379 関係: だんぶり長者、つぼのいしぶみ、なまはげ、ねぶた、せたな町、博物学、十三湊、十三湖、十二所町、十和田市、十和田湖、南秋田郡、古川古松軒、古四王神社、司馬遼太郎、吹浦村、合川町、吉田宿、塩竈市、増田町、多賀城、大原町 (岩手県)、大島 (宮城県気仙沼市)、大畑町、大館市、大館町、大鰐温泉、大黒屋光太夫、大船渡市、大間町、大葛鉱山、大柄の滝、大東町 (岩手県)、大湯町、大滝温泉 (秋田県)、大日霊貴神社、天の川 (北海道)、天王町、天竜川、天明の大飢饉、太田山神社、太良鉱山、宝暦、室根山、宮本常一、宇曽利湖、安倍貞任、安積沼、安水稔和、寺内 (秋田市)、...、寺内町 (秋田県)、寒風山 (秋田県)、小友沼、小坂町、小川原湖、小鳥谷村、小野小町、小栗判官、小泊村、小湊町 (青森県)、尾太鉱山、尾張藩、山目町、山本町 (秋田県)、山本郡、岩館村、岩波書店、岩木山、岩手山、峰浜村、川原毛地獄、巻堀村、上小阿仁村、中尊寺、中山道、七座山、七滝、万葉仮名、万里小路藤房、三厩村、三内丸山遺跡、三河国、三湖伝説、三本木町 (青森県)、三戸町、下北半島、一関市、一戸町、平内町、平凡社、平凡社ライブラリー、平凡社新書、平秩東作、平衛之、平鹿郡、平舘村 (青森県)、平泉、久保田城、久保田藩、久遠郡、久遠村、享和、二ツ井町、二戸市、五城目町、五戸町、五所川原市、井川町、亀田藩、仏ヶ浦、仙台藩、仙北市、仙北郡、弘前市、弘前藩、佐井村、佐竹義和、御堂村、信越地方、信濃国、信濃飯田藩、土崎港、北条時頼、北浦町 (秋田県)、北海道、マキリ、マタギ、マタギ言葉、ハタハタ、ムックリ、ユーカラ、善光寺、善知鳥神社、アイヌ、イオマンテ、エイ、クナシリ・メナシの戦い、タラ、むつ市、冠着山、円空、内田武志、出羽国、函館市、八竜町、八郎潟、八郎潟町、八森町、八戸市、六郷町、前沢町、皆瀬村 (秋田県)、矢島町、矢立峠、石川理紀之助、石巻市、石井忠行、石仏、玄恵、琴丘町、砂子沢峠、神代村 (秋田県)、秋田城、秋田県立博物館、秋田魁新報、秋田蘭画、竜飛崎、笛滝、簾内敬司、米代川、米内沢町、素波里神社、紅葉山 (青森県)、織田信雄、羊蹄山、羽黒山 (山形県)、真山神社、瑞巌寺、田山村、田沢湖町、由利本荘市、男鹿半島、男鹿市、男鹿三山、無明舎出版、盲暦、盛岡市、盛岡藩、発荷峠、白神山地、白糸の滝、白瀑神社、花山院忠長、花岡町 (大館市)、花巻市、蟹田町、達谷窟、蝦夷、蝦夷地、青森県、青森県立郷土館、青森湾、飯田川町、西馬音内、西木村、西明寺村、角館、駒越町、諏訪神社、高岩神社 (能代市)、高岳山 (秋田県)、高倉新一郎、鰺ヶ沢町、豊橋市、象潟、鳥海山、越後国、鶴形村、鷹巣町、鹽竈神社、鹿角市、鹿角郡、鹿渡町、黒石寺、黒石市、黒沢尻町、鼠ヶ関、錦木塚、茂谷山 (能代市)、能代市、都々古別神社、般若院英泉、船越 (男鹿市)、阿仁町、阿仁鉱山、赤石村 (青森県)、赤神神社、藤原秀衡、藤原泰衡、藤崎町、藤琴村、脇野沢村、脇本城、野帳、野辺地町、重要文化財、釈迦内村、金田一村、酒田市、若美町、雄勝郡、院内銀山、陸奥国、暗門滝、柳田國男、恐山、東京大空襲、東北地方、東西遊記、東洋文庫 (平凡社)、東湖八坂神社、東成瀬村、松島、松前城、松前町 (北海道)、松前道広、松前藩、板碑、栗駒山、森吉山、森吉町、森田村、極楽寺 (北上市)、横手市、橘南谿、檜山安東氏城館跡、武蔵坊弁慶、歌枕、比叡山、比内町扇田、毛越寺、水島 (秋田県)、水内ダム、水沢町、気仙沼市、江差町、江刺市、江戸時代、沼宮内町、泥湯温泉、法華経、津軽半島、津軽寧親、洗馬宿、深澤多市、深浦町、渥美郡、渋民村、湯ノ岱温泉 (秋田県)、湯沢市、源義経、未來社、本草学、本館城 (出羽国)、有珠山、有明山 (安曇野市・松川村)、最上川、最上徳内、戸隠山、房住山、明徳館 (久保田藩)、浦城、浪岡町、浪岡氏、浪打峠、浄法寺村、浅井図南、浅利氏、浅間温泉、浅虫温泉、文化 (元号)、文化人類学、文政、手這坂、1754年、1783年、1784年、1785年、1786年、1788年、1789年、1790年、1791年、1792年、1793年、1794年、1795年、1796年、1797年、1798年、1799年、1801年、1802年、1803年、1804年、1805年、1806年、1807年、1809年、1810年、1811年、1812年、1813年、1814年、1815年、1817年、1818年、1820年、1821年、1822年、1824年、1826年、1829年、1840年、1871年、1909年、1910年、1922年、1928年、1944年、1946年、1949年、1957年、1958年、1991年、2012年、2014年、7月19日 (旧暦)、8月18日。 インデックスを展開 (329 もっと) »
だんぶり長者
だんぶり長者(だんぶりちょうじゃ)は秋田県と岩手県にまたがる伝説である。 主に、盛岡藩の鹿角郡の伝承であり、米代川の名前の由来や、大日霊貴神社の縁起を伝えている。.
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つぼのいしぶみ
つぼのいしぶみ(漢字表記では「壺の碑」)とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。.
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なまはげ
なまはげは、男鹿半島周辺で行われてきた年中行事、あるいは、その行事において、仮面をつけ藁の衣装をまとった神の使い(来訪神)を指す。 秋田県全体の3%に満たない男鹿半島面積において、男鹿市は秋田県全体の約2.01%、人口においても2.73%を占めるに過ぎない(2017年時点)。の、年一回しかない「なまはげ」は今や、秋田県全体の記号として用いられるまでの知名度を持つようになっている。しかし、男鹿半島での伝統は、地元自治体が補助金を出して下支えしなくてはならないほどの衰退傾向を見せている。また、本来の「来訪神」と無関係な上、異形を誇張しただけの「鬼」化した多数の平面像ならびに立体像が乱造され、あるいはキャラクターとしてデフォルメされたグッズが氾濫し、顕著に「観光」化されている。.
ねぶた
ぶたとは、古来日本で、旧暦7月7日の年中行事として、すなわち七夕行事の一つとして行われてきた『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』夏祭りの一類型である。太陽暦(新暦)の導入以降は元来の七夕との関連性は薄れ、8月1日から一週間ほどかけて行われる夏祭りへと変容した。 東北地方から北関東にかけて東日本各地で行なわれてきたが、近世以降の津軽地方(江戸幕藩体制下においては弘前藩領。明治維新以降の青森県西部)においてはとりわけ盛んで、祭りの形態も主にこの地で進化・発展を遂げてきた。今日では、ねぶたという祭りの類型は南関東や北海道にも拡散している。 「ねぶた」と呼んで仮名表記するのが、最も広く知られる表現であるが、「ねぷた」と呼ぶ地域(弘前ねぷたなど)も多く、なかには漢字の当て字で「佞武多」と記して「ねぷた」と読みならわす地域(五所川原立佞武多)もある。 また、かかる祭事(あるいは催事)は「ねぶた祭/ねぶた祭り(ねぶたまつり)」ともいい、通称ではあるが、当事者もこれを正式に用いる。加えて、ねぶた祭で使われる山車灯籠を指して「ねぶた」「ねぷた」ということもある現状では、混同されることも致し方ない。 全国的に有名なのは、青森ねぶたと弘前ねぷたである。これらは、1980年に重要無形民俗文化財に指定されている。以下、青森県のねぶたを中心に記載する。.
せたな町
せたな町(せたなちょう)は、北海道檜山振興局の久遠郡にある町。.
博物学
博物学(はくぶつがく、Natural history, 場合によっては直訳的に:自然史)は、自然に存在するものについて研究する学問。広義には自然科学のすべて。狭義には動物・植物・鉱物(岩石)など(博物学における「界」は動物界・植物界・鉱物界の「3界」である)、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。東洋では本草学がそれにあたる。.
十三湊
十三湊(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に、えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の許でとりわけ隆盛を極めた湊である。 地域名「十三」を江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん(:じふさん)」と読むようになった。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる「十三湖」「十三村」「十三」など、「十三湊」関連以外は江戸時代後期以降の読みを踏襲している。。 遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には国指定史跡となっている。史跡としての中心地(説明板所在地)は十三古中道61番地五所川原市十三古中道61()。本項ではこの遺跡についても述べる。.
十三湖
十三湖(じゅうさんこ)は、青森県津軽半島北西部の日本海岸にある汽水湖である。地元津軽地区では「十三潟(じゅうさんがた)」とも呼ばれる。.
十二所町
十二所町(じゅうにしょまち)は秋田県北秋田郡にあった町。現在の大館市南東部、米代川沿岸、花輪線・国道103号沿線にあたる。.
十和田市
十和田市(とわだし)は、青森県上北、南部地方の内陸部に位置する市である。.
十和田湖
十和田湖(とわだこ)は、青森県十和田市と秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖。日本の湖沼としては、最大水深は326.8mで第3位、面積では12番目。東岸には、十和田湖の水が唯一流れ出る奥入瀬川があり、北東に約14kmにわたり奥入瀬渓流が延びる。約20km北には八甲田山が位置する。 観光地となっており、冬季を除き遊覧船が就航している。このため内水ながら、国の地方港湾に指定されている港が2つある。奥入瀬渓流入り口の子ノ口(ねのくち)港と、十和田湖南岸の中山半島西側付け根にある休屋(やすみや)港である。 十和田湖は「十和田湖および奥入瀬渓流」として、文化財の特別名勝及び天然記念物に指定されている。1936年には周辺の奥入瀬渓流、八甲田火山群とともに十和田八幡平国立公園に指定されている。.
南秋田郡
秋田県南秋田郡の範囲(1.五城目町 2.井川町 3.八郎潟町 4.大潟村) 南秋田郡(みなみあきたぐん)は、秋田県の郡。 以下の3町1村を含む。.
古川古松軒
古川 古松軒(ふるかわ こしょうけん)は江戸時代後期の旅行家、地理学者。.
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古四王神社
古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社である。.
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司馬遼太郎
司馬 太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。 産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。.
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吹浦村
吹浦村(ふくらむら)は、かつて山形県飽海郡にあった村。.
合川町
合川町(あいかわまち)は秋田県の北部に位置した町である。2005年(平成17年)3月22日、北秋田郡の鷹巣町・森吉町・阿仁町との合併によって北秋田市となり、廃止した。.
吉田宿
歌川広重『東海道五十三次・吉田』 吉田宿(よしだしゅく、よしだじゅく)は、江戸時代に設定された東海道五十三次の江戸側から数えて34番目の宿場である。現在の愛知県豊橋市中心部に相当する。.
塩竈市
塩竈市(しおがまし、塩釜市)は、宮城県のほぼ中央、太平洋岸(仙台湾)に位置する都市である。日本有数の漁港を中心とする港町および志波彦神社・鹽竈神社の鳥居前町としての性格がある。.
増田町
増田町(ますだまち・ますだちょう・ましたちょう)は、日本の地名。.
多賀城
多賀城(たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。 奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。なお、多賀城が存在した頃は「平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたため注意が必要。.
大原町 (岩手県)
大原町(おおはらまち)は、昭和30年(1955年)まで岩手県東磐井郡にあった町。現在の一関市大東町大原にあたる。.
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大島 (宮城県気仙沼市)
東日本大震災におけるトモダチ作戦で大島に着陸したアメリカ海軍航空隊員から救援物資を受け取る子供たち(緑のふれあい広場、2011年3月21日) 東日本大震災で設置された仮設シャワールーム(2011年3月26日) 津波によって破壊された気仙沼市営亀山リフトの乗り場(浦の浜港、2011年4月1日) 冠水し、瓦礫が散乱した通り(浦の浜港、2011年4月1日) 東北地方太平洋沖地震により道路に沿って走った亀裂(大初平、2011年4月2日) 大島(おおしま)は、宮城県気仙沼市に属する面積8.50kmの島。2012年時点で約1000世帯、3000人が暮らす東北地方最大の有人島である。通常は大島と呼ばれているが、全国各地にある他の大島と区別するために気仙沼大島と呼ばれることもある 。.
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大畑町
大畑町(おおはたまち)は、青森県の下北半島の津軽海峡付近の沿岸に位置し、イカ釣りなどの漁業と林業で知られていた町である。 2005年3月14日に隣接するむつ市に編入したため廃止され、むつ市の一行政地区の大畑町となった。.
大館市
大館市(おおだてし)は、秋田県北部に位置する市。市の北境で青森県と接している。.
大館町
大館町(おおだてまち)は秋田県北秋田郡にあった町。現在の大館市中心部、長木川左岸にあたる。現在の大館市は1951年に新設合併で発足したもので、本町とは別の自治体である。.
大鰐温泉
温泉街 湯魂石薬師堂の足湯 大鰐温泉(おおわにおんせん)は、青森県南津軽郡大鰐町(旧国陸奥国)にある温泉。.
大黒屋光太夫
大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。 天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。 幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。.
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大船渡市
大船渡市(おおふなとし)は、岩手県南部の太平洋沿岸地域に所在する都市である。.
大間町
太平洋から昇る朝日(大間崎) 本州最北端の石碑(大間崎) 大間町(おおままち)は、青森県下北郡の町。下北半島の先端に位置し、本州最北端の自治体である。津軽海峡に面し、天気の良い日には対岸北海道を見渡す事ができる。大間まぐろはグルメのブランドとして人気が高い。建設中の大間原子力発電所がある。.
大葛鉱山
大葛鉱山(おおくぞこうざん)とは、秋田県大館市にあった鉱山である。ほぼ、金を産出したため大葛金山とも言われている。.
大柄の滝
大柄の滝(おおがらのたき)は、秋田県能代市にある滝である。落差約15mの男滝と、そのすぐ下の落差約7mの女滝に分かれる。.
大東町 (岩手県)
大東町(だいとうちょう)は、かつて岩手県東磐井郡におかれていた町である。2005年(平成17年)9月20日に、旧一関市、花泉町、千厩町、東山町、室根村、川崎村と合併し、新たな一関市となった。.
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大湯町
大湯町(おおゆまち)は、かつて秋田県鹿角郡にあった町。現在の鹿角市北東部にあたる。 1956年に十和田町と合併し、十和田町大湯となり消滅した。その後1972年に十和田町が周辺の自治体と再合併して鹿角市の一部となり、大湯町は鹿角市十和田大湯として地名が残っている。.
大滝温泉 (秋田県)
大滝温泉(おおたきおんせん)は、秋田県大館市(旧国出羽国、明治以降は旧羽後国)にある温泉。.
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大日霊貴神社
大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)は、秋田県鹿角市八幡平にある神社。大日堂とも称される。.
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天の川 (北海道)
天の川橋にある河川名標 河口付近(天の川橋より上流方) 宮越橋より下流方 天の川(あまのがわ)は、北海道檜山郡上ノ国町を流れる二級河川。檜山振興局の河川では後志利別川・厚沢部川に次ぎ三番目の規模を誇る。なお二級河川指定は「天野川」として登録されている。.
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天王町
天王町(てんのうまち)は秋田県中央部に位置する日本海に面していた町。2005年3月22日に飯田川町、昭和町との新設合併により潟上市となった。 名称は東湖八坂神社の別名「牛頭天王社」に由来する。.
天竜川
諏訪湖より流れ出た天竜川(長野県岡谷市) 天竜川(てんりゅうがわ)は、長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流で、一級河川のひとつ。流路延長は213km(日本全国9位)、流域面積は5,090km2(日本全国12位)。.
天明の大飢饉
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。.
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太田山神社
太田山神社(おおたさんじんじゃ)とは、北海道久遠郡せたな町にある神社である。北海道本土で最も西に位置する神社であり、また道南五大霊場の一つであるとされている。地元では太田神社または太田の神社とも呼ばれ、猿田彦大神を祀る。旧社格は村社(太田神社)。.
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太良鉱山
太良鉱山(だいらこうざん)とは、秋田県山本郡藤里町にあった鉱山である。.
宝暦
宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.
室根山
室根山(むろねさん)は、岩手県一関市室根町にある山。 周囲1495ヘクタールと共に室根高原県立自然公園を形成している。北上高地の南部の独立峰として知られる。標高は894.7m。山頂からは、太平洋を含む360°のパノラマが望める。 春はつつじで山全体がピンク色に染まり、初夏は濃い緑で覆われる。また、秋は紅葉が見られる。冬は、雪のために5合目付近で冬季通行止めになるため、頂上までは上がることが出来ない。.
宮本常一
宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本の民俗学者、農村指導者、社会教育家。.
宇曽利湖
宇曽利湖(うそりこ)は、下北半島のほぼ中心、恐山にある湖。湖全体が青森県むつ市に属し、下北半島国定公園に指定されている。 正式名称は宇曽利山湖(うそりやまこ)で、これは恐山が古くは宇曽利山(うそりやま)と呼ばれたことに由来する。。.
安倍貞任
安倍 貞任 (あべ の さだとう)は、平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁で、奥六郡を支配する俘囚長・安倍頼時の第2子(次男)。厨川柵主として、安倍厨川次郎貞任とも。妹聟に藤原経清(奥州藤原氏初代藤原清衡の父)がおり、貞任と清衡は伯父と甥の関係にあたる。.
安積沼
安積沼(あさかぬま)は、福島県安積郡(現在の郡山市)にかつてあった沼。.
安水稔和
安水 稔和(やすみず としかず、1931年9月15日 - )は、日本の詩人。神戸松蔭女子学院大学元教授。 兵庫県神戸市須磨区生まれ。神戸大学文学部英米文学科卒業。在学中から詩誌に関わり、のち『歴程』『たうろす』同人。現代詩人会所属。 1963年、多田武彦作曲の合唱組曲「京都」で文部省芸術祭奨励賞。1984年、井植文化賞受賞。1989年、詩集『記憶めくり』で第14回地球賞。1997年、『秋山抄』で第6回丸山豊記念現代詩賞。1999年、『生きているということ』で第40回晩翠賞。2001年、詩集『椿崎や見なんとて』で第16回詩歌文学館賞。2005年、詩集『蟹場まで』に至る菅江真澄に関する営為で第43回藤村記念歴程賞受賞。阪神・淡路大震災について書き続けている。.
寺内 (秋田市)
寺内(てらうち)は秋田県秋田市にある大字である。郵便番号は011-0901となる寺内字三千刈の一部は、郵便番号7桁化になった当初の時期までは、秋田中央郵便局の集配区になっていた関係で、010-0801となっていたが、現在は「寺内字~」となっている区域全域が土崎郵便局の集配区に移行された関係で、011-0901に統一されている。。また、大字寺内に由来し「寺内」を冠した町名を持つ地区の総称でもある。各町の郵便番号は、寺内油田011-0903、寺内後城011-0906、寺内鵜ノ木011-0938、寺内大小路011-0908、寺内大畑011-0939、寺内神屋敷011-0905、寺内高野011-0937、寺内児桜011-0909、寺内堂ノ沢011-0902、寺内蛭根011-0904、寺内焼山011-0907。大字寺内と各町を合わせた人口は9,458人(2011年4月1日現在、住民基本台帳人口調査による)。 本項では、特に明記しない場合は地域総称としての寺内について述べる。.
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寺内町 (秋田県)
寺内町(てらうちまち)は秋田県南秋田郡にかつて存在した町。現在の秋田市寺内・八橋・将軍野のそれぞれ大部分と、土崎港・外旭川のそれぞれ一部を合わせた範囲に相当する。.
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寒風山 (秋田県)
寒風山(かんぷうざん)とは、秋田県男鹿市にある成層火山。標高355m。山頂部は滑落で2つに分かれていて、安山岩の採石が行われている。男鹿三山の一つとして数えられる場合もある。.
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小友沼
小友沼(おともぬま)は、秋田県能代市にあるため池で、ガンカモ類の渡りの中継地点である。 2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定された。.
小坂町
小坂町(こさかまち)は秋田県の北東部に位置する町である。かつては小坂鉱山など鉱山資源で栄え、江戸時代には津軽街道が通る盛岡藩の領地であった。.
小川原湖
三沢市側から望む 小川原湖(おがわらこ)は、青森県上北郡東北町にある湖。汽水湖である。日本の湖沼では11番目の面積規模を有する。この湖には「青森県上北郡東北町大字大浦字小川原湖191番地」と住所が定められている。.
小鳥谷村
小鳥谷村(こずやむら)は、昭和32年(1957年)まで岩手県二戸郡にあった村。現在の一戸町小鳥谷・宇別・小繋・中山・奥中山・平糠にあたる。.
小野小町
小野小町(『前賢故実』菊池容斎画、明治時代) 歌碑(京都随心院)「花の色は」の歌が刻まれている。 小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.
小栗判官
小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し、一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり、浄瑠璃や歌舞伎などになった。常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子・小栗助重がモデルとされる。.
小泊村
小泊村(こどまりむら)は、青森県北津軽郡に置かれていた村。漁業が中心産業で、特にイカ漁は全体の70%を占める。小泊は、アイヌ語のポン・トマリに由来し、「小さな港」を意味するといわれる。.
小湊町 (青森県)
小湊町(こみなとまち)は、かつて青森県にあった町。.
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尾太鉱山
尾太鉱山(おっぷこうざん)は、青森県中津軽郡西目屋村にあった金属鉱山。近世には銀・銅を産して栄え、江戸時代末期の鉱山地区は津軽藩領内で弘前、青森に次ぐ人口を擁していた。 近代には開発と閉鎖を繰り返したが、太平洋戦争後に近代的な開発が行われると、高度成長期には黄鉄鉱・黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱などを豊かに出す日本を代表する金属鉱山のひとつになった。1970年代には西目屋村の人口の1/3ほどを占め、村の基幹産業となっていたが、石油危機期に不振になり、1978年に閉山した。 鉱物収集者のあいだでは、世界的に高い人気のある菱マンガン鉱(ロードクロサイト)の産地「Oppu mine」として知られている。.
尾張藩
尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.
山目町
山目町(やまのめまち)は、昭和23年(1948年)まで岩手県西磐井郡にあった町。.
山本町 (秋田県)
山本町(やまもとまち)は秋田県の北西部に位置した町。 じゅんさいの生産量日本一。.
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山本郡
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岩館村
岩館村(いわだてむら)は秋田県山本郡にあった村。現在の八峰町北端、五能線岩館駅周辺にあたる。.
岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.
岩木山
岩木山(いわきさん)は青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山である。標高は1,625 mで、青森県の最高峰である。日本百名山および新日本百名山に選定されている。その山容から津軽富士とも呼ばれるほか、しばしば「お」をつけて「お岩木(山)」あるいは「お岩木様」とも呼ばれる。.
岩手山
岩手山(いわてさん)は日本の東北地方、奥羽山脈北部にあり二つの外輪山からなる標高2,038mの成層火山。岩手県の最高峰であり、県のシンボルの一つとされている。日本百名山に選定されている。.
峰浜村
峰浜村(みねはまむら)は、秋田県の北部に位置し日本海に面していた村。農業が主な産業であるが、村の75%が山林で林業も行われていた。.
川原毛地獄
川原毛地獄(かわらげじごく)は、秋田県湯沢市にある霊地。青森県の恐山、富山県の立山と並ぶ日本三大霊地の一つと言われている。近くに川原毛大湯滝がある。標高は約800m。ゆざわジオパークのジオサイトに認定されている。.
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巻堀村
巻堀村(まきぼりむら)は、昭和30年(1955年)まで岩手県岩手郡の中部に存在していた村。現在の盛岡市巻堀・好摩・寺林・玉山永井・玉山馬場の各地区にあたる。.
上小阿仁村
上小阿仁村(かみこあにむら)は、秋田県の中央部に位置する村である。マタギの里として知名度がある。.
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中尊寺
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来 。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。 奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。 境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。 平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。.
中山道
五十五里塚跡、下諏訪宿 福島宿) 一里塚(岐阜県垂井町) 中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道板橋駅の北側にある踏切が「中仙道踏切」という名称である。」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。.
七座山
七座山(ななくらやま)は、秋田県能代市二ツ井町にある7つの山の総称である。きみまち阪(自然公園)の米代川を挟んだ対岸にある。また、七座山の最高峰である権現座を望むように七座神社が鎮座する信仰の山でもある。最高峰の権現座は右の写真でも米代川をはさんでもっとも高く見える山である。権現座と松座には三角点が設置されている。.
七滝
七滝(ななたき)は秋田県鹿角郡小坂町にある滝。日本の滝百選の一つである。.
万葉仮名
万葉仮名(まんようがな、正字体:萬葉假名、正仮名遣:まんえふがな)は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである。『萬葉集』(万葉集)での表記に代表されるため、この名前がある。真仮名(まがな)、真名仮名(まながな)、男仮名、借字ともいう。仮借の一種。.
万里小路藤房
万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う。 江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている。.
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三厩村
三厩村(みんまやむら)は、青森県東津軽郡の北西、津軽半島の最北端に位置していた村である。2005年(平成17年)3月28日、同郡の蟹田町、平舘村と合併し、外ヶ浜町となったため消滅した。 郷土書などによると、三厩の名称は、義経伝説に由来するとも言われ、東北へと逃れた源義経が岩窟にいた3頭の駿馬を得て北海道へ渡ったという伝説に基づく地名とされている。.
三内丸山遺跡
三内丸山遺跡 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が発掘調査を行っている。.
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三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三湖伝説
三湖伝説(さんこでんせつ)は青森県、岩手県、秋田県にまたがる伝説。主に秋田県を中心として語り継がれている。異類婚姻譚、変身譚、見るなのタブーの類型のひとつ。各地にこの物語が残されているが、細部は異なっている。.
三本木町 (青森県)
三本木町(さんぼんぎまち)は、かつて青森県にあった村。.
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三戸町
三戸町(さんのへまち)は、青森県三戸郡の南端、岩手県との境に位置する町である。 古くより三戸郡の中核機能を有する町として栄えてきた。.
下北半島
下北半島のランドサット。スペースシャトル 下北半島(しもきたはんとう)は、青森県の北東部にある半島。半島全体が下北半島国定公園となっており、本州最北端の地である大間崎や、日本三大霊場の恐山などがある。 旧斗南藩(「北斗以南皆帝州」から命名)にちなみ「斗南半島」とも呼ばれ、半島が「鉞(まさかり)」の形に似ているので「鉞半島」「まさかり半島」の別名もある。.
一関市
一関市中心部周辺の空中写真。市街地の中央を磐井川が流れる。この画像の撮影時、東北新幹線は建設中である。1976年撮影の12枚を合成作成。国土航空写真。 一関市(いちのせきし)は、岩手県の最南端に位置する県内第二の人口・面積を擁する市。.
一戸町
一戸町(いちのへまち)は、岩手県の北に位置する町である。.
平内町
平内町(ひらないまち)は、青森県東津軽郡の夏泊半島に位置する町である。 江戸時代には黒石藩の飛び地として盛岡藩と隣接していた。 ホタテ養殖の発祥地。夏泊半島の他白鳥の飛来地である浅所海岸や夜越山スキー場など自然レジャー・観光施設が多い。.
平凡社
株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.
平凡社ライブラリー
平凡社ライブラリー(へいぼんしゃライブラリー)は、平凡社が刊行する叢書レーベルである。.
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平凡社新書
平凡社新書(へいぼんしゃしんしょ)は、平凡社が発行する新書シリーズ。.
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平秩東作
平秩 東作(へづつ とうさく、享保11年3月28日(1726年4月29日) - 寛政元年3月8日(1789年4月3日))は、江戸時代後期の戯作者、狂歌師、漢詩人、文人である。幼名は八十郎、後に八右衛門。姓は立松。名は懐之(かねゆき)。字は子玉、嘉穂、東鞠。平秩東作は戯号。号は東蒙山人。父は元尾州藩士で屋号は稲毛屋金右衛門。後に東作が父の屋号を引き継いだ。.
平衛之
平衛之(への・へえの)は、江戸時代の出羽国藤琴村(久保田藩領、現在の秋田県藤里町)の人物。大男で大力の持ち主であったといい、同地では彼に関する民話や伝説が多く語り継がれている。.
平鹿郡
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平舘村 (青森県)
平舘村(たいらだてむら)は青森県東津軽郡の北東部に位置していた村である。.
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平泉
平泉(ひらいずみ)は、日本の東北地方、岩手県南西部(古代の陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる。 この地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年(平成23年)6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された(岩手県教育委員会)。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり自然遺産も含めた全体では16番目。同じ年に「小笠原諸島」も登録されたが、世界遺産センターの公式発表は、小笠原諸島が6月24日、平泉が6月25日である(cf.
久保田城
久保田城(くぼたじょう)は、羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田(現在の秋田県秋田市千秋公園近辺)にあった城郭である。.
久保田藩
『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.
久遠郡
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久遠村
久遠村(くどおむら)は、かつて北海道久遠郡にあった村。.
享和
享和(きょうわ)は日本の元号の一つ。寛政の後、文化の前。1801年から1804年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
二ツ井町
二ツ井町(ふたついまち)は秋田県の北部に位置していた町。2006年3月21日に能代市と合併し、新たに能代市となったため廃止した。 南北に細長い形状、北は世界遺産の白神山地に接している。合併後も能代市二ツ井町として地名が残る。.
二戸市
二戸市中心部周辺の空中写真。馬淵川沿いに市街地が形成され周囲は山に囲まれている。1977年撮影の8枚を合成作成。国土航空写真。 上空からの二戸市 二戸市(にのへし)は、岩手県の内陸部北端に位置する市である。 旧・二戸市域は中央を馬淵川(まべちがわ)が流れ、東に折爪岳を擁する。旧・浄法寺町域はほぼ中心を南西から北東に向かって流れる安比川の流れにそって交通が発展し、やや川下の開けた部分に総合支所などが存在し、西に稲庭岳を擁する。九戸郡軽米町、九戸村、一戸町と共に、カシオペア連邦を形成する。.
五城目町
五城目町(ごじょうめまち)は秋田県南秋田郡にある秋田県中央部に位置する町。.
五戸町
五戸町(ごのへまち)は、青森県の三戸郡の町。.
五所川原市
五所川原市中心市街地周辺の空中写真/1975年撮影の6枚を合成作成。国土航空写真。 五所川原市(ごしょがわらし)は、日本の東北地方最北部、津軽半島中南部に位置し、青森県西部に所在する市である。旧市浦村域は飛地となっている。.
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井川町
井川町(いかわまち)は秋田県中央部に位置する町。.
亀田藩
亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)由利郡亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)の亀田城に政庁を置いた藩。藩主は岩城氏。.
仏ヶ浦
仏ヶ浦遠景。北側の国道338号より撮影。 極楽浜から北方を望む。中央の断崖が五百羅漢 蓮華岩 大町桂月歌碑。極楽浜に立つ 仏ヶ浦(ほとけがうら)は、青森県下北半島西岸の下北郡佐井村南部に所在する景勝地。古くは仏宇陀(ほとけうた、ほとけうだ)と称した。.
仙台藩
仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.
仙北市
仙北市(せんぼくし)は、秋田県東部に位置する市。.
仙北郡
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弘前市
弘前市(ひろさきし)は、青森県西部の市である。日本で最初に市制施行地に指定された都市のひとつ。弘前藩の城下町として発展し、現在も津軽地方の中心都市として、周辺自治体に広がる人口約31万人(2005年時点)の弘前都市圏を形成している。.
弘前藩
弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。.
佐井村
佐井村(さいむら)は、青森県下北半島の西側にある村である。下北半島をまさかりに見立てると、刃の部分にあたる。.
佐竹義和
佐竹 義和(さたけ よしまさ)は、江戸時代の大名。出羽久保田藩第9代藩主。佐竹義敦(曙山)の長男。生母は側室三木清(清瀧、三木宇平太の娘)。幼名は直丸。通称は次郎。官位は従四位下侍従、右京大夫。号は泰娥、知足斎、突故斎、日新斎、荷風亭など。.
御堂村
御堂村(みどうむら)は、昭和30年(1955年)まで岩手県岩手郡の北部に存在していた村。現在の岩手町御堂・五日市・久保・子抱・大坊などの各地区にあたる。.
信越地方
信越地方(しんえつちほう)は、長野県と新潟県の総称である。令制国名の信濃国・越後国に因むが、旧佐渡国である佐渡島も含まれる。 北陸地方(この場合、新潟県を含まない北陸3県(富山県、石川県、福井県)を指す)と併せて、北信越地方(ほくしんえつ)や北陸信越地方と呼ぶこともある。また、群馬県と併せて上信越地方、山梨県と併せて甲信越地方と呼ぶことがある。.
信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
信濃飯田藩
飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。.
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土崎港
タワー)より土崎港を望む 土崎神明社例祭(土崎港曳山まつり) 土崎港(つちざきみなと)は秋田県秋田市北部の地区。単に「土崎」(つちざき)とも呼ばれる。土崎港北一丁目 - 七丁目、土崎港中央一丁目 - 七丁目、土崎港西一丁目 - 五丁目、土崎港東一丁目 - 四丁目、土崎港南一丁目 - 三丁目、土崎港穀保町と、住居表示未実施の土崎港御蔵町、土崎港下浜町、土崎港相染町、土崎港古川町がある。人口は21,310人(2009年10月1日現在、住民基本台帳人口調査による)。 以降、本項では土崎と表記し、1941年4月1日に秋田市へ編入された旧南秋田郡土崎港町についても併せて解説する。.
北条時頼
北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.
北浦町 (秋田県)
北浦町(きたうらまち)は秋田県南秋田郡にあった町。現在の男鹿市北端、北浦各町にあたる。本項では発足時の名称である北磯分村(きたいそわけむら)、町制前の名称である北磯村(きたいそむら)についても述べる。.
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北海道
北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.
マキリ
アイヌマキリ マキリとは、アイヌ民族によって用いられた短刀、もしくはアイヌ語より派生した、マタギを始めとした日本の猟師に用いられている狩猟刀、または漁業従事者に用いられる漁業用包丁の名称である。 現在ではアイヌ民族が用いていたものを特定して指す場合には“アイヌマキリ”と呼称される。 「マキリ」とは本来はアイヌ語で「小刀」を意味するもので、アイヌ民族の日常生活の中で汎用刃物として様々な用途に用いられた。より大型のものは「タシロ」と呼ばれて区別される。.
マタギ
マタギは、東北地方・北海道から北関東、甲信越地方にかけての山岳地帯で、古い方法を用いて集団で狩猟を行う者を指す。「狩猟を専業とする」ことがその定義とされるものの、現代においては単にマタギ郷として有名な土地に生まれ、鉄砲を生業とする猟師のことを指すのが一般的である。獲物は主に熊の他に、アオシシ(カモシカ、後述)やニホンザル、ウサギなども獲物とした。古くは山立(やまだち)とも呼ばれており、特に秋田県の阿仁マタギが有名である。その歴史は平安時代にまで遡る。近世以降は狩猟に銃を使うが、独特の宗教観や生命倫理を尊んだという点において、日本の他地方の猟師や近代的な装備の狩猟者(ハンター)とは異なる。森林の減少やカモシカの禁猟化、山村の社会・経済環境の変化により、本来的なマタギ猟を行う者は減少している。近世に入ってからは、狩猟を専業とするもの、つまり本当の意味でのマタギはごく一部の人間に限られている。.
マタギ言葉
マタギ言葉(マタギことば)とはマタギの使用する日本語の言語変種。アイヌ語の影響が強いとされる。山言葉ともいう。.
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ハタハタ
ハタハタ(Arctoscopus japonicus、鰰、鱩、雷魚、燭魚、英名:Sailfin sandfish)とはスズキ目に属する魚の一種。別名カミナリウオ、シロハタなど。 日本では主に日本海側で食用にされ、秋田県の県魚である。煮魚や焼き魚に調理されるほか、干物、塩蔵、味噌漬けなどにもされ、しょっつると呼ぶ魚醤にも加工される。魚卵はブリコと呼ばれる。.
ムックリ
ムックリは、アイヌ民族に伝わる竹製の楽器。口琴と呼ばれる楽器の一種。.
ユーカラ
ユーカラは、アイヌ民族に伝わる叙事詩の総称。アイヌ語で「叙事詩」を意味する。カナ表記は統一されていないが、カタカナを用いる場合、萱野茂は「ユカラ」とした方がより忠実としている。またラテン文字表記 (yukar) は知里真志保の表記法による。「ユカラ」ではなく「ユーカラ」と表記されるのはアイヌ語学者金田一京助の影響が大きいと思われる。金田一は第1音節の高アクセントに対応する日本語の表記として長音表記をえらんだ。.
善光寺
善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。.
善知鳥神社
善知鳥神社(うとうじんじゃ)は、青森県青森市安方にある神社である。旧社格は県社。.
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アイヌ
アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.
イオマンテ
イオマンテを行うアイヌの男性たち。供物を捧げている。(1930年撮影) イオマンテ (iomante) とはアイヌの儀礼のひとつで、ヒグマなどの動物を殺してその魂であるカムイを神々の世界 (kamuy mosir) に送り帰す祭りのことである。 言葉としてはi「それを」+oman「行く」+te「何々させる(使役動詞語尾)」という意味。「それ」とは恐れ多いカムイの名を直接呼ぶ事を避けた婉曲表現であり、従ってイオマンテとは「カムイを行かせる」儀式の意である。また、語頭のiとoの間に渡り音のyが挿入されてiyomante=イヨマンテという発音になることも多い。 単にイオマンテという場合、ヒグマのイオマンテを指すことが多い。本来はカムイであればどんなカムイでも構わず、一部の地域ではシマフクロウのイオマンテを重視する。またシャチを対象とするイオマンテもある。 飼育したヒグマを対象とする儀式はイオマンテ、狩猟によって捕殺した野生のヒグマを対象とする儀式はカムイ・ホプニレ (kamuy hopunire) と呼んで区別することがある。「ホプニレ」とはho「尻」+puni「何々を持ち上げる」+re「使役動詞語尾」で「(カムイを)発たせる」の意味。狩猟で殺した直後の獣のカムイは、魂 (ramat) の形で両耳の間に留まっているという。そこでカムイ・ホプニレの儀式では祭壇を設えてヒグマの頭部を祀り、酒食やイナウを捧げてそのカムイに神々の世界にお帰り頂くのである。.
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エイ
イ(鱏、鱝、鰩、海鷂魚)は板鰓亜綱に属する軟骨魚類のうち、鰓裂が体の下面に開くものの総称。 鰓裂が側面に開くサメとは区別される。約530種が知られている。世界中の海洋の暖海域から極域まで広く分布し、一部は淡水にも適応している。一般的に上下に扁平な体型で、細長い尾、5-6対の鰓を持ち、多くは卵胎生である。尾の棘に毒を持つ種類もいる。サメの一部の系統から底生生活に適応して進化した系統のひとつと考えられているが、トビエイのように二次的に遊泳生活に戻ったものもある。.
クナシリ・メナシの戦い
ナシリ・メナシの戦い(クナシリ・メナシのたたかい:国後・目梨の戦いと表記されることもある)は、1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。.
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タラ
タラ(鱈、大口魚、鰔)は、タラ目タラ科のうちタラ亜科に所属する魚類の総称。北半球の寒冷な海に分布する肉食性の底生魚で、重要な水産資源となる魚を多く含む。 日本近海では北日本沿岸にマダラ・スケトウダラ・コマイの3属3種が分布する『日本の海水魚』 pp.132-133。単に「タラ」と呼んだ場合はマダラ(Gadus macrocephalus)を指すことが多い。.
むつ市
むつ市(むつし)は、青森県東北部、下北地方に位置する市である。.
冠着山
冠着山(かむりきやま)は、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山。標高 1,252メートルで、長野盆地南西端に位置する。幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われる。俗称は姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)。.
円空
円空(えんくう、寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。.
内田武志
内田 武志(うちだ たけし、1987年4月17日 - )は、沖縄県浦添市出身のハンドボール選手。日本ハンドボールリーグの琉球コラソン所属。.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
函館市
函館市(はこだてし)は、北海道にある市である。渡島総合振興局所在地。札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市。.
八竜町
八竜町(はちりゅうまち)は秋田県の北西部に位置した町。.
八郎潟
八郎潟調整池(寒風山展望台付近より撮影) 八郎潟防潮水門 経緯度交会点 八郎潟の夕景 八郎潟(はちろうがた)は、秋田県にある湖。二級河川馬場目川水系に属する。かつては面積220km2と、日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位であったが、大部分の水域が干拓によって陸地化され、陸地部分が大潟村になった。現在では日本の湖沼において18位の面積である。八郎湖や、八郎潟残存湖といった別名でも呼ばれる。 狭義には、南東部の八郎潟調整池のことを指し、現在「八郎潟」として示されるデータの多くは、ここで以下に掲げた表を含めて「八郎潟調整池」のものである。 広義には、干拓前の八郎潟の範囲を反映した八郎潟調整池、東部承水路、西部承水路の総称である。2007年12月、この範囲が「八郎湖」として湖沼水質保全特別措置法の指定湖沼となった。.
八郎潟町
八郎潟町(はちろうがたまち)は秋田県北西部に位置する町である。秋田県の自治体の中では面積がもっとも狭く、平成22年国勢調査によると人口密度は県下一である。.
八森町
八森町(はちもりまち)は秋田県の北部に位置し日本海に面していた町。平成18年3月27日より隣接している峰浜村との2町村合併により八峰町となり廃止された。 秋田音頭にも登場する。.
八戸市
八戸市(はちのへし)は、青森県東部に位置し、太平洋に面する中核市。青森市・弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成する。 三八地域県民局が設置されており、三戸郡を包含する八戸圏域連携中枢都市圏の中心となっている。.
六郷町
六郷.
前沢町
前沢町(まえさわちょう)は、平成18年(2006年)まで岩手県胆沢郡にあった町。特産の前沢牛で知られる。.
皆瀬村 (秋田県)
村(みなせむら)は、かつて秋田県雄勝郡におかれていた村。 2005年3月22日、湯沢市および雄勝郡雄勝町・稲川町と合併して新しい湯沢市の一部となったため廃止された。.
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矢島町
島町(やしままち)は秋田県南部に位置していた町。町村制による町としての発足後、消滅まで一度も合併しなかった。 2005年3月22日、本荘市および他の由利郡6町(岩城町、大内町、由利町、西目町、東由利町、鳥海町)と合併し、由利本荘市となった。合併後も由利本荘市矢島町として地名が残っている。.
矢立峠
立峠(やたてとうげ)は、秋田県大館市と青森県平川市の県境にある峠である。標高は258m。 羽後国(旧出羽国)と陸奥国(旧陸奥国(分国前))の国境の一部でもある。.
石川理紀之助
石川 理紀之助(いしかわ りきのすけ、1845年4月1日(弘化2年2月25日) - 1915年(大正4年)9月8日)は、秋田県潟上市生まれの篤農家、明治から大正期の農業指導者。秋田県種苗交換会の先覚者。生涯を農村の更生、農家の救済、農業の振興のために捧げ、秋田の二宮尊徳と呼ばれた。.
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石巻市
日和山からの眺望 石巻市(いしのまきし)は、宮城県東部に位置する、県内第二の人口を擁する市。.
石井忠行
石井 忠行(いしい ただつら、文政元年8月26日(1818年9月26日) - 1894年(明治27年)8月6日)は、江戸時代後期から明治時代にかけての著述家、旧久保田藩士。通称は弥五右衛門、雅号は伊頭園(いずえん)。.
石仏
石仏(せきぶつ)とは、石に彫られた仏像である。日本ではかつて神仏習合が定着し、仏以外も篤く信仰する人が多かったため、道祖神などの石の神像も多く建てられた。その規模は寺院や神社の境内、路傍などで見られる小さな「野仏」から、臼杵磨崖仏、インドのアジャンター石窟、エローラ石窟、中国の雲岡石窟、龍門石窟などに代表されるような巨大な岩盤に彫られた磨崖仏まで多様である。以下は日本の石仏について記述する。 大日如来像(臼杵磨崖仏).
玄恵
恵(げんえ・げんね、1269ー1350 文永6年- 正平5年/観応元年3月2日(1350年4月9日))は、南北朝時代の天台宗の僧・儒学者。号は独清軒・健叟。玄慧とも。虎関師錬の弟とも言われる。玄恵法印。 天台教学を学び法印大僧都に就任したが、一方で儒学や漢詩文にも通じていた。「太平記」によれば倒幕の密議の場で書を講じ、後醍醐天皇や公卿に宋学や古典を講じたとある。また、建武の新政が崩壊した後には、足利氏に用いられ「建武式目」の起草に関与したともされるが、いずれも不明である。 また、寺子屋で習字や読本として使用された『庭訓往来』の作者という説が有力である。また、『源平盛衰記』の編者の一人とも言われている。玄慧は等持院で足利直義の前で、『太平記』を朗読したといわれる。『太平記』27巻には玄慧の死である「玄慧法師末期事」が記されているが、『太平記』40巻本のうち巻初の1巻から10巻までは玄慧の作であり、11巻から12巻も玄慧が拘わりをもった作ではないかと言われている。(『太平記と仏教』古田紹欽) 男鹿半島の先端の漁港である男鹿市北浦入道崎(畠崎)には、この地が玄慧法師の出身地であるとする伝承が残されていたことが菅江真澄によって記録されている。.
琴丘町
丘町(ことおかまち)は秋田県の北西部に位置した町。.
砂子沢峠
子沢峠(すなこざわとうげ)は、秋田県北秋田市と秋田県大館市の境にある峠。.
神代村 (秋田県)
代村(じんだいむら)は秋田県仙北郡にあった村。現在の仙北市南西部、角館市街の北東一帯にあたる。.
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秋田城
秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。 秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の軍事・行政の中心地としての役割を担った。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流を伺わせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。 2017年(平成29年)、続日本100名城(107番)に選定された。.
秋田県立博物館
秋田県立博物館(あきたけんりつはくぶつかん、Akita Prefectural Museum)は秋田県の考古、歴史、民俗、工芸、生物、地質を展示する総合博物館である。.
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秋田魁新報
秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)は秋田魁新報社の発行する秋田県の日刊新聞である。.
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秋田蘭画
秋田蘭画(あきたらんが)は、江戸時代における絵画のジャンルのひとつで、久保田藩(秋田藩)主や藩士を担い手とした、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画である。秋田派ともいう。安永年間(1772年-1781年)に久保田藩で成立したが、後継者もなく天明年間(1781年-1789年)には廃れた。しかし、その極端な遠近法は後代の浮世絵にも大きな影響を与えたとされる。代表的な画家に、藩士小田野直武(1750年 - 1780年)、藩主佐竹曙山(1748年 - 1785年)、その一族佐竹義躬(1749年 - 1800年)がいる。.
竜飛崎
津軽半島のランドサット。左上の突端が竜飛崎 右上の小島は帯島(国土航空写真) 竜飛崎(たっぴざき、たっぴさき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある、津軽半島の最北端、津軽海峡に突き出た岬である。龍飛崎と表記することもある。津軽国定公園の一部。.
笛滝
笛滝(ふえたき)は、秋田県八峰町にある滝である。 秋田と青森県境に近い小さな滝であるが、伝説が残されている。江戸時代の文人・菅江真澄はこの滝に魅せられ2度訪れており、絵を描いたり、一日中滝を見て過ごしたりしている。.
簾内敬司
内 敬司(すのうち けいじ、1951年4月24日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.454 - 2016年7月9日)は、日本の文筆家、作家。.
米代川
米代川(よねしろがわ)は、主に秋田県北部を流れ日本海に注ぐ米代川水系本流の一級河川である。東北地方第5の大河で、秋田県内でも流域面積が雄物川に次ぐ。.
米内沢町
米内沢町(よないざわまち)は秋田県北秋田郡にあった町。現在の北秋田市北西部、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線の米内沢駅周辺にあたる。本項では町制前の名称である米内沢村(よないざわむら)についても述べる。.
素波里神社
素波里神社(すばりじんじゃ)は、秋田県山本郡藤里町粕毛岩合にある神社である。ご神体は不動明王立像である。その他に脇侍、矜羯羅童子、制多迦童子の木像がある。「藤里町」の名前の2字目にある「里」は、「素波里」の「里」から取っている。.
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紅葉山 (青森県)
紅葉山(もみじやま)は、青森県黒石市にある山である。名前のとおり、もみじを中心とした紅葉の名所である。.
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織田信雄
織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.
羊蹄山
羊蹄山(ようていざん)は、北海道後志地方南部(胆振国北西部)にある、標高1,898mの成層火山である。後方羊蹄山(しりべしやま)として、日本百名山に選定されている。.
羽黒山 (山形県)
羽黒山(はぐろさん)は、山形県鶴岡市にある標高414mの山。出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置する丘陵で、独立峰ではない。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られる。.
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真山神社
真山神社(しんざんじんじゃ)は秋田県男鹿市北浦字真山にある神社。.
瑞巌寺
臥龍梅 鰻塚 参道(2005年9月撮影)江戸時代には道の左右に13の塔頭が並んでいた。 瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院である。.
田山村
山村(たやまむら)は、昭和31年(1956年)まで岩手県二戸郡の西部に存在していた村。現在の八幡平市北西部にあたる。.
田沢湖町
沢湖町(たざわこまち)は、かつて秋田県仙北郡にあった町。日本一深い湖として知られる田沢湖の東の畔に面していた。2003年8月には田沢湖町、角館町、西木村との間で合併が協議され、2005年9月20日に3町が合併し仙北市となり、田沢湖町の住所が仙北市田沢湖として町の名前が残った。.
由利本荘市
由利本荘市(ゆりほんじょうし)は、秋田県南部に位置する日本海に面した市。.
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男鹿半島
男鹿半島(おがはんとう)は、秋田県西部にある日本海に突き出た半島。半島部の大半が男鹿市に属する。.
男鹿市
男鹿市(おがし)は、秋田県西部に位置する日本海に面した市。男鹿半島の大半を占める。.
男鹿三山
男鹿三山(おがさんざん)とは、秋田県男鹿市の山である。男鹿三山とは真山(565m)と本山(715.0m)、毛無山(617m)の総称である。毛無山の代わりに寒風山を男鹿三山に入れる記述もある。.
無明舎出版
有限会社無明舎出版(むみょうしゃしゅっぱん)は、秋田県を中心に東北地方関連の書籍の発行元として知られる出版社。.
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盲暦
暦(めくらごよみ)は、江戸時代に和暦の月の大小や暦注などを文盲者にも理解出来るように絵や記号等で工夫して表現した暦である。南部藩の南部盲暦が有名。「座頭暦」ともいう。 近年では視覚障害者に対する配慮から「絵暦」(えごよみ)と表記する場合もある。 和暦は太陰太陽暦であるため閏月が追加される年や月齢の約29.3日を調整するため毎年30日の大の月、29日の小の月の該当月が異なっており、それを知る必要があった。.
盛岡市
盛岡市(もりおかし)は岩手県の県庁所在地。中核市に指定されている。.
盛岡藩
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.
発荷峠
荷峠(はっかとうげ)は、秋田県鹿角市と秋田県小坂町の境にある峠。標高 631m.
白神山地
白神山地(しらかみさんち)は、青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がっている標高1,000m級の山地(山岳地帯)のことをいう。 白神山地は、屋久島とならんで1993年(平成5年)12月、日本で初めてのユネスコ世界遺産(自然遺産)に登録された。 そこには「人の影響をほとんど受けていない原生的なブナ天然林が世界最大級の規模で分布」(世界遺産登録理由)している。白神山地の名称は、昭和29年発行国土地理院地勢図で使われている。また、世界遺産登録以前には弘西山地(こうせいさんち)とも呼ばれていた。.
白糸の滝
白糸の滝(静岡県富士宮市) 白糸の滝(しらいとのたき)は、日本における滝の名称のひとつである(本項では「白糸の滝」以外に「白糸滝」表記のものも含めて記載する)。.
白瀑神社
白瀑神社(しらたきじんじゃ)は秋田県山本郡八峰町にある神社である。境内には八幡神社、菅原神社、唐松神社がある。八森町の曹洞宗の寺院である松源院の起源は白瀑神社と一緒であったとされる。八幡神社は本館城の城主だったが八森本館一揆によって殺された武田重左衛門を祀ったものである。.
花山院忠長
花山院 忠長(かざんいん ただなが、天正16年(1588年) - 寛文2年9月26日(1662年11月6日))は、江戸時代初期の朝臣。最終官位は従四位上左近衛少将。 藤原北家師実流花山院家の左大臣花山院定凞の長男で、母は不詳。弟に花山院家を継いだ花山院定好(従一位左大臣)がいる。子に野宮家の初代当主野宮定逸(正二位権大納言)や、黒衣の宰相と称された天海の弟子公海がいる。法名は浄屋。 慶長14年(1609年)、後陽成天皇の女官と密通した罪により、蝦夷地へと配流される(猪熊事件)。配所では松前藩の厚遇を得て、松前に京文化が伝わる契機を作ったとされる。寛永13年(1636年)に赦免され出家、降って慶安5年(1652年)に帰洛した。 たたなか category:江戸時代の公家 Category:1588年生 Category:1662年没 Category:松前藩.
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花岡町 (大館市)
花岡町(はなおかまち)は、秋田県大館市の大字。2017年8月末の人口は2,532人、世帯数1,099戸。郵便番号017-0005。本項では同地域にかつて存在した北秋田郡花岡村(はなおかむら)、花岡町(はなおかまち)についても記す。.
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花巻市
花巻市中心市街地周辺の空中写真。市街地の東に北上川が流れる。1976年撮影の9枚を合成作成。国土航空写真。 花巻市(はなまきし)は、岩手県の中西部に位置する市である。市の西部に観光地として花巻温泉郷を擁する。 宮沢賢治生誕の地であり、岩手県の名物である「わんこそば」発祥の地でもある。.
蟹田町
蟹田町(かにたまち)は青森県東津軽郡の東部に位置していた町である。2005年3月28日に同郡の平舘村・三厩村と合併して新しく外ヶ浜町の一部となり廃止した。.
達谷窟
達谷窟(たっこくのいわや)は、岩手県西磐井郡平泉町に所在する毘沙門天をまつった堂。.
蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。.
蝦夷地
蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.
青森県
青森県(あおもりけん)は、日本の本州最北端に位置する県。県庁所在地は青森市である。県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)で構成されている。.
青森県立郷土館
青森県立郷土館(あおもりけんりつきょうどかん、Aomori Prefectural Museum)は、青森県青森市本町にある県立の博物館である。明治百年を記念して設立計画が立てられた。1973年(昭和48年)に開館した。.
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青森湾
東岸の浅虫温泉から望む青森湾 青森湾の衛星写真 青森湾(あおもりわん)は、青森県にある陸奥湾の内湾。.
飯田川町
飯田川町(いいたがわまち)は秋田県中央部に位置していた町。秋田県で一番小さな町だった。 2005年(平成17年)、平成の大合併により昭和町、天王町と合併し潟上市となる。.
西馬音内
西馬音内(にしもない)は秋田県雄勝郡羽後町の大字。郵便番号は012-1131。.
西木村
西木村(にしきむら)は、かつて秋田県仙北郡におかれていた村。2005年に角館町・田沢湖町と合併して仙北市となり閉村した。西木村の全区域は仙北市西木町として村の名前が残った。.
西明寺村
西明寺村(さいみょうじむら)は秋田県仙北郡にあった村。現在の仙北市南西部、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線沿線にあたる。.
角館
武家屋敷通り 角館(かくのだて)は秋田県仙北市の地名、および国の重要伝統的建造物群保存地区の名称。現在も藩政時代の地割が踏襲され、武家屋敷等の建造物が数多く残されており、「みちのくの小京都」とも呼ばれる。.
駒越町
駒越町(こまごしまち)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8366。2017年6月1日現在の人口は195人、世帯数は91世帯。.
諏訪神社
諏訪神社(すわじんじゃ)は、「諏訪」を社名に持つ神社。.
高岩神社 (能代市)
岩神社(たかいわじんじゃ)は、秋田県能代市二ツ井町にある神社である。高岩山山頂付近や参道には多くの奇岩や巨石、巨木があり古くからの霊山として周辺から信仰の対象となっていた。ここでは、その周辺にあった宗教施設についても解説する。.
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高岳山 (秋田県)
岳山(たかおかさん)は、秋田県八郎潟町にある山である。三角点がある一本桜展望台は八郎潟町と三種町の境にある。.
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高倉新一郎
倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日 - 1990年6月7日)は、日本の農業経済学者、歴史学者。北海道大学名誉教授。農業経済学・北海道史・アイヌ文化史を専攻。農学博士(北海道帝国大学、1945年)(学位論文「アイヌ政策史」)。北海道帯広市出身。父は十勝の産業振興に尽くした実業家で、北海道議会議員も務めた高倉安次郎。.
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鰺ヶ沢町
1980年当時の鰺ヶ沢の町並み 鰺ヶ沢町(あじがさわまち)は、青森県の西部に位置する日本海に面した町である。.
豊橋市
豊橋市(とよはしし)は、愛知県の南東部にある都市。東三河地方の中心都市であり、同地方の人口の約半数を占める。中核市に指定されている。.
象潟
象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟地域の地形である。現在は平地だがかつては潟湖で、それを象「潟」と呼んだ。 国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地。また、2014年3月26日より、おくのほそ道の風景地の一つとして国の名勝にも指定されており、おくのほそ道最北の地と銘打たれている。.
鳥海山
山頂を北北東にある善神沼から 夏の鳥海山 夏の鳥海山(河原宿から)「心字雪渓」が見える。河原宿から山頂を目指すルートでは、この雪渓を横断することになる。 鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。秋田県では秋田富士(あきたふじ)、山形県では庄内富士(しょうないふじ)とも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属する。日本百名山・日本百景の一つ。2007年(平成19年)に日本の地質百選に選定された。2009年(平成21年)に国史跡「鳥海山」として指定された。.
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
鶴形村
形村(つるがたむら)は秋田県山本郡にあった村。現在の能代市中部、米代川左岸、奥羽本線鶴形駅周辺にあたる。.
鷹巣町
鷹巣町(たかのすまち)は秋田県の北部に位置していた町である。現在の北秋田市北部一帯にあたる。2005年3月22日、北秋田郡の森吉町・合川町・阿仁町と合併し北秋田市となり廃止された。.
鹽竈神社
志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)は、宮城県塩竈市にある神社(二社が同一境内に鎮座)。志波彦神社は式内社(名神大社)。鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「塩竈桜」。 鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。.
鹿角市
八幡平大沼 鹿角市(かづのし)は、秋田県北東部に位置する市。 青森県・岩手県・秋田県三県の県境に位置する。古くは「上津野」と表記していた。古墳も多く遺され、大湯環状列石は全国でも著名な縄文遺跡の1つである。.
鹿角郡
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鹿渡町
鹿渡町(かどまち)は秋田県山本郡にあった村。現在の三種町南西部にあたる。本項では町制前の名称である鹿渡村(かどむら)についても述べる。.
黒石寺
黒石寺(こくせきじ)は、岩手県奥州市水沢黒石町山内(もと江刺郡黒石村)にある天台宗の寺院。「くろいしでら」と読まれることも多い。山号は妙見山(みょうけんざん)。本尊は薬師如来坐像。 重要文化財で平安時代初期の在銘像である木造薬師如来坐像や、選択無形民俗文化財の黒石寺蘇民祭で知られる。.
黒石市
黒石市(くろいしし)は、十和田八幡平国立公園北西の玄関口に位置する、青森県の市である。.
黒沢尻町
黒沢尻町(くろさわじりまち)は、1954年(昭和29年)まで岩手県和賀郡にあった町。現在の北上市中心部にあたる。.
鼠ヶ関
ヶ関(ねずがせき)は、山形県鶴岡市の大字である。郵便番号は999-7126。.
錦木塚
錦木塚 錦木塚(にしきぎづか)は、秋田県鹿角市十和田錦木地区にある塚。.
茂谷山 (能代市)
茂谷山(もややま)とは、秋田県能代市の山である。遠方から見ると、米代川南方台地上にあって綺麗な三角形の山に見える。.
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能代市
能代市(のしろし)は、秋田県北部に位置する日本海に面した市である。 能代工業高校のバスケットボールでの活躍が有名。旧能代市時代の1989年度(平成元年度)からバスケットボールの街づくり事業に取り組んでいる。.
都々古別神社
都々古別神社(つつこわけじんじゃ、都都古別神社/都都古和気神社/都々古和気神社)は、福島県東白川郡棚倉町にある神社。主な同名神社として2社があり、いずれも陸奥国白河郡の式内社(名神大社)論社で、陸奥国一宮。.
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般若院英泉
般若院英泉(はんにゃいん えいせん、1714年 - 1782年)は、江戸時代に久保田藩で活躍した宗教家・教育者。.
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船越 (男鹿市)
船越(ふなこし)は、秋田県男鹿市の地名。2015年10月1日の人口は5,915人。郵便番号は010-0341。本項では同地域にかつて存在した船越村(ふなこしむら)・船越町(ふなこしまち)についても記す。.
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阿仁町
かつての町役場。合併後は北秋田市阿仁支所として使用されている。(2009年9月19日) 阿仁合駅から見た駅前通り。(2009年9月19日) 阿仁町(あにまち)は秋田県の北部に位置した町である。2005年3月22日、北秋田郡の鷹巣町・合川町・森吉町と合併し北秋田市となった。合併後は北秋田市阿仁○○として地名が残るが、北秋田市阿仁前田地域は旧森吉町であった。 1955年、阿仁合町と大阿仁村が合併、阿仁町となる。山深い谷に狩猟生活をする阿仁マタギの集落が点在していたほか、1309年に発見された阿仁鉱山の金、銀、銅の採掘で栄えた(1970年に閉山)。以前は銅の生産量が日本一だった。.
阿仁鉱山
阿仁鉱山(あにこうざん)は、秋田県北秋田市にあった鉱山である。金、銀、銅が採掘され、とくに銀鉱、銅鉱の産出が多く、1716年(享保元年)には産銅日本一となり、長崎輸出銅の主要部分を占めた。御用鉱山から久保田藩(秋田藩)の藩営となり、明治初年に官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)に古河市兵衛に払い下げられた。閉山されたのは、1978年(昭和53年)のことであった。.
赤石村 (青森県)
赤石村(あかいしむら)は、かつて青森県にあった村。.
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赤神神社
赤神神社(あかがみじんじゃ)は、秋田県男鹿市にある神社である。一般には赤神神社五社堂として知られる。五社堂5棟は国の重要文化財(建造物)に指定されている。旧社格は郷社。.
藤原秀衡
藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。.
藤原泰衡
藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。.
藤崎町
藤崎町(ふじさきまち)は、青森県津軽平野の中央に位置する町である。.
藤琴村
藤琴村(ふじことむら)は秋田県山本郡にあった村。現在の藤里町の東半分にあたる。.
脇野沢村
脇野沢村(わきのさわむら)は、下北半島の西南、陸奥湾に面していた村であった。 2005年3月14日にむつ市に編入され廃止された。.
脇本城
脇本城(わきもとじょう)は秋田県男鹿市にある中世の日本の城(山城)跡。中世に安東氏の居城となった。.
野帳
野帳(やちょう、field books)とは、野外での記入を想定した、縦長で硬い表紙のついた手帳(ノート)のこと。雨天に備えて防水加工が施された表紙、ビニールカバーの付いたものなどもある。和製英語でフィールドノートともいう。 土木・林業業務、様々な研究、あるいは趣味目的で、野外で調査を行う際に、観察・測量・測定した結果を記録する目的で使用される(例:地質調査、野鳥観察など)。目的の用途に合わせて縦横の罫線が引かれていたり無地だったりする。 野外調査の記録(をまとめたもの)をフィールドノートということもある(英語で「field notes」という場合はこちらの意味である)。.
野辺地町
野辺地町(のへじまち)は、青森県下北半島の基部陸奥湾の湾頭に位置する町である。気候はヤマセの影響を受け1年を通じて冷涼であり、冬は県内でも有数の豪雪地帯である。.
重要文化財
建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.
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釈迦内村
釈迦内村(しゃかないむら)は秋田県北秋田郡にあった村。現在の大館市中心部の北方・秋田自動車道大館北インターチェンジ・釈迦内パーキングエリア周辺、長木川右岸にあたる。.
金田一村
金田一村(きんだいちむら)は、岩手県二戸郡にあった村。.
酒田市
酒田市(さかたし)は、山形県の北西にある人口約11万人の市。庄内北部の都市である。県内人口第3位。 庄内空港と山形県唯一の重要港湾酒田港がある。.
若美町
若美町(わかみまち)は秋田県中央部に位置していた日本海に面した町。払戸村と潟西村が合併して発足。町名の「わかみ」は渡部、角間崎、宮沢の各地域の頭文字を取ったもの。 2005年3月22日、男鹿市と合併し新しい男鹿市の一部となったため廃止した。.
雄勝郡
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院内銀山
院内銀山(いんないぎんざん)は、秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山である。「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録している。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
暗門滝
暗門滝(あんもんのたき)は青森県中津軽郡西目屋村に位置する滝。岩木川上流の白神山地内の暗門川にかかる。暗門の滝とも書かれる。.
柳田國男
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。没後に正三位勲一等。当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられた。帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いた牧田茂『柳田國男』(中公新書、1972年)。 「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。.
恐山
恐山(おそれざん、おそれやま)は、下北半島の中央部に位置する活火山である。カルデラ湖である宇曽利山湖の湖畔には、日本三大霊場の一つである恐山菩提寺が存在する。霊場内に温泉が湧き、共同浴場としても利用されている。恐山を中心にした地域は下北半島国定公園に指定されている。本記事では、恐山と同霊場について詳述する。なお、恐山山地は下北半島の北部を占める山地を指すので、本記事で詳述するいわゆる霊場恐山とは区別される。.
東京大空襲
航空写真 両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。 B-29爆撃機 イズリー飛行場(1945年) 広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる。撮影当時、現地を南南西の風が吹いていたことがこの写真から見て取れる。 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。 早乙女勝元によれば、空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされる。 東京は1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多い内藤光博「空襲被災と憲法的補償―東京大空襲訴訟における被災者救済の憲法論―」専修法学論集 (106), 1-51, 2009-07。この3月10日の空襲だけで罹災者は100万人を超えた。.
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東北地方
東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.
東西遊記
江戸時代後期の京の儒医である橘南谿が日本の諸地方を巡遊し、現地で見聞した奇事異聞を基に編纂して出板した紀行、『西遊記(せいゆうき)』と『東遊記(とうゆうき)』を併せて東西遊記と称す(以下、両書を併称する場合は「両遊記」と記す)。 両遊記は南谿が天明2年(1782年)から同8年までに断続して日本各地を巡歴した際の記録を編述したもので、寛政7年(1795年)から同10年にかけて出板され、また板本以外に自筆稿本やその写本も現存しており、板行以前から両遊記は併せて「東西遊記」や「西東遊記(せいとうゆうき)」と称されていた。なお、細かく見ると『西遊記』、『西遊記続編』、『東遊記』、『東遊記後編』となるが、前2者を併せて『西遊記』と、後2者を併せて『東遊記』と称するのが一般的である(以下、区別する際には「『西遊記』(正編)」「『西遊記続編』」等と記す)。また、南谿自身は板行された両遊記を後に『東西遊記』として統合する意図を有していたという鈴木前掲「解題」。。 医家である南谿は『傷寒論』に関するもの等複数の医書も著しているが、本両遊記や随筆である『北窓瑣談』といった文人としての著作もあり、『北窓瑣談』は当代の名随筆と評され、両遊記も江戸時代後期を通じてたびたび版を重ねる等、むしろ本業よりも後者としての活動の方が著名であったと言え宗政五十緒「東西遊記 解説」(東洋文庫本『東西遊記 1』所収)。、とりわけ両遊記は延宝期から元禄期(17世紀後期)に著された貝原益軒による一連の紀行と並んで江戸時代を代表する紀行とされる。.
東洋文庫 (平凡社)
東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.
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東湖八坂神社
東湖八坂神社(とうこやさかじんじゃ)は、日本の東北地方、秋田県潟上市天王天王(江戸時代における出羽国秋田郡天王村、幕藩体制下の久保田藩天王村)に所在する神社である。古名・別名については後述。.
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東成瀬村
東成瀬村(ひがしなるせむら)は秋田県の南東端、栗駒国定公園を擁する奥羽山脈の麓に位置する村。平成の大合併では、住民アンケートの結果を受け、ほかの市町村とは合併しない道を選んだ。キャッチフレーズは「さわやかなるせ 仙人の郷」。.
松島
松島 松島(まつしま)は、宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。または、それら諸島と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。日本三景の1つに数えられている。2010年の観光入込客数は624万人。.
松前城
松前城(まつまえじょう)は、北海道渡島総合振興局管内松前町にあった日本の城(平山城)。福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。.
松前町 (北海道)
松前町(まつまえちょう)は、北海道南部の渡島半島南西部に位置する渡島総合振興局管内にある町。かつては松前藩の松前城城下町であり、藩の政治・経済・文化の中心地として栄えた。現在は全国屈指の桜の名所として有名であり、城周辺の松前公園では2か月に渡り松前町発祥の貴重な松前系品種を含む250種1万本の桜が咲き誇る。.
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松前道広
松前 道広(まつまえ みちひろ)は、江戸時代の大名。蝦夷地松前藩の8代藩主。.
松前藩
松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.
板碑
日本最大の青石塔婆である野上下郷石塔婆 板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。.
栗駒山
栗駒山(くりこまやま)は、山体が宮城県、秋田県、岩手県の三県にまたがる山である。標高は1,626m。山頂部は宮城県と岩手県の境界になっている。二百名山の一つ。.
森吉山
森吉山(もりよしざん)は、秋田県北秋田市に位置する標高1,454.2mの古い火山である。高山帯では多くの高山植物が咲乱れるため「花の百名山」に選ばれている。向岳(むかいだけ)、秋田山(あきたやま)ともいう。.
森吉町
森吉町(もりよしまち)は秋田県の中央部に位置していた町である。2005年3月22日、北秋田郡の鷹巣町・合川町・阿仁町と合併し北秋田市となった。.
森田村
森田村(もりたむら)は青森県西津軽郡に位置する村である。2005年2月11日につがる市が発足するのに伴い廃止した。.
極楽寺 (北上市)
極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市にある真言宗智山派の寺院、および、その前身で平安時代に現在の北上市国見山一帯に栄えた山岳仏教寺院。山号は国見山または金福山。.
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横手市
横手市(よこてし)は、秋田県南部に位置する市。旧横手市と旧平鹿郡が合併。.
橘南谿
橘 南谿(たちばな なんけい、宝暦3年4月21日(1753年5月23日) - 文化2年4月10日(1805年5月8日))は、江戸時代後期の医者。文をよくし、紀行『東遊記』、『西遊記』(併せて東西遊記と称される)と随筆『北窓瑣談』が知られる。.
檜山安東氏城館跡
檜山安東氏城館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと)は、秋田県能代市の檜山集落の東側丘陵にあった山城である。檜山城跡と、その近くにある大館跡、茶臼館跡、国清寺跡とあわせて、国の史跡に指定されている。.
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武蔵坊弁慶
『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい、武藏坊辨慶、? - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉?)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。.
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歌枕
歌枕(うたまくら)とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。.
比叡山
比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.
比内町扇田
比内町扇田(ひないまちおうぎた)は、秋田県大館市の大字。2017年8月末現在の人口は4,129人。郵便番号018-5701。本項では同地域にかつて存在した北秋田郡扇田村(おうぎだむら)、扇田町(おうぎだまち)についても記す。.
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毛越寺
毛越寺(もうつうじ)は、日本の岩手県西磐井郡平泉町(創建時は陸奥国磐井郡平泉)に所在する、天台宗の寺院。山号は医王山(いおうざん)。開山は円仁(慈覚大師)と伝える。現在の本尊は源義経が拝んでいたであろう当時の本尊は嘉禄2年(1226年、鎌倉時代中期)に焼失した。しかしその後、義経が生きていた時代に造られたという薬師如来像を譲り受け、以来、本尊として今に到る。薬師如来立像(平安時代後期の作。脇侍は日光菩薩・月光菩薩)。建築は平安様式。 境内は「毛越寺境内 附 鎮守社跡」(もうつうじけいだい つけたり ちんじゅしゃあと)として国の特別史跡2005年(平成17年)7月14日、追加指定および名称変更。、庭園は「毛越寺庭園」(もうつうじていえん)として特別名勝に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。 平泉中尊寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。.
水島 (秋田県)
水島(みずしま)は、秋田県男鹿市にある日本の無人島。.
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水内ダム
水内ダム(みのちダム)は、長野県長野市、一級河川・信濃川水系犀川に建設されたダム。高さ25.3メートルの重力式コンクリートダムで、東京電力の発電用ダムである。同社の水力発電所・水内発電所に送水し、最大3万1,600キロワットの電力を発生する。ダム湖(人造湖)の名は琅鶴湖(ろうかくこ)という。.
水沢町
水沢町(みずさわまち)は岩手県胆沢郡にあった町。現在の奥州市水沢の中心部にあたる。.
気仙沼市
震災前の気仙沼市中心部周辺の空中写真。1977年撮影の14枚を合成作成。国土航空写真。 気仙沼市(けせんぬまし)は、宮城県北東端の太平洋沿岸に位置する市である。.
江差町
江差町(えさしちょう)は、北海道檜山振興局中部にある日本海に面した町。檜山振興局の所在地。宗谷総合振興局の枝幸町と区別するため、放送局の天気予報などでは当町を「檜山江差」ないし「道南の江差」、枝幸町を「北見枝幸」と呼ぶことが多い。江差追分発祥地。.
江刺市
江刺市(えさしし)は、岩手県内陸中南部に存在した市。 2006年(平成18年)2月20日に、水沢市、胆沢郡胆沢町、前沢町、衣川村と合併して奥州市となり、消滅した。 現在は奥州市の北東部を占める。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
沼宮内町
沼宮内町(ぬまくないまち)は、昭和30年(1955年)まで岩手県岩手郡の北部に存在していた町。現在の岩手町沼宮内・江刈内などにあたる。.
泥湯温泉
奥山旅館露天風呂 泥湯温泉(どろゆおんせん)は、秋田県湯沢市(旧国出羽国、明治以降は羽後国)にある温泉。.
法華経
法華経の 現代の解説書にはしばしば、このような写真とこのような主旨の解説が添えられている。。 『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれているNHK 100分de名著 法華経[新]第1回「全てのいのちは平等である」2018年4月2日放送。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した聖徳太子によって著されたとされる法華経の注釈書「法華経義疏」は、三経義疏の1つである。。.
津軽半島
津軽半島(つがるはんとう)は、本州の北端の半島のひとつである。東岸は青森湾・陸奥湾とその開口部である平舘海峡を挟んで下北半島に対峙する。一方、北岸は津軽海峡を挟んで北海道松前半島に対峙する。西岸は日本海である。全体が青森県に属する。 最北端は竜飛崎(龍飛崎)と呼ばれる。これは北岸の西端に位置し、北岸の東端の高野崎との間に三厩湾がある。竜飛岬から東南東に向かって津軽山地と呼ばれる山脈が続く。竜飛岬から南に小泊岬がある。さらに西岸を南に進むと、十三湖という内潟がある。そこからの海岸は七里長浜と呼ばれる。この内陸には、田光沼などの湖沼が数多く存在し、半島付け根まで続く。.
津軽寧親
津軽 寧親(つがる やすちか)は、江戸時代中期から後期の旗本、大名。交代寄合陸奥黒石領の第6代当主。のち陸奥弘前藩の第9代藩主。.
洗馬宿
洗馬宿(せばじゅく)は中山道(中山道六十九次)にある宿場町。日本橋から31番目の宿場町である。また、北国西街道(別称:善光寺道)の起点である。.
深澤多市
深澤 多市(ふかさわ たいち、1874年(明治7年)4月18日 - 1934年(昭和9年)12月20日)は、郷土史家で民俗学研究家、秋田県内の郷土資料を集成した『秋田叢書』および『秋田叢書 別集 菅原真澄集』の編者。号は紫水(しすい)。.
深浦町
深浦町(ふかうらまち)は、青森県西津軽郡にある町。日本海に面する。.
渥美郡
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渋民村
渋民村(しぶたみむら).
湯ノ岱温泉 (秋田県)
湯ノ岱温泉(ゆのたいおんせん)は、秋田県北秋田市(旧国出羽国、明治以降は羽後国)にある温泉。.
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湯沢市
湯沢市(ゆざわし)は、秋田県南部に位置する市。 古くから秋田(羽後国)の南の玄関口として発展してきた。小野小町生誕の地と自称しており、あきたこまちや秋田新幹線こまちの由来になっている。.
源義経
源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.
未來社
未來社(みらいしゃ)は、日本の学術系の出版社。人文会会員社。社会科学、人文科学の分野で学術書の出版を行っている。主要な分野としては、思想、民俗、宗教、教育など。 1951年(昭和26年)に西谷能雄が創業。出発当初は、演劇やその戯曲など、演劇分野の出版社として知られた。その後学術出版社として扱う分野を拡大した。全集の企画刊行でも著名である。1986年(昭和61年)、小箕俊介が社長に就任し、それに伴い西谷は会長となった。しかし1989年(平成元年)に小箕が交通事故により急逝したため、西谷能雄が社長に復帰した。1992年(平成4年)、西谷能英が社長に就任した。2006年(平成18年)よりオンデマンド出版を始めており、その註文はネット書店の万能書店で行える。 出版物は1968年(昭和43年)より註文制となるが、現在は買切条件というわけではない。 PR誌『未来』は、2014年(平成26年)10月号までは月刊。次の2015年(平成27年)1月号にあたる2015年冬号から季刊。.
本草学
本草学(ほんぞうがく)は、中国および東アジアで発達した医薬に関する学問である。.
本館城 (出羽国)
本館城(もとだてじょう)は、かつて秋田県八峰町字倉の沢にあった日本の城である。日本海に面した海岸段丘上に根小屋(現在は本館地区)と本館地区東側の丘陵上に築かれた要害からなる城館である。.
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有珠山
有珠山(うすざん)は、北海道・洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山。山頂は有珠郡壮瞥町にあり、山体は虻田郡洞爺湖町、伊達市にまたがっている。支笏洞爺国立公園内にあり、昭和新山とともに「日本の地質百選」に選定され、周辺地域が洞爺湖有珠山ジオパークとして「日本ジオパーク」「世界ジオパーク」に認定されている。.
有明山 (安曇野市・松川村)
有明山(ありあけやま、ありあけざん)は、飛騨山脈(北アルプス)にある標高2,268 mの山。常念山脈の前衛に位置し、山体すべてが長野県に属する。.
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最上川
最上川(もがみがわ)は、山形県を流れる一級河川最上川水系の本川。流路延長229kmは、一つの都府県のみを流域とする河川としては、国内最長。流域面積は7,040km2で、山形県の面積の約75%にあたる。日本三大急流の一つである。.
最上徳内
最上 徳内(もがみ とくない、宝暦4年(1754年) - 天保7年9月5日(1836年10月14日))は、江戸時代中後期の探検家であり江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。元の姓は高宮(たかみや、略して高(こう)とも)。諱は常矩(つねのり)。幼名は元吉。通称は徳内、億内。字は子員。鶯谷、甑山、白虹斎と号した。父は間兵衛で長男。妻はふで(秀子)、子は2男3女。生年は宝暦5年(1755年)とも。 実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。.
戸隠山
山頂付近。細い尾根が続いている。 戸隠山(とがくしやま)は、長野県長野市にある山。戸隠連峰の一峰で、標高は1,904m。400万年前から270万年前頃の新第三紀の海底火山由来の火成岩が、山体を作っていると考えられる。 信州百名山および北信五岳のひとつ。長野市の中心部から北西へ直線で20km余りの場所にあり、麓の戸隠高原には戸隠バードラインが通じる。北方約4kmには高妻山がある。.
房住山
房住山(ぼうじゅうざん)とは、秋田県三種町と能代市にまたがる山である。 房住山は低山であるが、坂上田村麻呂による長面兄弟伝説の言い伝えが残り、鎌倉時代には山岳仏教の一大拠点となっていた信仰の山である。山頂からは東に森吉山、西に大潟村の広大な干拓地、男鹿半島、日本海を遠望できる。また、一帯は自然観察教育林に指定されている。.
明徳館 (久保田藩)
明徳館(めいとくかん)は、久保田藩第9代藩主・佐竹義和が開いた藩校。.
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浦城
浦城本丸跡 浦城(うらじょう)は、秋田県八郎潟町にあった日本の城である。.
浪岡町
浪岡町(なみおかまち)は、青森県西部・津軽地方の町である。2005年4月1日に青森市と対等合併し、消滅した。ただし、現在も「青森市浪岡」として地名は残る。.
浪岡氏
浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族。 浪岡における北畠氏の宗家は、「浪岡御所」「大御所」あるいは「北の御所」とあがめられ、天正年間まで力を持ち続けた。.
浪打峠
浪打峠(なみうちとうげ)は岩手県二戸郡一戸町から同県二戸市にかけての峠。標高は302m。.
浄法寺村
浄法寺村(じょうほうじむら)は、福井県吉田郡にあった村。現在の永平寺町のうち九頭竜川以北の大部分にあたる。.
浅井図南
浅井 図南(あさい となん、宝永3年11月13日(1706年12月17日) - 天明2年8月5日(1782年9月11日))は、江戸時代中期の医者。名は政直、後に惟寅。通称は頼母。幹亭、篤敬斎とも号した。.
浅利氏
浅利氏(あさりし)は、日本の氏族である。本姓は清和源氏義光流を称し、甲斐国八代郡浅利郷(現・山梨県)を本拠とした甲斐浅利氏と、それから分かれ、出羽国比内郡(現・秋田県)を本拠とした出羽浅利氏の2流がある。.
浅間温泉
浅間温泉(あさまおんせん)は、長野県松本市北東部にある温泉。同市の奥座敷といわれる。.
浅虫温泉
浅虫温泉郷遠望 浅虫温泉(あさむしおんせん)は、青森県青森市浅虫(旧国陸奥国)にある温泉。海水浴やスキー、水族館や遊園地といったさまざまなレジャー施設も兼ね備えた観光地として賑わい、「東北の熱海」、「青森の奥座敷」などと呼ばれた。 陸奥湾に突出する夏泊半島の基部に位置し、浅虫夏泊県立自然公園の一角を成している。.
文化 (元号)
文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.
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文化人類学
文化人類学(ぶんかじんるいがく)は、人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野である。.
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文政
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
手這坂
thumb 手這坂(てはいざか)は、秋田県八峰町にある集落・字名。水沢川の左岸、水沢ダムから下流に約3.5kmの地点にある。1807年に菅江真澄がこの地を訪れ「桃源郷の様だ」と賞賛した。茅葺屋根の民家が多数現存しているが、手入れが行き届かずボランティアを募っている。2000年に最後の住民が転出し無人となったが、2012年に宮城県から住民が移住し、その他にも移住希望の申し出が数件ある。しかし、それでも人数が足りないため、引き続き景観を守るため建物は保存されている。 手這坂は農山村の原風景を留めているため八峰町(旧・峰浜村)では保存に努めており、これまでに茅葺屋根の修復や、蛍の増殖などを行った。.
1754年
記載なし。
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1783年
記載なし。
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1784年
記載なし。
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1785年
記載なし。
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1786年
記載なし。
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1788年
記載なし。
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1789年
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1790年
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1791年
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1792年
記載なし。
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1793年
記載なし。
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1794年
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1795年
記載なし。
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1796年
記載なし。
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1797年
記載なし。
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1798年
記載なし。
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1799年
記載なし。
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1801年
19世紀最初の年である。.
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1802年
記載なし。
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1803年
記載なし。
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1804年
記載なし。
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1805年
記載なし。
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1806年
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1807年
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1809年
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1810年
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1811年
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1812年
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1813年
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1814年
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1815年
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1817年
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1818年
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1820年
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1821年
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1822年
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1824年
記載なし。
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1826年
記載なし。
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1829年
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1840年
記載なし。
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1871年
記載なし。
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1909年
記載なし。
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1910年
記載なし。
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1922年
記載なし。
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1928年
記載なし。
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1944年
記載なし。
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1946年
記載なし。
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1949年
記載なし。
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1957年
記載なし。
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1958年
記載なし。
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1991年
この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.
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2012年
この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.
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2014年
この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。.
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7月19日 (旧暦)
旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.
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8月18日
8月18日(はちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から230日目(閏年では231日目)にあたり、年末まであと135日ある。.
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