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竹内敬持

索引 竹内敬持

竹内 敬持(たけのうち たかもち、正徳2年(1712年) - 明和4年12月5日(1768年1月24日))は、江戸時代中期の神道家、尊王論者。父は越後の医師竹内宗詮。通称は竹内式部。号は正庵・羞斎(しゅうさい)など。子に竹内主計。 1728年(享保13年)頃上京して徳大寺家に仕え、山崎闇斎門下の松岡仲良・玉木正英に師事して、儒学・垂加神道を学んだ。家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授したことから、1758年(宝暦8年)の宝暦事件では、中心人物として重追放の処分を受けて京都を追放された。その後1767年(明和4年)山県大弐らによる明和事件の際、関与を疑われて八丈島に流罪となり、送られる途中に三宅島で病没した。 Category:江戸時代の人物 Category:神道に関連する人物 Category:越後国の人物 Category:1712年生 Category:1768年没.

27 関係: 垂加神道大義名分宝暦宝暦事件山崎闇斎山県大弐三宅島享保京都徳大寺家儒教八丈島公家玉木正英竹内主計越後国正徳 (日本)江戸時代明和明和事件12月5日 (旧暦)1712年1728年1758年1767年1768年1月24日

垂加神道

山崎闇斎 垂加神道(すいかしんとう、しでますしんとう)は、江戸時代前期に山崎闇斎が提唱した神道説。吉川神道や伊勢神道と並ぶ儒家神道のひとつとされる。.

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大義名分

大義名分(たいぎめいぶん)とは、儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。今日では転じて、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。 儒教文化圏では古くから、君臣・父子などの関係(名)には、相応の責任・役割(分)が付随し、それは正当なる人倫の分限に基づいた価値判断(大義)に基づいて正否が定まると考えられていた。このため、古来より現実及び過去の経験的実証的知識の蓄積である史実と「華夷内外」・「是非善悪」といった名分を組み合わせて大義名分の有り様についての議論が行われるとともに、これに基づいた倫理的価値判断をもって現実の事象を評価することが試みられた(ただし、それは時に抽象的にあるいは相対的で価値基準自体が不安定になりがちである)。その理念的源泉は孔子がまとめたとされる『春秋』であり、宋・司馬光の『資治通鑑』や朱熹の『資治通鑑綱目』はこれを継承しようとする試みであった。 日本では儒学者のみならず国学者の間でも様々な説が立てられた(大義名分論)。特にその延長上に位置づけられるのが、幕末の尊王攘夷論である。ただし、尊王論も攘夷論も本来は内に「君臣の義」、外に「華夷の弁」を強調するもので実際の政治体制(幕藩体制)と直ちに対立するものではなかった。しかし、その価値基準は個々の価値判断(大義)に基づくものであったから、社会の安定期には儒教と皇室の権威に基づいた保守的な現状維持論に過ぎなかった尊王攘夷論が、江戸時代後期の政治・社会の不安定期には一転して政治の革新を求める運動に転化することとなり、山縣大弐の『柳子新論』(1759年)や藤田東湖の『正名論』(1791年)のように体制変革に踏み出す主張も現れるようになったのである。更に幕末最末期すなわち尊王攘夷運動終盤には中岡慎太郎のように尊王攘夷論を外圧に対抗して国家の独立を維持するための理念と捉えて本来は排撃すべきである「夷狄」アメリカ合衆国の建国者たちの活躍をその模範とすべしと唱える者まで現れるようになり、現実的な内外認識に合わせて変革思想の合理的解釈と正当化のための理論武装として大義名分論が持ち出されるようになった。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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宝暦事件

宝暦事件(ほうれきじけん)は、江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけのうちしきぶいっけん)とも。.

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山崎闇斎

山崎闇斎 山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。 諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。 朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られる。.

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山県大弐

山県 大弐(やまがた だいに、1725年(享保10年) - 1767年9月14日(明和4年8月22日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家。野沢氏の出自。名は昌貞。字は子恒。通称を軍事のち大弐と称した。医号は柳荘、洞斎。戦国時代に甲斐武田氏の譜代家臣である山県昌景の子孫であるという。.

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三宅島

三宅島(みやけじま)は、伊豆諸島の島。雄山(おやま)を中心としてしばしば激しく噴火をすることで知られ、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。また、日本の気象庁によって火山活動度ランクAの活火山、常時観測対象火山に指定されている。島の全域が富士箱根伊豆国立公園となっており、行政区画は島全体が東京都三宅村に属する。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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徳大寺家

徳大寺家(とくだいじけ、正字体:德大寺)は、日本の公家、藤原氏北家閑院流。公家としての家格は清華家で、三条家や西園寺家とは兄弟筋にあたる。明治以降は華族として徳大寺実則が侯爵を授けられ、のちにその功により公爵に陞爵した。家業は笛。家紋は木瓜花菱浮線綾(徳大寺家花角)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。 家祖の左大臣徳大寺実能は、閑院流の流祖である太政大臣藤原公季の五世孫・権大納言藤原公実の四男で、平安時代末期に崇徳・後白河両帝の国母となった待賢門院の同母兄にあたる。実能は葛野郡衣笠岡(現在の京都市北区)の西南麓に山荘を営み、その中に持仏堂を建ててこれを得大寺あるいは徳大寺と呼んでいたが、のちにはこの山荘自体が徳大寺殿と呼ばれるようになり、これが家名の由来となった。 江戸時代には禁裏北の公家屋敷の一角、今出川烏丸東入北側に屋敷を構えていた。その跡地には明治になって華族会館が建てられ、戦後は同志社大学が取得して同大学大学院の図書館が建てられたが、烏丸今出川交差点と京都市バスの烏丸今出川停留所の間に今日もたたずむ旧徳大寺家の表門がかろうじて往時の名残をその地に留めている。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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八丈島

八丈島(はちじょうじま)は、伊豆諸島の島。行政区分は東京都八丈町。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。日本の気象庁による火山活動度ランクCの活火山である。1964年、富士箱根伊豆国立公園に指定された。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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玉木正英

玉木正英(たまきまさひで、たまきせいえい、1671年1月17日(寛文10年12月7日) - 1736年8月14日(元文元年7月8日))は江戸時代中期の神道家。京都梅宮大社の神職。正親町公通らについて垂加神道をおさめ、橘家神道を大成する。著書に「玉籤集」「神代巻藻塩草」など。門人に谷川士清など。.

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竹内主計

竹内 主計(たけのうち かずえ、1763年?-1824年?)は竹内敬持(通称:竹内式部)の子。 八丈島に流罪となった父と別れ、新潟に逃げ平原家の人別に入り名を変えたとされている。以下約100年、菩提寺の火事により資料が焼失してしまった為詳細不明。 『某が天秤を担いで魚を売り歩いていた所へ、3歳位の子供(主計?)を連れた塾生と思われる人から「この子供を頼む」と言われ、子供とかなりの金を預けられ、その足で四ツ郷屋へ走った』とのこと。(子孫ミナの話) 四ツ郷屋とは現在の新潟県新潟市西区四ツ郷屋。 Category:江戸時代の人物 Category:神道に関連する人物 Category:越後国の人物 Category:1763年生 Category:1824年没.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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明和事件

山県大弐銅像(山県神社) 明和事件(めいわじけん)は、江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件。 甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で宝暦8年(1758年)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門(直明)は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767年)不敬罪として大弐を死罪に、右門を獄門に処した。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内敬持にも累を及ぼして遠島に処した。また、小幡藩主の織田家(織田信長の三男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封(のち天童にうつる)の上、織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃された。.

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12月5日 (旧暦)

旧暦12月5日(きゅうれきじゅうにがついつか)は旧暦12月の5日目である。六曜は仏滅である。.

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1712年

記載なし。

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1728年

記載なし。

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1758年

記載なし。

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1767年

記載なし。

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1768年

記載なし。

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1月24日

1月24日(いちがつにじゅうよっか、いちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から24日目に当たり、年末まであと341日(閏年では342日)ある。.

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