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相良氏

索引 相良氏

良氏(さがらうじ / さがらし)は、肥後南部を支配した戦国大名の氏族である。江戸時代は肥後人吉藩主家として明治維新まで存続した。.

170 関係: 南藤蔓綿録古麓城吉富町吉川弘文館多良木町大名大内氏大炊御門経音太田亮子爵室町時代守護宗家山鹿市山鹿郡岡山藩岡本頼氏岡本頼春島津義久島津氏工藤氏上田萬年上村頼堅上村頼孝上村頼興上村長国上村長種上村長陸上毛町上毛郡中津市丸目頼美丸目長恵丸野頼成三上参次三光村九州平定人吉城人吉市人吉藩井伊氏今村頼刧伊佐氏伊豆国伊東祐時伊東氏伏見城の戦い佐牟田長堅徳川家康地頭...北原氏分国法周防国備前国内田統続内田鎮家内田鎮次内田村 (熊本県飽託郡)八代日記国一揆犬童頼安犬童頼兄球磨郡秋月種弘秋月種美稲留長蔵築上郡美濃国甲斐親直牧之原市相馬氏相良城相良堯頼相良定頼相良実長相良忠房相良前続相良前頼相良福将相良織部相良義陽相良義滋相良為続相良町相良頼基相良頼央相良頼完相良頼寛相良頼峯相良頼之相良頼広相良頼徳相良頼俊相良頼喬相良頼福相良頼紹相良頼綱相良頼真相良頼直相良頼親相良頼貞相良頼金相良頼泰相良頼泰 (権五郎)相良頼房相良長定相良長寛相良長在相良長祗相良長福相良長続相良長隆相良長頼相良長誠相良長興相良長毎相良長氏相良長泰 (島津家臣)相良長泰 (肥後相良氏)相良正任相良武任相良氏法度相良治頼相良晴広相良晃長鎌倉幕府遠山友明遠藤氏遠江国菊鹿町菊池氏華族菱刈隆豊静岡県養子縁組豊前国豊臣秀吉鷲尾隆量鹿本町鹿本郡赤池長任関ヶ原の戦い薩摩国藤原南家藤原為憲肥後国長男苗木藩JLogos東頼乙東頼兼榛原郡武家江戸時代池田宗政池田章政深水頼蔵深水長智湯山宗昌源頼朝戦国大名戦国時代 (日本)明治維新文安日明貿易慶長1448年1581年1600年 インデックスを展開 (120 もっと) »

南藤蔓綿録

南藤蔓綿録(なんとうまんめんろく)は、相良氏の祖先から、23代当主・頼福の在世した享保5年(1720年)10月までの約500年間にわたる球磨人吉藩相良氏に於ける歴史を全14巻に著したものである。 著者は人吉藩の剣術師範であった梅山無一軒(実名:西源六郎昌盛)で、成立年は文化年間である。相良家に於ける政治、社会、文化のみならず、経済や交通、気象、災害、風俗、寺社及び仏像の縁起等にまで言及して記されている。文久2年(1862年)に藩内で起こった大火「寅助火事」により相良家の家記が消失した事を受け、同年 『探源記』、『嗣誠独集覧』などと共に、無一軒の孫である梅山昌寿により藩へと献上された。.

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古麓城

古麓城(ふるふもとじょう)は、熊本県八代市古麓町(旧 肥後国八代郡)にあった諸城の総称、近世に名付けられた城塞群である。古麓町の東側の山中に7城(曲輪)が存在したと一般に言われている。 平成26年(2014年)に「八代城跡群(やつしろしろあとぐん)」の名称で、八代城、麦島城とともに国の史跡に指定された平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。。.

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吉富町

吉富町(よしとみまち)は、福岡県の東部、築上郡に属する町である。 町内には「田辺三菱製薬株式会社 吉富事業所」(旧:吉富製薬 → 旧:ウェルファイド → 旧:三菱ウェルファーマ)の連結子会社である「田辺三菱製薬工場株式会社 吉富工場」(2005年4月1日に三菱ウェルファーマ株式会社の足利工場・吉富工場を分社)があり、旧:吉富製薬→旧:ウェルファイド→旧:三菱ウェルファーマの企業城下町として発展した町である。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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多良木町

多良木町(たらぎまち)は熊本県南部に位置する町で、球磨郡に属している。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大炊御門経音

大炊御門 経音(おおいのみかど つねなり)は、江戸時代中期の公卿。大炊御門家22代当主。.

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太田亮

太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年5月27日)は、日本の歴史学者。氏族制度の研究で知られる。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

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山鹿市

山鹿市(やまがし)は、熊本県の北部に位置する市である。山鹿温泉や山鹿灯籠まつりで知られる。.

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山鹿郡

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岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

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岡本頼氏

岡本 頼氏(おかもと よりうじ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。相良氏の家臣。.

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岡本頼春

岡本 頼春(おかもと よりはる、永正7年(1510年) - 天文19年4月14日(1550年4月30日)『八代日記』では天文21年8月14日(1552年9月2日)としている。)は、戦国時代の肥後国相良氏の武将。官位は相模守。父は上村長国。子は東頼兼、東藤左衛門、娘(詳細不明)。.

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島津義久

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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工藤氏

工藤氏(くどうし)は、藤原南家の流れをくむ日本の氏族のひとつ。.

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上田萬年

上田 萬年(うえだ かずとし、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。小説家円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員。.

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上村頼堅

上村 頼堅(うえむら よりかた)は、戦国時代の武将。相良氏の家臣。肥後国豊福城主。 上村氏は相良氏の庶流。頼堅は上村頼興の三男で相良氏17代当主・相良晴広の弟。 相良氏が名和氏より取り戻した豊福城主及び地頭に任じられていたが、父・頼興の死後に相良領の兄弟による分割統治を目論み、兄・晴広の跡を継いだ相良義陽に対し、次兄・頼孝、弟・稲留長蔵と共に弘治3年(1557年)6月に反乱を起こす。しかし、6月10日に義陽の命を受け八代城から出兵した東山城守の率いた兵に城を攻められ落ち延びる。 頼堅は八代鏡の内田という処に潜んでいたところを捕えられ、同所にある福善寺にて殺された。 尚、頼堅の子も同年7月13日に八代鏡に隠れていたところを捕えられ、頼堅の妻はその2日後に人吉城へと出頭している(両人のその後の所在等は不明)。.

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上村頼孝

上村 頼孝(うえむら よりよし/よりたか)は、戦国時代の武将。相良氏の家臣。上村頼興の次男で上村氏14代当主。相良氏17代当主相良晴広は実兄。.

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上村頼興

上村 頼興(うえむら よりおき)は、戦国時代の武将。肥後国相良氏の一族である上村氏13代目当主。相良氏17代当主相良晴広の父。上村城主。.

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上村長国

上村 長国(うえむら ながくに)は、戦国時代の武将。相良氏の家臣。.

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上村長種

上村 長種(うえむら ながたね)は、戦国時代の武将。肥後国相良氏の家臣。.

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上村長陸

上村 長陸(うえむら ながみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。相良氏の家臣。 上村氏は相良氏の庶流。父・上村頼孝は相良氏18代当主・相良義陽に対して謀反を起こし後に殺害されるが、長陸は幼少であった為に許され、成人すると義陽の勧めで、島津義弘と離縁していた義陽の別腹の妹・亀徳を娶り、また奥野地頭にも任じられた。 しかし、義陽の弟・相良頼貞が義陽の死後、その後継に立たんとした際に随身したり、更に相良氏20代当主・相良頼房が、文禄・慶長の役に伴い渡海して留守の際に謀反を企てるなどした。慶長年間、その企てを知った者らにより、原城の柳江院門の前で討ち取られた。 長陸の祖父・頼興に暗殺された岡本頼春は、暗殺の際に上村家の断絶を予言して死んだが、長陸と嫡子の鶴松丸が死去した事で予言は的中した(以後も続く上村氏は、上村姓を与えられた者で正統ではない)。 尚、正室の亀徳は『南藤蔓綿録』によると、長陸死後に尼となり原城の下原に住んだが、相良家家老・犬童頼兄に粗略に扱われ、貧しい生活を送った挙句、元和年間に餓死したとある。法名「西津良意」。.

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上毛町

上毛町(こうげまち)は、福岡県東部の築上郡に属する町。.

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上毛郡

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中津市

中津市(なかつし)は、大分県の北西端に位置する市である。.

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丸目頼美

丸目 頼美(まるめ よりよし、生年不詳 - 元亀3年5月4日(1572年6月14日))は戦国・安土桃山時代の武将。肥後相良氏奉行、後に日向伊東氏家臣。兵庫丞。 頼美は球磨の相良義陽に仕え奉行職にあった。しかし同じ奉行である東長兄と不仲となり、長兄が義陽とその生母「内城様(上田氏)」に取り入ったために頼美は謀反人とされてしまう。隔して永禄2年(1559年)、縁者である湯前城主・東直政と共に「獺野原の戦い」を引き起こすが、破れて日向国に逃れ伊東義祐の家臣となった。 その後、元亀3年(1572年)5月4日、米良重方の率いる三ツ山衆として木崎原の戦いに出陣しそこで討ち死にする。 Category:戦国武将 Category:1572年没 臣まるめよりよし Category:戦国時代に戦死した人物.

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丸目長恵

丸目 長恵(まるめ ながよし)は、戦国時代の相良氏の家臣で、江戸時代初期の兵法家。上泉秀綱(後に信綱)の弟子として、四天王の1人とも数えられ、タイ捨流兵法の流祖。通称は蔵人佐(くらんどのすけ)、または石見守であるが、講談等で用いられた丸目蔵人(まるめ くらんど)の名で広く知られる。本姓は藤原を称し、号は徹斎。晩年は剃髪して石見入道徹斎を名乗った。.

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丸野頼成

丸野 頼成(まるの よりなり、? - 明徳5年1月19日(1394年2月19日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。相良氏6代当主・相良定頼の四男で丸野氏の祖。通称は四郎。初名は頼豊。.

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三上参次

三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日) - 1939年6月7日)は、日本史学者。.

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三光村

三光村(さんこうむら)は、大分県下毛郡にあった村。 2005年(平成17年)3月1日に同じ下毛郡の本耶馬渓町、耶馬溪町、山国町とともに中津市に編入された。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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人吉城

人吉城の航空写真(1976年撮影)国土航空写真 武者返し 二の丸跡 人吉城(ひとよしじょう)は熊本県人吉市麓町にある日本の城(平山城跡)。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。.

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人吉市

人吉市(ひとよしし)は、熊本県最南部にある市。 九州山地に囲まれた人吉盆地に位置し、球磨川沿いの温泉と川下りで有名。人吉・球磨地方の中心地。人吉藩相良氏の城下町として栄えた。市内中心部に熊本県唯一の国宝である青井阿蘇神社があり、2015年4月24日には、近隣の球磨郡の各町村と並んで、「相良700年が生んだ保守と進取の文化 ~日本でもっとも豊かな隠れ里―人吉球磨~」が日本遺産に認定された。.

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人吉藩

人吉藩(ひとよしはん)は、肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。.

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井伊氏

井伊氏(いいし)は、日本の氏族。近江国彦根藩の主家である。.

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今村頼刧

今村 頼刧(いまむら よりひさ/よりかず、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。 相良氏6代当主相良定頼の次男で今村氏の祖。通称は藤太。別名は頼而。 明徳5年(1394年)に日向国都城で共に戦死した相良前頼、丸目頼書、青井前成、丸野頼成の4人とは兄弟で、頼刧の子孫は薩摩国に下り、今村氏を名乗った。.

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伊佐氏

伊佐氏(いさし)とは、日本の氏族。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊東祐時

伊東 祐時(いとう すけとき)は、鎌倉時代前期の武将・御家人。日向伊東氏の祖。.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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伏見城の戦い

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦。.

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佐牟田長堅

佐牟田 長堅(さむた ながかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。相良氏の家臣。大畑城主。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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北原氏

北原氏(きたはらし)は、大隅国肝付氏の庶流で、日向国の戦国大名。.

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分国法

分国法(ぶんこくほう)は、戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典である。 単行法と並んで戦国法を構成する。分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名や国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。 分国法には、先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。 また、分国法は、戦国大名の家中を規律する家法(かほう)と守護公権に由来し国内一般を対象とする国法(こくほう)に区別される。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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内田統続

内田 統続(うちだ むねつぐ)は、安土桃山時代の武将。立花氏の家臣。伏見留守居家老や武者奉行を務めた。初めは戸次鑑連(立花道雪)から偏諱を受け連満(つらみつ/つれみつ)、のち大友義統から偏諱を受け統続と名乗った(この順序は逆ともされる)。.

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内田鎮家

内田 鎮家(うちだ しげいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。戸次氏、立花氏の家臣。家老職・武者奉行を務めた。.

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内田鎮次

内田 鎮次(うちだ しげつぐ)は、戦国時代の武将。大友氏一族の豊後国鎧ケ岳城主・戸次氏の家臣。戸次の二王の一人。 『柳河藩享保八年藩士系図』によると、相良氏庶流の内田宗頼(左衛門太夫)の子孫で代々肥後国山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市菊鹿町下内田)の日渡城主であったが、文亀年間に日渡城没落以降、大友氏の庇護下に入るとする。 鎮次は大友氏の助勢を受けたまま戸次親家に仕官する。また大友義鎮(宗麟)より偏諱を受けた。同僚の森下備中(二代備中守、森下釣雲の父)と共に戸次家の政務、軍事、諸事などを担当したので、藤北戸次氏の権威を振るって、戸次の二王と称揚されたと伝わる。 家督は長男・鎮並が相続し、次男・鎮家は分家する。.

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内田村 (熊本県飽託郡)

内田村(うちだむら)は、熊本県の北部に位置していた村。.

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八代日記

八代日記(やつしろにっき)は、文明16年(1484年)から永禄9年(1566年)5月までの球磨相良氏の歴史を、日記風に記録したものである。 成立年代は不明、著者も不明であるが、史学者の勝俣鎮夫は、家臣としての個人的記事が多く、的場内蔵助宛ての書状が記されている事から、的場内蔵助による作ではないかとしている。 史料編纂所が底本にした本は写しで、『八代日記 乾』と『八代日記 坤』の二冊に分けられており、元号及び干支の間違いや、永禄2年(1559年)に起こった「獺野原の戦い」の記事があるべきところが空欄になっているなどしている。またこれの異本も存在する。 原本は長らく所在不明となっていたが、2005年に慶応義塾大学にて発見された(原本の原題は『当家日記』)。.

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国一揆

国一揆(くにいっき)は南北朝時代、室町時代の領主層による領主権の確保を目的とした連合形態(一揆)を言う。国一揆が形成される要因のひとつとして外部からの政治的圧力の介入などが挙げられ、それらに対抗する為の軍事的共同形態的な結び付きが強く、目的が達成される、あるいは脅威が去った際には国一揆は解体される。代表的な国一揆として播磨の国一揆、伊賀惣国一揆、加賀一向一揆などが挙げられる。.

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犬童頼安

童 頼安(いんどう よりやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。相良氏の家臣。出家して伝心、還俗後に再出家して休矣と名乗る。.

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犬童頼兄

童 頼兄(いんどう よりもり/よりえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。相良氏の家臣。後の失脚事件により、地元人吉では相良清兵衛(清ビア)の名前でも知られる。.

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球磨郡

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秋月種弘

秋月 種弘(あきづき たねひろ)は、日向高鍋藩の第5代藩主。第4代藩主・秋月種政の長男。母は松浦棟の娘。正室は中川久通の娘。側室は多数。.

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秋月種美

秋月 種美(あきづき たねみつ小野『シリーズ藩物語 米沢藩』、P113 / たねみ)は、江戸時代中期の大名。日向国高鍋藩6代藩主。次男に出羽国米沢藩主となった上杉鷹山がいる。.

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稲留長蔵

留 長蔵(いなどめ ながくら)は、戦国時代の武将。相良氏の家臣。相良氏17代当主・相良晴広の実弟。肥後国岡本城主。.

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築上郡

福岡県築上郡の位置(1.吉富町 2.上毛町 3.築上町) 築上郡(ちくじょうぐん)は、福岡県の郡。 以下の3町を含む。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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甲斐親直

斐 親直 / 甲斐 宗運(かい ちかなお / かい そううん)は、室町時代から安土桃山時代にかけての武将。阿蘇氏の家臣。出家後に名乗った宗運の号で知られる。甲斐親宣の子。.

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牧之原市

牧之原市(まきのはらし)は、静岡県中部に位置する市。.

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相馬氏

氏(そうまうじ、そうまし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて下総国北西部(現在の千葉県北西部)や陸奥国南東部(現在の浜通り夜ノ森以北)を領した大名の氏族である。桓武平氏良文流千葉氏の庶流。通字は「胤」(たね)。.

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相良城

良城(さがらじょう)は、遠江国榛原郡(現在:静岡県牧之原市)にあった日本の城。江戸時代の一時期には相良藩の藩庁が置かれた。.

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相良堯頼

良 堯頼(さがら たかより、永享5年(1433年) - 文安5年3月28日(1448年5月1日))は、相良氏の第10代当主。第9代当主相良前続の嫡子。幼名は虎寿丸。.

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相良定頼

良 定頼(さがら さだより)は、南北朝時代の武将。相良氏6代当主。5代当主・相良頼広の長男。.

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相良実長

良 実長(さがら さねなが、生年不詳 - 応永24年4月4日(1417年4月20日))は、相良氏の第8代当主。第7代当主相良前頼の長子。初名は頼茂。官途および通称は兵庫允。法名を實阿(実阿)。.

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相良忠房

良 忠房(さがら ただふさ)は、相良氏の第19代当主。幼名を亀千代、通称は四郎太郎。初名が忠房。.

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相良前続

良 前続(さがら さきつぐ、生年不詳 - 嘉吉3年6月26日(1443年7月23日))は、相良氏の第9代当主。第8代当主・相良実長の子。幼名は藤五郎。初名は周頼。通称および官途は宮内大輔、左近将監を経て近江守・従五位下。正室は島津忠国の妹「生円院」。子は第10代当主相良堯頼。.

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相良前頼

良 前頼(さがら さきより、生年不詳)は、南北朝時代の武将。相良氏の第7代当主。第6代当主相良定頼の長男。幼名は伊井之助、通称は近江守。法名は立阿。.

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相良福将

良 福将(さがら とみもち)は、肥後人吉藩の第10代藩主。.

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相良織部

良 頼直(さがら よりなお)は、肥後人吉藩の相良氏一門(門葉)。諱は頼直(よりなお)、頼真(よりまさ)。通称は織部。.

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相良義陽

良 義陽(さがら よしひ / よしはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての肥後の武将、戦国大名。相良氏の第18代当主。初名は頼房で、将軍・足利義輝の偏諱を受けて義陽とした。.

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相良義滋

良 義滋(さがら よししげ)は、肥後の戦国大名。相良氏の第16代当主。第13代当主相良長毎の庶長子で、第14代当主長祗は異母弟。初名を長為(ながため)、通称を左兵衛尉としたが、後に長唯(ながただ)と改名し、近江守を称した。義滋を名乗るのは最晩年であり、相良長唯の名をより長く用いた。.

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相良為続

良 為続(さがら ためつぐ、文安4年(1447年)- 明応9年6月4日(1500年6月30日))は、相良氏の第12代当主。第11代当主・相良長続の3男。母は犬童兼長の娘。官位は従五位下・左衛門尉。通称は次郎三郎。初名は頼元、後に肥後守護菊池為邦と長続からそれぞれ偏諱を受け、為続と改名した。.

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相良町

良町(さがらちょう)は静岡県榛原郡にあった町。2005年10月11日、榛原町と合併し、牧之原市となった。.

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相良頼基

良 頼基(さがら よりもと)は、肥後人吉藩の第15代(最後の)藩主。.

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相良頼央

良 頼央(さがら よりひさ)は、肥後人吉藩の第8代藩主。.

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相良頼完

良 頼完(さがら よりさだ)は、肥後人吉藩の藩主。公式には第9代藩主とされる2人目の人物である(後述)。.

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相良頼寛

良 頼寛(さがら よりひろ)は、肥後人吉藩の第2代藩主。.

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相良頼峯

良 頼峯(さがら よりみね)は、肥後人吉藩の第7代藩主。.

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相良頼之

良 頼之(さがら よりゆき)は、肥後人吉藩の第13代藩主。.

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相良頼広

良 頼広(さがら よりひろ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。鎌倉幕府御家人。相良氏の第5代当主。第4代当主相良長氏の長男。通称は弥三郎。.

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相良頼徳

良 頼徳(さがら よりのり)は、肥後人吉藩の第12代藩主。.

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相良頼俊

良 頼俊(さがら よりとし)は、鎌倉時代中・後期の武将。相良氏の第3代当主。相良長頼の三男。通称は六郎。.

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相良頼喬

良 頼喬(さがら よりたか)は、肥後人吉藩の第3代藩主。.

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相良頼福

良 頼福(さがら よりとみ)は、肥後人吉藩の第4代藩主。相良氏の第23代当主。.

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相良頼紹

相良 頼紹(さがら よりつぐ、嘉永6年12月25日(1854年1月23日) - 大正13年(1924年)3月12日)は、明治時代の華族。人吉藩14代藩主相良長福の長男。幼名、武之進。従五位、子爵、貴族院議員。妻は徳大寺公純の五女・中子。子に貞子(福岡秀猪妻)、鴻子(杉村虎一妻)、養子に相良頼綱。 父が没した時は幼少であったため、叔父の頼基が15代藩主となる。後に頼基の養子となる。明治5年(1872年)9月2日、従五位に叙任する。同年9月15日、明治天皇に拝謁する。明治8年(1875年)5月22日、養父頼基が隠居し、家督を継ぐ。明治9年(1876年)12月、宮中祇候となる。その後、華族部長局書記などに歴任する。明治14年(1881年)、伊藤博文の憲法調査に随行する。明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙爵。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に選ばれる。明治30年(1897年)7月、貴族院議員に再選される。大正13年(1924年)に死去。頼基の子の頼綱が家督を継いだ。 大正5年(1916年)の『時事新報』の記事で、東京府東京市麻布区に在住する100万円の資産を有する者として取り上げられるなど、華族のなかでも屈指の資産家であった。  よりつく Category:貴族院子爵議員 華族さからよりつく Category:1854年生 Category:1924年没.

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相良頼綱

良 頼綱(さがら よりつな、1876年(明治9年)11月17日 - 1966年(昭和41年)12月)は、大正時代から昭和時代の華族。相良氏第37代当主。子爵。人吉藩14代藩主相良頼基の四男。正室は稲葉久通の娘・壽子。子に頼知(よりのり)、綱二、嶋子(真田幸治夫人)、充子(伊藤銃次郎夫人)。.

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相良頼真

良 頼真(さがら よりざね、寛文11年(1671年) - 貞享5年5月25日(1688年6月22日))は、肥後人吉藩の世嗣。第3代藩主相良頼喬の次男。母は鷲尾隆量の娘。官位は従五位下、宮内少輔。.

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相良頼直

良 頼直(さがら よりなお)は、江戸時代後期の人吉藩の家老。.

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相良頼親

良 頼親(さがら よりちか)は、鎌倉時代の武将。鎌倉幕府御家人。相良氏の第2代当主。 相良長頼の長男。通称は四郎。観仙禅師とも言う。.

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相良頼貞

良 頼貞(さがら よりさだ)は、肥後の武将。相良氏の当主・晴広の次男。.

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相良頼金

良 頼金(さがら よりかね、生没年不詳)は、第11代当主相良長続の長男。官途は相模守。母は犬童兼長の娘。.

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相良頼泰

良 頼泰(さがら よりやす、寛文2年(1662年) - 延宝5年10月27日(1677年11月22日))は、第3代藩主(相良氏の第23代当主)相良頼喬の長男で、肥後人吉藩の世嗣。母は相良長秀の娘。通称は長次郎。官位は従五位下、壱岐守。 頼喬の嫡子として生まれた。延宝元年(1673年)に将軍徳川家綱に拝謁する。延宝4年(1676年)12月20日に従五位下・壱岐守を叙任した。 ところが延宝5年、家督を相続することなく父に先立って16歳で早世した。代わって弟の頼真が嫡子となったが、同じく早世し、後に側室から生まれた庶子3男1女も全て相次いで早世したため、頼泰の母の弟で、叔父にあたる頼福が、頼喬の養子となって跡を継いだ。.

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相良頼泰 (権五郎)

良 頼泰(さがら よりやす)は、相良氏の第11代当主相良長続の四男。第12代当主相良為続の弟。多良木の地頭。官途は左近将監。子は長泰、長弘、娘(北原茂兼室)。北原兼親は外孫。.

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相良頼房

良 頼房(さがら よりふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。相良氏20代当主で、肥後国人吉藩初代藩主。頼房は初名で、晩年である元和2年に長毎(ながつね)と改名したので、先祖と同名の相良長毎が実名であるが、区別のために項目名は頼房としている。また父の義陽も初名は頼房であった。.

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相良長定

良 長定(さがら ながさだ、生年不詳阿部猛、西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月、P362) - 享禄4年11月11日(1531年12月19日))は、相良氏の第15代当主。第11代当主相良長続の長子頼金の子。第14代当主長祗は従甥にあたる。官途および通称は民部大輔。.

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相良長寛

良 長寛(さがら ながひろ)は、肥後人吉藩の第11代藩主。.

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相良長在

良 長在(さがら ながあり/ながあきら)は、肥後人吉藩の第6代藩主。.

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相良長祗

良 長祗(さがら ながまさ、文亀元年3月13日(1501年3月31日)- 大永5年1月8日(1525年1月31日))は、相良氏の第14代当主。第13代当主相良長毎の嫡子で三男。官位は左兵衛尉。幼名は満乗丸。通称は太郎。初名は長聖(ながのり)。母は伊東祐国の娘。.

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相良長福

良 長福(さがら ながとみ)は、肥後人吉藩の第14代藩主。.

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相良長続

良 長続(さがら ながつぐ)は、相良氏の第11代当主。分家の永留氏の出身。山田城主として多良木兄弟の乱を鎮定し、第10代当主相良堯頼の客死により、宗家を相続した。通称は藤五郎または左近将監。.

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相良長隆

良 長隆(さがら ながたか、明応元年(1492年)- 大永6年5月16日(1526年6月25日))は、相良氏の第13代当主相良長毎の庶子(次男)。母は長倉氏。第14代当主長祗と、第16代当主義滋は、異母兄弟にあたる。.

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相良長頼

良 長頼(さがら ながより)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。相良氏の初代当主。相良頼景の第一子というのが定説だが、弟、或いは甥とする異説もある。通称は三郎。.

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相良長誠

良 長誠(さがら ながとも/ながまさ、天正6年4月3日(1578年5月19日) - 慶長15年6月23日(1610年8月11日))は、相良氏の第18代当主・相良義陽の三男。母親は豊永長英の娘。幼名は藤千代。通称は佐三郎。.

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相良長興

良 長興(さがら ながおき)は、肥後人吉藩の第5代藩主。.

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相良長毎

良 長毎(さがら ながつね)は、相良氏の第13代当主。第12代当主・相良為続の第一子。初名を長輔(ながすけ)とし、通称は太郎。.

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相良長氏

良 長氏(さがら ながうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。相良氏の第4代当主。第3代当主相良頼俊の長男、ただし一説には次男とも言う。通称は六郎三郎。.

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相良長泰 (島津家臣)

良 長泰(さがら ながやす、天文5年(1536年) - 寛永6年5月25日(1629年7月15日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣。元の名は稲留長辰。通称は新助、新右衛門尉、日向守。入道名は閑栖斎。父は稲留伝翁。妻は伊地知重康の娘。子は相良頼豊、相良新吉、娘(島津忠恒側室)。 祖は肥後国相良氏で、相良氏の祖である相良長頼の五男・稲留頼貞の子孫である稲留善助が島津忠国に仕えて以降、代々島津家臣となっていた。長泰の代まで稲留姓であったが、島津義久の使者として相良義陽の元へ赴いた際、義陽の許可を得て以後、相良姓を名乗るようになった。 天正10年(1582年)から八代へ在番、有馬氏への使者を務めるなどし、日向国紙屋の地頭および財部(日向国、大隅国のいずれかは不明)の地頭となった。その後は島津義弘に従い、合志城攻めや高森城攻めに参加して功を挙げた。また、筑紫城攻め、岩屋城攻めの際も副将としてこれに参戦している。 朝鮮の役が始まると、長泰は木脇祐辰と共に船奉行を務め、庄内の乱にも参陣する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は長泰は大坂にあり、実窓院(義弘夫人)と亀寿(忠恒夫人)を薩摩へと逃すため、於松という侍女を亀寿の身替りとする謀事の際、平田増宗の指示により長泰は、吉田清孝、上原尚張、新納孫右衛門と共に、於松を大坂屋敷へ送り込む役目を果たした。その後、関ヶ原より退去してきた義弘らと合流、日向国の細島に着くと、伊東氏家臣の稲津重政の軍がいたため、須木から義弘を出迎えるべく現れた村尾重侯の軍勢と共に、これを討ち払った。 寛永6年(1629年)に死去した。その死に際して、島津家久(忠恒)より追悼の和歌が詠まれている。.

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相良長泰 (肥後相良氏)

良 長泰(さがら ながやす、文明5年(1473年) - 長享元年(1487年))は、戦国時代の武将。父は相良頼泰で、その嫡男。祖父は肥後国相良氏11代当主・相良長続。幼名は松尉丸。通称は権五郎。 第12代当主・相良為続の近習として仕えていたが、長享元年に父の頼泰が、長泰の器量が優れている事から相良氏を相続させようと謀り、奉行の佐牟田上野、吉牟田孫左衛門らと密約を交わした。それが為続の子・相良長毎の知るところとなり、すぐさま成敗の命が下された。 頼泰は原城下原(人吉城内)の館で殺害され、長泰も在所であった八代にて殺害された。なお弟・松千代丸(後の長弘)も兄と共にいたが、幼いということで助命された。 享年15。法名は「賀呈道慶」。.

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相良正任

良 正任(さがら ただとう)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。周防・長門国の守護大名大内氏家臣。肥後国の国人領主相良氏一門、多良木相良氏(上相良氏)の一族とされる。.

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相良武任

良 武任(さがら たけとう)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。.

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相良氏法度

良氏法度(さがらしはっと)は、肥後国の戦国大名である相良氏の分国法である。15世紀末から16世紀半ばにかけて成立。後世、相良氏法度との通称で呼ばれるが、「申定条々」と呼ばれた文書、所謂、壁書(かべがき / へきしょ)の集成で、相良氏壁書とも言う。.

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相良治頼

良 治頼(さがら はるより、永正11年(1514年) - 天文15年5月11日(1546年6月9日))は、戦国時代の武将。相良氏の家臣。相良長弘の子。頼泰の孫。官途は治部少輔。.

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相良晴広

良 晴広(さがら はるひろ)は、肥後の戦国大名。相良氏の第17代当主。第16代当主相良義滋の養嗣子で、実父は上村頼興。初名は頼重(よりしげ)。何度かの改名を経て、晴広としたのは将軍足利義晴からの偏諱による。.

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相良晃長

良 晃長(さがら みつなが)は、江戸時代中期の肥後国人吉藩主。8代藩主・相良頼央の養子として、宝暦9年(1759年)から宝暦12年(1762年)まで藩主の地位にあり、公式には第9代藩主とされる1人目の人物である(後述)。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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遠山友明

遠山 友明(とおやま ともあきら、享保2年1月11日(1717年2月21日) - 宝暦3年6月1日(1753年7月1日))は、美濃苗木藩の第8代藩主。 常陸府中藩第3代藩主・松平頼明の三男。母は林氏。子に友随(長男)、相良福将(次男)。初名は友張。通称は丹下、越之進。官位は従五位下、丹後守、のち佐渡守。 享保18年(1733年)3月11日、第8代藩主・遠山友央の養嗣子となり、その長女と結婚する。同年5月1日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年12月18日、従五位下丹後守に叙任する。元文5年(1740年)8月27日、友央が隠居したため家督を継ぐ。呉服橋や日比谷、常盤橋などの門番役を務めた。 宝暦3年(1753年)6月1日、江戸で死去し、跡を友央の長男で養嗣子の友清が継いだ。享年37。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。.

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遠藤氏

遠藤氏(えんどうし)は、日本の氏族、武士の家系。江戸時代には譜代大名家や旗本となった。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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菊鹿町

菊鹿町(きくかまち)は、熊本県鹿本郡にあった町。 2005年1月15日に山鹿市・鹿本郡鹿央町・鹿北町・鹿本町と合併し、山鹿市菊鹿町となった。.

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菊池氏

菊池氏(きくち し)は、日本の氏族の一つ。本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。明治維新の立役者(維新の十傑の一人)西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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菱刈隆豊

菱刈 隆豊(ひしかり たかとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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鷲尾隆量

鷲尾 隆量(わしのお たかかず)は、江戸時代前期の公家。鷲尾家11代当主。従一位内大臣・広橋兼勝の次男。官位は正二位・権大納言。.

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鹿本町

鹿本町(かもとまち)は、熊本県鹿本郡にあった町。 2005年1月15日に山鹿市・鹿本郡菊鹿町・鹿北町・鹿央町と合併し、山鹿市鹿本町となった。.

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鹿本郡

本県鹿本郡の位置(水色:後に他郡から編入した区域) 鹿本郡(かもとぐん)は、熊本県にあった郡。.

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赤池長任

赤池 長任(あかいけ ながとう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥後国相良氏の家臣。 大口城在番の番頭の一人として人吉衆の将及び雑兵1,000名と共に大口城へ入った。永禄7年(1564年)、相良氏が伊東氏と結んだために島津氏との関係は悪化し、大口城をめぐって激しい猛攻をかけてくるようになった。長任は堅固に在番するよう命じられていたものの、2月21日に野戦を仕掛けるべく、桑幡新六、岩崎六郎兵衛を先手に騎馬武者65騎、雑兵合わせて300余人で筈ヶ尾に出陣。放火と挑発を行い、出てきた島津軍と交戦したが敗れて大口城へ退却、殿となった長任と岡本頼氏は手傷を負い、桑幡、岩崎などたくさんの兵が討ち死にした。 永禄10年(1567年)4月9日、市山城へ在番中の新納忠元が、島津義久からの使者を見送りに城外へ出た際に、長任は大口城から上村弥九郎、的場五藤左衛門らを差し向け、忠元を初栗にて襲撃、忠元が市山城へ入ってもなおこれを追撃し、本丸の城の戸口で島津方と鑓を合わせている。 翌11年(1568年)1月20日には大口城へ押し寄せた島津軍を菱刈氏と共に撃退し、島津義弘を窮地に追い込んだ。また、この戦では岡本頼氏が川上久朗に手傷を負わせ、死に至らしめる大功を挙げている。 以降、相良氏の史書にはその名を見なくなるが、天正2年(1574年)に東長兄、深水頼金との連名により書かれた文書が存在する。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家(軍事貴族)の名族を多く輩出した。.

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藤原為憲

藤原 為憲(ふじわら の ためのり、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。藤原南家・藤原武智麻呂の子孫。常陸介藤原維幾の子。従五位下・遠江権守。工藤大夫を号し、工藤氏の祖となる。工藤氏からは、伊東氏、伊藤氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏などが派生し、また子孫に工藤茂光、工藤祐経などを輩出した。同時に平将門・平貞盛の従兄弟にもあたる。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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苗木藩

苗木藩(なえぎはん)は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、最小の城持ちの藩。居城は苗木城。美濃国の恵那郡の一部と加茂郡の一部を領地としていた。.

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JLogos

JLogos(ジェイ・ロゴス)は、辞書・事典横断検索を提供する日本のインターネットサービスである。全ての辞書を利用できる有料版と、一部の辞書を利用できる無料版がある。.

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東頼乙

東 頼乙(ひがし よりいつ、? - 寛永4年7月2日(1627年8月12日))は、戦国時代から江戸時代にかけての肥後国相良氏の武将。史料に依っては頼一と記述。通称は喜兵衛。法号は蓮室休斎。父は東頼兼。妻は上村頼孝の娘。 祖父は、上村頼興に暗殺された岡本頼春であるが、自らの正室はその頼興の孫である。 頼乙は、父・頼兼と共に朴河内城の番を仰せ付かっていたが、天正7年(1579年)9月13日、島津家臣・新納忠元の軍勢に城が攻められると頼兼と頼乙は、自らの家族と城兵らは城に残し、二人のみで密かに湯浦まで落ち延びる。城は八代からの援軍により落城寸前で守られたが、翌年に忠元の軍勢80余名に再び攻められ落城、頼兼と頼乙は面目を失い自ら山中に蟄居するが、すぐさま許される。 文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役の際、頼乙は法寿寺の前住亮哲と共に祐筆役として朝鮮へ渡海、帰国後は当主・相良頼房の近習として、京や江戸に数年住まった。元和年間の末、暇を願い出て入道し「休斎」と号すと、女犯肉食を断って常楽寺山に庵を営み、昼夜兵道に勤しんだ。 寛永4年(1627年)に病没。遺言により高塚山(熊本県人吉市)に火葬された。.

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東頼兼

東 頼兼(ひがし よりかね、天文5年(1536年)? 天文7年(1538年)? - 没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代の肥後国相良氏の武将。入道名は定意。官位は駿河守。父は岡本頼春。子は東頼乙(頼一とも)。 父の岡本頼春は、相良氏17代当主・相良晴広の実父・上村頼興により天文21年(1552年:天文19年説あり)に暗殺されているが、頼兼はそのとき15歳であった為に後難を免れ、成人後に嫡子・頼乙共々朴河内城の番を仰せ付かった。 天正7年(1579年)9月13日、島津家臣の新納忠元率いる軍勢に城が攻められると、頼兼は妻子と城兵らを城に残したまま、自らと息子の頼乙のみで密かに湯浦まで落ち延びる(後年、水俣城が島津氏に大挙して攻囲された際、水俣城兵がこれを反面教師とする下りが『南藤蔓綿録』に見られる)。城は八代衆が援軍に現れた為、落城寸前で守られたが、翌8年(1580年)5月12日の風雨の日に、忠元率いる80余名に再び攻められ落城、頼兼と頼乙は面目を失い自ら山中に蟄居する。その後、当主・相良義陽に許されて、岡本地頭に任じられた。.

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榛原郡

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田宗政

池田 宗政(いけだ むねまさ)は、備前岡山藩の第4代藩主。岡山藩池田家宗家6代。.

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池田章政

池田 章政(いけだ あきまさ)は、備中鴨方藩の第9代藩主、のち備前岡山藩の第10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家の第12代当主。栄典は従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。 肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。正室は戸田氏正の娘鑑子。子は政保(長男)、詮政(次男)。備前守、侍従、左近衛権少将。幼名は満次郎。鴨方藩主時代の名乗りは池田 政詮(いけだ まさのり)。 頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。.

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深水頼蔵

深水 頼蔵(ふかみ よりくら)は、肥後国の武将。相良氏の家臣。 通称は新五郎、のちに左馬介。実父は深水織部、養父は伯父の深水長智。.

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深水長智

深水長智(ふかみ ながとも、天文元年(1532年) - 天正18年8月21日(1590年9月19日))は、相良氏の家老、歌人。三河守。剃髪して三河入道、宗方(そうほう)または休甫を称した。父は深水頼金、子は深水摂津介。養子は深水頼蔵。.

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湯山宗昌

湯山 宗昌(ゆやま むねまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。相良氏の家臣。肥後国湯山城主。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1448年

記載なし。

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1581年

日曜日から始まる。.

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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