ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

東晋

索引 東晋

前涼・前秦・前燕と東晋。 東晋(とうしん、)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。.

205 関係: 劉牢之劉隗劉聡劉裕劉淵劉曜南北朝時代 (中国)南燕南昌県升平司馬炎司馬道子司馬覲司馬越塚本善隆大亨大興 (東晋)太寧 (東晋)太和 (東晋)太元 (東晋)姚襄孝武帝 (東晋)孫恩孫恩の乱安帝 (東晋)安徽省宋 (南朝)寧康寿県山東半島山本英史川本芳昭中国中国の歴史中国の歴史 (講談社)中国語平陽県 (曖昧さ回避)康帝 (東晋)広東省五胡十六国時代五斗米道廟号建康 (都城)建元 (東晋)建武 (東晋)廃帝 (東晋)会稽何充徐州後秦...後趙匈奴北伐チョウ協チ鑒ユ亮ユ冰ユ翼ヒ水の戦い刺史呉 (三国)咸安 (東晋)咸康 (東晋)咸和 (東晋)和県哀帝 (東晋)八王の乱六朝元号元帝 (東晋)元熙 (東晋)元興 (東晋)前秦前燕前趙皇后皇帝石勒石頭城 (南京)石虎王導王弥王衍 (西晋)王敦王敦の乱琅邪郡祖逖穆帝 (東晋)簡文帝 (東晋)紹興市羊献容義熙盧循隆安隆和荊州西晋親征許昌市謝安謝玄講談社魏 (三国)魏晋南北朝表鮮卑豫州豫章郡興寧蘇峻蘇峻の乱長安苻堅陳敏 (西晋)陶侃恭帝 (東晋)恵帝 (西晋)桓玄桓沖桓温殷浩永始永嘉の乱永和 (東晋)永昌 (東晋)江南江州河出書房新社洛陽市淮河温キョウ成帝 (東晋)成漢明帝 (東晋)愍帝 (西晋)懐帝 (西晋)慕容垂慕容恪晋 (王朝)晋書10月11月12月1月2005年2010年265年280年290年2月304年306年311年313年316年317年318年321年322年323年324年325年326年327年329年334年335年339年340年342年343年344年345年346年347年352年356年357年361年362年363年365年366年371年372年373年375年376年383年385年396年397年399年3月401年402年403年404年405年411年417年418年419年420年4月 インデックスを展開 (155 もっと) »

劉牢之

劉 牢之(りゅう ろうし、? - 402年)は、中国東晋の武将。字は道堅。彭城郡彭城県(現在の江蘇省徐州市)の人。祖父の劉羲は西晋の武帝に仕えて、雁門郡太守となり、父の劉建は征虜将軍となった。子に劉敬宣、孫は劉祖がいる。 名門出身で武勇に優れた猛将であったが、3度の背反(三反)を繰り返して信望を失い、最期は自滅した。.

新しい!!: 東晋と劉牢之 · 続きを見る »

劉隗

劉 隗(りゅう かい、273年 - 333年)は、西晋から東晋の政治家・武将。字は大連。彭城郡彭城県(現在の江蘇省徐州市)の人。前漢の楚元王劉交の末裔と伝わり、魏の楽浪太守・劉茂の子孫で、西晋の東光県令・劉砥の子、司隷校尉・劉訥(字は令言)の甥、従兄は劉疇(字は王喬、劉訥の子)。.

新しい!!: 東晋と劉隗 · 続きを見る »

劉聡

劉 聡(りゅう そう)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の第3代皇帝。字は玄明。別名を劉載という。新興(現在の山西省忻州市)出身。光文帝劉淵の四男(三男とも)である。母は側室の張夫人(光献皇后に追尊された)。兄に劉和、劉恭、弟に劉裕、劉隆、劉乂がいる。長兄の劉和を殺害して帝位を継ぎ、八王の乱と異民族の流入で混乱に陥った西晋を滅ぼして(永嘉の乱)華北に覇を唱えた。その一方、次第に女色に耽って政治を顧みなくなり、数多くの忠臣を殺害して佞臣を重用した。これにより大いに国力を疲弊させ、漢帝国崩壊の原因を作った。.

新しい!!: 東晋と劉聡 · 続きを見る »

劉裕

劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。.

新しい!!: 東晋と劉裕 · 続きを見る »

劉淵

劉 淵(りゅう えん)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の創建者。唐代に編纂された『晋書』では、高祖李淵の諱を避け、字を用いて劉元海と表記されている。新興(現在の山西省忻州市)出身。一説に西河隰城(現在の山西省汾陽市)出身ともされる。南匈奴の単于を輩出した屠各種攣鞮部の出身で於夫羅の孫、劉豹の嫡子。.

新しい!!: 東晋と劉淵 · 続きを見る »

劉曜

劉 曜(りゅう よう)は、五胡十六国時代の前趙(漢)の第5代皇帝。字は永明。父は劉緑、母は胡氏。弟に劉暉がいる。また、漢の初代皇帝劉淵の族子であり、3代皇帝劉聡の族弟。漢の皇族として、長安を攻め落として西晋を滅ぼした。皇帝に即位すると、靳準の乱を平定して国家を再興し、石勒と華北の覇権を争った。劉淵からは「劉家の千里駒」と呼ばれた。.

新しい!!: 東晋と劉曜 · 続きを見る »

南北朝時代 (中国)

北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.

新しい!!: 東晋と南北朝時代 (中国) · 続きを見る »

南燕

南燕(なんえん、398年 - 410年)は、五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容徳によって建てられた国。国号は燕。.

新しい!!: 東晋と南燕 · 続きを見る »

南昌県

南昌県(なんしょう-けん)は中華人民共和国江西省南昌市の管轄下にある県。.

新しい!!: 東晋と南昌県 · 続きを見る »

升平

升平(しょうへい)は、東晋穆帝司馬聃の治世に行われた2番目の年号。357年 - 361年。前涼はこの年号を継続して升平15年(371年)まで使用した。.

新しい!!: 東晋と升平 · 続きを見る »

司馬炎

司馬 炎(しば えん)は、西晋の初代皇帝。諡号は武帝。 魏から禅譲を受けて晋を建て、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。.

新しい!!: 東晋と司馬炎 · 続きを見る »

司馬道子

司馬 道子(しば どうし、興寧2年(364年) - 元興元年12月26日(403年2月3日))は、東晋の皇族・政治家。東晋の第8代皇帝簡文帝の末子(第7子)で、第9代皇帝孝武帝の末弟。字も道子。.

新しい!!: 東晋と司馬道子 · 続きを見る »

司馬覲

司馬 覲(しば きん、256年 - 290年)は、三国時代から西晋の人物で、魏、晋の貴族。字は思祖。 西晋の琅邪王司馬伷の子。母は諸葛太妃(諸葛誕の娘)か。妻は夏侯荘の娘。子に司馬睿(東晋の元帝)、東安王・司馬渾。諡号は恭王。 太康4年(283年)に父が急死したために王位を継承する。この際に父の遺命に従って3名の弟に領土を分封してそれぞれを王とした。冗従僕射に任命されるが、太熙元年(290年)に35歳で急逝した。長男の司馬睿が後を継いだ。 子の司馬睿は司馬覲の死後まもなく勃発した八王の乱、永嘉の乱により晋朝と江北が混乱すると、それを避けて江南に逃れ、西晋王朝崩壊後に自ら皇帝に即位した(東晋の元帝)。琅邪国は皇帝の重要な縁戚として東晋の末期まで続いた。 次男の司馬渾(元帝の弟)は叔父の東安王・司馬繇(司馬覲の弟)が304年に成都王・司馬穎に殺害されて後継者がなかったので、その後を受け継いだ。しかし子がないまま早世し、東安国は廃止されてしまった。 Category:西晋の人物 Category:魏晋南北朝時代の人物 きん Category:256年生 Category:290年没.

新しい!!: 東晋と司馬覲 · 続きを見る »

司馬越

司馬 越(しば えつ、? - 311年)は、中国西晋の皇族であり、八王の乱の八王の一人。字は元超。司馬懿の四弟である司馬馗の孫で、高密文献王司馬泰の長子。妻は裴氏。子は司馬毗。八王の乱を終結させて朝政の第一人者となり、漢軍の侵攻を幾度も阻んだが、懐帝と対立する中で病死した。.

新しい!!: 東晋と司馬越 · 続きを見る »

塚本善隆

塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1980年1月30日)は、浄土宗僧侶、仏教史学者。中国仏教研究の第一人者。.

新しい!!: 東晋と塚本善隆 · 続きを見る »

大亨

大亨(だいこう)は、東晋、安帝司馬徳宗の治世に行われた年号。桓玄が全権を握っている間に使われた。元興元年3月に一旦隆安6年に戻されたうえで大亨元年とされた。その旧12月、安帝は廃され、桓玄が帝位につくが、405年に安帝が復位すると、隆安6年、大亨、永始、天康の4元号は廃され、元興が402年から404年までの元号として用いられた。『資治通鑑』もこの4元号を認めていない。.

新しい!!: 東晋と大亨 · 続きを見る »

大興 (東晋)

大興(たいこう)は、東晋の元帝司馬睿が皇帝に即位して初めて使用された元号。一説に太興とも。318年 - 321年.

新しい!!: 東晋と大興 (東晋) · 続きを見る »

太寧 (東晋)

太寧(たいねい)は、東晋の明帝司馬紹の治世に行われた元号。323年 - 326年。.

新しい!!: 東晋と太寧 (東晋) · 続きを見る »

太和 (東晋)

太和(たいわ)は、東晋廃帝司馬奕の治世に行われた元号。366年 - 371年。.

新しい!!: 東晋と太和 (東晋) · 続きを見る »

太元 (東晋)

太元(たいげん)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた2番目の元号。376年 - 396年。.

新しい!!: 東晋と太元 (東晋) · 続きを見る »

姚襄

姚 襄(よう じょう、331年 - 357年5月)は、五胡十六国時代の羌族の部族長。字は景国。姚弋仲の三男で、後秦の創建者姚萇の兄。355年4月 - 357年5月自立し、大将軍・大単于を称した。.

新しい!!: 東晋と姚襄 · 続きを見る »

孝武帝 (東晋)

孝武帝(こうぶてい)は、東晋の第9代皇帝。簡文帝の第6子。司馬氏、諱は曜。字は昌明。.

新しい!!: 東晋と孝武帝 (東晋) · 続きを見る »

孫恩

孫 恩(そん おん).

新しい!!: 東晋と孫恩 · 続きを見る »

孫恩の乱

孫恩の乱(そんおんのらん)は、中国東晋末期の399年(隆安3年)10月に孫恩が起こした反乱。後の盧循の乱と合わせて、孫恩・盧循の乱と呼ばれることもある。.

新しい!!: 東晋と孫恩の乱 · 続きを見る »

安帝 (東晋)

安帝(あんてい)は、東晋の第10代皇帝。孝武帝の長男。諱は徳宗、字も徳宗。.

新しい!!: 東晋と安帝 (東晋) · 続きを見る »

安徽省

安徽省(あんきしょう、アンホイしょう、中国語:安徽省、拼音:Ānhuī Shěng、英語:Anhui)は、中華人民共和国の省。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。.

新しい!!: 東晋と安徽省 · 続きを見る »

宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。.

新しい!!: 東晋と宋 (南朝) · 続きを見る »

寧康

寧康(ねいこう)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた最初の元号。373年 - 375年。.

新しい!!: 東晋と寧康 · 続きを見る »

寿県

寿県(じゅけん)は中華人民共和国安徽省淮南市に位置する県。 安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、壽春、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。.

新しい!!: 東晋と寿県 · 続きを見る »

山東半島

山東半島の位置 山東半島(さんとうはんとう/シャントンはんとう)は、北は渤海湾を隔てて遼東半島に向かい合う中国最大の半島である。膠東半島は山東半島の一部である。リンゴ栽培が盛んである。主要都市は青島、煙台、威海など。 ヴェルサイユ条約で、日本が一時期支配していた。.

新しい!!: 東晋と山東半島 · 続きを見る »

山本英史

山本 英史(やまもと えいし、1950年 - )は、日本の中国史学者、慶應義塾大学教授。中国明清史、近代農村社会史を専門。博士(文学)(2007年、東京大学にて取得)。.

新しい!!: 東晋と山本英史 · 続きを見る »

川本芳昭

川本 芳昭(かわもと よしあき、1950年 - )は、日本の東洋史学者、九州大学名誉教授。 長崎県生まれ。1972年九州大学文学部東洋史学科卒、1978年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。1981年佐賀大学教養部助教授。1994年九州大学文学部助教授。1998年教授。1995年「魏晋南北朝時代の民族問題 民族間抗争と異文化受容の軌跡」で久留米大学文学博士。2016年九大を定年退任、名誉教授。.

新しい!!: 東晋と川本芳昭 · 続きを見る »

中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

新しい!!: 東晋と中国 · 続きを見る »

中国の歴史

中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)とは、中国または中国大陸における歴史のこと。 中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。 なお、その対象は、中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。.

新しい!!: 東晋と中国の歴史 · 続きを見る »

中国の歴史 (講談社)

『中国の歴史』(ちゅうごくのれきし)は講談社から刊行された中国通史の叢書であり、これまで同じタイトルの叢書が3次にわたり刊行されている。.

新しい!!: 東晋と中国の歴史 (講談社) · 続きを見る »

中国語

記載なし。

新しい!!: 東晋と中国語 · 続きを見る »

平陽県 (曖昧さ回避)

平陽県(へいよう-けん).

新しい!!: 東晋と平陽県 (曖昧さ回避) · 続きを見る »

康帝 (東晋)

康帝(こうてい)は、東晋の第4代皇帝。諱は岳、字は世同。明帝の子で、咸康8年(342年)に同母兄である成帝の死により、急遽皇位を継ぎ、在位2年ほどで早逝した。.

新しい!!: 東晋と康帝 (東晋) · 続きを見る »

広東省

広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中国普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、英語:Guangdong)は、中華人民共和国南部にある行政区分の一つである。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。.

新しい!!: 東晋と広東省 · 続きを見る »

五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.

新しい!!: 東晋と五胡十六国時代 · 続きを見る »

五斗米道

五斗米道(ごとべいどう)は、通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が、蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の大邑県)で起こした道教教団。2代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。.

新しい!!: 東晋と五斗米道 · 続きを見る »

廟号

廟号(びょうごう)は、中国、朝鮮半島、ベトナムなどの東アジアの漢字文化圏において皇帝や王が死亡した後に、先祖を祭るための廟に載せるための名前のこと。諡号との違いは、諡号が子孫が先代に対してある種の評価を交えているのに対して、廟号は歴代の先祖の列に並ぶための号である。王朝の創設者などは「太祖」「高祖」、それ以外は「漢字一字+宗」が用いられていることが多い。 東アジアの漢字文化圏でも、日本では天皇に諡号を使用した時期はあったものの、廟号が使用されることはなかった。 中国歴代王朝では、周王朝から隋王朝まで、秦王朝を除き、歴代の王・皇帝は諡号で呼ぶのが通例であり、一部に初代・2代目の皇帝を廟号で呼ぶなどの例外があった。しかし唐以降の王朝は、廟号ですべての皇帝を呼ぶのが通例となった。これは唐王朝以降は、諡号が複雑長大になる傾向があったためである。 明代以降は一世一元の制が採られ、一部の例外を除いて1人の皇帝が1つの元号のみを持つようになったため、日本では廟号や諡号の代わりに帝の字に元号を冠して呼ぶ場合が多い。 清は明から一世一元の制を引き継いだので、日本に於いては入関以後、即ち順治帝以後の皇帝は明と同様に元号+帝で呼ばれるが、入関以前の太祖、太宗の2代は名前もしくは廟号で呼ばれる場合が多い。.

新しい!!: 東晋と廟号 · 続きを見る »

建康 (都城)

建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。 三国の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬鄴)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。.

新しい!!: 東晋と建康 (都城) · 続きを見る »

建元 (東晋)

建元(けんげん)は、南北朝時代、東晋康帝司馬岳の治世に行われた元号。343年 - 344年。.

新しい!!: 東晋と建元 (東晋) · 続きを見る »

建武 (東晋)

建武(けんぶ)は、東晋の元帝司馬睿が晋王であったときの元号。東晋の最初の年号。317年 - 318年。.

新しい!!: 東晋と建武 (東晋) · 続きを見る »

廃帝 (東晋)

廃帝(はいてい)または海西公(かいせいこう)は、東晋の第7代皇帝。第3代皇帝成帝の次男。諱は奕、字は延齢。.

新しい!!: 東晋と廃帝 (東晋) · 続きを見る »

会稽

会稽(かいけい).

新しい!!: 東晋と会稽 · 続きを見る »

何充

何 充(か じゅう、292年 - 346年2月21日)は、中国東晋の政治家・武将。字は次道。廬江郡灊県(現在の安徽省六安市霍山県)の出身。魏の光禄大夫何楨の曾孫。西晋の豫州刺史何惲の孫。西晋の安豊郡太守何叡の子。.

新しい!!: 東晋と何充 · 続きを見る »

徐州

徐州(じょしゅう、)は、中国の行政区分の一つ。.

新しい!!: 東晋と徐州 · 続きを見る »

後秦

後秦(こうしん、384年 - 417年)は、中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦(ようしん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 東晋と後秦 · 続きを見る »

後趙

後趙(こうちょう、ごちょう、、319年 - 351年)は、中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単に趙(ちょう)であるが、同時代に劉淵によって建てられた同じく国号を趙とする国があるために、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別する。また、石氏の王朝のために石趙(せきちょう)とも呼ばれる。.

新しい!!: 東晋と後趙 · 続きを見る »

匈奴

匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.

新しい!!: 東晋と匈奴 · 続きを見る »

北伐

北伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。.

新しい!!: 東晋と北伐 · 続きを見る »

チョウ協

刁 協(ちょう きょう、? - 322年)は、中国東晋時代の政治家。字は玄亮。勃海郡饒安県(河北省滄州市塩山県の塩山鎮西南)の人。祖父は魏の斉郡太守の刁恭、父は西晋の武帝期の御史中丞の刁攸。子は刁彝(大倫)、孫は刁逵(伯道)、刁暢、刁弘、刁騁ら、曾孫は刁雍(淑和)、刁弥(宝恵?)。.

新しい!!: 東晋とチョウ協 · 続きを見る »

チ鑒

郗 鑒(ち かん、269年 - 339年)は、中国魏晋南北朝時代(西晋・東晋)の軍人・政治家。字は道徽。高平郡金郷(現山東省)の人。郗愔、郗曇の父、郗超の祖父。後漢末期の御史大夫郗慮の玄孫にあたる。 最初は司馬倫に仕えていたが、病により職を退いていたため司馬倫の謀反(八王の乱)には加担せず処罰を免れた。その後の西晋の混乱を生き延び故郷に帰還した後、南方に渡り東晋の皇帝元帝に仕え、建国間もない東晋王朝の軍事面を支え続け、兗州刺史、都督揚州江西諸軍事に任じられ長江下流域を本拠とした。郗鑒の率いた軍団は「北府軍団」として、長江中流域に駐屯した陶侃や庾亮の「西府軍団」と共に以後の東晋の軍事の主力となる。 後趙の石勒の侵攻を退ける一方で、元帝の後を継いだ明帝・成帝を支えて王敦や蘇峻の反乱鎮圧にも尽力、功績により車騎大将軍に昇進、都督徐州・兗州・青州諸軍事、兗州・徐州刺史も兼ねて北府軍団を首都建康近郊の広陵(現在の揚州市)に移し、司空に昇進した。329年、広陵から京口に鎮座、北府軍団の拠点を京口に移した。 339年、70歳で死去。次男の郗曇が北府軍団を束ね、361年に亡くなった後は長男の郗愔が引き継いだが、369年に孫で郗愔の息子郗超の画策で北府軍団の指揮権を桓温に奪われた。桓温は西府軍団も掌握しており、北府軍団も合わせて最大の軍事力を保有、東晋の有力者にのし上がっていった。 王敦の従弟で有力者王導と縁戚関係を結ぶため、彼の従甥の1人を娘婿に選ぶことにした。選ばれたのが後の書聖王羲之である。.

新しい!!: 東晋とチ鑒 · 続きを見る »

ユ亮

庾 亮(ゆ りょう、289年 - 340年)は、中国東晋の政治家。字は元規。潁川鄢陵(現在の河南省鄢陵県)の出身。庾琛の子で庾彬、庾羲、庾龢の父。.

新しい!!: 東晋とユ亮 · 続きを見る »

ユ冰

庾 冰(ゆ ひょう、296年 - 344年12月29日)は、中国東晋の政治家・武将。字は季堅。潁川鄢陵(現在の河南省鄢陵県)の出身。庾琛の子、庾亮の弟、庾翼の兄。庾希、庾道憐の父。.

新しい!!: 東晋とユ冰 · 続きを見る »

ユ翼

庾 翼(ゆ よく、305年 - 345年8月16日)は、中国東晋の政治家・武将・書家。字は稚恭。潁川鄢陵(現在の河南省鄢陵県)の出身。庾琛の子、庾亮、庾冰の弟。庾方之、庾爰之の父。小庾、庾征西、庾小征西とも。.

新しい!!: 東晋とユ翼 · 続きを見る »

ヒ水の戦い

淝水の戦い(ひすいのたたかい)は、中国の五胡十六国時代に、華北の前秦軍と江南の東晋軍とが383年に淝水(現在の安徽省寿県の南東)で激突した戦い。淝はさんずいに肥。.

新しい!!: 東晋とヒ水の戦い · 続きを見る »

刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

新しい!!: 東晋と刺史 · 続きを見る »

呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。.

新しい!!: 東晋と呉 (三国) · 続きを見る »

咸安 (東晋)

咸安(かんあん)は、東晋簡文帝司馬昱の治世に行われた元号。371年 - 372年。前涼ではこの年号を376年の滅亡まで使い続けた川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P81三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P84。.

新しい!!: 東晋と咸安 (東晋) · 続きを見る »

咸康 (東晋)

咸康(かんこう)は、南北朝時代、東晋成帝司馬衍の治世に行われた2番目の元号。335年 - 342年。.

新しい!!: 東晋と咸康 (東晋) · 続きを見る »

咸和 (東晋)

咸和(かんわ)は、南北朝時代、東晋成帝司馬衍の治世に行われた最初の元号。326年 - 334年。.

新しい!!: 東晋と咸和 (東晋) · 続きを見る »

和県

和県(わ-けん)は中華人民共和国安徽省馬鞍山市に位置する県。県人民政府の所在地は歴陽鎮。秦漢時代から歴陽県があった。 県内の烏江鎮は、垓下の戦いで漢に敗れた楚の項羽が最期を迎えた場所(「烏江の渡し」)であり、覇王祠が建っている。.

新しい!!: 東晋と和県 · 続きを見る »

哀帝 (東晋)

哀帝(あいてい)は、東晋の第6代皇帝。第3代皇帝成帝の長男。諱は丕、字は千齢。.

新しい!!: 東晋と哀帝 (東晋) · 続きを見る »

八王の乱

八王の乱(はちおうのらん)は、中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。西晋は100年に渡る三国時代に終止符を打って全土を統一したが、その平穏はわずか数10年で崩れ去った。この後、中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代を迎える事となる。.

新しい!!: 東晋と八王の乱 · 続きを見る »

六朝

六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。 呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 - 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもある。.

新しい!!: 東晋と六朝 · 続きを見る »

元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

新しい!!: 東晋と元号 · 続きを見る »

元帝 (東晋)

元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。諱は睿、字は景文。宣帝司馬懿の曾孫、琅邪武王司馬伷の孫に当たる。また、母方を通して夏侯淵の玄孫でもある。.

新しい!!: 東晋と元帝 (東晋) · 続きを見る »

元熙 (東晋)

元熙(げんき)は、東晋、恭帝司馬徳文の治世に使用された元号。西暦419年 - 420年。東晋最後の年号。.

新しい!!: 東晋と元熙 (東晋) · 続きを見る »

元興 (東晋)

元興(げんこう)は、東晋、安帝司馬徳宗の治世に行われた2番目の年号。402年 - 404年。元興元年は3月に一旦、隆安6年に戻された上で大亨元年とされた。後に再び元興に戻された。 『資治通鑑』では、桓玄の簒奪に反対する立場から大亨の元号を使用していない。.

新しい!!: 東晋と元興 (東晋) · 続きを見る »

前秦

前秦(ぜんしん、、 351年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。 一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。.

新しい!!: 東晋と前秦 · 続きを見る »

前燕

前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。.

新しい!!: 東晋と前燕 · 続きを見る »

前趙

前趙(ぜんちょう、、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。劉趙、漢趙とも呼称される。.

新しい!!: 東晋と前趙 · 続きを見る »

皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

新しい!!: 東晋と皇后 · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: 東晋と皇帝 · 続きを見る »

石勒

石 勒(せき ろく、274年 - 333年8月)は、五胡十六国時代の後趙の創建者。字は世龍。上党郡武郷県(現在の山西省楡社県の西北)出身の羯族であり、匈奴別部の羌渠の血を引いている。元の名を㔨と言い、幼名は匐勒と言った。祖父は耶弈于、父は周曷朱(又の名を乞翼加)。前趙の将軍として各地を攻略し、王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷といった敵対勢力を次々と滅ぼした。劉聡の死際には後事を託されたが、劉曜と対立すると自立して後趙を樹立し、前趙を滅亡に追いやって華北に覇を唱えた。奴隷から皇帝まで昇った、中国史上唯一の人物。.

新しい!!: 東晋と石勒 · 続きを見る »

石頭城 (南京)

石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988年1月13日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。 清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。 石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。.

新しい!!: 東晋と石頭城 (南京) · 続きを見る »

石虎

石 虎(せき こ)は、五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父である李虎の諱を避けるため、字の季龍を用いて石季龍と記されている。石勒(後趙の初代皇帝・明帝)の従子(甥もしくは1世代下の親族)であり、石勒の没後、石弘から帝位を奪って皇帝になった。 石虎は将として有能だったことから石勒に信頼され、後趙の華北周辺の平定に多大な貢献をした。しかし同時にその暴虐さでも知られ、後趙の天王を称した際には非道な法律、重い税金と労働を課し、それを大宮殿を建てたり妾を集めることに費やした。その没後は、子の石祗らと養孫の冉閔が後継争いを繰り広げ、後趙の崩壊を早めた。.

新しい!!: 東晋と石虎 · 続きを見る »

王導

王 導(おう どう、276年 - 339年)は、中国の晋代の政治家。字は茂弘。西晋及び東晋に仕え、彼の働きによって琅邪王氏は六朝時代の南朝を代表する名門貴族となった。王覧の孫で王裁の子。王悦、王恬、王洽、王協、王劭、王薈などの父。東晋の大将軍王敦は従兄、書家の王羲之は従甥に当たる。.

新しい!!: 東晋と王導 · 続きを見る »

王弥

王 弥(おう び、? - 311年)は、中国五胡十六国時代の漢(前趙)の軍人。魏~西晋に仕えた汝南太守王頎の孫。東莱郡の人。劉淵の配下として洛陽攻略などの功績を挙げたが、石勒と対立して殺害された。.

新しい!!: 東晋と王弥 · 続きを見る »

王衍 (西晋)

王 衍(おう えん、256年 - 311年4月)は、中国西晋の政治家・武将。字は夷甫。琅邪郡臨沂県の出身。父は平北将軍王乂。子は王玄。族弟に王敦と王導。従兄に竹林の七賢で有名な王戎、弟に王澄と王詡がいる。.

新しい!!: 東晋と王衍 (西晋) · 続きを見る »

王敦

王 敦(おう とん、266年 - 324年)は、中国の五胡十六国時代の軍人。字は処仲、琅邪郡臨沂の人。琅邪王司馬睿(後の元帝)を擁立し、従弟の王導と共に東晋を建国した。武力に優れ、人望があり、機略に富んでいたとされる。また、書家の王羲之は従甥に当たる。父は王基、兄は王含、甥は王瑜と後に養子になる王應ら。.

新しい!!: 東晋と王敦 · 続きを見る »

王敦の乱

王敦の乱(おうとんのらん)は、322年から324年にかけて中国東晋で起こった内乱である。.

新しい!!: 東晋と王敦の乱 · 続きを見る »

琅邪郡

琅邪郡(琅琊郡、瑯邪郡、瑯琊郡、琅玡郡、ろうや-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域に設置された。.

新しい!!: 東晋と琅邪郡 · 続きを見る »

祖逖

逖(そ てき、266年 - 321年)は、西晋から東晋にかけての武将。字は士稚。范陽郡遒県の人。父は祖武。兄に祖該、祖納。弟に祖約。子に祖渙、祖溢、祖淮、祖汲、祖道重など。東晋初期の名将であり、後趙と争って黄河以南の地を奪還した。.

新しい!!: 東晋と祖逖 · 続きを見る »

穆帝 (東晋)

帝(ぼくてい)は、東晋の第5代皇帝。諱は聃、字は彭子。2歳で即位したため、在位の17年間を太后の褚蒜子が執政し、何充や司馬昱等が補佐した。桓温等の政治家の活躍によりその治世は領土の拡大に特徴づけられる。.

新しい!!: 東晋と穆帝 (東晋) · 続きを見る »

簡文帝 (東晋)

簡文帝(かんぶんてい)は、東晋の第8代皇帝。初代皇帝元帝の末子、諱は昱、字は道萬。.

新しい!!: 東晋と簡文帝 (東晋) · 続きを見る »

紹興市

紹興市(しょうこうし)は中華人民共和国浙江省に位置する地級市。.

新しい!!: 東晋と紹興市 · 続きを見る »

羊献容

羊 献容(よう けんよう、286年 - 322年)は、西晋恵帝の2番目の皇后であり、前趙皇帝劉曜の皇后。泰山県南城郡の出身。祖父は尚書右僕射羊瑾(羊祜や羊徽瑜の従兄弟)。父は尚書右僕射羊玄之。母は車騎将軍孫旂の娘。八王の乱及びそれに続く永嘉の乱に翻弄され、波乱に富む一生を送った。前趙において献文皇后と諡された。.

新しい!!: 東晋と羊献容 · 続きを見る »

義熙

義熙(ぎき)は、東晋、安帝司馬徳宗の治世に使用された元号。405年 - 418年。.

新しい!!: 東晋と義熙 · 続きを見る »

盧循

盧 循(ろ じゅん、生年不詳 - 411年)は、孫恩の乱の首謀者の一人で、盧循の乱の首領。字は于先、幼名は元竜。.

新しい!!: 東晋と盧循 · 続きを見る »

隆安

隆安(りゅうあん)は、東晋の安帝司馬徳宗の治世に行われた最初の元号。397年 - 401年。.

新しい!!: 東晋と隆安 · 続きを見る »

隆和

隆和(りゅうわ)は、東晋哀帝司馬丕の治世に行われた最初の元号。362年 - 363年。.

新しい!!: 東晋と隆和 · 続きを見る »

荊州

荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に置かれた。.

新しい!!: 東晋と荊州 · 続きを見る »

西晋

西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.

新しい!!: 東晋と西晋 · 続きを見る »

親征

親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。.

新しい!!: 東晋と親征 · 続きを見る »

許昌市

許昌市(きょしょうし)は、中華人民共和国河南省に位置する地級市。.

新しい!!: 東晋と許昌市 · 続きを見る »

諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

新しい!!: 東晋と諡 · 続きを見る »

謝安

謝 安(しゃ あん、Xiè Ān、320年 - 385年)は、中国東晋の政治家。字は安石。高家、陳郡謝家の出身。桓温の簒奪の阻止、淝水の戦いの戦勝など、東晋の危機を幾度となく救った。謝裒の三男で謝奕、謝拠の弟、謝万、謝石、謝鉄の兄。謝尚の従弟。子に謝琰。.

新しい!!: 東晋と謝安 · 続きを見る »

謝玄

謝 玄(しゃ げん、Xiè Xuán、343年 - 388年)は、中国東晋の将軍。字は幼度。謝奕の子で東晋の宰相謝安の甥、謝瑍(謝慶)の父。姉妹の謝道蘊は王羲之の息子王凝之の妻となっている。謝氏の本貫は陳郡陽夏(現河南省太康県)。 孝武帝の時代、前秦の苻堅が南下して国境を脅かしていた。謝玄は、叔父・謝安から江北諸軍事・兗州刺史を委任され、太元元年(378年)には広陵から出陣、淮水の南で前秦の軍を破る功績を挙げた。太元8年(383年)に苻堅は、弟の苻融・苻方・梁成・慕容暐・慕容垂らに25万の軍を預けて先鋒とし、自ら大軍(歩兵60万、騎兵27万)を率いて再び南下する。謝安は弟の謝石を征討大都督、謝玄を前鋒都督とし、謝安の子謝琰も従軍させ、水軍を含む8万の兵を与えて出陣させ、寿陽の東に布陣。この際謝玄は、かつて郗鑒が北方(中原)からの避難民を再編して創設した軍団「北府軍」を継承し、率いていた。謝家を中心とする東晋軍は、洛澗を攻撃、前秦軍の先鋒・梁成を討った。 続いて東晋軍は淝水に進み、前秦軍も苻堅の本隊が寿春に入る。両軍は大河を挟んで対峙。両軍が激突するに及び、謝玄・謝琰らが率いる東晋軍7万は前秦軍15万を撃破、苻融を戦死させる大勝利を得る(淝水の戦い)。苻堅は途中で慕容垂に保護され、長安に逃走した。その後謝玄は山東・河南などへもたびたび出兵するが、385年の叔父の死後は朝廷との意思疎通も欠いたため、成功しなかった。 388年に病死した。享年46。子の謝瑍が後を継いだが、早世した。孫に詩人として有名な謝霊運がいる。.

新しい!!: 東晋と謝玄 · 続きを見る »

講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

新しい!!: 東晋と講談社 · 続きを見る »

魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.

新しい!!: 東晋と魏 (三国) · 続きを見る »

魏晋南北朝表

魏晋南北朝表(ぎしんなんぼくちょうひょう)は中国魏晋南北朝時代の国の興亡の様子を示したものである。この表では青系統の色で示した国は漢民族が中心になって建てた国を表し、以下、赤.

新しい!!: 東晋と魏晋南北朝表 · 続きを見る »

鮮卑

鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.

新しい!!: 東晋と鮮卑 · 続きを見る »

豫州

豫州(よしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。ここでは旧字体で豫州と表記するが、常用漢字の表記に従った現代文では予州とするのが正しい。現代の河南省は「豫」を略称としている。.

新しい!!: 東晋と豫州 · 続きを見る »

豫章郡

豫章郡(よしょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の江西省北部に設置された。.

新しい!!: 東晋と豫章郡 · 続きを見る »

興寧

興寧(こうねい)は、東晋哀帝司馬丕の治世に行われた2番目の年号。363年 - 365年。.

新しい!!: 東晋と興寧 · 続きを見る »

蘇峻

蘇 峻(そ しゅん、生年不詳 - 328年)は、中国の東晋の武将。字は子高。父は安楽相の蘇模。弟に蘇逸、子に蘇碩がいる。 長広郡掖県の人で、西晋末期に育つ。若くして書生となり、才能を認められて郡の主簿となっていたという。 当時は八王の乱とそれに続く永嘉の乱によって、江南を除く中原一帯が異民族の蹂躙するところとなり、混乱の中で虐殺や飢饉が頻発していた。こうした中、多くの難民が発生し、そうした集団や、村々の中には自衛のために集団で武装するところも多数あった。蘇峻もそのうちの1つを形成し、数千家をまとめて、当時の豪族の中で最強を謳われるほどであった。盗賊行為を働き、山東から江蘇にかけてを荒らし回りながら、次第に大規模な武装集団へと発展させた。 その後、江南で東晋が成立すると、仮の安集将軍に任じられ、次第に官位を上げていった。王敦の乱が起きると、東晋の首都建康近郊の国境地帯にいた蘇峻は反乱軍鎮圧で活躍して、朝廷からその功績を認められ、更に官位は上がっていった。最終的には使持節・冠軍将軍・歴陽内史・加散騎常侍に昇り、邵陵公に封ぜられ、食邑として一千八百戸が与えられている。 しかし、蘇峻は功績に驕るようになり始め、327年12月、当時外戚として政権を握っていた庾亮が、有力軍閥となっていた蘇峻の兵権を削ろうと図ったことがきっかけで反乱を起こした(蘇峻の乱)。 庾亮の討伐を名目に挙兵した蘇峻は、328年2月、長江を渡って建康を包囲、火攻めによって陥落させた。庾亮は逃亡し、まだ幼かった成帝以下、当時建康にいた朝廷の関係者全員が捕らえられた。幼帝を擁して驃騎将軍を称していた蘇峻は、配下の兵士達に激しい掠奪を行わせたばかりか、朝廷の百官や、宮中に仕える宮女らの衣服を剥ぎ取って裸にし、官吏には苦役を強要し、王侯大臣であっても破れ筵や草で身を隠し、草もない者は地に座って土で身を覆い、裸を隠す有様だったとされる。 9月、蘇峻は郗鑒・陶侃らの義軍に敗北し、戦死した。反乱自体は弟の蘇逸に引き継がれ、翌329年2月まで続いた。 Category:西晋の人物 Category:東晋の人物 Category:盗賊 Category:生年不明 Category:328年没.

新しい!!: 東晋と蘇峻 · 続きを見る »

蘇峻の乱

蘇峻の乱(そしゅんのらん)は、327年から329年にかけて中国東晋で歴陽内史蘇峻が起こした反乱。.

新しい!!: 東晋と蘇峻の乱 · 続きを見る »

長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

新しい!!: 東晋と長安 · 続きを見る »

苻堅

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91。 氐族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した羌族の部下姚萇に殺害された。.

新しい!!: 東晋と苻堅 · 続きを見る »

陳敏 (西晋)

陳敏(ちん びん、? - 307年)は、中国の西晋の人物。字は令通。廬江郡の人。.

新しい!!: 東晋と陳敏 (西晋) · 続きを見る »

陶侃

陶侃(とう かん、259年 - 334年)は、中国の西晋、東晋の武将。字は士行。鄱陽鄡陽の人。父は呉の揚武将軍陶丹。母は湛氏。五渓蛮の出身であるとも言われる。東晋黎明期を代表する名将であり、武廟六十四将にも選出されている。.

新しい!!: 東晋と陶侃 · 続きを見る »

恭帝 (東晋)

恭帝(きょうてい)は、東晋の第11代(最後)の皇帝。9代皇帝孝武帝の次男。諱は徳文、字も徳文。.

新しい!!: 東晋と恭帝 (東晋) · 続きを見る »

恵帝 (西晋)

司馬衷(しば ちゅう、259年 - 307年)は、西晋の第2代皇帝。字は正度。正式な諡号は孝惠皇帝だが、一般的に恵帝と呼称される。武帝司馬炎の次男。母は楊艶。.

新しい!!: 東晋と恵帝 (西晋) · 続きを見る »

桓玄

桓 玄(かん げん)は、桓楚の初代皇帝。東晋の安帝より禅譲を受けて皇帝となるが、3ヵ月後にクーデターを起こした劉裕の挙兵によって殺された。.

新しい!!: 東晋と桓玄 · 続きを見る »

桓沖

桓 沖(かん ちゅう、328年 - 384年4月)は、中国東晋の武将。字は幼子。.

新しい!!: 東晋と桓沖 · 続きを見る »

桓温

桓 温(かん おん、312年 - 373年)は、東晋の政治家・軍人。字は元子。譙国竜亢(現在の安徽省懐遠県)の出身。父は宣城郡太守桓彝。母は孔憲。後漢の儒学者桓栄の後裔であるという。東晋の将軍として、成漢を滅ぼし、洛陽を奪還する等の大功を挙げた。東晋を牛耳るようになると禅譲を目論んだが、周囲の反対に逢い失敗した。.

新しい!!: 東晋と桓温 · 続きを見る »

殷浩

殷 浩(いん こう、生年不詳 - 356年)は、中国の東晋の政治家・軍人。「竹馬の友」の故事で知られる。字は淵源。本貫は陳郡長平県。.

新しい!!: 東晋と殷浩 · 続きを見る »

永始

永始(えいし)とは、.

新しい!!: 東晋と永始 · 続きを見る »

永嘉の乱

永嘉の乱(えいかのらん)は、中国西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉(307年 - 312年)から呼ばれているが、この反乱が実質的に開始されたのは304年かそれ以前であり、一応の終焉を見せたのは316年である。この乱により西晋は滅亡した。.

新しい!!: 東晋と永嘉の乱 · 続きを見る »

永和 (東晋)

永和(えいわ)は、南北朝時代、東晋穆帝司馬聃の治世に行われた元号。345年 - 356年。.

新しい!!: 東晋と永和 (東晋) · 続きを見る »

永昌 (東晋)

永昌(えいしょう)は、東晋の元帝司馬睿が皇帝となって2番目に行われた元号。322年 - 323年。.

新しい!!: 東晋と永昌 (東晋) · 続きを見る »

江南

江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).

新しい!!: 東晋と江南 · 続きを見る »

江州

江州.

新しい!!: 東晋と江州 · 続きを見る »

河出書房新社

株式会社河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)は、日本の出版社である。本社は東京都渋谷区千駄ヶ谷にある。 3代目社長の河出朋久は歌人でもあり、歌集『白葉集』1-3(短歌研究社、2004-06)がある。佐佐木幸綱、高野公彦、小野茂樹など学生歌人を社員登用していたこともある。.

新しい!!: 東晋と河出書房新社 · 続きを見る »

洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

新しい!!: 東晋と洛陽市 · 続きを見る »

淮河

河と長江に南北を挟まれる形で流れる 淮河(わいが、)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。長さは1,078km、流域面積は174,000平方kmに及ぶ。 淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい。このため「壊河(ピンインではHuái Hé)」の異名がある。.

新しい!!: 東晋と淮河 · 続きを見る »

温キョウ

温 嶠(おん きょう、288年 - 329年)は、中国東晋の政治家。字は太真、または泰真とも。并州太原郡祁県の人。温憺の子。魏の丞相主簿などを歴任した温恢の曾孫に当たる。.

新しい!!: 東晋と温キョウ · 続きを見る »

成帝 (東晋)

成帝(せいてい)は、東晋の第3代皇帝。諱は衍、字は世根。.

新しい!!: 東晋と成帝 (東晋) · 続きを見る »

成漢

成漢(せいかん、、304年 - 347年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。巴氐族(氐族の一種)の李雄により建国された。当初の国号は大成であったが、李寿の時代に漢に改めた事から、併せて成漢と呼称される。また、後蜀(ごしょく)とも記載される三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P53。.

新しい!!: 東晋と成漢 · 続きを見る »

明帝 (東晋)

明帝(めいてい)は、東晋の第2代皇帝。諱は紹、字は道畿。王敦の乱を平定して皇帝権力を確立したが、早世した。.

新しい!!: 東晋と明帝 (東晋) · 続きを見る »

愍帝 (西晋)

司馬 鄴(しば ぎょう、300年 - 318年)は、西晋の第5代皇帝。字は彦旗。正式な諡号は孝愍皇帝だが、一般的に愍帝と呼称される。武帝司馬炎の孫。父は呉王司馬晏。母は荀氏(荀勗の娘)。兄に淮南王司馬祥、弟に済南王司馬固、済陰王司馬衍がいる。.

新しい!!: 東晋と愍帝 (西晋) · 続きを見る »

懐帝 (西晋)

司馬 熾(しば し、284年 - 313年)は、西晋の第4代皇帝。字は豊度。正式な諡号は孝懐皇帝だが、一般的に懐帝と呼称される。武帝司馬炎の25子。母は王媛姫。.

新しい!!: 東晋と懐帝 (西晋) · 続きを見る »

慕容垂

慕容 垂(ぼよう すい、)は、五胡十六国時代の後燕の創建者。 当初は前燕の皇族で、桓温を撃退するなど活躍したが、奸臣の慕容評等に命を狙われて前秦に亡命した。383年に前秦が淝水の戦いで大敗すると自立して前燕の復興として後燕を建国した。395年、太子の慕容宝が参合陂の戦いで大敗すると自ら反撃したが退軍中に病を患って死去した。.

新しい!!: 東晋と慕容垂 · 続きを見る »

慕容恪

慕容 恪(ぼよう かく、不詳 - 367年5月)は、五胡十六国時代の前燕の政治家・武将である。太原桓王。字は元恭。鮮卑慕容部の出身であり、昌黎郡棘城県(現在の遼寧省義県の北西)の人。慕容皝の第4子で、兄に慕容儁、弟に慕容垂・慕容徳がいる。前燕の中原進出に大きく貢献し、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国随一の名将であると評される。.

新しい!!: 東晋と慕容恪 · 続きを見る »

晋 (王朝)

晋(晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋とも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建康。宋により滅ぼされた。 詳細は西晋および東晋を参照。 * Category:魏晋南北朝時代の王朝 *.

新しい!!: 東晋と晋 (王朝) · 続きを見る »

晋書

『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.

新しい!!: 東晋と晋書 · 続きを見る »

10月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より10月 10月(じゅうがつ)はグレゴリオ暦で年の第10の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、新暦10月の別名としても用いる。 英語での月名 October は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の "octo" の語に由来している。一般的な暦では10番目の月であるが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では、一般的な暦の3月が年始であり、3月から数えて8番目という意味である。.

新しい!!: 東晋と10月 · 続きを見る »

11月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より11月 11月(じゅういちがつ)はグレゴリオ暦で年の第11の月に当たり、30日間ある。 日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。 英語での月名 November は、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の「novem」の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、(そのため年末の2月は日数が少ない)3月から数えて9番目という意味である。.

新しい!!: 東晋と11月 · 続きを見る »

12月

12月(じゅうにがつ)は、グレゴリオ暦で年の第12の月(最後の月)に当たり、31日ある。 日本では、旧暦12月を「師走」、「師馳」(しわす・しはす)又は「極月」(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)と呼んできた。 今では「師走」及び「極月」は、新暦12月の別名としても用いられる。 英語での月名 December は、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来している。 実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で(そのため年末の2月は日数が少ない)、3月から数えて10番目という意味である。 グレゴリオ暦の12月1日はその年の9月1日と同じ曜日になる(→365日)。 明治時代に日本が太陰暦から太陽暦に変更した際に、政府が年末の給料を削減するために12月の日数を2日とした(明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とした)。.

新しい!!: 東晋と12月 · 続きを見る »

1月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より1月 1月(いちがつ)はグレゴリオ暦で年の第1の月に当たり、31日ある。 日本では旧暦1月を睦月(むつき)と呼び、現在では新暦1月の別名としても用いる。睦月という名前の由来には諸説ある。最も有力なのは、親族一同集って宴をする「睦び月(むつびつき)」の意であるとするものである。他に、「元つ月(もとつつき)」「萌月(もゆつき)」「生月(うむつき)」などの説がある。 1月はその年の10月と同じ曜日で始まるのと同じである。平年の場合。 英語の January は、ローマ神話の出入り口とドアの神ヤヌスにちなむ。年の入り口にあたることから、ヤヌスの月となった。.

新しい!!: 東晋と1月 · 続きを見る »

2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

新しい!!: 東晋と2005年 · 続きを見る »

2010年

この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。.

新しい!!: 東晋と2010年 · 続きを見る »

265年

記載なし。

新しい!!: 東晋と265年 · 続きを見る »

280年

記載なし。

新しい!!: 東晋と280年 · 続きを見る »

290年

記載なし。

新しい!!: 東晋と290年 · 続きを見る »

2月

2月(にがつ)はグレゴリオ暦で年の第2の月に当たり、通常は28日、閏年では29日となる。 他の月の日数が30または31日なのに対して、 英語の呼び名である February はローマ神話のフェブルウス (Februus) をまつる祭りから取ったと言われている。.

新しい!!: 東晋と2月 · 続きを見る »

304年

記載なし。

新しい!!: 東晋と304年 · 続きを見る »

306年

記載なし。

新しい!!: 東晋と306年 · 続きを見る »

311年

記載なし。

新しい!!: 東晋と311年 · 続きを見る »

313年

記載なし。

新しい!!: 東晋と313年 · 続きを見る »

316年

記載なし。

新しい!!: 東晋と316年 · 続きを見る »

317年

記載なし。

新しい!!: 東晋と317年 · 続きを見る »

318年

記載なし。

新しい!!: 東晋と318年 · 続きを見る »

321年

記載なし。

新しい!!: 東晋と321年 · 続きを見る »

322年

記載なし。

新しい!!: 東晋と322年 · 続きを見る »

323年

記載なし。

新しい!!: 東晋と323年 · 続きを見る »

324年

記載なし。

新しい!!: 東晋と324年 · 続きを見る »

325年

記載なし。

新しい!!: 東晋と325年 · 続きを見る »

326年

記載なし。

新しい!!: 東晋と326年 · 続きを見る »

327年

記載なし。

新しい!!: 東晋と327年 · 続きを見る »

329年

記載なし。

新しい!!: 東晋と329年 · 続きを見る »

334年

記載なし。

新しい!!: 東晋と334年 · 続きを見る »

335年

記載なし。

新しい!!: 東晋と335年 · 続きを見る »

339年

記載なし。

新しい!!: 東晋と339年 · 続きを見る »

340年

記載なし。

新しい!!: 東晋と340年 · 続きを見る »

342年

記載なし。

新しい!!: 東晋と342年 · 続きを見る »

343年

記載なし。

新しい!!: 東晋と343年 · 続きを見る »

344年

記載なし。

新しい!!: 東晋と344年 · 続きを見る »

345年

記載なし。

新しい!!: 東晋と345年 · 続きを見る »

346年

記載なし。

新しい!!: 東晋と346年 · 続きを見る »

347年

記載なし。

新しい!!: 東晋と347年 · 続きを見る »

352年

記載なし。

新しい!!: 東晋と352年 · 続きを見る »

356年

記載なし。

新しい!!: 東晋と356年 · 続きを見る »

357年

記載なし。

新しい!!: 東晋と357年 · 続きを見る »

361年

記載なし。

新しい!!: 東晋と361年 · 続きを見る »

362年

記載なし。

新しい!!: 東晋と362年 · 続きを見る »

363年

記載なし。

新しい!!: 東晋と363年 · 続きを見る »

365年

記載なし。

新しい!!: 東晋と365年 · 続きを見る »

366年

記載なし。

新しい!!: 東晋と366年 · 続きを見る »

371年

記載なし。

新しい!!: 東晋と371年 · 続きを見る »

372年

記載なし。

新しい!!: 東晋と372年 · 続きを見る »

373年

記載なし。

新しい!!: 東晋と373年 · 続きを見る »

375年

記載なし。

新しい!!: 東晋と375年 · 続きを見る »

376年

記載なし。

新しい!!: 東晋と376年 · 続きを見る »

383年

記載なし。

新しい!!: 東晋と383年 · 続きを見る »

385年

記載なし。

新しい!!: 東晋と385年 · 続きを見る »

396年

記載なし。

新しい!!: 東晋と396年 · 続きを見る »

397年

記載なし。

新しい!!: 東晋と397年 · 続きを見る »

399年

記載なし。

新しい!!: 東晋と399年 · 続きを見る »

3月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より3月 3月(さんがつ)は、グレゴリオ暦で年の第3の月に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にない。 ヨーロッパ諸言語での呼び名であるmars,marzo,Marchなどはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するMartiusから取ったもの。 古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。閏年の日数調整を2月に行うのは、当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残である。 3月はその年の11月と同じ曜日で始まり、平年には2月と同じとなる。.

新しい!!: 東晋と3月 · 続きを見る »

401年

記載なし。

新しい!!: 東晋と401年 · 続きを見る »

402年

記載なし。

新しい!!: 東晋と402年 · 続きを見る »

403年

記載なし。

新しい!!: 東晋と403年 · 続きを見る »

404年

記載なし。

新しい!!: 東晋と404年 · 続きを見る »

405年

記載なし。

新しい!!: 東晋と405年 · 続きを見る »

411年

記載なし。

新しい!!: 東晋と411年 · 続きを見る »

417年

記載なし。

新しい!!: 東晋と417年 · 続きを見る »

418年

記載なし。

新しい!!: 東晋と418年 · 続きを見る »

419年

記載なし。

新しい!!: 東晋と419年 · 続きを見る »

420年

記載なし。

新しい!!: 東晋と420年 · 続きを見る »

4月

4月(しがつ)はグレゴリオ暦で年の第4の月に当たり、30日ある。 日本では、旧暦4月を卯月(うづき)と呼び、現在では新暦4月の別名としても用いる。卯月の由来は、卯の花が咲く月「卯の花月(うのはなづき)」を略したものというのが定説となっている。しかし、卯月の由来は別にあって、卯月に咲く花だから卯の花と呼ぶのだとする説もある。「卯の花月」以外の説には、十二支の4番目が卯であることから「卯月」とする説や、稲の苗を植える月であるから「種月(うづき)」「植月(うゑつき)」「田植苗月(たうなへづき)」「苗植月(なへうゑづき)」であるとする説などがある。他に「夏初月(なつはづき)」の別名もある。 日本では、新年度または新学期の時期として有名であり、学校・官公庁・会社などでは当月に入社式・入学式が行われ、前月の3月と同様に慌しくなる。世帯数や人口は少ないが、「卯月」という姓(名字)も存在する。4月は毎年7月と同じ曜日で始まり、閏年には1月とも同じとなる。 英語での月名、April はラテン語の Aprilis、ウェヌス(相当するギリシャの女神アフロディーテのエトルリア名 Apru より)に捧げられた月。.

新しい!!: 東晋と4月 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »