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南北朝時代 (中国)

索引 南北朝時代 (中国)

北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.

194 関係: 劉劭 (南朝宋)劉裕垂簾聴政南北朝時代 (ベトナム)南北朝時代 (日本)吐谷渾均田制大同市太上皇太武帝外戚契丹孝荘帝孝静帝孝閔帝孝武帝 (南朝宋)孝武帝 (北魏)孝明帝孝昭帝孝文帝宣帝 (北周)宣帝 (陳)宗室宇文護宇文泰宋 (南朝)宋書寇謙之山西省山東省岡崎文夫 (東洋史学者)崔浩川勝義雄川本芳昭中国の歴史中国化万里の長城三国時代 (中国)三長制三武一宗の法難三教九品官人法府兵制五胡十六国時代仏教代 (五胡十六国)建康 (都城)廃帝 (北斉)廃帝 (西魏)侯景...侯景の乱後主 (北斉)後主 (陳)後廃帝 (南朝宋)後梁 (南朝)北史北周北魏北斉ヒ水の戦い周礼呉 (三国)和帝 (南朝斉)六鎮の乱六朝元号元帝 (南朝梁)元嘉の治前秦四川省皇太子王僧弁王琳 (軍人)王羲之禅譲突厥簡文帝 (南朝梁)献文帝爾朱栄煬帝道武帝道教荊州荊州区華南華北革命静帝順帝 (南朝宋)西魏西晋高長恭高歓高澄魏晋南北朝表魏晋南北朝時代鮮卑貴族 (中国)霊太后范雲蜀漢関中蕭宝巻蕭ケン蕭ソウ蕭サツ蕭紀蕭統蕭銑蕭道成蕭荘蕭衍蕭棟蕭淵明長江苻堅通道観陝西省陳 (南朝)陳霸先陶淵明柔然恭帝 (西魏)東魏東晋梁 (南朝)森三樹三郎森鹿三楊堅楊麗華武川鎮軍閥武帝 (南朝斉)武帝 (北周)武成帝池田温河南省沈約洛陽市淮河湖北省漢化政策漢民族明帝 (南朝宋)明帝 (南朝斉)明帝 (北周)文宣帝文帝 (南朝宋)文帝 (西魏)文帝 (陳)文選 (書物)文成文明皇后斉 (南朝)斛律光敬帝 (南朝梁)拓跋部386年420年439年450年453年466年479年490年493年500年502年523年528年534年535年547年548年550年551年552年553年554年556年557年558年559年566年572年575年577年578年580年581年582年588年589年621年 インデックスを展開 (144 もっと) »

劉劭 (南朝宋)

劉 劭(りゅう しょう)は、南朝宋の皇帝。字は休遠。父の文帝を殺害して即位したが、3ヶ月で廃位・処刑された。 正史である『宋書』では元凶劭という名で列伝に記されて、正当な皇帝とみなされていない。このため、一般的には宋の歴代皇帝に数えられていない。.

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劉裕

劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。.

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垂簾聴政

垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと。.

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南北朝時代 (ベトナム)

ベトナムの南北朝時代(なんぼくちょうじだい。、)は、ベトナムの歴史における1533年から1592年までを指す。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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吐谷渾

吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。.

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均田制

均田制(きんでんせい)は、中国に於いて南北朝時代の北魏から唐代まで行われた土地制度。国家が国民に田や荒地を給付し、得た収穫の一部を国家に納め、定年により土地を返却する。.

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大同市

大同市(だいどうし)は、中国山西省北部に位置する地級市。 省都の太原市に次ぐ山西省第二の都市である。.

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太上皇

太上皇(たいじょうこう)は、退位した存命の皇帝に送られる尊号のことである。上皇または太上皇帝とも呼ばれる。「太上」は「最高の」という意味。中国では、同時期に存在する太上皇は一人のみであり、太上皇存命時に皇帝が譲位し新たな太上皇となった場合、もとの太上皇には無上皇の尊号が奉られたことがあった。なお、位を退いた日本の天皇には太上天皇の尊号が奉られる。 欧米語では「引退した皇帝」(など)と訳されるが、退位によって自動的に太上皇となるわけではない。廃位されて王に降格させられるなどの例もある。.

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太武帝

太武帝(たいぶてい)は、北朝北魏の第3代皇帝。第2代明元帝の長子。字の仏狸は古代テュルク諸語の で、狼を意味する。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

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孝荘帝

孝荘帝(こうそうてい、507年 - 531年、在位:528年 - 530年)は、北魏の第9代皇帝。姓は元、諱は子攸。彭城王元勰の三男で、第6代皇帝孝文帝の甥にあたる。母は正室の李媛華。.

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孝静帝

孝静帝(こうせいてい)は、北朝東魏唯一の皇帝。姓は元(げん)、諱は善見(ぜんけん)。.

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孝閔帝

孝閔帝(こうびんてい)は、北朝北周の初代天王。姓は宇文、諱は覚。北周の創始者とされるものの、実質は従兄である宇文護の傀儡であった。.

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孝武帝 (南朝宋)

孝武帝(こうぶてい)は、南朝宋の第4代皇帝。姓は劉、名は駿。字は休龍、小字は道民。.

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孝武帝 (北魏)

孝武帝(こうぶてい、510年 - 535年、在位:532年 - 534年)は、北魏の最後の皇帝。姓は元、諱は脩(修とする史料もある)。第7代皇帝宣武帝の甥。諡号は『魏書』では出帝とも記される。孝武帝は西魏において、出帝は東魏において贈られた諡号である。.

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孝明帝

孝明帝(こうめいてい)は、北朝北魏の第8代皇帝。宣武帝の子。.

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孝昭帝

孝昭帝(こうしょうてい)は、北朝北斉の第3代皇帝。.

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孝文帝

孝文帝(こうぶんてい、467年10月13日 - 499年4月26日)は、北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)。諱は宏。孝文帝の時代に北魏宗室の姓は拓跋から元に改められた。.

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宣帝 (北周)

宣帝(せんてい)は、北朝北周の第4代皇帝。姓は宇文(うぶん)、諱は贇(いん)。北周の武帝の長男。.

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宣帝 (陳)

宣帝(せんてい)は、南朝陳の第4代皇帝。姓は陳、諱は頊。.

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宗室

宗室(そうしつ)とは、中国・朝鮮・ベトナムにおける、広義的な皇族に対する呼び方である。.

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宇文護

宇文 護(うぶん ご、513年 - 572年京大東洋史事典編纂会『新編東洋史事典』、東京創元社、1990年、PP82-83)は、中国・北周の皇族、政治家。代郡武川の人。字は薩保。北周の実質的な創始者・宇文泰の兄である宇文顥の息子、宇文訓、宇文会、宇文至、宇文静、宇文深、宇文乾嘉、宇文乾基、宇文乾光、宇文乾蔚、宇文乾祖、宇文乾威らの父。 叔父の宇文泰の死後に権力を握り専横を極めたが、従弟の武帝によって暗殺された。晋国公に封ぜられたことから晋公護と呼ばれることもある。.

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宇文泰

宇文 泰(うぶん たい、正始2年(505年) - 恭帝3年10月4日(556年11月21日))は、北魏・西魏の政治家。字は黒獺(または黒泰とも)。鮮卑の人であり、実質的に北周の基礎を築いた。実際に帝位には就いていないが、廟号は太祖、559年には文帝と追諡されている。.

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宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。.

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宋書

『宋書』(そうしょ)は、中国南朝の宋について書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。 宋代のうちに何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができた。本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる。宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。 北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったという。 日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている。.

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寇謙之

寇 謙之(こう けんし、Kou Qian Zhi、字は輔真、365年 - 448年)は、中国・南北朝時代(北魏)の道士。新天師道の創始者。道教を体系化し、教義・教典・儀礼を定めた。上谷郡昌平県(現在の北京市昌平区)の出身。北魏の河南公・寇讃の弟。後漢の雲台二十八将の一人である雍奴威侯・寇恂の末裔を称した。.

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山西省

山西省(さんせいしょう、中国語:山西省、拼音:Shānxī Shěng、英語:Shanxi)は、中華人民共和国の行政区分の一つ。省都は太原市。略称は晋。.

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山東省

山東省(さんとうしょう、中国語:山东省、拼音:Shāndōng Shěng、英語:Shandong)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は周代の国名より魯。山東とは太行山脈の東方の意。北には渤海、東には黄海があり、黄河の下流に位置する。人口9579.3万人、面積157,126平方キロメートル。省都は、済南。他に青島、泰安などの主要都市がある。.

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岡崎文夫 (東洋史学者)

岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年2月23日 - 1950年3月24日)は、富山県生まれの東洋史学者。字は煥卿、号は桜洲。東北大学教授。文学博士。 同大学における東洋史学専攻講座の開設にあたる。内藤湖南に師事し、隋・唐までを中世とする時代区分説を継承した上で、南北朝から隋唐へは法制が著しく整備されたという点で大きな転換があったとし、また、北朝の国家体系を受け継ぎながら南朝文化を包摂したとする隋唐帝国論を展開した。魏晋南北朝の本格的研究についての先駆者であり、特に『魏晋南北朝通史』は現在に至るまでこれを超える物は登場していないと言われる名著である。死後、正四位勲二等瑞宝章が贈られた。.

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崔浩

崔浩(さい こう、381年 - 450年)は、中国北朝の北魏に仕えた漢人宰相。字は白淵。北魏の華北統一や統治機構の整備に貢献したが、太武帝や鮮卑貴族の反発を受けて誅殺された。.

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川勝義雄

川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月8日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、日本の東洋史学者。京都市生まれ。.

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川本芳昭

川本 芳昭(かわもと よしあき、1950年 - )は、日本の東洋史学者、九州大学名誉教授。 長崎県生まれ。1972年九州大学文学部東洋史学科卒、1978年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。1981年佐賀大学教養部助教授。1994年九州大学文学部助教授。1998年教授。1995年「魏晋南北朝時代の民族問題 民族間抗争と異文化受容の軌跡」で久留米大学文学博士。2016年九大を定年退任、名誉教授。.

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中国の歴史

中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)とは、中国または中国大陸における歴史のこと。 中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。 なお、その対象は、中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。.

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中国化

中国化(ちゅうごくか、英語:Chinalization)は、一つの国家または民族が言語的、文化的に中華文化に同化される、特に中華民族の根幹を成す漢民族(漢族、漢人)が周辺民族を同化及び融合する過程を指す、漢化(かんか, 英語:Sinicization, Sinicisation or Sinification)やシニサイゼーションともいう。 中国化は中国の歴史において絶え間なく発生し、中国の歴史そのものとも言える。漢族は高度な政治、経済文化、優越な地理条件、圧倒的な人口の優勢を持ち、それ故にこの民族融合の過程の中核的存在であり続けた。.

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万里の長城

万里の長城(ばんりのちょうじょう、万里长城、、Цагаан хэрэм、、満州語: 、)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。 よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。 なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。.

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三国時代 (中国)

三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指し、最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。 229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立し、中国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』及びさらに後世の三国時代を扱った書物によって広く知られている。.

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三長制

三長制(さんちょうせい)は、中国・北魏の孝文帝によって制定された村落統治制度。以降の北朝でも若干の変更はあるものの引き続き実施された。.

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三武一宗の法難

三武一宗の法難(さんぶ いっそう の ほうなん 中国語:三武之禍、拼音: sān wǔ zhī huò)とは、中国の歴代王朝が仏教を弾圧した事件のうち、とりわけ規模が大きく、また後世への影響力も大きかった4人の皇帝による廃仏事件のことである。各皇帝の廟号や諡号をとってこう呼ばれている。三武一宗の廃仏とも。.

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三教

三教(さんきょう)とは、中国において、儒教・仏教・道教の三つの宗教を指して言う用語。 廃仏事件のあった北周の時期より、使われ始める。 廃仏を断行した武帝は、その廃仏断行前から、三教談論を数次にわたって開催して、その優劣を、儒者・僧侶・道士に討議させていた。 この三教談論の慣習は、隋唐にまで受け継がれ、形式化したものではあったが、宮中で行われる風が受け継がれた。 また、北周の廃仏に関与した衛元嵩には、『斉三教論』7巻の著作があったことが、『旧唐書』「経籍志」と『新唐書』「芸文志」の子部・道家類に著録されている。但し、既に散佚しており、その逸文も見られないことから、その内容を知ることは出来ない。.

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九品官人法

九品官人法(きゅうひんかんじんほう)は、中国魏晋南北朝時代に行われた官吏登用法。三国時代の魏・文帝の220年に始められ、隋の文帝の583年に廃止され、代わって科挙が採用された。.

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府兵制

府兵制(ふへいせい)は、中国において南北朝時代の西魏から唐代まで行われた兵制。もともとは軍府に属する兵という意味で、日本史で言えば衛士や防人の制にあたる。基本的には、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという兵農一致の制度であり、現代で言えば徴兵制に近い。均田制と対をなす兵制であり、均田制の崩壊と共に崩壊した。.

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五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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代 (五胡十六国)

代(だい、拼音:)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続いた。.

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建康 (都城)

建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。 三国の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬鄴)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。.

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廃帝 (北斉)

廃帝(はいてい)は、北朝北斉の第2代皇帝。姓名は高殷(こう いん)。文宣帝高洋の長男。.

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廃帝 (西魏)

廃帝(はいてい)は、北朝西魏の第2代皇帝。姓は元、諱は欽。文帝の長男。母は孝文帝の外孫でもある皇后乙弗氏。.

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侯景

侯 景(こう けい)は、中国南北朝末期の武将。侯周(乙羽周)の孫、侯標の子、侯和の父。侯景の乱の首謀者。漢を建ててその皇帝に即位したものの、わずか在位5ヶ月で殺害された。.

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侯景の乱

侯景の乱(こうけいのらん)は、中国の南北朝時代に南朝梁で起こった反乱。.

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後主 (北斉)

後主(こうしゅ)は、北朝北斉の第5代皇帝。武成帝高湛の嫡出長男で、母は胡皇后。.

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後主 (陳)

後主(こうしゅ)は、南朝陳の第5代(最後)の皇帝。姓は陳、諱は叔宝。後世、亡国の君主として暗君の典型とされる。.

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後廃帝 (南朝宋)

後廃帝(こうはいてい)は、南朝宋の第7代皇帝(在位:472年 - 477年)。姓は劉、諱は昱(いく)。字は徳融、小字は慧震。また蒼梧王(そうごおう)とも呼ばれる。.

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後梁 (南朝)

後梁(こうりょう、ごりょう、554年 - 587年)は、中国の南北朝時代に存在した王朝。中国では、五代十国時代の後梁と区別して西梁とも呼ぶ。都は江陵。.

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北史

『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。.

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北周

北周(ほくしゅう、、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀から紀元前3世紀まで続いた周を始めとする同名の王朝と区別するために北周と呼ぶ。 君主の称号としては当初、秦以来の中国の歴代王朝が称していた「皇帝」号をやめ、「天王」を採用している。.

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北魏

北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.

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北斉

北斉(ほくせい、550年 - 577年)は、中国の南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代の斉や南朝の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。.

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ヒ水の戦い

淝水の戦い(ひすいのたたかい)は、中国の五胡十六国時代に、華北の前秦軍と江南の東晋軍とが383年に淝水(現在の安徽省寿県の南東)で激突した戦い。淝はさんずいに肥。.

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周礼

周礼(しゅらい)は、儒家が重視する経書で、十三経の一つ、『儀礼』『礼記』と共に三礼の一つである。 周公旦が書き残したものとされるが、実際には戦国時代以降に周王朝の理想的な制度について記したものと見られ、実際の金文資料や他の先秦の文献に見られる制度とは食い違いを見せている。 『十三経注疏』には、後漢の鄭玄注、唐の賈公彦疏が付けられた『周礼注疏』が収められている。.

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呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。.

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和帝 (南朝斉)

和帝(わてい)は、南朝斉(南斉)の第7代(最後の)皇帝。明帝の八男。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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六鎮の乱

六鎮の乱(りくちんのらん)は、中国北魏末期の523年(正光4年)に発生した反乱のことである。 六鎮とは、.

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六朝

六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。 呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 - 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもある。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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元帝 (南朝梁)

元帝(げんてい)は、中国の南朝梁の皇帝。姓は蕭(しょう)、名は繹(えき)。梁の武帝蕭衍の七男。.

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元嘉の治

元嘉の治(げんかのち)とは、中国の南朝初期の423年以降、宋(劉宋)の第3代皇帝文帝により行われた政治改革の事である。元嘉とは424年に即位した文帝が452年まで採用した元号である。.

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前秦

前秦(ぜんしん、、 351年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。 一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。.

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四川省

三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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王僧弁

王 僧弁(おう そうべん、生年不詳 - 555年)は、南北朝時代の南朝梁の将軍。字は君才。太原郡祁県の人。本来の表記は王僧辯。.

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王琳 (軍人)

王琳(おう りん、526年 - 573年)は、中国の南北朝時代の軍人。字は子珩。本貫は会稽郡山陰県。.

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王羲之

王羲之 王 羲之(おう ぎし、、303年 - 361年)は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。 曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南郡太守)。子に王玄之(長男)、王凝之(次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男)がいる。子孫に王楨之(徽之の子)、智永らがいる。.

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禅譲

禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.

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突厥

突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.

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簡文帝 (南朝梁)

簡文帝(かんぶんてい)は、南朝梁の第2代皇帝。姓は蕭、諱は綱。武帝蕭衍の三男。.

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献文帝

文帝(けんぶんてい)は、北朝北魏の第5代皇帝。.

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爾朱栄

朱 栄(じしゅ えい、493年 - 530年11月3日(旧暦9月25日))は、中国の北魏の軍人、部族の首長。字は天宝。契胡族の出身。.

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煬帝

帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。.

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隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.

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道武帝

道武帝(どうぶてい)は、北朝北魏の初代皇帝。姓諱は拓跋珪(たくばつ けい)。別名は渉珪、什翼圭、翼圭、開。.

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道教

道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.

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荊州

荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に置かれた。.

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荊州区

荊州区(けいしゅう-く)は中華人民共和国湖北省荊州市に位置する市轄区。 荊州区内には古代の荊州の中心都市であり三国志でも知られた江陵城(荊州古城)がある。現在残る城郭都市は1646年に改修されたものだが、中国南部でも最も保存状態の良い城郭都市の1つである。 この江陵城が近年まで江陵県の中心だったが、江陵県が1994年に沙市市と荊州地区と合併して一つの市となって以来、江陵城のある地域は荊州区となり、江陵県は旧江陵県の東部のみとなった。古代の江陵は荊州区のことであり、現在の江陵県とはあまり関係はない。.

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華南

華南地区の都市 中華民国の地方区分を表した図。水色の部分が華南。 華南(かなん、、)とは、中国南部を指す。 最も広義には淮河以南を指し、狭義では広東省・海南省・広西チワン族自治区の3省区(南嶺山脈の南、嶺南地方)を指す。また広東省・海南省・福建省の3省と、結びつきの強い香港・マカオを総称して、華南経済圏と呼ぶことがある。なお、第二次世界大戦頃まで日本では同地域を南支、南支那などの名称で呼んでいた。.

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華北

華北地域 華北(かほく、North China)とは、中国北部地域の呼称である。華北平原とは、多分に重なるが、必ずしも完全に一致しない。.

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革命

ウィリアム3世の肖像画 18世紀 ジェームズ・ワットの蒸気機関。イギリスと世界の産業革命を促進した。 1789年 フランス革命でのバスティーユ襲撃 アメリカ独立革命の指導者ジョージ・ワシントン 1911年 辛亥革命の指導者孫文 1917年 ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニン 革命(かくめい、Revolution、レボリューション)は、権力体制や組織構造の抜本的な社会変革あるいは技術革新などが、比較的に短期間に行われること。対義語は守旧、反革命など。 「レボリューション」の語源は「回転する」の意味を持つラテン語の「revolutio」で、ニコラウス・コペルニクスの科学革命で使用され、後に政治的変革に使用されるようになった。また漢語の「革命」の語源は、天命が改まるとの意味で、王朝交代に使用された。 革命は人類の歴史上、さまざまな方法や期間、動機となった思想によって発生した。その分野には文化、経済、技術、社会体制、政治体制などがある(技術革新では農業革命や産業革命、社会変革ではフランス革命やロシア革命など)。また、革命という言葉は様々な分野・概念に派生しており、何が革命で何が革命でないかの定義は、学者の間で議論が続いている。.

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静帝

静帝(せいてい)は、北朝北周の第5代皇帝。姓は宇文、諱は闡(せん)。.

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順帝 (南朝宋)

順帝(じゅんてい、469年 - 479年)は、南朝宋の末代皇帝。姓は劉、諱は準。第6代明帝の第3子で、第7代後廃帝の弟。沈約の『宋書』后妃伝では、実際には明帝の弟・桂陽王劉休範の子とする。 471年(泰始7年)、安成王に封じられる。477年(元徽5年)、兄の後廃帝が殺された後に、蕭道成によって擁立された。名目上は皇帝ではあったが、実権は斉王・相国となった蕭道成に完全に握られていた。即位後、車騎大将軍・荊州刺史の沈攸之・司徒の袁粲らが蕭道成打倒に挙兵するが、ことごとく鎮圧される。 479年(昇明3年)4月、禅譲の儀が執り行われ宋は滅び斉が建国された。その後の劉準の様子が司馬光の『資治通鑑』や李延寿の『南史』に記録されている。蕭道成の重臣である王敬則が兵を率いて宮城に現れると、劉準は宮城の中を逃げ仏像の天蓋に身を隠した。しかし、兵を畏れた太后と宦官らにより劉準は引っ張り出され神輿に乗るよう迫られる。劉準は神輿に乗せられると「私を殺すつもりか」と泣きながら尋ねた。すると王敬則は「陛下には別宮にお移り頂くだけです。劉氏が司馬氏から受禅した時のやり方にならうのです」と答えた。劉準は指を弾き「生まれ変わっても帝王の家にだけは生まれたくない(願後身世世勿復生天王家)」と言い、宮中の家臣も皆涙した。劉準は王敬則の手をたたき「もし無事にいられれば、お前に十万銭を与えよう」と言った。 禅譲後、劉準は汝陰王に封じられ丹陽宮に移された。1ヶ月後、監視の兵が馬が激しく鳴くのを聞くと、これを理由に謀叛を起こしたとされ殺された。まもなく諸侯に封じられた弟たちも、みな殺された。.

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西魏

西魏(せいぎ、、535年 - 556年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した2つの魏のうち、函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の方は東魏と呼んで区別する。 「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。 なお、東魏を継承した北斉にて編纂された正史『魏書』においては、東魏の孝静帝を北魏の歴代皇帝に加えており、文帝以降の西魏の皇帝については記述が存在しない。西魏の一部の臣下については次の北周の建国の功臣として『周書』に記載があるケースもあるが、皇帝に関しては、唐の時代に『北史』が編纂されるまで本紀が書かれることはなかった。これを補うための西魏一代を扱った歴史書としては、清代に謝蘊山によって書かれた『西魏書』がある。.

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西晋

西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.

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高長恭

長恭(こう ちょうきょう、541年 - 573年5月)は、中国の北斉の皇族。長恭は字で、諱は孝瓘、もしくは後世に残った碑文から粛とも。高澄の四男。蘭陵王(らんりょうおう)、または羅陵王(らりょうおう)の王号で知られる。.

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高歓

歓(高 歡、こう かん、496年 - 547年)は、中国の南北朝時代の北魏末から東魏にかけての権臣。北斉の基礎を築いた。字は賀六渾。本貫は渤海郡蓨県(現在の河北省景県)。.

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高澄

澄(こう ちょう、正光2年(521年) - 武定7年(549年)4月)は、東魏の権臣。字は子恵。弟の高洋が北斉を建てると、皇帝として追尊された。.

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魏晋南北朝表

魏晋南北朝表(ぎしんなんぼくちょうひょう)は中国魏晋南北朝時代の国の興亡の様子を示したものである。この表では青系統の色で示した国は漢民族が中心になって建てた国を表し、以下、赤.

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魏晋南北朝時代

魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年)。なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。.

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鮮卑

鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.

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貴族 (中国)

中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から唐末期(220年 - 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢の豪族を前身とし、魏において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑や匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む隋・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ。 貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之・謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。 貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。 この項目では特に注記の無い限り、宮崎市定『九品官人法の研究』をもとに記述する。.

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霊太后

霊太后(れいたいごう、? - 528年)は、中国・北魏の第8代皇帝である宣武帝の妃嬪であり、第9代孝明帝の実母である。姓は胡氏で、父は司徒の胡国珍。霊は諡で、夫の諡を重ねて宣武霊皇后とされた。霊太后胡氏、胡太后とも称される。宣武帝の没後、皇太后となってから北魏の実権者となったため霊太后として知られるが、帝の存命中は充華嬪であった。.

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范雲

范 雲(はん うん、451年 - 503年)は、南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。.

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蜀漢

蜀漢(しょくかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。 蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため、蜀漢と自ら名乗ったことはない『三国志』蜀志二「先主伝」。また、季漢(季は末っ子の意味)と称することもあった。.

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関中

関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。.

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蕭宝巻

蕭 宝巻(しょう ほうかん)は、南朝斉(南斉)の第6代皇帝。明帝の次男。同母弟に和帝、蕭宝寅がいる。斉の3人の廃帝の一人で東昏侯(とうこんこう)と呼ばれる。.

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蕭ケン

蕭 瓛(しょう けん、569年 - 589年)は、後梁の明帝蕭巋の三男。字は欽文。.

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蕭ソウ

蕭 琮(しょう そう)は、南朝後梁の第3代皇帝。廟号はなく、後主(こうしゅ)と呼ばれる。博学かつ弓馬の才にも長けており、馬に乗って弓を射ると十発十中、また的を持つ者も逸れることはないと安心して的を構えていたという。.

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蕭サツ

蕭 詧(しょう さつ)は、南朝後梁の初代皇帝。.

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蕭紀

蕭紀(しょう き、508年 - 553年)は、中国の南北朝時代の梁の皇族。字は世詢。梁の初代皇帝武帝の第8子、第4代皇帝元帝のすぐ下の弟。侯景の乱の最中の一時期に即位して皇帝を自称していたが(552年 - 553年)、通常は僭称扱いとされ、梁の皇帝の代数には入れない。.

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蕭統

蕭 統(しょう とう、中興元年(501年)9月 - 中大通3年4月6日(531年5月7日))は、中国南朝の梁の皇族。字は徳施。襄陽で生まれた。武帝蕭衍の長子で皇太子に立てられていたが、父に先立って死去した。昭明太子(しょうめいたいし)の諡号で知られる。母は貴嬪(側室)丁令光。廃帝豫章王蕭棟の祖父、後梁の宣帝蕭詧の父である。 3歳で『論語』『孝経』を読み、5歳で五経を全て読破したと言われる聡明な人物で、武帝の皇太子として、成人してからは国政に携わり、民衆に仁政を行った。また、文章家としても後世に知られている。 蔵書3万巻を持っていたと言われる蕭統の傍には優れた文人が集まり、それらの助けを借りて各種の名文を集めた『文選』を編纂した。 後、舟遊びの際に水に転落し、それが元で病気を発して死去した。またその蔵書も、江陵の元帝が西魏によって滅ぼされた時に灰燼に帰した。 その後、息子である蕭詧が江陵で、西魏政権の手によって後梁の天子として即位させられた時に、蕭統にも高宗昭明帝と追号された。.

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蕭銑

蕭 銑(しょう せん)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。後梁(西梁)の宣帝(蕭詧)の曾孫にあたり、自立して梁の皇帝を称したが、唐によって滅ぼされた。.

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蕭道成

蕭 道成(しょう どうせい)は、南朝斉(南斉)の初代皇帝。.

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蕭荘

蕭 荘(しょう そう)は、南朝梁の第7代(最後の)皇帝。ただし、梁はその前に陳によって簒奪されたため、梁の皇帝の代数には数えられないことが多い。蕭荘が復興した梁は南梁と通称されている。南梁は陳によって滅ぼされたため、蕭荘には皇帝としての廟号、諡号もなく、史書では王号を採って「永嘉王」と呼ばれる。.

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蕭衍

梁武帝 梁武帝真像 蕭 衍(しょう えん)は、南朝梁の初代皇帝。.

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蕭棟

蕭 棟(しょう とう)は、南朝梁の第3代皇帝。『梁書』などの正史では正規の皇帝と見なさない。豫章王蕭歓の子。初代皇帝武帝の曾孫、昭明太子蕭統の孫にあたる。.

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蕭淵明

蕭 淵明(しょう えんめい)は、南朝梁の第5代皇帝(ただし歴代皇帝として数えられないこともある)。皇帝としての諡号は閔帝(びんてい)であるが、北斉より贈られたものであることから、即位前の爵位より貞陽侯と呼ぶことも多い。.

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長江

長江(ちょうこう、中国語拼音字母: )は、青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。 その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省(市、自治区)があり、全流域の人口は4億5000万にも達している。古くから水上交易の盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。.

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苻堅

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91。 氐族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した羌族の部下姚萇に殺害された。.

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通道観

通道観(つうどうかん)とは、中国・北周の武帝が、仏教および道教を廃毀した後に設置した国立宗教研究機関的な施設である。 574年(建徳3年)5月に「仏道二教を断ずるの詔」を発した後、6月になって、「通道観設置の詔」が発令された。その詔勅の文章によれば、仏道二教廃毀以前に武帝が盛んに行わせていた儒教・仏教・道教の三教に関する優劣論争の後を受けて、「至道」の名の下に、三教の教理を研究したい旧僧道の中で優秀な者を、公費の研修員として収容するための機関であったようである。通道観には、120名(一説に300名)の学士が置かれ、儒教・仏教・道教の研究に従事した。 120人が選抜されたとされる通道観学士であるが、実際に学士に選ばれた人名は、殆ど残っていない。諸書に学士であったことが記されている人物は、.

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陝西省

陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.

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陳 (南朝)

陳(ちん、557年 - 589年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝。.

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陳霸先

陳 霸先(ちん はせん)は、南朝陳の初代皇帝。「梁上の君子」の故事で有名な潁川陳氏の陳寔の末裔に当たる。.

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陶淵明

陶 淵明(とう えんめい、365年(興寧3年)沈約『宋書』隠逸伝の記述より。ただし生年および死亡時の年齢については多くの異説がある。 - 427年(元嘉3年)11月)は、中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。.

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柔然

柔然(漢音:じゅうぜん、拼音:)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家。『魏書』,『北史』,『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』,『南斉書』,『梁書』などでは(ぜいぜい)、『周書』,『隋書』などでは茹茹(じょじょ)、『晋書』では蠕と表記される。.

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恭帝 (西魏)

恭帝(きょうてい)は、北朝西魏の第3代(最後)の皇帝。また、拓跋氏最後の皇帝でもある。元の姓諱は元廓(げん かく)、のち拓跋姓に復古して拓跋廓(たくばつ かく)。.

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東魏

東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した二つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の方は、西魏と呼んで区別する。 「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。.

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東晋

前涼・前秦・前燕と東晋。 東晋(とうしん、)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。.

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梁 (南朝)

梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。蕭梁とも呼ばれる。.

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森三樹三郎

森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - 1986年8月29日)は、中国思想研究者。 京都府生まれ。旧制・大阪府立高津中学校卒、1935年京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1950年大阪大学文学部助教授、1962年「上古より漢代に至る性命観の展開」で大阪大学文学博士。66年教授、73年定年退官、名誉教授。後に佛教大学教授。 専攻は仏教と老荘思想との関連を軸とした中国哲学史。文学博士。 『東洋学論集 森三樹三郎博士頌寿記念』(同事業会編、朋友書店、1979年)に詳しい紹介がある。.

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森鹿三

森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980年8月10日)は、日本の東洋史学者。 神戸市生まれ。1929年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。京都大学人文科学研究所教授、所長。1961年「居延漢簡の古文書学的研究」で京大文学博士。70年定年退官、名誉教授、佛教大学教授。『水経注』の訳で知られた。.

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楊堅

楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。.

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楊麗華

楊 麗華(よう れいか、561年 - 609年)は、中国北周の宣帝の皇后。後に隋の楽平公主となった。隋の文帝楊堅と皇后独孤伽羅の長女で、隋の煬帝楊広の姉である。.

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武川鎮軍閥

武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)は、中国南北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団のことである。関隴集団ともいう。 最初に、この集団に着目したのは、清朝の考証学者である趙翼であった。趙翼はその著『二十二史箚記』の巻15に「周隋唐皆出自武川」という項を立てて、この集団について正史に基づいて論証し、武川鎮は「王気」が聚まる所であると述べている。 「関隴集団」の語を用いて、更にこの貴族集団に関して論証を推し進めたのは、陳寅恪であり、『唐代政治史述論稿』(1944年)等において詳述されている。また、日本の谷川道雄も、『隋唐帝国形成史論』(1971年)等で論証している。.

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武帝 (南朝斉)

武帝(ぶてい)は、南朝斉(南斉)の第2代皇帝。姓諱は蕭賾(しょう さく)。高帝蕭道成の長男。.

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武帝 (北周)

武帝(ぶてい)は、北朝北周の第3代皇帝。姓は宇文、諱は邕(よう)。西魏の実力者宇文泰の四男。.

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武成帝

武成帝(ぶせいてい)は、北朝北斉の第4代皇帝。.

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池田温

池田 温(いけだ おん、1931年12月10日 - )は、東洋史学者、東京大学東洋文化研究所名誉教授。 静岡県出身。1954年東京大学文学部東洋史学科卒。1961年同大学院博士課程中退、文学部助手、1964年北海道大学文学部助教授、1971年東大東洋文化研究所助教授、1976年教授、1990年所長。1983年「中国古代籍帳研究」で学士院賞受賞。1992年名誉教授、北京日本学研究センター教授、1993年創価大学教授、2007年退任。専攻は中国古代・中世史。.

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河南省

河南省(かなんしょう、中国語:河南省、拼音:Hénán Shěng、英語:Henan)は、中華人民共和国の省の1つ。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である。.

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沈約

沈 約(しん やく、441年 - 513年)は、中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興郡武康県(現在の浙江省徳清県)の人。字は休文。.

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洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

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淮河

河と長江に南北を挟まれる形で流れる 淮河(わいが、)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。長さは1,078km、流域面積は174,000平方kmに及ぶ。 淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい。このため「壊河(ピンインではHuái Hé)」の異名がある。.

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湖北省

湖北省(こほくしょう、フーペイしょう、中国語:湖北省、拼音:Húběi Shěng、英語:Hubei Province)は、中華人民共和国中部地方にある第一級行政区画である。揚子江中流域に位置し、洞庭湖以北にあるため、「湖北」と言う名称がつけられた。略称は鄂、楚、荊で、荊楚とも呼ばれる。省都は武漢市である。.

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漢化政策

漢化政策(かんかせいさく)とは、北魏の孝文帝が推し進めた政策。または、漢人が占領下の異民族に強制したり、あるいは中国を征服した異民族が漢人に憧れて、もしくは利便性から漢人に近づけるために、配下の異民族の習俗を漢人のものに合わせようとする政策を指す(主に須卜氏の卜氏、独孤氏の劉氏、是楼氏の高氏、乙羽氏の侯氏など)。 台湾においては、清国は高砂族などの原住民支配のため、税金、労役の軽減を条件に原住民に中国の言語を使わせ、漢化した者には漢人名と漢人の家系図を作って下賜し、漢民族意識を植え付けたとされる。.

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漢民族

漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。 中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。.

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明帝 (南朝宋)

明帝(めいてい)は、南朝宋の第6代皇帝。姓は劉、名は彧。字は休炳、小字は栄期。.

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明帝 (南朝斉)

明帝(めいてい)は、南朝斉(南斉)の第5代皇帝。姓は蕭、諱は鸞(らん)。高帝蕭道成の兄蕭道生の次男。.

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明帝 (北周)

明帝(めいてい)は、北朝北周の第2代皇帝。姓は宇文、諱は毓(いく)。.

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文宣帝

文宣帝(ぶんせんてい)は、北朝北斉の初代皇帝。姓は高、諱は洋。渤海郡蓨県(現在の河北省景県)の人。.

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文帝 (南朝宋)

文帝(ぶんてい)は、南朝宋の第3代皇帝。皇帝を廃されて殺された少帝(劉義符)の弟に当たる。.

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文帝 (西魏)

文帝(ぶんてい)は、北朝西魏の初代皇帝。北魏の京兆王元愉の三男。.

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文帝 (陳)

文帝(ぶんてい)は、南朝陳の第2代皇帝。初代皇帝・武帝(陳霸先)の甥。姓は陳、諱は蒨。側近の韓子高と男色関係にあったことで知られている。.

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文選 (書物)

『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。.

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文成文明皇后

文成文明皇后(ぶんせいぶんめいこうごう、442年 - 490年9月)は、北魏の文成帝の皇后。馮太后(ふうたいごう)と称されることが多い。.

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斉 (南朝)

斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。.

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斛律光

斛律 光(こくりつ こう、515年 - 572年)は、中国の北斉の武将。北斉の重鎮として国を支え続けていたが、後主によって粛清された。字は明月。朔州勅勒部の出身。.

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敬帝 (南朝梁)

敬帝(けいてい)は、南朝梁の第6代皇帝。姓は蕭、諱は方智(ほうち)。元帝蕭繹の九男。.

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拓跋部

拓跋部(たくばつぶ、)は、鮮卑族の一部族で、華北に北魏などの王朝を建てた。托跋部、索頭部、索虜などとも表記される。.

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386年

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420年

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439年

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450年

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453年

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466年

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479年

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490年

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493年

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500年

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502年

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523年

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528年

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534年

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535年

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547年

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550年

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551年

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554年

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556年

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557年

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566年

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572年

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621年

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