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島津義久

索引 島津義久

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。.

314 関係: 城氏 (藤原姓菊池一門)原田信種十河存保南日本新聞名将言行録名和氏吉川弘文館吉弘鎮信吉利忠張吉利忠澄吉田清孝大友義統大友義鎮大友氏大乗院 (鹿児島市)大隅国大阪大野川大正天正天文 (元号)奈良原延学研ホールディングス宝篋印塔室町幕府室町時代宮原景種宮部継潤守護大名宗義智宇喜多氏安土桃山時代寺山久兼寺沢広高富隈城小丸川小倉小林城小早川氏山田有信山田有栄山本博文岡城 (豊後国)岩屋城岩屋城の戦い島原市島津家久島津家文書島津久保島津久信...島津亀寿島津以久島津彰久島津忠久島津忠仍島津忠倍島津忠隣島津忠辰島津忠長島津忠良島津忠恒島津忠清島津光久島津勝久島津義弘島津義虎島津荘島津豊久島津貴久島津歳久島津氏川上久利川上久隅川上久朗川上忠堅川上忠克川内市川田義朗上原尚近上井覚兼上井覚兼日記一之臺 (種子島氏)九州平定平田増宗平田宗次平田光宗幼名享年京都市京都府府内城庄内の乱仮名 (通称)延岡市廃仏毀釈仙石秀久伊作城伊作家伊地知重順伊地知重政伊地知氏伊集院久治伊集院忠倉伊集院忠真伊集院忠棟伊集院忠朗伊東四十八城伊東祐安伊東祐信伊東祐兵伊東祐青伊東義祐伊東氏弘治 (日本)佐多久政佐多久慶佐多忠増佐伯惟教佐土原町徳川家康従三位志賀親次北郷忠虎北郷時久利光宗魚刀狩喜入季久喜入久道喜入久正喜入忠続キジタバコ唐津市入来院重聡入来院重高入来院重時入来院氏八代市八木正信元亀国分城 (大隅国)国分市石田三成球磨琉球侵攻琉球王国祁答院氏福昌寺 (鹿児島市)禰寝重張禰寝氏秋月種実種子島久時種子島恵時種子島時尭立花宗茂立花山城立花直次筑後国筑前国筑紫広門細川幽斎総大将織田信長義岡久延真幸院猿渡信光田原親賢田北鎮周町田久倍町田久政直入郡相良氏隈部親永隈部親泰鎌倉時代鎌田政年鎌田政広鎌田政冨鎌田政近鎌田政虎面高頼俊頴娃久虎飯野城観音寺 (京都市東山区)角隈石宗許儀後諸県郡高城 (新納院)高原城高崎山城高野山高橋元種高橋紹運豊後国豊臣秀吉豊臣秀頼豊臣秀長豊臣氏贈位足利義輝足利義昭鹿児島鹿児島市鹿児島県龍造寺隆信龍造寺氏龍造寺政家近衛前久霧島市阿蘇合戦阿蘇惟光関ヶ原の戦い関白薩藩旧記雑録薩摩川内市薩摩国薩摩藩肝付兼寛肝付兼盛肝付氏肥後国肥前国肥前有馬氏釣り野伏せ臼杵城長宗我部信親長宗我部元親長崎通常耳川の戦いPHP研究所林景福東京芸術大学大学美術館東郷重位東郷重治東郷氏根白坂の戦い桐野作人桂忠詮梅北一揆梅北国兼検地楠木正成樺山久高樺山忠助樺山忠副樺山善久比志島国貞比志島義興毛利氏水俣市永禄江戸幕府沖田畷の戦い泰平寺 (薩摩川内市)泗川の戦い源頼朝木崎原の戦い木食応其木脇祐光本多忠勝本田親貞本能寺の変朱印状有馬晴信惟宗忠康惟宗氏惣無事令戦国大名戦国時代 (日本)戸次川の戦い海鳥社浜田経重斎藤鎮実新納忠堯新納忠増新納忠元新納忠光新納忠秀文禄文禄・慶長の役日向国慶長11月10日1533年1554年1557年1564年1566年1569年1570年1572年1573年1576年1578年1581年1582年1584年1585年1586年1587年1588年1590年1594年1600年1602年1604年1611年1915年1月21日 (旧暦)2月9日 (旧暦)3月4日3月5日5月3日 (旧暦) インデックスを展開 (264 もっと) »

城氏 (藤原姓菊池一門)

城氏(じょうし)は、鎌倉時代から安土桃山時代に肥後国に割拠した国人豪族。菊池氏の一族。 菊池氏の一族で、菊池能隆の子の隆経を祖とする。南北朝時代の『菊池武士書状』や『太平記』に菊池氏の一族として城氏の名がある。懐良親王に仕えた菊池武光に属し、各地の戦で活躍した。室町時代以降は赤星氏・隈部氏と共に菊池氏の三家老家の一つに数えられた。戦国時代に菊池氏嫡流が断絶した後には大友氏に接近し、城親冬の代に隈本城主となった。その子親賢は大友氏の衰退により島津氏と手を結び龍造寺氏に対抗するとともに、隈本城下の振興を図る。豊臣秀吉の天下が確立すると城氏は隈本城を新しい国主である佐々成政に明け渡し、当主の城久基は大坂に住まわされることになる。このため肥後国人一揆にも参加せず改易を免れたが、久基が若死したため家名は断絶した。傍流は細川氏に仕え肥後藩藩士として存続した。.

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原田信種

原田 信種(はらだ のぶたね)は、安土桃山時代の武将、大名。大蔵氏嫡流である原田氏の第80代当主。筑前高祖山城(高祖城)主。通称は五郎、下総守。子に嘉種、種房。.

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十河存保

十河 存保(そごう まさやす / ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。.

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南日本新聞

南日本新聞(みなみにっぽんしんぶん)は、南日本新聞社が編集・発行する鹿児島県の地方新聞である。発行部数は約35万2000部(2014年1〜6月現在)であり、九州の地方新聞としては、福岡県の西日本新聞に次ぐ発行部数である。 地元での略称は「みなみ(ミナミ)」「南日(なんにち)」。.

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名将言行録

『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)は、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りにした人物列伝。幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた。 全70巻と補遺からなり、主に武田信玄、上杉謙信、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、伊達政宗、徳川家康などの天下を競った戦国大名から、森長可といった安土桃山時代の戦国武将、江戸時代の譜代大名で老中を務めた戸田忠昌、赤穂浪士の討ち入りを指揮した大石良雄など、多くの時代の人物について、その人物の言行、逸話を記録している。 有名武将の多彩なエピソードが記述してあるため、作家が小説やドラマを作成する際、参考文献として使われることがある。フィクションのみならず、戦国武将を題材にした書籍においても、人物像を紹介する際に出典として援用されることがある。 作者の岡谷は館林藩藩主・秋元志朝に仕えていたが、維新後致仕し、余生を研究に費やした。旧主秋元志朝などのパトロンからの支援を受けながら、16年に渡る歳月を経て、名将言行録は完成された。編纂に辺り岡谷は様々な史料を博捜したらしいが、当時巷間で流布していた話を参集しただけの箇所もあり、入念な調査、検証を行ったわけではない。そのため整合性の合わない記述なども散見され、史実と乖離しているという指摘も受けており、歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」扱いをされている。.

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名和氏

名和氏/奈和氏(なわし、なわうじ)は、日本の氏族のひとつ。伯耆国を本貫として勢力を張った。後に肥後国八代郡、さらに同国宇土郡へ移住した。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉弘鎮信

吉弘 鎮信(よしひろ しげのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。吉弘鑑理の嫡男。.

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吉利忠張

吉利 忠張(よしとし ただはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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吉利忠澄

吉利 忠澄(よしとし ただずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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吉田清孝

吉田 清孝(よしだ きよたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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大友義統

大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。.

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大友義鎮

九州旅客鉄道(JR九州)大分駅府内中央口ロータリーにある大友宗麟像 神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像 大友宗麟公像(大分県津久見市) 臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ) 大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。 父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大乗院 (鹿児島市)

大乗院(だいじょういん)はかつて鹿児島市稲荷町に存在していた真言宗の寺。.

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大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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大野川

大野川(おおのがわ)は、大分県南部・中部、熊本県東部、宮崎県北部を流れる大野川水系の本流で一級河川である。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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奈良原延

奈良原 延(ならはら のべる、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏家臣。通称は狩野介、受領名は安芸守。父は奈良原資、子は奈良原敦、奈良原質。.

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学研ホールディングス

株式会社学研ホールディングス(がっけんホールディングス)は、日本の教育事業・出版社を統括する持株会社である。2009年(平成21年)10月1日に学習研究社(がくしゅうけんきゅうしゃ)より組織改編・社名変更を実施した。.

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宝篋印塔

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮原景種

宮原 景種(みやはら かげたね)は戦国時代から安土桃山時代の武将。島津氏家臣。宮原景益の孫。 祖先は島津忠国が庶長子の友久に与力として付けた9人のうちの1人である。.

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宮部継潤

宮部 継潤(みやべ けいじゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名、豊臣秀吉の側近。豊臣政権の五奉行の一人。 初代豊岡城主、鳥取城主。 秀吉による九州征伐において、島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、「日本無双」の感謝状を与えられた。 「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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宗義智

宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主。.

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宇喜多氏

宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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寺山久兼

寺山 久兼(てらやま ひさかね)は戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏家臣。『本藩人物誌』には「武勇智謀兼備の人」と記される。.

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寺沢広高

寺沢 広高(てらざわ ひろたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。肥前唐津藩の初代藩主。.

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富隈城

富隈城(とみくまじょう、とみのくまじょう)は、安土桃山時代末期に現在の鹿児島県霧島市隼人町住吉の浜之市地区に存在した日本の城。.

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小丸川

小丸川(おまるがわ)は、宮崎県中部を流れ太平洋に注ぐ小丸川水系の本流で、一級河川である。.

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小倉

小倉(おぐら、こくら)は、日本の地名、姓。.

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小林城

小林城(こばやしじょう)は現在の宮崎県小林市真方にあった日本の城(平山城)。別名を三ツ山城、あるいは三ノ山城。現在は城山公園。.

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小早川氏

小早川氏(こばやかわうじ/こばやかわし)は、日本の氏族の一つ。著名な一族は中世から近世にかけての武家。.

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山田有信

山田 有信(やまだ ありのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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山田有栄

山田 有栄(やまだ ありなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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山本博文

山本 博文(やまもと ひろふみ、1957年2月13日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.351 - )は、日本の歴史学者。東京大学大学院情報学環教授、史料編纂所教授。日本近世史専攻。.

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岡城 (豊後国)

岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。.

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岩屋城

岩屋城(いわやじょう)は筑前国御笠郡(福岡県太宰府市浦城)にあった日本の城(山城)。戦国時代末期の天正14年(1586年)、島津忠長率いる島津軍と大友軍の高橋紹運との壮絶な攻防戦(岩屋城の戦い)で知られる。.

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岩屋城の戦い

岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)は、日本の戦国時代に、九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。 苛烈かつ激戦であった攻城戦と言われている。.

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島原市

島原市(しまばらし)は、長崎県南東部の島原半島にある市。島原半島の中心都市。島原城や武家屋敷など旧城下町の街並みが残り、市内に湧水群のある観光都市である。有明海(島原湾)を介して、フェリーや高速船で結ばれている対岸の熊本県熊本市や福岡県大牟田市などとの関係も深い。旧南高来郡。.

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島津家久

島津 家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。.

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島津家文書

島津家文書(しまづけもんじょ)は、惟宗忠久を初代とする島津氏が、平安時代末期から明治時代初期までの約700年間、代々伝えてきた文書であり、政治、外交、社会経済、家督相続など多岐にわたる総数15,133通の大規模な武家文書群である。  西南戦争下では鹿児島城(鶴丸城)から桜島に船で難を逃れ、また、第二次世界大戦下では軍の空襲激化を避けて長野県に疎開し戦火を免れて、1955年(昭和30年)から1957年(昭和32年)にかけて東京大学に譲渡された。長い歳月の間に幾度もの危機に遭いながらも焼失を免れ伝えられた中世から明治における貴重な歴史資料であり、『武家文書の白眉』として 現在では東京大学史料編纂所に保存され、国宝に指定されている。.

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島津久保

島津 久保(しまづ ひさやす)は、安土桃山時代の武将。島津義弘の次男。.

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島津久信

島津 久信(しまづ ひさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・垂水家2代当主 (4代とも)。 文禄4年12月27日(1596年1月26日)、大隅国清水より転じて鹿屋・大姶良所々8千石余を賜う。慶長9年(1604年)2月、祖父・島津以久の上洛の際に、徳川家康より佐土原を与えられた。この時、以久は本領の大隅の地を久信に譲った。慶長9年12月15日(1605年2月2日)に垂水城に移る。 島津宗家16代当主・島津義久には、跡継ぎとなる男子が無く、また、義久の三女・亀寿と島津忠恒(家久)との間にも子は無かったため、義久は外孫である久信も後継者の1人と考えたが、家臣の反対にあい頓挫した。元和2年(1616年)隠居を命じられ、家督を久敏に譲る。 寛永14年5月11日(1637年7月3日)鹿屋にて死去、享年53。.

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島津亀寿

島津 亀寿(しまづ かめじゅ、元亀2年4月26日(1571年5月19日) - 寛永7年10月5日(1630年11月9日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。島津義久の三女。母は種子島時尭の娘。島津久保の室、後に島津忠恒(家久)の室。.

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島津以久

島津 以久(しまづ もちひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。日向国佐土原藩の初代藩主。初名は幸久(ゆきひさ)、次いで同音で征久とし、以久(もちひさ)を「ゆきひさ」と読むのは旧名からきた誤読。.

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島津彰久

島津 彰久(しまづ てるひさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。垂水家の祖とされる。 永禄10年(1567年)、島津以久(のち日向国佐土原藩初代藩主)の長男として誕生。 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いなどで軍功をあげる。天正15年(1587年)6月、島津義久が上洛した際にその供をし、そのまま父・以久の人質として数年間を京で過ごした。薩摩国に帰還後は清水城に在城した。 文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役は、本家・島津忠恒に従い朝鮮へ渡海するが、文禄4年(1595年)に当地の唐島(巨済島)で病により陣没した。家臣・安田次郎兵衛が殉死している。また、彰久の病死により川上忠実が軍代となった。.

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島津忠久

島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久(これむね の ただひさ)という。出自・生年については諸説ある。.

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島津忠仍

島津 忠仍 (しまづ ただなお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。薩摩国島津氏庶流。始め東郷氏のちに島津氏に復姓。.

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島津忠倍

島津 忠倍(しまづ ただます、天正6年2月1日(1578年3月19日)- 慶長14年5月18日(1609年6月19日))は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏の庶流。父は島津忠長、母は島津忠将の娘。妻は喜入久道の娘。幼名は菊寿丸、通称は又五郎。受領名は河内守。 島津忠長の嫡男として誕生、祖父の島津尚久は島津氏15代当主・島津貴久の末弟である。 主家である島津氏が豊臣秀吉に降伏した後、父の忠長は人質として伏見に在勤していたが、忠倍も薩摩国と往来しながら伏見に在勤した。父と共に文禄・慶長の役にも従軍し、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが発生した際も、加藤清正の軍船が水俣との国境を侵す動きを見せたため、父と共に国境警備の役を仰せ付かっている。慶長11年(1606年)、父の忠長が鹿児島へ居を移した際、忠倍は父の命により領有する東郷へ居を移した。 慶長14年(1609年)に死去した。享年32。法名は「大円覚翁庵主」。殉死者が3名(阿久根為兵衛・山本弾右衛門・有馬慶助)出ている。.

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島津忠隣

島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

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島津忠辰

島津 忠辰(しまづ ただとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家7代(最後の)当主。.

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島津忠長

島津 忠長(しまづ ただなが/ただたけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の庶流で、島津義久の家老、更に老中。.

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島津忠良

島津 忠良(しまづ ただよし)は薩摩の戦国武将。日新斎(じっしんさい)の号で知られる。.

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島津忠恒

島津 忠恒(しまづ ただつね) / 島津 家久(しまづ いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。.

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島津忠清

島津 忠清 (しまづ ただきよ、元亀2年(1571年) - 元和6年1月5日(1620年2月8日))は、薩摩国島津氏庶流(薩州家)の武将。通称は又助。官位は備前守。父は島津義虎。母は御平(島津義久の娘)。 義虎の三男として誕生する。しかし文禄2年(1593年)に長兄の忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、弟の重富(義虎五男)、忠豊(義虎六男)と共に小西行長に身柄を預けられる。そこで行長の家臣である皆吉続能の娘・立野殿(洗礼名カタリナ、小西行長の元側室)を娶り、長女と長男を授かった。この妻は再婚であり、連れ子として娘(妙)がおり、喜入忠政の後室となっている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に小西行長が処罰され、宇土を召し上げられると、忠清は加藤清正を頼るべく熊本に入ったが、慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。その後、長男は新納久元の後継となり新納忠影と名乗った。長女は島津家久の側室となり、薩摩藩2代藩主・島津光久、北郷久直、島津忠紀らを生んだことで家族の地位は向上するが、のちに忠清の死後、妻は隠れキリシタンとして連れ子の娘(喜入忠政室)およびその娘共々種子島に流刑となる(堅野カタリナ)。 元和6年(1620年)に病没した。法名は如岳院節翁玄忠大禅定門。忠影以外に男子がいなかったため、跡目は忠影の孫・新納久珍の次男である新納久基が継いだ。.

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島津光久

島津 光久(しまづ みつひさ)は、江戸時代前期の外様大名、薩摩藩第2代藩主。初代藩主・島津忠恒(家久)の子、島津義久の玄孫にあたる。.

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島津勝久

島津 勝久(しまづ かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の大名。島津氏第14代当主。.

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島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.

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島津義虎

島津 義虎(しまづ よしとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家6代当主。薩摩出水の領主。.

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島津荘

島津荘(しまづのしょう)は、中世の南九州にあった近衛家領荘園。日向国(現在の宮崎県)中南部および大隅国・薩摩国(現在の鹿児島県)の3ヶ国にまたがる日本最大の荘園で、最盛期には8000町を超える規模があった。.

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島津豊久

島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。名は初めは島津 忠豊で、後に改名した庄内の乱の顛末を記した『庄内軍記』までは「忠豊」の名で書かれている。。.

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島津貴久

島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。.

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島津歳久

島津 歳久(しまづ としひさ)は戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置家の祖にあたる。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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川上久利

川上 久利(かわかみ ひさとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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川上久隅

川上 久隅(かわかみ ひさずみ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。川上氏11代当主。.

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川上久朗

川上 久朗(かわかみ ひさあき)は、戦国時代の武将。島津氏の家臣。.

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川上忠堅

川上 忠堅(かわかみ ただかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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川上忠克

川上 忠克(かわかみ ただかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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川内市

川内市(せんだいし)は、九州の南西部、鹿児島県の北西部に所在していた市。 1929年5月20日に隈之城村、平佐村および東水引村が合併し川内町(せんだいちょう)として発足。1940年2月11日に市制施行し川内市となった。鹿児島県内においては1889年に市制施行した鹿児島市に次いで2番目の市制施行となった。その後水引村、永利村、高江村及び下東郷村の一部、高城町を編入。2004年時点で人口約7万人であった。 2004年10月12日に東郷町、樋脇町、入来町、祁答院町、上甑村、下甑村、里村、鹿島村と合併し薩摩川内市となり、自治体としては消滅した。.

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川田義朗

川田 義朗(かわだ よしあき、生年不詳 - 文禄4年7月24日(1595年8月29日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。掃部介のち駿河守。幼名は宮松丸。通称は助太郎。初名は義照。入道名は牛室。実父は比志島義貞。義父は川田義秀。養子は川田国鏡。 伊集院忠朗(あるいは岩切信朗とも)に師事して兵術の奥義を極め、島津義久の軍配者(軍事に於ける加持・祈祷、及び天候・日時・方角等を占う本来の意味での軍師)となる。また垂水の地頭職も務めた。25歳の時に、一世不犯である川田家の家督を継ぐ。 天正4年(1576年)、島津軍が日向伊東氏の高原城を攻めた際の8月19日に軍配者を務め、落城後の同28日に小林城にて戦勝祝賀が催された際の勝ち鬨を上げる奏者をも務める。また、同6年(1578年)の耳川の戦いに勝利した翌日の10月13日にも勝ち鬨を上げる奏者を務めた。また、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いの際には、「今日の兵気は大将軍を得るの気である」と士卒を励まし勝利に導いた。 文禄4年に死去。法名は州嶽寿益大禅伯。 Category:戦国武将 Category:安土桃山時代の人物 Category:1595年没.

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上原尚近

上原 尚近(うえはら なおちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上井覚兼

上井 覚兼(うわい かくけん/さとかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上井覚兼日記

『上井覚兼日記』(うわいかくけんにっき)は、戦国時代末期の武将で、島津氏家臣の上井覚兼の記した日記。読み方を「うわいかっけんにっき」とするものもある。また、『上井覚兼日帳』『伊勢守日記』ともいう。東京大学史料編纂所蔵。『大日本古記録』所収。 天正2年(1574年)から同14年(1586年)にわたり書かれたが、数年にわたる欠落部分がある。天正期の島津氏や九州の諸大名の動向などを知ることが出来る貴重な史料。 また、芸能や信仰生活など戦国大名家の日常に関する記事もみられる。 Category:室町時代の日記 Category:16世紀の書籍.

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一之臺 (種子島氏)

一之臺(いちのだい、天文6年(1537年) - 元和5年(1619年))は安土桃山時代から江戸時代の武家の女性で、島津氏当主島津義久の継室妙連夫人(種子島時尭の娘)の女房。種子島氏庶流国上能登守時通の娘。本名不詳。義久継室亡き後に義久より、その大奥の治令を掌握するように命じられる。その後、多年の功労を賞して、小濱村に1千石の采地を与えられる。一之臺が死去すると所領の小濱村に見隆寺が建立される。 義久より伊勢長門守貞清の次男(つまり伊勢貞昌や東郷重尚の従兄弟)を養育することを許可され、一之臺の養弟となり、北条主水佐時盛と称して、一之臺の名跡を相続する。その養孫の十郎(和田讃岐正貞と東郷肥前重信の娘との子)の代の寛文6年(1666年)に家嫡の種子島久時の命で種子島氏に復し、種子島次郎右衛門時貞と称すという。時貞は稲富流砲術や弓馬術(馬術とも)で有名だが、古示現流の祖であるともいう。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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平田増宗

平田 増宗(ひらた ますむね)は戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏の家老・老中。.

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平田宗次

平田 宗次(ひらた むねつぐ)は薩摩国島津氏の家臣で、戦国時代から江戸時代前期にかけて同名の薩摩平田氏の一族が7名存在した。 史料に残された事績が全員とも少量であるため、ここにまとめて列記する。.

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平田光宗

平田 光宗(ひらた みつむね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏の家臣。.

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幼名

幼名(ようみょう/ようめい)は、幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。 主に平安時代~江戸時代にかけて、武士や貴族の子が幼児である期間につけられる名前で、だいたい元服して諱をつけるまでその名前でいる。江戸期では、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前も幼名と呼ばれるが、武士とは違って諱をつける事は無い。 現在でも幼少時に改名した場合は、以前の名前を幼名と呼ぶ。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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府内城

人質櫓(左)と天主台(右) 大手門 廊下橋 府内城(ふないじょう)は、豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった日本の城である。大分城(おおいたじょう)、荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)とも呼ばれる。.

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庄内の乱

庄内の乱(しょうないのらん)は、慶長4年(1599年)に日向国庄内(現在の宮崎県都城市及びその周辺)で起きた、島津氏とその重臣である伊集院氏との争乱である。この乱は、島津氏家中最大の内乱であり、最終的には徳川家康の仲介により解決に至ったものである。また、慶長の役直後、関ヶ原の戦い直前の大乱であり、島津氏が関ヶ原の戦いに大軍を送れなかった原因になったともいわれている。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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延岡市

愛宕山からみた延岡市中心部 北浦町古江 延岡市(のべおかし)は、宮崎県北部に位置する市である。人口122,003人(推計人口(2018年3月現在)。中心地域は宮崎県北部の中心都市としての性格を有する。戦前より宮崎県内屈指の工業都市で、旧北方町、旧北浦町、旧北川町との2007年の合併前の延岡市地域は旭化成の創業地工場群があるいわゆる企業城下町である。.

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廃仏毀釈

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。.

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仙石秀久

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。 豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え(上田市立博物館)、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。.

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伊作城

伊作城(いざくじょう)は、鹿児島県日置市吹上町中原に残る中世山城跡。鹿児島県指定史跡。伊作城はいくつかの廓から成り立つ城で、本丸は特に亀丸城と称した。.

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伊作家

伊作家(いざくけ)は、薩摩国の守護大名、島津氏の分家。 鎌倉時代の島津宗家3代当主、島津久経の次子、島津久長より始まる。 代々薩摩国阿多郡伊作荘(現在の鹿児島県日置市吹上地域の中心部)の地を領したことからこの名がついた。伊作氏ともいう。室町時代中期に断絶したが薩摩守護である島津氏の9代当主・島津忠国の庶子島津久逸が養子に入り継承した。 10代当主の伊作忠良の長子・伊作貴久は薩摩守護の島津勝久を退け島津宗家を称した。織豊時代以降の島津氏当主(薩摩藩主)は、この「久逸系伊作家」の流れである。.

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伊地知重順

伊地知 重順(いぢち しげかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣。大隅国の国人・伊地知氏の11代当主。 天正9年(1581年)、肥後国水俣城攻めの際に、庶流の伊地知重賢(伊地知氏3代季豊の四男・持季の玄孫)の後見の下で脇大将を仰せ付かった。天正12年(1584年)の肥後堅志田城攻めでは150余人を率いて城へ先登し功を上げ、天正14年(1586年)にも島津家久に属して豊後国利光城(鶴賀城とも)へ先登を果たし、そのすぐ後の戸次川の戦いでも軍功を為した。 天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉に降伏し上洛する島津義久の供をし、文禄の役においても旗奉行ならび御船奉行に任じられ朝鮮へ渡海した。しかし、文禄3年(1594年)に勘気を被り(詳細不明)、所領4,441石のうち大隅国の3,700余を召し上げられると、重順は牢人となった。 慶長6年(1601年)、重順はこのとき高野山に在ったが、上洛した島津忠恒に召されて新恩地500石にて島津家臣に復帰、物頭および日向国高岡(現・宮崎県宮崎市高岡町)の地頭相談役に任じられた。慶長13年(1608年)には日向国倉岡(現・宮崎県宮崎市糸原)の地頭に任じられる。 寛永19年(1642年)、倉岡にて死去した。享年73。曾孫の重直より、伊地知氏の祖である秩父氏に姓を改めている。.

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伊地知重政

伊地知 重政(いぢち しげまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣。大隅国の国人伊地知氏10代当主。 伊地知重興の嫡男として誕生。片輪であったため早くから入道していたと『本藩人物誌』にあり、また和歌を好む人物であったともある。 元和4年(1618年)に死去した。嫡子の重順が地頭を務めた日向国倉岡(現・宮崎県宮崎市糸原)の竜泉寺に葬られた。.

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伊地知氏

伊地知氏(いぢちし)は、日本の氏族。平姓秩父氏を祖とする大隅国の国人で、後に薩摩島津氏の家臣となり薩摩藩士として明治へと至る。.

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伊集院久治

伊集院 久治(いじゅういん ひさはる、天文3年(1534年) - 慶長12年10月28日(1607年12月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。通称は三郎兵衛、右衛門兵衛尉。受領名は下野守。法号は抱節。父は伊集院久道。子に久元。 久治の家は島津家の重臣である伊集院忠朗とは別流で、伊集院氏5代忠国から分かれた家である。日向国福島、薩摩国桜島・市来・出水、大隅国高山の地頭を務めた。 天正8年(1580年)、阿蘇氏の家臣中村惟冬の守る肥後国矢崎城・綱田城攻めに従軍。天正14年(1586年)には大友氏攻略のため豊後国諸城を攻めるなど九州各地を転戦した。豊臣秀吉による九州平定後に行われた九州国分で、秋月種実に日向櫛間が与えられると、同地を支配していた久治は、これに抵抗して半年間に渡って櫛間城から退去することを拒んだ。 慶長12年(1607年)、死去。 ひさはる Category:戦国武将 Category:薩摩国の人物 Category:1534年生 Category:1607年没.

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伊集院忠倉

伊集院 忠倉(いじゅういん ただあお、生没年不詳)は、戦国時代の武将。島津氏の家臣。父は伊集院忠朗、子は忠棟、春成。 島津貴久に仕え、薩摩国における国人の統制などで活躍した。天文18年(1549年)には樺山氏と北原氏を和睦させ、同年の黒川崎の戦いでは父忠朗と共に出陣して、暴風に乗じた奇襲策で肝付兼演を破り、降伏させている。 これらの功績により、弘治4年/永禄元年(1558年)からは島津氏の筆頭家老を務めることとなった。 たたあお category:戦国武将 category:薩摩国の人物 category:生没年不詳.

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伊集院忠真

伊集院 忠真(いじゅういん ただざね)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。伊集院忠棟の嫡男。.

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伊集院忠棟

伊集院 忠棟(いじゅういん ただむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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伊集院忠朗

伊集院 忠朗(いじゅういん ただあき、生没年不詳)は、戦国時代の武将。島津氏の家臣。父は伊集院忠公、子は忠倉。 島津忠良、貴久父子に仕えて、本家と分家の対立により分裂した島津氏の統一から、伊東氏や肝付氏との戦いで活躍した。天文18年(1549年)の黒川崎の戦いでは子忠倉と共に出陣して、暴風に乗じた奇襲策で肝付兼演を破り、降伏させている。天文23年(1554年)、岩剣城を攻めた際、忠朗の進言で島津軍は初めて鉄砲を実戦に投入して本格的に使ったという。それらの功績から、弘治2年(1556年)まで家老として島津氏の政務を取り仕切ることとなった。 永禄4年(1561年)には、肝付兼続との宴席で兼続を巧みに挑発し、いずれはその領土を呑み込もうと考えていた肝付氏との戦端を開いたという逸話もある。 忠朗の時代に、伊集院氏は島津氏における地位を確固たるものとしたとされる。 たたあき category:戦国武将 category:薩摩国の人物 category:生没年不詳.

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伊東四十八城

伊東四十八城(いとうしじゅうはちじょう)は日向国の戦国大名 伊東義祐、及びその後継である伊東義益の最盛期における、版図内に存在した48の外城及び砦の名数。 義祐が当主である頃は佐土原城を、義益が当主である頃は都於郡城を中心とした48の外城及び砦が存在した。後の「伊東崩れ」で島津氏に一時的に奪われるが、豊臣秀吉の島津氏に対する九州平定で、宮崎郡などの城は、九州平定軍の先導役として功績を挙げた伊東氏(伊東祐兵)に回復されて飫肥藩領となる。残りは高鍋藩、佐土原藩、薩摩藩の領地などになる。 一国一城令により、藩庁になっていた飫肥城、高鍋城(初め財部城)、佐土原城以外は廃城されるが、飫肥藩では清武地頭、酒谷地頭、南郷地頭という具合に城主(城代)職は地頭として存続した地域もある。 以下に日向5郡別に城名を列記し、現所在地及び当時の城主も記述する。.

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伊東祐安

伊東 祐安(いとう すけやす)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。.

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伊東祐信

伊東 祐信(いとう すけのぶ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 祐信の主君・伊東義祐は、元亀2年(1571年)6月に島津氏15代当主・島津貴久が没すると大隅国の肝付氏が島津領に侵攻し始めたのを好機と捉え、真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町)の完全支配を目指すべく、翌元亀3年(1572年)5月に未だ島津氏の治める飯野地区への大攻勢を開始する(木崎原の戦い)。 5月3日夜、祐信は伊東又次郎・伊東祐青と共に、伊東祐安を総大将とした3,000余の軍勢の大将の一人として島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 翌4日未明に飯野・妙見原に到着し軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、もう一軍を祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃を仕掛けるべく進軍した。 祐信は手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発。その後、祐信隊は加久藤城へ侵攻を開始。事前に得ていた情報を元に、城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。 祐信隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。そこへ加久藤城主・川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信隊は退却を余儀なくされる。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られた(異説あり)。 退却した祐信隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。兵の多さによる油断と、また折からの蒸し暑さのため川で水浴びする者が多かった。そこを飯野城から打って出た島津義弘の軍勢が攻めかかり、祐信を含めた多数の戦死者を出した。その際、祐信は義弘と一騎討ちに及ぶが敗れ三角田の地で討ち取られる。その一騎討ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという(柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)。 戦後、小林市の伊東塚に他の戦死者と共に祀られた他、佐土原城にも墓が設けられ現存している。.

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伊東祐兵

伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代の武将・大名。日向伊東氏12代(伊東氏18代)当主。日向飫肥藩の初代藩主。『南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)』や『伊東氏系図』では、伊東氏中興の祖と書かれている。.

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伊東祐青

伊東 祐青(いとう すけはる/すけきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。室の町上(伊東義祐の娘)との間に、祐益(伊東マンショ)・祐平など4人の子がいる。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでは、本地原に陣をかまえ島津義弘と戦ったが敗れ、小林へ退却した。 天正5年(1577年)、島津氏の攻撃により伊東氏の支城・綾城が落城した際に戦死した。なお、『日向記』には主君の伊東義祐が豊後国へ逃げる際の供の中に祐青の名が記述されており、この逃げる道中において死去したとする説もある。 すけはる Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1577年没.

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伊東義祐

伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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弘治 (日本)

弘治(こうじ)は、日本の元号の一つ。天文の後、永禄の前。1555年から1558年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。.

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佐多久政

佐多 久政(さた ひさまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。佐多氏10代当主。初名は久将。.

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佐多久慶

佐多 久慶(さた ひさよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。佐多氏11代当主。.

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佐多忠増

佐多 忠増(さた ただます)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。薩摩国島津氏の家臣。敷根(現在の鹿児島県霧島市国分敷根)、百次(薩摩川内市百次町)、串良(鹿屋市串良町)の地頭を務めた。.

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佐伯惟教

佐伯 惟教(さえき これのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後佐伯氏第12代当主。豊後国海部郡栂牟礼城主。.

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佐土原町

佐土原町(さどわらちょう)は、2005年12月31日まで宮崎県の中南部に存在していた宮崎郡の町。 2006年1月1日、宮崎市に編入され消滅。宮崎市の合併特例区となり、5年後の2011年1月1日に地域自治区に移行した。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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志賀親次

志賀 親次(しが ちかつぐ/ちかよし)は、安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。北志賀家・志賀親度の子。豊後国岡城主。.

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北郷忠虎

北郷 忠虎(ほんごう ただとら)は、日向国の戦国武将で、北郷氏11代当主。北郷時久の次男。 忠虎には同母兄の相久がいたが、天正9年(1581年)、突如時久と相久は不和となり、相久が自害に追い込まれたことによって嫡子となった。 天正初年度より島津氏に加勢し、天正9年(1581年)の相良義陽との戦いでは島津義虎とともに功績を挙げ、以後も主に肥後国方面での戦いに参加し、島津氏の九州制覇に大きく貢献した。 天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐に対しては島津義弘と共に強硬派であり、島津義久が降伏した後も父と共に都城に立てこもり抵抗の姿勢を見せたが、後に義久の説得により降伏する。その後の秀吉の扱いは抵抗した武将に対する物としては異例で、島津家を介さず直接所領安堵の朱印状をもらうなど大名に準じた扱いを受けている。 文禄元年(1592年)、朝鮮出兵により忠虎も同年3月3日に都城をたち、4月28日に釜山に着陣後は毛利高政の配下となり江原道まで転戦している。文禄2年(1593年)閏9月6日に、弟の三久を代理として送ることでようやく帰国の許可がおりる。しかし、帰国した翌文禄3年(1594年)3月に正室が死去。その喪も明けない7月にまた参陣の命が降り、再び朝鮮に渡る。同年12月14日、唐島(現在の加徳島とされる)で病死した。享年39。 正室との間に子供はなく、側室との間にいた一子・長千代丸(忠能)が跡目を相続した。.

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北郷時久

北郷 時久(ほんごう ときひさ)は、戦国時代の武将。北郷氏10代当主。日向の庄内一帯を領しており、都之城に居していた。 島津宗家と手を結び、肝付氏や伊東氏と争う。それらの功績から、永禄5年(1562年)には島津貴久から所領を与えられた。また同年、貴久および肥後国の相良義陽と共に、伊東氏により家督と領地を簒奪されていた北原氏の再興に助勢している。天正6年(1578年)、大友氏の日向国進出に際して先陣を仰せ付かり宮崎城に在った際、この前年に没落した伊東氏の残党1,000が三納平野にて反乱を起こすが、時久は300余人を討ち取って追い散らした。翌天正7年(1579年)には不和となった嫡男の相久を廃して切腹に追い込み、次男の忠虎を跡取りとする。原因は不明である。 豊臣秀吉の九州征伐には島津方に与して抗戦したが、元より敵うはずもなく、時久は石田三成と伊集院忠棟を通じて秀吉に謝罪し、人質を差し出したため、所領は安堵された。しかし後に薩摩祁答院(現・さつま町の大部分)に移封され(時久が故地を懐かしみ居館を宮之城と名付け、後にそれが地名となった)、都之城には忠棟が入った。文禄・慶長の役で忠虎が早世、孫の長千代丸(後の忠能)の後見人となったが、慶長元年(1596年)に66歳で死去。長千代丸が当主になり、三男の三久が後見人の役目を引き継いだ。 ときひさ Category:戦国武将 Category:1530年生 Category:1596年没.

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利光宗魚

利光 宗魚(としみつ そうぎょ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。大友氏庶流戸次氏の支流利光氏の一族。宗魚は法名、実名は鑑教(あきのり)。別名宗匡。豊後国鶴賀城主。.

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刀狩

刀狩(かたながり、刀狩り)とは、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などから、武器の所有を放棄させること。鎌倉時代の1228年(安貞2年)に、第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったものが、日本史記録上の初見で「刀狩り」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、後に1242年(仁治3年)には、鎌倉市中内の僧侶とその従者(稚児、中間、寺侍、力者など)に帯刀を禁止する腰刀停止令を出し、違反者の刀剣は没収し大仏に寄付するとした。また1250年(建長2年)に第5代執権北条時頼は範囲を拡大し、市中の庶民の帯刀と総員の夜間弓矢の所持を禁止した。 戦国時代には諸大名によって行われている。天下を統一した豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。一般的には農民の帯刀を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られているが、実際には刀以外の武器所有は禁じられていない。 柴田勝家も、1575年(天正3年)から翌年にかけて越前国の一向一揆の鎮圧のために武器の奨励と没収を行ったことがあり後述する。.

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喜入季久

喜入 季久(きいれ すえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津氏庶流喜入氏の5代当主。軍事に長け、華道や連歌にも通じる教養人でもあった。.

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喜入久道

喜入 久道(きいれ ひさみち)は安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣。.

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喜入久正

喜入 久正(きいれ ひさまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩藩士。.

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喜入忠続

喜入 忠続(きいれ ただつぐ)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏の家臣で、後に薩摩藩の家老。.

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キジ

(雉子、雉鳥類図鑑 (2006)、102-103頁里山の野鳥ハンドブック (2011)、13頁)は、キジ目キジ科キジ属に分類される鳥類。日本産の個体群のみで独立種P.

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タバコ

タバコ(たばこ、煙草、)は、ナス科タバコ属の熱帯地方原産の植物佐竹元吉 監修『日本の有毒植物』 学研教育出版 2012年、ISBN 9784054052697 p.192.

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唐津市

虹の松原(国の特別名勝) 唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する市。福岡都市圏(福岡相対都市圏)を形成する都市の一部である。.

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入来院重聡

入来院 重聡(いりきいん しげさと)は、戦国時代の武将。入来院氏11代当主。.

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入来院重高

入来院 重高(いりきいん しげたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。元は島津氏庶流の薩州家出身だが、後に頴娃氏、入来院氏を称した。.

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入来院重時

入来院 重時(いりきいん しげとき)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。入来院氏15代当主。.

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入来院氏

入来院氏(いりきいんし、いりきいんうじ)は、桓武平氏、秩父氏の流れを汲む日本の氏族。渋谷氏の支流。.

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八代市

八代市(やつしろし)は、熊本県南の中心的な市で、県下第2の人口を有する田園工業都市。日本三大急流の一つである球磨川が分流して不知火海に注ぐ三角州地帯の北岸に市街地がある。江戸時代には、熊本藩主細川氏の筆頭家老松井氏の城下町として栄えた。.

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八木正信

八木 正信(やぎ まさのぶ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。昌信とも。通称は新四郎。官位は主水佐、越後守。入道名は嘉竺(宗栄とも)。父は八木信親。子は八木豊信。 先祖は日下部氏で、岩切氏・土持氏・海江田氏らとは同族である。正信は青蓮院流書家の門弟で、薩摩国の島津義久の祐筆役を務めると共に、書の指南役も務めた。また、真幸院吉田の地頭として2,000石余を知行されている。 天正元年(1573年)、正信は稲荷社別当の宝持院と共に、禰寝重長へ降伏を説く使者を務める。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いの際には島津家久に従い肥前国島原へ祐筆役として渡海、天正14年(1586年)の豊後攻めの際は、大友家臣であった入田親誠への使者を務めた。また、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐で島津氏が降伏、秀吉へ陳謝すべく義久が剃髪・入道すると正信も剃髪し、嘉竺と号して秀吉に対面する義久の供をした。 没年は不明であるが、7月17日に大隅国の富隈にて病死している(天正17年(1589年)5月に義久へ起請文を提出しているため、その年以降と思われる)。法名は隣松城徳庵主。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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国分城 (大隅国)

国分城(こくぶじょう)は鹿児島県霧島市国分中央にあった城。別名を「国分新城」・「国分御屋形」・「舞鶴城」。.

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国分市

国分市(こくぶし)は、鹿児島県の薩摩地方と大隅地方の中間にあった市。 「元気都市」と呼ばれ、県内の市町村の中では最も人口増加率・若年率が高く、全国的に少子高齢化が進む中で近年数少ない中学校の新設がなされた自治体である。 かつては煙草などの第一次産業が中心であったが、鹿児島空港に近いという地理的好条件からその後ソニーや京セラなどのハイテク産業が発展した。多くの商業施設が立ち並び、周辺地域の中核的役割を担っている。 商業圏や生活圏は隣接する隼人町と混在しており、実質両市町間には地理的な境目が存在せず2市町あわせて『隼人国分』(国分隼人)地域と呼ばれることも多い。 また、薩摩地方と大隅地方、それに宮崎県を結ぶ交通の要所でもあり、国道・高速道路・鉄道などの交通手段が発達している。 2005年11月7日、国分市・溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併し、人口13万人規模の「霧島市」となった。.

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石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

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球磨

球磨(くま).

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琉球侵攻

琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)は、薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)版図に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった『琉球国由来記』「西来禅院記」「」。.

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.

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祁答院氏

祁答院氏(けどういんし)は、日本の氏族のひとつ。相模国渋谷氏の庶流で、薩摩国発祥の一族。薩摩国伊佐郡祁答院(現・鹿児島県薩摩郡さつま町及び薩摩川内市祁答院町)を本貫地とした。.

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福昌寺 (鹿児島市)

福昌寺(ふくしょうじ)はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩主島津氏の菩提寺であったが、廃仏毀釈により明治2年に廃寺となった 鹿児島県。山号は「玉龍山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。.

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禰寝重張

寝 重張(ねじめ しげひら)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。禰寝氏17代当主。 永禄9年(1566年)、禰寝重長の嫡男として誕生する。父・重長は肝付氏に与して島津氏に反抗したこともあったが、元亀4年(1573年)に和睦して以降は島津氏に忠節を尽くした。その父が天正8年(1580年)に死去したため重張が名跡を継ぐ。しかし、文禄4年(1595年)、太閤検地の影響により、それまで領有していた根占七ヶ郷から吉利村(現:日吉町吉利)3,200石余へ移封となった。 慶長5年(1600年)、重張は伏見屋敷の警衛役として京にあったため同年8月の伏見城の戦いに参加、重張は伏見城へ先登して軍功を立て、9月15日の関ヶ原の戦いにも参加したが、敵中を突破しての退却の途中で義弘ら本隊とはぐれる。重張は頼実という僧侶を含めた主従4人と共に洞穴の中に隠れていたところを捕えられ、大坂の山岡景宗の元へ送られ獄舎に入れられた。唯一、頼実のみは僧侶ということで許されていたのであるが、その頼実が自らの知人を介して景宗と浅野幸長に重張の赦免を請うたため、重張は獄舎より出された。そして、広島へ向かい文職という僧侶の元に身を寄せた後(学問の為という)、翌慶長6年(1601年)1月15日に薩摩国へと戻った。 寛永6年(1629年)に死去。その際、主君・島津家久が追悼の和歌を詠んでいる。名跡は次男・重政が継いだ。.

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禰寝氏

寝氏(ねじめし)は、大隅国の有力国人、戦国大名、のち薩摩藩士の氏族。 禰寝氏は中世には豪族として角、西本、池端、山本氏など、また近世初期では入鹿山、武などの別の名字を名乗る20家門ほどの庶流を輩出した。同氏直系は江戸時代中期に先祖に当たると目された平重盛の号にちなみ「小松氏」と改姓した。江戸期には、「歴代当主」の項に明らかなように古代・中世から続く連綿とした宗家の血の流れは途絶えたが、宗家を支える御三家、禰寝・松沢(庶流の最も古い一門)、禰寝・西本(時に西元とも)、禰寝・角などは他の庶家とともに一族の歴史的記憶に重要な役割を果たし続け、現在に至っている。.

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秋月種実

秋月 種実(あきづき たねざね)は、戦国時代末期から安土桃山時代前期にかけての武将・戦国大名。秋月氏16代当主。.

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種子島久時

子島 久時(たねがしま ひさとき).

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種子島恵時

子島 恵時(たねがしま しげとき)は、戦国時代の武将。種子島氏第13代当主。.

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種子島時尭

西之表市御坊墓地(種子島氏最初の墓地)にある時堯の墓(中央) 種子島時堯(たねがしま ときたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。種子島氏第14代当主。日本に最初に銃を導入し、国産化に導いた。.

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立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。.

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立花山城

立花山城(たちばなやまじょう、りっかさんじょう)は、現在の福岡県新宮町、久山町、福岡市東区にまたがる標高367mの立花山山頂にあった日本の城。立花城(たちばなじょう、りっかじょう)と呼称される場合もある。.

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立花直次

立花 直次(たちばな なおつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名、江戸時代前期の旗本。 高橋鎮種(紹運)の次男で、初めは高橋姓を名乗った。筑後柳河藩主立花宗茂の実弟。幼名は千若丸。通称は弥七郎、少輔太郎。官途は、主膳正、民部少輔。初名は統増(むねます)で、諱は次に宗一(むねかず)、重種(しげたね)、最後に直次とした。立花姓を家号としたのは慶長19年(1614年)頃以降であり、高橋統増、高橋直次の名でも知られる。号は宗卜。.

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筑後国

筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.

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筑前国

筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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筑紫広門

筑紫 広門(つくし ひろかど)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国勝尾城主。.

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細川幽斎

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)/ 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。.

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総大将

総大将(そうだいしょう)とは、一軍以上編成する軍団において全軍を指揮する大将のこと。特に、一軍以上の軍団からなり複数の大将がいる場合に、それぞれの軍団の大将を、総大将ということが多い。惣大将または主将、総帥ともいう。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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義岡久延

義岡 久延(よしおか ひさのぶ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

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真幸院

真幸院(まさきいん)は、宮崎県(旧日向国)南部山沿い地域の旧名。現在のえびの市、小林市、高原町の総称。.

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猿渡信光

猿渡 信光(さるわたり のぶみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。官位は掃部兵衛、後に越中守。.

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田原親賢

原 親賢(たわら/たはら ちかかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。武蔵今市城城主、妙見嶽城城督。大友氏の家臣。出家後の田原 紹忍(じょうにん)の名でも知られる。号は不思軒。 奈多八幡宮大宮司奈多鑑基の子で、兄弟に兄の奈多政基(まさもと)、妹の奈多夫人(大友義鎮(宗麟)正室)、異説であるが戸次鑑方とも言う。養子に田原親虎(ちかとら)、田原親盛。官位は尾張守、近江守、民部大輔。.

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田北鎮周

北 鎮周(たきた しげかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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町田久倍

久倍(まちだ ひさます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の家老。町田氏18代当主。.

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町田久政

久政(まちだ ひさまさ、? - 慶長3年11月18日(1598年12月16日))は、安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣。通称は源六、源左衛門。別名は忠顕。父は町田久徳、母は伊集院久盈の娘。子は町田久則。 町田久徳の三男として誕生する。兄の町田久倍は島津家の老中を務めていたが、一方で大口(現・鹿児島県伊佐市)の地頭にも任命される。しかし老中職を全うしながら大口への居住は難しいとして、久政が地頭代となり、代わりに大口へ居住した。 文禄・慶長の役が発生すると、萌黄縅の大立物の兜を被り、大口の人数を率いて参陣する。慶長3年(1598年)の泗川の戦いで功を為したが、同年11月の露梁海戦にて戦死した。法名は「剣叟紹鉄居士」。鹿児島の福昌寺に葬られた。.

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直入郡

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相良氏

良氏(さがらうじ / さがらし)は、肥後南部を支配した戦国大名の氏族である。江戸時代は肥後人吉藩主家として明治維新まで存続した。.

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隈部親永

部 親永(くまべ ちかなが)は、戦国時代の肥後国の国人。.

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隈部親泰

部 親泰(くまべ ちかやす、生年不詳 - 天正16年(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代の肥後国国人。別名は親安。源次郎、式部大輔。資料によっては山鹿親安とも。隈府城主、城村城主。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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鎌田政年

鎌田 政年(かまた まさとし、永正11年(1514年) - 天正11年7月8日(1583年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣。別名は政房。通称は刑部左衛門、尾張守。入道名は寛栖。妻は山田有親の娘。子は鎌田政広、鎌田政商。 島津忠良、貴久、義久の3代に仕え、大隅帖佐、薩摩馬越、日向三ツ山、大隅牛根の地頭職を歴任した。 弘治3年(1557年)の薩摩北部の豪族・蒲生範清攻め、永禄11年(1568年)の菱刈隆秋の薩摩馬越城攻めなど数々の武功のある人物だった。特に馬越城攻めの際は、島津忠良から「永久に島津家はその功を忘れぬ」とその忠功を賞されている。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘と共に兵150人を率いて出陣、池島川で休憩中の日向伊東氏の将兵を攻撃、更に義弘に与えられた兵60人を率いて伊東軍の背後に回り、義弘、五代友喜の軍勢と共に3,000人の伊東軍を撃退せしめた。 天正6年(1578年)に島津氏が耳川の戦いにて大友氏に勝利すると、肥後国の豪族である城氏と名和氏が島津氏に誼を通じてくる。政年はその支援として手勢を率いて肥後国へ入った。そして、天正8年(1580年)、新納忠元と共に肥後阿蘇氏領に侵攻、矢崎城(熊本県宇土郡)の中村惟冬を攻めこれを討ち滅ぼした。 没日には2つの説があり、「天正11年7月8日」説と「天正15年7月10日(1587年8月13日)」説がある。法名は「喜翁勝観庵主」。姶良郡牛根二川の望海山喜翁院に葬られた。.

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鎌田政広

鎌田 政広(かまた まさひろ、天文9年(1540年) - 文禄2年4月17日(1593年5月17日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の武将。通称は刑部左衛門尉。父は鎌田政年、母は山田有親の娘。妻は阿多久鎮の娘。子は鎌田政常、鎌田政朝。 天正の始め頃、主君・島津義久より志布志の地頭に任じられる。天正9年(1581年)の水俣城攻めでは旗本勢として出陣し、天正12年(1584年)には沖田畷の戦いの前哨戦となる肥前竹崎城攻めにおいて、味方が勝利すると軍配者として船上より勝ち鬨を上げた。 また、度々義久の使者にも任じられ、天正13年(1585年)に豊臣秀吉ならびに細川幽斎より義久宛てに書状が届いた際は、その返書を幽斎へ届ける役を担い、翌年にも義久の使者として上洛し、九州仕置きに関して秀吉と面談に及んでいる。 文禄2年(1593年)に死去した。享年54。法名は「勢兵本隆居士」。.

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鎌田政冨

鎌田 政冨(かまた まさとみ、永禄10年(1567年)11月 - 慶長3年11月7日(1598年12月5日))は安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣。通称は甚五郎、蔵人頭。父は鎌田政近。妻は有川貞真の娘。子は鎌田政統、娘(佐多忠充室)。 鎌田政近の次男として誕生、指宿の地頭を務めた。慶長2年(1597年)に慶長の役に参加し朝鮮国へ渡海する。翌慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去に伴い、日本軍は11月15日を以って帰陣すると定めていたが、そんな折に順天に残る小西行長らが敵船により海上を封鎖される。島津義弘は小西らの安否を確かめるべく、泗川新城から政冨と敷根頼元を使いに出した。政冨らは敵番船の中を掻い潜り無事に順天へ入ったが、その帰路で逆風に遭い船が大破、敷根頼元共々溺死した。享年32。法名は「月船宗皎居士」。.

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鎌田政近

鎌田 政近(かまた まさちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。鎌田氏庶流の鎌田政勝の子。.

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鎌田政虎

鎌田 政虎(かまた まさとら、永禄6年(1563年) - 天正13年8月10日(1585年9月30日))は安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣。通称は又七郎、左京亮。父は鎌田政近、母は稲留(相良)長秀の娘。 鎌田政近の嫡子として誕生した。天正13年(1585年)、木脇祐昌が地頭として在城する肥後国花の山城への番を仰せ付かった。そこへ向かう途中の8月10日の晩に、花の山城下にて甲斐親英が阿蘇8千町の兵を率いて城を攻めていると聞き知る。政虎は急ぎ城を攻囲する敵勢を打ち破って入城すると、西ノ口の守りを請け負い祐昌と共に防戦に努めた。しかし、防戦虚しく手負いとなり、討ち死にを遂げた。 享年23。法名は「蘭室隆香居士」。 なお、この戦いにより城は落城、城主の木脇祐昌ならびに、祐昌を救援に来た相良氏の深水摂津介(深水長智の嫡子)らも討ち死にしている。.

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面高頼俊

面高 頼俊(おもだか よりとし/らいしゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・僧。島津氏の家臣。.

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頴娃久虎

娃 久虎(えい ひさとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。頴娃氏7代当主。 頴娃氏は肝付氏の庶流。肝付氏11代・肝付兼元の子・兼政が頴娃を名乗ったことから始まる。 永禄元年(1558年)、頴娃兼賢の次男として誕生。元亀元年(1570年)に腹違いの兄・兼有が弑害された為に後を継いだ。天正4年(1576年)の高原城攻め、翌々年の耳川の戦いに参加する。次いで天正8年(1580年)の水俣出兵にも参加し、この頃までに薩摩国頴娃(現・鹿児島県南九州市)、薩摩指宿(現・鹿児島県指宿市)の両地頭を兼ねた。 天正10年(1582年)頃からは肥前国への出兵に参加し、千々輪(千々石)城攻防戦で戦傷を負う。天正12年(1584年)の島原の陣にも参加、天正13年(1585年)には山田有信と共に肥前などを偵察し、島津義弘によって手柄を激賞されている。天正15年(1587年)4月の根白坂の戦いにも参加しているが、同年死去。享年30。.

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飯野城

飯野城(いいのじょう)は現在の宮崎県えびの市飯野にあった日本の城(山城)。別名を亀城、あるいは鶴亀城。現在は亀城公園。.

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観音寺 (京都市東山区)

医聖堂 観音寺(かんのんじ)は、京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)とも称される。山号は新那智山。本尊は十一面観音(秘仏)。西国三十三所第十五番札所、神仏霊場巡拝の道(神仏霊場会)百二十二番(京都四十二番)霊場、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所、洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、泉山七福神巡り3番(えびす神)札所。.

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角隈石宗

角隈 石宗(つのくま せきそう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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許儀後

許儀後または許儀俊(きょ ぎご、きょ ぎしゅん、生没年不詳)は、戦国・安土桃山時代・江戸時代の人物で、島津氏に仕えた医者である。許三官とも言う。島津義弘の医術の師であるともいわれる。 出身は『朝鮮王朝実録』などから中国・福建省とされてきたが、『全浙兵制考』や『薩藩旧記雑録』から江西省・吉安府の出身とする方が有力とされる。 中国・明の人物であったが、隆慶5年(和暦:元亀2年(1571年))倭寇に捕えられ捕虜として薩摩に連れてこられたところを島津義久に気に入られ、その侍医となりそのまま帰化した。義久と共に豊臣秀吉とも謁見している。 しかし、秀吉の起こした「文禄・慶長の役」の目的が明の征服と知ると、同じく薩摩に帰化していた郭国安(後の汾陽理心)と共に、明へ日本国内の事情などを記した密書を、同郷の海商である朱均旺に託し送っている(明からの使者が許と接触した際、秀吉を快く思わない義久と明が連合して秀吉を攻める提案をしたともされる)。但し、秀吉はそのことを知っており、義久と共に秀吉へ謁見した際に、秀吉は巨大な鍋を鋳造させ許を煮殺そうとした。しかし、徳川家康が秀吉を宥めたことで命拾いし、許はそのときの返礼として、家康が病になった際に薬を調剤して恩を返している。 文禄2年(1593年)に許孚遠により派された史世用が、商人に扮して内之浦へ来航、舟を提供した許豫と共に許儀後との接触を図らんとした。これを怪しんだ伊集院忠棟と正興寺住職の玄龍の二人は、許儀後を通訳にこれを取り調べている。史世用と許豫は来航の目的を頑なに通商の為であるとし、後に解放されると、許儀後はそれより間も無くの10月に義久の命により、島津勢の疫病治療のために朝鮮へ渡海している。 没年は不明であるが、慶長18年(1613年)の時点で410石を領しているとの記録がある。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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諸県郡

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高城 (新納院)

城(たかじょう)は、現在の宮崎県児湯郡木城町にあった日本の城(山城)。高城川の戦い(耳川の戦い)の主戦場となった城である。木城町指定文化財(史跡) 。.

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高原城

原城(たかはるじょう)は、現在の宮崎県西諸県郡高原町にあった平山城。別名を松ヶ城。.

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高崎山城

崎山 高崎山城(たかさきさんじょう)は、大分県大分市の高崎山にあった日本の城である。高崎城とも呼ばれる。.

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高野山

壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.

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高橋元種

橋 元種(たかはし もとたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。日向縣藩主。.

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高橋紹運

橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。 紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

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豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

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足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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鹿児島

鹿児島(かごしま).

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鹿児島市

かごしま県民交流センター 鹿児島市(かごしまし)は、九州の南部に位置する市であり、鹿児島県の県庁所在地でもある。 鹿児島湾西岸の市街地から桜島を望む景観がイタリアのナポリからヴェズーヴィオ火山を望む風景に似ていることから、『東洋のナポリ』と称される。.

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

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龍造寺隆信

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。.

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龍造寺氏

龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。.

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龍造寺政家

龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。.

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近衛前久

近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。.

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霧島市

霧島市(きりしまし)は鹿児島県本土の中央部に位置する市。2005年11月7日、国分市と姶良郡溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併し誕生した、鹿児島県で2番目の人口規模を有する市である。 薩摩地方と大隅地方、また宮崎県を結ぶ交通の要所で、国道・鉄道などの交通手段が発達し、古くから鹿児島県内有数の都市として発展してきた。また、鹿児島空港の開港、九州自動車道の開通による地理的な条件を生かし、国分隼人テクノポリスの指定を受けて、ソニーや京セラなどのハイテク産業が発展した。 一方で日本百名山の霧島山や、鹿児島神宮の初午祭、霧島温泉郷や日当山温泉、妙見温泉などの温泉で知られる観光地でもある。民謡・鹿児島おはら節の歌詞にある「花は霧島 煙草は国分」の“霧島”とは当地が原産地とされるキリシマツツジ、“国分”とは合併前の旧国分市を中心に栽培されてきた葉タバコの銘柄である。2010年9月に霧島ジオパークが日本ジオパークに認定された。.

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阿蘇合戦

阿蘇合戦(あそがっせん)は、天正12年(1584年)から天正13年(1585年)にかけて肥後で行なわれた島津義久軍と阿蘇惟光軍の合戦である。.

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阿蘇惟光

阿蘇 惟光(あそ これみつ)は、安土桃山時代の肥後国の大名。阿蘇氏22代当主(阿蘇神社大宮司)。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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薩藩旧記雑録

薩藩旧記雑録(さっぱんきゅうきざつろく)は、江戸時代後期~明治時代にまとめられた島津氏及び薩摩藩家臣の鎌倉時代から明治時代までの文書集。島津氏、及び薩摩藩政史研究の根本史料である。.

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薩摩川内市

薩摩川内市(さつませんだいし)は、鹿児島県の北西に位置する市。 鹿児島県内で最大の面積を有する市であり、北薩地区の中心都市である。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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肝付兼寛

肝付 兼寛(きもつき かねひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。大隅国加治木城主。.

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肝付兼盛

肝付 兼盛(きもつき かねもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肝付氏庶流。大隅国加治木城主。島津貴久・義久の家老を務めた。.

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肝付氏

肝付氏(きもつきし、)は、日本の氏族の一つであり、大隅の戦国大名でもあった。隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げた。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前有馬氏

肥前有馬氏(ひぜんありまし)は、日本の氏族。通字は「純」または「澄」で、いずれも「すみ」または「ずみ」と読む。.

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釣り野伏せ

釣り野伏せ(つりのぶせ)は、戦国時代に九州の戦国大名島津義久により考案・実践されたと言われている戦法の一つ。釣り野伏せり・釣り野伏と呼ばれることもある。なお、大友氏配下の立花道雪など同じ九州の武将も類似した戦法を用いた記述がある。.

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臼杵城

臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。.

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長宗我部信親

長宗我部信親の墓(高知市・雪蹊寺) 長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、安土桃山時代の武将。土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。.

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長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.

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長崎通常

長崎 通常(ながさき みちつね、? - 慶長3年(1598年))は、安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣。通称は六郎左衛門。諱は常通とも。父は長崎兵部少輔、子は長崎通泰。.

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耳川の戦い

耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。.

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PHP研究所

株式会社PHP研究所(ピーエイチピーけんきゅうしょ、PHP Institute)は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助によって創設され、出版事業を主体に行っている出版社。2010年10月1日、政策シンクタンクを標榜する株式会社PHP総合研究所を吸収合併した。 東京本部は江東区豊洲5丁目6番地の52()、京都本部の住所は京都市南区西九条北ノ内町11()。.

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林景福

林 景福(はやし けいふく、天正6年(1578年)- 慶長16年(1611年))は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての朝鮮国からの帰化人で、薩摩国島津氏の臣下。元の姓は朴。法号は仙朝坊。子は林鎮澄。 朝鮮国慶尚道の出身で実名を「朴 景福」という。文禄3年(1594年)に文禄・慶長の役で朝鮮へ出征した島津勢により連れ帰られると、日本へ帰化して島津義久へ奉公した。後に国分衆中となる。 義久が病になった際、景福は一人で小島へ渡ったり、霧島の火井(天然ガスの噴出口)に籠るなどして義久の平癒を祈願した。その義久が慶長16年(1611年)に病死すると、景福は殉死を遂げた。享年34。 なお、子の鎮澄は島津義弘の娘の御下に奉公し、子孫は佐志(現・薩摩郡さつま町)に移った。.

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東京芸術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館(とうきょうげいじゅつだいがく だいがくびじゅつかん)は、東京都台東区上野公園の東京藝術大学美術学部構内にある美術館である。東京藝術大学の前身である東京美術学校以来のコレクションや歴代卒業生の作品などを収蔵展示している。.

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東郷重位

東郷 重位(とうごう ちゅうい / しげかた、永禄4年(1561年) - 寛永20年6月27日(1643年8月11日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・剣豪。島津氏(薩摩藩)の家臣。示現流剣術の流祖。幼名は弥十郎、通称は藤兵衛、のち長門守、和泉守、越前守、肥前守を名乗った。諱の重位は、示現流では口伝では「ちゅうい」とする。.

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東郷重治

東郷 重治(とうごう しげはる、生没年不詳)は、島津家家臣。通称は与助、与七、安房介。また休伴入道とも。「本藩人物誌」では瀬戸口重為次男で、東郷重位の兄とする。.

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東郷氏

東郷氏(とうごうし).

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根白坂の戦い

根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は、天正15年(1587年)4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦である。.

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桐野作人

桐野 作人(きりの さくじん、1954年 - )は、歴史小説・時代小説(架空戦記を含む)の作家、歴史研究家。 鹿児島県出水市出身。鹿児島県立出水高等学校、立命館大学文学部東洋史学専攻卒業。歴史関係出版社の編集長を経て、編集プロダクションを設立。戦国史、主に薩摩島津氏の研究が多く、『真説 関ヶ原合戦』(学習研究社,2000年)、『真説 本能寺』(学習研究社2001年)などの実証的な専門書も執筆している。.

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桂忠詮

桂 忠詮(かつら ただのり)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。島津氏家臣。.

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梅北一揆

梅北一揆(うめきたいっき)は、文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣・梅北国兼が起こした一揆である。.

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梅北国兼

梅北 国兼(うめきた くにかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。文禄元年(1592年)に起きた梅北一揆の首謀者。諱は盛定とも云う。.

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検地

検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。.

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楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

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樺山久高

樺山 久高(かばやま ひさたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。樺山忠助の次男。樺山善久の孫。 武芸だけでなく、和歌や蹴鞠にも造詣の深い教養人であったといわれている。.

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樺山忠助

樺山 忠助(かばやま ただすけ)は、戦国時代の武将。和歌を好み、犬追物の達者であった。 天正元年(1573年)、島津氏に降伏した大隅国の禰寝重長が肝付氏に攻められた際、これを救うべく出陣、肝付氏を西俣に破り功を為した。同3年(1575年)に犬追物が行われた際、忠助は射手として11匹を射る程の活躍を見せ、その腕前から毎年の犬追物での射手となり、天正4年(1576年)に琉球の使者を饗応する犬追物での射手も務めた。同年、伊東氏の高原城攻めにも出陣、その後、日向国穆佐(現・宮崎市高岡町)の地頭に任じられる。但し耳川の戦いの頃に穆左は嫡子の規久に任せ、自身は大隅の堅利に住んだ。 天正12年(1584年)の岩屋城攻めにも出陣、忠助は大石に兜を砕かれ、矢玉による無数の傷を負いながらも奮戦し、ようやくこれを落としたが、その退き陣の際に病を得て堅利へと戻った。但し数カ月後に治癒すると再び豊後攻めへと戻り功を為した。 慶長14年(1609年)に出水にて病没。.

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樺山忠副

樺山 忠副(かばやま ただそえ桐野作人 『さつま人国誌 戦国・近世編2』より、天文6年4月15日(1537年5月23日)- 弘治3年4月15日(1557年5月13日))は戦国時代の薩摩国島津氏の家臣。父は島津氏庶流樺山氏8代当主の樺山善久、母は島津忠良の次女・御隅(島津貴久の姉)。幼名は千代鍋丸、通称は太郎、助太郎。 樺山善久の嫡男として誕生、天文19年(1550年)に祖父・島津忠良の加冠により元服し、天文23年(1554年)には岩剣城の戦いに参加した。弘治3年(1557年)、蒲生氏・菱刈氏との戦いにおいて(纒頭の戦い)、敵陣を攻め破る際に手負いとなり、同日その傷が元で死去した。享年21。法名は「華巌弓木上座」。島津義久が哀悼の和歌を詠んでいる。    情有りてかたぢも人にことなるを さきだてて見るあなう世の中    むかひては中々かなしそれとのみ 筆にとめおく人の名残りは    あやなくも歎な詫そたらちねを おくらすたぐひこころ有世を    峯の雲浦に塩やく煙にも 見し面影のたちやそふふらむ    たかき名を残すはさすがうれしきも はかなやわきて武士の道    吹風のさそひし花の陰ならて かかる夢をも見る世なりけり 此の歌は島津義久が樺山忠副が弘治三年の蒲生攻略の戦の際、菱刈重豊に斬られ重傷を負い国分・長濱の城にて亡くなったのを甚く悲しみ嘆きのあまり弥陀の六字(なむあみたふ)を歌頭にし詠んだ歌『三国名勝図会』より 母の御隅は忠副の死を機に出家し、朝夕怠らず供養の念仏を続けたという。.

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樺山善久

樺山 善久(かばやま よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名島津氏の庶流樺山氏の8代当主。.

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比志島国貞

比志島国貞(ひしじま くにさだ、天文19年(1550年) - 元和6年4月3日(1620年5月5日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての薩摩国島津氏の家老。紀伊守、彦四郎、宮内少輔。父は比志島国真。子は比志島国隆。.

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比志島義興

比志島 義興(ひしじま よしおき)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

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毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

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水俣市

水俣市(みなまたし)は、熊本県の最南部に位置する市である。西は不知火海に面して天草の島々を望み、もともと海の幸、山の幸に恵まれた風光明媚な土地である。重く長い公害の歴史を経て、2017年現在では環境都市づくりを推進している。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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沖田畷の戦い

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。.

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泰平寺 (薩摩川内市)

泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある真言宗の寺。正式名「医王山正智院泰平寺」。本尊は薬師如来。.

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泗川の戦い

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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木崎原の戦い

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3,000人という説が有力)を擁していた伊東側が、少数の兵力(300人)しか持っていなかった島津側から退いたことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。しかし実際の桶狭間の戦いとは全く違い、伊東軍の反撃により島津軍は将兵の85%以上が返り討ちにされ討死したという、全滅と言うべき大損害を被っている。なお、この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の策謀により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなったと考えられている。 なお「木崎原の戦い」とは島津側の呼び方で、伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。.

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木食応其

木食応其(もくじきおうご、天文5年(1536年)- 慶長13年10月1日(1608年11月8日))は、安土桃山時代の真言宗の僧で、出家前は六角氏に仕える武将、出家後は外交僧・勧進僧・連歌学者として活動した。法名(法諱)を応其(應其)、字を順良、房号を深覚と云い、深覚坊応其と称す。木食は木食行を修めた者への称で、木食応其は通称。.

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木脇祐光

木脇 祐光(きのわき すけみつ、生没年不詳)は戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の家臣。諱は祐充とも。通称は大炊助、受領名は若狭守。入道名は恕祐。父は木脇祐兄。正室は有川飛騨守の女、継室は小侍従。子は木脇祐辰、鮫島宗堯。 木脇氏は日向伊東氏の一族であるが、島津氏12代島津忠治へ伊東尹祐の娘(玉蓮夫人)が輿入れした際、祐光祖父の木脇主税介がその娘に付けられ薩摩に入国、そのまま島津氏の家臣となったものである。父の代に伊集院恋之原を領有しそこに住んでいたが、祐光の代に鹿児島へ移った。 永禄12年(1569年)、正室に先立たれていた祐光へ、主君である島津義久より小侍従という女性が後添いとして下げ渡される。小侍従はこのとき懐妊しており、同年7月(『諸家系図』では6月)に男児を生んでいる。この男児は後に鮫島宗儔の養子となり、鮫島宗堯と名乗っている。 天正6年(1578年)の耳川の戦いに従軍、天正14年(1586年)は島津義弘に従い八代へ在城し、岩屋城攻めにも従い、当城への使者役も努めている。.

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本多忠勝

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.

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本田親貞

本田 親貞(ほんだ ちかさだ)は薩摩国島津氏の家臣で、戦国時代に同名の薩摩本田氏庶流が3名存在した。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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朱印状

織田信長朱印状/兵庫県立歴史博物館蔵 朱印状(しゅいんじょう)とは、日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことである。主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給された。 特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれる。.

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有馬晴信

有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。 大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴から偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名。.

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惟宗忠康

惟宗 忠康(これむね の ただやす)は、平安時代後期の摂関家(藤原北家)に仕えた京侍。秦氏の一族。父は忠友(八文字民部太夫)、子に忠広(上総前司)、忠久(豊後守)、忠季(兵衛尉)。橋口右衛門尉。 島津氏の祖である忠久の父とする説があり、忠久の母の丹後局が忠康の一族の惟宗広言の妻になった縁により、忠久・忠季も広言の養子となったものとする説がある。 .

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惟宗氏

惟宗氏(これむねうじ)は、日本の氏族のひとつ。平安時代に始まる氏族で、秦氏の子孫とされる。.

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惣無事令

惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。藤木久志によって提唱され定説化した。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸次川の戦い

長宗我部軍戸次川戦没者供養塔(高知市・雪蹊寺) 戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。.

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海鳥社

有限会社海鳥社(かいちょうしゃ)は、福岡県福岡市博多区に所在する日本の出版社。1985年(昭和60年)に葦書房の社員であった西俊明と別府大悟が中心となって設立した。 社名は作家の上野英信に「朝鮮半島から九州・沖縄を結ぶ 巨大な<文化弧>のカナメとなれ」という言葉をもらったことに由来する。おもに地元・福岡および九州各地に関する歴史(郷土史)、文化、文学(郷土文学)、教育、自然環境、地元著名人のエッセイ集、写真集、観光ガイド本など、幅広いジャンルの書籍の出版を手がけている。双書(シリーズ)として「海鳥社ブックス」、また雑誌「海路」を刊行している。 『加藤典洋の発言』シリーズをはじめとして、竹田青嗣、内田樹、橋爪大三郎といった著名な評論家などの著作を刊行している。.

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浜田経重

浜田 経重(はまだ つねしげ、天文3年(1534年) - 慶長16年2月20日(1611年4月3日))は薩摩国島津氏家臣。別名は重門。通称は民部左衛門。法号は栄臨(永林とも)。浜田重好の三男。子は浜田重昌、娘(押川公近室)。 一生の間に戦場に赴く事39度、上げた首級40余人、討ち捨て15、6人、敵地へ忍び入る事13度に及ぶという功臣であった。元々は村田経定の附衆中として功を為していたが、その武功の多さに感心した島津義久が召し出し直臣とした。 天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の際、その武功を聞いた秀吉は経重を自身の前に召しだして、金房兵衛尉政次作の槍と知行五百石を与えている。しかしその一年ほど後、五百石は義久へと返上し、自らは元々の百石取りに甘んじた。 慶長16年に義久が死去すると、これに殉死する。法名は「鏡山栄臨居士」。その際、以下の二編の辞世を残している。.

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斎藤鎮実

斎藤 鎮実(さいとう しげざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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新納忠堯

新納 忠堯(にいろ ただたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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新納忠増

新納 忠増(にいろ ただます)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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新納忠元

新納 忠元(にいろ ただもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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新納忠光

新納 忠光(にいろ ただみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。島津氏の家臣。.

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新納忠秀

新納 忠秀(にいろ ただひで)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の陪臣。新納忠元の家臣。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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11月10日

11月10日(じゅういちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から314日目(閏年では315日目)にあたり、年末まであと51日ある。.

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1533年

記載なし。

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1554年

記載なし。

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1557年

記載なし。

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1564年

記載なし。

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1566年

記載なし。

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1569年

記載なし。

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1570年

記載なし。

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1572年

記載なし。

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1573年

記載なし。

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1576年

記載なし。

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1578年

記載なし。

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1581年

日曜日から始まる。.

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1582年

記載なし。

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1584年

記載なし。

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1585年

記載なし。

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1586年

記載なし。

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1587年

記載なし。

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1588年

記載なし。

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1590年

記載なし。

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1594年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1602年

記載なし。

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1604年

記載なし。

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1611年

記載なし。

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1915年

記載なし。

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1月21日 (旧暦)

旧暦1月21日は旧暦1月の21日目である。六曜は先負である。.

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2月9日 (旧暦)

旧暦2月9日(きゅうれきにがつここのか)は、旧暦2月の9日目である。六曜は仏滅である。.

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3月4日

3月4日(さんがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から63日目(閏年では64日目)にあたり、年末まであと302日ある。.

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3月5日

3月5日(さんがついつか)はグレゴリオ暦で年始から64日目(閏年では65日目)にあたり、年末まであと301日ある。.

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5月3日 (旧暦)

旧暦5月3日(きゅうれきごがつみっか)は、旧暦5月の3日目である。六曜は先勝である。.

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