198 関係: 劉コン、劉タン、劉表、十八史略、司州、司馬孚、司馬懿、司馬晞、合肥市、大司馬、天皇陵、太宰、太守、太尉、妓女、姚襄、姚興、孝子、孝武帝 (東晋)、孫盛、孫権、宣城郡、安徽省、寿県、尼、山陽郡、上洛郡、丞相、中原、中国の書家一覧、常山郡、丹陽郡 (江蘇省)、丹江口市、七星、世説新語、三崎良章、乞活、九錫、平陽郡、庚戌、広陵区、五胡、井波律子、廷尉、建康 (都城)、廃帝 (東晋)、仕込み刀、伊尹、張コウ (前秦)、彭山区、...、何充、侍中、徐州、後秦、後趙、後漢、土断、北伐、ユ翼、刺史、周公旦、呂護、エン州、ギョウ、ケン為郡、ケイ県、ショウ郡、スイ県、儒学者、前秦、前燕、四川省、石虎、石橋、王坦之、王導、王ガイ (東晋)、王猛、王衍 (西晋)、王敦、王敦の乱、琅邪郡、社稷、禅譲、穆帝 (東晋)、竹馬、簡文帝 (東晋)、羅含、習鑿歯、県令、男色、焦土作戦、相、白石、遺詔、道教、荊州、荊州区、青州 (山東省)、順陽郡、衣冠、袁宏、袁喬、西陽郡、西晋、襄州区、許昌市、諡、諸侯王、諸葛亮、謝安、講談社、魏 (三国)、豫州、資治通鑑、軍人、輿、輜重、霍光、蘇峻の乱、関中、鄂城区、臨淮郡、金郷県、腸、苻健、苻堅、苻生、苻菁、苻雄、虎牢関、陳留郡、捜神記、揚州 (古代)、李弘 (五胡)、李勢、東晋、桓伊、桓玄、桓楚、桓沖、梁州、梁郡、殷浩、江夏郡、河南郡、泗河、洛陽市、淮安区、淮河、淅川県、温キョウ、済水、潁川郡、朝廷、成漢、明帝 (東晋)、族誅、旱魃、摂政、政治家、懐遠県、慕容イ、曹操、晋寿郡、晋陵郡、晋書、10月、11月、2月、312年、328年、331年、335年、343年、345年、346年、347年、348年、351年、352年、353年、354年、356年、360年、362年、363年、364年、365年、368年、369年、370年、371年、372年、373年、3月、403年、7月。 インデックスを展開 (148 もっと) »
劉コン
劉 琨(りゅう こん 271年 - 318年5月8日(6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。漢の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬顒討伐に大きく貢献し、永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。.
劉タン
劉惔(りゅう たん、生没年不詳)は、中国の東晋の官員。字は真長。本貫は沛国相県。.
劉表
劉 表(りゅう ひょう、漢安元年(142年) - 建安13年(208年)8月)は、中国後漢末期の政治家・儒学者。字は景升(けいしょう)。兗州山陽郡高平県の人。前漢の景帝の第4子の魯恭王劉余の第6子の郁桹侯劉驕の子孫。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠した。.
十八史略
『十八史略』(じゅうはっしりゃく)は、南宋の曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。.
司州
司州(ししゅう)は、中国・魏晋南北朝時代に都が置かれた地及びその周辺数郡の行政を監督した司州牧の管掌地域である。 漢代の司隷校尉部(司隷)に相当する。司隷は、後漢以来、監察地域が行政区画に変容して、当時の都である洛陽が、司隷校尉の駐留地に固定された。司州が、その通称として用いられ始めるのは、魏の時代である。 正式名称として、司州の名が用いられるようになったのは、西晋の太康元年(280年)のことである。永嘉の乱以後、西晋が瓦解すると、東晋では、合肥・滎陽・襄陽の各地に設置された。 南朝の宋・梁代には、信陽に置かれた。 一方の北朝の諸王朝では、各国の都に置かれた。後趙・石勒の治世には襄国であったが、石虎代には鄴に移された。北魏では最初は平城にあったが、孝文帝代に洛陽に移った。東魏・北斉の時代は、再び鄴に置かれた。.
司馬孚
司馬 孚(しば ふ、180年 - 272年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家で、西晋の皇族。字は叔達。諡は献。司馬朗・司馬懿の弟で、司馬防の第3子。.
司馬懿
司馬 懿(しば い、179年 - 251年9月7日)は、後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。.
司馬晞
司馬 晞(しば き、316年 - 381年)は、中国の東晋の皇族。武陵威王。字は道叔。.
合肥市
合肥市(ごうひし、がっぴし、合肥市、)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市。安徽省の省人民政府が置かれる省都で、地域の政治・経済・文化の中心である。合肥の日本語読みについては、「ごうひ」が一般的であるが、三国志関連では「がっぴ」と読まれる傾向にある。.
大司馬
大司馬(だいしば)は、中国の官職の一つで、主に軍事を取り仕切る、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職がもうけられる場合もあった。 周(春秋戦国時代)代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。 秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。 前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。恵帝の6年(紀元前189年)に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の建元2年(紀元前139年)に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の建元4年(紀元前119年)に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。宣帝の地節2年(紀元前68年)に、大司馬大将軍霍光が亡くなると、宣帝はその子霍禹を単に大司馬とし、将軍号を削って兵権を奪った。この時のみ大司馬には兵権が無かった。その後も三公での順位や将軍号の有無の変遷があったが、大司馬の職位は続いた。 新の王莽を打倒した更始帝も大司馬を置き、劉秀は当初、兼務の行大司馬として河北に渡った。劉秀が皇帝に即位すると、また大司馬を置き、呉漢が任じられた。 後漢の建武27年(51年)に太尉に置き換わった。 魏晋には、太尉と並立しながらも三公より格上の職として復活し、曹仁などの大物が就任した。.
天皇陵
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.
太宰
太宰(たいさい、だざい).
太守
太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.
太尉
太尉(たいい)とは、古代中国における官職名で、今風に言えば、軍事担当宰相であり、防衛大臣、国防長官、国防大臣などに相当する。主に文官が任命された。 秦及び前漢では三公の一つとして重要な役職であったが、『史記』や『漢書』を見る限りでは、丞相や御史大夫と違い、常設されなかったようである。他の三公同様、自らの府を開いて(開府)属官を任命することが許されていた。 武帝の建元2年に廃止された。『漢書』百官公卿表上によれば、その後は大司馬を冠した将軍が太尉に相当したようである。また、『漢書』黄覇伝によれば、太尉を廃止した後、武を休め文を興すためにその職務は丞相が兼ねるようにした、とされている。 後漢の建武27年、大司馬が太尉と改称され、太尉は再び三公の一つとなった。魏もこれを継承し、賈詡・鍾繇らが就任した。.
妓女
妓女(ぎじょ)は、中国における遊女もしくは芸妓のこと。娼妓、娼女という呼称もある。歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持つこともあった。娼婦を指すこともある。.
姚襄
姚 襄(よう じょう、331年 - 357年5月)は、五胡十六国時代の羌族の部族長。字は景国。姚弋仲の三男で、後秦の創建者姚萇の兄。355年4月 - 357年5月自立し、大将軍・大単于を称した。.
姚興
姚 興(よう こう)は、五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。羌の出身で、姚萇の子。諡号は文桓皇帝だが、在位のほとんどは皇帝ではなく天王を名乗った。 姚興は前秦の残党勢力を滅ぼし、一時的に西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀を形式上は従えて華北の西部に巨大な勢力を築き上げた。姚興の没後の後秦は、赫連勃勃の独立や皇位をめぐる親族の争いにより実質的に滅んだ。姚興は熱心な仏教徒であり、仏教が中国において国の支援を受けたのは姚興の後秦が初めてである。401年、後涼で暮らしていた仏僧の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を常安(長安)に迎え入れた。.
孝子
孝子(こうし)とは、父母によく仕える子供のこと。 中国では儒教において「孝」は最も重要視された徳目の1つであり、古代より顕彰の対象とされた。 日本でも儒教の影響を受けて、律令法に孝子を顕彰する規定が定められた。すなわち、賦役令では孝子・順孫・義夫・節婦の聞こえがある者を太政官に報告し、天皇へ奏聞を行い、その家の門前か所属する里の入口に孝状を掲げてその人物と同一戸の全ての公民に対する全ての課役を免除した。 また戸令には国守巡行の際に好学・篤道・孝悌・忠信・清白・異行の行いのある者を見出して中央に推挙することを義務付けている。『続日本紀』にはこれらの規定に基づく措置の記事が見られるが、宗族を主体とした中国的な家族制度を持たない日本において孝子の概念がどこまで正確に理解されていたか不明な側面もある。 江戸時代には領主により孝子に対する褒賞も行われている。 明治8年(1875年)7月10日に内務省が出した第121号布達「孝子貞婦義僕奇特ノ者賞與常例」にあるように、明治政府でも孝子などに対する褒賞が続けられた。 また『官報 第1158號 昭和5年(1930年)11月7日』に「孝子表彰 孝子順孫ニシテ 其徳行 卓絶シ衆庶ノ模範タルヘキ者トシテ 去月三十日文部大臣ヨリ表彰シタル者左ノ如シ(文部省)」とあり、昭和5年(1930年)10月30日に田中隆三文部大臣が「孝子表彰」した人々の住所氏名が列挙されており、昭和時代にも文部省によって孝子への褒賞が行われていたことが分かる。.
孝武帝 (東晋)
孝武帝(こうぶてい)は、東晋の第9代皇帝。簡文帝の第6子。司馬氏、諱は曜。字は昌明。.
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孫盛
孫 盛(そん せい、302年 - 373年)は、魏晋南北朝時代の歴史家、武将、政治家。字は安国。太原郡中都の人。曹魏の重臣である孫資の玄孫。曾祖父は孫宏、祖父は西晋に仕えた孫楚。父は孫洵。子に孫潜、孫放。孫に孫秉。曾孫に孫康。『晋書』に伝がある。 東晋に仕え、庾亮、桓温らの下で活躍した。また、『三国志』の注に引かれた『魏氏春秋』や『晋陽秋』など、歴史家として多くの著作を残した。.
孫権
孫 権(そん けん)は、三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。なおよく並べられる曹操・劉備とは(父孫堅が同世代なので)およそ1世代下にあたる。.
宣城郡
宣城郡(せんじょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から唐代にかけて、現在の安徽省南部に設置された。.
安徽省
安徽省(あんきしょう、アンホイしょう、中国語:安徽省、拼音:Ānhuī Shěng、英語:Anhui)は、中華人民共和国の省。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。.
寿県
寿県(じゅけん)は中華人民共和国安徽省淮南市に位置する県。 安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、壽春、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。.
尼
尼(あま)、または尼僧(にそう)とは、20歳以上の未婚、もしくは結婚経験があっても沙弥尼(しゃみに)の期間を経て出家した女性のこと。比丘尼(びくに)とも呼ばれる。キリスト教の修道女(en:Nun)も尼と称することがある。 女性が髪を肩のあたりで切ることやその髪型を尼削ぎ(あまそぎ)というが、そのような髪形の童女を尼という場合がある。また近世以降少女または女性を卑しめて呼ぶときにも尼という語を用いた。.
山陽郡
山陽郡(さんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から三国時代にかけて、現在の山東省西部に設置された。.
上洛郡
上洛郡(じょうらく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から唐代にかけて、現在の陝西省商洛市一帯に設置された。.
丞相
丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.
中原
中原 冬の華北平原 中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった。 古代でいわゆる「中国」や「中州」、「中土」と同義で、異民族から隔てられる文明の中心地という意味があった。その後、南方へと発展していった漢民族にとって中原は民族の発祥の地とされてきた。また周王のいたこの地域は権力の象徴とみられることがあり、天下を取るために争うことを「中原に鹿を逐う」という成語が生まれた。 中国の大衆小説である武侠小説の世界においては、武林の覇権を争う場、もしくは世界の中心となる場、という意味で用いられることがある。 Category:中国の地域 Category:中国の歴史的地域 Category:中国の別名.
中国の書家一覧
中国の書家一覧(ちゅうごくのしょかいちらん)は、中国の能書家を時代別に分類した一覧である。現存する書家は掲載しない。.
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常山郡
常山郡(じょうざんぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の河北省石家荘市一帯に設置された。.
丹陽郡 (江蘇省)
丹陽郡(たんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。丹楊郡とも書かれる。漢代から唐代にかけて、現在の江蘇省の長江以南に設置された。.
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丹江口市
丹江口市(たんこうこう-し)は中華人民共和国湖北省十堰市に位置する県級市。古くより三陽(鄖陽、襄陽、南陽)を連絡する交通の要衝とされている。.
七星
七星(しちせい、しちしょう、チルソン).
世説新語
『世説新語』(せせつ しんご)とは、中国南北朝の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集。今日『四部叢刊』に収めるものは上中下三巻に分かつが、テクストによってその巻数は二、三、八、十、十一等の異同がある。『隋書』「経籍志」によれば、もとは単に『世説』と称したようであるが、『宋史』「芸文志」に至ってはじめて『世説新語』の称が現れた。『世説新書』とも呼ばれる。.
三崎良章
三崎 良章 (みさき よしあき、1954年 - )は、日本の歴史学者、教員。東アジア史専攻。埼玉県深谷市出身。.
乞活
乞活(きつかつ)は、西晋から五胡十六国時代にかけて、黄河一帯で活動していた漢民族の武装流民集団。.
九錫
九錫(きゅうしゃく)とは、中国漢朝、晋朝、南北朝時代等で皇帝より臣下に下賜された、9種類の最高の恩賞。錫は賜に通じる。前漢で王莽に下賜された「九命の錫」が原型とされている。.
平陽郡
平陽郡(へいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の山西省南西部に設置された。.
庚戌
庚戌(かのえいぬ、こうじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの47番目で、前は己酉、次は辛亥である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の戌は陽の土で、相生(土生金)である。.
広陵区
広陵区(こうりょう-く)は中国江蘇省の揚州市に位置する市轄区。.
五胡
五胡(ごこ)は、中国の3~4世紀に、北方や西方から中国に移住した匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族(少数民族)を指す。これらの部族が五胡十六国時代に次々と中国北部を中心に国家を建てた晋代ごろから使われ始めた三崎、章2.2「『五胡』」P31-37。 五胡十六国時代に国を建てた少数民族はこの5つ以外にもおり、五という数字に実数の意味はない。五胡が匈奴・鮮卑・羯・氐・羌を指すことが一般化したのは十三世紀ごろである可能性が高い。また、この5つの民族のみでなく3~4世紀ごろに移住した少数民族の総称として使用されることもある。.
井波律子
井波 律子(いなみ りつこ、1944年2月11日 - )は、日本の中国文学研究者。『三国志』の研究や『三国志演義』の翻訳などで知られる。国際日本文化研究センター名誉教授。紫式部文学賞選考委員。.
廷尉
廷尉(ていい)とは、中国の官名である。九卿の1つ。日本の検非違使の唐名にもあたる。.
建康 (都城)
建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。 三国の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬鄴)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。.
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廃帝 (東晋)
廃帝(はいてい)または海西公(かいせいこう)は、東晋の第7代皇帝。第3代皇帝成帝の次男。諱は奕、字は延齢。.
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仕込み刀
竹の杖を模した仕込み刀 仕込み刀(しこみがたな)は、隠し武器(暗器)の一種である。広義では日本刀にも分類される。.
伊尹
伊尹 (いいん) は、夏末期から殷 (商) 初期にかけての政治家。商の成立に大きな役割を果たした。諱は摯(し)。.
張コウ (前秦)
張 蚝(ちょう こう、生没年不詳)は、五胡十六国時代の前秦の武将である。上党郡泫氏県(山西省高平市)の人。本姓は弓氏である。鄧羌と共に「万人の敵」と恐れられた。.
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彭山区
彭山区(ほうさん-く)は中華人民共和国四川省眉山市に位置する市轄区。.
何充
何 充(か じゅう、292年 - 346年2月21日)は、中国東晋の政治家・武将。字は次道。廬江郡灊県(現在の安徽省六安市霍山県)の出身。魏の光禄大夫何楨の曾孫。西晋の豫州刺史何惲の孫。西晋の安豊郡太守何叡の子。.
侍中
侍中(じちゅう)とは、侍中府の官職の1つで、皇帝の側近で皇帝の質問に備え、身辺に侍する役職である - goo国語辞書。 中国においては秦代に始まり、丞相の属官として殿中の奏事を司り、漢代に入ると加官(本職の他の兼任専用の役職)となって皇帝の乗輿・服飾をも扱った。漢から魏にかけて荀彧が守尚書令に侍中を兼ね、続いて太尉司馬懿と大将軍曹爽が侍中を兼ねている。 魏以後は、専任の侍中も設置され、概して4名が置かれた。枢機に参与する重職となった。南朝の梁や北朝の北魏では、宰相と同等の官となった。 隋代には納言と改称されたが、唐代に旧に復した。唐以後は門下省の長官を兼ねて2名が任命され、事実上の丞相となる。だが、時代の変遷に伴って、その権限は縮小された。門下省は貴族勢力の権益を代表して皇帝権と対抗する部局であったが、唐の中期以降は帝権が強まるにつれて門下省の権威は低下し、中書省に吸収されるに至る。 宋代に侍中の官名は復したが、それは実務を伴った官職ではなく、元代以後には廃止された。 日本では蔵人の唐名として用いられる。.
徐州
徐州(じょしゅう、)は、中国の行政区分の一つ。.
後秦
後秦(こうしん、384年 - 417年)は、中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦(ようしん)とも呼ばれる。.
後趙
後趙(こうちょう、ごちょう、、319年 - 351年)は、中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単に趙(ちょう)であるが、同時代に劉淵によって建てられた同じく国号を趙とする国があるために、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別する。また、石氏の王朝のために石趙(せきちょう)とも呼ばれる。.
後漢
後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.
土断
土断(どだん)とは、五胡十六国時代の東晋、南北朝時代の宋で行われた戸籍登録法。現住地で戸籍に登録し、課税する戸籍登録法を指す。.
北伐
北伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。.
ユ翼
庾 翼(ゆ よく、305年 - 345年8月16日)は、中国東晋の政治家・武将・書家。字は稚恭。潁川鄢陵(現在の河南省鄢陵県)の出身。庾琛の子、庾亮、庾冰の弟。庾方之、庾爰之の父。小庾、庾征西、庾小征西とも。.
刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.
周公旦
周公旦(しゅうこう たん)は、中国周王朝の政治家。姓は姫、諱は旦。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。.
呂護
呂 護(りょ ご、? - 362年)は、五胡十六国時代の人物。.
エン州
兗州(えんしゅう)は中国にかつて存在した州。 初出は『尚書』禹貢篇で、九州のひとつに挙げられた。黄河と済水のあいだの地であり、黄河の九の支流が集まって雷夏沢を形成したとされる。 前漢のとき、兗州刺史部が置かれ、東郡・陳留郡・山陽郡・済陰郡・泰山郡・城陽国・淮陽国・東平国を管轄した。 後漢の兗州は、陳留郡・東郡・東平郡・任城郡・泰山郡・済北郡・山陽郡・済陰郡を管轄した。 西晋の兗州は、陳留国・濮陽国・済陰郡・高平国・任城国・東平国・済北国・泰山郡を管轄した。 北魏の兗州は、泰山郡・魯郡・高平郡・任城郡・東平郡・東陽平郡を管轄した。南朝では南兗州が僑置された。 隋のとき、589年(開皇9年)に汴州及び曹州の一部に設置された杞州を前身とし、596年(開皇16年)に滑州と改称された。607年(大業3年)、郡制施行に伴い滑州は東郡と改称され、下部に9県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては下図を参照。 唐は622年(武徳5年)に徐円朗を平定すると、魯郡を兗州と改めた。742年(天宝元年)、兗州は魯郡と改称された。758年(乾元元年)、魯郡は兗州と再び改称された。.
ギョウ
鄴(ぎょう、業におおざと)は中国の歴史的地名。後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉の各王朝の都となった。大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県にあたり、河南省安陽市にまたがっている。.
ケン為郡
犍為郡(けんい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋代にかけて、現在の貴州省および雲南省東部と四川省南部にまたがる地域に設置された。.
ケイ県
涇県(けい-けん)は中華人民共和国安徽省宣城市に位置する県。.
ショウ郡
譙郡(しょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の河南省東部と安徽省北部にまたがる地域に設置された。.
スイ県
(すい-けん)は中華人民共和国河南省商丘市に位置する県。.
儒学者
儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.
前秦
前秦(ぜんしん、、 351年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。 一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。.
前燕
前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。.
四川省
三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.
石虎
石 虎(せき こ)は、五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父である李虎の諱を避けるため、字の季龍を用いて石季龍と記されている。石勒(後趙の初代皇帝・明帝)の従子(甥もしくは1世代下の親族)であり、石勒の没後、石弘から帝位を奪って皇帝になった。 石虎は将として有能だったことから石勒に信頼され、後趙の華北周辺の平定に多大な貢献をした。しかし同時にその暴虐さでも知られ、後趙の天王を称した際には非道な法律、重い税金と労働を課し、それを大宮殿を建てたり妾を集めることに費やした。その没後は、子の石祗らと養孫の冉閔が後継争いを繰り広げ、後趙の崩壊を早めた。.
石橋
石橋(いしばし、いしはし).
王坦之
王坦之(おう たんし、330年 - 375年)は、中国の東晋の官僚・政治家。字は文度。本貫は太原郡晋陽県。.
王導
王 導(おう どう、276年 - 339年)は、中国の晋代の政治家。字は茂弘。西晋及び東晋に仕え、彼の働きによって琅邪王氏は六朝時代の南朝を代表する名門貴族となった。王覧の孫で王裁の子。王悦、王恬、王洽、王協、王劭、王薈などの父。東晋の大将軍王敦は従兄、書家の王羲之は従甥に当たる。.
王ガイ (東晋)
王愷(おう がい、生没年不詳)は、中国の東晋の官僚。字は茂仁。本貫は太原郡晋陽県。.
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王猛
王 猛(おう もう、325年 - 375年)は五胡十六国時代前秦の宰相。字は景略。北海郡劇県(現在の山東省濰坊市昌楽県)の出身。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で、華北統一に貢献した。.
王衍 (西晋)
王 衍(おう えん、256年 - 311年4月)は、中国西晋の政治家・武将。字は夷甫。琅邪郡臨沂県の出身。父は平北将軍王乂。子は王玄。族弟に王敦と王導。従兄に竹林の七賢で有名な王戎、弟に王澄と王詡がいる。.
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王敦
王 敦(おう とん、266年 - 324年)は、中国の五胡十六国時代の軍人。字は処仲、琅邪郡臨沂の人。琅邪王司馬睿(後の元帝)を擁立し、従弟の王導と共に東晋を建国した。武力に優れ、人望があり、機略に富んでいたとされる。また、書家の王羲之は従甥に当たる。父は王基、兄は王含、甥は王瑜と後に養子になる王應ら。.
王敦の乱
王敦の乱(おうとんのらん)は、322年から324年にかけて中国東晋で起こった内乱である。.
琅邪郡
琅邪郡(琅琊郡、瑯邪郡、瑯琊郡、琅玡郡、ろうや-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域に設置された。.
社稷
#社稷(しゃしょく)とは、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。天壇・地壇や宗廟などとともに、中国の国家祭祀の中枢を担う。本項で記述。.
禅譲
禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.
穆帝 (東晋)
帝(ぼくてい)は、東晋の第5代皇帝。諱は聃、字は彭子。2歳で即位したため、在位の17年間を太后の褚蒜子が執政し、何充や司馬昱等が補佐した。桓温等の政治家の活躍によりその治世は領土の拡大に特徴づけられる。.
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竹馬
竹馬(たけうま)とは遊具の一つ。2本の棒それぞれに足場を縄紐で括り付け、爪先が棒に当たる様に足場に乗り、棒を掴んでいる手と足を共に動かして歩行する。.
簡文帝 (東晋)
簡文帝(かんぶんてい)は、東晋の第8代皇帝。初代皇帝元帝の末子、諱は昱、字は道萬。.
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羅含
羅含(ら がん、生没年不詳)は、中国の晋代の文人・官僚。字は君章。本貫は桂陽郡耒陽県。.
習鑿歯
習 鑿歯(しゅう さくし、生没年不詳)は、東晋の人。字は彦威。襄陽の人。『襄陽耆旧記』(『襄陽記』)や『漢晋春秋』の著者として知られる。.
県令
令(けんれい)は、.
男色
男色(なんしょく、だんしょく)とは、男性同士の性愛(男性同性愛)を指す言葉である。女色(男性の異性愛)の対語に相当する。発音は異なるが中国伝来の言葉であり、朝鮮半島でも用いられる。日本に入ってきてからは寺院や武家社会、歌舞伎の世界などで独自に発展を遂げた(衆道参照)。.
焦土作戦
土作戦(しょうどさくせん)とは、戦争等において、防御側が、攻撃側に奪われる地域の利用価値のある建物・施設や食料を焼き払い、その地の生活に不可欠なインフラストラクチャーの利用価値をなくして攻撃側に利便性を残さない、つまり自国領土に侵攻する敵軍に食料・燃料の補給・休養等の現地調達を不可能とする戦術及び戦略の一種である。 なお、攻撃軍が退却に際し、追撃を遅らせるために鉄道施設や補給施設を破壊する場合も焦土作戦に含まれる。.
相
*木と目をあわせた会意文字。目が木に向かい合う事から、よく見て調べる事を意味する。また向かい合う事から、「互いに」「助ける」という意味を生じた。.
白石
白石(しろいし、しらいし、はくせき).
遺詔
遺詔(ゆいしょう/いしょう/ゆいじょう/いじょう)は、天皇または上皇が、生前に死後のことについて指示した詔。.
道教
道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.
荊州
荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に置かれた。.
荊州区
荊州区(けいしゅう-く)は中華人民共和国湖北省荊州市に位置する市轄区。 荊州区内には古代の荊州の中心都市であり三国志でも知られた江陵城(荊州古城)がある。現在残る城郭都市は1646年に改修されたものだが、中国南部でも最も保存状態の良い城郭都市の1つである。 この江陵城が近年まで江陵県の中心だったが、江陵県が1994年に沙市市と荊州地区と合併して一つの市となって以来、江陵城のある地域は荊州区となり、江陵県は旧江陵県の東部のみとなった。古代の江陵は荊州区のことであり、現在の江陵県とはあまり関係はない。.
青州 (山東省)
青州(せいしゅう)は、中国にかつて存在した州。.
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順陽郡
順陽郡(じゅんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から隋初にかけて、現在の河南省南陽市および湖北省襄陽市にまたがる地域に設置された。.
衣冠
指貫 衣冠(いかん)は平安時代以降の貴族や官人の宮中での勤務服。.
袁宏
袁宏(えん こう、328年頃 - 376年頃)は、中国の東晋の文人・歴史家。『後漢紀』の編纂者として知られる。字は彦伯。本貫は陳郡陽夏県。.
袁喬
袁喬(えん きょう、Yuan Qiao、生没年不詳)は、中国の東晋の官僚・軍人。字は彦叔。本貫は陳郡陽夏県。.
西陽郡
西陽郡(せいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から隋初にかけて、現在の湖北省黄岡市一帯に設置された。.
西晋
西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.
襄州区
襄州区(じょうしゅう-く)は中華人民共和国湖北省襄陽市に位置する市轄区。古くから交通の要衝等の重要拠点として大きな都市が形成されていた。2010年12月、襄樊市が襄陽市に改名され、それに伴い襄陽区が襄州区に改名された。.
許昌市
許昌市(きょしょうし)は、中華人民共和国河南省に位置する地級市。.
諡
諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.
諸侯王
諸侯王(しょこうおう)は、中国において皇帝によって封じられた王号を持つ諸侯・貴族を指す歴史用語である。.
諸葛亮
諸葛 亮(しょかつ りょう、、181年 - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は。 司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。.
謝安
謝 安(しゃ あん、Xiè Ān、320年 - 385年)は、中国東晋の政治家。字は安石。高家、陳郡謝家の出身。桓温の簒奪の阻止、淝水の戦いの戦勝など、東晋の危機を幾度となく救った。謝裒の三男で謝奕、謝拠の弟、謝万、謝石、謝鉄の兄。謝尚の従弟。子に謝琰。.
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.
魏 (三国)
魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.
豫州
豫州(よしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。ここでは旧字体で豫州と表記するが、常用漢字の表記に従った現代文では予州とするのが正しい。現代の河南省は「豫」を略称としている。.
資治通鑑
『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.
軍人
大日本帝国陸軍の軍人と軍旗1931年(昭和6年) 軍人(ぐんじん)は、当該国家の正規の軍事組織に所属し、正規の軍事訓練を受け、国家により認められた階級を与えられた者を指す。軍人は国際法上交戦権として、敵対勢力を破壊する権利を持つ。また敵対勢力に投降した場合には、捕虜として基本的人権が保障されている。 文民や民間人の対義語として用いられ、軍人としての籍のことを兵籍・軍籍などといい、軍人としての履歴を軍歴という。軍属は原則として、文官(雇員・傭人等を含む。)であり軍人とは異なる。また、武官は軍人のうち、官吏でもある職業軍人を指し、徴兵された者は含まない。英語ではsoldierは通常陸軍軍人のみを指し、海軍、空軍、海兵隊の軍人はそれぞれseaman(またはsailor)、airman、marineという。全軍の軍人の総称としてはMilitary personnel、ラテン語ではmiles(ミーレス)という。 なお、自衛隊は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた日本国憲法第九条に従い、自衛のための必要最低限の実力組織と定義されているが、中山太郎外務大臣が国会答弁で「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の厳しい制約を課せられております。通常の観念で考えられます軍隊ではありませんが、国際法上は軍隊として取り扱われておりまして、自衛官は軍隊の構成員に該当いたします」と述べているように、諸外国における軍人にあたる自衛官は国際法上は軍隊の構成員(軍人)と扱われるとされる。.
輿
輿(こし、litter)とは、人を乗せ人力で持ち上げて運ぶ乗り物のこと。.
輜重
輜重(しちょう)は、軍隊で、前線に輸送、補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称のこと。.
霍光
霍光(三才図会より) 霍 光(かく こう、? - 紀元前68年、Huò Guāng)は、前漢の政治家。昭帝・宣帝の2代を補佐し政治を取り仕切った。霍仲孺の子で霍去病の異母弟、霍禹の父、上官皇后の祖父。字は子孟。.
蘇峻の乱
蘇峻の乱(そしゅんのらん)は、327年から329年にかけて中国東晋で歴陽内史蘇峻が起こした反乱。.
関中
関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。.
鄂城区
鄂城区(がくじょう-く)は中華人民共和国湖北省鄂州市に位置する市轄区。.
臨淮郡
臨淮郡(りんわい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の江蘇省宿遷市および淮安市一帯に設置された。.
金郷県
金郷県(きんきょう-けん)は中華人民共和国山東省済寧市に位置する県。中国国内最大のニンニクの産地で、海外に多く輸出されている。.
腸
腸(ちょう、intestines)は、食物が胃で溶かされた後、その中の栄養や水分を吸収する器官。末端は肛門であり、消化された食物は便となり、排便により体外へと排出される。腸の構造は動物によって異なり、摂取する食物による違いが大きい。.
苻健
苻 健(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の初代皇帝。.
苻堅
苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91。 氐族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した羌族の部下姚萇に殺害された。.
苻生
苻 生(ふ せい)は、五胡十六国時代の前秦の第2代皇帝である。苻洪の孫で初代皇帝苻健(高祖・景明帝)の第3子である。次兄は夭折したという。諡は厲。ただし、死の直前において王に貶降されているため、諡号としては「厲王」となる。.
苻菁
苻 菁(ふ せい、生年不詳 - 357年)は、五胡十六国時代の前秦の皇族で、初代皇帝の苻健の甥(長兄の子)に当たる。兄に苻莄眉、弟に苻重・苻洛らがいる。 伯父の高祖(苻健)の指示で将軍として、敵対した蜀の杜洪を討伐すべく、蜀の各要塞を占領した。 やがて伯父が即位して、高祖と称し前秦を建国すると、彼は衛大将軍・平昌公(後に王に昇格する)に封じられた。 今度は、東晋の桓温と激戦し、これを撃退した。この功績で、太尉・尚書令に昇格した。 だが、高祖の第三子の越王・苻生が即位すると、これを不満に感じて、兄の苻莄眉と共に厲王を殺害する計画を目論んだ。そして、兄を帝位に就かせようとした。だが、357年に部下の密告でこの計画が洩れて、彼は兄と共にかえって厲王(苻生)に誅殺されたという。 せい Category:刑死した人物 Category:生年不明 Category:357年没.
苻雄
苻 雄(ふ ゆう、Fú Xióng 生没年不詳)は、五胡十六国時代の前秦の皇族で、前秦の創始者の苻洪の末子である。字は元才。諡号は魏敬武王。また第3代皇帝の苻堅(天王)の父でもある。.
虎牢関
虎牢関(ころうかん)は唐の時代に現在の河南省鄭州市の西北に置かれた関所のひとつ。『虎牢』という地名は西周の穆王がこの地で虎を飼っていたことに由来する。戦国時代に秦によって、この地に要塞が置かれたとされる。この地は険しく防衛に適していたため、歴代王朝はこの地に防衛施設を建設した。また、防衛の要所であったため、古より数々の戦いの舞台となった。また唐代においては、唐太祖の祖父である李虎の諱を避けてとも称された。 『三国志演義』では、191年に袁紹率いる反董卓連合と董卓軍の間で行なわれた虎牢関の戦いが有名であるが、正史における最古の関所の記事は『新唐書』であり、後漢時代には関所ではなく要塞が置かれていたようである。 なお、虎牢関はとも呼ばれる。三国志演義では虎牢関と汜水関は別々の地名として出てくるが、この2つは同一の場所に設置された関所であり、三国志演義の表記は正確なものではない。.
陳留郡
陳留郡(ちんりゅう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の河南省開封市一帯に設置された。.
捜神記
『捜神記』(そうじんき )とは、4世紀に中国の東晋の干宝が著した志怪小説集。『隋書』「経籍志」などによると、もとは30巻あったというが、散逸し、現存する20巻本は、後の人が蒐集、再編して万暦年間に『干宝撰捜神記』と題して刊行したもの。 原書は、著者の干宝が、先立つ書より収録したものと、自身の見聞とを併せたものであるとされる。本書を著述するようになった機縁は、干宝の父の婢が埋葬ののち10数年後に蘇ったことに感じ入って、本書を著すようになったという。 現行20巻本は、神仙・方士・徴応・感応・再生・魑魅・妖怪・人間や動植物の怪異などに関係する470余の説話を、説話の型で巻ごとに分類して収録している。中には後世の作も混入しており、仏教的な説話も含まれている。 後の書にも『捜神記』からの引用とする説話が多くあり、『太平広記』では80数条が収録されている。.
揚州 (古代)
揚州(ようしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。.
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李弘 (五胡)
李 弘(り こう、? - 370年)は、中国五胡十六国時代の農民反乱の首領。広漢郡の人。.
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李勢
李 勢(り せい、? - 361年)は、五胡十六国成漢の第5代皇帝。字は子仁。昭文帝李寿の長男。母は李夫人。.
東晋
前涼・前秦・前燕と東晋。 東晋(とうしん、)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。.
桓伊
桓伊(かん い、生没年不詳)は、中国の東晋の軍人・音楽家。字は叔夏。小字は野王。本貫は譙国銍県。.
桓玄
桓 玄(かん げん)は、桓楚の初代皇帝。東晋の安帝より禅譲を受けて皇帝となるが、3ヵ月後にクーデターを起こした劉裕の挙兵によって殺された。.
桓楚
桓楚(かんそ)は、東晋の時代に楚王桓玄が建てた短命の王朝である(403年 - 404年)。 403年(元興2年)、東晋の実権を掌握した楚王桓玄が、安帝に禅譲を迫り、帝位を譲り受ける形で成立した政権である。403年12月20日、安帝は玉璽を献上し、桓玄に譲位した。404年1月1日、桓玄は正式に皇帝に即位し、国号を楚と改め、永始に改元した。その他の楚を国号とする王朝と区分するために、桓玄が建てたこの政権は桓楚と呼ばれる。 名目上は、桓楚は建国後直接東晋の領土を継承したが、実際はその勢力範囲は江陵以東の長江中下流域一帯に留まった。建国から僅か3ヵ月後の404年、劉裕が桓玄打倒のクーデターを起こし、徐羨之・諸葛長民・檀道済・劉毅らも劉裕に呼応、敗れた桓玄は建康(現在の江蘇省南京市)を脱出して安帝を人質にして西へ逃れたところを、子の桓昇とともに益州都護の馮遷によって殺害され、従兄弟の桓謙が安帝に国璽を奉還して桓楚は滅亡した。 桓楚滅亡後、桓氏一族は兵を起こして東晋軍に対抗し、敗れる前での数年間、長江中流域一帯で存続した。.
桓沖
桓 沖(かん ちゅう、328年 - 384年4月)は、中国東晋の武将。字は幼子。.
梁州
梁州(りょうしゅう)は中国にかつて存在した州。『書経』による古代中国の九州の一つとされ、現在の四川省と陝西省漢中地方に相当する。周代に雍州に統合された。.
梁郡
梁郡(りょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋代にかけて、現在の河南省東部と安徽省北部にまたがる地域に設置された。.
殷浩
殷 浩(いん こう、生年不詳 - 356年)は、中国の東晋の政治家・軍人。「竹馬の友」の故事で知られる。字は淵源。本貫は陳郡長平県。.
江夏郡
江夏郡(こうか-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の湖北省東部に設置された。.
河南郡
河南郡(かなん-ぐん)は漢代から隋代にかけて現在の河南省に設置された郡。 韓の宣恵王のとき、河南に三川郡が置かれた。領域内に黄河・洛水・伊水の三川があることからその名を取られた。 紀元前249年(秦の荘襄王元年)、秦が韓を攻め、韓が成皋・鞏の地を献ずると、秦もまた三川郡を置いた。 紀元前205年(漢の高帝2年)、三川郡を河南郡と改称した。前漢末には、雒陽・滎陽・偃師・京・平陰・中牟・平・陽武・河南・緱氏・巻・原武・鞏・穀城・故市・密・新成・開封・成皋・苑陵・梁・新鄭の22県を管轄した。『漢書』によれば戸数27万6444人、人口174万279人があった。 後漢が建てられると、都が雒陽に定められたため、39年(建武15年)に河南郡は河南尹と改称された。河南尹は雒陽・河南・梁・滎陽・巻・原武・陽武・中牟・開封・苑陵・平陰・穀城・緱氏・鞏・成皋・京・密・新城・偃師・新鄭・平の21県を管轄した。 曹魏のとき、雒陽は洛陽と改められ、河南尹は洛陽・鞏・河陰・成皋・緱氏・新城・偃師・梁・新鄭・穀城・陸渾・陽城・陽翟・滎陽・京・密・巻・陽武・苑陵・中牟・開封・原武の22県を管轄した。242年(正始3年)に、滎陽・京・密・巻・陽武・苑陵・中牟・開封の8県が分離されて滎陽郡が立てられたが、魏末に河南尹の管轄に戻された。264年(咸熙元年)に原武県が分離されて原武郡が立てられた。 西晋以後、河南尹は河南郡の称に戻された。266年(泰始2年)に滎陽郡が再び分離された。劉宋のころには、河南・新城・河陰・棘陽・襄郷の5県を領するのみとなった。北魏は太武帝のときに河南郡の上に洛州が置かれた。東魏のとき、洛州の下に洛陽郡・河陰郡・新安郡・中川郡・河南郡・陽城郡が置かれたため、河南郡は宜遷県を管轄するのみとなった。 583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、河南郡はひとたび廃止された。605年(大業元年)、洛州は豫州に改称された。607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、豫州は河南郡と改められた。河南郡は河南・洛陽・閿郷・桃林・陝・熊耳・澠池・新安・偃師・鞏・宜陽・寿安・陸渾・伊闕・興泰・緱氏・嵩陽・陽城の18県を管轄した。 618年(武徳元年)、唐は郡を廃止して州に改めた。621年(武徳4年)、唐が王世充を破ると、河南郡は唐の支配下に入り、河南郡の呼称は姿を消した。洛州が河南・洛陽・偃師・鞏・陽城・緱氏・嵩陽・陸渾・伊闕の9県を管轄することとなった。.
泗河
泗河(しが、)は、中華人民共和国東部の山東省を流れる川の一つ。山東省の新泰市南部・蒙山山地の南麓に発し西へ流れ、泗水県、曲阜市、兗州市を経て、済寧市中心部よりやや南で南四湖(微山湖)の北端にある南陽湖に注いでいる。微山湖から先は京杭大運河を経由して淮河水系に属しており、山東省南部から江蘇省北部を流れる淮河流域の主要河川・沂沭泗河水系(沂河、沭河、泗河の三つの河川およびその支流からなる)の一つとなっている。古代には泗水(しすい、)と呼ばれた。 現在は比較的短い川だが、古代の泗水は淮河の一大支流であり、かつては反水・睢水・潼水・沂水などの様々な川を集め、兗州から先は現在の魚台県、沛県、徐州市、宿遷市、泗陽県を経て、泗口(またの名を清口とも。現在の淮安市淮陰区碼頭鎮の付近)で淮河に注いでいた。泗水は古代中国の歴史上重要な河川で、長い間中原と江淮地方を結ぶ主要な水運の経路であり、早くから開発が進み多くの国や町が流域に生まれてきた。 南宋と金が対峙していた頃、黄河が決壊して南へ流れ、徐州や淮安など現在の江蘇省北部を流れて黄海へ注ぐようになった。これにより現在の徐州市付近で泗水下流の河道に黄河が流れ込み河道を奪い、さらに淮安より下流の淮河本流河道も黄河が奪った。淮河は黄河の流れに押し出されて淮安付近で滞留し洪沢湖を形成した。1855年になって黄河は再び北の渤海方面へ流れを変えたが、黄河は大量の黄土を河道の両側に堆積させており、この自然堤防により泗水も淮河も古代の経路を取り戻すことはできなくなった。かつて泗水下流が流れていた場所は、高い自然堤防の中に幅4mから6mの小さな川が流れる廃黄河になっている。沂沭泗河水系の各河川は大きな出口がなく、洪水が起こるたびに江蘇省北部で洪水を起こしていたが、1949年に駱馬湖から東の黄海へ一直線に向かう放水路・新沂河が着工され1953年に完成し、洪水は減少した。.
洛陽市
洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.
淮安区
淮安区(わいあん-く)は中華人民共和国江蘇省北部淮安市に位置する市轄区。中国の古代から近世にかけての河川行政(治水)・水運行政(漕運)・製塩行政の中心地となった古い街であり、揚州・蘇州・杭州とならぶ大運河上の四大都市と称された。周恩来・韓信・呉承恩らの生まれ故郷でもある。1986年には国家歴史文化名城の称号を得ている。.
淮河
河と長江に南北を挟まれる形で流れる 淮河(わいが、)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。長さは1,078km、流域面積は174,000平方kmに及ぶ。 淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい。このため「壊河(ピンインではHuái Hé)」の異名がある。.
淅川県
淅川県(せつせん-けん)は中華人民共和国河南省南陽市に位置する県。.
温キョウ
温 嶠(おん きょう、288年 - 329年)は、中国東晋の政治家。字は太真、または泰真とも。并州太原郡祁県の人。温憺の子。魏の丞相主簿などを歴任した温恢の曾孫に当たる。.
済水
済水(さいすい、)は、中国河南省済源市区西北に源を発している。済源市の名称はまさにここからきている。俗称は大清河。済水は、古来はほかの大河と交わらず海に流れており、江水(長江)、河水(黄河)、淮水(淮河)とともに「華夏四瀆」と称された。済水の水源地は、済源市の済瀆廟(さいとくびょう)。黄河が流れを変えた為、今日の黄河下流は当時の済水の河道である。済水の流れは済源市を発し済南市で黄河に交わる。 Category:中国の河川 Category:黄河水系 Category:河南省の地形 Category:山東省の地形.
潁川郡
潁川郡(えいせん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の河南省中部に設置された。.
朝廷
朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.
成漢
成漢(せいかん、、304年 - 347年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。巴氐族(氐族の一種)の李雄により建国された。当初の国号は大成であったが、李寿の時代に漢に改めた事から、併せて成漢と呼称される。また、後蜀(ごしょく)とも記載される三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P53。.
明帝 (東晋)
明帝(めいてい)は、東晋の第2代皇帝。諱は紹、字は道畿。王敦の乱を平定して皇帝権力を確立したが、早世した。.
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族誅
族誅(ぞくちゅう)は、封建時代の中国において、重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑することである。族滅もしくは三族/九族皆殺しとも呼ばれる。ただし、特定の一族・血族全体を対象とするのではなく、あくまで特定の重罪人への刑罰の付加刑として行われる。従って、族誅の対象も特定個人との親族関係をもとに判断される。 殷の時代に始まり、秦の時代になって拡張され、清の時代までみられた。中国以外では朝鮮、ベトナム、日本でも行われた。 時代が下るにつれて族滅は消滅していったが、朝鮮民主主義人民共和国では建国以来たびたび行われているのではないかと疑われている。.
旱魃
長期の旱魃に見舞われた土地(ケニア) 旱魃(かんばつ)とは、雨が降らないなどの原因である地域に起こる長期間の水不足の状態である。旱は「ひでり」、魃は「ひでりの神」の意味である。いずれも常用漢字ではないため干ばつと表記する場合がある。 旱魃の被害を総じて旱害(かんがい)と呼ぶ。干害とも書き、これは旱害の書き換え語でもある(従前から存在する同音同義語であり、新しい表記ではない)。 旱魃はその地域の水資源の存在量と人間の水需要がアンバランスになることによって発生するため、純粋な物理現象とはいえない。.
摂政
摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.
政治家
政治家(せいじか)とは、職業として政治に携わっている者のことである。.
懐遠県
懐遠県(かいえん-けん)は中華人民共和国安徽省蚌埠市に位置する県。.
慕容イ
慕容 暐(ぼよう い、拼音:Mùróng Wĕi)は、五胡十六国時代の前燕の第3代君主。苻堅の攻撃を受け、前燕が滅亡した際の皇帝である。.
曹操
曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.
晋寿郡
晋寿郡(晉壽郡、しんじゅ-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。東晋から隋初にかけて、現在の四川省広元市一帯に設置された。.
晋陵郡
晋陵郡(晉陵郡、しんりょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から唐代にかけて、現在の江蘇省南部に設置された。.
晋書
『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.
10月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より10月 10月(じゅうがつ)はグレゴリオ暦で年の第10の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、新暦10月の別名としても用いる。 英語での月名 October は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の "octo" の語に由来している。一般的な暦では10番目の月であるが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では、一般的な暦の3月が年始であり、3月から数えて8番目という意味である。.
11月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より11月 11月(じゅういちがつ)はグレゴリオ暦で年の第11の月に当たり、30日間ある。 日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。 英語での月名 November は、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の「novem」の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、(そのため年末の2月は日数が少ない)3月から数えて9番目という意味である。.
2月
2月(にがつ)はグレゴリオ暦で年の第2の月に当たり、通常は28日、閏年では29日となる。 他の月の日数が30または31日なのに対して、 英語の呼び名である February はローマ神話のフェブルウス (Februus) をまつる祭りから取ったと言われている。.
312年
記載なし。
328年
記載なし。
331年
記載なし。
335年
記載なし。
343年
記載なし。
345年
記載なし。
346年
記載なし。
347年
記載なし。
348年
記載なし。
351年
記載なし。
352年
記載なし。
353年
記載なし。
354年
記載なし。
356年
記載なし。
360年
記載なし。
362年
記載なし。
363年
記載なし。
364年
記載なし。
365年
記載なし。
368年
記載なし。
369年
記載なし。
370年
記載なし。
371年
記載なし。
372年
記載なし。
373年
記載なし。
3月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より3月 3月(さんがつ)は、グレゴリオ暦で年の第3の月に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にない。 ヨーロッパ諸言語での呼び名であるmars,marzo,Marchなどはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するMartiusから取ったもの。 古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。閏年の日数調整を2月に行うのは、当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残である。 3月はその年の11月と同じ曜日で始まり、平年には2月と同じとなる。.
403年
記載なし。
7月
7月(しちがつ)はグレゴリオ暦で年の第7の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦7月を文月(ふづき、ふみづき)と呼び、現在では新暦7月の別名としても用いる。文月の由来は、7月7日の七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからというのが定説となっている。しかし、七夕の行事は奈良時代に中国から伝わったもので、元々日本にはないものである。そこで、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もある。また、「秋初月(あきはづき)」、「七夜月(ななよづき)」の別名もある。 英語での月名 July は、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、ユリウス・カエサル(Julius Caesar)からとられた。カエサルは紀元前45年にユリウス暦を採用するのと同時に、7月の名称を「5番目の月」を意味する "Quintilis" から自分の家門名に変更した。なお、8月の英名 August はアウグストゥスにちなんでいる(ギリシャ語で Αύγουστος は8月を表す)。詳細は8月を参照。.
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