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木崎原の戦い

索引 木崎原の戦い

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3,000人という説が有力)を擁していた伊東側が、少数の兵力(300人)しか持っていなかった島津側から退いたことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。しかし実際の桶狭間の戦いとは全く違い、伊東軍の反撃により島津軍は将兵の85%以上が返り討ちにされ討死したという、全滅と言うべき大損害を被っている。なお、この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の策謀により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなったと考えられている。 なお「木崎原の戦い」とは島津側の呼び方で、伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。.

91 関係: 加久藤城えびの市大口城大将大隅国太鼓姶良町宮原景種宮崎県寡戦小林城小林市屋敷島津義弘島津貴久島津氏川上忠智上人上井覚兼上別府宮内少輔丸目頼美一騎討ち九州幹部座主人吉五代友喜伊東塚伊東祐安伊東祐信伊東祐青伊東義祐伊東氏伏兵供養ホラガイスパイ六地蔵塔元亀突撃米良重方米良長門守総大将真幸院留守居牝馬...狼煙相良義陽白鳥山白鳥神社 (えびの市)隘路鎌田政年鎌田政近遠矢良賢落合兼置飯野城諏訪山高原城高原町鹿児島県黒木実利農家薩摩国肝付氏釣り野伏せ長倉伴九郎耳川の戦い柚木崎正家村尾重侯栗毛桶狭間の戦い武士永禄有川貞真最前線戦国時代 (日本)戦闘戦死斥候新納忠元日向国1566年1571年1572年5月4日 (旧暦)6月14日 インデックスを展開 (41 もっと) »

加久藤城

加久藤城(かくとうじょう)は現在の宮崎県えびの市加久藤にあった平山城。伊東氏の史料には「覚頭城」と当て字されている。.

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えびの市

えびの市(えびのし)は、宮崎県にある市である。南西部に位置する。.

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大口城

大口城(おおくちじょう)は、別名牛山城、牟田口城ともいわれる、島津氏の外城である。鹿児島県伊佐市大口里字上ノ馬場にあった。古典的な山城形式だった。この城は、江戸時代の間に取り壊されてしまい、2016年11月現在では空堀や土塁が多少見受けられるのみとなっている。.

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大将

大将(たいしょう)は、軍隊の階級の一つ。将官に区分され、中将の上に位置する。北大西洋条約機構の階級符号ではOF-9に相当する。陸海空軍でそれぞれ呼称の異なる大将を総称しFour-star rankと呼ぶこともある。.

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大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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太鼓

太鼓(たいこ)は、動物の皮などで作った薄い膜を枠(胴)に張り、それをたたいて音を出す楽器である。楽器分類学では「膜鳴楽器」と呼ぶが、実用上の楽器分類では「体鳴楽器」とともに打楽器に分類される。太鼓は古くから存在する楽器のひとつで、世界各地に広く分布し、その地域によって特色ある太鼓が存在している。楽器として使用されるほか、かつて西アフリカにおいては太鼓によって遠距離通信を行う、いわゆるトーキングドラムという使用法が広く行われていた。 胴と膜の枚数によって、以下のように分類される。.

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姶良町

姶良町(あいらちょう)は、鹿児島県(離島以外の地域)の中部にあった町である。姶良郡に属していた。 県内の町村で最も人口が多い町であり、九州の町村では福岡県筑紫郡那珂川町に次いで2番目に人口が多かった。2010年3月23日付けで同じ姶良郡の蒲生町・加治木町と合併して姶良市となった。.

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宮原景種

宮原 景種(みやはら かげたね)は戦国時代から安土桃山時代の武将。島津氏家臣。宮原景益の孫。 祖先は島津忠国が庶長子の友久に与力として付けた9人のうちの1人である。.

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宮崎県

宮崎県(みやざきけん)は、九州地方南東部に位置する日本の県である。県庁所在地は宮崎市。 県木である「フェニックス」に代表される南国情緒豊かな気候から、1960年代には日南地区を中心とした新婚旅行のメッカだった。現在も春季のプロ野球などのキャンプ地として知られる。.

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寡戦

寡戦(かせん)とは、小勢にて大勢と戦うことをいう。「寡(か)」は「少ない」の意で、『孫子』にも「衆・寡(多い兵、少ない兵)」の意で用いられる他、『孟子』においても、「寡は衆に敵せず(少ない者は多い者には敵わず)」と記される。これは春秋戦国時代がライバル国多数が前提であり、小軍で一度勝てたとしても、疲れ切ったところを別の敵国軍に襲われて国が滅びれば、結果的には負けであるための思想である(ゆえに『孫子』では寡戦は説かない。後述)。.

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小林城

小林城(こばやしじょう)は現在の宮崎県小林市真方にあった日本の城(平山城)。別名を三ツ山城、あるいは三ノ山城。現在は城山公園。.

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小林市

小林市(こばやしし)は、宮崎県の南西部に位置する市である。.

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屋敷

屋敷(やしき); 一般概念.

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島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.

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島津貴久

島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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トランゴ・タワーズ/カラコルム山脈の大断崖群。パキスタン領。氷食(氷河侵食)によって形成された。 崖(がけ、がい)とは、山や岸(海岸、河岸、湖岸)などの、険しく切り立った所『広辞苑』『大辞泉』をいう。地表の高度が急変する部分の急斜面との定義もできる。山腹の崖を日本語ではほき(崖『大辞林』第3版、歩危)、そわ(岨)、そば(岨)ともいうが、古語の趣がある。 垂直かそれに迫るほど切り立った崖は、古来の日本語で切岸/切り岸(きりぎし、きりきし)という。しかし現代語では断崖(だんがい)ということが多い。懸崖(けんがい)、絶崖(ぜつがい)ともいう。また、これらの同義語として、切り立った状態を壁に譬えた絶壁(ぜっぺき)があり、断崖に絶壁を合わせて断崖絶壁をいう強調表現もある。 英語では「崖」全般を "'''scarp'''"、「断崖」を "'''cliff'''" といい、日本語では後者の音写形「クリフ」が外来語として通用する。 日本の宅地造成規制法施行令の1条2項によれば「地表面が水平面に対し30度を超える角度をなす土地」としている。.

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世界最長の川であるナイル川 世界最大の流域面積を有する川であるアマゾン川 日本最長の川である信濃川 日本最大の流域面積を有する川である利根川 川(かわ)は、絶えず水が流れる細長い地形である。雨として落ちたり地下から湧いたりして地表に存在する水は、重力によってより低い場所へとたどって下っていく。それがつながって細い線状になったものが川である。河川(かせん)ともいう。時期により水の流れない場合があるものもあるが、それも含めて川と呼ばれる。.

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川上忠智

川上 忠智(かわかみ ただとも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上人

上人(しょうにん)とは、仏教における高僧への敬称であり称号。上人号とも。元は『大品般若経』において智徳を備えた人物に対して敬意を払ったものであった。 日本では、貞観6年(864年)に僧位の一つとして置かれた法橋上人の略号であったが、後に民間においても諸国を回って民衆教化にあたった僧に対して「上人」あるいは「聖人」と呼ぶようになった。こうした用い方をされた僧侶の初めは空也であると言われている。 室町時代以後、天皇より上人号の綸旨を受けた者を「上人」と呼ぶ慣習が生まれた。 なお、上人号に用いる名称が宗派によって定まっている宗派がある。浄土宗では下の字に「誉」、浄土真宗では下の字に「如」(ただし本願寺などの法主に対しては綸旨の有無に関わらず上人号が用いられていた)、時宗では下の字に「阿」、日蓮宗では上の字に「日」を用いるのがそれに該当する。.

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上井覚兼

上井 覚兼(うわい かくけん/さとかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上別府宮内少輔

上別府 宮内少輔(かみべっぷ くないしょうゆう)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。実名は不明。清武地頭。日向国宮崎郡清武城主。.

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丸目頼美

丸目 頼美(まるめ よりよし、生年不詳 - 元亀3年5月4日(1572年6月14日))は戦国・安土桃山時代の武将。肥後相良氏奉行、後に日向伊東氏家臣。兵庫丞。 頼美は球磨の相良義陽に仕え奉行職にあった。しかし同じ奉行である東長兄と不仲となり、長兄が義陽とその生母「内城様(上田氏)」に取り入ったために頼美は謀反人とされてしまう。隔して永禄2年(1559年)、縁者である湯前城主・東直政と共に「獺野原の戦い」を引き起こすが、破れて日向国に逃れ伊東義祐の家臣となった。 その後、元亀3年(1572年)5月4日、米良重方の率いる三ツ山衆として木崎原の戦いに出陣しそこで討ち死にする。 Category:戦国武将 Category:1572年没 臣まるめよりよし Category:戦国時代に戦死した人物.

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一騎討ち

一騎討ち 一騎討ち(いっきうち)とは、戦争状態にある戦場において戦士同士が一対一を原則として決着をつける戦闘手法である。一騎打ち(いっきうち)とも表記される。.

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幟(のぼり)は、日本における旗の形式のひとつ。長辺の一方と上辺を竿にくくりつけたものを指す。.

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九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.

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幹部

幹部(かんぶ、Cadre)は、組織の首脳や執行部にあって、組織運営の意思決定と指揮・命令を担う人物またはその職位を指す。.

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座主

座主(ざす).

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人吉

人吉(ひとよし).

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五代友喜

五代 友喜(ごだい ともよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国の武将。島津氏の家臣。一部史料には友慶とも。 家系は新田八幡宮社家執印氏の庶家で、初代・惟宗康友の子・康忠が五代院院主職を譲られてより五代氏を称した家である。 友喜は永禄7年(1564年)、島津義弘が日向国飯野城を居城にした際にこれに従った60人のうちの一人で、以後その家老を務めた。また、馬関田(現・宮崎県えびの市西川北付近)地頭でもあった。元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘に兵40人を与えられ、白鳥山野間口に伏兵、日向伊東氏の3,000人に及ぶ軍勢を義弘、鎌田政年と共に打ち破り200石を賜る。また、敵の総大将であった伊東祐安を弔う供養塔を建立した。 天正12年(1584年)、義弘の子・島津久保に従い小田原征伐にも参加した。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こった際には、長島(現・鹿児島県長島町)にて肥後国の加藤清正の軍を警戒する番に就き、義弘の帰国後に200石を賜った。また、慶長8年(1603年)に唐船奉行を務め、同10年(1605年)に主君・島津家久の養女・長寿院殿が松平定行の元へ嫁ぐ際はその供をした。 寛永3年(1626年)に病死。薩摩国の隆盛院に葬られた。.

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伊東塚

伊東塚(いとうづか)は、戦国時代の日向国の大名伊東氏配下の武将の塚。宮崎県小林市に所在する。1934年(昭和9年)4月17日、宮崎県指定史跡となった。.

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伊東祐安

伊東 祐安(いとう すけやす)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。.

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伊東祐信

伊東 祐信(いとう すけのぶ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 祐信の主君・伊東義祐は、元亀2年(1571年)6月に島津氏15代当主・島津貴久が没すると大隅国の肝付氏が島津領に侵攻し始めたのを好機と捉え、真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町)の完全支配を目指すべく、翌元亀3年(1572年)5月に未だ島津氏の治める飯野地区への大攻勢を開始する(木崎原の戦い)。 5月3日夜、祐信は伊東又次郎・伊東祐青と共に、伊東祐安を総大将とした3,000余の軍勢の大将の一人として島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 翌4日未明に飯野・妙見原に到着し軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、もう一軍を祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃を仕掛けるべく進軍した。 祐信は手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発。その後、祐信隊は加久藤城へ侵攻を開始。事前に得ていた情報を元に、城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。 祐信隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。そこへ加久藤城主・川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信隊は退却を余儀なくされる。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られた(異説あり)。 退却した祐信隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。兵の多さによる油断と、また折からの蒸し暑さのため川で水浴びする者が多かった。そこを飯野城から打って出た島津義弘の軍勢が攻めかかり、祐信を含めた多数の戦死者を出した。その際、祐信は義弘と一騎討ちに及ぶが敗れ三角田の地で討ち取られる。その一騎討ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという(柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)。 戦後、小林市の伊東塚に他の戦死者と共に祀られた他、佐土原城にも墓が設けられ現存している。.

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伊東祐青

伊東 祐青(いとう すけはる/すけきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。室の町上(伊東義祐の娘)との間に、祐益(伊東マンショ)・祐平など4人の子がいる。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでは、本地原に陣をかまえ島津義弘と戦ったが敗れ、小林へ退却した。 天正5年(1577年)、島津氏の攻撃により伊東氏の支城・綾城が落城した際に戦死した。なお、『日向記』には主君の伊東義祐が豊後国へ逃げる際の供の中に祐青の名が記述されており、この逃げる道中において死去したとする説もある。 すけはる Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1577年没.

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伊東義祐

伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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伏兵

伏兵(ふくへい)は、戦闘を予期して、その予想される仮想戦場に兵士をおくこと、また、その兵士。あるいは戦闘時に先の展開を予想し戦場に隠しておく兵士のことも指す。.

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供養

供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはpūjanā(プージャナー)の訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。 日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多く、これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともある。また動物等に対する供養、さらには針供養や人形供養のように生き物でない道具等に対する供養もある。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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ホラガイ

ホラガイ(法螺貝、Charonia tritonis、)は、フジツガイ科(旧分類 中腹足目 フジツガイ科)に属する巻貝の一種。日本に産する最大級の巻貝。サンゴを食害するオニヒトデを食べることから『オニヒトデの天敵』と言われることもあるが、オニヒトデの大量発生を抑える程の効果は無いとされる(詳しくはオニヒトデの項目を参照の事)。内臓の部分を除く身の部分は刺身などの食用とされる他、貝殻の部分は楽器として使用される。.

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スパイ

パイ(SPY)とは、敵対勢力などの情報を得るため、諜報活動などをする者の総称である。 『Spy』は、『Espy (見つける、探し出す)』と同じで、古期フランス語で 『Espion(見張る者)』を意味しており、『Espionage (諜報活動:現仏語)』の語源。印欧語で『見る』を意味する語幹『Spek』に由来する。.

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六地蔵塔

六地蔵塔(ろくじぞうとう)は、主に戦国時代に盛んに造られた石塔で、側面に6体の地蔵像が彫られているという特徴がある。別名「笠塔婆」。灯籠型が多いが、それ以外の形の物もある。供養塔として街道に面して建てられた例が多い。九州に分布が集中している。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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突撃

鳥羽・伏見の戦いで、槍や刀で敵陣に突撃する桑名藩の歩兵 銃剣による白兵戦の訓練写真、1942年のドイツ陸軍歩兵 突撃(とつげき、assault)は、主に歩兵が行う戦術で、敵の陣地などに突入し、敵を撃破しつつ占領する戦術をいう。騎兵が行う場合も多く、馬の巨大な馬体を生かして敵を蹴散らす。.

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米良重方

米良 重方(めら しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。三ツ山地頭。.

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米良長門守

米良 長門守(めら ながとのかみ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。 須木米良氏は、肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職を務める家系。 長門守は野首城・三ツ山城・須木城の三城の城主を務めた米良筑後守重方の甥に当たり、永禄10年(1567年)頃に筑後守から須木城を譲られて城主となる。 元亀3年(1572年)の覚頭合戦で、長門守は伊東加賀守、伊東新次郎等を大将とする伊東軍に曽井衆として従軍するも戦死した。 Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1572年没.

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総大将

総大将(そうだいしょう)とは、一軍以上編成する軍団において全軍を指揮する大将のこと。特に、一軍以上の軍団からなり複数の大将がいる場合に、それぞれの軍団の大将を、総大将ということが多い。惣大将または主将、総帥ともいう。.

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真幸院

真幸院(まさきいん)は、宮崎県(旧日向国)南部山沿い地域の旧名。現在のえびの市、小林市、高原町の総称。.

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留守居

留守居(るすい)は、江戸幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。御留守居(おるすい)とも呼ばれる。 諸藩の江戸留守居役は御城使とも言われ、江戸武鑑でもほぼ「城使」と記される。ただし、後述のように徳川御三家の江戸留守居は「城附」と記される他、江戸幕府の老中や側用人などの要職者が藩主である藩の場合は「公用人」と記される例外はあった。 幕府公認の留守居組合をつくって情報交換をしており、いわば諸藩の外交官であった。なお、少数ではあるが藩主不在中の江戸藩邸の警備責任者たる留守居と、連絡折衝役たる御城使を分けて設置する藩も存在した。 留守居の副官・補佐役を留守居添役と呼ぶことが多い。.

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牝馬

牝馬(ひんば)とはメスの馬の事である。オスの馬のことは牡馬(ぼば)という。.

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狼煙

煙(のろし)とは、物を焼くことで煙を上げ、それを離れたところから確認することによって、情報を伝達する手段である。夜間など煙が見えない場合は、火そのものも使われる。烽火、狼火(ろうか)、狼燧(ろうすい)とも言う。.

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相良義陽

良 義陽(さがら よしひ / よしはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての肥後の武将、戦国大名。相良氏の第18代当主。初名は頼房で、将軍・足利義輝の偏諱を受けて義陽とした。.

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白鳥山

白鳥山(しらとりやま、他).

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白鳥神社 (えびの市)

江戸時代後期の白鳥神社(『三国名勝図会』) 白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、宮崎県えびの市南部の白鳥山北中腹にある神社である。霧島六社権現の1社に数えられる古社で、旧社格は県社。.

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隘路

路(あいろ).

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鎌田政年

鎌田 政年(かまた まさとし、永正11年(1514年) - 天正11年7月8日(1583年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣。別名は政房。通称は刑部左衛門、尾張守。入道名は寛栖。妻は山田有親の娘。子は鎌田政広、鎌田政商。 島津忠良、貴久、義久の3代に仕え、大隅帖佐、薩摩馬越、日向三ツ山、大隅牛根の地頭職を歴任した。 弘治3年(1557年)の薩摩北部の豪族・蒲生範清攻め、永禄11年(1568年)の菱刈隆秋の薩摩馬越城攻めなど数々の武功のある人物だった。特に馬越城攻めの際は、島津忠良から「永久に島津家はその功を忘れぬ」とその忠功を賞されている。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘と共に兵150人を率いて出陣、池島川で休憩中の日向伊東氏の将兵を攻撃、更に義弘に与えられた兵60人を率いて伊東軍の背後に回り、義弘、五代友喜の軍勢と共に3,000人の伊東軍を撃退せしめた。 天正6年(1578年)に島津氏が耳川の戦いにて大友氏に勝利すると、肥後国の豪族である城氏と名和氏が島津氏に誼を通じてくる。政年はその支援として手勢を率いて肥後国へ入った。そして、天正8年(1580年)、新納忠元と共に肥後阿蘇氏領に侵攻、矢崎城(熊本県宇土郡)の中村惟冬を攻めこれを討ち滅ぼした。 没日には2つの説があり、「天正11年7月8日」説と「天正15年7月10日(1587年8月13日)」説がある。法名は「喜翁勝観庵主」。姶良郡牛根二川の望海山喜翁院に葬られた。.

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鎌田政近

鎌田 政近(かまた まさちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。鎌田氏庶流の鎌田政勝の子。.

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遠矢良賢

遠矢 良賢(とおや よしかた、生年不詳 - 元亀3年5月4日(1572年6月14日))は戦国・安土桃山時代の武将。島津氏家臣。下総守。莫禰(あくね)氏の庶家。父は遠矢良兼、兄は遠矢良時。 飯野衆として島津義弘に仕える。 永禄11年(1568年)8月、日向国の伊東義祐は、菱刈氏と交戦中により島津義弘が不在の飯野城を攻めるために、家臣・伊東祐安配下の佐土原遠江守を桶平城に駐屯させた。その年の11月、良賢は黒木実利と共に夜中に本地原(現・宮崎県えびの市観音原付近)の古溝に伏せ、翌朝にウズラ狩りを装った小勢を桶平城の前に繰り出し城兵を挑発した。良賢と黒木は、釣られて本地原に誘い込まれた伊東軍を釣り野伏せで散々に打ち破る。 この合戦の前、伊東氏と相良氏が飯野城を挟撃するという密約の情報が、球磨の皆越六郎左衛門の室で伊東義祐に滅ぼされた大河平氏3代目・大河平隆次の姉・ナミからもたらされており、飯野城は事前に防御を固めることができ相良軍は引き返すに至っていた。義弘は感謝し、皆越に今は亡き大河平氏の名跡と旧領を継がせるべく、良賢を皆越への説得役として遣わした。また皆越が飯野に入る際の出迎え役の一人としても良賢を遣わしている。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘に兵60人を与えられ、飯野城から加久藤城へ援軍に向かい、城攻め中の伊東軍を加久藤城将・川上忠智、馬関田衆、吉田衆と共に挟撃し撤退させる。 その後、義弘勢に合流し共に伊東軍に突撃。しかし寡兵のため軍勢を立て直さねばならなくなり、久保伴五左衛門、野田越中坊、鎌田大炊助、曾木播磨、富永刑部の5人と共に、義弘を逃がすべく伊東軍を足止めし戦死する。その間に義弘は木崎原まで後退し軍勢を整え、伏兵と共に伊東軍を挟撃、これを打ち負かす。 子孫は鹿児島の財部に移り、恒吉姓に帰したとされる。 Category:戦国武将 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1572年没.

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落合兼置

落合 兼置(おちあい かねおき)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 落合氏は伊東氏庶流。伊東氏祐が日向に下向する際、付き従い被官化した家系。 伊東家中においては「山東惣奉行」という独自の役職で特筆され、家老(御感状連判人数)とは区別されていた事が分かるが具体的な職掌は不明。島津氏側の史料には「日向惣奉行」として名が残る。また、奉行職とは別に大将としての活躍も多く、特に永禄6年(1563年)の目井古城の戦いでは、島津豊州家を相手に寡兵でよく持ちこたえ、勲功第一と賞された。 元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで潰走する伊東軍の殿を務めて戦死した。 Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1535年生 Category:1572年没.

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飯野城

飯野城(いいのじょう)は現在の宮崎県えびの市飯野にあった日本の城(山城)。別名を亀城、あるいは鶴亀城。現在は亀城公園。.

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諏訪山

諏訪山(すわやま)は、群馬県多野郡上野村にある標高1,549mの山である。日本山岳会が選定した日本三百名山の一つ。.

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高原城

原城(たかはるじょう)は、現在の宮崎県西諸県郡高原町にあった平山城。別名を松ヶ城。.

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高原町

原町(たかはるちょう)は、宮崎県南西部の町。西諸県郡に属する。天孫降臨伝説の神話のふる里として知られる。 2006年(平成18年)、「日本で最も美しい村連合」に加盟。.

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

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黒木実利

黒木 実利(くろき さねとし、生没年不詳)は、戦国時代の武将。島津氏家臣。.

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農家

農家(のうか)とは、第一次産業である農業を家業としている世帯や、その家屋のこと。農民(のうみん)、百姓などともいう。農家の定義は、時代や地域によって変わってくる。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肝付氏

肝付氏(きもつきし、)は、日本の氏族の一つであり、大隅の戦国大名でもあった。隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げた。.

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釣り野伏せ

釣り野伏せ(つりのぶせ)は、戦国時代に九州の戦国大名島津義久により考案・実践されたと言われている戦法の一つ。釣り野伏せり・釣り野伏と呼ばれることもある。なお、大友氏配下の立花道雪など同じ九州の武将も類似した戦法を用いた記述がある。.

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長倉伴九郎

長倉 伴九郎(ながくら ばんくろう)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 長倉氏は伊東氏初代・伊東祐時の子・長倉祐氏を祖とする伊東氏の庶流。伊東氏祐が日向国に下向する際、付き従い被官化した家系。 日向国の中世史料である日向記の巻第7「分国中城主揃事」によると、上別府宮内少輔と共に清武城主を務めたとされる。元亀3年(1572年)の覚頭合戦の際に、伊東新次郎、伊東加賀守等を大将とする伊東軍に従軍し、弟・伴十郎と共に討死した。享年25。 category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1547年生 Category:1572年没.

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耳川の戦い

耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。.

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陣(じん)は、朝廷において六衛府の武官が整列する場所。近衛府・兵衛府・衛門府が陣座(じんざ、杖座(じょうざ)とも)に詰めて交替で上番・勤務を務めた。これを陣直(じんちょく)と呼んだ。 また、内裏に参内する公卿の待機場所としても用いられた。近衛府の陣座の建物に公卿の会議の場が移されてそれが定番化した。そのため、こうした公卿達による国政議定の会議を陣定・陣儀などと称した。.

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柚木崎正家

柚木崎 正家(ゆのきざき まさいえ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。内山衆去川役人。日向国柚木崎城主。 一部史料には柚ノ木崎と表記。.

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村尾重侯

村尾 重侯(むらお しげあり / しげきみ)は、初め祁答院氏、のち島津氏に仕えた戦国武将。薩摩入来院氏の一族。.

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栗毛

栗毛の馬 尾花栗毛 (Flaxen chestnut) 栗毛(くりげ、chestnut/sorrel、badius/spadix、棗)は、馬の毛色のひとつ。一般に黄褐色(栗色)の毛を持つ馬のこと、またはその状態そのものを指す。.

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桶狭間の戦い

今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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有川貞真

有川 貞真(ありかわ さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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最前線

最前線(さいぜんせん)とは、戦争において敵と接触する陣地を前線と呼ぶが、敵に最も近い戦場一帯を指し示す言葉である。転じて、進行している事象の最先端を指し、経済用語、ビジネス用語などでも使われる。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戦闘

戦闘(せんとう、、proeliumプロエリウム)とは、相互に敵対する二つの勢力による暴力の相互作用である。戦斗、戰闘とも。 戦闘が行われている場所を戦場(せんじょう)、戦地といい、歴史的に戦闘(合戦など)が行われた場所は古戦場(こせんじょう)と呼ぶことがある。歴史的な慣習によって、「―の戦い」、「―の合戦」、「―の会戦」という用語も用いられる。 ここでは戦闘一般に関する軍事学の研究を概説する。 戦闘とは一般的に、敵対している部隊が特定の目的を達成するために戦闘力を行使する行動、またはその行動によって引き起こされる一連の交戦状況であり、具体的には発見(索敵)、機動、攻撃・防御、追撃・後退行動と段階的に進展する。戦闘において部隊を指導するのは戦術であり、戦闘の目的や投入される戦力の装備、規模は作戦計画によって決定される。戦闘では敵と敵施設に対して武器、兵器を使用して殺傷することによって抵抗行動を排除、破壊し、作戦目標を達成することが主要な作業となる。戦闘当事者である兵士たちは非常に強い肉体的・精神的なストレスを受けながら戦闘行動をとることになるため、被弾や被爆で死傷するだけでなく、衝撃的な経験からPTSDなどの精神疾患を患う場合もある。また戦闘は戦闘当事者双方ともに生死の狭間という極限状況において活動するため、戦場心理と呼ばれる特別な心理状態になることもある。そのため、戦闘力の要素として火力や機動力などのほかに軍事的リーダーシップが含まれると考えられている。.

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戦死

アメリカ陸軍兵士の葬儀。兵士がバトルフィールド・クロス(戦場で作成する簡易的な墓標)に対して最後の別れを行っている。 戦死(せんし、Killed in action: KIA)とは、軍人が戦争や戦闘により死亡すること。その定義や範囲は複数存在するが、通常は戦争による民間人の死亡は含まれない。.

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斥候

斥候(せっこう patrol)または戦闘斥候(せんとうせっこう combat patrol)は、本隊の移動に先駆けてその前衛に配置され、進行方面の状況を偵察しつつ敵を警戒する任務をいう。 基本的に偵察、攻撃、追跡の三つの意味がある。偵察は地形や敵などに関する情報の収集活動であり、攻撃は敵部隊を撃滅するための作戦行動であり、追跡は後退する敵部隊に向かって移動することである。 この中でも特に偵察活動は危険ではあるものの、現在の状況を確実に把握し情報を収集するために必要であり、地域の支配権を左右する重要な活動である。なぜなら敵陣地の位置や部隊配置、敵戦力の規模などの情報が確実であれば、本格的な攻撃を加える際にも支援の空爆や火砲で効率的な攻撃が可能であり、その地域における戦闘の主導権を確保することができるからである。 あらゆる戦闘斥候は敵の勢力圏やその境界において行われるために、敵の伏撃を受ける事態や、不意の遭遇戦などが発生し、小規模で散発的な戦闘のほとんどは斥候の最中に発生するものである。また、斥候部隊は前衛部隊として接敵機動に続く遭遇戦においては直ちに接触を維持しつつ敵部隊を拘束し、本隊へ敵情を報告して部隊全体の戦闘展開を支援する役割をも持つ。.

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新納忠元

新納 忠元(にいろ ただもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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1566年

記載なし。

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1571年

記載なし。

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1572年

記載なし。

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5月4日 (旧暦)

旧暦5月4日(きゅうれきごがつよっか)は、旧暦5月の4日目である。六曜は友引である。.

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6月14日

6月14日(ろくがつじゅうよっか、ろくがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から165日目(閏年では166日目)にあたり、年末まであと200日ある。誕生花はハルシャギク、ブーゲンビリア。.

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