392 関係: 加藤徹、南匈奴、南北朝時代 (中国)、南燕、南涼、右北平郡、司馬炎、司馬駿、吐延、吐谷渾、同朋舎、夏舎、太原郡、太守、太康 (晋)、太和 (魏)、太武帝、夫余、外山軍治、契丹、孝荘帝、孝静帝、孝閔帝、孝武帝 (北魏)、孝明帝、孝文帝、宣帝 (北周)、宣武帝、宮崎市定、守屋洋、宇文丘不勤、宇文乞得亀、宇文莫圭、宇文莫槐、宇文遜昵延、宇文部、宇文肱、宇文逸豆帰、宇文泰、宇文普撥、安帝 (漢)、宋書、屠特若尸逐就単于、岡田英弘、上谷郡、丞相、丁零、中央ユーラシア、中国、中国の異民族、...、中華書局、万里の長城、三国志 (歴史書)、乞伏乾帰、乞伏国仁、乞伏熾磐、乞伏暮末、平州、并州、幽州、度遼将軍、京都大学、広寧郡、五胡十六国時代、代 (五胡十六国)、代王 (拓跋普根の子)、代郡、延平 (漢)、延康 (漢)、建安 (漢)、建武 (漢)、廃帝 (西魏)、弩、張奐、使匈奴中郎将、後燕、後趙、後漢、後漢書、匈奴、北史、北周、北魏、チュルク語族、バックル、モンゴル語、モンゴル語族、ワイ人、トーテム、トゥ族、ピン音、ピーター・A・ブドバーグ、テン、刺史、周書、咸寧 (晋)、和帝 (漢)、和連、アーサー・F・ライト、カガン、シベ族、唐、冒頓単于、内田吟風、其至ケン、元初、元恭、元朗 (北魏)、元曄、光武帝、前燕、前趙、回鶻、皇帝、王、王沈 (西晋)、王朝、礪波護、禿髪利鹿孤、禿髪ジョク檀、禿髪烏孤、秦州、秦朗、突厥、筑摩書房、簡体字、紀元前209年、紀元前3世紀、献文帝、烏孫、烏桓、結婚、田豫、田村実造、熹平、牽弘、白鳥庫吉、隋、隋書、莫護跋、遊牧民、遼西、遼西郡、遼東半島、遼東郡、道武帝、華北、青龍 (魏)、静帝、順帝 (漢)、顔師古、衛カン、西域、西秦、西燕、西魏、西晋、馬隆、騫曼、鬱築ケン、講談社、講談社現代新書、魁頭、魏 (三国)、魏書、護烏桓校尉、鮮卑語、鮮于輔、資治通鑑、軻比能、黄初、霊帝 (漢)、胡烈、都尉、阿豺、関中、閻柔、蒲頭、邑、雁門郡、連休 (鮮卑)、陳寿、JIS X 0212、JIS X 0213、PHP研究所、PHP文庫、柔然、恭帝 (西魏)、捕虜、東魏、東胡、東洋文庫 (平凡社)、杉山正明、校尉、桓帝 (漢)、森安孝夫、楊海英、檀石槐、正始 (魏)、武帝 (北周)、歩度根、殤帝 (漢)、段乞珍、段務勿塵、段疾陸眷、段牙、段随、段遼、段部、段蘭、段渉復辰、段末波、段日陸眷、永平 (漢)、永初 (漢)、永元 (漢)、泰始 (晋)、泄帰泥、法律文化社、洛陽市、涼州、満州語、漁陽郡、漢、漢書、戊己校尉、明帝 (北周)、明元帝、昌黎郡、新人物往来社、新唐書、新潮社、於仇賁、文帝 (西魏)、文鴦、文藝春秋、文成帝 (北魏)、敦煌市、慕容、慕容垂、慕容吐谷渾、慕容宝、慕容徳、慕容忠、慕容イ、慕容カイ、慕容コウ、慕容儁、慕容凱、慕容瑤、慕容熙、慕容盛、慕容超、慕容部、慕容耐、慕容永、慕容沖、慕容泓、慕容渉帰、慕容木延、扶羅韓、拡張漢字、拓跋力微、拓跋寔、拓跋什翼ケン、拓跋弗、拓跋余、拓跋コツ那、拓跋禄官、拓跋綽、拓跋翳槐、拓跋猗イ、拓跋猗盧、拓跋鬱律、拓跋賀ル、拓跋部、拓跋氏、拓跋沙漠汗、拓跋悉鹿、拓跋普根、曹叡、曹丕、曹彰、曹操、晋書、106年、109年、117年、177年、181年、189年、1967年、1971年、1975年、1992年、2007年、218年、220年、221年、224年、228年、233年、234年、235年、240年、244年、270年、271年、273年、275年、276年、277年、278年、279年、281年、282年、283年、285年、286年、287年、293年、294年、295年、2世紀、303年、305年、307年、308年、315年、316年、318年、321年、325年、329年、331年、333年、335年、337年、338年、344年、348年、352年、357年、359年、360年、370年、376年、384年、385年、386年、388年、394年、396年、397年、398年、399年、400年、401年、402年、405年、407年、409年、410年、412年、414年、423年、428年、431年、452年、465年、471年、499年、515年、528年、530年、531年、532年、534年、535年、54年、550年、551年、554年、556年、557年、560年、578年、580年、581年、6世紀、94年、95年。 インデックスを展開 (342 もっと) »
加藤徹
加藤 徹(かとう とおる、1963年 - )は、東京都生まれの中国文学研究者、小説家、明治大学教授。小説家としてのペンネームは嘉藤 徹。.
南匈奴
南匈奴(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48年に匈奴から分かれた南の勢力。これに対して北に残った勢力を北匈奴という。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えるが、304年に劉淵が漢王を称して西晋から独立したため、五胡十六国時代が始まる。.
南北朝時代 (中国)
北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.
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南燕
南燕(なんえん、398年 - 410年)は、五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容徳によって建てられた国。国号は燕。.
南涼
南涼(なんりょう、397年 - 414年)は五胡十六国時代に鮮卑禿髪部の禿髪烏孤によって建てられた国。南涼の禿髪氏は拓跋氏から派出したため、この国は拓跋涼国とも称される。.
右北平郡
紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''右北平郡'''の位置 右北平郡(ゆうほくへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。.
司馬炎
司馬 炎(しば えん)は、西晋の初代皇帝。諡号は武帝。 魏から禅譲を受けて晋を建て、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。.
司馬駿
司馬 駿(しば しゅん、233年 - 286年)は、西晋の皇族。字は子臧(しそう)。司馬懿の第6子。生母は伏貴妃。司馬師・司馬昭の異母弟。司馬亮・司馬伷・司馬京の同母弟。司馬榦・司馬肜・司馬倫の異母兄。子に司馬暢・司馬歆ら10人。.
吐延
吐延(とえん、拼音:tŭ/tù yán 生没年不詳)は、鮮卑吐谷渾の第二代の王で、初代王慕容吐谷渾の長子。子は葉延。慕容渉帰の孫にあたる。.
吐谷渾
吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。.
同朋舎
株式会社図書印刷同朋舎(としょいんさつ どうほうしゃ)は、京都府京都市下京区に本社をおく出版社である。通称は同朋舎。仏教書や人文関係の専門書の出版、受託印刷を行っている。.
夏舎
夏 舎(か しゃ、? - 228年)は、中国三国時代の魏の官僚。通訳として仕えていた人物。 228年、護烏桓校尉であった田豫の命を受けて、鮮卑族の大人軻比能の女婿鬱築鞬の下に派遣されたが、殺害された。.
太原郡
太原郡(たいげん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から隋代にかけて、現在の山西省太原市一帯に設置された。.
太守
太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.
太康 (晋)
太康(たいこう)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。280年 - 289年。.
太和 (魏)
太和(たいわ)は、三国時代、魏の明帝曹叡の治世に行われた最初の元号。227年 - 233年。.
太武帝
太武帝(たいぶてい)は、北朝北魏の第3代皇帝。第2代明元帝の長子。字の仏狸は古代テュルク諸語の で、狼を意味する。.
夫余
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。 2世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 4世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。.
外山軍治
外山 軍治(とやま ぐんじ、1910年 - 1999年9月7日)は、日本の東洋史学者、大阪外国語大学名誉教授。 大阪市生まれ。1933年、京都帝国大学文学部史学科卒。渤海国研究に参加、戦後、大阪外国語大学教授。1962年、「金朝史の研究」で京都大学文学博士。1974年、定年退官、名誉教授。愛泉女子短期大学教授、堺女子短期大学教授。北方異民族を研究したほか、書史の研究もおこなった。.
契丹
宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.
孝荘帝
孝荘帝(こうそうてい、507年 - 531年、在位:528年 - 530年)は、北魏の第9代皇帝。姓は元、諱は子攸。彭城王元勰の三男で、第6代皇帝孝文帝の甥にあたる。母は正室の李媛華。.
孝静帝
孝静帝(こうせいてい)は、北朝東魏唯一の皇帝。姓は元(げん)、諱は善見(ぜんけん)。.
孝閔帝
孝閔帝(こうびんてい)は、北朝北周の初代天王。姓は宇文、諱は覚。北周の創始者とされるものの、実質は従兄である宇文護の傀儡であった。.
孝武帝 (北魏)
孝武帝(こうぶてい、510年 - 535年、在位:532年 - 534年)は、北魏の最後の皇帝。姓は元、諱は脩(修とする史料もある)。第7代皇帝宣武帝の甥。諡号は『魏書』では出帝とも記される。孝武帝は西魏において、出帝は東魏において贈られた諡号である。.
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孝明帝
孝明帝(こうめいてい)は、北朝北魏の第8代皇帝。宣武帝の子。.
孝文帝
孝文帝(こうぶんてい、467年10月13日 - 499年4月26日)は、北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)。諱は宏。孝文帝の時代に北魏宗室の姓は拓跋から元に改められた。.
宣帝 (北周)
宣帝(せんてい)は、北朝北周の第4代皇帝。姓は宇文(うぶん)、諱は贇(いん)。北周の武帝の長男。.
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宣武帝
宣武帝(せんぶてい)は、北朝北魏の第7代皇帝。.
宮崎市定
宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。.
守屋洋
守屋 洋(もりや ひろし、1932年5月19日 - )は、中国文学者。SBI大学院大学 教授。宮城県生まれ。.
宇文丘不勤
宇文 丘不勤 (呉音:うもん くふつごん、漢音:うぶん きゅうふつきん、拼音:Yǔwén Qiūbùqín 生没年不詳)は、匈奴系鮮卑族宇文部の大人(たいじん:部族長)で、宇文普撥の子、宇文莫珪の父。.
宇文乞得亀
宇文 乞得亀(呉音:うぶん こちとくき、漢音:うぶん きつとくき、、生没年不詳)は、匈奴系鮮卑族宇文部の大人(たいじん:部族長)。父は宇文遜昵延、兄に宇文悉跋堆がいる。.
宇文莫圭
宇文 莫珪(呉音:うもん まくけい、漢音:うぶん ばくけい、拼音:Yŭwén Mòguī, 生没年不詳)は、西晋代の匈奴系鮮卑宇文部の大人(たいじん:部族長)で、宇文丘不勤の子である。『魏書』では、北魏の道武帝(拓跋珪)の諱を避けて、宇文莫廆と書かれた。『晋書』では、莫圭と書かれる。.
宇文莫槐
宇文 莫槐(呉音:うもん まくえ、漢音:うぶん ばくかい、拼音:Yǔwén Mòhuaí, ? - 293年)は、匈奴系鮮卑族宇文部の大人(たいじん:部族長)で、宇文普撥の兄。.
宇文遜昵延
宇文 遜昵延(呉音:うぶん そんにちえん、漢音:うぶん そんじつえん、拼音:Yŭwén Xùnnìyán 生没年不詳)は、匈奴系鮮卑族宇文部の大人(たいじん:部族長)。父は宇文莫珪、子は宇文乞得亀。『晋書』や『資治通鑑』では悉獨官(しつとくかん)と書かれる。.
宇文部
宇文 部(うぶん ぶ、)は、元来は匈奴系俟汾氏であった鮮卑の一部族で、宇文莫珪のときに強盛となった。南北朝時代にはその子孫が北周を建てた。.
宇文肱
宇文 肱(うぶん こう、? - 526年)は、北魏末の武人。宇文泰の父。北周の徳皇帝と追尊された。本貫は代郡武川県。.
宇文逸豆帰
宇文 逸豆帰(呉音:うもん いちずぎ、漢音:うぶん いつとうき、拼音:Yŭwén Yìdòuguī、生没年不詳)は、匈奴系鮮卑族宇文部の最後の大人(たいじん:部族長)。『周書』では侯豆帰と書かれ、宇文莫那から9世目にあたるとされる。のちに、逸豆帰の直系の子孫が北周を建てた。.
宇文泰
宇文 泰(うぶん たい、正始2年(505年) - 恭帝3年10月4日(556年11月21日))は、北魏・西魏の政治家。字は黒獺(または黒泰とも)。鮮卑の人であり、実質的に北周の基礎を築いた。実際に帝位には就いていないが、廟号は太祖、559年には文帝と追諡されている。.
宇文普撥
宇文普撥(呉音:うもん ふはち、漢音:うぶん ふはつ、拼音:Yǔwén Pŭbō, 生没年不詳)は、匈奴系鮮卑族宇文部の大人(たいじん:部族長)で、宇文莫槐の弟、宇文丘不勤の父。.
安帝 (漢)
安帝(あんてい)は、後漢の第6代皇帝。第3代皇帝章帝の孫。父は清河孝王劉慶。母は側室の左小娥。.
宋書
『宋書』(そうしょ)は、中国南朝の宋について書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。 宋代のうちに何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができた。本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる。宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。 北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったという。 日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている。.
屠特若尸逐就単于
屠特若尸逐就単于(ととくじゃくしちくしゅうぜんう、拼音:Tútèruòshīzhújiùchányú, ? - 177年没)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。伊陵尸逐就単于の子。屠特若尸逐就単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は不明。.
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岡田英弘
岡田 英弘(おかだ ひでひろ、1931年1月24日 - 2017年5月25日)は、日本の東洋史学者。東京外国語大学名誉教授。東洋文庫専任研究員。 専攻は満洲史、モンゴル史であるが、中国・日本史論についても多くの著作がある。.
上谷郡
上谷郡(じょうこく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡である。秦の時代に設置。現在の中華人民共和国北京市にあたる。.
丞相
丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.
丁零
丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令,丁霊,勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀~6世紀では高車、6世紀~8世紀では鉄勒(てつろく)とも呼ばれた。.
中央ユーラシア
中央ユーラシア(ちゅうおうユーラシア)とは、ユーラシア大陸の中央部分に広がるウラル・アルタイ系の諸言語を用いる諸民族が居住する地域を広く指す文化的な地域概念である。1960年代にハンガリー出身の学者が用い始めて以来、ウラル・アルタイ系の民族の歴史や文化を研究対象とするアルタイ学にとって便利な地域概念として、次第に広く用いられるようになった。 これらの地域の特徴は歴史上、ツングース、モンゴル、テュルク、フィン・ウゴルなどのウラル・アルタイ系の諸言語を話す人々が歴史的に重要な役割を果たしてきたことである。古くは遊牧民、新しくは定住民としてウラル・アルタイ系の人々に様々な文化的影響を与えたイラン系の人々もこの地域の重要な構成員である。また、彼らはロシア人や漢民族などの周辺の大民族と密接に関わってきた。.
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中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国の異民族
中国の異民族(ちゅうごくのいみんぞく)では、中国史に登場する、漢民族以外の周辺民族を挙げる。なお、ここで扱う異民族には、長い年月の中で漢民族と同化していき、現代の漢民族の祖先が含まれる場合もある。.
中華書局
中華書局(ちゅうかしょきょく)は中華人民共和国の代表的な出版社。 1912年に陸費逵(伯鴻)によって上海で設立された。小学校や中学校の教科書の出版を中心とした出版社で、古典籍や、自然科学書・社会科学書・文芸書・参考図書類をも印刷出版していた。同じ上海の商務印書館とは久しくライバル関係にあり、商務印書館が『辞源』を出版すると中華書局は『辞海』を出版し、商務印書館が『四部叢刊』を出版すると中華書局は『四部備要』を出版するという具合であった。 中華人民共和国成立後の1954年5月に、北京へと本社を移転した。1978年には辞典などの工具書を専門とする上海辞書出版社が中華書局から独立した。古い漢籍を扱うも同年中華書局から独立した。 台湾では大陸のものとは別に中華書局が営業されている。 香港には1927年に中華書局の分局が営業を開始した。1988年に香港の三聯書店・商務印書館とともに聯合出版有限公司が成立した。.
万里の長城
万里の長城(ばんりのちょうじょう、万里长城、、Цагаан хэрэм、、満州語: 、)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。 よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。 なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。.
三国志 (歴史書)
『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。.
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乞伏乾帰
乞伏 乾帰(きつぶく けんき)は、五胡十六国時代の西秦の第2代の王。隴西鮮卑人。乞伏国仁の弟。 乞伏国仁が西秦を検束すると乾帰は上将軍に任じられた。建義4年(388年)、国仁の薨去に伴い、国仁の子である乞伏公府が幼少であることから群臣に推戴され大都督・大将軍・大単于・河南王に即位、太初と改元し金城(現在の甘粛省蘭州市)に遷都、翌年には前秦の苻登から金城王に封じられている。 太初7年(394年)、苻登の要請により乾帰は後秦攻撃の出兵を実施、この功績により梁王に封じられた。同年苻登が戦死すると苻崇が即位したが、乾帰は苻崇を駆逐し、苻崇は氐族仇池部隴西王楊定のもとに亡命、後に両者は共同して西秦攻撃を行ったが、乾帰が連合軍を撃退、楊定を惨殺し前秦を滅亡させた、西秦は隴西地区を勢力下に収めた。太初8年(395年)には西城(現在の甘粛省靖遠県)に遷都、太初13年(400年)には苑川(現在の甘粛省靖遠県)に再び遷都している。同年、後秦軍に辰谷にて敗れた乾帰は南涼へと亡命し西秦はここに一旦滅亡した。この直後禿髪利鹿孤に殺害されることを恐れた乾帰は後秦へと再度亡命している。 後秦に亡命した乾帰は姚興の冊封を受け持節・都督河南諸軍事・鎮遠将軍・河州刺史・帰義侯となった。翌年には西秦故都である苑川鎮守に任じられ、部衆を率いて故地に帰還している。乾帰が後秦に亡命していた時期、後涼天王呂隆の投降を行い、仇池部族氐王楊盛を攻撃、吐谷渾を占拠するなどの事跡を残している。弘始9年(407年)、姚興は乾帰の勢力が高大になり自己の支配下に置くため乾帰を長安に留め尚書に任じている。 弘始10年(408年)、後秦が南涼・夏などに敗れ国力が衰退すると、翌年乾帰は苑川に遷り、その後度堅山を都城とし再び秦王に即位、更始と改元し西秦を復活させた。 更始2年(410年)には苑川に遷都するなど国内の整備に努めたが、更始4年(412年)、乾帰は乞伏公府により殺害された。諡号は武元王、廟号は高祖であり、子の乞伏熾磐が西秦の王位を継承した。 けんき Category:4世紀生 Category:412年没 Category:前秦の人物 Category:後秦の人物.
乞伏国仁
乞伏 国仁(きつぶく こくじん)は、五胡十六国時代の西秦の創建者。隴西鮮卑人。在位期間中、正式には秦王を称していない。 父である乞伏司繁は前秦の苻堅より南単于に封じられており、前秦建元12年(376年)に司繁が死去すると国仁がその地位を継承した。建元19年(383年)淝水の戦いに際し、苻堅は国仁を前将軍に任じ作戦に参加させている。 前秦の臣下としての国仁であるが、叔父である頹が隴西で反乱を起こすと転機を迎える。当初苻堅は国仁を征討軍に任じたが、歩頹が国仁を迎え入れたことで、国仁は淝水の戦で国勢が傾いていた前秦の政治情勢に乗じその他部族を統合してしまう。前秦太安元年(385年)、苻堅が姚萇により殺害されると、国仁は大都督・大将軍・大単于・領秦河二州牧を自称し、独自の元号として建義を建て、勇士城(現在の甘粛省楡中県)を都に定め西秦政権を樹立した。 建義4年(388年)に国仁が薨去すると弟の乞伏乾帰がその地位を継承した。 こくしん Category:4世紀生 Category:388年没 Category:前秦の人物.
乞伏熾磐
乞伏 熾磐(きつぶく しばん)は、五胡十六国時代の西秦の第3代王。 太初13年(400年)に西秦が一旦滅亡した際、熾磐は南涼に送られ人質となっていたが、弘始4年(402年)に南涼を出奔し父である後秦に亡命していた乾帰の元に身を寄せている。後秦では軍を掌握し割拠勢力の一つとなっていた。 弘始11年(409年)、乾帰が西秦の故地に帰還して秦王を称し、西秦が復興されると、熾磐は立太子された。更始4年(412年)に乾帰が姪である乞伏公府に殺害される事件が発生すると、熾磐は公府を殺害し自ら秦王の地位を継承、河南王を称し永康と改元した。永康3年(414年)には南涼を滅ぼし秦王を称し、その後は北涼との抗争が続くこととなった。 建弘9年(428年)に病死すると文昭王の諡号を、太祖の廟号を贈られ、その子乞伏暮末が王位を継承した。 しはん Category:4世紀生 Category:428年没 Category:後秦の人物.
乞伏暮末
乞伏 暮末(きつぶく ぼまつ)は、五胡十六国時代の西秦の第4代王。 建弘9年(428年)に熾磐の薨去により秦王の地位を継承、永弘と改元した。史書によれば、在位期間中はほしいままに死刑を行い民心が離反したと伝える。永弘3年(430年)、北涼勢力の強大化に圧迫された暮末は北魏への帰順を画策するが、夏に阻止されている。 永弘4年(431年)、夏による西秦都城南安の攻撃が行われると暮末は降伏、ここに西秦は滅亡した。暮末は間もなく夏の赫連定により殺害されている。 ほまつ Category:431年没.
平州
平州(へいしゅう)は中国にかつて存在した州。.
并州
并州(へいしゅう)は中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『周礼』では「正北」すなわち中原から真北側にあたる地域であるとし、五岳の一である恒山を山鎮とするとしている。.
幽州
幽州(ゆうしゅう)は、中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』、『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。.
度遼将軍
度遼将軍(とりょうしょうぐん/たくりょうしょうぐん)は前漢以降の官職名。渡遼将軍(遼水を渡って北族を討つ将軍の意)とも書かれる。 昭帝の元鳳3年(紀元前78年)、遼東の烏桓が反乱した際に中郎将の范明友が任命され、烏桓を討ったことに始まる。前漢においては范明友が解任された後は確認できない。 後漢の明帝の永平8年(65年)、降伏した南匈奴で二心を抱く者を監視し備えるために「行度遼将軍事」が置かれ、五原郡曼柏に駐屯することとされた。安帝の元初元年(114年)には辺境に不安が多いことから正式に常設の官とされた。官秩は二千石、銀印青綬であり、属官に長史、司馬2名が置かれた。.
京都大学
記載なし。
広寧郡
広寧郡(廣寧郡、廣甯郡、こうねい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から南北朝時代にかけて、華北の各地に設置された。.
五胡十六国時代
五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.
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代 (五胡十六国)
代(だい、拼音:)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続いた。.
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代王 (拓跋普根の子)
五胡十六国時代の代国第3代の代王(生没:316年、在位:316年)は、第2代の代王拓跋普根の子である。諱、諡号、廟号とも伝わっていない。 316年、代王普根の子として生まれた。その後間もなく普根が逝去したため、祖母の惟氏により代王に立てられたが、同年12月に夭折した。.
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代郡
代郡(だいぐん、拼音:Dài jùn)は、かつて中国に存在した郡。歴史上、秦~晋時代の幽州代郡(現在の河北省蔚県)と、北朝時代の恒州代郡(現在の山西省大同市)がある。.
延平 (漢)
延平(えんぺい)は、後漢の殤帝劉隆の治世に行われた元号。106年。.
延康 (漢)
延康(えんこう)は、後漢の献帝劉協の治世に行われた4番目(永漢を除く)の元号。220年。後漢最後の元号である。曹操の死去にともない改元された。最高実力者といえども、皇帝の臣下にすぎない者の死を理由にした改元はきわめて異例であり、蜀漢などでは認められなかった。.
建安 (漢)
建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。建安25年は3月に改元されて延康元年となった。ただし、蜀漢では延康の正統性を認めず、建安を26年(221年)まで使った。.
建武 (漢)
建武(けんぶ)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年 - 56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。 この元号は、漢王朝を再興した際に初めて制定されたものであることから、後に日本で天皇親政を再興した後醍醐天皇が採用する(建武(けんむ):南朝は1334年1月29日 - 1336年2月19日、北朝は1334年1月29日 - 1338年8月28日)。.
廃帝 (西魏)
廃帝(はいてい)は、北朝西魏の第2代皇帝。姓は元、諱は欽。文帝の長男。母は孝文帝の外孫でもある皇后乙弗氏。.
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弩
西安市から出土した秦代の弩(陝西省歴史博物館所蔵) 弩(ど、おおゆみ)は、東アジア、特に中国において古代から近世にかけて使われた射撃用の武器の一種。「いしゆみ」と訓ずることも少なくないが、これは厳密には正しくはなく、石弓と混同されたものと思われる。.
張奐
張 奐(ちょう かん、、103年 - 181年)は、中国後漢時代の官僚。字は然明。敦煌淵泉(甘粛省瓜州県)の人で漢陽太守張惇の子。使匈奴中郎将などを歴任し、主に辺境地域で活躍した。.
使匈奴中郎将
使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうじょう)は、中国後漢時代の官職。西河郡美稷県に駐屯し、おもに南単于を護衛するために置かれた。秩比二千石で節を持つ。属官は従事二人。有事の際はその度に増員された。.
後燕
後燕(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国の五胡十六国時代に存在した国(384年 - 407年)。華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された。中山(河北省定県)に都し、華北東部と遼西を領有した。.
後趙
後趙(こうちょう、ごちょう、、319年 - 351年)は、中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単に趙(ちょう)であるが、同時代に劉淵によって建てられた同じく国号を趙とする国があるために、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別する。また、石氏の王朝のために石趙(せきちょう)とも呼ばれる。.
後漢
後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.
後漢書
『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.
匈奴
匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.
北史
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。.
北周
北周(ほくしゅう、、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀から紀元前3世紀まで続いた周を始めとする同名の王朝と区別するために北周と呼ぶ。 君主の称号としては当初、秦以来の中国の歴代王朝が称していた「皇帝」号をやめ、「天王」を採用している。.
北魏
北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.
チュルク語族
チュルク語族(チュルクごぞく)/突厥語族(とっけつ-)(Turkic languages)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される語族である。.
バックル
バックル(buckle)または尾錠(びじょう)とは、主にズボンや腕時計、ウェストコート、ベストに用いられているベルトの留め金の事である。.
モンゴル語
モンゴル文字で書かれた「モンゴル」 モンゴル語(モンゴルご、Монгол хэл、Mongol hel、、mongGul kele)は、モンゴル諸語に属する言語であり、モンゴル国の国家公用語である。モンゴル語を含むモンゴル語族は、テュルク語族及びツングース語族とともにアルタイ諸語と呼ばれる。 第8条はモンゴル語をモンゴル国の国家公用語に規定している。モンゴル国では、行政・教育・放送のほとんどがモンゴル語でなされるが、バヤン・ウルギー県では学校教育をカザフ語で行うことが認められている。こうした地域の人々の中にはモンゴル語を全く解さない者もいる。モンゴル国外には10万人以上のモンゴル国民が居住(日本国内にも合法・不法合わせ数千人が滞在しているものと推定されている)しており、かれらの母語でもある。 モンゴル諸語のうち、どこまでを「モンゴル語」と呼ぶのか明確な定義はないが、一般的にはモンゴル国や中国の内モンゴル自治区でも話されているものがモンゴル語とされる。.
モンゴル語族
モンゴル語族(モンゴルごぞく)/蒙古語族(もうこごぞく)は、モンゴル高原(モンゴル国と中国の内モンゴル自治区)を中心に、中央ユーラシアの各地で話される語族である。 モンゴル語族諸言語は、母音調和を行うこと、語彙的意味を持つ名詞や動詞の語幹に文法的意味を持つ接尾辞が次々と付けられる膠着語であることなど、文法の類型上、テュルク語族やツングース語族とよく似ており、これらを総称してアルタイ諸語という。アルタイ諸語をひとつの語族とみて「アルタイ語族」とする説もあるが、同一の祖語に遡りうる音韻の対応があると広く認められる段階にはない。もしアルタイ語族説が成り立つとすれば、モンゴル語族はモンゴル語派と呼ばれることになる。.
ワイ人
(わい、)は、中国の史書である『三国志』や『後漢書』などに記されている古代民族。現在の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から朝鮮半島北東部にかけて、北西から南東に伸びる帯状に存在したとされる。.
トーテム
トーテム()とは、特定の集団や人物、「部族」や「血縁(血統)」に宗教的に結び付けられた野生の動物や植物などの象徴のこと。20世紀におけるトーテムの重要な批判者に文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースがいる。レヴィ=ストロースは、これまで神秘主義的なまどろみとされていたトーテムを、一定の理論性を持った為政者による部族団結の装置と考えた。精神分析創設者のジークムント・フロイトは、「トーテムとタブー」という論文を著している。.
トゥ族
トゥ族()は、中国のモンゴル系少数民族。中国政府が認定する民族である。人口の大半は青海省・甘粛省全般に居住している。人口は中国政府が2000年に行った国勢調査で約24.1万人。.
ピン音
(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.
ピーター・A・ブドバーグ
ピーター・アレクシス・ブドバーグ(Peter Alexis Boodberg、1903年4月8日 – 1972年6月29日)は、ロシア生まれのアメリカ合衆国の言語学者、中国学者。ロシアでの名前はピョートル・アレクセイェヴィチ・ブドベルク (Пётр Алексеевич Будберг)。中国名は「卜弼得」()。 ブドバーグはカリフォルニア大学バークレー校に40年間にわたって教えた。20世紀における漢字、中国文献学、中国語歴史音韻論の研究の発展に影響を及ぼした。.
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テン
テン(貂『広辞苑 第5版』、岩波書店、黄鼬、)は、哺乳綱ネコ目(食肉目)イヌ亜目 イタチ科テン属に分類される食肉類。北海道に生息するエゾクロテン(蝦夷黒貂、)は同属異種。.
刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.
周書
『周書』(しゅうしょ )は、唐の令狐徳棻らが太宗の勅命によって撰した紀伝体の断代史で、二十四史の一つである。西魏、北周両朝の歴史を記録した正史である。『北周書』(ほくしゅうじょ)、『後周書』(こうしゅうじょ)とも呼ぶ。50巻、636年(貞観10年)に完成した。.
咸寧 (晋)
咸寧(かんねい)は西晋の武帝の治世に使われた元号。275年 - 280年.
和帝 (漢)
和帝(わてい)は、後漢の第4代皇帝。諱は劉肇。章帝の子(四男)。生母は梁貴人。平原懐王劉勝、殤帝の父。 幼少時は継母の竇太后と竇憲ら竇一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。 鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ことに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。 外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護である班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。 文化面では、班固・班昭兄妹による『漢書』の編纂(永元4年(92年)の班固の死後、班昭が完成)、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。.
和連
和連(呉音:われん、漢音:かれん、拼音:Hélián、生没年不詳)は、後漢末の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。檀石槐の次子(兄の名は不詳)。.
アーサー・F・ライト
アーサー・F・ライト(Arthur F. Wright)は、アメリカの東洋史学者。.
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カガン
ン(古テュルク語: qaγan、漢語:可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。.
シベ族
ベ族(シベぞく、シベ語: 転写:Sibe、、、)は、中華人民共和国に居住するツングース系の少数民族。 ヌルハチがその支配する土地を満洲と名乗った当時の、女真族の一支族であるシベ(錫伯)部を起源とする人々。シボ族(シボぞく)というカナ表記も広く用いられている。.
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
冒頓単于
冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう、、生年不詳 - 紀元前174年)は、秦末~前漢前期にかけての匈奴の単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)。「冒頓」は名であり、「単于」とは匈奴の言葉で君主を指し、漢語で言うところの王・皇帝に相当する。また「冒頓」とはテュルク語やモンゴル語の「勇者」を意味する「バガトル」の漢字音写、との説がある。.
内田吟風
内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。.
其至ケン
其至鞬(呉音:ぎしこん、漢音:きしけん、ピンイン:Qízhìjiān、生没不詳)は、後漢時代の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)のひとり。率衆侯に封じられる。.
元初
元初(げんしょ)は、後漢の安帝劉祜の治世に行われた2番目の元号。114年 - 120年。元初7年は4月に改元されて永寧元年とされた。.
元恭
元 恭(げん きょう、498年 - 532年)は、北朝北魏の第11代皇帝(在位:531年 - 532年)。『魏書』においては前廃帝、『北史』においては節閔帝と呼ばれている。即位前の王号から広陵王とも呼ばれる。.
元朗 (北魏)
元朗(げん ろう、513年 - 532年)は、北朝北魏の第12代皇帝(在位:531年 - 532年)。諡号や廟号を贈られなかった廃帝の一人で、後廃帝(こうはいてい)、あるいは安定王(あんていおう)と呼ばれる。.
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元曄
元 曄(げん よう、? - 532年)は、北朝北魏の第10代皇帝(在位:530年 - 531年)。諡号、廟号はなく、廃位後の王号で東海王と呼ばれる。曾祖父は太武帝の長男で皇太子であった拓跋晃(恭宗・景穆帝)、祖父は南安王拓跋楨(文成帝の弟)、父は扶風王元怡である。.
光武帝
光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.
前燕
前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。.
前趙
前趙(ぜんちょう、、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。劉趙、漢趙とも呼称される。.
回鶻
回鶻(かいこつ、ウイグル、拼音:Huígŭ、古代テュルク語:10px10px10px10px【Uyγur】、ウイグル語:ئورخۇن ئۇيغۇر خانلىقى)は、テュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、可汗国)。ウイグル帝国森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』,ウイグル国小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可汗(カガン:Qaγan)を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の史書による漢字表記には迴紇『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇、回紇『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下、迴鶻、回鶻などがある。.
皇帝
皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.
王
王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.
王沈 (西晋)
王 沈(おう しん、生年不詳 - 266年)は、中国三国時代から西晋の政治家・歴史家・武将。魏・西晋に仕えた。字は処道。并州太原郡晋陽県(太原市)の人。祖父は王柔(後漢の匈奴中郎将)。父は王機(魏の東郡太守)。叔父(従叔父)は王昶。妻は荀氏(潁川の人)。子は王浚。.
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王朝
王朝(おうちょう、Dynasty)とは歴史の分類方法の一つで、君主の系列あるいはその系列が支配した時代を分類するための歴史用語である。「朝」は朝儀 に由来する。歴史家は歴史研究の都合上、君主の系列を各々の時代や文化圏にあわせて王朝として便宜的に分割してきた。そのため、王朝の定義や分類方法に世界共通の規則はなく、王朝の範囲は歴史家によって異なることがある。すなわち、現君主国が自ら王朝名を名乗ることはない。.
礪波護
波 護(となみ まもる、砺波護 1937年9月6日 - )は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授。三国時代から隋唐代の中国史が専門。師である宮崎市定をはじめとする東洋史学者についての論考も多数ある。大阪府東大阪市出身。.
禿髪利鹿孤
禿髪 利鹿孤(とくはつ りろくこ)は、五胡十六国時代の南涼の第2代王。 禿髪烏孤の弟として生まれ、烏孤の在位期間は驃騎大将軍、西平公に封じられていた。太初3年(399年)に烏孤が死去すると、その遺勅により利鹿孤が南涼君主の地位を継承し、西平(現在の青海省西寧市)に遷都を行った。 建和2年(401年)に河西王を称したが、翌年死没し、康王と諡された。 りろくこ Category:4世紀生 Category:402年没.
禿髪ジョク檀
禿髪 傉檀(とくはつ じょくだん)は五胡十六国時代の南涼の第3代王。禿髪烏孤、禿髪利鹿孤の弟であり、烏孤の在位中は車騎大将軍、広武公に封じられ、利鹿孤の在位中は都督中外諸軍事、涼州牧、録尚書事に任じられ、いずれも軍権は傉檀が掌握していた。 建和3年(402年)に利鹿孤が病没すると、傉檀がその地位を継承して涼王を自称し、弘昌と改元、都も楽都に遷した。しかしそれから数年は夏や北涼の侵入を受けている。周辺からの侵入の原因は南涼の地が小さく、民が貧しいためと考えた傉檀は嘉平7年(414年)に西方の吐谷渾乙弗部を攻め国力の充実を図った。しかし西秦の軍勢により攻撃を受け楽都は陥落し、傉檀も西秦に降伏して南涼はここに滅亡した。翌年、傉檀は西秦王の乞伏熾磐により毒殺された。.
禿髪烏孤
禿髪 烏孤(とくはつ うこ)は、五胡十六国時代の南涼の初代王。.
秦州
州(しんしゅう)は中国にかつて存在した州。.
秦朗
朗(しん ろう、生没年不詳)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は元明。幼名は阿蘇。并州新興郡の人。父は秦宜禄。母は杜氏。子は秦秀。養父は曹操。異父弟は曹林・曹袞。異父妹は金郷公主(何晏夫人)。.
突厥
突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.
筑摩書房
株式会社筑摩書房(ちくましょぼう)は、日本の出版社。筑摩書房のマーク(空を截る鷹)のデザインは青山二郎作。 文学者を中心に個人全集は、増補改訂し繰り返し刊行するので、「全集の筑摩」と称されている。特に『世界文学全集』は多くの類書シリーズを刊行した。ほかに古典・現代文の教科書を現在まで毎年出版している。月刊PR誌に『ちくま』がある。.
簡体字
簡体字(かんたいじ、简体字、)または規範字(きはんじ、、)は、1950年代に中華人民共和国で制定された、従来の漢字を簡略化した字体体系である。簡体字という呼称は通称・俗称であり、正式には簡化字(かんかじ、、)と言う。 中国大陸のほか、シンガポールやマレーシアなどでも採用されている。.
紀元前209年
紀元前209年.
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紀元前3世紀
始皇帝陵から出土した兵馬俑の一団。 アレクサンドリアの大灯台。「世界の七不思議」の一つで、前305年から着工されプトレマイオス2世の治世(前288年 - 前246年)に完成したと伝わる。画像はその再現図。 「瀕死のガリア人」。ヘレニズム時代を代表する彫刻で小アジアのペルガモン国王アッタロス1世がガラティア人(ガリア人)に勝利した記念に作らせたものとされる。画像はローマ時代の模造でカピトリーノ美術館に所蔵されている。 アルプス越え。第二次ポエニ戦争ではカルタゴ側の将軍ハンニバルが巧みな軍略でローマ軍を翻弄した。イベリア半島から遠路はるばるアルプスを象で越え油断していたローマの背後を不意打ちしたことで有名である。 アルキメデス。シラクサ王ヒエロン2世に仕えた学者で、風呂に入ってる途中で王冠の真贋を見極める方法を発見したなど逸話に事欠かない。画像は紀元後2世紀のモザイク画でローマの兵士に殺害される寸前のアルキメデスを描いている。 ロドス島の巨像。ロドス島住民がプトレマイオス朝に与しセレウコス朝を退散させた記念にリンドスのカレスによって作られた太陽神ヘリオスの青銅の像で「世界の七不思議」の一つでもあった。画像はその再現画。 マウリア朝のアショーカ王。最初のインド統一を果たしたアショーカ王は仏教の興隆にも力を尽くした。画像はサーンチーの第一ストゥーパ(仏塔)でアショーカ王の時代に建立されシュンガ朝・アーンドラ朝で拡張された。仏塔の前に立つトーラナ(塔門)には獅子像がある。 グレコ・バクトリア王国。アレクサンドロス大王の東方遠征の残留ギリシア人によりこの王国は現在のアフガニスタンに建国された。画像はアイ・ハヌム遺跡から出土した日時計でインド天文学の影響が窺われる。 パジリク古墳群。ロシア連邦アルタイ共和国にあるスキタイ文化の影響を受けた騎馬民族の古墳で、入れ墨をした遺体と数多くの副葬品が出土した。画像は古墳の壁面覆いの「乗馬する男」。 紀元前3世紀(きげんぜんさんせいき)は、西暦による紀元前300年から紀元前201年までの100年間を指す世紀。.
献文帝
文帝(けんぶんてい)は、北朝北魏の第5代皇帝。.
烏孫
紀元前1世紀の西域諸国。 烏孫(うそん、)は、紀元前161年から5世紀にかけて、イシク湖周辺(現在のキルギス)に存在した遊牧国家。.
烏桓
紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 2世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 烏桓(呉音:うがん、漢音:おかん、)は、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)に存在していた民族。『三国志』などでは烏丸と表記する。.
結婚
結婚(けっこん、marriage)とは、夫婦になること広辞苑 第五版 p.829 結婚。類似概念に婚姻(こんいん)があり、社会的に承認された夫と妻の結合平凡社『世界大百科事典』vol.10, 【婚姻】pp.607-608 末成道夫 執筆箇所をいう。後述のように学術的には「結婚」はもっぱら配偶関係の締結を指し、「婚姻」は配偶関係の締結のほか配偶関係の状態をも含めて指している『文化人類学事典』 弘文堂、1987年1月、246頁.
田豫
豫(でん よ)は、三国時代の人物。田予とも表記される。.
田村実造
村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、東洋史学者、京都大学名誉教授、元京都女子大学学長。 1930年代に中国東北部の実地調査を行い、契丹・遼代の遺跡墳墓を発掘、契丹文字を初めて学会に紹介した。 1940年に京都帝国大学助教授、1947年に教授、文学部長を務め、1968年に定年退官。1954年、日本学士院賞恩賜賞受賞。京都女子大学学長。1974年、勲二等瑞宝章受章。主著に『中国征服王朝の研究』、東洋史教科書作成にも多く参加した。.
熹平
熹平(きへい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた2番目の元号。172年 - 178年。熹平7年は3月に改元されて光和元年となった。.
牽弘
牽 弘(けん こう、? - 271年)は、中国三国時代から西晋の軍人。魏・晋に仕えた。父は牽招。兄に牽嘉。甥に牽秀。安平郡観津県の人。.
白鳥庫吉
白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年2月4日) - 1942年3月30日)は、日本の歴史学者。文学博士である。専門は東洋史。東京帝国大学(現・東京大学)教授。東洋文庫理事長を歴任した。.
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.
隋書
『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。.
莫護跋
莫護跋(ばくごばつ、拼音:Mòhùbá 生没年不詳)は、三国時代魏の鮮卑族の大人。慕容部の始祖。子は慕容木延。前燕の基礎を作った慕容廆の曽祖父にあたる。.
遊牧民
遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.
遼西
遼西(りょうせい、拼音:Liáoxī)は中国東北地方の遼河以西地域を指す歴史的地名。現在の遼寧省西部地域、錦州、朝陽、阜新一帯。 遼河以東は遼東と称した。 古くから東胡系遊牧民族の住居地で、五胡十六国時代には鮮卑慕容部の本拠地となり、前燕、北燕などの国家が形成された。.
遼西郡
遼西郡(りょうせい-ぐん、拼音:Liáoxījùn)は、かつて中国に存在した郡。現在の河北省の一部と遼寧省の一部に相当する。.
遼東半島
遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、中国語簡体字:辽东半岛 Liáodōng Bàndăo)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。.
遼東郡
紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''遼東郡'''の位置 遼東郡(りょうとう-ぐん、)は、かつて中国に存在した郡。現在の遼寧省の一部と朝鮮の一部に相当する。.
道武帝
道武帝(どうぶてい)は、北朝北魏の初代皇帝。姓諱は拓跋珪(たくばつ けい)。別名は渉珪、什翼圭、翼圭、開。.
華北
華北地域 華北(かほく、North China)とは、中国北部地域の呼称である。華北平原とは、多分に重なるが、必ずしも完全に一致しない。.
青龍 (魏)
青龍(せいりゅう)は、三国時代、魏の明帝曹叡の治世に行われた2番目の元号。233年 - 237年。青龍5年は3月に改元されて景初元年となった。.
静帝
静帝(せいてい)は、北朝北周の第5代皇帝。姓は宇文、諱は闡(せん)。.
順帝 (漢)
順帝(じゅんてい)は、後漢の第8代皇帝。.
顔師古
師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者である。本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)、諱は籀、師古は字である。.
衛カン
衛 瓘(えい かん、220年 - 291年)は、中国三国時代から西晋の軍人・政治家。字は伯玉。司隷河東郡安邑県の出身。父は魏の尚書衛覬。弟は衛寔。.
西域
西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).
西秦
西秦(せいしん、拼音:Xī-qín、385年 - 431年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑乞伏部の乞伏国仁によって建てられた国。.
西燕
西燕(せいえん、拼音:Xī-yàn、384年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容泓によって建てられた国。短命だったので十六国に数えられていない。ただし前燕の嫡流にあたり、他の燕朝より最も前燕に近い血統の王朝である。.
西魏
西魏(せいぎ、、535年 - 556年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した2つの魏のうち、函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の方は東魏と呼んで区別する。 「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。 なお、東魏を継承した北斉にて編纂された正史『魏書』においては、東魏の孝静帝を北魏の歴代皇帝に加えており、文帝以降の西魏の皇帝については記述が存在しない。西魏の一部の臣下については次の北周の建国の功臣として『周書』に記載があるケースもあるが、皇帝に関しては、唐の時代に『北史』が編纂されるまで本紀が書かれることはなかった。これを補うための西魏一代を扱った歴史書としては、清代に謝蘊山によって書かれた『西魏書』がある。.
西晋
西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.
馬隆
隆(ば りゅう、? - ?)は、中国三国時代から西晋の軍人。魏・西晋に仕えた。字は孝興。兗州東平国の人。異民族討伐に大いに功績を挙げた。晋書に伝がある。.
騫曼
騫曼(呉音:けんまん、漢音:けんばん、拼音:Xuānmàn 生没年不詳)は、中国後漢末の鮮卑族の人物。檀石槐の孫、和連の子。.
鬱築ケン
鬱築 (呉音:うっちくこん、漢音:うつちくけん、拼音:Yùzhùjiān、? - 228年)は、鮮卑の大人(たいじん:部族長)のひとり。軻比能の女婿。.
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.
講談社現代新書
講談社現代新書(こうだんしゃげんだいしんしょ、Kodansha's new library of knowledge)とは、講談社が発行する教養新書のシリーズである。1964年(昭和39年)4月に創刊した。.
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魁頭
魁頭(呉音:かいず、漢音:かいとう、拼音:Kuítóu 、生没年及び在位年間不詳)は、中国後漢末の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。檀石槐の孫、和連の甥。弟に歩度根、扶羅韓がいる。.
魏 (三国)
魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.
魏書
『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。.
護烏桓校尉
護烏桓校尉(ご うがん こうい)は、漢代に設置された官職で、おもに烏桓族を管轄する軍政務官。漢にならい、魏も設置した。秩石は二千石。節を擁し、下僚に一名、司馬二名(各秩石六百石)いる。『三国志』では護烏丸校尉と表記。.
鮮卑語
鮮卑語(せんぴご)は、かつて鮮卑で話された言語である。その言語系統はモンゴル系ともテュルク系ともいわれるが、定説には至っていない。.
鮮于輔
鮮于 輔(せんう ほ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての魏の軍人、政治家。幽州漁陽郡の人。.
資治通鑑
『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.
軻比能
軻比能(呉音:かびのう、漢音:かひどう、拼音:Kēbǐnéng 生年不詳 - 235年)は、中国後漢末期から三国時代の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。封号は附義王。.
黄初
初(こうしょ)は、三国時代、魏の文帝曹丕の治世に行われた最初の元号。220年 - 226年。五行説では黄色は「土」を表し「火徳」の漢王朝の後を継ぐのは「土徳」の王朝であるという当時の認識から(例:「黄巾の乱」)、「土徳」の始まりという意味で「黄初」と制定された。.
霊帝 (漢)
霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。.
胡烈
胡 烈(こ れつ、? - 270年)は、中国三国時代から西晋にかけての武将。魏・西晋に仕えた。字は玄武。雍州安定郡の人。父は胡遵。兄は胡広・胡奮。弟は胡岐。子は胡淵。.
都尉
都尉(とい)は秦、漢の官職名。郡の軍事を掌る。 前漢においては、元は郡尉と呼ばれていたが、景帝中2年に郡守を郡太守と改称し、郡尉は郡都尉と改称した。都尉は太守を補佐し、郡内の武職や兵卒を掌った。官秩は比二千石であった。役所は太守とは別の場所に置かれた。通常は郡に一名だが、辺境などでは一郡に複数の都尉が置かれることもあり、その場合には「西部都尉」「中部都尉」などと呼ばれる。副官に丞(官秩比六百石)がいた。 後漢の光武帝の建武6年、辺境を除いて都尉は廃止され、太守が職務を兼任し、必要に応じ臨時に置かれることがあるだけとなった。 また、前漢においては関所に置かれる関都尉、辺境の郡で農事を掌る農都尉、属国を掌る属国都尉があったが、後漢においては属国都尉だけが残った。それとは別に、騎都尉、奉車都尉など一部の武官にも都尉の称が使われている。 その後、李自成政権が県の統治官を都尉と改めたことがある。(従来は「知県事」) 清代には、武官の散官の名称として都尉が用いられた。一品、二品官の散官は「○○将軍」であるが、三品、四品官の散官は「○○都尉」と名づけられる。 北京政府は警察庁の役職として都尉を設置している。.
阿豺
阿豺(あさい、? - 426年)は、中国五胡十六国時代に青海地方に蟠踞した吐谷渾の族長で、本姓は鮮卑の慕容氏。 兄の樹洛干が417年に死ぬと、その跡を襲った。自ら驃騎将軍・沙州刺史と号し、周辺の氐・羌族を征服し、大いに版図を広げた。 また、南朝宋に朝貢を行い、誼を通じた。宋から澆河公に封じられたが、まだ爵を受けないうちに急病で死去した。 阿豺は死の床にあって、後継者として従兄弟にあたる慕璝を指名した。死後、一族の間で争いが起こるのを恐れ、自らの20人の子を呼び寄せると、1人1本ずつの矢を出させた。20本の矢を受け取った阿豺は、そのうち1本を同じく従兄弟である慕利延に渡し、折ってみるよう命じた。矢はたやすく折れた。今度は残りの19本を束ねて渡して折らせたが、矢は折れなかった。そこで「お前たち分かったか。一本では折れやすいが、集まればくじき難い。皆が心を一にして力を尽くしてこそ社稷を堅固にすることができる。」と諭したという。 次の慕璝の代に、吐谷渾は宋だけでなく北魏とも朝貢関係を保ち、勢力はさらに拡大した。.
関中
関中(かんちゅう)とは、中華人民共和国の地域である。函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。.
閻柔
閻 柔(えん じゅう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代における魏の武将・政治家。幽州広陽郡の人。弟は閻志(魏の上谷太守)。.
蒲頭
蒲頭(呉音:ぶず、漢音:ほとう、拼音:Pútóu 生没年不詳)は、中国後漢時代から三国時代にかけての西部鮮卑の大人(たいじん:部族長)のひとり。附頭とも書く。.
邑
邑(ゆう)は、古代中国の都市国家的な集住地。後の中国の文化や文明のもととなった黄河の流域の古代文明において、新石器時代から青銅器時代である春秋時代中期にかけて広く展開した。漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。.
雁門郡
雁門郡(鴈門郡、がんもん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山西省北部に設置された。.
連休 (鮮卑)
連休(呉音:れんく、漢音:れんきゅう、拼音:Liánxiū、生没年不詳)は、中国後漢時代の遼西鮮卑族の人。.
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陳寿
陳寿(ちんじゅ).
JIS X 0212
JIS X 0212(ジス X 0212)は、JIS X 0208:1983に含まれない文字を集めた、6067字の符号化文字集合を規定する日本工業規格 (JIS) である。規格名称は「情報交換用漢字符号-補助漢字」である。1990年10月1日に制定され、JIS X 0208と組み合わせて利用される。JIS補助漢字の通称がある。.
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JIS X 0213
JIS X 0213(ジス X 0213)はJIS X 0208:1997を拡張した、日本語用の符号化文字集合を規定する日本工業規格 (JIS) である。規格名称は「7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合」である。 2000年に制定、2004年、2012年に改正された。2000年に制定されたJIS X 0213:2000は通称「JIS2000」と呼ばれている。2004年に改正されたJIS X 0213:2004は通称「JIS2004」と呼ばれている。 JIS X 0208を拡張した規格で、JIS X 0208が規定する6879字の図形文字の集合に対して、日本語の文字コードで運用する必要性の高い4354字が追加され、計1万1233字の図形文字を規定する。JIS X 0208を拡張する点においてJIS X 0212:1990と同目的であるが、JIS X 0212とJIS X 0213との間に互換性はない。JIS X 0212がJIS X 0208にない文字を集めた文字集合であるのに対し、JIS X 0213はJIS X 0208を包含し更に第三・第四水準漢字などを加えた上位集合である。.
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PHP研究所
株式会社PHP研究所(ピーエイチピーけんきゅうしょ、PHP Institute)は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助によって創設され、出版事業を主体に行っている出版社。2010年10月1日、政策シンクタンクを標榜する株式会社PHP総合研究所を吸収合併した。 東京本部は江東区豊洲5丁目6番地の52()、京都本部の住所は京都市南区西九条北ノ内町11()。.
PHP文庫
PHP文庫(ピーエイチピーぶんこ)は、株式会社PHP研究所が発行している文庫レーベル。1984年(昭和59年)4月に創刊された。派生レーベルとして、PHP文芸文庫がある。 毎月3日前後に発行されている。 ビジネス書、自己啓発書や歴史読み物などのノンフィクションを扱っている。一部に歴史小説などのフィクションが収録されている。例外として、恋愛小説『ミッドナイト・コール』(田口ランディ)とコミックエッセイ『猫絵日記』『ほしねこ〜アラサー干物女ですが、猫にまみれて生きている猫絵日記2〜』(鈴尾粥・comicoシリーズ)・『しみことトモヱ』(simico・comicoシリーズ)がある。 文庫書き下ろしの他、単行本やPHP新書の文庫化などが収録されている。 奥付やカバーの背中などに、木が描かれたマークが入っており、本表紙の図柄にロゼッタ・ストーンを採用している。1996年2月刊より一部の著作を除き、背表紙の色がクリーム色に統一された。また背表紙に赤いラインが入っているが、歴史ものについては2002年7月刊より緑色のラインとなった。2017年より、歴史ものについては、背表紙が黄緑となり、ラインが再び赤に変更された。.
柔然
柔然(漢音:じゅうぜん、拼音:)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家。『魏書』,『北史』,『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』,『南斉書』,『梁書』などでは(ぜいぜい)、『周書』,『隋書』などでは茹茹(じょじょ)、『晋書』では蠕と表記される。.
恭帝 (西魏)
恭帝(きょうてい)は、北朝西魏の第3代(最後)の皇帝。また、拓跋氏最後の皇帝でもある。元の姓諱は元廓(げん かく)、のち拓跋姓に復古して拓跋廓(たくばつ かく)。.
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捕虜
捕虜(ほりょ, Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は戦時国際法により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」等定められている捕虜の定義は、1907年のハーグ陸戦条約附属規則では第1条〜第3条、1929年の俘虜の待遇に関する条約では第1条、1949年のジュネーヴ第3条約では第4条にある。。 第二次世界大戦以前の日本においては、公式には俘虜(ふりょ)と呼ばれた例:ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、prisonniers de guerre(フランス語)の訳語に「俘虜」を用いている。。 なお、古代中国においては、中国に攻め込んできた野蛮人(虜)を捕らえる事を捕虜と称した(例:「捕虜将軍」)。.
東魏
東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した二つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の方は、西魏と呼んで区別する。 「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。.
東胡
紀元前210年、秦帝国と東胡(东胡)の位置。 東胡(とうこ、簡体字: 东胡、)は、中国の春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。.
東洋文庫 (平凡社)
東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.
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杉山正明
杉山 正明(すぎやま まさあき、1952年3月1日 - )は、静岡県生まれの日本の歴史学者。京都大学文学研究科名誉教授。主要研究テーマはモンゴル時代史、中央ユーラシア史。日本におけるモンゴル史研究の第一人者である。.
校尉
校尉(こうい)は、前漢以降の中国と、律令制下の日本に置かれたことがある武官の官職である。.
桓帝 (漢)
桓帝(かんてい)は、後漢の第11代皇帝。章帝の曾孫、河間王劉開の孫、蠡吾(れいご)侯劉翼の子。弟は渤海王劉悝、平原王劉碩。順帝の族弟(劉一族中の年少の“いとこ”に当たる)。側室のひとりは寇恂の6世孫(寇栄の従孫女)で、妹の益陽公主は寇恂の玄孫(寇栄の従兄の子)に嫁いだ『後漢書』寇恂伝付寇栄伝。。男子がなく、一族の河間王の系統である霊帝がついだ。.
森安孝夫
森安 孝夫(もりやす たかお、1948年2月11日 - )は、日本の歴史学者。大阪大学名誉教授、神戸市外国語大学客員教授。財団法人東洋文庫兼任研究員。博士(文学)。 敦煌・トゥルファン出土文書、モンゴル高原の碑文類、並びに漢籍史料を中心にイスラム化以前の中央ユーラシア史を研究。.
楊海英
楊 海英(ようかいえい、ヤン・ハイイン、1964年9月15日 - )は、中華人民共和国内モンゴル自治区(南モンゴル)出身の文化人類学者。モンゴル名はオーノス・チョクト「」産経新聞 2012年1月14日、日本に帰化した後の日本名は大野旭で、「楊海英」は中国のペンネームである。.
檀石槐
檀石槐(呉音:だんじゃくえ、漢音:たんせきかい、拼音:Tánshíhuái、生没年不詳)は、後漢末期の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。投鹿侯の子。和連の父。魁頭,扶羅韓,歩度根,騫曼らの祖父、泄帰泥の曾祖父。.
正始 (魏)
正始(せいし)は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた最初の元号。240年 - 249年。正始10年は4月に改元されて嘉平元年となった。.
武帝 (北周)
武帝(ぶてい)は、北朝北周の第3代皇帝。姓は宇文、諱は邕(よう)。西魏の実力者宇文泰の四男。.
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歩度根
歩度根(呉音:ぶどこん/ぶだくこん、漢音:ほとこん/ほたくこん、拼音:Bùdùgēn、生年不詳 - 233年)は、中国後漢末魏初の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。檀石槐の孫、魁頭の弟、扶羅韓の兄。.
殤帝 (漢)
殤帝(しょうてい)は、後漢の第5代皇帝。 後漢の第4代皇帝和帝は多くの皇子をもうけたが、いずれも夭折していた。宦官、外戚による謀殺の疑惑を抱いた和帝は、皇子を民間で養育することとした。元興元年(105年)12月、和帝が崩御した際、長子の劉勝は病気を理由に即位が見送られ、劉隆が宮廷に迎えられて皇帝に即位した。劉勝は殤帝即位と共に平原王に立てられた。 即位した殤帝は生後100日余りであり、朝政は外戚の鄧氏(和帝の皇后だった鄧綏と、その兄の車騎将軍鄧騭)により掌握された。翌延平元年(106年)8月辛亥、病気により崩御し、夭折を意味する「殤」を諡号に贈られた。 中国の歴代皇帝のうち、最年少の皇帝である。 Category:後漢の皇帝 Category:中国の幼君 Category:105年生 Category:106年没.
段乞珍
段 乞珍(だん きつちん、正没年不詳)は、鮮卑段部の大人である。.
段務勿塵
段 務勿塵(だん むもちじん、拼音:Duàn Wùwùchén、? - 310年頃)は、鮮卑段部の大人。段疾陸眷・段匹磾の父。『魏書』では段務目塵と表記される。.
段疾陸眷
段 疾陸眷(だん しつりくけん、拼音:Duàn Jílùjuàn、? - 318年)は、鮮卑段部の大人。『魏書』では段就六眷と表記される。父は段務勿塵。.
段牙
段 牙(呉音:だん げ、漢音:たん が、拼音:Duàn Yá、? - 325年)は、鮮卑段部の大人(たいじん:部族長)。.
段随
段 随(だん ずい)は、五胡十六国時代の西燕の第2代君主。西燕の君主では唯一、慕容部ではなく段部である。.
段遼
段 遼(だん りょう、拼音:Duàn Liáo、? - 338年)は、鮮卑段部の大人(たいじん:部族長)(在位325年 - 338年)。段日陸眷の孫。段末波の従弟。『魏書』では護遼と表記。.
段部
段 部(だん ぶ、拼音:Duàn Bù)は、中国の西晋時代から五胡十六国時代にかけて遼西地域(現在の北京市周辺)に存在した鮮卑の一部族。.
段蘭
段 蘭(だん らん、拼音:Duàn Lán、生没年不詳)は、鮮卑段部の大人(たいじん:部族長)。段遼の弟。『魏書』では鬱蘭と表記。.
段渉復辰
段 渉復辰(呉音:だん じょうふくじん、漢音:たん しょうふくしん、拼音:Duàn Shèfùchén、? - 318年)は、鮮卑段部の大人(たいじん:部族長)。段乞珍の子で、段務勿塵の弟。.
段末波
段 末波(呉音:だん まちは、漢音:たん まつは、拼音:Duàn Mòbō、? - 325年)は、鮮卑段部の大人(たいじん:部族長、在位318年 - 325年)。『晋書』は段末杯と表記している。.
段日陸眷
段 日陸眷(だん じつりくけん、拼音:Duàn Rìlùjuàn 生没年不詳)は、鮮卑の大人である。段部の始祖。『晋書』では段就陸眷と記載される。.
永平 (漢)
永平(えいへい)は、後漢の明帝劉荘の治世に行われた元号。58年 - 75年。.
永初 (漢)
永初(えいしょ)は、後漢の安帝劉祜の治世に行われた最初の元号。107年 - 113年。.
永元 (漢)
永元(えいげん)は、後漢の和帝劉肇の治世に行われた最初の元号。89年 - 105年。永元17年は4月に改元されて元興元年とされた。.
泰始 (晋)
泰始(たいし)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。265年 - 274年。.
泄帰泥
泄帰泥(呉音:せちぎない、漢音:せつきでい、拼音:Xièguīní、泄帰尼とも書く。生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の鮮卑族の王族。扶羅韓の子、歩度根の甥、檀石槐の曾孫。.
法律文化社
株式会社法律文化社(ほうりつぶんかしゃ)は京都市北区に本社を置く出版社。 社会科学・人文科学に関する書籍を主に出版している。.
洛陽市
洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.
涼州
涼州(りょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省、寧夏回族自治区一帯に設置され、現在では甘粛省の別称となっている。.
満州語
満州語(滿洲語、まんしゅうご、ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ、転写:manju gisun)は、満州族が話すツングース諸語に属する言語。.
漁陽郡
紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''漁陽郡'''の位置 漁陽郡(ぎょよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。現在の北京市、天津市、河北省の一部に相当する。.
漢
漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.
漢書
天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.
戊己校尉
戊己校尉(ぼきこうい)は古代中国、前漢以降の官職名。西域を抑える役職であった。 『漢書』百官公卿表上によれば元帝の初元元年に置かれ、同西域伝上によると車師前王の土地(高昌)において屯田を開いた。 属官として丞、司馬各1名と候5名がおり、それぞれ秩石は比六百石であった。 名称の由来については、『漢書』百官公卿表上の顔師古注によれば、十干のうち甲乙丙丁庚辛壬癸はそれぞれ方角に位を持つが戊と己は位を持たないので、定住する場所を持たない校尉をそれになぞらえたという説と、戊と己は中央に位置して四方を鎮撫するので、西域の中心に位置して周囲を鎮撫するのになぞらえたという説があるといい、定かではない。 『後漢書』西域伝には「戊己二校尉」とあり、戊校尉と己校尉の2人の校尉があり、その総称が戊己校尉であったようである。 王莽の時代に西域が離反し、後漢の当初は戊己校尉は置かれていなかったが、永平16年に再度設置した。しかし西域での情勢悪化により建初元年に戊己校尉を漢に呼び戻した。しかし永元3年に班超の活躍により戊己校尉をまた置くようになった(『後漢書』西域伝)。 後漢末にまた西域との交通が途絶えていたが、三国魏の黄初3年に西域からの使者が訪れたことを契機として戊己校尉をまた置き、涼州刺史が戊己校尉を領するようになった(『三国志』文帝紀、『晋書』地理志上)。.
明帝 (北周)
明帝(めいてい)は、北朝北周の第2代皇帝。姓は宇文、諱は毓(いく)。.
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明元帝
明元帝(めいげんてい)は、北魏の第2代皇帝(在位:409年 - 423年)。.
昌黎郡
昌黎郡(しょうれい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から隋初にかけて、現在の遼寧省西部に設置された。.
新人物往来社
株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.
新唐書
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.
新潮社
株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。.
於仇賁
於仇賁(呉音:うぐぶん、漢音:おきゅうふん、拼音:Wūchóubēn 生没不詳)は、後漢初期の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。史書において、最初に登場する鮮卑大人である。.
文帝 (西魏)
文帝(ぶんてい)は、北朝西魏の初代皇帝。北魏の京兆王元愉の三男。.
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文鴦
文 鴦(ぶん おう、238年 - 291年)は、中国三国時代から西晋にかけての軍人。魏・呉・晋に仕えた。字は次騫。豫州譙国譙県の出身。祖父は文稷。父は文欽。弟は文虎。「鴦」は幼名で、本名は文俶(「淑」という記載もある)という。三国志と晋書に記述が散見される。.
文藝春秋
株式会社文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう、Bungeishunju Ltd.)は、日本の出版社。東京都千代田区紀尾井町に本社を置く。.
文成帝 (北魏)
文成帝(ぶんせいてい)は、北朝北魏の第4代皇帝。太武帝の皇太子であった拓跋晃の長男。.
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敦煌市
敦煌市(とんこうし)は、中国甘粛省北西部の都市。酒泉市の管轄下の県級市である。かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市であり、近隣にある莫高窟とそこから出た敦煌文書で有名である。歴史的な敦煌は現在の敦煌市と瓜州県を合わせた領域にほぼ重なる。.
慕容
慕容(ぼよう)は、漢姓のひとつ。『百家姓』の436番目。 鮮卑の部族名である慕容部に由来し、五胡十六国時代の前燕・西燕・後燕・南燕の国姓である。また、吐谷渾の建国者も慕容氏であったという。 慕容姓はその後も現在まで存在し続けている。.
慕容垂
慕容 垂(ぼよう すい、)は、五胡十六国時代の後燕の創建者。 当初は前燕の皇族で、桓温を撃退するなど活躍したが、奸臣の慕容評等に命を狙われて前秦に亡命した。383年に前秦が淝水の戦いで大敗すると自立して前燕の復興として後燕を建国した。395年、太子の慕容宝が参合陂の戦いで大敗すると自ら反撃したが退軍中に病を患って死去した。.
慕容吐谷渾
慕容 吐谷渾(ぼよう とよくこん、拼音:Mùróng Tǔyùhún 生没年:246年 - 317年)は、吐谷渾の建立者である。鮮卑慕容部の人。父は慕容渉帰、弟は慕容廆。.
慕容宝
慕容 宝(ぼよう ほう、拼音:Mùróng Bǎo)は、五胡十六国時代の後燕の第2代皇帝。初代皇帝慕容垂の第4子。 慕容宝は慕容垂から後燕の膨大な領土を受け継いだが、その大部分を在位の数年のうちに北魏によって失った。北魏に反撃する道中で部下の反乱に遭い、簒奪した蘭汗によって殺されたが、子の慕容盛が蘭汗を斬って後を継いだ。慕容宝は優柔不断で軍事、政治的な決断ができなかったという『晋書』巻124「慕容宝載記」。.
慕容徳
慕容 徳(ぼよう とく)は五胡十六国時代の南燕の初代皇帝。前燕の建国者慕容皝の子。.
慕容忠
慕容 忠(ぼよう ちゅう)は、五胡十六国時代の西燕の第5代皇帝。実質的な西燕の創建者、慕容泓の子。.
慕容イ
慕容 暐(ぼよう い、拼音:Mùróng Wĕi)は、五胡十六国時代の前燕の第3代君主。苻堅の攻撃を受け、前燕が滅亡した際の皇帝である。.
慕容カイ
慕容 廆(ぼよう かい、拼音:Mùróng Huì 生没年:269年 - 333年)は、鮮卑慕容部の大人(在位:285年 - 333年)。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省義県の北西)の出身。字は弈洛瓌。別名:若洛廆。廟号は高祖。父は慕容渉帰、兄は慕容吐谷渾。.
慕容コウ
慕容 皝(ぼよう こう、)は、五胡十六国時代の前燕の初代王。字は元真。昌黎郡棘城県の人。鮮卑慕容部の大人で、慕容廆の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁、慕容昭、慕容評、慕容幼などがいる。.
慕容儁
慕容 儁(ぼよう しゅん、拼音:Mùróng Juàn / Jùn)は、五胡十六国時代の前燕の第2代君主。当初は燕王を自称したが(在位:349年 - 352年)、後に皇帝を称した(在位:352年 - 360年)。太祖慕容皝の次男で慕容恪、慕容垂、慕容納、慕容徳の兄。.
慕容凱
慕容 凱(ぼよう がい)は、五胡十六国時代の西燕の第3代王。前燕の初代王慕容皝の孫で、宜都王慕容桓の子。『資治通鑑』では慕容顗と表記される。.
慕容瑤
慕容 瑤(ぼよう よう)は、五胡十六国時代の西燕の第4代皇帝。初代皇帝、慕容沖の子。『魏書』では慕容望と表記される。.
慕容熙
慕容 熙(ぼよう き、拼音:Mùróng Xī)は、五胡十六国時代の後燕の第4代皇帝。 慕容垂の子で、慕容盛の死後即位した。絢爛豪華な龍騰苑を築くなど散財し、皇后の苻訓英に溺れて国財を傾けたため暴君とされる『晋書』「慕容熙載記」巻124。407年に苻皇后が死に、葬りに龍城を去ると慕容雲(高雲)に都を奪われて殺された。高雲は後燕の最後の皇帝とも、北燕の初代天王ともされるが、後者の場合慕容熙が後燕最後の皇帝となる。.
慕容盛
慕容 盛(ぼよう せい、拼音:Mùróng Shèng)は、五胡十六国時代の後燕の第3代皇帝。 第2代皇帝慕容宝の長子で、慕容宝が蘭汗の謀反で殺されると即位した。治世の大部分は「庶人天王」を名乗った。慕容盛は冷静聡明で謀略に優れていたが、父慕容宝の優柔不断さが生んだ国難に懲りて、その治世は威刑を施す猜疑心の強いものとなった『晋書』巻124「慕容盛載記」『資治通鑑』「晋紀」巻112。401年、謀反によって殺され、叔父の慕容熙が後を継いで即位した。.
慕容超
慕容 超(ぼよう ちょう)は、五胡十六国時代の南燕の第2代(最後)の皇帝。.
慕容部
慕容 部(ぼよう ぶ、拼音:Mùróng bù)は、4世紀前半より5世紀中期にかけて、中国の東北方、遼東・遼西地方より、華北地方にかけての地域で勢力を有した鮮卑系の部族である。五胡十六国時代には前燕、後燕、西燕、南燕の各王朝を建国した。慕容氏とも呼ばれる。.
慕容耐
慕容 耐(ぼよう たい、拼音:Mùróng Nài 生年不詳 - 285年)は、鮮卑慕容部の大人。慕容木延の子で、慕容渉帰の弟。『資治通鑑』では慕容刪と表記される。.
慕容永
慕容 永(ぼよう えい)は、五胡十六国時代の西燕の第6代で最後の皇帝。 前燕の皇統であり、西燕の皇帝としては部下に従い鮮卑の故地へ東進した。394年、前燕の後継としての正統性を意識した同じく前燕の皇統の後燕皇帝慕容垂に滅ぼされた。.
慕容沖
慕容 沖(ぼよう ちゅう)は、五胡十六国時代の西燕の初代皇帝。なお、皇帝を名乗っていないが西燕の実質的な創建者は慕容泓である。前燕の第2代皇帝慕容儁の子で、第3代慕容暐の弟。 383年の前秦の淝水の戦いでの大敗の後、慕容泓の独立政権を部下に擁立されて継ぎ、長安の周辺を支配した。386年、鮮卑の故地へ帰りたがった部下に従わなかったため殺された。その後西燕は、皇帝が次々に擁立されては殺され、最終的に慕容永の下で鮮卑の故地へ東進する。.
慕容泓
慕容 泓(ぼよう おう、? - 燕興元年(384年))は、五胡十六国時代の西燕の創始者。前燕の第2代皇帝慕容儁の子で、慕容暐の弟である。燕王あるいは燕帝を自称していないが、独自の元号を立てて自立しており、実質的な西燕の建国者とされている。.
慕容渉帰
慕容 渉帰(ぼよう しょうき、拼音:Mùróng Shèguī 生年不詳 - 283年)は、鮮卑慕容部の大人。字は弈洛韓。慕容木延の子で、慕容耐の兄であり、慕容吐谷渾・慕容廆・慕容運の父にあたる。慕容吐谷渾は吐谷渾の、慕容廆は前燕の創始者となった。.
慕容木延
慕容 木延(ぼよう ぼくえん、 生没年不詳)は、鮮卑慕容部の大人。莫護跋の子で、慕容渉帰・慕容耐の父、慕容廆の祖父にあたる。.
扶羅韓
扶羅韓(呉音:ぶらがん、漢音:ふらかん/ほらかん、拼音:Fúluóhán 生年不詳 - 218年)は、中国後漢末の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)のひとり。檀石槐の孫で、魁頭、歩度根の弟、泄帰泥の父。.
拡張漢字
拡張漢字(かくちょうかんじ)とは、文字コード(漢字コード)において何らかの形でもとから含まれていた漢字に追加された漢字をいう。.
拓跋力微
拓跋力微(たくばつ りょくび、拼音:Tuòbá Lìwéi、174年 - 277年)は 、鮮卑族拓跋部の大人。拓跋詰汾の子であり、息子に拓跋沙漠汗、拓跋悉鹿、拓跋綽、拓跋禄官がいる。兄の拓跋匹孤(禿髪匹孤)は南涼の建国者禿髪烏孤の八世祖に当たる。玄孫の拓跋珪が北魏を建国すると、始祖の廟号、神元皇帝の諡号を追贈された。『資治通鑑』では力微可汗と記されている。.
拓跋寔
拓跋寔(たくばつ しょく、拼音:Tuòbá Shí、? - 371年)は、代国の太子。父は拓跋什翼犍、子は北魏を建国した拓跋珪(道武帝)である。北魏が成立した後、献明皇帝と追諡された。.
拓跋什翼ケン
拓跋什翼犍(たくばつ じゅうよくけん、拼音:Tuòbá Shíyìjiàn 生没年:318年 - 376年)は 五胡十六国時代の代国の王。北魏の太祖道武帝の祖父である。道武帝より廟号を高祖、諡号を昭成皇帝と追号されている。『晋書』では渉翼犍と記載される。.
拓跋弗
拓跋弗(たくばつ ふつ、拼音:、? - 294年没、在位:293年 - 294年)は、鮮卑拓跋部の大人(たいじん:部族長)で、拓跋沙漠汗の末子。㐌、拓跋猗盧の弟、太祖拓跋鬱律の父。北魏の道武帝より思皇帝と追尊された。.
拓跋余
拓跋 余(たくばつ よ)は、北朝北魏の第3代太武帝の末子。太武帝の死後に即位したが、正統な皇帝として認められず、王号で南安王と呼ばれる。.
拓跋コツ那
拓跋紇那(たくばつ こつな、拼音:Tuòbá Gēnà、生没年不詳、在位:325年 - 329年、335年 - 337年)は、代国の王。北魏の太祖道武帝によって煬皇帝と追諡された。拓跋猗㐌の第3子、拓跋普根、拓跋賀傉の弟である。.
拓跋禄官
拓跋禄官(たくばつ ろくかん、、? - 307年)は、鮮卑拓跋部の大人(たいじん:部族長)で、父は始祖拓跋力微、兄弟に拓跋沙漠汗、拓跋悉鹿、拓跋綽がいる。北魏の道武帝より昭皇帝と追尊された。.
拓跋綽
拓跋綽(たくばつ しゃく、拼音:Tuòbá Chuò、? - 293年、在位:287年 - 293年)は、鮮卑拓跋部の大人(たいじん:部族長)で、始祖拓跋力微の子、拓跋沙漠汗、拓跋悉鹿の弟、拓跋禄官の兄。北魏の道武帝により、平皇帝と追尊された。.
拓跋翳槐
拓跋翳槐(たくばつ えいかい、拼音:Tuòbá Yīhuái、? - 338年、在位:329年 - 335年、337年 - 338年)は、代国の王。拓跋鬱律の長男で、拓跋什翼犍の兄。北魏の道武帝により烈皇帝と追尊された。玄孫に東陽王の元丕がいる。.
拓跋猗イ
拓跋猗㐌(たくばつ いい、拼音:Tuòbá Yīyí、267年 - 305年)は、鮮卑族の中部拓跋部の大人(たいじん:部族長)。拓跋沙漠汗の長男で、弟には拓跋猗盧,拓跋弗、子には拓跋普根、拓跋賀傉、拓跋紇那がいる。『宋書』では「索頭単于猗駞(いだ、Yītuó)」と書かれる。北魏の道武帝より桓皇帝の諡号を追贈された。.
拓跋猗盧
拓跋猗盧(たくばつ いろ、拼音:Tuòbá Yīlú、? - 316年)は、鮮卑族拓跋部の大人で、五胡十六国時代の代国の初代王(在位:315年 - 316年)である。父は拓跋沙漠汗。兄は拓跋猗㐌、弟は拓跋弗。北魏の道武帝より穆皇帝と追諡された。劉琨と協力し、晋朝復権のために漢朝と生涯争い続けた。.
拓跋鬱律
拓跋鬱律(たくばつ うつりつ、、? - 321年没)は、五胡十六国時代の代国の王(在位:317年 - 321年)。父は拓跋弗、子には拓跋翳槐、犍、拓跋孤がいる。北魏の道武帝より、太祖の廟号と平文皇帝の諡号を追贈された。.
拓跋賀ル
拓跋賀傉(たくばつ かる、拼音:、? - 325年)は、代国の王。父は拓跋猗㐌、母は惟氏、兄に拓跋普根、弟に拓跋紇那がいる。北魏の道武帝より恵皇帝の諡号を追贈された。.
拓跋部
拓跋部(たくばつぶ、)は、鮮卑族の一部族で、華北に北魏などの王朝を建てた。托跋部、索頭部、索虜などとも表記される。.
拓跋氏
拓跋氏(たくばつし)は、中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を有した鮮卑拓跋部の中心氏族であり、狭義的には拓跋鄰の直系であり、後に鮮卑を統一し中国において北魏を建国した家系である。北魏では第5代献文帝まで国姓であったが、孝文帝の代に元氏と改姓された。.
拓跋沙漠汗
拓跋 沙漠汗(たくばつ さばくかん、拼音:、? - 277年)は、鮮卑族拓跋部の太子。大人(たいじん:部族長)である拓跋力微の子。兄弟には拓跋悉鹿、拓跋綽、拓跋禄官がいる。子には㐌、拓跋猗盧、拓跋弗がいる。たびたび魏や西晋への遣使を務めた。拓跋珪が北魏を建てると、偉業を称えて文皇帝と追諡された。.
拓跋悉鹿
拓跋悉鹿(たくばつ しつろく、拼音:Tuòbá Xīlù、? - 286年)は、鮮卑拓跋部の大人(たいじん:部族長)で、拓跋力微の子。兄弟に拓跋沙漠汗、拓跋綽、拓跋禄官がいる。北魏の道武帝により章皇帝と追尊された。拓跋悉禄とも表記される。.
拓跋普根
拓跋普根(たくばつ ふこん、拼音:、? - 316年)は、鮮卑拓跋部の大人(たいじん:部族長)で、五胡十六国時代の代国の第2代の王(在位:316年)。拓跋猗㐌の子。.
曹叡
曹叡(そう えい)は、三国時代の魏の第2代皇帝。.
曹丕
曹 丕(そう ひ)は、三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。.
曹彰
曹 彰(そう しょう、生年不詳 - 黄初4年6月17日(223年8月1日))は、中国後漢末期から三国時代の魏の皇族、武将。字は子文。曹章とも表記される。 父は曹操(四男、卞氏の子としては次男)。同母兄は曹丕。同母弟は曹植・曹熊ら。妻は孫賁の娘。子は曹楷・女子一人(魏の王昌妻)。孫は曹温・曹悌ら。.
曹操
曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.
晋書
『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.
106年
記載なし。
109年
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117年
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177年
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181年
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1967年
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1975年
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1992年
この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.
2007年
この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.
218年
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220年
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2世紀
ャーナ朝の全盛期。カニシカ王の時代に現在のパキスタンにあるガンダーラで多くの仏像が作られた。画像は東京国立博物館蔵のガンダーラの仏像。 ティオティワカン。メキシコシティの北東50キロにある遺跡でこの当時新大陸で最大の宗教都市遺跡であった。1世紀から2世紀半ばまでをツァクアリ相と呼び、画像の「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」はこの時期に建設された。 「武氏祠画像石」。2世紀半ばに建てられた山東省嘉祥県の武宅山の麓にある豪族武氏一族の石祠の画像石。この時代の人々の世界観が表れている。 武威(甘粛省)は後漢後期に造営された雷台漢墓で有名である。画像は雷台漢墓から出土した銅奔馬で、その疾走する姿から「馬踏飛燕」の別名がある。 倭国大乱。この時代には大規模な環濠集落が形成され軍事的な緊張があったと考えられる。紀元前3世紀から紀元後3世紀まで継続した吉野ヶ里遺跡は環濠集落の遺跡の代表である。 五賢帝の2人目であるトラヤヌス帝の末年までにローマ帝国の領土は最大に拡がった。画像の記念柱はローマに建立されたものでドナウ川北岸のダキア人との戦いが詳細にレリーフに刻まれている。 五賢帝時代の終わり。五賢帝時代はローマ帝国の最盛期であり安定した統治が行われていたが、五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝の時代には帝国周辺の諸民族の動きが慌ただしくなってきた。画像は哲学者としても知られるマルクス・アウレリウス帝の騎馬像(カピトリーノ美術館蔵)。 繁栄する属州アエギュプトゥス。ローマ帝国の穀倉エジプトでは豊かな生活が営まれていた。ファイユームで発掘されたいわゆる「ミイラ肖像画」は多くの絵画作品が失われたこの時代の風俗の貴重な資料となっている。画像はルーヴル美術館蔵の女性のミイラ肖像画。 ミトラ教の隆盛。ローマ帝国には多くの宗教が混在していたが、イラン起源のミトラ教は軍人などから広範囲に広がった。画像はサンタ・マリア・カプア・ヴェーテレのミトラ教神殿壁画で牡牛を屠る姿のミトラ神が描かれている。 2世紀(にせいき)とは、西暦101年から西暦200年までの100年間を指す世紀。.
303年
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308年
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6世紀
地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.
94年
記載なし。
95年
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鮮卑族。