173 関係: 十六国春秋、司徒、司馬ギョウ、司馬倫、墊江県、大司馬、大将軍、大長秋、天水郡、太守、太平 (趙キン)、太和、太和 (成漢)、夷、宜都郡、寧州、寧州 (雲南省)、尚書令、尹奉、巴西郡、巴東郡、丞相、中常侍、中国、中国語、三崎良章、広漢郡、五胡十六国時代、五斗米道、建平郡、建康 (都城)、建初 (成漢)、建興 (成漢)、仇池、張燕、張駿、張興、徐倹、後趙、後漢、ブン山郡、テイ (民族)、フ陵区、ホウ陵郡、刺史、嘉寧、ケン為郡、前燕、前趙、前涼、...、四川省、皇帝 (中国)、石虎、玉衡、玉恒、王遜、秦州、穆帝 (東晋)、綿竹市、羅尚、甘粛省、略陽郡、牧、益州、益州郡、道士、荊州、青城山、飢饉、西晋、解思明、許雄、魏 (三国)、魏書、賈南風、資治通鑑、越スイ郡、趙キン (西晋)、龔壮、辛冉、録尚書事、范長生、郡県制、都督、関中、閻式、開祖、長安、李含、李奕、李始、李寿 (成漢)、李庠、李広、李コウ (中華民国)、李勢、李班、李福、李特、李驤 (成漢)、李鳳、李越、李輔 (成漢)、李釗、李蕩、李離、李雄、李雄 (成漢)、李毅、李期、李流、東方書店、東晋、桓温、梁州、梓潼郡、楊難敵、楊虎、武都郡、江陽、江陽郡、泰安県、渠県、漢中市、漢中郡、漢嘉郡、漢興、成都市、斉万年、曹操、晏平、晋書、10月、11月、12月、1月、2002年、296年、2月、300年、301年、302年、303年、304年、306年、307年、309年、310年、311年、314年、318年、323年、324年、326年、330年、332年、333年、334年、335年、338年、339年、341年、343年、344年、346年、347年、361年、3月、5月、6月、7月、8月、9月。 インデックスを展開 (123 もっと) »
十六国春秋
十六国春秋(じゅうろっこく しゅんじゅう)は、中国の北魏代に撰せられた、五胡十六国時代に関する歴史書である。五胡十六国時代という名称の由来になった。『隋書』「経籍志」によれば、全100巻。.
司徒
司徒(しと)とは、中国の官名。金文では司土と作る。 西周ではじめて設置され、三公の次に位し、六卿に相当する。田土・財貨・教育などを司った。 前漢では丞相が三公の一つとされたが、哀帝の元寿2年(紀元前1年)に、丞相を大司徒と改称している。 後漢の建武27年(51年)に、大司徒は司徒と改称される。後漢における司徒は司空・太尉とともに三公の一つであった。 献帝の建安13年(208年)6月、曹操が三公制度を廃止して、丞相・御史大夫を置いたことにより、廃止されたが、漢から魏への禅譲が行われると三公制度が復活し、再び司徒が三公の一つとして設置された。魏では王朗・董昭といった長老が任命されたが他の三公同様さほどの実権はなかった。また、三国時代の一国である蜀漢では丞相諸葛亮に次ぐ高官として司徒を置き許靖が任命されている。.
司馬ギョウ
司馬 顒(しば ぎょう、? - 306年12月)は、中国西晋時代の皇族で、八王の乱の八王の一人。字は文載。祖父は司馬懿の弟である安平王司馬孚。父は太原王。.
司馬倫
司馬 倫(しば りん、? - 301年)は、西晋の第3代皇帝であり、八王の乱の八王の1人。字は子彝。司馬懿の第9子(末子)。建始帝とも呼称されるが、これは諡号ではなく私年号である建始から取ったものである。.
墊江県
墊江県(でんこうけん)は中華人民共和国重慶市に位置する県。.
大司馬
大司馬(だいしば)は、中国の官職の一つで、主に軍事を取り仕切る、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職がもうけられる場合もあった。 周(春秋戦国時代)代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。 秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。 前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。恵帝の6年(紀元前189年)に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の建元2年(紀元前139年)に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の建元4年(紀元前119年)に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。宣帝の地節2年(紀元前68年)に、大司馬大将軍霍光が亡くなると、宣帝はその子霍禹を単に大司馬とし、将軍号を削って兵権を奪った。この時のみ大司馬には兵権が無かった。その後も三公での順位や将軍号の有無の変遷があったが、大司馬の職位は続いた。 新の王莽を打倒した更始帝も大司馬を置き、劉秀は当初、兼務の行大司馬として河北に渡った。劉秀が皇帝に即位すると、また大司馬を置き、呉漢が任じられた。 後漢の建武27年(51年)に太尉に置き換わった。 魏晋には、太尉と並立しながらも三公より格上の職として復活し、曹仁などの大物が就任した。.
大将軍
大将軍(だいしょうぐん、たいしょうぐん)は、中国および日本における歴史上の官職の一つ。.
大長秋
大長秋(だいちょうしゅう)は、中国の王朝で皇后府をとりしきる宦官の最高位。前漢までは民間出身でも任命されたようであるが、後漢の初代皇帝・光武帝により宦官のみ大長秋に任命するように制定された。特に魏の曹操の祖父・曹騰が任じられたことで有名である。漢代の秩は二千石で、侯に封ぜられた者で功が多いものを選んで任官された。皇后府の卿と書かれることもある。三国時代の各国にも引き続き置かれたが宦官のみとする任命が継続したかは不明である(『三国志』ちくま学芸文庫8巻P273)。 Category:中国の官名 *.
天水郡
天水郡(てんすい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の甘粛省天水市一帯に設置された。.
太守
太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.
太平 (趙キン)
太平(たいへい)は、西晋代に益州刺史廞が自立して建てた私年号。300年 301年.
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太和
太和とは、.
太和 (成漢)
太和(たいわ)は、五胡十六国時代、成漢の君主李勢の治世で使用された元号。344年 - 346年9月。 『華陽国志』には343年改元とあるが、一般的に『資治通鑑』の344年改元を採用している。.
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夷
夷(い、えびす).
宜都郡
宜都郡(ぎと-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から隋初にかけて、現在の湖北省宜昌市一帯に設置された。.
寧州
寧州(ねいしゅう)は中国にかつて存在した州.
寧州 (雲南省)
寧州(ねいしゅう)は、中国にかつて存在した州。晋代から南北朝時代にかけて、現在の雲南省一帯および貴州省西部に設置された。.
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尚書令
尚書令(しょうしょれい)とは、前近代中国の官職で、尚書台、およびその後身である尚書省の長官である。 古くは単に尚書と呼ばれ、秦・漢において宮中に詰め、皇帝の文書の管理をつかさどる秘書官の役であったが、後漢以後は、光武帝の親政にともなって、権力の中枢を担う実権を握り、独自の官衙である尚書台を従えるようになった。『漢官儀』では、上奏事を掌り、綱紀を統括し、一切を取り仕切る職掌を有していた、とし、司隷校尉・御史中丞とともに「三独座」と称される顕官となった。 その後、魏晋南北朝時代を通じて詔勅の起草をつかさどる中書令とともに地位を向上させ、部と呼ばれる実務執行機関を従えるようになった(北周を除く)。その官品も上昇の一途をたどり、魏より南斉の間は第三品、梁代には第十六班、陳では第一品に至った。一方、北朝では、北魏・北斉で正二品であった。隋・唐代も北朝のそれを踏襲し、正二品。但し、隋代では、宰相相当の官である内史や納言より官品が上となったため、ほぼ空位で推移した。 唐では尚書令を長とする尚書省は、中書省から発せられた詔勅に基づいて政務を配下の六部によって執行する実務行政の最高官庁となり、尚書令は宰相としての地位を確立した。しかし、唐の第2代太宗となる李世民が皇子であったときにこの官職を務めていたことから、唐一代を通じて皇太子のみが任ぜられ得る空官となり、本来は次官である左右2名の僕射がかわって宰相の座に就く。尚書令は、龍朔3年(663年)に廃止された。 唐末から北宋にかけては尚書省が形骸化したことから、北宋では尚書令は唐制にのっとって官名はあっても実際には任命者のいない官職となった。南進して宋を南遷させた金ではふたたび尚書省が国政の中心的な機関となった上、中書省の機能も尚書省に集約されたため尚書令は王族などの有力者が任じられる首席宰相のポストであった。しかし、続く元では金の尚書省にあたる機関に中書省の名が与えられたため、尚書令の官名は消滅した。.
尹奉
尹 奉(いん ほう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代魏の武将・政治家。字は次曾。涼州漢陽郡(天水郡)の人。.
巴西郡
巴西郡(はせい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から隋代にかけて、現在の重慶市と四川省東部にまたがる地域に設置された。.
巴東郡
巴東郡(はとう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から隋代にかけて、現在の重慶市と湖北省西部にまたがる地域に設置された。.
丞相
丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.
中常侍
中常侍(ちゅうじょうじ)は、古代中国の官職。皇帝の身の回りの事を司る侍中府の中の一役職であり、皇帝の傍に侍り、様々な取次ぎを行う。常に皇帝の傍にいるので、絶大な権力を誇った。 後漢の永元4年(92年)以降、宦官専任の官職となり渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第一章「後漢における宦官の制度的基盤と尚書台」、宦官の中では大長秋(皇后侍従長)に次ぐ位。 後漢では中常侍は侍中とともに命令の取次や顧問応対(皇帝に直接進言を行うこと)が認められており、禁中への立ち入りや宿衛が厳しく規制されていた侍中と異なり、宦官である中常侍は常に自由に出入りする事ができたことから大きな力を得るに至った(反対に、後漢において政治権力を振るうことが可能であった宦官は現職の中常侍もしくは経験者に過ぎなかった)。 製紙法の蔡倫や三国志の奸臣として有名な十常侍などがこれに就いている。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国語
記載なし。
三崎良章
三崎 良章 (みさき よしあき、1954年 - )は、日本の歴史学者、教員。東アジア史専攻。埼玉県深谷市出身。.
広漢郡
広漢郡(廣漢郡、こうかん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋初にかけて、現在の四川省北部に設置された。.
五胡十六国時代
五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.
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五斗米道
五斗米道(ごとべいどう)は、通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が、蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の大邑県)で起こした道教教団。2代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。.
建平郡
建平郡(けんへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から隋初にかけて、現在の重慶市東部および湖北省西部にまたがる地域に設置された。.
建康 (都城)
建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。 三国の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬鄴)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。.
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建初 (成漢)
建初(けんしょ)は、五胡十六国時代、成漢の君主李特及び李流の治世で使用された元号。303年 - 304年9月。 元年2月に李特は死没するが、李流により元号はそのまま使用された。『晋書』及び『魏書』では302年に建初と改元したと記録されているが、『資治通鑑』及び『太平御覧』には303年の改元とあり、一般に後者を採用している。.
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建興 (成漢)
建興(けんこう)は、五胡十六国時代、成漢の君主李雄の治世で使用された元号。304年10月 - 306年6月。.
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仇池
仇池(きゅうち)は、後漢の建安年間に氐人の楊騰が部衆を率いて樹立した地方政権。西晋時代の八王の乱期に本格的に独立し、五胡十六国時代に割拠した勢力である。仇池とは嘉陵江の支流西漢水上流の地名で現在の甘粛省成県に当たる。.
張燕
張 燕 (ちょう えん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。元の名は。字や渾名は飛燕。冀州常山郡真定県の人。子は張方(魏の平北将軍)。孫は張融。曾孫は張林。黒山賊(黒山軍)という100万の山賊や罪人などを率いた頭領。.
張駿
張 駿(ちょう しゅん)は、五胡十六国時代の前涼の第4代の王。.
張興
張 興(チャン・フン、장흥)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、及び大韓民国の軍人。別名は張基鎭。中国名は宋鼎憲。韓国軍では、金九の腹心であったため閑職に追いやられた。.
徐倹
徐 倹(徐儉、じょ けん、528年 - 588年)は、南朝梁から陳にかけての人物。またの名を衆といった。本貫は東海郡郯県。.
後趙
後趙(こうちょう、ごちょう、、319年 - 351年)は、中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単に趙(ちょう)であるが、同時代に劉淵によって建てられた同じく国号を趙とする国があるために、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別する。また、石氏の王朝のために石趙(せきちょう)とも呼ばれる。.
後漢
後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.
ブン山郡
汶山郡(ぶんざん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。文山郡とも書かれた。漢代から隋代にかけて、現在の四川省北部に設置された。.
テイ (民族)
氐(てい、拼音:Dī/Dǐ)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。.
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フ陵区
涪陵区(ふりょうく、ほうりょうく)は中華人民共和国重慶市に位置する市轄区。ザーサイの名産地である。.
ホウ陵郡
涪陵郡(ほうりょう-ぐん)は中国にかつて存在した郡。.
刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.
嘉寧
嘉寧(かねい)は、五胡十六国時代、成漢の君主李勢の治世で使用された元号。346年10月 - 347年3月。.
ケン為郡
犍為郡(けんい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋代にかけて、現在の貴州省および雲南省東部と四川省南部にまたがる地域に設置された。.
前燕
前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。.
前趙
前趙(ぜんちょう、、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。劉趙、漢趙とも呼称される。.
前涼
前涼(ぜんりょう、拼音:Qiánliáng、301年 - 376年)は、中国の五胡十六国時代に漢族の張軌によって建てられた国。.
四川省
三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.
皇帝 (中国)
中国史における皇帝(こうてい、)とは、一般に、紀元前221年に秦朝の政王が中国統一を機に始皇帝と号してから、辛亥革命を受けて1912年に愛新覚羅溥儀が清皇帝を退位するまでの中国の君主を指す。皇帝はまた、皇帝号が用いられる以前の周や殷の君主を含めて天子とも称され、天下(地上世界)の支配者とみなされた。実際には、すべての皇帝が中国全土における最高権力を握っていたわけではないが、その場合でも通常は「天子」と呼ばれた。 皇帝を同一の家系ごとに歴史上の各区分に分けたものを王朝と呼ぶ。中国の大半の帝政支配者は、漢民族に属すると通常考えられているものの、近年の学界では、現在の民族分類を過去の歴史的状況に適用することに慎重な傾向がある。モンゴル系民族および満州民族に支配された元王朝と清王朝は、史学上の通説では、外来の王朝が中国化されたものと考えられているが、近年の一部学者(たとえば新清史学派 New Qing History schoolの学者ら)は、両王朝では、通説よりもはるかに複雑なかたちで政治と民族とが互いに影響を与え合ったと主張する。とは言え、この両王朝の支配者はともに、中国本土を支配するのに、天命という伝統的な儒教に基づく皇帝の概念を必要とした。.
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石虎
石 虎(せき こ)は、五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父である李虎の諱を避けるため、字の季龍を用いて石季龍と記されている。石勒(後趙の初代皇帝・明帝)の従子(甥もしくは1世代下の親族)であり、石勒の没後、石弘から帝位を奪って皇帝になった。 石虎は将として有能だったことから石勒に信頼され、後趙の華北周辺の平定に多大な貢献をした。しかし同時にその暴虐さでも知られ、後趙の天王を称した際には非道な法律、重い税金と労働を課し、それを大宮殿を建てたり妾を集めることに費やした。その没後は、子の石祗らと養孫の冉閔が後継争いを繰り広げ、後趙の崩壊を早めた。.
玉衡
玉衡(ぎょくこう)は、五胡十六国時代、成漢の君主李雄の治世で使用された元号。311年5月 - 334年。 24年6月に李班が、同年10月に李期が即位した後に使用され、翌年に玉恒と改元された。.
玉恒
玉恒(ぎょくこう)は、五胡十六国時代、成漢の君主李期の治世で使用された元号。335年5月 - 338年3月。 玉恒と玉衡の音が近いため、2つは同一の年号とする説もある。.
王遜
王遜(おう そん、生年不詳 - 323年)は、中国の晋代の官僚・軍人。字は邵伯。本貫は魏興郡。.
秦州
州(しんしゅう)は中国にかつて存在した州。.
穆帝 (東晋)
帝(ぼくてい)は、東晋の第5代皇帝。諱は聃、字は彭子。2歳で即位したため、在位の17年間を太后の褚蒜子が執政し、何充や司馬昱等が補佐した。桓温等の政治家の活躍によりその治世は領土の拡大に特徴づけられる。.
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綿竹市
綿竹市(めんちくし)は、中華人民共和国四川省徳陽市北西部に位置する県級市。四川盆地の西北の山沿いに位置し、長江の支流・沱江(だこう)が平野に出る地点にある。古代から続く町で、醸造業が発達し、中でも「剣南春」は中国国内ではよく知られる。.
羅尚
羅 尚(ら しょう、?-310年)は、西晋の人物。字は敬之。襄陽郡の人。武陵郡太守羅憲の兄子であり、父は牂牁郡太守羅式。.
甘粛省
粛省(かんしゅくしょう、中国語:甘肃省、拼音:Gānsù Shěng、英語:Gansu)は、中華人民共和国北西部にある省級行政区である。省都は蘭州市。.
略陽郡
略陽郡(りゃくよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から隋初にかけて、現在の甘粛省天水市や陝西省漢中市にまたがる地域に設置された。.
牧
牧.
益州
州(えきしゅう)は中国にかつて存在した州。現在の四川盆地と漢中盆地一帯を指す。.
益州郡
州郡(えきしゅう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から晋代にかけて、現在の雲南省に設置された。.
道士
道士(どうし)とは、道教を信奉し、道教の教義にしたがった活動を職業とするもの。 男性の道士は乾道(けんどう)、女性の道士は坤道(こんどう)と呼ばれる。 1997年時点で、中国には2万5000人余りの道士がいた。2011年には10万人の道士がいる。 道士の服装は道袍と称し、中国古代の漢服の一種で、頭には古代の冠巾をかぶり、足には雲履と称する下履きを履いている。 道士は主に宮、道観、道院、廟、洞などと称する場所に住まい、そこで宗教活動を行っている。 また宗派によっても形態が異なり、全真教の道士は出家し、頭髪や鬚をのばし、髻をゆっている。また、精進料理を食べ、修養を重んじる。一方、正一教の道士は出家しない、在家の道士で、髪を剃り、護符を書いたり、道教儀礼を行うことを主な活動としている。 日本では1980年代に香港や台湾のキョンシー映画を通して、一躍存在が広く知られるようになったが、娯楽映画では実際の道士が正しく描かれているとはいいがたい。.
荊州
荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に置かれた。.
青城山
青城山(せいじょうさん、)は、中国・四川省都江堰市にある山地・景勝地。道教の発祥の地の一つとして古代より知られ、道教関係の重要な建築物が集中し、宗教・医療・音楽などの道教文化が伝えられてきた。中国の中でも著名な歴史名山および国家重点風景名勝区であり、2000年、付近の岷江にある古代の水利施設・都江堰(とこうえん)とともに世界遺産(文化遺産)に登録されている。.
飢饉
飢饉(ききん、Famine)とは、何らかの要因により人々が飢え苦しむことを指す。狭義においては、一地域における死亡率を急激に上げるような極端な食料不足の事態を指すことが多い。主食とする農産物の大規模な不作を契機とする場合が多い。.
西晋
西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.
解思明
解 思明(かい しめい、? - 345年)は、五胡十六国時代成漢の人物。.
許雄
許雄(きょ ゆう、ホ・ウン).
魏 (三国)
魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.
魏書
『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。.
賈南風
賈 南風(か なんぷう、257年 - 300年)は、中国西晋の恵帝の皇后。幼名は峕。平陽郡襄陵県(山西省襄汾県)の人で、父は賈充。母は郭槐。.
資治通鑑
『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.
越スイ郡
越巂郡(えつすい-ぐん)は、中国の漢代から唐代まで、現在の四川省西南部と雲南省東北部にまたがって置かれた郡である。越嶲郡、粤巂郡とも書く。.
趙キン (西晋)
趙 廞(ちょう きん、? - 301年)は、西晋時代の政治家、武将。字は叔和。巴西安漢(四川省南充)の出身。太平王朝を建立し、益州動乱のきっかけを作った。.
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龔壮
壮(きょう そう、生没年不詳)は、五胡十六国時代成漢の人物。字は子瑋。巴西郡の出身。.
辛冉
辛 冉(しん ぜん、? - 305年)は、中国西晋時代の将軍。晋書では羊冉とも記載される。隴西郡の出身。.
録尚書事
録尚書事(ろくしょうしょじ)は、中国後漢代から魏晋南北朝時代に存在した官職。尚書を束ねる役職として政権を握り、宰相職としてあったが、隋代に廃止された。 尚書省・尚書令なども合わせて参照のこと。.
范長生
范 長生(はん ちょうせい、? - 318年)は、天師道の教祖であり、五胡十六国時代成漢の宰相。范延久、范九重、范支とも記載される。字は元寿。涪陵郡丹興県の出身。『蜀の八仙』の一人。.
郡県制
郡県制(ぐんけんせい)は、古代中国の地方統治制度。郡と県の2段階で地域が区画され、中央から派遣された官吏によってその統治がおこなわれた。世襲制の封建制に代わる支配制度で、王朝の中央集権体制の強化に役立った。日本列島や朝鮮半島などの東アジア地域の古代王朝にも制度的影響を与えた。.
都督
都督(ととく)とは中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した。.
関中
関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。.
閻式
閻 式(えん しき、? - 309年)は、五胡十六国時代成漢の人物。閻彧とも記載される。天水郡の出身。.
開祖
開祖(かいそ)とは、学問・学芸上の流派や宗教の創始者。.
長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.
李含
李 含(り がん)は、中国の人名。.
李奕
李 奕(り えき、? - 346年)は、五胡十六国時代成漢の人物。.
李始
李 始(り し、? - 338年)は、五胡十六国時代成漢の人物。字は伯起。李特の長子であり、初代皇帝李雄の異母兄。略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。.
李寿 (成漢)
李寿(り じゅ、300年 - 343年)は、五胡十六国成漢の第4代皇帝。字は武考。父は建国の功臣である李驤。.
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李庠
李 庠(り よう、247年 - 301年)は、西晋時代に活動した人物。字は玄序。 巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。父は東羌猟将の李慕、兄は李輔と李特、弟は李流と李驤。.
李広
李 広(り こう、? - 紀元前119年)は、中国前漢時代の将軍。文帝・景帝・武帝に仕えた。 飛将軍の綽名でも知られる。武勇に優れていたが戦功を認められることなく憤死した。秦の将軍の李信の子孫である。従弟に丞相になった李蔡、孫に李陵がいる。.
李コウ (中華民国)
李 璜(り こう)は中華民国(台湾)の政治家・文学者・歴史学者。字は幼椿。号は学純。中国青年党結成メンバーの1人で、後年、同党の主席を務めた。祖籍は陝西省西安府三原県。.
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李勢
李 勢(り せい、? - 361年)は、五胡十六国成漢の第5代皇帝。字は子仁。昭文帝李寿の長男。母は李夫人。.
李班
李 班(り はん、288年 - 334年)は、五胡十六国成漢の第2代皇帝。字は世文。父は初代皇帝李雄の兄である李蕩。.
李福
李 福(り ふく)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての政治家。字は孫徳。父は豪族の李権(伯豫)。子は李驤。孫は李寿。益州梓潼郡涪県の人。.
李特
李 特(り とく、? - 303年)は、西晋末年に活動した流民集団の首領であり、事実上の成漢建国の祖である。字は玄休。巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。父は東羌猟将の李慕。兄に李輔、弟に李庠と李流と李驤がいる。.
李驤 (成漢)
李 驤(り じょう、? - 328年)は、五胡十六国時代成漢の宗室。字は玄龍。巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。父は東羌猟将の李慕。兄に李輔、李特、李庠、李流がいる。兄の李特に従って挙兵し、甥の李雄が成漢を建てると、建国の功臣として重職を歴任した。.
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李鳳
李鳳(り ほう、622年 - 674年12月29日)は、中国の唐の高祖李淵の十五男。字は季成。虢王に立てられた。.
李越
李 越(り えつ、? - 338年)は、五胡十六国時代成漢の人物。巴氐族(巴賨族)の出身。父は成漢の初代皇帝李雄。従兄は2代皇帝李班。.
李輔 (成漢)
李 輔(り ほ、? - 303年)は、西晋にかけての武将。字は玄政。巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。父は東羌猟将の李慕、弟は李特(成漢の創始者)、李庠、李流、李驤。.
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李釗
李 釗(り しょう、生没年不詳)は、西晋・成漢の人物。字は世康。広漢郡郪県の出身。祖父は光禄郎中主事李旦。父は寧州刺史・龍驤将軍・成都内侯李毅。妹は李秀。.
李蕩
李 蕩(り とう、? - 303年)は、西晋時代の人物。字は仲平。父は成漢の基礎を築いた李特。母は羅氏。兄に李始、弟に成漢の初代皇帝李雄がいる。巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。.
李離
李 離(り り、? - 309年)は、五胡十六国時代成漢の人物。李特の妹婿である李含の子。.
李雄
李雄(り ゆう)は、中国史の人物。.
李雄 (成漢)
李 雄(り ゆう、274年 - 334年)は、五胡十六国成漢の初代皇帝。字は仲儁。父は成漢の基礎を築いた李特。母は羅氏。兄に李始、李蕩がいる。巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。.
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李毅
李 毅(り き、? - 306年)は、三国時代末期の蜀漢~晋(西晋)初期の武将。字は允剛。広漢郡郪県の人。祖父は李氏の三龍と称された李朝、父は李旦、子は李釗。.
李期
李 期(り き、314年 - 338年)は、五胡十六国成漢の第3代皇帝。字は世運。初代皇帝李雄の四男である。.
李流
李 流(り りゅう)は、西晋末年に活動した流民集団の首領であり、成漢の基礎を作った人物の一人である。兄に李輔、李特、李庠がおり、弟に李驤がいる。李特の死後、跡を継いで残された集団を率いた。.
東方書店
東方書店(とうほうしょてん)は、東京都にある中国関係書籍専門書店、中国関係図書出版社。 1951年(昭和26年)、前身の極東書店が操業開始。1966年に極東書店から中国部門が分離独立して東方書店(株)を創立。当初から日中出版文化の交流が目的であった。 本店は神田神保町にあり、日本国内の代表的中国関係書籍専門書店である。大阪府吹田市には関西支社がある。 出版部門は、中国語や韓国語の辞典・テキスト・参考書、中国をテーマとする東方選書、教養啓蒙書・専門書など幅広い出版活動を行っている。 1975年9月に創刊した月刊誌『東方』は東方書店のPR誌であるが、毎号学術面に重点を置いた中国関係図書書評および中国関連エッセイを掲載し、中国関係学術情報の重要な媒体となっている。.
東晋
前涼・前秦・前燕と東晋。 東晋(とうしん、)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。.
桓温
桓 温(かん おん、312年 - 373年)は、東晋の政治家・軍人。字は元子。譙国竜亢(現在の安徽省懐遠県)の出身。父は宣城郡太守桓彝。母は孔憲。後漢の儒学者桓栄の後裔であるという。東晋の将軍として、成漢を滅ぼし、洛陽を奪還する等の大功を挙げた。東晋を牛耳るようになると禅譲を目論んだが、周囲の反対に逢い失敗した。.
梁州
梁州(りょうしゅう)は中国にかつて存在した州。『書経』による古代中国の九州の一つとされ、現在の四川省と陝西省漢中地方に相当する。周代に雍州に統合された。.
梓潼郡
梓潼郡(しとう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から唐代にかけて、現在の四川省北部に設置された。.
楊難敵
楊 難敵(よう なんてき)は、前仇池の第2代君主。父は初代の楊茂搜三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P78。子に楊毅、楊宋奴。弟に楊堅頭。.
楊虎
楊 虎(よう こ、1889年 - 1966年3月)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。字は嘯天。.
武都郡
武都郡(ぶと-ぐん)はかつて中国に存在した郡。漢代から北魏まで置かれた涼州系武都郡と、北魏から隋代にかけて置かれた岐州武都郡がある。.
江陽
江陽(こうよう).
江陽郡
江陽郡(こうよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から隋初にかけて、現在の四川省瀘州市一帯に設置された。.
泰安県
泰安県(たいあん-けん).
渠県
渠県(きょ-けん)は中華人民共和国四川省達州市に位置する県。.
漢中市
漢中市(かんちゅうし)は、中華人民共和国陝西省に位置する地級市。.
漢中郡
漢中郡(かんちゅう-ぐん)は、古代中国に存在した郡。後に漢中(かんちゅう)は、郡の役所が置かれた南鄭(なんてい、現在の陝西省漢中市)を中心とした一帯の名称となる。劉邦が興した漢王朝や、現在の「漢民族」や「漢字」などの名称の由来となる地名でもある。.
漢嘉郡
漢嘉郡(かんか-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から晋代にかけて、現在の四川省雅安市一帯に設置された。.
漢興
漢興(かんこう)は、五胡十六国時代、成漢の君主李寿の治世で使用された元号。338年4月 - 343年。.
成都市
成都市にはパンダの繁殖基地がある 成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地 四川省の伝統芸能『川劇』 麻雀は成都市における最もポピュラーな娯楽である 麻婆豆腐は成都の陳森富の妻劉氏が考案したとされている 成都武侯祠の劉備像・三国志の英雄 劉備は巴蜀の地で最期を遂げた 成都市の古地図(1930年) 琴台路(往年の宝石販売の大通り) 天府広場 成都市の木 銀杏(四川大学) 木芙蓉 成都市(せいとし/チェンドゥし、、、)は、中華人民共和国四川省の省都であり、副省級市。豊かな成都平原の中にあって古くから『天府の国』と呼ばれてきた。唐の時代から蜀錦を産出するため錦城の別称を持ち、また芙蓉の花を市花とするところから蓉城の別称ももつ。.
斉万年
斉 万年(せい ばんねん、? - 299年)は、中国・西晋時代の人物。チベット系氐族の首長。 後漢から魏の時代にかけて、当時の政策により、周辺の少数民族が関中に入り居住していたが、その生活は貧しく、漢人からは差別的な待遇を受けていたこともあり、西晋の初期からたびたび大規模な反乱が勃発していた。武帝(司馬炎)の時代では270年より10年間つづいた、河西鮮卑の禿髪樹機能の反乱が有名であるが、将軍馬隆によりこれは鎮圧された。 恵帝の時代の296年(元康6年)には匈奴の郝度元が羌胡の2族を連合し反晋活動を開始する。当時関中では飢饉が発生しており、秦・雍の羌人もこれに呼応し、斉万年を皇帝に推戴し兵力7万の勢力となった。斉万年の軍勢は涇陽(現在の甘粛省平涼市北西)に進撃し、その影響力は無視できないものとなった。 晋朝は梁王司馬肜の下、安西将軍夏侯駿、建威将軍周処(周魴の子)等を征討に派遣する。斉万年の軍は梁山(現在の陝西省乾県)を拠点とし、5千の兵を以ってこれを迎撃し全滅させ、周処を戦死させた。司馬肜と周処とは不仲であり、司馬肜はわざと周処を死地に追いやったのである。また、斉万年は周処と面識があり、「周処殿が大将なら我々に勝ち目はないが、副将であれば使いこなせるものはいないのだから生け捕るまでだ」と評していた。 298年、西晋は左積弩将軍孟観による征伐を再び実施、翌年、斉万年軍は中亭(現在の陝西省武功県西)で敗れ、斉万年は殺害された。こうして叛乱は4年で崩壊した。.
曹操
曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.
晏平
晏平(あんへい)は、五胡十六国時代、成漢の君主李雄の治世で使用された元号。306年5月 - 310年。別に宣平とも表記されることがある。.
晋書
『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.
10月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より10月 10月(じゅうがつ)はグレゴリオ暦で年の第10の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、新暦10月の別名としても用いる。 英語での月名 October は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の "octo" の語に由来している。一般的な暦では10番目の月であるが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では、一般的な暦の3月が年始であり、3月から数えて8番目という意味である。.
11月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より11月 11月(じゅういちがつ)はグレゴリオ暦で年の第11の月に当たり、30日間ある。 日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。 英語での月名 November は、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の「novem」の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、(そのため年末の2月は日数が少ない)3月から数えて9番目という意味である。.
12月
12月(じゅうにがつ)は、グレゴリオ暦で年の第12の月(最後の月)に当たり、31日ある。 日本では、旧暦12月を「師走」、「師馳」(しわす・しはす)又は「極月」(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)と呼んできた。 今では「師走」及び「極月」は、新暦12月の別名としても用いられる。 英語での月名 December は、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来している。 実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で(そのため年末の2月は日数が少ない)、3月から数えて10番目という意味である。 グレゴリオ暦の12月1日はその年の9月1日と同じ曜日になる(→365日)。 明治時代に日本が太陰暦から太陽暦に変更した際に、政府が年末の給料を削減するために12月の日数を2日とした(明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とした)。.
1月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より1月 1月(いちがつ)はグレゴリオ暦で年の第1の月に当たり、31日ある。 日本では旧暦1月を睦月(むつき)と呼び、現在では新暦1月の別名としても用いる。睦月という名前の由来には諸説ある。最も有力なのは、親族一同集って宴をする「睦び月(むつびつき)」の意であるとするものである。他に、「元つ月(もとつつき)」「萌月(もゆつき)」「生月(うむつき)」などの説がある。 1月はその年の10月と同じ曜日で始まるのと同じである。平年の場合。 英語の January は、ローマ神話の出入り口とドアの神ヤヌスにちなむ。年の入り口にあたることから、ヤヌスの月となった。.
2002年
この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.
296年
記載なし。
2月
2月(にがつ)はグレゴリオ暦で年の第2の月に当たり、通常は28日、閏年では29日となる。 他の月の日数が30または31日なのに対して、 英語の呼び名である February はローマ神話のフェブルウス (Februus) をまつる祭りから取ったと言われている。.
300年
記載なし。
301年
記載なし。
302年
記載なし。
303年
記載なし。
304年
記載なし。
306年
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307年
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309年
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310年
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311年
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314年
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318年
記載なし。
323年
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324年
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326年
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330年
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332年
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333年
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334年
記載なし。
335年
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338年
記載なし。
339年
記載なし。
341年
記載なし。
343年
記載なし。
344年
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346年
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347年
記載なし。
361年
記載なし。
3月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より3月 3月(さんがつ)は、グレゴリオ暦で年の第3の月に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にない。 ヨーロッパ諸言語での呼び名であるmars,marzo,Marchなどはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するMartiusから取ったもの。 古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。閏年の日数調整を2月に行うのは、当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残である。 3月はその年の11月と同じ曜日で始まり、平年には2月と同じとなる。.
5月
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より5月 5月(ごがつ)はグレゴリオ暦で年の第5の月に当たり、31日ある。.
6月
6月(ろくがつ)はグレゴリオ暦で年の第6の月に当たり、30日ある。 梅雨の季節である。.
7月
7月(しちがつ)はグレゴリオ暦で年の第7の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦7月を文月(ふづき、ふみづき)と呼び、現在では新暦7月の別名としても用いる。文月の由来は、7月7日の七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからというのが定説となっている。しかし、七夕の行事は奈良時代に中国から伝わったもので、元々日本にはないものである。そこで、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もある。また、「秋初月(あきはづき)」、「七夜月(ななよづき)」の別名もある。 英語での月名 July は、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、ユリウス・カエサル(Julius Caesar)からとられた。カエサルは紀元前45年にユリウス暦を採用するのと同時に、7月の名称を「5番目の月」を意味する "Quintilis" から自分の家門名に変更した。なお、8月の英名 August はアウグストゥスにちなんでいる(ギリシャ語で Αύγουστος は8月を表す)。詳細は8月を参照。.
8月
8月(はちがつ)は、グレゴリオ暦で年の第8の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦8月を葉月(はづき)と呼び、現在では新暦8月の別名としても用いる。葉月の由来は諸説ある。木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名である。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがある。また、「月見月(つきみづき)」の別名もある。 英語名 August は、ローマ皇帝アウグストゥスに由来する。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「6番目の月」を意味する "Sextilis" から自分の名に変更した。よく見かけられる通説に、彼がそれまで30日であった8月の日数を31日に増やし、その分を2月の日数から減らしたため2月の日数が28日となったというものがある。これは11世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコが提唱したものであり、8月の名称変更以前からすでに2月は短く、8月は長かった事を示す文献が複数発見されているため、この通説は現在では否定されている(詳細はユリウス暦を参照)。.
9月
9月(くがつ)はグレゴリオ暦で年の第9の月にあたり、30日ある。 日本では、旧暦9月を長月(ながつき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。 9月はその年の12月と同じ曜日で始まるのと同じである。 英語での月名 September は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていた慣例を1月に変更したにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって「Julius」に改める以前は「Quintilis」といい、これがラテン語で「第5の」という意味の「quintus」の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる。 日本の学校年度や会計年度は大半が4月始まりであるが、世界に目を向けると9月を採用している国が多い。(アメリカ合衆国、カナダ、ヨーロッパ、中華人民共和国など).
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