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安政の大獄

索引 安政の大獄

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。 江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。。.

203 関係: お由羅騒動南紀派古賀謹一郎右大臣吉田松陰吉見左膳坂下門外の変坂本龍馬堀田正睦大名大山綱良大久保一翁大納言大目付大河内信古太田資始姫路藩孝明天皇守山藩宇喜多一ケイ宇喜多松庵宇和島藩宇津木景福安島帯刀安政寺社奉行尊王攘夷小南五郎小笠原長常小野湖山小林良典小浜藩尾張藩将軍後見職将軍継嗣問題山内容堂岩瀬忠震島津斉彬島津斉興川路聖謨川成島藩左大臣上田藩中山信宝中納言常陸府中藩丹羽正庸世古延世万里小路正房三国大学...三条実万三条家一条家一条忠香一橋徳川家一橋派九条尚忠平山省斎平岡円四郎幕政改革久貝正典久邇宮朝彦親王久我家久我建通京都町奉行京都所司代二条家二条斉敬広橋光成井伊直弼井伊直憲伊丹重賢伊達宗城伺候席佐々木顕発佐倉藩徳川家定徳川家茂徳川家慶徳川四天王徳川斉昭徳川慶喜徳川慶勝徳川慶篤信濃国志士土岐頼旨土佐藩土浦藩ロシア帝国切腹和宮親子内親王アメリカ合衆国タウンゼント・ハリス備中松山藩内大臣入江則賢公卿公家公武合体六物空満勝野森之助勝野正道勘定奉行勅令石谷穆清石河政平獄門福井藩紀州藩甲府勤番遠国奉行青蓮院頼三樹三郎領事飯田忠彦飯泉喜内西園寺家評定所高松藩鮎沢伊太夫鯖江藩越前松平家鷹司家鷹司輔煕鷹司政通黒川嘉兵衛黒船来航黒澤止幾近衛家近衛府近衛忠煕近衛忠房近藤茂左衛門近藤正慎茅根伊予之介阿片戦争阿部正弘鵜飼吉左衛門鵜飼幸吉鵜殿鳩翁関宿藩関白薩摩藩間部詮勝藤井尚弼藤森弘庵長野主膳酒井忠義 (若狭国小浜藩主)若年寄若松永福老中掛川藩松平宗秀松平忠固松平頼縄松平頼誠松平頼胤松平春嶽松本城板倉勝静桜田門外の変梁川星巌梅田雲浜森寺常安楢崎将作楢崎龍橋本左内正親町三条実愛死罪 (律令法)毛利敬親水戸藩永井尚志江戸幕府池内大学池田頼方津崎矩子減封本郷泰固月照有栖川宮戊午戊午の密勅春日潜庵浪人海保帆平浅野長祚文久の改革日下部伊三治日下部裕之進日米修好通商条約日米和親条約日米通商航海条約日露和親条約旗本旗本寄合席政事総裁職1853年1854年1858年1859年 インデックスを展開 (153 もっと) »

お由羅騒動

お由羅騒動(おゆらそうどう)は、江戸時代末期(幕末)に薩摩藩(鹿児島藩)で起こったお家騒動。別名は高崎崩れ、嘉永朋党事件。藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。.

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南紀派

南紀派(なんきは)とは、江戸時代後期に13代将軍徳川家定の後継を巡る安政の将軍継嗣問題において、紀州徳川家の徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)を将軍継嗣に推した一派。.

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古賀謹一郎

古賀 謹一郎(こが きんいちろう、文化13年11月11日(1816年12月29日) - 明治17年(1884年)10月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治にかけての儒学者・官僚。本姓は劉。諱は増(まさる)。官途は筑後守。字は如川。号は謹堂、茶渓など、また沙蟲老人とも称した。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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吉田松陰

吉田松陰山河襟帯詩碑、京都府立図書館前、京都市左京区 吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。.

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吉見左膳

伊能友鴎の墓所、霊亀山大超寺 吉見 左膳(よしみ さぜん、文化14年11月17日(1817年12月24日) - 明治8年(1875年)4月30日)は、江戸時代後期(幕末)の宇和島藩の家老。通称は元吉、長左衛門。 宇和島藩の参政を務める中井筑後守の実弟であったが、吉見家に養子入りしている。はじめ伊達宗紀に近習として仕えたが、宗紀に早くから才能を見出されて藩政改革への参与を許された。宗紀が隠居して伊達宗城が藩主になった後も信任は変わらず、むしろ宗城から家老にまで取り立てられ、宇和島藩のナンバー2として宗城の藩政改革や幕政参与に協力した。 宗城は将軍継嗣問題においては一橋派に与していたため、吉見はその命令に従って江戸で一橋派の政治工作に奔走した。このため、南紀派の井伊直弼による安政の大獄が始まると、直弼から一橋派の危険人物と見なされて藩主の宗城は隠居謹慎、吉見も江戸から重追放処分に処され、宇和島への帰国を余儀なくされた。 後に宗城が再び表舞台に復帰すると、宗城の側近として再び活躍した。明治8年(1875年)に死去。享年59。 吉見は晩年に伊能友鴎と改名しているが、これは宗城が吉見の能力・功績を高く評価して「『伊』達家忠『能』の臣」という意味で伊能姓を下賜したという逸話がある。.

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坂下門外の変

坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は、文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件。.

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坂本龍馬

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道 公立高校 入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号: 17教出・歴史762)p.181, 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46帝国 歴史-713)p.144, 『新しい社会 歴史』(東京書籍。平成13年3月30日検定済。教科書番号: 2 東書 歴史702)p.120などで使われている。 。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。 土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。.

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堀田正睦

堀田 正睦(ほった まさよし)は、江戸時代末期の大名・老中首座。下総佐倉藩の第5代藩主。正俊系堀田家9代。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大山綱良

大山 綱良(おおやま つなよし、文政8年11月6日(1825年12月15日) - 明治10年(1877年)9月30日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。.

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大久保一翁

大久保 一翁(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)は、幕末から明治時代にかけての幕臣、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大目付

大目付(おおめつけ)は、江戸幕府及び諸藩の役職の一つ。古くは惣目付(そうめつけ)、大監察(だいかんさつ)とも呼ばれた。目付の上位。.

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大河内信古

大河内 信古(おおこうち のぶひさ)は、三河吉田藩の第7代(最後)の藩主。松平伊豆守系大河内松平家11代。はじめ松平信古と名乗る。.

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太田資始

太田 資始(おおた すけもと)は、江戸時代後期から幕末にかけての大名、老中。遠江掛川藩第5代藩主。掛川藩太田家9代。.

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姫路藩

姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.

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孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.

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守山藩

守山藩(もりやまはん)は、陸奥国南部(磐城国)田村郡(現在の福島県郡山市)に存在した藩。水戸藩の御連枝で支藩である。藩庁は守山陣屋である。また、常陸国にも所領を有し、松川陣屋を置いた。.

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宇喜多一ケイ

宇喜多 一蕙(うきた いっけい、寛政7年(1795年) - 安政6年11月14日(1859年12月7日))は、幕末に活躍した大和絵の絵師。宇喜多博文の子、母は上田氏。本姓は藤原、後に豊臣を称した。諱は公信、のち可為(よしため)。別称・主馬、内蔵允。一蕙斎、為牛、為仏子、谷神子、瑞草、香、画院生徒、昔男精舎などと号した。浮田一蕙と表記されることが多い。.

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宇喜多松庵

宇喜多 松庵(うきた しょうあん、生年不詳 - 明治26年(1893年)5月1日)は、幕末の画家。宇喜多一蕙の子。諱は可成。 京都に生まれ、父とともに尊皇攘夷を志し、嘉永6年(1853年)ペリーが来航すると、父の意を受けて長州藩に仕える。安政元年(1854年)攘夷のため、江戸湾沿岸の防備絵図を作成している。後に上洛して公家と交流して時勢を論じるが、安政5年(1858年)安政の大獄に連座。父とともに捕えられて江戸の大聖寺藩邸に送られ、間もなく投獄される。翌安政6年(1859年)所払刑となった。 墓所は京都府京都市華光寺。 Category:幕末長州藩の人物 Category:江戸時代の画家 しようあん Category:山城国の人物 Category:生年不明 Category:1893年没.

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宇和島藩

宇和島城天守 竹輪笹に阿吽の向かい雀の宇和島紋 宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。藩庁は宇和島城に置かれた。.

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宇津木景福

宇津木景福像(1860年) 宇津木 景福(うつき かげよし、文化6年(1809年) - 文久2年10月27日(1862年12月27日))は、幕末期の彦根藩士。彦根藩士古沢六右衛門の四男。通称は六之丞(ろくのじょう)。幼名・留吉。 近江国で生まれる。文政4年(1821年)、宇津木六之丞景俊の養嗣子となり、350石の宇津木六之丞家を継ぐ。 文政10年(1827年)、江戸へ出府し、藩主・井伊直亮の使番取次となる。また在府中には梁川星巌と親交があったという。天保5年(1834年)、母衣役となったため彦根に帰り、天保12年(1841年)に物頭、弘化3年(1846年)に表用人となる。一方で相模湾の海防のため相模国に1万4600石を宛がわれ、後には相州詰長期守護として警備に当たった。かねて親交のあった井伊直弼が藩主を継ぎ、安政5年(1858年)に直弼が幕府大老に就任すると、自身は藩の公用人となり、通商条約締結のために長野主膳が外部情報を集める一方で、藩論をまとめるために奔走した。以後も長野らとともに将軍継嗣問題や安政の大獄の処理に活躍した。安政7年(1860年)、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も藩主に就任した井伊直憲に引き続き側役として仕えたが、文久2年(1862年)に藩論が尊皇攘夷に傾くと、長野らとともに彦根に捕えられて禁固、同年に処刑された。.

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安島帯刀

安島 信立(あじま のぶたつ、文化8年(1811年) - 安政6年8月27日(1859年9月23日))は、幕末に活躍した水戸藩の家老。安政の大獄で切腹を命じられた。維新後、靖国神社・護国神社・回天神社に合祀された。 信立は諱で、通称ははじめ弥次郎(旧字体:彌次郞)、のち帯刀(旧字体:帶刀)。一般にはこの通称の安島 帯刀(あじま たてわき)の方が知られている。号に峨興、字は恩誠。位階は贈正四位。神名は安島帯刀信立之命、安島帯刀之命とも。 本姓は藤原氏。家系は贈正二位鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする安島氏。父は戸田三右衛門忠之、母は安島七郎左衛門信可の女。養父は安島彦之允信順。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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小南五郎

小南 五郎(こみなみ ごろう、文化9年(1812年)10月 - 明治15年(1882年)2月22日)は、幕末の土佐藩士。名は良和。通称は五郎、五郎右衛門。迅衝隊士。.

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小笠原長常

小笠原 長常(おがさわら ながつね、文政元年10月27日(1818年11月25日) - 明治11年(1878年))は、江戸時代末期(幕末)の旗本。小笠原氏7代当主(唐津藩分家、中島陣屋3,000石)。久貝正満の4男として江戸市ヶ谷に生まれ郁七郎と称す。小笠原長坦の養子となり織部と称。同じく旗本の久貝正典は兄。養子に長功。官位は従五位下長門守、筑後守。軽鴎と号した。.

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小野湖山

小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3月3日) - 1910年(明治43年)4月10日は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。.

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小林良典

小林 良典(こばやし よしすけ、文化5年3月28日(1808年4月23日) - 安政6年11月19日(1859年12月12日))は、幕末の地下人。小林元次の長男、母は小森頼望の娘・叙子。 鷹司家の諸大夫。正四位下民部権大輔と筑前守を兼ねた。 尊皇の志篤く、青蓮院宮尊融法親王や近衛忠熙、三条実万らと交流する一方で、日下部伊三治・橋本左内ら志士たちとも接点を持ち国事に奔走した。将軍継嗣問題や水戸藩への密勅降下では主家鷹司政通を説いて攘夷派の重鎮へと転換させた。また一橋派に属して政通・輔煕父子を補佐する。しかし安政5年(1858年)安政の大獄に連座して江戸に捕えられる。翌安政6年(1859年)水戸・福井藩を密勅降下のために入京させたとして遠島刑となる。後に肥後人吉藩預かりに減刑されるも、江戸に獄中で病没した。 墓所は東京都世田谷区の松蔭神社。そのほか、京都府京都市の京都霊山護国神社や長徳寺にも墓石が建つ。 Category:幕末の地下人 Category:獄死した人物 Category:1808年生 Category:1859年没.

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小浜藩

小浜城に現存する本丸 小浜藩(おばまはん)は、若狭国一国および越前敦賀郡を領した藩。藩庁は小浜城。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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将軍後見職

将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された政事総裁職、京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つである。 安政5年(1858年)、年少の徳川家茂が14代将軍に就任したために、同年8月前将軍徳川家定の遺命と、同じく年少で将軍に付いた4代将軍家綱時の保科正之・11代将軍家斉における松平定信時の先例を名目に御三卿の田安慶頼が任命された。ただし、実際には大老井伊直弼が形式的に擁立したもので正式な役職でもなく、実権も有しなかった。 ところが、文久2年(1862年)5月、朝廷内部に幕府内の親井伊派の処分を要求する動きがあり、その対応の一環として「家茂の成人」を理由に井伊に擁立された田安慶頼が後見職から退いた。続いて朝廷より、一橋慶喜を幕府の正式な役職としての将軍後見職に任じるように勅諚が下された。これを受けて同年7月に慶喜が幕府の正式な役職として新設された将軍後見職に任命された。元治元年(1864年)3月、慶喜が禁裏守衛総督に転じたために廃止された。 Category:幕末 Category:江戸幕府の職制.

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将軍継嗣問題

将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)は、江戸幕府13代将軍徳川家定の後継を巡って生じた政争。.

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山内容堂

山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1848年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。.

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岩瀬忠震

岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された。維新後に正五位を贈られた。島崎藤村の「夜明け前」にも登場する。.

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島津斉彬

島津 斉彬(しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。島津氏第28代当主。 薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。.

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島津斉興

島津 斉興(しまづ なりおき)は、江戸時代後期の外様大名。島津氏第27代当主。薩摩藩の第10代藩主。.

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川路聖謨

川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。 豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。.

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川成島藩

川成島藩(かわなりじまはん)は、駿河国富士郡川成島村(現在の静岡県富士市川成島)に存在した藩。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上田藩

上田藩(うえだはん)は、江戸時代に信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)周辺を支配した藩。藩庁は上田城。.

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中山信宝

中山 信宝(なかやま のぶとみ、弘化元年(1844年)- 文久元年3月1日(1861年4月10日))は、常陸松岡藩の第4代当主。水戸藩附家老・中山家13代。第3代当主・中山信守の三男。官位は従五位下、備前守。幼名、菊太郎、龍吉。 安政5年(1857年)1月、父の死により家督を相続した。同年12月29日、従五位下備前守に叙任。翌安政6年5月より起きた水戸藩の騒擾事件の鎮圧に力を尽くしたが明治維新まで混乱は収まることはなかった。文久元年(1861年)1月3日に没した。16歳だったため子がなく、弟の信徴を養子とした。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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常陸府中藩

常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)は、常陸国(現在の茨城県石岡市)に存在した藩。別名は石岡藩(いしおかはん)、長沼藩(ながぬまはん)。藩庁は府中陣屋。.

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丹羽正庸

丹羽 正庸(にわ まさつね、文政5年3月4日(1822年4月25日) - 明治15年(1882年)8月4日)は、幕末の地下人。丹羽正高の子、母は箕輪氏。前名は正統。 天保3年(1832年)家督を相続し、三条家諸大夫を継ぐ。同時に従六位上豊前守に叙任される。弘化元年(1844年)からは大学助を兼ね、嘉永6年(1853年)従五位上に昇叙。 三条実万・実美の2代の家政を預かり、安政元年(1854年)に江戸での情報収集の任に当たった。また多数の尊攘派志士と交わるが、安政5年(1858年)に安政の大獄で捕われ、翌安政6年(1859年)に江戸に送られる。追放刑となるが、文久2年(1862年)に和宮降嫁の大赦で許された。帰京後は三条家諸大夫に復職している。 墓所は東京都港区の青山霊園。 Category:幕末の地下人 Category:1823年生 Category:1882年没.

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世古延世

世古 延世(せこ のぶよ、文政7年(1824年)1月 - 明治9年(1876年)9月22日)は、幕末勤王家、官吏。通称喜兵衛、のち格太郎(恪太郎)と改めた。 1824年(文政7年)正月、伊勢国松阪に生まれる。生家は代々酒造をなし紀州徳川家の御用達を務めた豪商であった。儒学を斎藤拙堂に、国学を本居内遠、足代弘訓について修めた。 維新期の傑物らしく剛直で気節に富んだ性格で、1854年(安政元年)足代弘訓とともに京都に遊学し、三條実萬の知遇を得た。水戸藩密勅事件に奔走し、のち捕らえられて1年間獄に下ったすえ江戸および紀州藩領からの追放の刑に処せられ、伊勢国一志郡久米村(現 三重県津市)に蟄居した。 蟄居の身ながら三條実美の懐刀として意見を具申し続け、維新後伊勢山田の市井曹長を務めたのち、新政府の徴士となる。以降権判事、京都府判事、留守権判官、宮内大丞を歴任した。また伊勢神宮正遷宮式の弊習を改革して偉績を遂げた。 1876年(明治9年)9月22日、53歳で没。 著書に『安政文久日記』『戊午秘録』、歌集『懐雪集』等がある。 Category:幕末紀州藩の人物 Category:伊勢国の人物 Category:1824年生 Category:1876年没.

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万里小路正房

万里小路 正房(までのこうじ なおふさ、享和2年12月1日(1802年12月25日) - 安政6年10月22日(1859年11月16日))は、幕末の公家。万里小路建房の子、母は勧修寺経逸の娘。初め寿房と名乗った。子に万里小路博房。.

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三国大学

三国 大学(みくに だいがく、文化7年10月1日(1810年10月28日) - 明治29年(1896年)5月31日)は、幕末の商人、儒学者。豪商三国鶴叟の三男。諱は直準。字は士繩。別称・与吉郎。鷹巣、碌々山人と号、出家後は幽眠と称した。 越前国坂井郡三国の生まれ。当初は彦根藩士中村漁村に徂徠学を学んだ。同門で机を並べていたのが、当時は彦根藩主の息子ながら先の定まらぬ捨扶持の部屋住みの身分であり、しかしのちに幕府大老として安政の大獄を主導する井伊直弼であった。 天保3年(1832年)上洛して折衷学派を学んで梁川星巌や森田節斎らと交流する。天保7年(1836年)には私塾を開き、また『孝経傍訓』を著すなどした。 天保9年(1838年)鷹司家の侍講となる。将軍継嗣問題が起こると橋本左内と接触し、鷹司政通・輔煕親子に一橋派に味方するよう説いた。しかし安政5年(1858年)安政の大獄が起こると弾圧の対象となり江戸に送られ、翌安政6年(1859年)中追放刑となって近江国石山に逼塞した。文久2年(1862年)赦免されて帰洛。慶応元年(1865年)剃髪して幽眠と号する。 維新後は鷹司家の家政総括を任されるようになる。また由利公正の太政官札発行の際には岩倉具視にその利害を諮問されている。また明治6年(1873年)教部省権大議講となった。 他の著書に『笑草』『竹草』がある。 Category:幕末の人物 Category:江戸時代の儒学者 Category:19世紀の学者 Category:江戸時代の公家 Category:江戸時代の商人 Category:越前国の人物 Category:1810年生 Category:1896年没.

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三条実万

三条 実万(さんじょう さねつむ、三條實萬)は、幕末の公卿。明治時代の元勲・三条実美の父。.

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三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

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一条家

一条家(いちじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。桃華(とうか)家とも称される。.

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一条忠香

一条 忠香(いちじょう ただか、文化9年2月13日(1812年3月25日) - 文久3年11月7日(1863年12月17日))は江戸時代後期の公卿。法号は後大勝寺。一条忠良の四男。母は細川斉茲女従三位富子。室に順子女王(伏見宮邦家親王第二王女)がいる。兄に一条実通、弟に久我建通がいる。子に一条実良、明子(柳沢保申正室)、美子(明治天皇皇后、昭憲皇太后)、養女・峯(三条実万女、細川韶邦正室)、養女・美賀子(今出川公久女、徳川慶喜御台所)、養女・千代(醍醐忠順女輝姫、慶喜の婚約者だったが疱瘡のため破談し後に毫摂寺善慶室)らがいる。従一位左大臣。14代将軍継嗣問題では一橋派を支持。公武合体派で、尊攘派の公家と対立した。.

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一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。.

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一橋派

一橋派(ひとつばしは)は、13代将軍徳川家定の継嗣問題について、御三卿の一つである一橋徳川家の当主・徳川慶喜(のちの15代将軍)を推した一派。.

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九条尚忠

九条 尚忠(くじょう ひさただ、寛政10年7月25日(1798年9月5日) - 明治4年8月21日(1871年10月5日))は、江戸時代後期から明治時代の公家。官位は従一位・関白。 昭和天皇の曽祖父である。.

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平山省斎

平山 省斎(ひらやま せいさい、文化12年2月19日(1815年3月19日) - 明治23年(1890年)5月22日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣(旗本)、明治時代の神道家。本姓は黒岡。名は敬忠(よしただ)、字は安民、通称は謙二郎。号は省斎、素山道人。官途は従五位下図書頭。子に城之助、養嗣子に平山成信。 陸奥国三春藩士黒岡活円斎の子。20歳の時江戸に出て叔父で奥祐筆組頭の竹村七佐衛門宅に寄宿し安積艮斎に師事し、漢学や国学を学んだ。嘉永3年(1850年)小普請平山源太郎の養嗣子となり家督を継ぐ。翌年徒目付となる。安政元年(1854年)ペリーが再来航した時応接掛となった。この時、米艦から出て川崎近辺を徘徊していた乗員ビッティンガーを追跡しこれを送還した。また同年松前蝦夷地用掛堀利煕に従って陸奥国三厩に滞在の折りに、急遽箱館へ出張して、遊歩区域協定を迫るペリーの主張に対して不当してこれを退けた。翌安政2年(1855年)下田表御用を賞されて、金2枚および時服2襲を受く。安政4年(1857年)蕃書調所設置の勤労を賞された。同年、貿易事項取調のため長崎奉行水野忠徳らに従い長崎へと赴いて日露追加条約を審議した。だが、将軍継嗣問題では一橋派とされた為、安政5年(1858年)安政の大獄で免職となり、差控を命ぜられた。しかし、慶応元年(1865年)二ノ丸留守居より目付となり、翌慶応2年(1866年)第二次長州征討において老中小笠原長行の小倉口陣営にあって、小倉藩からの援兵の要求を時期はすでに逸したとして却下したため、小倉城落城を招いてしまう。のちに将軍徳川慶喜の側近としてこれを補佐した。将軍名代として熱海に避寒中のフランス仏公使ロッシュを訪ね大坂城中における援幕単独会見の要求および徳川昭武のパリ万博派遣を告げた。慶応3年(1867年)若年寄並兼帯外国惣奉行となるが、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで幕軍が惨敗した後、薩長勢力に対し強硬論を主張したために免職となり逼塞の処分を受けてしまう。 明治維新後は慶喜に従って静岡に移ったが、その後は神道家として活動を開始、明治5年(1872年)に教導職となり、明治8年(1875年)、日枝神社祠官、翌年には氷川神社大宮司となった。明治12年(1879年)に大成教会を結集して教長となった。明治15年(1882年)敬神愛国を唱える神道大成派として独立し、初代管長となった。また御岳教の別派独立に際してその管長を兼ねた。著書に「平山省斎遺稿抄」がある。.

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平岡円四郎

平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、文政5年10月7日(1822年11月20日) - 元治元年6月16日(1864年7月19日))は、江戸時代末期(幕末)の一橋家の家老並。別称、方中・円外。旗本・岡本忠次郎の子で、旗本・平岡文次郎の養子。近江守。.

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幕政改革

幕政改革(ばくせいかいかく)は、江戸時代に幕府が実施した、財政および政治制度その他の諸改革を指す。俗に、享保の改革・寛政の改革・天保の改革をもって「江戸幕府の三大改革」と呼ばれるが、これ以外にも、大規模な財政・制度改革は幾度にも亘って行われている。.

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久貝正典

久貝 正典(くがい まさのり、文化3年(1806年) - 慶応元年6月14日(1865年7月15日))は、幕末の江戸幕府旗本。旗本久貝正満の子。通称・甚三郎、官位は因幡守、河内守、遠江守。養翠と号した。正室、継室とも有馬誉純の娘。子に久貝正章、林忠交正室。弟に安政の大獄の時京都町奉行だった小笠原長常がいる。.

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久邇宮朝彦親王

久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。 第125代天皇・明仁の曽祖父である。.

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久我家

久我家(こがけ)は、日本の氏族のひとつ。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。家紋は竜胆紋のひとつである久我山竜胆こがやまりんどう/久我竜胆こがりんどう。 久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち内大臣まで昇った者6名、右大臣まで昇った者4名、太政大臣まで昇った者7名である。.

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久我建通

久我 建通(こが たけみち、文化12年2月1日〈1815年3月11日〉- 明治36年〈1903年〉9月26日)とは、江戸時代の公家。 翠君、素堂と号す。実父は関白・一条忠良、実母は熊本藩第8代藩主細川斉茲の娘・富子。養父は内大臣・久我通明、養母は熊本藩第7代藩主細川治年の娘・就。正室は関白鷹司政通の娘・麗子。子に権大納言・久我通久、愛宕通旭、北畠通城(妻は石山基正の娘・正子、正子の外祖父は澤為量)、加賀藩第14代藩主前田慶寧継室・通子、福井藩第17代藩主・松平茂昭継室・幸子。.

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京都町奉行

京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)は、江戸幕府が京都に設置した遠国奉行の1つ。老中支配であるが、任地の関係で実際には京都所司代の指揮下で職務を行った。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取った(ただし、奉行所の名称は江戸・大坂とは違い、「東御役所」・「西御役所」と呼ばれていた)。京都郡代から分離する形で寛文8年12月8日(1669年1月10日)に設置された。.

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京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において、京都に設置された行政機関である。 1568年(永禄11年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。.

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二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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二条斉敬

二条 斉敬(にじょう なりゆき、文化13年9月12日(1816年11月1日) - 明治11年(1878年)12月5日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての公卿。藤原北家摂関家の二条家当主。日本史上最後の関白であり、人臣としては最後の摂政。.

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広橋光成

広橋 光成(ひろはし みつしげ、寛政9年正月26日(1797年2月22日) - 文久2年閏8月6日(1862年9月29日))は、江戸時代の公家。広橋伊光の孫、広橋胤定の子、母は葉室頼熈の娘。室は飛鳥井雅之の娘。 京都で誕生する。寛政10年(1798年)2歳で従五位下、享和2年(1802年)元服し、従五位上。のち蔵人頭、左中弁、右中弁を歴任。文政7年(1824年)参議・右大弁、左大弁、文政11年(1828年)権中納言、弘化2年(1845年)正二位権大納言と昇進を重ねる。 天保6年(1835年)議奏を経て、安政4年(1857年)武家伝奏となる。翌年、条約勅許問題では朝幕間の調停に努めた。その後も和宮降嫁などに腐心する。文久2年(1862年)准大臣に昇進するも、翌日に薨去した。 みつしけ Category:幕末の公家 Category:1797年生 Category:1862年没.

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井伊直弼

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあるノートページ参照)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。.

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井伊直憲

井伊 直憲(いい なおのり)は、江戸時代末期の大名で、近江国彦根藩第16代(最後)の藩主(17代藩主、14代当主という数え方もある。参照:彦根藩)。明治維新後に華族(伯爵)となった。 安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。号は稲香軒。最初の妻は有栖川宮幟仁親王の王女・宜子女王。2番目の妻は鍋島直紀の娘。子は井伊直忠(二男)。孫に昭和28年(1953年)から36年間にわたって彦根市長を務めた井伊直愛がいる。.

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伊丹重賢

伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(1830年12月31日) - 明治33年(1900年)7月15日)は、日本の男爵。志士、貴族院議員、大審院判事、錦鶏間祗候、従五位。通称、蔵人、右近大進。子に伊丹春雄、伊丹二郎。.

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伊達宗城

伊達 宗城(だて むねなり)は、幕末から明治初期にかけての大名・政治家。伊予宇和島藩8代藩主。伯爵。 大身旗本・山口直勝の次男。母は蒔田広朝の娘。正室は佐賀藩主・鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物である。.

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伺候席

伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席、詰所とも。.

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佐々木顕発

佐々木 顕発(ささき あきのぶ)は、江戸時代末期の旗本。一介の旗本家来から御家人、旗本となり、勘定奉行・町奉行・外国奉行等へと大出世した人物として知られる。.

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佐倉藩

佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡佐倉に存在した藩である。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)。石高はおおむね11万石。.

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徳川家定

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代征夷大将軍。.

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徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。 徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男流産した兄がいたため次男とみなされることもある。だが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっていたためどちらも将軍後継者としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。.

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。.

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徳川四天王

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。 本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した三名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。その後、本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。 四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて国学院大教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の三名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘んじたとしている。.

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徳川斉昭

茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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徳川慶勝

徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。 弟に15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。 維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年(1878年)、この四兄弟は再会している。 幼名は秀之助、元服後(高須松平家時代)は松平義恕(まつだいら よしくみ)を名乗る。尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕(よしくみ)、のち慶勝と改名した。なお、本項ではすべて慶勝に統一する。.

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徳川慶篤

徳川 慶篤(とくがわ よしあつ、天保3年5月3日(1832年6月1日) - 慶応4年4月5日(1868年4月27日))は、常陸水戸藩の第10代藩主。諡号は順公。最後の将軍・徳川慶喜の同母兄・長兄にあたる。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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志士

志士(しし)は、一般に日本の江戸時代後期の幕末において活動した在野の人物を指す歴史用語。 『論語』にある「志士仁人(ししじんじん)は(中略)身を殺して以て仁をなすなり」が語源であり、天下国家のために正しいと信じたことを、生命をかけて貫く人物像を指した。多くは、尊皇攘夷の思想を持って政治運動を行った者を指す。草莽とも呼ばれる。 また、比喩的に他の時代の人物や外国人に対しても使われることがあり、第二次世界大戦中に日本へ亡命したスバス・チャンドラ・ボースなどのインド独立運動家を指して「インド独立の志士」とも呼んだ。.

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土岐頼旨

土岐 頼旨(とき よりむね 文化2年(1805年) - 明治17年(1884年)4月2日)は江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。官位は丹波守、禄高は7000石。知行地は現取手市小文間他。出身は江戸崎土岐氏。上野沼田藩土岐家の分家、溜池土岐家第6代。溜池土岐頼量(沼田土岐定経の子)の婿養子。江戸生まれ。実父は土岐朝旨。子に頼礼(頼徳)、小出秀実らがいる。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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土浦藩

土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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ロシア帝国

ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.

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切腹

切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。主に武士などが行った日本独特の習俗。 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。.

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和宮親子内親王

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。品位は二品、薨後贈一品。 「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス(, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。タウンゼンド・ハリスと表記されることもある。 日本の江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。.

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備中松山藩

松山城御根小屋正門(現・岡山県立高梁高等学校) 備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩。藩庁は松山城(高梁市)に置かれた。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名される。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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入江則賢

入江 則賢(いりえ のりかた、文政2年12月18日(1820年2月2日) - 明治23年(1890年)8月23日)は、幕末の地下人。入江則恭の子。 一条家の諸大夫。天保6年(1835年)元服して正六位上土佐守に叙任され、天保12年(1841年)内蔵助、弘化4年(1847年)雅楽頭を歴任。 勤皇活動に従事したために、安政5年(1858年)安政の大獄で捕われる。安政6年(1859年)江戸に送られ、一条忠香に入説した事を咎められて、中追放刑となった。文久2年(1862年)大赦によって許され、翌文久3年(1863年)復位する。元治元年(1864年)従四位上となり、慶応3年(1868年)兵部権少輔に任じられている。 墓所は京都府京都市左京区の知恩寺善導院。 Category:幕末の地下人 Category:1820年生 Category:1890年没.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公武合体

公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。公武合体策、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。対義語は尊皇攘夷である。.

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六物空満

六物 空満(ろくぶつ くうまん、享和元年(1801年) - 安政6年11月(1859年))は、幕末の尊皇攘夷派志士。森新吾の次男。幼名・龍蔵。六物は通称だが、後に姓として使った。 大和国葛城郡に生まれる。天文学や暦数学を修め、また和泉国堺の松浦南陽に医術を学ぶ。上洛して大覚寺門跡に仕え、療病院別当となる。嘉永6年(1853年)ペリー来航の際には朝廷の命によって攘夷の祈祷を行った。その後も尊攘派の志士たちと交流し、また近衛家老女の村岡や僧月照らとともに公卿への工作にも従事した。しかし安政5年(1858年)安政の大獄で幕府に逮捕されて江戸へ送られる。翌安政6年(1859年)占察祈祷を咎められて遠島刑と決まるも、間もなく獄中で病没した。 明治31年(1898年)贈正五位。墓所は京都府京都市の霊山。 Category:幕末の人物 Category:大和国の人物 Category:獄死した人物 Category:1801年生 Category:1859年没.

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勝野森之助

勝野 森之助(かつの もりのすけ、生年不詳 - 文久3年(1863年))は、幕末の志士。勝野豊作正道の子、母はチカ。諱は正倫。 父とともに旗本阿部政成の家臣。父の尊攘活動を助け、水戸密勅事件にも関与した。そのため安政5年(1858年)安政の大獄が起こると父は水戸へ逃れるが、森之助をはじめ母のチカ、弟の保三郎、姉妹のユウらとともに江戸で捕縛される。四人は父の潜伏先を尋問されるも遂に口を割る事はなかった。安政6年(1859年)父は没するが、家族は押込刑、自身も三宅島に遠島刑となった。文久3年(1863年)赦免されて江戸に帰るが、程なくして亡くなった。.

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勝野正道

勝野 正道(かつの まさみち、文化5年(1808年) - 安政5年10月19日(1858年11月13日))は、幕末の陪臣。勝野正弘の子。通称・豊作。号は台山。仁科多一郎と変名した。.

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勘定奉行

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の職名の一つ。勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。元禄年間までは勘定頭(かんじょうがしら)とも称した。評定所においては、関八州内江戸府外の訴訟について担当した。定員は約4人で役高は3000石。老中の下にあり、郡代・代官・蔵奉行などを支配した。1698年以降は、うち1人が大目付とともに道中奉行を兼務した。1721年には財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた。勝手方と公事方の職務は全く別のものであり、事実上名称のみが共通している状態であった。.

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勅令

勅令(ちょくれい).

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石谷穆清

石谷 穆清(いしがや あつきよ)は、幕末の江戸幕府旗本。官位は因幡守、後に長門守。江戸時代初期に江戸北町奉行を務めた石谷貞清の子孫。.

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石河政平

石河 政平(いしこ まさひら)は、江戸時代の旗本。.

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獄門

(ごくもん)とは、江戸時代に庶民に科されていた6種類の死刑の一つで、斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰。梟首(きょうしゅ)、晒し首ともいう。付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。 こうした刑罰は平安時代後期から存在し、平安京の左右にあった獄の門前に斬首された罪人の首を晒した事が「獄門」の語源であると言われている。また当時は斬首した首をただ晒すだけでなく、矛で貫いて京中の大路を練り歩くことも行われたという。以後も同様の刑罰は存在したが、本格的に刑法体系に取り入れたのは江戸幕府であったとされている。 獄門の刑罰を科される犯罪は、強盗殺人、主人の親類の殺害、地主や家主の殺害、偽の秤や枡の製造などであった。また獄門に市中引き回しが付与されることもあった。 明治時代に至っても初期には梟示(きょうじ)と名を改めて引き続き行われていた。1871年、明治政府を激しく批判していた旧米沢藩士雲井龍雄や、1874年、佐賀の乱の首謀者の一人である前参議兼司法卿の江藤新平への処刑が有名である。1879年の明治12年太政官布告第1号により廃止された。なお、斬首は1882年1月1日に施行された旧刑法により廃止されるまで残る(梟首を伴わない斬首が最後に行われたのは1881年)。.

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福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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甲府勤番

府勤番(こうふきんばん)は、江戸幕府の役職。江戸時代中期に設置され、幕府直轄領化された甲斐国に常在し、甲府城の守衛や城米の管理、武具の整備や甲府町方支配を担った。役職化される以前の、甲府城番についても本項で述べる。.

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遠国奉行

遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(御料(幕領・天領))のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行首座は長崎奉行。.

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青蓮院

宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.

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頼三樹三郎

大蘇芳年(月岡芳年)画) 頼三樹筆 頼 三樹三郎(らい みきさぶろう、1825年7月11日(文政8年5月26日)- 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。名は醇。通称は三木八。号は鴨崖。頼山陽の三男。.

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領事

事(りょうじ)は、外国に駐在して自国民の保護及び自国の通商の促進にあたる外交官の一種。またその業務内容。領事が職務を行う機関として領事館がある。また、領事には大使その他の外交官に準じた特権・免除(領事特権)が認められているが、その範囲は外交特権よりも狭い。.

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飯田忠彦

飯田 忠彦(いいだ ただひこ)は、幕末の徳山藩出身の国学者・歴史家。諱は初め恒憲、後に持直、忠彦と改名し、出家して黙叟と名乗る。通称は要人、刑部、左馬。字は子邦。号は環山、野史氏、夷浜釣叟。法名は志信院黙叟理現居士。『大日本野史』の著者として知られる。 父は徳山藩士・生田十郎兼門、母は大家某の娘。父の兼門は初め里見の姓を名乗っていたが、後に生田家の養子となった。兼門には三男一女があり、忠彦はその次男として生まれる。.

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飯泉喜内

飯泉 喜内(いいいずみ きない、文化2年(1805年) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は、江戸時代末期(幕末)の志士。初め渡辺六蔵を名乗った。諱は唯明、のち友輔。別称は一蔵。.

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西園寺家

西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用。.

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評定所

評定所(ひょうじょうしょ)は、近代以前に訴訟を扱った機関およびそれが存在した場所のこと。時代により以下の2つに区分される。.

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高松藩

松城月見櫓 高松藩(たかまつはん)は、江戸時代に讃岐国(現在の香川県)を領有した藩。生駒氏の代は讃岐一国を領していたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。.

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鮎沢伊太夫

鮎沢 伊太夫(あいざわ いだゆう、あゆさわ いだゆう文政7年(1824年)- 明治元年10月1日(1868年11月14日))は、幕末の武士・志士。水戸藩士。名は國維、字は廉夫、高橋諸往の二男、高橋多一郎の弟。.

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鯖江藩

鯖江藩(さばえはん)は、越前国(現在の福井県の敦賀市から北部分)に存在した藩。鯖江陣屋に藩庁が置かれた。.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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鷹司家

鷹司家(たかつかさけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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鷹司輔煕

鷹司 輔煕(たかつかさ すけひろ、名の表記は輔凞、輔熈とも)は、江戸時代末期(幕末)の公卿。孝明天皇時代の関白、藤原氏摂関家鷹司家の当主。諱は曽祖父輔平と祖父政煕から1字ずつとって輔煕、出家時の法名は随楽(ずいらく)を称した。父は関白鷹司政通。嫡母は水戸藩主徳川治紀の四女・清子。.

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鷹司政通

鷹司 政通(たかつかさ まさみち)は、江戸時代の公家、政治家。父は関白・鷹司政煕、母は正室・蜂須賀儀子。正室は徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。.

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黒川嘉兵衛

黒川 嘉兵衛(くろかわ かへえ)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。諱は雅敬。.

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黒船来航

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明) 黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。.

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黒澤止幾

黒沢 登幾(くろさわ とき、文化3年12月21日(1807年1月29日) - 明治23年(1890年)5月8日)は、日本初の女性小学校教師。常陸国茨城郡錫高野村(桂村を経て現・茨城県東茨城郡城里町)出身。名は止幾子とも。号は李恭。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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近衛忠煕

近衛 忠煕(このえ ただひろ、文化5年7月14日(1808年9月4日) - 明治31年(1898年)3月18日)は、幕末の公卿。公武合体派として活動した。翠山と号す。.

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近衛忠房

近衛 忠房(このえ ただふさ、天保9年8月6日(1838年9月24日)- 明治6年(1873年)7月16日)は、幕末期の公卿。近衛忠熙の四男。母は島津斉興の養女(実妹)・興子とされているが、庶子との説もある。正室は島津斉彬の養女・貞姫(実父は島津久長)。子に篤麿(長男)、英麿(次男、津軽承昭養子)、泰子(長女、徳川家達夫人)。号は光山。官位は従一位・左大臣。.

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近藤茂左衛門

近藤 茂左衛門(こんどう もざえもん、寛政11年11月8日(1799年12月4日) - 明治12年(1879年)6月6日)は、幕末の志士。諱は弘方。楽平斎、道林と号した。 信濃国松本城下で名主を務める近藤弘美の家に生まれる。生家は旧藩主水野氏の松本入封に従い、寛永19年(1642年)以来、同地で飛脚問屋、麻問屋、醸造や薬舗を生業としており、江戸では祖父の代から水戸藩邸の用達も務めていた。幼い頃から学問に励み、弟の貞一郎とともに出雲の神官中村守臣や、その師匠にあたる香川景樹に国学や和歌を学んだ。母は伊那郡の旗本(伊那衆)座光寺氏の家老堀尾直賢の三女で、貞一郎は母の出身地である伊那郡山本村の旗本(旧近藤藩主の末裔)近藤石見守の家臣久保田信右衛門に養子入りし、山本姓を名乗った。 後に幕府の専横を憂って勤王に傾き、安政5年(1858年)貞一郎とともに江戸に出て、向島に私塾を開き、兵法学や筆道を教授する。その後水戸藩主徳川斉昭の内意を受けて上洛し、青蓮院宮尊融法親王や三条実万、正親町三条実愛、近衛忠煕などの公家のほか、宇喜多一蕙・松庵親子らと交流し、井伊直弼による徳川御三家の謹慎解除の周旋を堂上方に依頼する。特に正親町三条家は松本藩主戸田松平家と由緒を同じくする親戚にあたり、度々松本藩士が派遣されていた。 しかし志士たちと盛んに交わり、戊午の密勅を仲介していたことから、幕府に追われる事となり、京都を逃れるも貞一郎は間もなく病没し、自身も同年9月5日中山道大津宿で捕えられた。これが安政の大獄の始まりと言われる。ほどなく京都の六角獄で吟味を受け、江戸の北町奉行所に送致された。翌安政6年(1859年)中追放刑(江戸10里四方および山城国所払い)となり、越後国頚城郡山寺村に移り、家財没収。また家族も連座して幽閉となった。文久2年(1862年)、政局が公武合体路線に転換すると赦免されて帰郷し、維新後の明治2年(1869年)家屋・田畑を賜った。享年80。 大正13年(1924年)贈正五位。.

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近藤正慎

近藤 正慎(こんどう しょうしん、文化13年(1816年)2月 - 安政5年10月23日(1858年11月28日))は、江戸時代末期(幕末)の尊王攘夷運動家。清水寺寺侍。本姓は栗山、名は義重、通称は仲。 丹波国桑田郡亀山藩山本村中条(後の京都府南桑田郡篠村山本中条、現在の亀岡市篠町山本中条)生まれ。京都清水寺成就院で出家。兄弟僧であった月照を支援し尊攘運動に身を投ずる。 安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において、月照の行方について拷問を交えて問われるが全く白状せず、獄中で舌を噛み切って壁に頭を打ちつけて自害した。明治維新後従五位に列せられた。 孫に陶磁器の人間国宝である近藤悠三、曾孫に俳優の近藤正臣がいる。子孫は代々、清水寺境内で休憩所「舌切茶屋」を営む。.

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茅根伊予之介

茅根 伊予之介(ちのね いよのすけ、文政7年(1824年) - 安政6年8月27日(1859年9月23日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。本姓は藤原氏。家系は常陸国の豪族小野崎氏の一門茅根氏。諱は為宜、泰。字は伯陽、士誠。号は寒緑。.

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阿片戦争

阿片戦争(アヘンせんそう、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。.

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阿部正弘

阿部 正弘(あべ まさひろ、文政2年10月16日(1819年12月3日) - 安政4年6月17日(1857年8月6日))は、江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。.

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鵜飼吉左衛門

吉左衛門(うがい きちざえもん)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。.

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鵜飼幸吉

幸吉(うがい こうきち、文政11年(1828年) - 安政6年8月27日(1859年9月23日))は、幕末期の水戸藩士。父は鵜飼吉左衛門知信、母は佐々木氏。諱は最初は知好、後に知明と改名。別称に菊次郎。.

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鵜殿鳩翁

殿 鳩翁(うどの きゅうおう、1808年(文化5年) - 1869年7月14日(明治2年6月6日))は、江戸時代後期、幕末期の幕臣である。甚左衛門。諱は長鋭。号は鳩翁。官位は民部少輔。父は熊倉茂寛で次男。 鵜殿甚左衛門長快の養子となり、1819年(文政2年)に家督を相続する。小納戸役などを経て、1848年(嘉永元年)、目付として幕府に仕えた。1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊が来航すると攘夷を主張したが、翌年のペリー再来航時には日米和親条約締結の際の応対係を命じられている。安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持したが、南紀派の井伊直弼が大老に就任して安政の大獄を開始すると左遷された。これは、彼が攘夷を主張していたためと言われている。1860年(万延元年)、名を鳩翁と号した。 1863年(文久3年)2月5日、将軍徳川家茂上洛警護のために結成された浪士組の取締役に就任するが、浪士組が清河八郎の策略や、それに伴う近藤勇らとの対立により本来の役目を果たせないまま壬生浪士組(後の新選組)・新徴組に分裂する事になると辞職した。明治には静岡(静岡県)に住み、1869年(明治2年)、62歳で没した。 墓所は静岡市葵区の本要寺。.

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関宿藩

関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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間部詮勝

間部詮勝寓居跡、京都市中京区寺町通二条下る東側 間部 詮勝(まなべ あきかつ)は江戸時代後期の大名。越前鯖江藩第7代藩主。間部家8代。幕末に老中首座を務めた。.

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藤井尚弼

藤井 尚弼(ふじい なおすけ、文政8年11月11日(1825年12月20日) - 安政6年9月1日(1859年9月26日))は、江戸時代末期(幕末)の地下人。藤井総博の子。.

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藤森弘庵

藤森 弘庵(ふじもり こうあん、寛政11年3月11日(1799年4月15日) - 文久2年10月8日(1862年11月29日))は、幕末の小野藩士、土浦藩士。 小野藩士藤森義正の子、母は猶子(堀越伊兵衛の娘)。諱は大雅。字は淳風。通称・恭助。天山、如不及斎と号した。.

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長野主膳

長野義言(主膳)像(1890年作) 長野 主膳(ながの しゅぜん、文化12年10月16日(1815年11月16日)- 文久2年8月27日(1862年9月20日))は、江戸時代末期の国学者で、大老・井伊直弼の家臣。通称は初め主馬(しゅめ)、のち主膳。諱は義言(よしとき)。桃之舎と号した。.

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酒井忠義 (若狭国小浜藩主)

酒井 忠義(さかい ただあき)は、江戸時代後期から末期の大名。若狭小浜藩の第12代、第14代藩主。小浜藩酒井家13代、15代。.

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若年寄

若年寄(わかどしより)とは.

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若松永福

若松 永福(わかまつ ながとみ、文政4年2月1日(1821年3月4日) - 明治19年(1886年)10月13日)は、幕末の地下人。若松永言の子、母は丹羽正敬の娘。 弘化4年(1847年)一条家諸大夫を継ぎ、備前守に叙される。嘉永6年(1853年)内蔵助を兼ね、従五位下となり、安政3年(1856年)木工権頭となっている。 安政5年(1858年)安政の大獄に連座して捕われる。安政6年(1859年)江戸に送られ、主命で幕府要人の調伏を疑われて追放刑となった。文久2年(1862年)赦免され、文久3年(1863年)従五位下備前守に復帰し、同年には従五位上播磨守となった。また漢籍の長があり、入内前の昭憲皇太后に素読を教授している。 Category:幕末の地下人 Category:1821年生 Category:1886年没.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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掛川藩

掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。.

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松平宗秀

松平 宗秀(まつだいら むねひで)は、幕末の譜代大名、老中。丹後宮津藩第6代藩主。本庄松平家9代。.

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松平忠固

松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末の譜代大名、老中。信濃上田藩の第6代藩主。伊賀守系藤井松平家第8代当主。嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務めた。徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して開国を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。 最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。.

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松平頼縄

松平 頼縄(まつだいら よりつぐ)は、常陸府中藩の第9代藩主。.

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松平頼誠

松平 頼誠(まつだいら よりのぶ、享和3年1月24日(1803年2月15日) - 文久2年8月13日(1862年9月6日))は、陸奥守山藩の第5代藩主。水戸支流頼元系松平家6代。守山藩4代藩主・松平頼慎の長男。母は徳川治保の娘。 正室は松平頼説(常陸府中藩主)の娘、継室は徳川治紀(母方の伯父にあたる)の娘。子は松平頼茂(長男)、松平頼音(次男)、松平頼升(三男)、松平頼彬(四男)、松平頼邑(五男)。官位は従四位下、大学頭。 天保元年(1830年)、父の死により家督を相続した。藩財政の悪化により、豪農・豪商から4500両の借入を行った結果、更に財政が逼迫し、農民からの収奪が強まった。それに対する減免要求や、助郷反対、不正をした村役人の解任要求など、頼誠の在任中は領民による騒動が頻発した。文久2年(1862年)死去し、三男・頼升が跡を継いだ。.

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松平頼胤

松平 頼胤(まつだいら よりたね、文化7年12月22日(1811年1月16日) - 明治10年(1877年)12月30日) は、幕末の大名。讃岐国高松藩の第10代藩主。 第8代藩主松平頼儀の次男。母は藤木氏。第9代藩主松平頼恕の養子。正室は徳川家斉の十七女・文姫(徳川家慶妹)。子に松平頼温(六男)、松平頼和(七男)、娘(大原重実室)、娘(松平頼策正室)ら。官位は正四位下左近衛権中将、宮内大輔、讃岐守、玄蕃頭。幼名を雄丸、名は都太郎、貞五郎。字は舜民。.

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松平春嶽

松平春嶽 松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)は、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉えると第14代となる。。 春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。 田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。.

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松本城

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にある日本の城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。.

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板倉勝静

板倉 勝静(いたくら かつきよ)は、幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)。備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代。.

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桜田門外の変

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん、正字体:櫻田門外の變、正仮名遣:さくらだもんぐわいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。 この襲撃者らを「(桜田)十八烈士」と呼ぶこともある。またこの事件自体を「桜田事変」や、「桜田義挙」と呼んだ例がある。.

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梁川星巌

梁川星巌之碑、霊山護国神社、京都市左京区 梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年7月10日) - 安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。.

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梅田雲浜

梅田雲浜 霊山護国神社 梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日(1815年7月13日)- 安政6年9月14日(1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。.

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森寺常安

森寺 常安(もりでら つねやす、寛政3年12月13日(1792年1月6日) - 明治元年9月22日(1868年11月6日))は、幕末の地下人。森寺常倫の子。字は遜卿。 京都に生まれる。文化4年(1807年)三条家に仕え、文化11年(1814年)諸大夫となる。官職では出羽介、大隅守、長門守、雅楽権助を歴任。嘉永5年(1852年)因幡守に任ぜられ、嘉永6年(1853年)従四位下となっている。 ペリー来航後は主家のために奔走し、安政5年(1858年)三条実万に橋本左内を斡旋し、入説を助けた。そのために子の常邦とともに安政の大獄に連座。安政6年(1859年)江戸に送られて、永押込刑となった。文久2年(1862年)赦免され、慶応元年(1865年)従四位上となった。死後、贈正四位。 Category:幕末の地下人 Category:1792年生 Category:1868年没.

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楢崎将作

楢崎 将作(ならざき しょうさく、文化10年(1813年) - 文久2年正月20日(1862年2月18日))は、幕末の医師。奈良崎大造豊明の子。氏は藤原、諱は貺(たまう)。字は大蔵。東崦、繁杏と号した。.

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楢崎龍

楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年6月6日(1841年7月23日) - 明治39年(1906年)1月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の女性。名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。 中川宮の侍医であった父が死んで困窮していた頃に坂本龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる小松清廉が先であるという異論もある(「日本初の新婚旅行は小松帯刀?通説“龍馬”に異論登場」2008年10月16日付読売新聞)。龍馬の暗殺後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。晩年は落魄し、貧窮の内に没した。.

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橋本左内

橋本 左内(はしもと さない、天保5年3月11日(1834年4月19日) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は、江戸時代末期(幕末)の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。.

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正親町三条実愛

正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる、文政3年10月30日(1820年12月5日) - 明治42年(1909年)10月20日)は、日本の江戸時代後期から明治時代の公卿、政治家、麝香間祗候。改名して嵯峨実愛。.

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死罪 (律令法)

死罪(しざい)とは、律令法の五刑(五罪)の一つ。最も重い刑罰で受刑者の生命を奪う生命刑である。日本の大宝律令・養老律令では、単に「死」と記されている。別名として大辟罪(だいへきざい)・死刑(しけい)とも呼ばれる。今日の死刑という呼称もここに由来している。.

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毛利敬親

亀山公園) 毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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永井尚志

永井 尚志(ながい なおゆき)は、幕末の旗本。三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。名前の読みは「なおむね」とも。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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池内大学

池内 大学(いけうち だいがく、1814年12月3日(文化11年10月22日)- 1863年3月11日(文久3年1月22日))は、幕末期の儒学者。また漢詩・書に長じた。 姓は源、名は奉時、字は士辰、陶所と号した。大学は通称(百官名)。.

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池田頼方

池田 頼方(いけだ よりかた/よりまさ、享和元年(1801年) - 明治9年(1876年)2月17日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、旗本。 池田頼功の子。官位は従五位下、播磨守。安政の大獄における江戸南町奉行で、後に勘定奉行も兼帯。寺社奉行松平宗秀、北町奉行石谷穆清、大目付久貝正典、目付神保長興らと共に志士の裁断を担当した現場の指揮官。妻は摂津三田藩主九鬼隆国の娘。養子に頼誠。 遠祖下間頼龍は下間氏出身だが、その子・頼広は縁戚の池田輝政に従軍して池田重利と改名、徳川家康より播磨新宮藩1万石を賜るものの、子孫邦照が夭折し改易。邦照の弟重教に3000石が下され、以後、寄合として家名継承し、頼方の代に至る。.

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津崎矩子

『近世人物誌 近衛家の老女村岡』(月岡芳年画) 津崎 矩子(つざき のりこ、天明6年(1786年) - 明治6年(1873年)8月23日)は、幕末の近衛家の老女、勤王家。女中名は最初田鶴、須賀野、後に村岡局と称した。位階は贈従四位。父は大覚寺門跡家臣津崎左京、兄は大覚寺門跡諸大夫の津崎元矩。 寛政10年(1798年)より近衛家に仕えて、中臈を経て老女となり、村岡局を名乗った。近衛忠熙に仕えて信頼を得て、また勤皇活動に熱心で水戸藩家老・安島帯刀や薩摩藩士・西郷隆盛、勤王僧・月照、梅田雲浜などの勤王家と盛んに交流した。島津斉彬の養女・篤姫(後の天璋院)が近衛忠熙の養女として江戸幕府13代将軍徳川家定との婚儀のおり、既に亡くなっていた正室・郁姫に代わり養母役を務めた。安政5年(1858年)の安政の大獄では、京都町奉行所の厳しい取調べの後、関東に送られ、押込30日に処せられた。文久3年(1863年)にも、尊王攘夷運動の活発化に伴い嫌疑を受け、幕府に捕えられている。維新後は賞典禄20石を賜り、郷里の北嵯峨の直指庵で余生を送った。明治6年(1873年)8月23日に同地で死去。享年88。明治24年(1891年)に従四位が追贈された。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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減封

減封(げんぽう)は、江戸時代においては大名、旗本などの武士に課せられた刑罰を意味し、武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷の一部を削減することをいう。また所領を分割相続することを分封、所領を没収されることを改易という。以下、江戸時代の減封について叙述する。.

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本郷泰固

本郷 泰固(ほんごう やすかた、生没年未詳)は、江戸時代後期(幕末)の旗本。一時は大名(駿河国川成島藩主)にもなった。江戸幕府の若年寄。従五位下、丹後守。.

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月照

月照(げっしょう、文化10年(1813年)- 安政5年11月16日(1858年12月20日))は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。.

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有栖川宮

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代良仁親王は皇統を継ぎ、後西天皇となった。.

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戊午

戊午(つちのえうま、ぼご)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの55番目で、前は丁巳、次は己未である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の午は陽の火で、相生(火生土)である。.

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戊午の密勅

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に勅書(勅諚)を下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の裁可)を経ないままの下賜であったことによる。.

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春日潜庵

春日 潜庵(かすが せんあん、1811年9月20日(文化8年8月3日)- 1878年(明治11年)3月23日『明治維新人名辞典』269-270頁。)は、日本の幕末から明治初期の地下人・儒学者、政治家。第一次奈良県知事。初名・仲好、名・仲襄、雅号・潜庵。.

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浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

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海保帆平

海保 帆平(かいほ はんぺい、文政5年(1822年) - 文久3年10月14日(1863年11月24日))は幕末期の剣豪、水戸藩士。 若くして懇望されて水戸藩に仕官したが同藩における23年の生涯のうち3分の1強は刑に服していた。このころの水戸藩の動向と同じく波乱の生涯だった。創作物では、千葉周作の道場が登場する時代小説の脇役として出てくる程度である。.

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浅野長祚

浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日(1816年7月3日) - 明治13年(1880年)2月17日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての幕臣(旗本)、蔵書家、芸術鑑定家。通称は金之丞。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。号の「梅堂」も有名。他に池香、蒋潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼などとも名乗った。娘の花子は川路寛堂に嫁いでいる。.

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文久の改革

文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。嘉永7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。.

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日下部伊三治

日下部 伊三治(くさかべ いそうじ、文化11年(1814年) - 安政5年12月17日(1859年1月20日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩、薩摩藩士。海江田訥斎連の子、母は樫村昔行の娘。諱は信政、後に翼。九皐、実稼と号。深谷佐吉、宮崎復太郎の変名を用いた。通称は伊三次。なお、家名の「日下部」は海江田氏の本姓は日下部氏であることから。.

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日下部裕之進

日下部 裕之進(くさかべ ゆうのしん、天保7年(1836年) - 万延元年閏3月3日(1860年4月22日))は、幕末の薩摩藩士。日下部伊三治の長男、母は山形氏。諱は信政。.

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日米修好通商条約

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。 江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」として当時の14代将軍徳川家茂の署名がなされている。欧語ではアメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。.

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日米和親条約

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)は、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約である。神奈川条約とも呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた。.

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日米通商航海条約

日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)とは、日本とアメリカ合衆国とのあいだの通商航海の自由と内国民待遇を原則とする条約で、以下の諸条約が知られる藤村(2004)。.

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日露和親条約

日露和親条約(にちろわしんじょうやく、Симодский трактат)は、安政2年12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。 本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。 条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約(にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)である。日露通好条約、下田条約、日魯通好条約とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では日魯和親条約と表記していた。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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政事総裁職

政事総裁職(せいじそうさいしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された将軍後見職・京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つである。.

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1853年

記載なし。

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1854年

記載なし。

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1858年

記載なし。

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1859年

記載なし。

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