木 小次郎(ささき こじろう、? - 慶長17年4月13日(1612年5月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。号は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)。ただし、名前についての詳細は不明な点も多い。 宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。.

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佐倉惣五郎

1889) より 佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)、通称は宗吾(そうご。惣吾とも)とされる。 領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。.

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佐藤中陵

佐藤 中陵(さとう ちゅうりょう、宝暦12年2月11日(1762年3月6日) - 嘉永元年6月6日(1848年7月6日))は、水戸藩の本草学者。名は成裕、字は子綽、通称は平三郎。中陵は号。他に、温故斎、青莪堂とも号した。.

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作兵衛

作兵衛(さくべえ、貞享5年2月10日(1688年3月11日) - 享保17年9月23日(1732年11月10日))は江戸時代の伊予国松山藩筒井村(現在の愛媛県松前町)の農民である。飢饉の折に種もみを口にすることなく餓死したため、後世に義農作兵衛と称された。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川家定

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代征夷大将軍。.

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徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

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徳川家継

徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。 第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。.

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徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。 徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男流産した兄がいたため次男とみなされることもある。だが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっていたためどちらも将軍後継者としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。.

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徳川家重

増上寺の墓所にある家重の石塔 徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。.

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徳川家治

徳川 家治(とくがわ いえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) - 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。.

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徳川宗尹

徳川 宗尹(とくがわ むねただ)は、江戸時代の一橋徳川家(御三卿の一つ)の初代当主。一橋宗尹とも名乗った。.

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徳川宗武

徳川 宗武(とくがわ むねたけ)は、江戸幕府第8代将軍・吉宗の次男。官位は従三位権中納言。松平定信の実父に当たる。江戸時代の御三卿・田安家の初代当主であり、田安 宗武とも呼ばれる。.

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徳川宗春

徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。尾張徳川家第7代当主・第7代尾張藩主。尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。 尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。 歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前の諱は兄徳川吉通の「通」の字を得て通春。.

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徳川忠長

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。.

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徳川和子

徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。.

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徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

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徳川光貞

徳川 光貞(とくがわ みつさだ)は、紀州藩の第2代藩主。初代藩主・徳川頼宣の長男で、徳川家康の孫。正室は伏見宮貞清親王の娘。子に5代藩主から8代将軍となった吉宗の他、綱教(3代藩主)・頼職(4代藩主)などがいる。極位極官は従二位権大納言。贈従一位。 3代将軍徳川家光や、他の徳川御三家の第2代当主(尾張藩主徳川光友・水戸藩主徳川光圀)とは従兄弟関係にある。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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徳川義直

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。.

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徳川頼宣

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室の養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める諱の一文字目については徳川家が源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「頼」の字を用いたものとみられる。。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。.

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徳川頼職

徳川 頼職(とくがわ よりもと)は、紀州藩の第4代藩主。.

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徳川頼房

徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。水戸徳川家の祖。徳川家康の十一男。.

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徳川茂徳

徳川 茂徳(とくがわ もちなが)は、幕末の高須藩の第11代藩主、尾張藩第15代藩主、一橋徳川家第10代当主。 高須藩時代は松平 義比(まつだいら よしちか)、尾張藩時代は徳川茂徳、一橋家時代は徳川 茂栄(とくがわ もちはる)を名乗った。.

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徳川重好

徳川 重好(とくがわ しげよし)は、徳川御三卿の一つ、清水徳川家の初代当主。清水 重好とも。.

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徳川治済

徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)は、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たる。.

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徳川斉順

徳川 斉順(とくがわ なりゆき)は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の7男。清水徳川家第3代当主を経て、第11代紀州藩主に転出した。.

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徳川斉昭

茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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徳川慶勝

徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。 弟に15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。 維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年(1878年)、この四兄弟は再会している。 幼名は秀之助、元服後(高須松平家時代)は松平義恕(まつだいら よしくみ)を名乗る。尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕(よしくみ)、のち慶勝と改名した。なお、本項ではすべて慶勝に統一する。.

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後光明天皇

後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は、江戸時代前期の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮(すがのみや)、諱を紹仁(つぐひと)という。儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。.

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後西天皇

後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.

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後藤寿庵

後藤寿庵廟堂(岩手県奥州市) 後藤 寿庵(ごとう じゅあん、天正5年(1577年)? - 寛永15年(1638年)?)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、キリスト教信者(キリシタン)。本名は岩淵又五郎。伊達氏の家臣。一説には葛西氏の旧臣。.

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後藤象二郎

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の幕末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助・佐々木高行)。 幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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後桜町天皇

後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年4月28日(1770年5月23日))。江戸時代、また今上天皇までで最後の女性天皇。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。という。.

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後桃園天皇

後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。 なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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得能関四郎

得能 関四郎(とくのう せきしろう、1842年2月24日(天保13年1月15日) - 1908年(明治41年)7月17日)は、日本の武士、剣術家、警察官。諱は通久。 幕末に直心影流剣術を修め、明治時代は警視庁に出仕し警護掛、撃剣世話掛を務めた。大日本武徳会から第1回精錬証及び範士の称号を授与された。.

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保科正之

保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と第4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君との呼び声も高い。また、将軍の「ご落胤」でもある。.

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俵屋宗達

俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生没年不詳)は、江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」など。.

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志筑忠雄

志筑 忠雄(しづき ただお、宝暦10年(1760年) - 文化3年7月3日(1806年8月16日))は、江戸時代長崎の蘭学者、阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。.

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土屋政直

土屋 政直(つちや まさなお)は、江戸時代中期の大名、老中。常陸土浦藩主、駿河田中藩主。.

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土井利勝

土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将・政治家。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った『江戸お留守居役の日記』 42ページ。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。.

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土佐光起

源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』、バーク・コレクション 土佐光起(とさ みつおき、元和3年10月23日(1617年11月21日)-元禄4年9月25日(1691年11月14日))は、江戸時代の土佐派を代表する絵師。和泉国堺出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人(叔父説あり)。子は土佐光成、土佐光親。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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土方歳三

土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年34歳。.

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北条氏長

北条 氏長(ほうじょう うじなが)は、江戸時代前期の幕臣、甲州流軍学者。北条流兵法の祖。通称は新蔵。後に氏永(うじなが)、正房(まさふさ)と改名する。甲州流兵学者小幡景憲の弟子で、近藤正純・富永勝由・梶定良らとともに「小幡門四哲同学」として名が挙がっている。.

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マシュー・ペリー

1855-56年頃のダゲレオタイプの写真 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)は、アメリカ海軍の軍人。 エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。.

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ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn (Lodensteijn), 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子(やようす)。 教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」である。.

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ラザフォード・オールコック

ー・ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB、1809年5月 - 1897年11月2日)は、イギリスの医師、外交官。清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務めた。日本語訳された著書に、開国後の幕末日本を紹介した『大君の都』がある。.

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ロドリゴ・デ・ビベロ

ドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ貴族、植民地政治家。江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、日本ではドン・ロドリゴ()の呼び名で知られる。 村上直次郎訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録』をはじめ、『国史大辞典』や『世界大百科事典』など、姓をビベロ・イ・ベラスコとする文献が多いが、これは父親のロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ()との混同によるもので、誤りである。.

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ヴァシーリー・ゴロヴニーン

ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin、1776年4月19日(ユリウス暦4月8日) - 1831年7月11日(ユリウス暦6月29日))はロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、探検家、学者。ゴロヴニン、ゴローヴニン、ゴロブニン、ゴローブニン、あるいはワシーリー・ゴローニンとも。日本語ではゴロウニン、ゴローウニンとも。.

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ヘンリー・ヒュースケン

ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken, 1832年1月20日 - 1861年1月15日)は、日本の江戸時代後期に伊豆国下田の玉泉寺に設置された駐日アメリカ総領事館の通弁官(通訳)。 ヘンリー・ヒュースケンは英語名で、オランダ語名はヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・ヘースケン「フースケン」と発音されることもある。(Hendrick Conrad Joannes Heusken)である。.

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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」だが、日本では「シーボルト」で知られている。出島の三学者の一人。.

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ニコライ・レザノフ

ニコライ・レザノフ ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。 露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。.

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別木庄左衛門

別木 庄左衛門(べっき しょうざえもん、生年不詳 - 承応元年9月21日(1652年10月23日))は、江戸時代前期の牢人。承応の変の首謀者。姓は戸次とも表記される。.

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喜多川歌麿

寛政三美人」 歌麿画 「江戸の花 娘浄瑠璃」 歌麿画 歌麿画。英国ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館所蔵 「山姥と金太郎 盃」歌麿画 喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、宝暦3年(1753年)頃? - 文化3年9月20日(1806年10月31日))とは、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。画名の読みは「うたまる」が正しいが見出しは慣例に従う。.

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喜多村信節

喜多村 信節(きたむら のぶよ、天明3年10月16日(1783年11月10日) - 安政3年6月23日(1856年7月24日))は江戸期の国学者。 江戸後期の風俗百科事典『嬉遊笑覧』の著者であり、喜多村 筠庭(きたむら いんてい)として知られる。筆号は他に筠居(いんきょ)、静々舎。通称彦助、後彦兵衛。江戸町年寄喜多村彦右衛門の弟、庶民社会の風俗や諸事に詳しく、多くの著作があり、他に『筠庭雑録』、『瓦礫雑考』、『武江年表補正』などがある。 Category:国学者 Category:辞典編纂者 Category:19世紀の学者 Category:武蔵国の人物 Category:1783年生 Category:1856年没.

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善六

善六(ぜんろく、明和6年(1769年) - 文化13年(1816年)頃)とは江戸時代後期の船乗り(水主)である。ロシア帝国に漂着してロシアに帰化し、日本語の通訳となった。 また、確実な記録に残っている中ではデンマーク、グレートブリテン島、カナリア諸島、ブラジル、ポリネシア(マルキーズ諸島、ハワイ諸島)を訪れた最初の日本人の1人であるただしグレートブリテン島やハワイについては上陸していないため、最初にグレートブリテン島に上陸した日本人は天保3年(1835年)の音吉ら宝順丸漂流民3名、ハワイに上陸した日本人は文化3年(1806年)の平原善松ら稲若丸漂流民8名である。しかし両地域ともそれ以前に訪れた日本人がいるという異説もある。。.

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周布政之助

周布 政之助(すふ まさのすけ、文政6年3月23日(1823年5月3日) - 元治元年9月26日(1864年10月26日))は、幕末の長州藩士。政之助は通称であり、諱は兼翼(かねすけ)という。また、変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。.

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和宮親子内親王

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。品位は二品、薨後贈一品。 「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。.

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アダム・ラクスマン

アダム・ラクスマン アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(露:Адам Кириллович Лаксман、瑞:Adam Laxman、1766年 - 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラックスマンとも表記される。.

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ウィリアム・アダムス

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。.

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ウィリアム・ウィリス

ウィリアム・ウィリス(William Willis, 1837年5月1日- 1894年2月14日)は、幕末から明治維新にかけて日本の近代医学・医療の基礎を築き、発展に貢献したイギリス人医師(医学博士)、外交官。.

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カール・ツンベルク

ール・ペーテル・ツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743年11月11日 - 1828年8月8日)は、スウェーデンの植物学者、博物学者、医学者。カール・フォン・リンネの弟子として分類学において大きな功績を残した。また出島商館付医師として鎖国期の日本に1年滞在し、日本における植物学や蘭学、西洋における東洋学の発展に寄与した。出島の三学者の一人。.

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シャクシャイン

ャクシャイン(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、1606年(慶長11年)? - 1669年11月16日(寛文9年10月23日))は、江戸時代前期のシベチャリ(北海道日高管内新ひだか町静内)のアイヌの首長。.

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ジョン万次郎

中浜万次郎/1880年(明治13年)頃の写真。 ジョン万次郎(ジョン まんじろう、旧字体:ジョン萬次郎、英語:、1827年1月27日〈文政10年1月1日〉 - 1898年〈明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マン(英語:)という愛称でも呼ばれた。土佐国(現・高知県)出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次郎)を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことで広まったもので、それ以前には使用されていない。 日米和親条約の締結に尽力し、その後、通訳・教師などとして活躍した。.

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ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

ョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(シドッチ、Giovanni Battista Sidotti、寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))は、イタリア人のカトリック司祭。江戸時代中期の日本へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉された。時の幕政の実力者、新井白石はシドッティとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著した。.

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タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス(, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。タウンゼンド・ハリスと表記されることもある。 日本の江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。.

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円山応挙

円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。.

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円空

円空(えんくう、寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。.

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内田五観

内田 五観(うちだ いつみ、文化2年(1805年)3月 - 明治15年(1882年)3月29日)は和算家である。 通称は恭または弥太郎、号は宇宙堂。文化12年(1815年)関流宗統五伝の日下誠(号を五瀬(いつせ))の算学塾に入門し、文政5年(1822年)18歳で宗統を譲られる。天保2年(1831年)に蘭学者の高野長英に入門した。天保3年(1832年)『古今算鑑』を著す。天保5年(1834年)富士山の高さを測量し、3475.7mの値を得て、『日本高山直立一覧』を著す。天保9年(1838年)韮山代官の江川英龍のもとで江戸湾の測量を行う。その後江戸幕府の職を辞し、私塾で門弟の指導にあたる。明治2年(1869年)陰陽寮が廃止されて大学校天文暦道局が設置されると、天文暦道御用掛に任じられ星学局督務などを務めたが、太陽暦への改暦によって天文局は廃止された。後に内務省で度量衡の統一にかかわった。東京学士会院の創立時の会員でもある。.

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内藤清成

内藤 清成(ないとう きよなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。後の高遠藩内藤家初代。内藤氏は岡崎譜代。.

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児玉南柯

児玉 南柯(児玉 南珂、こだま なんか、延享3年(1746年)- 文政13年1月4日(1830年1月28日))は、江戸時代後期の教育者、儒学者。岩槻藩士。岩槻藩大岡家に仕え、藩内の教学などの発展に尽力した人物である。父は豊島俊暠。児玉親繁の養子。江島生島事件の中心人物・絵島は、祖父(豊島常慶)の姉にあたる。南柯は号で、諱は琮。字は玉郷。通称は宗吾。.

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八百屋お七

月岡芳年 松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七) 八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。 なお、本項では日付表記は各原典に合わせ、原則は旧暦表記とする。.

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八重崎検校

八重崎 検校(やえざき けんぎょう、安永5年(1776年)頃 - 嘉永元年9月11日(1848年10月7日))は、19世紀前半に京都で活躍した盲人音楽家(地歌三味線、箏曲演奏家、作曲家)。.

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八橋検校

八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年) - 貞享2年6月12日(1685年7月13日))は、近世中期の日本を生きた人物である。江戸時代前期の音楽家であり、検校を務めた。名は城秀。出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくすすたいいしょう)』より陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされている。他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。.

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六人部是香

六人部是香(むとべ よしか、寛政10年4月22日(1798年6月6日) - 文久3年11月28日(1864年1月7日))は、幕末の国学者。山城国乙訓郡向日神社の神職(忠篤)の子。節香は忠篤の弟で、是香の伯父にあたる。初名惟篤 通称は縫殿・美濃守・宿禰などと称する。号は葵渓・一翁・篶舎など。生年は1806年説もある。享年66。.

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光崎検校

光崎 検校(みつざき けんぎょう、生年不詳 - 1853年頃)は、19世紀前半に京都で活躍した盲人音楽家(地歌三味線、箏演奏家、作曲家)。.

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光格天皇

光格天皇御胞塚、光格天皇の胞衣を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内 光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。.

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前原巧山

前原巧山 夫妻の墓、仏日山西江寺 前原 巧山(まえばら こうざん、文化9年9月4日(1812年10月8日) - 明治25年(1892年)9月18日)は、江戸時代末期から明治期に活躍した日本の技術者。巧山は号で、名は喜市(きいち)、元の名を嘉蔵(かぞう)と言う。純国産の蒸気船の製造で知られる。.

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前野良沢

前野 良沢(まえの りょうたく、享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日))は、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者のち江戸幕府の幕臣。『解体新書』の主幹翻訳者。良沢は通称で、姓に源を用いることもあった。名は熹(よみす)で、「余実寿」「Jomis」と自著することもある。字は子悦、号は楽山、のちに前野蘭化。.

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勝山 (遊女)

勝山(かつやま)は、江戸時代初期(17世紀)、特に承応・明暦年間、吉原で人気のあった遊女の源氏名である。元は江戸・神田四軒町雉町にあった「丹前風呂」の湯女であった。1653年(承応2年)8月、山本芳順に抱えられて吉原の太夫となり、1657年(明暦3年)8月、廓をしりぞいた。.

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勝海舟

勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。.

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勇之助

勇之助(ゆうのすけ、生年不明 - 明治33年(1900年))は、越後国岩船郡板貝村(現在の新潟県村上市)出身の水主2009年10月11日付新潟日報 11面 『碑は語る』。 嘉永5年(1852年)9月2日、勇之助を含めて13人の乗った廻船八幡丸が択捉島から仕入れた塩マスなどを積み荷に、新潟を目指して北海道の松前を出港した。この船の船主の善太郎は勇之助と同じ村上の寝屋の出身であった。翌日の夜、松前沖から津軽海峡に差し掛かるところで強風により舵が折れてしまい、漂流することになった。積み荷の塩マスや貯めた雨水などで食いつないでいたものの、病気や飢えなどから次々と命を落とし、翌年の5月には幸村之助を残して全員が死亡した。 嘉永6年(1853年)6月17日、近くを通りかかったアメリカの商船エマ・パッカー号に助けられ、サンフランシスコを訪れた。サンフランシスコでは同じく難破してアメリカ船に助けられた浜田彦蔵がおり、勇之助とアメリカ人の間の通訳を行った。その後は船の倉庫番として働く傍ら英語を覚え、1年ほどをアメリカで過ごし、結婚を持ちかけられたこともあったという。 嘉永7年(1854年)6月、マシュー・ペリーが日本を訪れたのを聞き、商船レディー・ピアース号に乗り当時日米和親条約にて開港していた港の一つ下田港から日本へと戻った。帰国後は厳しい取り調べを受けるが、下田奉行所の支配組頭であった伊佐新次郎は英語ができる勇之助に目をつけ通訳となることを持ちかけた。しかし勇之助はこれを断り故郷へと帰った。 勇之助には遭難前に1人の娘がおり、帰国後には妻との間にさらに娘をもうけた。明治時代には八十吉と改名したが、これはキリスト教(ヤソ)の国であるアメリカを訪れたことからだといわれている。八幡丸の船主善太郎の故郷である村上市寝屋の共同墓地には善太郎の墓の隣に八幡丸慰霊碑がある。.

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国司親相

国司 親相(くにし ちかすけ、天保13年6月15日(1842年7月22日)- 元治元年11月12日(1864年12月10日))は、江戸時代末期(幕末期)の武士。長州藩の家老。初名、朝相(ともすけ)。通称は熊之助。国司信濃(しなの)の名で知られる。養子に国司純行。妻は弥佐。.

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国定忠治

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。 後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となる。「赤城の山も今宵限りか」の名文句は有名である。 群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺に墓がある。 現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手によるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。.

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矢部定謙

部 定謙(やべ さだのり、寛政元年(1789年) - 天保13年7月24日(1842年8月29日))は、江戸時代後期の旗本、幕臣である。矢部定令の子。通称は彦五郎。位階は従五位下。官職は駿河守から左近衛将監に遷任し、駿河守に再任。戒名:晴雲山院殿秋月日高定謙大居士。荘照居成神社(そうしょういなり。山形県飽海郡遊佐町蕨岡上寺鎮座)の祭神として祀られる。墓所は東京都江東区平野の日蓮宗法苑山浄心寺。.

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矢野玄道

野 玄道(やの はるみち、1823年12月18日(文政6年11月17日) - 1887年5月19日)は、伊予国喜多郡阿蔵村有松(現、愛媛県大洲市)の国学者・神道学者。伊予大洲藩士の子。幼名は茂太郎。道号は天放散人、子清、神臣、谷倶久、後楽閑人、扶桑眞人倚松、谷蟆、梅屋。本姓は平(佐奈田余一義忠次男中山次郎盛実末)。平田篤胤門下。 維新後は神祇官・神祇省事務局判事、内国事務権判事を経て、京で教え、のち東京に移り、御系図取調御用、1877年文部省修史館御用掛、1878年6月正七位に叙せられ、宮内省御系譜掛となる。1882年皇典講究所初代学部長、1884年宮内省図書寮御用掛勤務など、明治初期の文教行政に深くかかわった。.

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石原正明

石原正明(いしはら まさあき)は、日本の国学者・歌人。.

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石川勾当

石川勾当(いしかわ こうとう、生没年不詳)は、19世紀前半に京都で活躍した盲人音楽家(地歌三味線演奏家、作曲家)。.

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石川雅望

石川 雅望(いしかわ まさもち、宝暦3年12月14日(1754年1月7日) - 文政13年閏3月24日(1830年5月16日))は、江戸時代後期の狂歌師、国学者、戯作者(げさくしゃ)。狂名、宿屋飯盛(やどやのめしもり)。.

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石田梅岩

梅岩塾の様子(ガレリアかめおか・京都府亀岡市) 石田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享2年9月15日(1685年10月12日) - 延享元年9月24日(1744年10月29日))は江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。名は興長。通称、勘平。.

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玉川兄弟

玉川兄弟(たまがわきょうだい)は、江戸時代の人物。兄は庄右衛門(しょうえもん、元和8年(1622年)? - 元禄8年6月6日(1695年7月16日))、弟は清右衛門(せいえもん、生年不明 - 元禄9年5月5日(1696年6月4日)?)。多摩川沿いの地域の農家であったとの説が有力である。1653年から54年にかけて玉川上水の開削の指揮をとったことで知られる。.

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玉松真弘

玉松 真弘(たままつ まひろ、文化7年3月17日(1810年4月20日) - 明治5年2月15日(1872年3月23日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての国学者。通称は操(みさお)。雅号は毅軒。.

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神尾春央

尾 春央(かんお はるひで、貞享4年(1687年) - 宝暦3年5月5日(1753年6月6日))は、江戸時代の旗本。官位は若狭守。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった。.

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福原元たけ

福原 元(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の長州藩の永代家老。通称は越後で、福原越後として知られる。長州藩支藩である周防徳山藩主毛利広鎮の六男で、最後の長州藩主となる毛利元徳の実兄である。.

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福羽美静

福羽 美静(ふくば びせい、「よししず」とも天保2年7月17日(1831年8月24日) - 明治40年(1907年)8月14日)は日本の武士・津和野藩士、国学者、歌人。通称は文三郎、号は木園、硯堂。子爵。貴族院議員、錦鶏間祗候。.

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福澤諭吉

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体:福沢 諭吉、天保5年12月12日(1835年1月10日)- 明治34年(1901年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。昭和59年(1984年)から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。 諱は範(はん)。字は子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。 現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的である。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。.

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稲生若水

生 若水(いのう じゃくすい、明暦元年7月27日(1655年8月28日)- 正徳5年7月6日(1715年8月4日))は江戸時代中期の医学者・本草学者・儒学者。名は稲生宣義、字は彰信。通称、正助。若水は号。別号としては白雲道人がある。.

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稲葉正勝

葉 正勝(いなば まさかつ)は、江戸時代前期の大名・老中。常陸国柿岡藩主、下野国真岡藩2代藩主、相模国小田原藩初代藩主。正成系稲葉家宗家2代。甥に堀田正盛。.

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稲村三伯

村 三伯(いなむら さんぱく、宝暦8年(1758年) - 文化8年1月16日(1811年2月9日))は、江戸時代後期の蘭学者。幼名は龍介『鳥取県大百科事典』64頁、名は箭、字は白羽。号は原昆堂、白髪書生。 石井庄助、宇田川玄真らの協力で、ハルマの蘭仏辞典を基に寛政8年(1796年)日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させる。.

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窪田鎮勝

鎮勝(くぼた しげかつ、 文化5年(1808年) - 明治11年(1878年)は、幕末の旗本(2000石)、江戸幕府最後の西国郡代。通称治部右衛門(じぶえもん)。戦国時代の柳川城主の蒲池氏の流れを汲み、晩年には先祖の蒲池姓から蒲池 鎮克(かまち しげかつ)と改名する。号は克斎。備前守窪田鎮章の父。扱心流体術の達人としても知られる。.

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竹居安五郎

竹居 安五郎(たけい やすごろう、文化8年4月15日(1811年6月5日) - 文久2年10月6日?)は、日本の侠客。言葉にどもりがあり、竹居の吃安とも言われる。本名は中村安五郎で、名は安蔵とも記される。甲州博徒の一人で、上黒駒村出身の黒駒勝蔵の兄貴分としても知られる。.

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竹中重義

竹中 重義(たけなか しげよし)は、江戸時代初期の大名。豊後府内藩2代藩主。初代藩主・竹中重利の長男。.

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竹内敬持

竹内 敬持(たけのうち たかもち、正徳2年(1712年) - 明和4年12月5日(1768年1月24日))は、江戸時代中期の神道家、尊王論者。父は越後の医師竹内宗詮。通称は竹内式部。号は正庵・羞斎(しゅうさい)など。子に竹内主計。 1728年(享保13年)頃上京して徳大寺家に仕え、山崎闇斎門下の松岡仲良・玉木正英に師事して、儒学・垂加神道を学んだ。家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授したことから、1758年(宝暦8年)の宝暦事件では、中心人物として重追放の処分を受けて京都を追放された。その後1767年(明和4年)山県大弐らによる明和事件の際、関与を疑われて八丈島に流罪となり、送られる途中に三宅島で病没した。 Category:江戸時代の人物 Category:神道に関連する人物 Category:越後国の人物 Category:1712年生 Category:1768年没.

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竹本義太夫

竹本義太夫(たけもとぎだゆう、慶安4年〈1651年〉 - 正徳4年9月10日〈1714年10月18日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛、初期には清水五郎兵衛と名乗る。のちに竹本筑後掾と称した。.

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箕作秋坪

箕作 秋坪(みつくり しゅうへい、文政8年12月8日(1826年1月15日)- 明治19年(1886年)12月3日)は江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者(蘭学者)、教育者、啓蒙思想家。名は矩、通称は文蔵。号は宜信斎。.

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箕作省吾

箕作 省吾(みつくり しょうご、文政4年(1821年)- 弘化3年12月13日(1847年1月29日))は、江戸時代後期の日本の地理学者。名は寛、字は玉海。.

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箕作阮甫

西新町) 箕作 阮甫(みつくり げんぽ、寛政11年9月7日(1799年10月5日) - 文久3年6月17日(1863年8月1日))は、日本の武士・津山藩士、蘭学者である。名は貞一、虔儒。字は痒西、号は紫川、逢谷。.

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細川重賢

細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、肥後熊本藩6代藩主。第4代藩主・細川宣紀の五男。熊本藩細川家7代。 紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。 初めは父・宣紀より1字を与えられて長岡紀雄(ながおか のりお)、兄・宗孝の跡を継いでからは細川重賢と名乗る。改名後の「重」の字は将軍徳川家重より偏諱を賜ったもので、「賢」の字はかつて細川典厩家が通字として用いていたものに由来する(実際、典厩家の当主にも同名の細川重賢という人物がいた)。.

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紀伊國屋文左衛門

紀伊國屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん、寛文9年(1669年)? - 享保19年4月24日(1734年5月26日)?)は、日本の江戸時代、元禄期の商人である。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して「紀文」(きぶん)と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。生没年もはっきりしないなど、人物伝には不明な点が多く、半ば伝説上の人物である。架空の人物であるとする説もあるが、実在したとする説が主流である。.

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続豊治

続 豊治(つづき とよじ、寛政10年(1798年)3月 - 明治13年(1880年)3月)は、日本の船大工。独自の調査を基に初期の西洋式帆船「箱館丸」を建造した。福士成豊は次男。.

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継右衛門

継右衛門(つぐえもん 、宝暦14年(1764年) - 没年不明 継右衛門文内とも)とは江戸時代後期の船頭である。.

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緒方洪庵

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は、江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。 諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎・華陰と称する。.

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真田幸貫

真田 幸貫(さなだ ゆきつら)は、江戸時代の大名、老中。信濃松代藩の第8代藩主。徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている。.

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猪飼敬所

敬所(いかい(いがい) けいしょ、宝暦11年3月22日(1761年4月26日) - 弘化2年11月10日(1845年12月8日))は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国出身。 経書や史書など、各種書物に詳しく、大和の儒学者谷三山の質問数十条にも答えたように、たいへん博識であった。中でも経書、特に三礼に精通していた猪飼敬所『葛原詩話標記』。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。 初めは石田梅岩の心学に傾倒して手島堵庵に師事するが、天明3年(1783年)に儒学を志して巌垣竜渓の門下に入る。京都、淡路洲本、但馬豊岡など各地で講説。天保2年(1831年)伊勢津藩主藤堂高猷に招かれて津藩儒となる。天保3年(1832年)9月8日、伊勢の津へ行くに際し挨拶のため頼山陽を訪れたが、山陽が瀕死の床にあるとは知らず、歴史を論じて北朝正統論を強く主張し、「今の朝廷は北朝の系統であるから、君は北朝の臣ではないか」といって山陽の怒りを買った。しかし、敬所は自説を曲げなかった。山陽は、9日後の9月17日にこの論争について篠崎小竹に語り、その6日後に没した。 天保9年(1838年)、藩主や門人の願いにより、京都から津に移住。晩年は両目を失明したが、それでも藩主に対し講義を続けた。弘化2年(1845年)11月10日死去、享年85。 現在、津市立西橋内中学校の北隣にある龍津寺の門前に、猪飼敬所先生墓所と刻んだ石柱が建っている。.

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烏丸光広

烏丸 光広(からすまる みつひろ)は、江戸時代前期の公卿・歌人・能書家。准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ。.

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絵島

絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、 江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の中心人物である。本名はみよ。.

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為永春水

永春水(ためなが しゅんすい、1790年(寛政2年) - 1844年2月11日(天保14年12月23日))は、江戸時代後期の戯作者。『春色梅児誉美』など人情本の代表作家。本名は佐々木貞高、通称は長次郎。筆名には、二代目南杣楚満人・二代目振鷺亭主人・狂訓亭主人・金竜山人・鷦鷯斎春水なども使った。.

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生田万

生田 万(いくた よろず、享和元年(1801年) - 天保8年6月1日(1837年7月3日))は、江戸時代後期の国学者。名は国秀、字は救卿、号に東華、大中道人。.

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田中大秀

中大秀65歳肖像 狩野永岳筆 田中大秀(たなか おおひで、安永6年8月28日(1777年9月29日) - 弘化4年9月16日(1847年10月24日))は、江戸時代後期の日本の国学者。初名は紀文(としぶみ)・大秀・八月麿。字は寿豊。号は千種園・賞月榭・湯津香木園(ゆつかつらぞの、屋号でもある)・荏野翁(えなのおきな)。通称は、弥次郎・弥兵衛・兵助。.

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田中久重

中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。.

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田中勝介

中 勝介(たなか しょうすけ、生没年不詳)は、江戸時代初期の京都の貿易商人。歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、また太平洋を横断・往復した日本人とされる春名(1994)記録に残り名前が判明している日本人では勝介が最初であるが、勝介以前にも無名の日本人が太平洋を横断した可能性はある。多くの日本人がルソン島に渡っており、遭難し救助されたサン・フランシスコ号の乗組員の中にも日本人がいて通訳をしたと伝えられている。。勝助とも呼ばれる。.

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田中新兵衛

中 新兵衛(たなか しんべえ、天保3年(1832年) - 文久3年5月26日(1863年7月11日))は、薩摩藩士。諱は雄平。尊王攘夷派で、幕末の四大人斬りの一人。.

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田能村竹田

能村竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日(1777年7月14日) - 天保6年8月29日(1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。 幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜(くんい)。通称は竹蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・ 藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。更に斎号(居室の名)に竹田荘・補拙廬・雪月書堂・対翠書楼など多数。.

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田村藍水

村 藍水(たむら らんすい、享保3年(1718年)-安永5年3月23日(1776年5月10日))は、江戸時代中期の医師・本草学者。本姓は坂上、名は登、字は元台、通称は元雄、号は藍水。子に田村西湖・栗本丹洲がいる。.

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田沼意知

沼 意知(たぬま おきとも、1749年(寛延2年) - 1784年5月20日(天明4年4月2日))は、江戸幕府の若年寄。老中を務めた遠江国相良藩主田沼意次の嫡男。母は黒沢定紀の娘。正室は松井松平康福の娘。子に田沼意明(長男)、田沼意壱(次男)、田沼意信(四男)。官位は従五位下、大和守、播磨守、山城守。.

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田沼意次

沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.

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由井正雪

由井 正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき、慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日(1651年9月10日))は、江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者である。名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある。.

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男谷信友

男谷 信友(おたに のぶとも、寛政10年1月1日(1798年2月4日) - 元治元年7月16日(1864年8月17日))は、幕末の幕臣、剣術家。直心影流男谷派を名乗った。その実力の高さと温厚な人格から、「幕末の剣聖」と呼ばれることもある。官位は従五位下下総守。通称は精一郎。号は静斎、蘭斎。幼名は新太郎。門下から島田虎之助、榊原鍵吉などの名剣士が輩出した。.

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畑中権内

畑中 権内(はたなか ごんない、宝暦3年(1753年)? - 文化13年(1816年)?)は日本の江戸時代寛政期に実在した庄屋である。出身地は摂津国島下郡車作村(現在の大阪府茨木市車作)。 地元・車作のかんがい用水路を完成させ、地域に大きな貢献をした人物として知られる。.

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牧庵鞭牛

牧庵 鞭牛(ぼくあん べんぎゅう、宝永7年(1710年) - 天明2年9月2日(1782年10月8日))は、江戸時代中期に陸奥国で活動した僧。 1710年(宝永7年)、和井内村(現在の岩手県宮古市)の農家にて出生。成長後は炭鉱夫などに従事していたが、22歳の時、母の死を機に仏門に入る。1748年、32歳の時に栗林村(現在の岩手県釜石市)曹洞宗常楽寺住職、38歳で林宗寺住職になる。 1755年、46歳の時に三陸・閉伊地方を襲った飢饉の被害のあまりの大きさに直面し、古くから陸の孤島であったこの地方と内陸とを結ぶ道を築く事を決意し、以後は三陸沿岸の海辺道をはじめ、宮古から盛岡に至る往路(現在の国道106号線の元となる)などの開削に生涯を捧げることとなる。 鑿や玄翁といった基本的な道具を使用し、道を塞ぐ巨岩に対しては薪で熱し冷水をかけ、脆くしてから破壊するという当時としては画期的な方法を用い、様々な難所を切り開くことに成功する。始めは鞭牛の行為を不信に思っていた住民らも、朝晩雨天構わず己の心身を省みない彼の献身に感銘を受け、次第に協力するようになっていった。 1765年(明和4年)には、盛岡藩より長年の開削の功績を称えられ、終身扶持を賜る。 鞭牛が開いた、宮古(閉伊)街道と呼ばれる往路は、総延長109kmに及ぶ。現在の国道106号線はこの街道を元に整備されたものである。 鞭牛が73歳で没する1782年(天明2年)までに携わった道路は、宮古〜盛岡間の宮古街道をはじめ、吉里吉里〜山田間、腹帯〜南川目間、宮古〜岩泉間、橋野〜鵜住居間などの改修の総延長は、およそ400kmという驚異的な距離であった。.

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牧野成貞

牧野 成貞(まきの なりさだ、寛永11年11月29日(1635年1月17日) - 正徳2年6月5日(1712年7月8日))は、上野館林藩家老、のち第5代将軍・徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主。名は成恒とも。通称は蔵人、兵部、大夢。越後長岡藩主、三河牧野氏の支族。成貞系牧野家初代。.

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狩野探幽

狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白をに生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。.

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瀧山

瀧山(滝山:たきやま、文化2年(1805年) - 明治9年(1876年)1月14日)は、江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の将軍付御年寄である。御鉄砲百人組・大岡義方の長女。名は多喜とも。同じころに大奥勤めをしていたませは姪にあたる。.

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隠元隆き

元隆琦の上陸地に建つ記念碑(右) - 京都府宇治市 隠元 隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉)は、明末清初の禅宗の僧。日本黄檗宗の祖。福建省福州福清県の生まれで、その俗姓は林である。 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。 なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。.

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銭屋五兵衛

銭屋 五兵衛(ぜにや ごへえ、安永2年11月25日(1774年1月7日) - 嘉永5年11月21日(1852年12月31日)は、江戸時代後期の加賀の商人、海運業者。金沢藩の御用商人を務めた。姓名の略から「銭五」とも呼ばれる。幼名は茂助。「五兵衛」は銭屋代々の当主が襲名する通称だが、この項では最も著名な最後の当主(三代目)について説明する。.

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隆光

隆光(りゅうこう、慶安2年2月8日(1649年3月20日)- 享保9年6月7日(1724年7月26日))は、江戸時代中期の新義真言宗の僧。出自は大和国の旧家河辺氏。初名は河辺隆長、字(あざな)は栄春。.

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音吉

音吉(おときち、文政2年(1819年) - 慶応3年(1867年)1月18日)は、江戸時代の水主・漂流民。後にはジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson) と名乗った。名は乙吉とも記される。.

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遠山景元

本妙寺) 遠山 景元(とおやま かげもと)は、江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、大目付、後に南町奉行を務めた人物である。テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』及び『江戸を斬る』の主人公のモデルとして知られる。幼名は通之進、通称は実父と同じ金四郎(きんしろう)。官位は従五位下左衛門少尉。.

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荷田在満

荷田 在満(かだ の ありまろ、宝永3年(1706年) - 寛延4年8月4日(1751年9月23日))は、江戸時代中期の国学者。父は荷田春満の弟羽倉高惟で、春満の養子となった。通称は東之進。字は持之。号は仁良斎。生れは山城国紀伊郡。 1728年(享保13年)江戸に出て有職故実について幕府の下問に答え、その後御三卿の一人田安宗武に仕えた。1739年(元文4年)『大嘗会便蒙』(だいじょうえべんもう)を出版したが、朝廷の秘儀を公開した罪で筆禍をこうむり、100日間の閉門に処せられた。また、賀茂真淵を田安宗武に推挙している。 著書に有職故実関係の『令三弁』『装束色彙』や、『国歌八論』『白猿物語』がある。 Category:国学者 Category:18世紀の学者 Category:山城国の人物 Category:1706年生 Category:1751年没.

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荷田春満

荷田 春満(かだ の あずままろ、寛文9年1月3日(1669年2月3日)- 元文元年7月2日(1736年8月8日))は、江戸時代中期の国学者・歌人。通称は、斎宮(いつき)。初名は信盛と称し、のちに東丸。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人とされる。.

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荻原重秀

荻原 重秀(おぎわら しげひで、万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))は、江戸幕府の旗本。勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。.

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荻生徂徠

荻生 徂徠(おぎゅう そらい、正仮名遣:をぎふそらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、実名としては「しげのり」、字としては「もけい」と読む。通称は総右衛門。徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物茂卿」とも号した。父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。その弟の影響を受けて、『明律国字解』を著している。.

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荒木又右衛門

荒木 又右衛門(あらき またえもん、慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日(1638年10月5日))は、江戸時代初期の武士、剣客。名は保知(やすとも)、保和とも。鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い。.

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荒木田久老

荒木田 久老(あらきだ ひさおゆ、延享3年11月21日(1747年1月1日) - 文化元年8月14日(1804年9月17日))は、江戸時代中期から後期にかけての伊勢神宮祠官、国学者。初名は正恭、後に正薫と名乗った。通称は弥三郎、主税(ちから)、斎(いつき)など。号を五十槻と称し、家号を五十槻園(いつきのその)と称した。 実父は外宮権禰宜橋村正身(はしむらまさのぶ)。最初は宇治秀世の養子となったが、安永2年(1773年)に荒木田久世の婿養子となり、内宮権禰宜となった。 明和2年(1765年)江戸で賀茂真淵に師事し、国学や和歌などを学び、特に『万葉集』を研究した。『万葉考槻之落葉』『祝詞考追考』『日本紀歌之解』『続日本紀歌之解』『竹取翁歌解』などの研究書を著している。なお、晩年は伊勢国の県門として本居宣長の学派と対立した。.

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菊岡検校

菊岡検校(きくおかけんぎょう、寛政4年(1792年) - 弘化4年11月12日(1847年12月19日))は19世紀前半に京都で活躍した盲人音楽家(地歌三味線演奏家、作曲家)。.

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華岡青洲

華岡 青洲(はなおか せいしゅう、宝暦10年10月23日(1760年11月30日) - 天保6年10月2日(1835年11月21日))は、江戸時代の外科医。記録に残るものとして、世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させた。 諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父・華岡尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目である。.

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菱川師宣

『見返り美人図』 菱川師宣筆。1948年(昭和23年)発行、および1991年(平成3年)発行の「切手趣味週間」、1996年(平成8年)発行の「郵便切手の歩みシリーズ・第6集」の各図案にそれぞれ採用されている。 菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ、元和4年〈1618年〉 - 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)とは、近世日本の画家。江戸初期に活動した浮世絵師の一人。生年は寛永7-8年(1630年-1631年)ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵を確立した人物であり、すなわち最初の浮世絵師である。.

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菅江真澄

菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。知之(ともゆき)、白超とも名乗った。.

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萩原広道

萩原 広道(はぎわら ひろみち、文化12年2月19日(1815年3月29日) - 文久3年12月3日(1864年1月11日))は、江戸時代末期の歌人・翻訳家・作家・国学者である。号は蒜園(にらぞの)。備前(現・岡山市中区網浜)出身。代表作は、『源氏物語評釈』。.

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萩原兼従

萩原 兼従(はぎわら かねより、天正16年(1588年) - 万治3年8月13日(1660年9月17日))は、江戸時代前期の神道家。吉田兼治の子。母は細川藤孝(細川幽斎)の娘。室は高台院の姪。萩原家の祖。 1599年(慶長4年)、祖父吉田兼見の画策により兼見の養子となり、豊臣秀吉を祀る豊国神社の社務職に就任し萩原を名乗る。1615年(元和元年)大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、豊国神社は破却され、職を失った兼従は豊後国の領地に下ったが、伯父である細川忠興の計らいにより徳川幕府から特別に赦された。 その後本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた。兼従の死後、吉田神社の境内に「神海神社」が創建された。.

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青山延于

青山 延于(あおやま のぶゆき、安永5年(1776年) - 天保14年9月6日(1843年9月29日))は、江戸時代の儒学者で水戸藩士。江戸彰考館総裁。弘道館初代教授頭取(総教)。『大日本史』の校訂・出版の作業を推進した。字は子世、通称は量介(量助)、号は拙斎、雲竜。.

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青山忠俊

青山 忠俊(あおやま ただとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川幕府譜代大名。常陸国江戸崎藩2代藩主、武蔵国岩槻藩主、上総国大多喜藩主。青山家宗家2代。.

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青山忠成

青山 忠成(あおやま ただなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府町奉行、老中。常陸国江戸崎藩初代藩主。青山家宗家初代。.

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青松院

青松院(せいしょういん、寛政8年(1796年) - 明治4年(1871年))は、田安徳川家当主徳川斉匡の側室。松平春嶽、徳川慶臧、至姫、筆姫(鍋島直正室)の生母。閑院宮家司木村大進政辰の娘で、実名はれゐ(連以)。春嶽が切望して、実家の田安家から養子先の越前松平家に迎え入れた。 Category:江戸時代の大名の側室 Category:御三卿家の人物 Category:幕末の女性 Category:幕末越前福井藩の人物 Category:1796年生 Category:1871年没.

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青木周弼

青木 周弼(あおき しゅうすけ、享和3年1月3日(1803年1月25日) - 文久3年12月16日(1864年1月24日))は、蘭方医。周防国大島郡和田村の村医青木玄棟の長子、名は邦彦、号は月橋、字は周弼。 初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事した。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。 1839年に長州藩医、1842年、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、1855年に御側医に昇進した。研藏とともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞した。 著書に「袖珍内外方叢」、「察病論」など。 山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。.

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青木木米

青木木米像(田能村竹田画) 青木聾米宅蹟(京都市東山区川端通四条上る東側) 青木 木米(あおき もくべい、明和4年(1767年) - 天保4年5月15日(1833年7月2日))は江戸時代の絵師、京焼の陶工である。京都生まれ。幼名は八十八。字は佐平。号は青来、百六散人(百六山人)、古器観、亭雲楼、九九鱗、木米、聾米。通称は木村佐兵衛である。.

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青木昆陽

青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))は、江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生と呼ばれる。名は敦書(あつのり、あつぶみ)、字は厚甫(原甫とも)、通称は文蔵、昆陽と号した。.

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頼山陽

書斎山紫水明處・京都市上京区 頼山陽の署名「頼襄」 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。.

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飯塚伊賀七

飯塚 伊賀七(いいづか いがしち、宝暦12年3月29日〔グレゴリオ暦 1762年4月23日〕 - 天保7年11月17日〔グレゴリオ暦 1836年12月24日〕)は、江戸時代後期の発明家。谷田部藩領の常陸国筑波郡新町村(現:茨城県つくば市谷田部)に生まれ、生涯を谷田部で過ごした。「谷田部にすぎたるもの3つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と呼ばれ、谷田部の象徴的な存在だった。 名主(庄屋)を務めるかたわら、建築・和算・蘭学などを学び、からくりや和時計を数多く製作した茨城県地域史研究会 編(2006):80ページほか、飛行実験、地図製作、多宝塔や五角堂の設計など多方面で活躍し、村人を驚かせた「日研」新聞編集委員会 編(1991):184ページ。そのため、からくり伊賀またはからくり伊賀七の異名を持つ。平成時代には「つくばのダ・ヴィンチ」という呼び名も登場しているつくば市教育委員会 編(2012):2ページ。.

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飯岡助五郎

飯岡 助五郎(いいおか すけごろう、寛政4年(1792年) - 安政6年4月14日(1859年5月16日))は、日本の侠客。本名は石渡助五郎。.

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飯田武郷

飯田 武郷(いいだ たけさと、文政10年12月6日(1828年1月22日)-明治33年(1900年)8月26日)は、幕末・明治期の国学者。東京大学教授。48年かけて執筆した『日本書紀』の注釈書「日本書紀通釈」70巻を完成させた。通称は彦介のちに守人、号は蓬室。江戸生まれ。諏訪藩出身、のちに脱藩。.

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西山宗因

西山 宗因(にしやま そういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日(1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人・連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。俳号は一幽と称し、宗因は連歌名。生れは肥後国八代(現熊本県八代市) 。談林派の祖。 15歳頃から肥後国八代城代加藤正方に仕えた。正方の影響で連歌を知り京都へ遊学した。里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだが、1632年(寛永9年)主家の改易で浪人となる。1647年(正保4年)大坂天満宮連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。一方では、俳諧に関する活動も行い、延宝年間頃に談林派俳諧の第一人者とされた。俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いたが、宗因は晩年連歌に戻った。 談林派は、言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色としたが、蕉風の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流ともいわれた。.

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西嶋八兵衛

西嶋 八兵衛(にしじま はちべえ、慶長元年(1596年) - 延宝8年3月20日(1680年4月19日))は、日本の江戸時代に活躍した土木技術家。諱は初めは之尤(ゆきまさ)、後に之友。俳号は木端、拙翁。父は西嶋九郎左衛門之光。.

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西川如見

西川 如見(にしかわ じょけん、慶安元年(1648年) - 享保9年8月10日(1724年9月26日))は、江戸時代中期の天文学者。父は同じく天文学者の西川忠益。母は石山宗林の娘。肥前長崎の商家に生まれ育った。名は、忠英、通称は次郎右衛門。別名は恕軒、恕見。居号は求林斎、金梅庵、淵梅軒。.

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西郷頼母

西郷 頼母(さいごう たのも、文政13年閏3月24日(1830年5月16日) - 明治36年(1903年)4月28日)は、江戸時代後期(幕末)の会津藩の家老。諱は近悳(ちかのり)。明治維新後は保科 頼母(ほしな たのも)と改名。号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号した。.

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香川景樹

香川 景樹(かがわ かげき、明和5年4月10日(1768年5月25日)天保14年3月27日(1843年4月26日))は、江戸時代後期の歌人。父は鳥取藩藩士荒井小三次。初名は、純徳・景徳。通称は銀之助・真十郎・式部・長門介。号は桂園(けいえん)・東塢亭(とううてい)・梅月堂・観鶩亭(かんぼくてい)・臨淵社・万水楼・一月楼。出仕した徳大寺家では「景樹」を「かげしげ」と呼んでいたが、景樹自身は自身の署名で「かげき」の読みを使っており、こちらの呼称が一般に通用している。.

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角倉了以

川沿いの顕彰碑 嵐山の角倉了以像 角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。 長男に角倉素庵、弟に吉田宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。.

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角田忠行

角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は日本の国学者、神官。通称は由三郎。 信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の神官角田忠守の子として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。 安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田鐵胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、幕吏に追われて伊那谷に潜伏。慶応3年(1867年)米川信濃と変名し澤為量に仕える。戊辰戦争では秋田藩の官軍恭順に尽力した。 維新後は明治政府に出仕し皇学所監察、学制取調御用掛、大学奏任などを務め、賀茂御祖神社少宮司、廣田神社宮司を経て、明治13年(1880年)熱田神宮大宮司となり、大正3年(1914年)までその職を務めた。 島崎藤村の『夜明け前』に「暮田正香」の名で登場している。.

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調所広郷

調所 広郷(ずしょ ひろさと、安永5年2月5日(1776年3月24日) - 嘉永元年12月19日(1849年1月13日))は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。諱ははじめ恒篤、後に広郷(廣郷)。通称は清八、友治、笑悦、笑左衛門。当時の呼称は調所笑左衛門が一般的。.

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高尾太夫

尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名。高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。三浦屋に伝わる大名跡であった。何代目まで続いたかは、諸説があって判然としておらず、6代説・7代説・9代説・11代説の4説がある。.

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高山峰三郎

山 峰三郎(たかやま みねさぶろう、1835年11月15日(天保6年9月25日) - 1899年(明治32年)2月)は、日本の武士、剣術家。流派は直心影流。称号は大日本武徳会精錬証。維新後の職業は警察官。階級は警部。警視庁の撃剣世話掛36名を連破した記録で有名。.

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高山彦九郎

山彦九郎歌碑、京都川端三条 高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇思想家である。諱は正之、戒名は「松陰以白居士」。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも、後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。 三島由紀夫が強い関心を持っていたことでも知られる(他には、葉隠・神風連・三輪神社・大乗仏教・密教・陽明学)。.

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高島秋帆

島 秋帆(たかしま しゅうはん)は、江戸時代後期から末期の砲術家。高島流砲術の創始者(流祖)。「火技之中興洋兵之開祖」と号すことを認められた。.

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高田屋嘉兵衛

屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。.

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高野佐三郎

野 佐三郎(たかの ささぶろう、文久2年6月13日(1862年7月9日) - 昭和25年(1950年)12月30日)は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。諱は豊正。号は靖斎。 警視庁撃剣世話掛、東京高等師範学校教授などを歴任した、昭和初期剣道界の第一人者。.

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高野長英

野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半頃描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財 高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。.

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高橋坦室

橋 坦室(たかはし たんしつ、明和8年(1771年) - 文政6年5月21日(1823年6月29日))は、水戸藩の儒学者。彰考館総裁。名は広備、字は子大、通称は又一郎。坦室は号。.

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高橋筅次郎

橋 筅次郎(たかはし せんじろう、1832年(天保3年)頃 - ?)は、西条藩士、剣術家。流派は田宮神剣流。.

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高橋赳太郎

橋 赳太郎(たかはし きゅうたろう、1859年(安政6年)7月 - 1940年(昭和15年)12月21日)は、日本の剣道家。流派は無外流剣術、津田一伝流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。職業は警察官。諱は高運。.

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高橋至時

上野源空寺にある高橋至時墓。奥には伊能忠敬、手前には高橋景保の墓がある。再手前の石碑は幡随院長兵衛夫婦の墓碑案内板。 高橋 至時(たかはし よしとき、明和元年11月30日(1764年12月22日) - 享和4年1月5日(1804年2月15日)は、江戸時代後期の天文学者。天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。.

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高橋泥舟

橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年2月17日(1835年3月15日) - 明治36年(1903年)2月13日)は、日本の武士・幕臣。.

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高橋景保

上野源空寺にある高橋景保墓(左手前)。奥に高橋至時・伊能忠敬の墓が並んでいる。 高橋 景保(たかはし かげやす、天明5年(1785年) - 文政12年2月16日(1829年3月20日))は、江戸時代後期の天文学者。通称、作左衛門。天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑の兄。.

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高本紫溟

本 紫溟(たかもと しめい、元文3年(1738年) - 文化10年12月26日(1814年2月15日))は、江戸時代の儒学者、国学者、漢詩人である。肥後国学の祖と言われる。.

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谷川士清

谷川 士清(たにかわ ことすが、宝永6年2月26日(1709年4月5日) - 安永5年10月10日(1776年11月20日))は、江戸時代の国学者である。通称は養順。字は公介。号は淡斎。.

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谷文晁

谷文晁(たに ぶんちょう、宝暦13年9月9日(1763年10月15日) - 天保11年12月14日(1841年1月6日))は、江戸時代後期の日本の画家。 諱は正安。はじめ号は文朝・師陵、後に文晁とし字も兼ねた。通称は文五郎または直右衛門。別号には写山楼・画学斎・無二・一恕。薙髪して法眼位に叙されてからは文阿弥と号した。江戸下谷根岸の生まれ。.

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貝原益軒

貝原益軒の座像(福岡市中央区・金龍寺) 貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草学者、儒学者。.

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賢順

賢順(けんじゅん、天文3年(1534年)? - 元和9年(1623年)?)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗の僧、音楽家。筑紫箏(つくしごと)の創始者。姓は諸田(もろた)。生没年には、1547年生・1636年没とする説もある。 筑後国宮部(現福岡県大牟田市宮部)出身。7歳の時父が戦死したことから、久留米の善導寺に入って僧となった。九州に渡来した中国(明)の鄭家定に七弦琴、瑟、箏を学び、また、善導寺に伝わる雅楽・寺院歌謡などを修得して、箏伴奏の歌曲を創始した。その後還俗して大友宗麟に仕えたが、宗麟がキリスト教に帰依したことから宗麟の下を離れ、龍造寺安順の招きに応じた。弟子に玄恕・法水などがいる。 福岡県久留米市では、賢順の業績を記念して1994年から毎年「賢順記念全国箏曲祭」が開かれている。 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:江戸時代の僧 Category:江戸時代の音楽家 Category:17世紀の音楽家 Category:箏曲作曲家 Category:三曲 Category:筑後国の人物 Category:還俗した人物.

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鳥居耀蔵

鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)は、江戸時代の幕臣、旗本。耀蔵は通称、諱は忠耀(ただてる)。.

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賀茂真淵

賀茂 真淵(かも の まぶち)は、江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。 荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を「県居(あがたい)学派」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。.

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鴻池善右衛門

鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)は、江戸時代の代表的豪商の一つである摂津国大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前である。 家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津国伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が摂津国大坂で一家を立てたのを初代とする。初め酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。 明治維新後は男爵に叙せられて華族に列した。.

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越後長岡藩

長岡藩(ながおかはん)は、越後国の古志郡全域及び三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩。現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。近年は、山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。 藩庁は長岡城(長岡市)。藩主は初めに堀氏(80,000石)、のちに牧野氏に交替した。牧野氏の家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ62,000石、後に加増されて74,000石になった。正徳2年(1712年)の内高は約115,300石、。.

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足代弘訓

足代 弘訓(あじろ ひろのり、天明4年11月26日(1785年1月6日) - 安政3年11月5日(1856年12月2日))は、日本の江戸時代後期の国学者、歌人。号は寛居(ぬたい)。通称は式部・権太夫。父は伊勢外宮祠官足代弘早。伊勢国の人。 伊勢内宮の荒木田久老に国学を学び、久老の没後は本居春庭・本居大平の門に入った。伊勢国山田の鈴屋の師道者とし活躍した。京阪や江戸に出て多くの文人と交流している。神宮内では祠官の堕落に対して弊風を粛清する運動を展開、天保の大飢饉に際しては窮民救済の運動を行った。幕末期には、多くの志士と交流し、一方で弟子の教育にあたった。 門下に正住弘美、志田義貫、生川正香、白井重固、渡辺政香。友人に大塩平八郎。.

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鶴屋南北

屋 南北(つるや なんぼく)は、歌舞伎の役者および作者の名跡。初代から三代目までが道化方役者、四代目以後が狂言作者。屋号は鶴屋、定紋は丸に大の字。.

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鶴峯戊申

峯 戊申(つるみね しげのぶ、天明8年7月22日(1788年8月23日) - 安政6年8月24日(1859年9月20日)とは江戸時代後期の国学者である。.

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鶴賀新内

賀 新内(つるが しんない)は、新内節の太夫の名跡。.

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鷹見泉石

鷹見 泉石(たかみ せんせき、天明5年6月29日(1785年8月3日) - 安政5年7月16日(1858年8月24日))は江戸時代の蘭学者であり、下総国古河藩の家老である。名を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門。字を伯直(はくちょく)。号は泉石の他に楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)。また、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いている。  .

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鹿持雅澄

鹿持 雅澄(かもち まさずみ、寛政3年4月27日(1791年5月29日)) - 安政5年8月19日(1858年9月25日))は日本の国学者。名称は藤田。号は山斉または古義軒。別名は柳村愿太。飛鳥井深澄、藤原太郎雅澄とも名乗った。.

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麻田剛立

麻田 剛立(あさだ ごうりゅう、享保19年2月6日(1734年3月10日) - 寛政11年5月22日(1799年6月25日))は、江戸時代の日本の男性天文学者である。.

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黒川真頼

黒川真頼(1899年) 黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日(1829年12月7日) - 明治39年(1906年)8月29日)は、江戸時代・明治時代の国学者・歌人である。旧姓は金子、幼名は嘉吉。.

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黒川春村

黒川 春村(くろかわ はるむら、寛政11年6月9日(1799年7月11日) - 慶応2年12月26日(1867年1月31日))は、江戸時代末期の江戸の国学者にして歌人。.

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黒田長政

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。.

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黒駒勝蔵

黒駒 勝蔵(くろこまの かつぞう、1832年(天保3年) - 1871年11月26日(明治4年10月14日)?)は、幕末の侠客、尊王攘夷派の志士。本名:小池 勝蔵(こいけ かつぞう)。.

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黒沢琴古

黒沢 琴古(くろさわ きんこ)は、尺八琴古流の家元の名跡。4代目が没して以降途絶えているがその後も何人か継いだが何代続いたか不明。.

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鼠小僧

小僧(ねずみこぞう、寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。 本業は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られる。.

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近衛基熙

近衞 基熙(このえ もとひろ)は、江戸時代前・中期の公卿。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主。.

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近衛家熙

近衞 家熈(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。.

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近衛熙子

近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日) - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。.

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近藤富蔵

近藤 富蔵(こんどう とみぞう、文化2年5月3日(1805年5月31日) - 1887年(明治20年)6月1日)は、江戸時代後期から明治時代の人物。旗本近藤重蔵(近藤守重)の長男として生まれる。諱は守真(もりざね)。一家殺傷事件により八丈島に流罪になり、井伏鱒二の『青ヶ島大概記』の種本となった『八丈実記』を著した。 事件の発端となった目黒新富士。歌川広重画。父の重蔵が鎗ヶ崎の三田用水沿いに築山し、観光名所になった。鎗ヶ崎の西側(代官山駅近く)に先に富士講用の山があったため、そちらが目黒元富士、こちらが新富士と呼ばれた。現在は、中目黒駅と恵比寿駅の中間あたりにある別所坂(渋谷区)の公園内に石碑が残るのみで、跡地はマンションになっている。.

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近藤勇

近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)という。慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流、豪傑の剣の使い手。.

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近藤芳樹

近藤 芳樹.

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近藤重蔵

近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。 諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。.

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近松門左衛門

近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。 家紋は「丸に一文字」。.

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霊元天皇

霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.

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茶屋四郎次郎

茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう、ちゃや しろじろう)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。.

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都一中

都 一中(みやこ いっちゅう)は、一中節の三味線方の名跡。代々都派の家元。別名「都太夫一中」。.

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鈴木重胤

鈴木重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6月13日) - 文久3年8月15日(1863年9月27日))は、江戸時代後期の国学者である。.

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鈴木朖

鈴木 朖(すずき あきら、宝暦14年3月3日(1764年4月3日) – 天保8年6月6日(1837年7月8日))は、江戸時代後期の儒学者、国学者。幼名は恒吉。通称は常介。字は叔清。号は離屋(はなれや)。 「朖」は「朗」の異体字。『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』のいわゆる三部作を著し、国語学に優れた業績を残した。.

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鈴木春山

鈴木 春山(すずき しゅんさん、享和元年(1801年) - 弘化3年閏5月10日(1846年6月3日))は、江戸時代後期の兵学者。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩医。日本で初めて西洋兵学書の翻訳を行った人物として知られる。 初名は春三、俊次郎、春次郎。通称は春山、諱は強、字を自彊。号は童浦。.

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阿部吉郎次

阿部吉郎次(あべきちろうじ、享保11年(1726年) - 寛政11年2月28日(1799年4月2日) 安部屋吉郎次、吉郎治とも)とは江戸時代後期の水主である。 日本人初の世界一周を達成した津太夫と同じ若宮丸に乗り組んでいた。.

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阿部将翁

阿部 将翁(あべ しょうおう、生年不詳 - 宝暦3年1月26日(1753年2月28日))は江戸時代の本草家である。 名は照任または輝任、通称は友之進、本草学の実際的知識に秀でており、また、書物をあまり残さなかったため、その前半生には諸説ある。新渡戸仙岳によると、盛岡藩閉伊通豊間根村(現 岩手県山田町)の出身で、豊間根一族の出であるという。 延宝年間(1673-81年)に大坂に向かう船が台風で難破し、清国に流れつき清国で医術、本草学を学んで帰国したとされる説(東条琴臺の『先哲叢談続編』)や、密航して清国に渡った説、長崎で清国人、オランダ人に本草学を学んだする説などがある。 享保6年(1721年)、幕府に雇われて採薬使となり、野呂元丈らと各地に採薬旅行を行った。享保12年(1727年)、陸奥国釜石の仙人峠で磁鉄鉱を発見したとされ、釜石鉱山が開かれるもととなった。「採薬使記」「御薬草御用勤書覚」などの記録を残した。幕府の命により薬園を開き、将翁が監督した。対馬藩から献上された朝鮮人参の生根、種子から栽培に成功した。弟子に田村藍水がいる。.

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阿部忠秋

阿部 忠秋(あべ ただあき)は、江戸時代前期の下野壬生藩・武蔵忍藩主。徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた。同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。忠秋系阿部家初代。.

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阿部正次

阿部 正次(あべ まさつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。武蔵国鳩ヶ谷藩、上総国大多喜藩、相模国小田原藩を経て、武蔵岩槻藩初代藩主。また、大坂城代を務めた。阿部家宗家初代。.

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阿曽三右衛門

阿曽三右衛門(あそさんえもん、1611年(慶長16年) - 1687年(貞享4年))は、越中国砺波郡野尻郷本江村生まれの郷士。 江戸時代初期に福野町(現在の富山県南砺市福野)、福光町(現在の富山県南砺市福光)、津沢町(現在の富山県小矢部市津沢)の町立てを行った。.

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関孝和

関 孝和 記念切手1992年 関 孝和(せき たかかず/こうわ、寛永19年(1642年)3月? - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、日本の江戸時代の和算家(数学者)である。本姓は藤原氏。旧姓は内山氏、通称は新助。字は子豹、自由亭と号した。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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間宮林蔵

間宮林蔵(松岡映丘・画) 宗谷岬にある間宮林蔵の銅像 間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年) - 天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番をつとめた役人であった。生年は安永4年(1775年)とも。.

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藤井高尚

藤井 高尚(ふじい たかなお、明和元年(1764年) - 天保11年8月15日(1840年9月10日))は、江戸時代後期の国学者・歌人・神官。本居宣長の門人として文章で最も秀でた。.

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葛飾北斎

天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部) 飾 北斎(かつしか ほくさい、飾 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)とは、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。.

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蒲生君平

蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。.

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蔦屋重三郎

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日(1750年2月13日) - 寛政9年5月6日(1797年5月31日))は、江戸時代の版元(出版人)である。朋誠堂喜三二、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」ともいわれる。狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し、歌麿とともに吉原連に属した。.

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野宮定基

野宮 定基(ののみや さだもと)は江戸時代中期の公家、国学者。中院通茂の次男。 叔父の定縁の養子となって野宮家を継ぐ。漢学に明るく、和歌をはじめとする諸学・諸芸にも深く通じていた。高橋宗恒について故実を学び、有職故実に詳しかった。東園基量、平松時方、滋野井公澄と並んで霊元院政期における「有職四天王」として後世に名を残す。 著書に『本朝実記』『平家物語考』『野宮日記』『群記類鑑』『定基歌集』『黄白問答』等がある。『黄白問答』(新野問答)は定基が新井白石の問いに答えたもの。『定基卿記』からは、当時の複雑な公家社会の様子を垣間見ることが出来る。正徳元年(1711年)死去。享年43。 さたもと Category:中院家 Category:江戸時代の公家 Category:国学者 Category:17世紀の学者 Category:18世紀の学者 Category:1669年生 Category:1711年没.

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野中兼山

野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老・儒学者。谷時中に朱子学を学び、南学による封建道徳の実践に努めた。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。 諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。 灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。.

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野呂元丈

野呂 元丈(のろ げんじょう、元禄6年12月20日(1694年1月15日) - 宝暦11年7月6日(1761年8月6日))は、江戸時代中期の本草学者。日本における蘭学の先駆者とされる。本姓は高橋、名は実夫。通称は源次。連山と号す。野呂三省の養子。.

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野々村仁清

野々村 仁清(ののむら にんせい、生没年不詳)は、江戸時代前期の陶工である。通称清右衛門(せいえもん)。17世紀の人物である。.

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野村長平

野村 長平(のむら ちょうへい、宝暦12年(1762年、1761年とも) - 文政4年(1821年))は、江戸時代の土佐国岸本浦(現在の高知県香南市香我美町岸本)の船乗り(水主)。船の難破による鳥島での無人島生活を経て、故郷に帰還した。無人島長平と通称された。.

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金子七郎兵衛

金子 七郎兵衛 保憲(かねこ しちろうべえ やすのり、安永8年(1779年) - 弘化3年5月1日(1846年5月25日)は、岩手県日詰郡山美濃屋(後の幾久屋)の4代目、盛岡藩勘定奉行『岩手県紫波町史 第1巻』p.875。.

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金井烏洲

金井 烏洲(かない うじゅう、寛政8年(1796年) - 安政4年1月14日(1857年2月8日))は、江戸時代後期の画家、勤皇家である。通称は左仲太、のちに父の名を継いで彦兵衛、字を子修また林学、諱は時敏のちに泰。号は烏洲(烏州とも)、朽木翁、呑山人、白沙頓翁、白沙村翁、雨笠、晩泰翁、栃木翁、小禅道人、獅子孔道人など。従五位。金井之恭は息子。.

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長右衛門

長右衛門(ちょうえもん 、生没年不詳)は、江戸時代の漂流民である。確実な記録に残っている中では、最初に小笠原諸島に上陸した日本人の一人である。 なお、本項の日付は()内を除き、すべて旧暦で記している。.

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長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

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長久保赤水

長久保 赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠、俗名:源五兵衛、享保2年11月6日(1717年12月8日) - 享和元年7月23日(1801年8月31日))は、江戸時代中期の地理学者、漢学者である。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。号の赤水と字の玄珠は荘子の天地篇にある『黄帝、赤水の北に遊び、崑崙の丘に登って、面して南方して還帰し、其玄珠を遺せり。』から取られている。.

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長谷川宣以

戒行寺の長谷川平蔵宣以供養之碑。 長谷川 宣以(はせがわ のぶため、延享2年(1745年) - 寛政7年5月19日(1795年6月26日))は、江戸時代中期の旗本。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)(銕は鉄の異体字)。家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵(へいぞう)を通称とした。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られている。.

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長谷川宣雄

長谷川 宣雄(はせがわ のぶお)は、江戸時代の旗本。火付盗賊改方頭として知られる長谷川宣以の父で、自身も同職を務めた。通称は息子と同じ平蔵(へいぞう)。 従兄・長谷川宣尹の末期養子となり、延享5年(1748年)1月10日に宣尹が死去したため、同年4月3日に遺跡を継いだ。改元後の寛延元年(1748年)閏10月9日に西城御書院番、宝暦8年(1758年)9月15日に小十人頭となった。同年12月18日、布衣の着用を許された。明和2年(1765年)4月11日に御先手弓頭、明和8年(1771年)10月17日に火付盗賊改加役に就任。 明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火では、犯人の真秀を捕らえ、火刑に処した。この功績が評価され、安永元年(1772年)10月15日に京都西町奉行に転任、同年11月15日に従五位下備中守に叙任される。安永2年(1773年)6月22日、奉行在任中に京都で死去。享年55。.

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長野主膳

長野義言(主膳)像(1890年作) 長野 主膳(ながの しゅぜん、文化12年10月16日(1815年11月16日)- 文久2年8月27日(1862年9月20日))は、江戸時代末期の国学者で、大老・井伊直弼の家臣。通称は初め主馬(しゅめ)、のち主膳。諱は義言(よしとき)。桃之舎と号した。.

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酒井忠世

酒井 忠世(さかい ただよ)は、江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野那波藩主、伊勢崎藩主を経て厩橋藩の第2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家2代。 後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている。.

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酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)

酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、江戸時代初期の大名である。越後高田藩主、信濃松代藩主を経て、出羽庄内藩の初代藩主となった。.

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酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)

酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。第3代将軍・徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中・大老。.

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酒井忠清

酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩の第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家4代。第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。.

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酒井田柿右衛門

酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん、初代:1596年11月15日(慶長元年9月25日) - 1666年7月20日(寛文6年6月19日))は、江戸時代、肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、および代々その子孫(後継者)が襲名する名称。 2015年3月現在、第十五代酒井田柿右衛門(1968年 - 、旧名:浩(ひろし)、2014年に襲名)が当代である。.

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良寛

良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕 - 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。.

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色川三中

色川 三中(いろかわ みなか、1801年8月3日(享和元年6月24日) - 1855年8月5日(安政2年6月23日))は、江戸時代の国学者、商人。諱は英明。通称は桂輔、通称は弥三郎、三郎兵衛。東海、瑞霞圓と号した。 常陸国土浦藩の城下田宿町に生まれる。父は薬種商と醤油製造業を兼業する色川英恵で長男。母は富と言った。色川家は元は紀伊国牟婁郡の土豪で後に常陸国信太郡に移って小田氏に仕えたが、同氏の没落後は土浦に住み、後に薬種業を起こしたとされる。土浦藩では貞享4年に藩主となった土屋政直が醤油生産を奨励し、色川家でも正徳・享保年間に当主武英が創業したと考えられている。宝暦6年には城下川口町に工場を開設し、組合仲間の有力な一員となっている。 三中は文化10年(1813年)に江戸の商家で奉公し、文化12年8月に帰郷する。文政8年(1825年)には父の英恵が死去し、家業を継ぐ。三中の代には城下において醤油醸造業者が増加して組合仲間の権益が脅かされていたが三中は家運再興に尽力し、天保2年(1831年)頃までには不振であった家業も一応安定させることに成功する。 三中は弟の美年に本店を譲り薬種商を任せ、三中は川口町の支店において醤油醸造業に専念した。一方、三中は幼い頃から好学で書物を精読しており、和歌や国学に興味を抱き、休暇を確保できれば、学問に努め、歌会に出席していた。また、天保5年(1834年)に平田篤胤、天保7年(1836年)に橘守部に入門して、彼らから啓蒙を受けた。古典の研究にも勤しみ、古文書の蒐集や古代の制度、とりわけ度量衡や田令の分析にも尽力し、半ば散逸していた中山信名の著述を回収して纏め上げるなどした。黒川春村、山崎知雄らと交流があり、佐久良東雄、伊能穎則、久米幹文らに影響を与えている。主な著作に『田令図解抄』『度量衡考』『瑞霞園筆記』がある。 安政2年(1855年)に没し、土浦の神竜寺に葬られた。.

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英一蝶

雷神(もしくは落雷図。絹本着色) 英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、のちに信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(いさぶろう)、次右衛門(じえもん)、助之進(すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。剃髪後に多賀朝湖(たが ちょうこ)と名乗るようになった。俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)。 名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。なお、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。.

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雷電爲右エ門

雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、明和4年(1767年)1月 - 文政8年2月21日(1825年4月9日)は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士。 現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされている。.

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逸見宗助

逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年(天保14年) - 1894年(明治27年))は、幕末から明治の武士、剣術家、警察官。.

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柳亭種彦

柳亭 種彦(りゅうてい たねひこ、天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日))は、江戸時代後期の戯作者。長編合巻『偐紫田舎源氏』などで知られる。.

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柳生宗矩

柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。.

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柳沢吉保

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。.

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柄井川柳

柄井 川柳(からい せんりゅう、享保3年(1718年) - 寛政2年9月23日(1790年10月30日))は、江戸時代中期の前句付けの点者。名は正道。幼名勇之助。通称は八右衛門。柄井家は代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で、宝暦5年に家を継いで名主となった。 はじめは談林派俳諧の点者であったといわれるが定かではない。宝暦7年8月25日(1757年10月7日)前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行している。 これ以降、月3回5のつく日に句合を興行している。宝暦12年10月15日(1762年11月30日)の句合には総句1万句を超し、その流行ぶりがうかがえる。川柳(八右衛門)の出題は前句付の14字題と冠付のみであり、総句高に対する番勝句の比率も高い。新しい趣向を好み、選句眼にも優れていたことが、上級武士も含め江戸における前句付作者にこのまれた。 明和2年(1765年)7月呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された「誹風柳多留」は、川柳評前句付の流行に拍車をかけた。後、前付句が独立して川柳と呼ばれるようになった。1790年死去。辞世の句は「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳」であったと伝えられている。 なお、川柳の号は16世(尾藤川柳)まで受け継がれている。.

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林子平

林子平肖像(大槻磐渓賛) 林子平 銅像 仙台市龍雲院にある林子平の墓 林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。 高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。名は友直。のちに六無齋主人と号した。.

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林忠崇

林 忠崇(はやし ただたか)は、幕末の大名で、上総国請西藩の第3代藩主。.

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林玄仲

林 玄仲(はやし げんちゅう、寛政7年6月27日〔1795年8月11日〕 - 明治11年〔1878年〕8月21日)は、江戸時代に医師として、明治時代に度会府の役人として活動した人物。誠実にして質素な生活を心がけたことで巨額の富を築き、永代義倉講金を創設して、郷土の人々に恩恵をもたらした磯部郷土史刊行会 編(1963):263ページ。.

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林羅山

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる羅山、道春のほか、羅浮子・夕顔巷・胡蝶洞・梅花村その他の号がある。宮崎(1994)。.

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林鳳岡

林 鳳岡(はやし ほうこう、寛永21年12月14日(1645年1月11日) - 享保17年6月1日(1732年7月22日))は、江戸時代前期・中期の儒学者。特に元禄時代の将軍・徳川綱吉のもと江戸幕府の文治政治の推進に功績があったひとり。父は林鵞峰。名は又四郎・春常・信篤。字は直民。号は鳳岡・整宇。.

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林述斎

林 述斎(はやし じゅっさい、明和5年6月23日(1768年8月5日) - 天保12年7月14日(1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者。林家8代。父は美濃国岩村藩主松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中松平乗邑。諱は初め(松平)乗衡(のりひら)、後に(林)衡(たいら)。字は熊蔵・叔紞・徳詮。号は述斎・蕉軒・蕉隠など。晩年は大内記と称す。.

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林鵞峰

林 鵞峰(はやし がほう、元和4年5月29日(1618年7月21日) - 延宝8年5月5日(1680年6月1日))は、江戸時代前期の儒者。林羅山の三男。名は又三郎・春勝・恕。字は子和・之道。号は春斎・鵞峰・向陽軒など。.

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林桜園

林 桜園(はやし おうえん、寛政10年(1798年) - 明治3年10月12日(1870年11月5日))は、幕末の思想家、国学者、教育者。.

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恋川春町

恋川 春町(こいかわ はるまち、延享元年(1744年)- 寛政元年7月7日(1789年8月27日))は、江戸時代中期の戯作者、浮世絵師である。酒上不埒(さけのうえのふらち)という名で狂歌も詠んだ。鳥山石燕について浮世絵を学び、画もほぼ自ら描いた。また、勝川春章にも私淑していた。 本名は倉橋 格(くらはし いたる)。諱は初め勝睴、後に格。本姓は源氏、幼名は亀之助、通称は初め隼人、後に寿平。号は寿山人・寿亭、春町坊。駿河小島藩・滝脇松平家の年寄本役として藩中枢に関与していた。石高は最終的に120石。江戸藩邸のあった小石川春日町から恋川春町というペンネームを付けた。安永4年(1775年)『金々先生栄花夢』で当世風俗を描き、のちに黄表紙といわれるジャンルを開拓し、一躍売れっ子作家となる。安永天明期に自画自作の黄表紙を多数残し、洒落本や滑稽本などの挿絵も見られるが、錦絵は希少である。.

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李参平

陶祖李参平の碑 李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。 なお「李参平」の名は、当時「三兵衛」を「参平」と表記した史料があること、金ヶ江家に伝わる古文書に李氏と記載があったことなどから、明治19年になって地元の蘭学者谷口藍田が名づけたものであり、参平が朝鮮で暮らしていたころのほんとうの姓名はわからない。.

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来島又兵衛

来島 又兵衛(きじま またべえ)は、幕末の長州藩士である。尊皇攘夷派。遊撃隊総督。幼名は亀之進。初名は光次郎。諱は政久。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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東条義門

東条 義門(とうじょう ぎもん、天明6年7月7日(1786年7月31日) - 天保14年8月15日(1843年9月8日))は、江戸時代後期の僧侶、国学者。東条は子孫の姓で、本人は称していない。法名は霊伝、号は白雪楼。.

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東洲斎写楽

東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、とうじゅうさい しゃらく、生没年不詳)とは、江戸時代中期の浮世絵師。約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年〈1763年〉 - 文政3年〈1820年〉)とする説が有力となっている。.

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松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表)は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 俳諧(連句)の芸術的完成者であり東明雅『芭蕉の連句』(岩波新書)蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖佐藤編(2011)、p.247、あとがきとして世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。.

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松岡恕庵

松岡 恕庵(まつおか じょあん、寛文8年(1668年) - 延享3年7月11日(1746年8月27日))は、日本の儒家、本草学者。名は玄達(げんたつ)、通称は恕庵、字は成章、号は怡顔斎 (いがんさい) 、苟完居(こうかんきょ)、埴鈴翁、真鈴潮翁。門弟に小野蘭山、戸田旭山、服部艸玄、浅井図南、谷川士清、横地島狄子、直海元周。.

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松崎浪四郎

松崎 浪四郎(まつざき なみしろう、1833年3月30日(天保4年2月10日) - 1896年(明治29年)6月19日)は、幕末・明治期の剣術家。流派は加藤田神陰流。称号は大日本武徳会精錬証。諱は直之。一本目は必ず取ると言われたほどの達人であった。.

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松平定信

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。.

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松平定朝

松平 定朝(まつだいら さだとも、安永3年(1773年) - 安政3年7月8日(1856年8月8日))は、江戸幕府の旗本で、花菖蒲の育種家。松平定勝の四男定実の流れを組む松平織部家6代目松平定寅(松平織部)の長男。母は岡氏(照光院)。通称、左金吾。従五位下、伊勢守。晩年に菖翁と号する。室は伊沢方守(伊沢内記)の娘の瑞光院。.

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松平乗邑

松平 乗邑(まつだいら のりさと)は、江戸幕府の老中。肥前唐津藩第3代藩主、志摩鳥羽藩主、伊勢亀山藩主、山城淀藩主、下総佐倉藩初代藩主。大給松平家宗家10代。.

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松平信綱

松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。.

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松平武元

松平 武元(まつだいら たけちか、正徳3年12月18日(1714年2月2日) - 安永8年7月25日(1779年9月5日))は、上野館林藩および陸奥棚倉藩の藩主。親藩ながら江戸幕府の寺社奉行、老中を務めた。越智松平家3代。 常陸府中藩主松平頼明の次男。正室は桑名藩主松平忠雅の娘。子は武寛(四男)、戸田氏教(五男、大垣藩養子でのち老中)、娘(松平忠泰正室)、娘(戸田光和正室のち松平乗完継室)、娘(安藤信成正室)、娘(松平忠済正室)、娘(森忠興正室)、娘(久世広誉正室)、娘(溝口直信正室)らがいる。官位は従四位下、侍従、右近衛将監。.

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松前公広

松前 公広(まつまえ きんひろ)は、蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)の2代藩主。旧字体での表記は公廣。.

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松前慶広

松前 慶広(まつまえ よしひろ)は、蝦夷地の戦国大名。松前藩の初代藩主。旧字での表記は慶廣。.

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松倉勝家

松倉 勝家(まつくら かついえ)は、江戸時代前期の大名。肥前島原藩2代藩主。初代藩主・松倉重政の嫡男。領国に悪政を敷き、島原の乱を引き起こした。 乱の鎮定後は江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。.

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松倉重政

松倉 重政(まつくら しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。大和五条藩主、肥前日野江藩初代藩主。松倉重信の長男。 日野江に入封後は苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。.

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松田伝十郎

松田 伝十郎(まつだ でんじゅうろう、明和6年(1769年)- 天保13年(1842年))は、江戸時代の越後国出身の幕臣・探検家。諱は元敬。幼名は幸太郎。のち仁三郎。間宮林蔵と樺太を探検し、樺太見聞の実測図を作成した。.

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松林蝙也斎

松林 蝙也斎(まつばやし へんやさい)は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣術家。諱は永吉(ながよし)。夢想願流の創始者。.

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松永貞徳

松永 貞徳(まつなが ていとく、元亀2年(1571年) - 承応2年11月15日(1654年1月3日))は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者。名は勝熊、別号は長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒(しょうゆうけん)・延陀丸(えんだまる)・保童坊・松友など。他に五条の翁・花咲の翁とも称し、明心居士の号もある。子は朱子学者の松永尺五。 父は松永永種で、母は藤原惺窩の姉。永種は松永久秀の子であったという説がある。また、永種は入江氏の出(入江政重の子)で、久秀の養子であったとも言われる。永種は出家して各地を放浪中であったため、久秀の死に巻き込まれることはなかった。キリシタンとして名を残した内藤如安は、久秀の弟・松永長頼の子であるため、貞徳とは従兄弟という関係になる。.

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松永良弼

松永 良弼(まつなが よしすけ、元禄3年(1690年)?-延享元年6月23日(1744年8月1日))は、江戸時代中期の数学者。初め寺内姓を名乗る。通称は平八郎・権平・安右衛門。号は東岡(とうこう)・探玄子(たんげんし)など。 関孝和門下の荒木村英に学び、後に中根元圭・久留島喜内とともに建部賢弘らの学説も取り入れて、和算の発展に尽くした。一時期は久留米藩・平藩にも仕えている。 代表的な著書として元文4年(1739年)に出された『方円算経』が知られており、円周率を小数第51位までを算出した(うち第49位までは合致している)他、円や多角形などに関する理論をまとめている。また著者不明の数学書『円理乾坤之巻』の著者に比定する説がある。 関流和算の功労者である一方で、その将来を憂えていた一人でもあった。例えば理論や技巧に傾いて実用を軽んじる和算の風潮を強く批判する書簡を、親友である久留島義太に送っている。.

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松本幸四郎

松本 幸四郎(まつもと こうしろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は初代が大和屋、二代目以降が高麗屋。定紋は四つ花菱(よつ はなびし)、替紋は浮線蝶(ふせ ちょう)。七代目は日本舞踊藤間流の藤間勘右衛門も同時に名乗り、また八代目以降は日本舞踊松本流の宗家でもある。 本来は市川團十郎の弟子筋にあたる家だが、二代目松本幸四郎の実の父は二代目市川團十郎であったともいわれ、その縁からか、成田屋に市川團十郎の跡継ぎがいない場合には、常にこの高麗屋から養子が入って市川宗家を継いでいる。; 初代 松本幸四郎; 二代目 松本幸四郎; 三代目 松本幸四郎; 四代目 松本幸四郎; 五代目 松本幸四郎; 六代目 松本幸四郎; 七代目 松本幸四郎; 八代目 松本幸四郎; 九代目 松本幸四郎; 十代目 松本幸四郎 Category:歌舞伎役者 Category:歌舞伎役者の名跡.

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松浦検校

松浦検校(まつうら けんぎょう、生年不詳 - 文政5年11月21日(1823年1月2日))は、19世紀前半に京都で活躍した盲人音楽家(地歌三味線および箏曲演奏家、作曲家)。.

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松浦武四郎

松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、好古家。名前の表記は竹四郎とも 小堀一正、待兼山論叢 史学篇 16、1982。諱は弘。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。.

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板垣退助

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。.

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板倉勝重

板倉 勝重(いたくら かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した。.

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板倉勝清

板倉 勝清(いたくら かつきよ、宝永3年(1706年) - 安永9年5月28日(1780年6月30日))は、江戸時代中期の大名。官位は従四位下・佐渡守・侍従。はじめ15,000石。陸奥泉藩主→遠江相良藩主→上野安中藩主。老中。重形系板倉家3代。.

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板倉重宗

板倉 重宗(いたくら しげむね)は、江戸時代前期の譜代大名で下総関宿藩の初代藩主。京都所司代。板倉家宗家2代。.

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板倉重昌

板倉 重昌(いたくら しげまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。三河深溝藩主。.

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杵屋六三郎

杵屋 六三郎(きねや ろくさぶろう)は、長唄三味線方の名跡。近世中期以来、13代を数える。.

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村垣範正

左から村垣範正、新見正興、小栗忠順 1860年 村垣 範正(むらがき のりまさ、文化10年9月24日(1813年10月17日) - 明治13年(1880年)3月15日)は、江戸時代末期(幕末)の旗本、外交官(外国奉行)。初名は範忠。号は淡叟。通称は与三郎。官途は淡路守。.

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村田春海

村田 春海(むらた はるみ、延享3年(1746年) - 文化8年2月13日(1811年3月7日))は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人。本姓は平氏。通称は平四郎。字は士観(さちまろ)。号は織錦斎(にしごりのや)・琴後翁(ことじりのおきな)。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王のひとり。.

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杉田玄白

杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日(1733年10月20日)文化14年4月17日(1817年6月1日))は、江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。 父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。 杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族である。.

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杉木茂左衛門

杉木 茂左衛門(すぎき もざえもん、寛永11年(1634年)? - 貞享3年(1686年))は、江戸時代の義民。上野国(群馬県)の農民。代表越訴型一揆の代表的存在である。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。.

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根岸鎮衛

根岸 鎮衛(ねぎし しずもり / やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。勘定奉行、南町奉行を歴任した。.

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栗本鋤雲

栗本鋤雲 栗本 鋤雲(くりもと じょうん、文政5年3月10日(1822年5月1日)- 明治30年(1897年)3月6日)は、幕末の幕臣、明治初期の思想家。名は鯤(こん)。初名は哲三、のち瑞見。通称は瀬兵衛(せへえ)といった。官位は従五位下安芸守。 幕末に外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以後はジャーナリストとして活躍した。.

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桐野利秋

桐野 利秋(きりの としあき、天保9年(1838年)12月 - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。諱は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作(晋作、新作)。初め中村 半次郎(なかむら はんじろう)と称した。 桐野利秋の書と伝えられる掛け軸など複数に、「鴨溟(瞑)」という雅号が記されている。.

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桜町天皇

桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日(1747年6月9日))。幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。.

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桃井春蔵

桃井 春蔵(もものい しゅんぞう、文政8年(1825年) - 明治18年(1885年)12月3日)は、江戸時代末期から明治時代の剣術家(鏡新明智流第4代)。旧姓は田中、幼名は甚助、通称は左右八郎、諱は直正。「桃井春蔵」の名は士学館の館主が代々襲名した名跡であり、直正は4代目桃井春蔵である。「品格随一」といわれた。.

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桃園天皇

桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、諱を遐仁(とおひと)という。.

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桂川甫周

桂川 甫周(かつらがわ ほしゅう、宝暦元年(1751年)- 文化6年6月21日(1809年8月2日)は、医師及び蘭学者。桂川家第4代当主。名は国瑞(くにあきら)であり、甫周は通称である。月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。桂川甫三の子で、弟に森島中良(蘭学者・戯作者)がいる。 桂川家において甫周を名乗るものは2名居り、それぞれ桂川家の祖である桂川甫筑から数えて、4代目と7代目に当たる。また5代目にあたる桂川甫筑国宝(ほちく・くにとみ)も一時期甫周を名乗った記録がある。本稿では4代目甫周について記述する。.

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桂昌院

桂昌院廟(善峯寺) 桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。.

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梅田雲浜

梅田雲浜 霊山護国神社 梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日(1815年7月13日)- 安政6年9月14日(1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。.

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楫取魚彦

楫取 魚彦(かとり なひこ、享保8年3月2日(1723年4月6日) - 天明2年3月23日(1782年5月5日))は、江戸時代中期の国学者・歌人。本姓は伊能氏で、父は伊能景栄(かげまさ)。名は景良。通称は茂左衛門。号は青藍・茅生庵(ちぶあん)。生れは下総国香取郡佐原(現香取市)。同郷で遠縁の親族が測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)である。.

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榊原鍵吉

榊原 鍵吉(さかきばら けんきち、文政13年11月5日(1830年12月19日) - 明治27年(1894年)9月11日)は、江戸幕府幕臣、剣術家。諱は友善(ともよし)。 幕末期に男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承し、講武所剣術師範役、遊撃隊頭取を務める。明治維新後は撃剣興行を主宰して困窮した士族を救済したことや、天覧兜割りの成功などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。稽古で長さ六尺(180cm)、重さ三貫(11kg)の振り棒を2000回も振ったといわれ、腕周りは55cmあったという。.

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。 敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。 また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。.

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権田直助

権田 直助(ごんだ なおすけ、1809年2月26日(文化6年1月13日) - 1887年(明治20年)6月8日)は、幕末から明治前期の国学者・神道家・医者。武蔵国入間郡毛呂本郷(現・埼玉県入間郡毛呂山町)出身。幼名を玄常、号は名越廼舎(なごしのや)。平田篤胤に学び尊王攘夷運動に関わる。維新後は大学校の設立等に尽力し、晩年は神社再興の先駆者として大山阿夫利神社及び三嶋大社の長に任ぜられた。 Category:国学者 Category:1809年生 Category:1887年没.

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横井小楠

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。 本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平 時存(たいら の ときひろ/ときあり)。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。 「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる(熊本市)。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。字は子操。.

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橘守部

橘 守部(たちばな もりべ、天明元年4月8日(1781年5月1日) - 嘉永2年5月24日(1849年7月13日))は、江戸時代後期の国学者。伊勢国朝明郡小向村(現在の三重県朝日町)の庄屋の家に生まれた。通称は飯田元輔・源助。号は池庵・椎本・生薬園など。 父の飯田元親は国学者谷川士清の門人であったが、守部自身はほとんど独学で国学を研究し、本居宣長を痛烈に批判し、『古事記』よりも『日本書紀』を重んじた。神話の伝説的な部分と史実の部分の区分の必要性を説いた。晩年は江戸に住んで肥前国平戸藩主松浦氏の知遇を得た。また晩年、死後安心論にも関心を寄せた。守部独自の国学の説は、武蔵国北部から上野国にかけて普及し機業家などに門人を広げた。 著書に『神風問答』『伊勢物語箋』『待門雑記』『山彦冊子』『稜威道別』『稜威言別』『神代直語』『難古事記伝』『湖月抄別記』『長歌撰格』『短歌撰格』『心の種』などがある。.

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橘曙覧

橘 曙覧(たちばな あけみ、文化9年(1812年)5月 - 慶応4年8月28日(1868年10月13日))は、日本の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。.

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正親町公通

正親町 公通(おおぎまち きんみち、承応2年閏6月26日(1653年8月19日) - 享保18年7月12日(1733年8月21日))は、江戸時代中期の公家。おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕えた。垂加神道の布教に努めたことで知られる。また朝廷政治においては武家伝奏役などをつとめ、朝幕関係の取次ぎに活躍した。号に守初斎、須守霊社。雅号に白玉翁・風水軒。 公家正親町実豊(権大納言)の長男として京都に生まれる。母は公家藤谷為賢(権中納言)の姫。妹に正親町町子(柳沢吉保の側室)がいる。万治元年(1658年)に叙爵。寛文元年(1661年)従五位上侍従となり、寛文5年(1665年)に元服した。その後、右近衛少将・右近衛中将をへて、延宝5年(1677年)に参議となり、公卿に列する。天和元年(1681年)に正三位権中納言となり、貞享2年(1685年)には従二位に昇進。踏歌節会外弁などをつとめて、元禄6年(1693年)から武家伝奏役をつとめた。元禄8年(1695年)から翌年にかけては権大納言となった。ところが、元禄13年(1700年)に東山天皇から武家伝奏を罷免されてしまう。江戸時代の武家伝奏の任命権は江戸幕府が持っており朝廷が関与出来なかったが、東山天皇は伝奏の人事権は天皇にあるとして幕府に無断で罷免を強行したのである。親幕府派であった関白の近衛基煕は公通の垂加神道に批判的であったためにこの決定を止めなかった。また、幕府でも京都所司代の小笠原長重は江戸に通報することなくこれに同意し、幕閣もこれに対抗措置を取らずに黙認してしまったために、武家伝奏の人事権が朝廷に移ることになった。元禄15年(1702年)に朝廷から将軍徳川綱吉の生母桂昌院に対して従一位が下されたが、この異例の叙任の背景には義弟柳沢吉保から朝廷重臣への取り成しを依頼されたこの公通の働きが大きかったといわれる。宝永2年(1705年)に正二位。さらに正徳2年(1712年)に従一位となった。享保18年(1733年)7月12日に薨去。享年81。 山崎闇斎の門下生の1人であり、闇斎が創設した垂加神道を朝廷に普及することにつとめた。公通が唱えた垂加神道は俗に正親町神道などと呼ばれる。晩年は絵画と狂歌に没頭した。 子が六人いたが、長男公成と次男公梁は若くして死に、三男実本は裏辻家へ、四男隆叙は四条家へ、五男定俊は野宮家へそれぞれ養子に入ったため、正親町家の家督は末子正親町実連が継いだ。 孝明天皇は公通の来孫に当たる。.

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歴史上の人物一覧

歴史上の人物一覧(れきしじょうのじんぶついちらん)は、歴史上の人物の一覧。.

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歌川広重

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。.

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毛利元徳

毛利 元徳 / 定広(もうり もとのり / さだひろ)、天保10年9月22日(1839年10月28日) - 明治29年(1896年)12月23日)は、長州藩の第14代(最後の)藩主。のち公爵。位階は従一位。勲等は勲一等。.

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毛利重就

毛利 重就(もうり しげなり/しげたか)は、長門長府藩第8代藩主、のち長州藩第7代藩主。諱ははじめ元房(もとふさ)、のち匡敬(まさたか)、重就(しげなり)、さらに重就(しげたか)と改めた。.

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毛利敬親

亀山公園) 毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。.

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水野忠之

水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。.

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水野忠邦

水野 忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代後期の大名・老中。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。.

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水野成之

水野 成之(みずの なりゆき)は、江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。.

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永井尚志

永井 尚志(ながい なおゆき)は、幕末の旗本。三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。名前の読みは「なおむね」とも。.

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永光院

永光院(えいこういん、寛永元年(1624年) - 正徳元年10月11日(1711年11月20日))は、江戸時代の女性、江戸幕府3代征夷大将軍・徳川家光の側室である。通称はお万の方。 参議・六条有純の娘。弟は高家となり幕府に仕えた戸田氏豊。本姓は源、諱は満子とされる。母は元旗本の戸田為春の娘で大垣藩主戸田氏鉄(為春の兄)の養女。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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江戸時代の将棋棋士一覧

江戸時代の将棋棋士一覧(えどじだいのしょうぎきしいちらん)は、江戸時代の将棋棋士の、活躍した年代ごとの一覧である。 *えとしたいのいちらん Category:職業別人名一覧 Category:将棋関連の一覧.

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江戸時代の囲碁棋士一覧

江戸時代の囲碁棋士一覧 江戸時代の囲碁棋士の、活躍した年代ごとの一覧。 (太字は名人。各家門は最終のもの。) * Category:職業別人名一覧 Category:囲碁関連の一覧.

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池大雅

福原五岳筆 池大雅像 楼閣山水図 左隻 十便十宜図のうち、釣便図 Fishing in Springtime クリーブランド美術館 池 大雅(いけの たいが、 享保8年5月4日(1723年6月6日) - 安永5年4月13日(1776年5月30日))は、日本の江戸時代の文人画家、書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。 妻の玉瀾(ぎょくらん)も画家として知られる。弟子に木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。.

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池田光政

池田光政夫妻墓所 池田 光政(いけだ みつまさ)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。.

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沢庵宗彭

沢庵 宗彭(たくあん そうほう、澤庵 宗彭、天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある(同項目を参照のこと)。.

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沢田名垂

沢田 名垂(さわだ なたり、1775年(安永4年)4月 - 1845年6月4日(弘化2年4月30日))は、江戸時代の陸奥国会津藩の国学者。名は成祐、通称新右衛門。 会津藩士の家に生まれ、藩校師範の安部井武に師事し、二条派の国学を学ぶ。文化2年(1805年)に藩校日新館の和学師範に登用され、藩士の教育に当たり、学制改革に傾注するとともに、藩主松平容頌の命により『日新館童子訓』上下2巻の編纂に中心的役割を果たした。主著に『家屋雑考』・『為政雑考』・『古字考』がある。 Category:国学者 Category:19世紀の学者 Category:会津藩の人物 Category:1775年生 Category:1845年没.

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河合道臣

河合 道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)は、江戸時代後期の姫路藩家老。一般には晩年の号の寸翁(すんのう)で知られる。酒井氏4代に50年余にわたって仕え、姫路藩の財政再建に貢献した。.

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河上彦斎

河上 彦斎(かわかみ げんさい、天保5年11月25日〈1834年12月25日〉 - 明治4年12月4日〈1872年/明治5年1月13日〉)は、尊皇攘夷派の熊本藩士である。諱は玄明(はるあきら)。幕末の四大人斬りの一人とされる。明治維新後も攘夷を強固に主張しつづけたため、藩と新政府に危険視され、斬首された。.

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河井継之助

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぎのすけ」。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが.

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河内山宗春

河内山 宗春(こうちやま そうしゅん、? - 文政6年7月22日(1823年8月27日))は江戸時代後期の茶坊主およびそれをモデルとした講談・歌舞伎などの創作上の人物。歌舞伎・映画・テレビドラマなどの創作物では、名前を「宗俊」と表記する。また「宗心」とも。.

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河村秀根

河村 秀根(かわむら ひでね、享保8年10月12日(1723年11月9日) - 寛政4年6月26日(1792年8月13日))は、江戸時代中期の尾張藩士。国学者。子に、河村殷根・河村益根。.

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河村瑞賢

河村瑞賢公園の銅像 河村 瑞賢(かわむら ずいけん、元和4年2月15日(1618年3月11日) - 元禄12年6月16日(1699年7月12日))は、江戸時代初期の政商。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。生年を元和3年(1617年)とする説もある。.

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河本にわ

河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日(文久3年8月5日) - 1976年(昭和51年)11月16日)は、1975年5月31日から死去まで長寿日本一長寿日本一が死去 朝日新聞 1976年11月16日夕刊9ページ及び長寿世界一 (ジェロントロジー・リサーチ・グループ)であった滋賀県の女性。また、当時の日本歴代最高齢でもあり、生年に確証のある日本人としては初めて113歳を迎えた人物でもあった (ジェロントロジー・リサーチ・グループ)。 20代で結婚して8人の子を産み、生前に80人以上の子孫ができた。元自由民主党参議院議員の河本嘉久蔵は孫である。1976年11月16日午前8時半に113歳と60日で死去。出生記録が確認できる日本人としては、江戸時代生まれの最後の生き残りであった。.

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泉重千代

泉 重千代(いずみ しげちよ、1865年8月20日?(または1880年頃) - 1986年2月21日)は、鹿児島県徳之島(大島郡伊仙町)出身の男性で、1995年までギネスブック公認の人類の世界最長寿、2012年まで男性としての世界最長寿とされていた人物。慶応元年6月29日(1865年8月20日)生まれの120歳とされてきたが、後述の通り、この日付には疑問が提出されている。.

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津太夫

津太夫一行の航海図(国立公文書館) 津太夫(つだゆう、延享元年(1744年) - 文化11年7月29日(1814年9月12日))は江戸時代後期の水主(かこ)。 49歳の時に嵐にあって漂流し、儀兵衛、左平、太十郎ら3名と共に、図らずも日本人初の世界一周を果たした。.

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津山藩

津山城古写真(撮影:松平国忠) 津山藩(つやまはん)は、美作国の大半を領有した藩。藩庁は津山城(岡山県津山市)に置かれた。.

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淀屋

淀屋の碑 淀屋(よどや)とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。 米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。 淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。 淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目~六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。.

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渡辺崋山

渡辺崋山像。崋山の弟子、椿椿山によって崋山の死後12年後の嘉永6年(1853年)に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。 渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。贈正四位。.

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清水六兵衛

清水 六兵衛(きよみず ろくべえ)は、江戸時代中期以来の清水焼陶工の名跡。 三代目Jsoul Brothersのパフォーマー山下健二郎の先祖でもある.

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清水次郎長

清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。 次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。虚像の部分は→清水次郎長伝の項。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。.

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清水浜臣

清水 浜臣(しみず はまおみ、安永5年(1776年) - 文政7年閏8月17日(1824年10月9日))は、江戸時代後期の医師、歌人、国学者。通称は玄長。号は泊洦舎、月齋など。姓は藤原。子に清水光房。.

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渋川春海

渋川 春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい、寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日))は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。.

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渋川景佑

渋川 景佑(しぶかわ かげすけ、天明7年10月15日(1787年11月24日) - 安政3年6月20日(1856年7月21日)は、江戸時代後期の天文学者で、江戸幕府天文方。幼名は善助。通称助左衛門。号は滄州・三角堂。高橋至時の次男で、天文方の渋川正陽の養子となった。同じく天文方の高橋景保の弟。子に渋川敬直(六蔵)、佑賢がいる。日本最後の太陽太陰暦である天保暦の作成者として知られている。.

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源伴存

源 伴存(みなもと ともあり、寛政4年(1792年)3月 - 安政6年6月18日(1859年7月17日))は、江戸時代後期紀州藩の本草学者・博物学者・藩医。翠山、翠嶽、紫藤園などと号し、通称十兵衛。畔田 伴存(くろだ ともあり)、畔田 翠山(くろだ すいざん)、畔田 十兵衛などとも。『和州吉野郡群山記』『古名録』をはじめとする博物学の著作を遺した。.

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濱口梧陵

濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日) - 1885年(明治18年)4月21日)は、紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。 醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる(後述)。.

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木内石亭

木内 石亭(きうち/きのうち せきてい、享保9年12月1日(1725年1月14日) - 文化5年3月11日(1808年4月6日))は、江戸時代の奇石収集家、本草学者。幼名は幾六。諱は重暁。.

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木村正辞

木村 正辞(きむら まさこと、1827年5月1日(文政10年4月6日) - 1913年(大正2年)4月11日)は、国学者、国文学者。.

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末吉孫左衛門

末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん、元亀元年(1570年) - 元和3年3月26日(1617年5月1日))は、江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した大坂の大商人。名は吉安(吉康)。出家後は同円。 京都・伏見の銀座の頭取である摂津国平野郡平野庄(現在の大阪市)発祥の氏族、平野勘兵衛利方、後の末吉利方の長男に生まれた。大坂で豪商となって徳川家康から朱印状を受ける。同時期に朱印状を受けた商人としては荒木宗太郎や角倉了以らがいる。「末吉船」とよばれる大船を仕立てて、インドシナ・フィリピンなど南洋方面に出かけて貿易をした。大坂の陣には家康のために働き、平野、河内など2郡の代官となった。.

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末次平蔵

末次 平蔵(すえつぐ へいぞう、天文15年(1546年)ごろ - 寛永7年5月25日(1630年7月5日))は、江戸時代初期の博多貿易商人・長崎代官。諱は政直。室は飛騨高山藩主金森可重の娘。.

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本多忠籌

本多 忠籌(ほんだ ただかず)は、江戸時代中期の大名。江戸幕府の老中格。陸奥泉藩の第2代藩主。忠以系本多家5代。寛政の三忠臣の一人と称される。.

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本多利明

本多 利明(ほんだ としあき、寛保3年(1743年) - 文政3年12月22日(1821年1月25日))は、江戸時代の数学者、経世家(経済思想家)である。幼名は長五郎、通称は三郎右衛門。号は北夷、魯鈍斎。.

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本多正信

本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川家康が抱える鷹匠から身を興したが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。一時松永久秀に仕えた後に10年以上を流浪の身として送る。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、2代将軍秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。.

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本多正珍

本多 正珍(ほんだ まさよし、宝永7年7月8日(1710年8月2日) - 天明6年8月27日(1786年9月19日))は、江戸時代中期の大名。駿河田中藩第2代藩主、江戸幕府の老中。正重系本多家7代。.

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本多正純

本多 正純(ほんだ まさずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で正信系本多家宗家2代。 徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。.

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本寿院 (徳川家慶側室)

本寿院(ほんじゅいん、文化4年(1807年) - 明治18年(1885年)2月3日)は、江戸幕府の12代将軍・徳川家慶の側室で、13代将軍・徳川家定の生母。他にも2人の男児を出産したが、いずれも早世した。本寿院は落飾後の院号で、実名は美津、堅子とも言う。父は幕臣の跡部正賢(跡部正寧とする説もある)。姉に、松平斉善の侍女となった浜尾(本立院)がいる。.

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本居大平

本居 大平(もとおり おおひら、宝暦6年2月17日(1756年3月17日) - 天保4年9月11日(1833年10月23日))は、江戸時代後期の国学者。号は藤垣内。 伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の町人・稲懸棟隆の長男。13歳で本居宣長の門に入り、寛政11年(1799年)、宣長の養子となる。 宣長の祖述につとめ、宣長の実子・本居春庭の失明後は家督を継いだ。紀州徳川家に仕え、侍講などをつとめた。.

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本居宣長

本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅のにて門人を集め講義をしたことからと呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身で、一族には日本の映画監督・脚本家の小津安二郎がいる。.

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本居内遠

本居 内遠(もとおり うちとお、寛政4年2月23日(1792年3月15日) - 安政2年10月4日(1855年11月13日))は、尾張国名古屋の俳人・国学者。本姓は浜田、実名は孝国、高国、秋津。通称は鎌次郎、久次郎、安次郎、弥四郎。号に木綿垣、榛園。狂歌の号は時曵速躬。子に本居豊穎(国学者)、荒巻利蔭(歌人・音楽家)、徳田正稔(陸軍大佐)がいる。.

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本居豊穎

本居 豊穎(もとおり とよかい、天保5年4月28日(1834年6月5日) - 大正2年(1913年)2月15日)は、明治期に活躍した国学者。本居宣長の義理の曾孫にあたる。幼名稲楠、通称中衛、和号秋屋。.

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本居春庭

本居 春庭(もとおり はるにわ、宝暦13年2月3日(1763年3月17日) - 文政11年11月7日(1828年12月13日))は、江戸時代後期の国学者、国語学者。本居宣長の実子で長男。幼名は健蔵で父と同じ。.

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本庄晋一

本庄 普一、/晋一(ほんじょう ふいち/ しんいち、寛政10年(1798年) - 弘化3年11月4日(1846年12月21日))は、江戸時代後期に本庄宿(現在の埼玉県本庄市)で開業していた蘭学医、文人。諱を俊篤、字を士雅と称した。.

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本阿弥光悦

本阿弥光悦 本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。.

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本木昌造

本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう(未詳、後段参照)、文政7年6月9日(1824年7月5日) - 1875年9月3日)は江戸幕府の通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(或は号とも(曲田(1894)))、咲三。なお、木本昌造は誤記である。 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。また、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して「新街活版所」となり、門下生らによって築地活版製造所などへと繋がった。私塾の関係者に築地活版の創設者であり石川島造船所の創設者でもある平野富二、横浜毎日新聞の創設者である陽其二がいる。.

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朱舜水

朱舜水像 朱 舜水(しゅ しゅんすい、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。舜水は号。諱は之瑜、字は楚嶼・魯璵。.

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月光院

月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。本名は勝田輝子(かつたてるこ)で、家宣が死去してから月光院と呼ばれる。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)がある。.

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最上徳内

最上 徳内(もがみ とくない、宝暦4年(1754年) - 天保7年9月5日(1836年10月14日))は、江戸時代中後期の探検家であり江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。元の姓は高宮(たかみや、略して高(こう)とも)。諱は常矩(つねのり)。幼名は元吉。通称は徳内、億内。字は子員。鶯谷、甑山、白虹斎と号した。父は間兵衛で長男。妻はふで(秀子)、子は2男3女。生年は宝暦5年(1755年)とも。 実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。.

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戸田旭山

戸田 旭山(とだ きょくざん)は江戸時代中期の医者、本草学者。岡山藩出身。大坂に出て町医者を営み、津島如蘭に本草学を学び、宝暦10年(1760年)大坂に薬品会を創始した。奇行で知られた。.

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明正天皇

明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。.

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明治の人物一覧

明治の人物一覧(めいじのじんぶついちらん)は、明治時代に活躍したことが知られている人物の一覧である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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春山弁蔵

春山 弁蔵(はるやま べんぞう、生年不明 - 明治元年9月18日(1868年11月2日))は、幕末期の幕臣。浦賀奉行所組同心、長崎海軍伝習所第一期生。戊辰戦争の際、咸臨丸副艦長を勤め、品川沖から脱走した。途中嵐に巻き込まれ、清水港に漂着。白旗を掲げるも新政府軍からの攻撃を受け、討死した。 日本初の洋式軍艦鳳凰丸、蒸気軍艦千代田形の設計に従事した有能な技術者であった。 Category:江戸幕府幕臣 Category:幕府海軍の人物 Category:長崎海軍伝習所・関連学校の人物 Category:戊辰戦争で戦死した人物 Category:日本の軍事技術者 Category:1868年没.

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春日局

春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)宮本義己「春日の局-大奥の権化となった家光の乳母-」(『別冊歴史読本』13巻16号、1988年)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。.

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浮世絵師一覧

浮世絵師一覧(うきよえしいちらん)では、著名な浮世絵師の一覧を列記する。.

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浅利義明

浅利 又七郎義明(あさり またしちろうよしあき、1822年(文政5年) - 1894年(明治27年))は、江戸時代末期から明治時代の剣術家。中西派一刀流第4代・中西子正の次男で、後に浅利義信の養子となった。幼名は兜七郎。.

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浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと)は、日本の江戸時代末から昭和初期の大名、政治家、外交官、実業家、社会事業家。 安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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浅野長訓

浅野 長訓(あさの ながみち、文化9年7月29日(1812年9月4日) - 明治5年7月26日(1872年8月29日))は、安芸国広島新田藩第5代藩主、のち広島藩第11代藩主。浅野家宗家12代。 浅野長懋(ながとし、第7代藩主・浅野重晟の四男)の五男。正室は浅野長容の娘・峻。養子に甥(弟・懋昭(としてる)の子)の浅野長勲、浅野雪年(ゆきとし、1861-1936)がいる。幼名は千之助、為五郎。長訓は新田藩主時代および明治維新以降に名乗った諱であり、広島藩主時代は浅野 茂長( -もちなが)を名乗っていた。官位は従四位下、安芸守、侍従。号は節山。 文政4年(1824年)6月17日、広島新田藩主・浅野長容の婿養子として家督を継ぐ。従五位下美作守に任官し、後に近江守に改める。安政5年(1858年)11月4日、広島藩第10代藩主の浅野慶熾の死去にともない、その跡を継いで広島藩主となる(広島新田藩主は甥で養子の浅野長興(のちの長勲)が継いだ)。通称を安芸守に改める。翌年2月7日、従四位下侍従に任官し、将軍徳川家茂の偏諱を与えられて茂長と改名する。万延元年(1860年)12月16日、左少将に任官した。 第9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀・辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が起こったとき、停戦を主張し、7月には岡山・徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。 明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗藩の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。墓所は広島県広島市の神田山墓地。.

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斎藤弥九郎

斎藤 弥九郎(さいとう やくろう)は、江戸時代後期から幕末にかけての剣術家。流派は神道無念流。幕末江戸三大道場の一つ「練兵館」の創立者。諱は善道(よしみち)。号は篤信斎。本来の表記は「齋藤彌九郎」「篤信齋」。.

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新井白石

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.

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新見正興

新見 正興(しんみ まさおき)は、幕末の幕臣。外国奉行として日米修好通商条約の批准書を交換する正使の大役を帯びて渡米した。その当時の名乗りから、新見 豊前守(しんみ ぶぜんのかみ)としても知られる。.

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新門辰五郎

新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となる。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来する。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日)という説もある。.

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新蔵

新蔵(しんぞう 、宝暦8年(1758年) - 文化7年(1810年))は、江戸時代後期の船乗り(水主)。大黒屋光太夫とは同郷であり、漂流時には同じ神昌丸に乗り組んでいた。.

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支倉常長

支倉常長の行程 サン・ファン・バウティスタ号の復元船 「支倉常長像」 1面 油彩・キャンバス 17世紀 アルキータ・リッチ筆 イタリア・個人蔵(パラッツォ・ボルゲーゼ(ボルゲーゼ宮、:en:Palazzo Borghese)保管)ローマで常長の世話役だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作され、縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれている。 円福寺の常長の墓(1900年代初期の絵葉書) 支倉 常長(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。.

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曲亭馬琴

曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、)で、後に解(とく)と改める。号に著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など(#名前について参照)。 代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。.

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曾我蕭白

曾我蕭白(そが しょうはく、 享保15年(1730年) - 天明元年1月7日(1781年1月30日))は、江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。高い水墨画の技術を誇る一方、観る者を驚かせる強烈な画風で奇想の絵師と評される。.

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