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大友義統

索引 大友義統

大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。.

223 関係: 加藤清正城井鎮房城井氏古庄氏吉岡長増吉岡氏吉弘統幸吉弘統貞吉弘鑑理吉良氏塙保己一増田修一朗大友宗麟〜心の王国を求めて大友義右大友義孝大友義乗大友義鎮大友義親大友親家大友親世大友親盛大友親治大友能直大友氏大友氏遺跡大分郡大和国大内氏大蔵氏 (豊後国)大野郡大木喬任大木統光天正天正遣欧少年使節奈多夫人奈多鑑基妙林尼宮部継潤家督宇喜多秀家宇陀安土桃山時代寛文寛政重修諸家譜尊寿院小原鑑元小田原征伐小西行長小野鎮幸小早川隆景...山口市岩屋城岩屋城の戦い島津義久島津氏中野等常陸国三原紹心一萬田鑑実一条兼定九州千葉氏九州平定広橋兼勝五条鎮定仁科克基仮名 (通称)仙石秀久休松の戦い佐伯氏 (豊後国)佐伯惟定佐伯惟教佐竹氏徳川和子徳川秀忠徳川氏後水尾天皇従五位従四位応誉志賀親次ペトロ岐部バテレン追放令フロイス日本史利光宗魚周防国キリスト教唐橋君山内田統続内田鎮家問註所統景問註所氏兵衛府勧修寺晴豊石垣原の戦い福原長堯秋田実季秋月種実立花宗茂立花直次立花道雪立花氏筑後十五城筑後宇都宮氏筑後国筑前国箆津氏細川忠興織田信長羽柴氏瓜生貞延田原親貫田原親賢田北紹鉄田北鎮周熊谷直盛熊本藩隠居落合芳幾西牟田氏高家 (江戸時代)高橋紹運豊後国豊後国志豊前国豊薩合戦豊臣秀吉豊臣秀頼豊臣氏賀来鎮綱賀来正綱賀来氏足利義昭軍師官兵衛黒田孝高黒田長政龍造寺氏赤星統家赤星氏関ヶ原の戦い薩摩国藤堂高虎蒲池統安蒲池鎮漣蒲池氏肥後国肥前国臼杵城臼杵鑑速臼杵長景臼杵氏長宗我部元親長門国若林統昌若林鎮興耳川の戦い柳河藩柴田礼能柴田紹安松井康之杵築城村川浩平根白坂の戦い梅北一揆母里友信毛利マセンシア毛利秀包毛利輝元毛利氏水戸永禄江戸江戸時代渡辺綱渡辺氏清田鎮忠木付鎮直本多俊次朽網鎮則朽網鑑康朽網鑑房朽網氏戦国大名戦国時代 (日本)戸次川の戦い戸次統常戸次鎮連戸次親行戸次鑑方戸次氏浪人斎藤統安斎藤鎮実新人物往来社文禄文禄・慶長の役日向国改易慶長11月27日 (旧暦)1558年1576年1577年1578年1579年1586年1587年1588年1590年1591年1592年1593年1598年1600年1605年1608年1610年1668年2004年2014年7月19日 (旧暦)9月2日 インデックスを展開 (173 もっと) »

加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。.

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城井鎮房

城井 鎮房(きい しげふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊前国の戦国大名。城井氏16代当主。城井谷城主。怪力無双の人物で強弓の使い手であったとも伝わる。.

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城井氏

城井氏(きいし/きいうじ)は、日本の氏族の一つ。豊前宇都宮氏とも言い、中世には豊前国城井郷の大身領主であった。.

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古庄氏

古庄氏(ふるしょうし)は、相模国愛甲郡古庄より起こった一族。古荘、古莊とも記載する。.

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吉岡長増

吉岡 長増(よしおか ながます)は、戦国時代の武将。豊後国大友氏の一族吉岡氏当主。大分郡高田庄の鶴崎城・千歳城主。主に大友義鑑・義鎮(宗麟)父子の二代にわたって仕えた。法名は宗歓(そうかん)。.

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吉岡氏

吉岡氏(よしおかし)は、日本の氏族。.

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吉弘統幸

吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)は、安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。.

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吉弘統貞

吉弘 統貞(よしひろ むねさだ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。大友氏の家臣。後に柳河藩士。従兄弟に立花宗茂、立花直次。 豊後国に住していた際、従兄弟の立花宗茂に召し出されて30人扶持を与えられて柳河藩士となる。.

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吉弘鑑理

吉弘 鑑理(よしひろ あきまさ/あきただ)は、戦国時代の武将。豊後大友氏の家臣。.

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吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

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塙保己一

塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。 四男は、国学者の塙忠宝である。.

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増田修一朗

増田 修一朗(ますだ しゅういちろう、1980年12月4日 - )は、日本の俳優。ケイダッシュ所属。.

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大友宗麟〜心の王国を求めて

『大友宗麟〜心の王国を求めて』(おおともそうりん こころのおうこくをもとめて)は、2004年1月4日にNHK総合にて放送された特別枠の時代劇。地上波では同年1月12日の成人の日に再放送されたのみである。他、CSで再放送されている。 2003年2月に製作発表したときのタイトルは『大友宗麟〜平和を求めた戦国大名』だったが、改題された。 視聴率は関東で11.4%、関西は10.8%、地元の大分県では30.8%であった。.

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大友義右

大友 義右(おおとも よしすけ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。豊後国の大友氏の17代当主。.

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大友義孝

大友 義孝(おおとも よしたか)は江戸時代前期から中期にかけての高家旗本。肥後熊本藩細川家家臣松野正照(大友吉統の三男)の三男。 従兄の義親の死によって大友氏の嫡流が断絶したため、東福門院に仕えていた佐古局(吉統の三女で義孝の伯母)の養子となり、家門を再興する。明暦3年(1657年)9月16日召し出され、12月27日蔵米500俵を賜り寄合に所属する。元禄元年(1688年)11月25日表高家に列し、あらためて下野塩谷郡内に1,000石を与えられた。元禄2年(1689年)1月11日高家職に就き、従五位下侍従・近江守に叙任、後に従四位下に昇進。元禄10年(1697年)3月6日高家肝煎吉良義央の見習を命じられ、3月8日高家肝煎となる。 ところが元禄14年(1701年)8月21日、「そのつとめに応ぜざるにより」解任され、寄合に戻される。背景には赤穂事件との関わり、すなわち吉良義央との公私にわたる親密さにあったようである。同年9月28日表高家並の出仕、翌年12月28日高家末席に列することを許される。宝永元年(1704年)6月27日に隠居して次男の義閭に家督を譲った。正徳元年(1711年)9月18日死去、享年71。 よしたか Category:江戸幕府旗本 Category:1641年生 Category:1711年没.

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大友義乗

大友 義乗(おおとも よしのり)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の旗本。大友氏第23代当主。 父は大友義統(吉統)、母は大友氏家臣・吉弘鑑理(高橋紹運の父)の娘・菊姫。幼名は塩法師、通称は惣五郎。諱は初め能延(能述)(よしのぶ)、その後に義延(読みは同じ)、次いで義乗と改名した。.

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大友義鎮

九州旅客鉄道(JR九州)大分駅府内中央口ロータリーにある大友宗麟像 神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像 大友宗麟公像(大分県津久見市) 臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ) 大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。 父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。.

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大友義親

大友 義親(おおとも よしちか)は、江戸時代の旗本。大友氏24代当主。.

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大友親家

大友 親家(おおとも ちかいえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。大友氏の家臣。.

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大友親世

大友 親世(おおとも ちかよ)は、南北朝時代・室町時代の武将・守護大名。豊後国大友氏の10代当主。 応安元年/正平23年(1368年)、父の氏時が死去した後、後を継いだ兄の氏継が南朝方に味方したので、北朝方として同年のうちに当主となった。 応安4年/建徳2年(1371年)、第3代将軍足利義満の命を受けて九州探題として赴任してきた今川貞世(了俊)の九州平定に協力して田原氏能らと共に南朝勢力の排除に努めたが、永和元年/天授元年(1375年)に島津氏久と共に了俊の元に招かれた際、同席した少弐冬資が了俊に暗殺されたため了俊に不信感を抱き(水島の変)、次第に了俊の勢力が拡大してきたことを恐れ、了俊に九州下向以来従っていた吉弘氏輔の弟・氏郷を殺害するなどした上、将軍義満や妻の兄弟大内義弘と共謀して了俊の失脚に一役を買った。 その後も幕府に仕えて功績を挙げ、豊後守護職の他に検非違使や惣追捕使などにも叙任されている。晩年には祖高と号した。 応永25年(1418年)に死去し、後を甥の親著が継いだ。.

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大友親盛

大友 親盛(おおとも ちかもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。大友氏の家臣。田原氏庶流の武蔵田原家の当主で田原 親盛を称す。.

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大友親治

大友 親治(おおとも ちかはる)は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国大友氏の18代当主。15代当主・大友親繁の五男。.

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大友能直

大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大友氏遺跡

大友氏遺跡(おおともしいせき)は、大分県大分市顕徳町一帯にある大友氏館(大友館)跡を中心とする中世の遺跡。2001年8月13日に「大友氏館跡」(おおともしやかたあと)として国の指定史跡に指定された後、累次追加指定が行われており、2005年3月2日に旧万寿寺跡地区が追加された際に名称が「大友氏遺跡」に改められた。2014年10月6日には上原館跡の一画が、また、2015年10月7日には推定御蔵場跡が追加指定されている。.

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大分郡

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大蔵氏 (豊後国)

大蔵氏(おおくらし)は、豊後国日田郡、現在の大分県日田市の慈眼山周辺を拠点に日田郡の一部を支配していた地方の土豪。鎌倉幕府、室町幕府政権下の御家人。東漢氏大蔵氏族の庶家(分家)を称する。「豊後大蔵氏」とも呼ばれ、地名をとって「日田氏」とも称した。諱の通字は「永」。大友氏系では「親」をあてる。家紋は洲浜紋を使用した。 本項は大蔵氏族日田氏断絶後の中原姓大友氏流の日田氏(大友日田氏)についても併記する。.

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大野郡

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大木喬任

大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日(天保3年3月23日)– 1899年(明治32年)6月26日)は、日本の佐賀藩の武士、政治家。通称を幡六、民平。勲等は勲一等、爵位は伯爵。.

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大木統光

大木 統光(おおき むねみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。蒲池氏の家臣。大友義統から偏諱を受け統光を名乗る。 大木氏は、筑後宇都宮氏の蒲池久憲(宇都宮久憲)の弟宇都宮資綱の子の大木政長に始まる。統光は政長の子孫で蒲池鎮漣の母・貞口院(乙鶴姫)は田尻鑑種の姉だったが、統光の母は鑑種の妹であり、統光は鎮漣とは従兄弟になる。 主君鎮漣が和睦したばかりの龍造寺隆信の執拗な誘いを断りきれず、天正9年(1581年)に肥前国へ出立したことを知ると、鎮漣の後を追いかけ、危険を理由に肥前行きの取り止めを進言するが聞き入れなかった。後に肥前で蒲池鎮漣が謀殺されたことを知った統光は、佐賀の鍋島直茂の元へ行き、鎮漣の後を追い切腹しようとしたが止められ、浪人となる。 後に鍋島氏に召し抱えられ、その子孫は鍋島藩の大物頭となり、明治の政治家で華族(伯爵)の大木喬任も子孫の一人である。 むねみつ category:戦国武将 category:筑後国の人物 category:生没年不詳.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。.

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奈多夫人

奈多夫人(なだふじん、生年不詳 - 天正15年2月15日(1587年3月23日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。奈多鑑基の娘。大友義鎮(宗麟)の正室。大友義統・大友親家・大友親盛の母。.

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奈多鑑基

奈多 鑑基(なだ あきもと)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。.

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妙林尼

妙林尼(みょうりんに、生没年不詳)は、戦国時代の女性。大友氏の家臣・吉岡鑑興の妻。吉岡妙林、吉岡林子とも呼ばれる。史料はほとんど残っておらず、『大友興廃記』『両豊記』にその名が、ルイス・フロイスの文書に妙林尼と思われる人物の記録が登場するのみである。.

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宮部継潤

宮部 継潤(みやべ けいじゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名、豊臣秀吉の側近。豊臣政権の五奉行の一人。 初代豊岡城主、鳥取城主。 秀吉による九州征伐において、島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、「日本無双」の感謝状を与えられた。 「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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宇喜多秀家

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.

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宇陀

宇陀(うだ)は、奈良県東部、宇陀市および宇陀郡周辺を指す地域名称である。稀ではあるが、県内の他地域に倣って東和と称することもある。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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尊寿院

尊寿院(そんじゅいん、? - 文禄4年11月4日(1595年12月4日))は、戦国時代末期から安土桃山時代の女性。大友氏第22代当主大友義統の正室。父は大友氏重臣・吉弘鑑理で、母は大友義鑑(義統の祖父)の娘(宗麟の妹)。高橋紹運は兄、吉弘統幸、立花宗茂は甥に当たる。菊姫という名の他に、洗礼名からジュスタとも呼ばれ、法名の尊寿院もそこからとられた。.

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小原鑑元

小原 鑑元(おばら あきもと)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。小原右並(すけなみ、大友義右の代からの家臣と思われる)の子。初めは大友義鑑に仕え、その偏諱を賜って鑑元と名乗る。 小原氏は阿南氏庶流で阿南荘小原(現大分県由布市)を本貫とする。.

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小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

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小西行長

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。.

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小野鎮幸

小野 鎮幸(おの しげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。立花氏、加藤氏の家臣。日本槍柱七本・立花四天王の一人に数えられる。また和泉守であることから小野 和泉(おの いずみ)とも呼ばれる。.

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小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。.

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山口市

山口市(やまぐちし)は、中国地方西部(九州・山口地方北東部)の市。山口県の県庁所在地である。.

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岩屋城

岩屋城(いわやじょう)は筑前国御笠郡(福岡県太宰府市浦城)にあった日本の城(山城)。戦国時代末期の天正14年(1586年)、島津忠長率いる島津軍と大友軍の高橋紹運との壮絶な攻防戦(岩屋城の戦い)で知られる。.

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岩屋城の戦い

岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)は、日本の戦国時代に、九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。 苛烈かつ激戦であった攻城戦と言われている。.

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島津義久

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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中野等

中野等(なかの ひとし、1958年- )は、日本史学者、九州大学教授。 福岡県生まれ。1985年九州大学大学院博士後期課程中退。95年「豊臣政権の研究 朝鮮侵略と太閤検地」で文学博士。柳川古文書館学芸員を経て、九州大学比較社会文化研究院教授。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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三原紹心

三原 紹心(みはら じょうしん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。紹心は法名。高橋紹運の家臣。本郷城(三原城)主。.

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一萬田鑑実

一萬田 鑑実(いちまた あきざね、? - 天正16年(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。一萬田氏当主。小牟礼城城主。鳥屋山城城主。兵部大輔。美濃守。父は一萬田親実(鑑相)で、その弟高橋鑑種、宗像鑑久は叔父にあたる。弟に鑑景(あきかげ)、鑑通(あきみち)、鎮之(しげゆき)、子に鎮実(しげざね)、統賢(むねかた)がいる。嫡男・鎮実に一萬田氏の家督を譲って後は鳥ヶ鼻城主・橋爪鑑種(あきたね)の跡を継承して橋爪鑑実、鑑述(あきのぶ)に改名。法名は宗慶。 初めは大友義鑑に仕え、父とともに偏諱を賜って鑑実と名乗る(父の親実(ちかざね)は鑑相(あきすけ)に改名)。義鑑死後はその子義鎮(宗麟)に仕えるが、その義鎮の命によって天文22年(1553年、父・鑑相や叔父・宗像鑑久らが滅ぼされてしまい、これを受けて鑑実が一萬田家の家督を相続する。このようなことがありながらも義鎮(宗麟)を恨むことなく引き続き仕え、天文19年(1550年)の菊池義武討伐や弘治3年(1557年)の秋月文種討伐に功績があり、武名を挙げた(この頃に橋爪氏を継承する)。永禄11年(1568年)に叔父・高橋鑑種が謀反を起こしたときも、宗麟に味方し鑑種討伐に当たる。永禄12年(1569年)毛利軍と戦った多々良浜の戦いでは嫡男の一萬田鎮実、そして朽網鑑康と共に、乃美宗勝、桂元重を撃退した。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、殿軍を務めている。それらの功績により、加判衆となって宗麟の側近として活躍する。天正14年(1586年)からの島津氏との戦い(豊薩合戦)でも、一萬田氏一族を含む諸将の寝返りが続出する中で、大友氏方に留まり軍功を挙げた。このように生涯を軍陣で過ごすこと多かった。 しかし、天正16年(1588年)、突如として大友義統により自害を命じられて自刃。先の戦いで一族から謀反人(一族の一萬田紹伝らが島津氏に寝返ったとされる)が出て、その連座で巻き込まれたためだという。.

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一条兼定

一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名、土佐国司。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位・一条房基の子。.

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九州千葉氏

九州千葉氏(きゅうしゅうちばし)は、桓武平氏の末裔の一族である千葉氏の支族の一つ。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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広橋兼勝

広橋 兼勝(ひろはし かねかつ、永禄元年10月23日(1558年12月2日) - 元和8年12月18日(1623年1月18日))は、安土桃山時代、江戸時代初期の公家、歌人。藤原北家日野流、家格は名家で、広橋国光の子。母は高倉永家の娘。兄に日野輝資、弟に日禎(本圀寺16世、常寂光寺開山)がおり、兄が本家筋の日野家を継いだことで兼勝が広橋家の嫡子(跡取り)となった。子に広橋総光(- ふさみつ)、油小路隆基(あぶらのこうじ たかもと)、鷲尾隆量、新遍、観助、広橋局、樋口信孝室、中御門宗保室、裏辻季福室。号は後是称院。一字名は貢。法名は快寂。官位は権大納言(慶長2年叙任)、従一位内大臣(元和4年叙任)。勧修寺光豊とともに江戸幕府初代の武家伝奏(慶長8年(1603年) - 元和5年(1619年))。 慶長8年(1603年)、徳川家康に征夷大将軍の内示を与えた。大坂冬の陣でも両軍の和睦を尽力する。武家伝奏として朝廷と幕府の融和に努め、「出頭無双」といわれその権勢は大きかったが、幕府に譲歩も強いられ「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあったという。 また1609年には、猪熊事件に関与した娘の広橋局が、伊豆新島に配流されている。.

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五条鎮定

五条 鎮定(ごじょう しげさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。筑後国高屋城主。.

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仁科克基

仁科 克基(にしな まさき、1982年9月2日 - )は、日本の俳優、タレント。本名は仁科 正樹(にしな まさき、旧姓:目黒)。旧芸名、目黒 正樹→仁科 克己。京都府京都市西京区出身。松竹エンタテインメント所属。身長175cm。血液型はB型。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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仙石秀久

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。 豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え(上田市立博物館)、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。.

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休松の戦い

休松の戦い(やすみまつのたたかい)とは、戦国時代の九州筑前国で起きた大友氏と秋月氏の間に起きた合戦。.

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佐伯氏 (豊後国)

佐伯氏(さえきし)は、平安時代より豊後国南部佐伯地方(現佐伯市)にて勢力を誇った豪族。豊後大神氏流戸次氏の支族で、鎌倉時代より戦国時代に至るまで、主に大友氏に属した。.

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佐伯惟定

佐伯 惟定(さえき これさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊後佐伯氏第14代当主。豊後国海部郡栂牟礼城主。のち津藩重臣。.

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佐伯惟教

佐伯 惟教(さえき これのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後佐伯氏第12代当主。豊後国海部郡栂牟礼城主。.

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佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

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徳川和子

徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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応誉

応誉(おうよ、円蓮社応誉上人雲冏和尚)は、江戸時代前期の浄土宗の僧。筑後国瀬高の来迎寺の住職。柳川の良清寺の開祖。蒲池統安の子。 天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいて大友氏方として参陣した祖父蒲池鑑盛と父統安の戦死や、柳川城主の伯父蒲池鎮漣が龍造寺氏に謀殺され蒲池氏が滅ぶと、応誉は菩提を弔うため僧籍に入り、後に瀬高上荘の来迎寺の第4世住職となった。 その後、柳川藩祖の立花宗茂が正室の誾千代の菩提寺を建てる時、応誉が呼ばれ良清寺を開く。以後、応誉の子孫は良清寺を預かり代々住職を出すと共に、蒲池の名跡を再興し、立花氏の家老格の家となった。 なお、幕末に江戸幕府最後の西国郡代となった旗本の蒲池鎮克(蒲池鎮漣の娘の蒲池徳子の子孫)と、蒲池氏菩提寺である蒲池村の崇久寺で面談した記録のある柳川藩士の蒲池鎮之は、この応誉の子孫であり、歌手の松田聖子(本名・蒲池法子)の高祖父にあたる。.

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志賀親次

志賀 親次(しが ちかつぐ/ちかよし)は、安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。北志賀家・志賀親度の子。豊後国岡城主。.

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ペトロ岐部

ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ しげかつ)、1587年(天正15年) - 1639年7月4日(寛永16年6月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。ペトロ・カスイ岐部とも呼ばれる。 司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。同時期に日本で殉教した187人の殉教者とともに、「ペトロ岐部と187殉教者」として2008年にカトリック教会の福者に列せられた。.

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バテレン追放令

バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のに由来する。 原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の覚書(以下便宜的に「覚書」と記す)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の覚書が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。.

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フロイス日本史

『フロイス日本史』(フロイスにほんし)、正式には『日本史』(にほんし、)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。.

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利光宗魚

利光 宗魚(としみつ そうぎょ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。大友氏庶流戸次氏の支流利光氏の一族。宗魚は法名、実名は鑑教(あきのり)。別名宗匡。豊後国鶴賀城主。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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唐橋君山

唐橋 君山(からはし くんざん、元文元年(1736年) - 寛政12年11月8日(1800年12月23日))は、江戸時代中期から後期にかけての豊後国岡藩の医師で儒学者。『豊後国志』を編纂したことで知られる。名は剛克、字は美卿、通称は世済 大分県立美術館 デジタル版 日本人名大辞典+Plus。.

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内田統続

内田 統続(うちだ むねつぐ)は、安土桃山時代の武将。立花氏の家臣。伏見留守居家老や武者奉行を務めた。初めは戸次鑑連(立花道雪)から偏諱を受け連満(つらみつ/つれみつ)、のち大友義統から偏諱を受け統続と名乗った(この順序は逆ともされる)。.

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内田鎮家

内田 鎮家(うちだ しげいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。戸次氏、立花氏の家臣。家老職・武者奉行を務めた。.

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問註所統景

問註所 統景(もんぢゅうじょ むねかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。筑後国長岩城城主。問註所氏は筑後十五城の一角。.

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問註所氏

問註所氏(もんちゅうしょし/もんぢゅうじょし)は、筑後国生葉郡の国人領主で筑後十五城の一つ。大友氏被官で、その没落後は小早川氏、次いで柳河藩藩主立花氏に仕官。柳河藩士時代に成立した分家に町野氏がいる。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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勧修寺晴豊

勧修寺 晴豊(かじゅうじ はるとよ / はれとよ、天文13年2月24日(1544年3月17日) - 慶長7年12月8日(1603年1月19日))は、安土桃山時代の公家(公卿)。姓は「かんじゅじ」とも。 堂上家の勧修寺家(名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)の14代当主。牌所である近江・高島の幡岳寺の戒名は「清雲院殿義同三司孤月西円大居士.

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石垣原の戦い

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で行なわれた黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の合戦である。.

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福原長堯

福原 長堯(ふくはら ながたか)は、安土桃山時代の武将、大名。正室は石田正継の娘で、石田三成の妹婿。豊後国府内城(荷揚城)主としては、初名の直高(なおたか)の方が有名である。.

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秋田実季

秋田 実季(あきた さねすえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。安東愛季の次男。.

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秋月種実

秋月 種実(あきづき たねざね)は、戦国時代末期から安土桃山時代前期にかけての武将・戦国大名。秋月氏16代当主。.

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立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。.

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立花直次

立花 直次(たちばな なおつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名、江戸時代前期の旗本。 高橋鎮種(紹運)の次男で、初めは高橋姓を名乗った。筑後柳河藩主立花宗茂の実弟。幼名は千若丸。通称は弥七郎、少輔太郎。官途は、主膳正、民部少輔。初名は統増(むねます)で、諱は次に宗一(むねかず)、重種(しげたね)、最後に直次とした。立花姓を家号としたのは慶長19年(1614年)頃以降であり、高橋統増、高橋直次の名でも知られる。号は宗卜。.

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立花道雪

立花 道雪 / 戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名・大友氏の家臣。臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。 大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。.

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立花氏

立花氏(たちばなし)は、大友氏の流れをくむ武家。同訓の橘氏とは系統上の関係はない。大友立花氏とも称す。.

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筑後十五城

筑後十五城(ちくごじゅうごじょう)は、戦国時代の筑後国における大友氏の幕下にあった大名分の国人である大身十五家の総称である。.

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筑後宇都宮氏

筑後宇都宮氏(ちくごうつのみやし)は、南北朝時代に九州の南朝方で、筑後国にいた宇都宮氏の一族。.

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筑後国

筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.

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筑前国

筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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箆津氏

津氏(のづし)は、伯耆国の国人一族で南北朝から室町時代にかけて勢力を誇っていた。野津氏ともいわれる。.

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細川忠興

九曜紋 細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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羽柴氏

羽柴氏(はしばし/はじばうじ)は、日本の戦国大名・天下人の家系及びその名字である。創始者は羽柴秀吉。.

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瓜生貞延

生 貞延(うりう さだのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。大友氏の家臣。筑前国岡城主。.

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田原親貫

原 親貫(たばる ちかつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後国大友氏庶流・田原氏当主。大友氏の家臣。.

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田原親賢

原 親賢(たわら/たはら ちかかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。武蔵今市城城主、妙見嶽城城督。大友氏の家臣。出家後の田原 紹忍(じょうにん)の名でも知られる。号は不思軒。 奈多八幡宮大宮司奈多鑑基の子で、兄弟に兄の奈多政基(まさもと)、妹の奈多夫人(大友義鎮(宗麟)正室)、異説であるが戸次鑑方とも言う。養子に田原親虎(ちかとら)、田原親盛。官位は尾張守、近江守、民部大輔。.

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田北紹鉄

北 紹鉄(たきた しょうてつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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田北鎮周

北 鎮周(たきた しげかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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熊谷直盛

谷 直盛(くまがい なおもり)は、安土桃山時代の武将、大名。豊後国安岐城主。別名に直陳(なおつら)。通称は内蔵允。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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隠居

居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。 日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。.

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落合芳幾

『鰐魚』(新聞錦絵、1875年頃) 落合 芳幾(おちあい よしいく、天保4年〈1833年〉 - 明治37年〈1904年〉2月6日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師のひとり。.

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西牟田氏

西牟田氏(にしむたし)は、鎌倉時代以来の筑後国の豪族。鎌倉時代は地頭職、室町時代は国人領主、戦国時代は戦国大名(5万石)で西牟田城主であった。 薩摩にも島津義久の弟・島津金吾歳久を祖とする日置島津家の家臣に西牟田氏があるが、これは現在の鹿児島県薩摩川内市の西牟田付近に勢力を持った別系統の氏族である。 『筑後国豪族旧家系図』の西牟田系図(佐賀藩西牟田家に伝わるもの)によると筑後の西牟田氏は、天児屋根命から21世の中臣鎌足、それから15代を経た権中納言藤原家房の子である讃岐守家直を始祖としている。 4代家綱以降の当主は、代々「彌次郎」を名乗った。また、実名には「家」、僧名には「西」の字を共通して用いている。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高家 (江戸時代)

家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.

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高橋紹運

橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。 紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊後国志

『豊後国志』(ぶんごこくし)は、豊後岡藩(藩庁は現在の大分県竹田市)の儒医唐橋君山の遺著を伊藤鏡河、田能村竹田らが編纂し、享和3年(1803年)に完成した豊後国(現大分県)の地誌である。享和4年(1804年)に幕府に献上された。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊薩合戦

豊薩合戦(ほうさつかっせん)は、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後の大友家と薩摩の島津家の戦争である。天正の役、天正の戦とも呼ばれる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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賀来鎮綱

賀来 鎮綱(かく しげつな、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。由原八幡宮大宮司。官途は刑部少輔。法名道仙。母は宮千代女。妻は大友義統の養女(実は田北大和守鑑鎮の娘)。子に賀来正綱。.

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賀来正綱

賀来 正綱(かく まさつな、生没年不詳)は、大友氏の家臣。父は賀来鎮綱、母は大友義統の養女。妻は田北宮内正統の娘。別名、藤左衛門、藤三郎、永喜。子に賀来之盛、賀来鎮隈(竹屋喜平次)、賀来惟為(長州藩士。田北姓を名乗る)。 父・賀来鎮綱と同様に大友義統と一生牢人を約束する。萩に来てからは家伝の武芸を指南する。 まさつな Category:戦国武将 Category:豊後国の人物 Category:生没年不詳.

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賀来氏

賀来氏(かくし)は、豊後大神氏一門戸次氏または佐伯氏の支流で、12世紀に現在の大分県大分市賀来の地(豊後国賀来荘)を本貫とした一族である。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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軍師官兵衛

『軍師官兵衛』(ぐんしかんべえ)は、2014年1月5日から12月21日まで放送されたNHK大河ドラマ第53作である。.

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黒田孝高

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。.

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黒田長政

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。.

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龍造寺氏

龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。.

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赤星統家

赤星 統家(あかほし むねいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。.

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赤星氏

赤星氏(あかほしし)は、日本の氏族のひとつ。 中世に肥後国菊池郡を本拠とした国人領主の一族である。 菊池氏の一族で、菊池武房の弟の赤星有隆を祖とし、隈部氏、城氏と共に菊池氏の三家老家の一つ。家紋は菊池氏と同じく並び鷹羽。 主家の菊池家が衰微するに従って他の家老家と共に勢力を伸ばし、菊池義武が甥の大友宗麟と争った際には大友氏の傘下に入って活躍。その報償として菊池氏の本拠であった菊池城を任された。しかし同じく菊池氏の重臣であった隈部氏は龍造寺氏と接近し、菊池氏の後継の座を巡って赤星氏と対立してゆくことになる。 1559年(永禄2年)の合勢川の戦いで赤星親家は隈部親永に大敗。のちに菊池城を隈部氏に奪われた。親家の子・赤星統家は、叔父である合志親賢の合志城に身を寄せた。統家は、龍造寺氏に降服していたが、命じられた佐賀への参例を幾度も無視したために「疑心あり」と見なされ、天正11年(1583年)には人質として差し出していた子を殺害されている。この恨みからやがて島津氏に接近。沖田畷の戦いでは島津氏の先鋒となって龍造寺氏と戦った。 だが、以後も島津氏と共に行動したことが原因で、豊臣秀吉の九州平定の後に菊池城を取り戻すことはできなかった。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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藤堂高虎

津城址にある藤堂高虎像 藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。.

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蒲池統安

蒲池 統安(かまち むねやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。蒲池氏の重臣。塩塚城主。初めは兄達と同様、大友義鎮(宗麟)からの偏諱を受けて鎮安(しげやす)と名乗ったが、後に義鎮の子・義統からの偏諱を受けて統安に改名した。.

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蒲池鎮漣

蒲池 鎮漣(かまち しげなみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。筑後十五城の筆頭大名でもある。兄・蒲池鎮久と共に大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜り、鎮漣と名乗った(表記は鎮竝(新字体:鎮並)とも)。蒲池氏17代・後蒲池8代当主。.

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蒲池氏

蒲池氏(かまちし)は、鎌倉時代以来の筑後国の一族。鎌倉時代は地頭職、室町時代は大身の国人領主、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分で柳川城主であった。 蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代~南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族の「後蒲池」時代(室町時代~戦国時代)がある。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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臼杵城

臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。.

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臼杵鑑速

臼杵 鑑速(うすき あきすみ/あきはや)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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臼杵長景

臼杵 長景(うすき ながかげ)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。大友義長より偏諱を賜り、長景と名乗る。.

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臼杵氏

臼杵氏(うすきし、うすきうじ)は、日本の氏族の一つ。大神氏の一族で、大神惟盛が豊後国臼杵荘に入り、地名を取って臼杵氏と称した。戸次氏・佐伯氏・緒方氏(佐伯氏の庶家とする説もある)などの庶家が出た。.

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長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.

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長門国

長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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若林統昌

若林 統昌(わかばやし むねまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。大友氏家臣の水軍の将・若林鎮興の嫡男。 若林氏は元々下野国の豪族で、室町時代初期より前に大友氏に仕えた。豊後国佐賀郷一尺屋を所領とし、その地理的要素も加わり、大友氏の水軍衆としてその中核を担った。 天正6年(1578年)の元服に際して、主君・大友義統より偏諱を賜い、統昌と名乗る。天正14年(1586年)、島津氏が北上し、豊後国へ侵入した際は、海辺郡丸尾砦にて防戦した。文禄2年(1593年)、文禄の役の際、主君・大友義統が「明軍の来襲を前に退去した」とされて、豊臣秀吉の命により改易された。義統が毛利氏預かりの身となって周防国に蟄居した際にはこれに同行している。 後に大友家を辞し、松平定勝に仕えて200石を領したが、老後は肥前国長崎に居住し、寛永14年(1637年)、同地にて死去した。 統昌は武勇の士であり、強弓の使い手として知られ、剣術も柳生流の免許皆伝を得ていたという。.

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若林鎮興

若林 鎮興(わかばやし しげおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。大友義鎮(宗麟)から偏諱を受けた。 若林氏は元々下野国の豪族で、室町時代初期より前に大友氏に仕えた。豊後国佐賀郷一尺屋を所領とし、その地理的要素も加わり、大友氏の水軍衆としてその中核を担った。 永禄12年(1569年)、安芸国の毛利元就が北九州への侵攻を開始する。秋月氏、高橋氏などの国人衆は大友氏の支配に反発しており、元就の調略によって寝返ったため、豊前国・筑前国の大友軍の戦線は崩壊し、大きな危機を迎えていた。大友宗麟は、大内氏の一族・大内輝弘に軍勢を貸し与え、鎮興に命じて周防国山口へと海路輸送した。途中、少数の毛利水軍と戦ってこれを敗走させ、また鎮興自身も敵将の首を取った。周防国秋穂浦に上陸し、輝弘を送り出したが、後に大内軍の劣勢が明らかとなり、吉川元春率いる毛利軍、そして毛利水軍本隊も引き返してきた。鎮興は毛利水軍と小競り合いの後に撤退したとも、この急報を聞いて輝弘軍を見捨てて逃走したともいわれている。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利軍を撤退させ、戦略的にこの大内輝弘の乱は大成功を収めた。 元亀3年(1572年)には、姻戚関係であった土佐一条氏の危急を救うべく伊予国へ侵攻し、翌々年に一条兼定が豊後国へ亡命した際にも、またその翌年の天正3年(1575年)の土佐国侵攻(一条軍は四万十川の戦いで大敗)でも、大友水軍の一員として活動した。しかし、このような外征の結果、同6年(1578年)に日向国への侵攻では手柄を挙げたが、耳川の戦いで大友軍本体が島津軍に敗北し、それまでの攻勢から守勢へと変わった。 天正8年(1580年)、大友氏重臣の田原親貫が反乱を起こした。大友水軍を率いた鎮興は海上より田原氏の所領であった国東半島を封鎖。援軍の毛利水軍を悪天候の影響もあり撃退に成功したが、同年の田北紹鉄の反乱など各地で反乱が勃発した。国内の動揺が収まらぬ中、ついに島津軍が豊後国へ侵攻を開始(豊薩合戦)。鎮興も嫡男の統昌と共に臼杵城へ籠城して、難を逃れた。 文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役でも、大友氏の配下として水軍を率いて参戦。しかし、文禄2年(1593年)5月1日に大友義統が朝鮮での不手際で改易されると、同年8月2日、速吸瀬戸通過のための寄港地である二間津(愛媛県西宇和郡伊方町二名津)で死去した。 Category:戦国武将 Category:水軍 Category:豊後国の人物 Category:1547年生 Category:1593年没.

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耳川の戦い

耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。.

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柳河藩

柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。.

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柴田礼能

柴田 礼能(しばた れいのう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。熱心なキリスト教徒で、イエズス会の間では柴田リイノ、槍の名手であったことから「豊後のヘラクレス」の異名でそれぞれ呼ばれた。.

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柴田紹安

柴田 紹安(しばた しょうあん、生年不明 - 天正14年(1586年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。通称は遠江守。弟に柴田礼能。剃髪して紹安と号した。豊後国朝日嶽城主。.

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松井康之

松井 康之(まつい やすゆき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。松井正之の次男。子に興之、興長。幼名は新助、胃助。官位は佐渡守。.

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杵築城

杵築城(きつきじょう)は、大分県杵築市杵築にあった城郭。.

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村川浩平

村川 浩平(むらかわ こうへい、1968年- )は日本の歴史学者(日本近世政治史)。 1992年東京理科大学理学部応用数学科卒業。 松平状の発見などで注目される。1999年歴史情報学研究所所長。.

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根白坂の戦い

根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は、天正15年(1587年)4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦である。.

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梅北一揆

梅北一揆(うめきたいっき)は、文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣・梅北国兼が起こした一揆である。.

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母里友信

母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛(たへえ)、多兵衛(たひょうえ)。幼名は万助。但馬守を称す。 槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。 「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。.

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毛利マセンシア

毛利 マセンシア(もうり マセンシア、元亀元年(1570年) - 慶安元年(1648年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての日本の女性。名は桂姫、長千代、通称は引地の君。大友義鎮(宗麟)の娘で、毛利秀包の正室。キリシタンであり夫の信仰にも影響を与えた。秀包との間には嫡男元鎮、次男元貞の他女子数名をもうけた。.

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毛利秀包

毛利 秀包(もうり ひでかね)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、筑後国久留米の大名。.

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毛利輝元

毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。.

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毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

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水戸

水戸 (みと).

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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渡辺綱

渡辺 綱(わたなべ の つな)は、平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。.

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渡辺氏

渡辺氏(わたなべし/わたべし).

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清田鎮忠

清田 鎮忠(きよた しげただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編)567頁。大友氏の家臣。キリシタンだったと伝えられる。.

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木付鎮直

木付 鎮直(きつき しげなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。木付氏16代当主。豊後国木付城主。 木付氏は大友親秀の六男木付親重を祖とする大友氏の庶流。 父木付鎮秀、弟・鎮之と共に大友義鎮(宗麟)から偏諱を受け鎮直を名乗る。天正8年(1580年)、田原親貫が大友氏に反乱を起こし安岐城に籠城したため、大友義統の命によりこれを攻める。天正14年(1586年)、島津氏の豊後侵攻(豊薩合戦)に際し、新納忠元の軍勢を豊後木付城で退ける。 文禄・慶長の役の最中に大友義統が豊臣秀吉に改易されると、義統に従った子統直がそれを恥じ帰国の途上、関門海峡で入水自害。それを知った鎮直は妻と共に自害した。享年66。 Category:戦国武将 Category:豊後国の人物 Category:自殺した人物 Category:1528年生 Category:1593年没.

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本多俊次

本多 俊次(ほんだ としつぐ)は、江戸時代前期の大名。酒井忠次の孫。康俊系本多家宗家2代。.

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朽網鎮則

朽網 鎮則(くたみ しげのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。大友義鎮(宗麟)より偏諱を賜り鎮則を名乗る。.

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朽網鑑康

朽網 鑑康(くたみ あきやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。法名は宗暦(そうれき)。 大友氏一族入田氏の入田親廉(ちかかど、表記は親門とも)の次男。大友義鑑より偏諱を賜り、最初は入田鑑康、後に、朽網親満の謀反により絶えていた大友氏譜代の藤原姓古庄氏嫡流の朽網氏を継いで朽網鑑康と名のる。天文19年(1550年)の二階崩れの変の際に義鑑や兄親誠が亡くなったが、鑑康は義鑑の跡を継いだ義鎮(宗麟)に引き続き仕え、永禄12年(1569年)からは大友氏の加判衆を務める。門司合戦、菊池義武、秋月文種、土持親成、立花鑑載等の討伐に出陣。永禄12年(1569年)の多々良浜の戦いでは一萬田鑑実親子と共に毛利方の乃美宗勝、桂元重を撃退した。天正6年(1578年)、日向国耳川の戦いでは、志賀親守と共に肥後国方面軍の総大将を勤める。 天正14年(1586年)の豊薩合戦の際は、既に隠居の身で病床にあった。居城山野城の支城・三船城を固めはじめたものの、兵が降伏しようとしたことに激怒、病をおして戦いに臨んだ。しかし三船城を守っていた嫡子鎮則は山野城へ撤収。共に篭城したものの、病死した。一説には、和睦を考えた鎮則の態度に憤って死んだともいう。.

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朽網鑑房

朽網 鎮房/鑑房(くたみ しげふさ/あきふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。 兄・朽網鎮則と共に大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜って鎮房を名乗る(鑑房の名はのちに父・鑑康から1字取って改名したものと思われる)。しかし、父鑑康は島津氏との抗争の間に病死、兄鎮則は島津氏に内通したとして粛清され、鑑房は浪々のまま豊後国玖珠郡で不遇のうちに死去した。 妻は蒲池鎮漣の娘の徳子。子の宗壽は、母徳子の菩提寺崇久寺の食客となり蒲池姓を名乗る。 あきふさ category:戦国武将 category:豊後国の人物 category:生没年不詳.

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朽網氏

朽網氏(くたみし)は、日本の氏族のひとつ。豊後国直入郡朽網郷から発祥した氏族である。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸次川の戦い

長宗我部軍戸次川戦没者供養塔(高知市・雪蹊寺) 戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。.

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戸次統常

戸次 統常(べっき むねつね)は、安土桃山時代の武将。大友氏家臣。大友氏庶流・戸次氏の第17代目当主。鎧ヶ岳城主。異説では臼杵氏からの養子ともされる。.

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戸次鎮連

戸次 鎮連(べっき しげつら、生年不詳 - 天正14年(1586年))は、豊後国の戦国大名・大友氏家臣。大友氏庶流・戸次氏の16代当主。父は戸次鑑方で、猶父は戸次鑑連(立花道雪)。弟に戸次鎮林(しげきみ/しげとき)。子に統連、戸次統利(むねとし)他。鎧ヶ岳城主。.

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戸次親行

戸次 親行(べっき ちかゆき、天文16年(1547年) - 永禄8年(1565年))は、戦国時代の武将。豊後国の大名大友氏、その重臣戸次氏の家臣。大友氏庶流の戸次氏の一族。父は大友氏重臣の戸次親家、母は親家の継室の養孝院。異母兄に戸次鑑連(のちの立花道雪)と戸次鑑方、子に立花統春がいる。.

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戸次鑑方

戸次 鑑方(べっき あきかた)は、戦国時代の武将。豊後国の大名大友氏の家臣。大友氏庶流の戸次氏の一族。養母は立花道雪の母の養孝院。異母兄に戸次鑑連(のちの立花道雪)、異母弟に戸次親行(ちかゆき)。子に戸次鎮連立花氏を継いだ伯父・鑑連から戸次氏宗家の家督を継ぐ。、戸次鎮林(しげきみ/しげとき)立花の姓を与えられる。文禄の役で戦死。がいる。.

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戸次氏

戸次氏(べっきうじ、べっきし)は、日本の氏族。庶家は佐伯氏などが出た。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

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斎藤統安

斎藤 統安(さいとう むねやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。 豊後国大友氏、後に柳川城主立花氏家臣で江戸時代は陸奥国棚倉藩士転じて筑後国柳河藩士となる。『立花家旧記』では統康とも。幼名は四郎。通称は民部少輔、瀬右衛門、左馬助、市左衛門。出家号は休無。大友家の家臣である斎藤鎮実の次男である。妹は豊鐃(ぶにょう)弾正の妻、立花出雲守家臣である伊藤外記の妻、足田氏の妻。夫人は稲葉良通(伊予守)の家臣である渡辺氏の娘。子は1男1女。従兄弟に立花宗茂、立花直次。.

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斎藤鎮実

斎藤 鎮実(さいとう しげざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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11月27日 (旧暦)

旧暦11月27日は旧暦11月の27日目である。六曜は先勝である。.

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1558年

記載なし。

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1576年

記載なし。

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1577年

記載なし。

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1578年

記載なし。

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1579年

記載なし。

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1586年

記載なし。

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1587年

記載なし。

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1588年

記載なし。

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1590年

記載なし。

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1591年

記載なし。

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1592年

記載なし。

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1593年

記載なし。

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1598年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1605年

記載なし。

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1608年

記載なし。

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1610年

記載なし。

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1668年

記載なし。

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2014年

この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。.

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7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.

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9月2日

9月2日(くがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から245日目(閏年では246日目)にあたり、年末まではあと120日ある。.

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