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有栖川宮

索引 有栖川宮

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代良仁親王は皇統を継ぎ、後西天皇となった。.

148 関係: 垂水区垂水町千代田区司法省参謀本部吉子女王大勲位菊花大綬章大老大正大正天皇大日本報徳社天鏡閣威仁親王妃慰子宣仁親王妃喜久子宮家宮内省寛永山城国島原藩左大臣上京区帝室林野局世襲親王家三田藩下立売通平安女学院大学京都京都府京都御苑京都御所五箇条の御誓文井伊氏伏見宮徳川家慶徳川實枝子徳川将軍家徳川秀忠徳川斉昭徳川慶久徳川慶喜徳川慶篤後光明天皇後西天皇後陽成天皇後水尾天皇國學院大學喬子女王ジョサイア・コンドル内閣府入道親王...元帥 (日本)元老院 (日本)兵庫県副島種臣勧修寺晴子国会前庭国立歴史民俗博物館皇太子皇室皇室の系図一覧皇室典範 (1889年)皇典講究所皇族王政復古 (日本)神戸市福井藩総裁烏丸通熾仁親王妃董子花町宮静岡県西南戦争詐欺高遠藩高松宮高松宮好仁親王高松宮宣仁親王麹町区霊元天皇霞が関舞子ビラ関東大震災閑院宮葛野郡酒井忠清離宮掛川市東宝日比谷ビル東山天皇東京大空襲東京奠都東京市東京府東京都道302号新宿両国線東征大総督松平容保松平忠直栽仁王桂宮歌道毛利氏水戸徳川家永田町江戸時代法親王有栖川宮威仁親王有栖川宮幟仁親王有栖川宮幸仁親王有栖川宮織仁親王有栖川宮熾仁親王有栖川宮韶仁親王有栖川宮職仁親王有栖川宮記念公園有栖川宮詐欺事件有栖川宮正仁親王有栖川流戊辰戦争明石郡明治天皇海軍大将浅野氏日清戦争旧芝離宮恩賜庭園旧高旧領取調帳数寄屋橋慶応書道1625年1812年1835年1862年1865年1866年1867年1871年1872年1873年1881年1884年1886年1894年1895年1896年1903年1913年1923年1945年2003年 インデックスを展開 (98 もっと) »

垂水区

垂水区(たるみく)は、神戸市を構成する9行政区の一つで、同市の南西部に位置する。明石海峡大橋の起点がある。 西区と同様に全域が播磨国明石郡に属していた。須磨区との境を流れる小川は元来摂津国との国境であることから「境川」と呼ばれる。ただし、須磨区須磨ニュータウン西部は垂水区から割譲された地域で播磨国に含まれる。.

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垂水町

垂水町(たるみちょう)は、兵庫県明石郡にあった町。現在の神戸市垂水区および須磨区のうち須磨ニュータウンの一部にあたる。本項では町制前の名称である垂水村(たるみむら)についても述べる。.

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千代田区

千代田区(ちよだく)は、東京都の特別区の一つ。1947年(昭和22年)3月15日に麹町区と神田区が合併して誕生した山口恵一郎 『日本地名辞典 市町村編』1980年10月。。.

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司法省

司法省(しほうしょう)は、1871年(明治4年)から1948年(昭和23年)まで設置されていた日本の行政官庁。主に刑務所の管理や司法行政などを行っていた。.

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参謀本部

参謀本部(さんぼうほんぶ、Generalstab、General Staff office)は、軍隊において高級指揮官の作戦指揮を補佐するための合議機関である。 各国における成立の沿革上、また陸軍・海軍で別個の参謀組織がある場合もあり、そのため参謀部、参謀局、軍令部、作戦部、幕僚監部など種々の訳語が充てられることもある。.

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吉子女王

吉子女王(よしこじょおう、文化元年9月25日(1804年10月28日) - 明治26年(1893年)1月27日)は、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の正室。第10代藩主・徳川慶篤、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の母。幼称は登美宮(とみのみや)。院号は貞芳院。徳川吉子。没後文明夫人と諡される。.

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大勲位菊花大綬章

大勲位菊花大綬章(だいくんい きっか だいじゅしょう、英訳名: Grand Cordon of the Supreme Order of the Chrysanthemum)は、日本の勲章の一つ。1876年(明治9年)12月27日に制定され、最高位である大勲位菊花章頸飾に次ぐ勲章である。.

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大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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大正天皇

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.

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大日本報徳社

公益社団法人大日本報徳社(だいにっぽんほうとくしゃ)は、報徳を信条とする同志の団体で、社員みんなの協力で実現し、さらにその行動を広く社会一般に及ぼしてゆこうとする公益社団法人。.

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天鏡閣

落成当時の天鏡閣遠景(1908年撮影) 上の写真と同アングルの100年後(2008年撮影) 天鏡閣(てんきょうかく)は、福島県猪苗代町にある旧有栖川宮・高松宮翁島別邸。 本館、別館、表門は1979年(昭和54年)2月3日、国の重要文化財に指定されている。.

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威仁親王妃慰子

威仁親王妃慰子(たけひとしんのうひ やすこ、1864年3月15日(文久4年2月8日) - 1923年(大正12年)6月29日)は、日本の皇族。有栖川宮威仁親王の妃。有栖川宮家最後の皇族である。.

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宣仁親王妃喜久子

宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年(明治44年)12月26日 - 2004年(平成16年)12月18日)は、日本の皇族で、高松宮宣仁親王の妃。 旧名、徳川喜久子(とくがわ きくこ)。公爵・徳川慶久慶久も有栖川宮織仁親王の曾孫に当たる。の次女で、母は有栖川宮威仁親王の第二王女である實枝子女王。身位は親王妃。お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。.

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宮家

宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。 宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。 宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。 当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。.

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宮内省

宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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島原藩

島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上京区

沂高校 京都市歴史資料館 京極小学校、左手に二宮金次郎の像が現存している 上京区(かみぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。.

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帝室林野局

帝室林野局(ていしつりんやきょく)は、明治から昭和戦前期にかけて存在していた宮内省の外局である。宮内大臣の管轄下、皇室財産である御料林の管理経営をおこなった。1885年発足の御料局(ごりょうきょく)を前身とする。1908年に帝室林野管理局(ていしつりんやかんりきょく)として設置され、1924年に改称した。第二次世界大戦後の1947年に廃止された。.

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世襲親王家

世襲親王家(せしゅうしんのうけ)は、江戸時代において、当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた四つの宮家をいう。定親王家ともいう。.

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三田藩

三田藩(さんだはん)は、摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)周辺を領有した藩。藩庁は当初三田城、のち三田陣屋。.

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下立売通

下立売通、左手の教会は聖アグネス教会 下立売通(しもたちうりどおり、しもだちうりどおり)は京都市内の東西の通りの一つ。東は京都御苑西縁の烏丸通から、西は右京区嵯峨瀬戸川町に至る。 一部は、平安京の勘解由小路(かでのこうじ)にあたる。沿道には、釜座通との交差点に京都府庁、紙屋川東入に通称達磨寺(法輪寺)、右京区花園に妙心寺、法金剛院などがある。.

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平安女学院大学

京都キャンパスの聖アグネス教会 高槻キャンパス 京都府京都市と大阪府高槻市にキャンパスがあり、聖公会系のキリスト教主義学校(ミッション・スクール)。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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京都御苑

京都御苑(きょうとぎょえん)は京都府京都市上京区にある国民公園。京都御所の周囲の地区を指す。.

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京都御所

京都御所(模型) 京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。 14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。.

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五箇条の御誓文

五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は、慶応4年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。.

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井伊氏

井伊氏(いいし)は、日本の氏族。近江国彦根藩の主家である。.

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伏見宮

伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。 第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。 昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになったことにともない、第26代博明王が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき皇籍離脱した11宮家(旧皇族)はいずれもこの伏見宮の系統である。.

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。.

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徳川實枝子

徳川 實枝子(とくがわ みえこ、1891年(明治24年)2月14日 - 1933年(昭和8年)4月25日)は、明治期 - 昭和期の日本の皇族・華族。旧名は實枝子女王。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川斉昭

茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。.

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徳川慶久

德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年(明治17年)9月2日 - 1922年(大正11年)1月22日)は、日本の政治家。爵位は公爵。周囲の人々からは有職読みで「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていたという。新字体で徳川 慶久とも表記される。 貴族院議員、第一銀行取締役、華族世襲財産審議会議長などを歴任した。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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徳川慶篤

徳川 慶篤(とくがわ よしあつ、天保3年5月3日(1832年6月1日) - 慶応4年4月5日(1868年4月27日))は、常陸水戸藩の第10代藩主。諡号は順公。最後の将軍・徳川慶喜の同母兄・長兄にあたる。.

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後光明天皇

後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は、江戸時代前期の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮(すがのみや)、諱を紹仁(つぐひと)という。儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。.

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後西天皇

後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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國學院大學

本ヲ立ツ 日本人の拠って立つ基礎を研究し確立する。.

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喬子女王

喬子女王(たかこじょおう、寛政7年6月14日(1795年7月29日) - 天保11年1月16日(1840年2月18日))は、江戸幕府第12代将軍・徳川家慶の正室(御台所)。幼称は楽宮(さざのみや)、院号は浄観院(じょうかんいん)。.

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ジョサイア・コンドル

ョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) はイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。 のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でもあった。 「コンドル」はオランダ風の読み方で、「コンダー」の方が英語に近い。著書『造家必携』(1886年)には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在しているが、一般には「コンドル先生」で通っている。「コンデル」とも呼ばれた。.

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内閣府

内閣府(ないかくふ、Cabinet Office、略称:CAO)は、日本の行政機関の一つである。内閣の重要政策に関する内閣の事務を助けることを任務としており、同任務を遂行するにあたり内閣官房を助けるものとされている(内閣府設置法第3条第1項及び第3項)。 内閣府の長(主任の大臣)は内閣総理大臣とされるが、内閣総理大臣は自らを助けるものとして内閣府に特命担当大臣を置くことができる。なお、「沖縄及び北方対策担当」、「金融担当」並びに「消費者及び食品安全担当」の特命担当大臣は必置となっている。そして、内閣官房長官は内閣府の事務(国家公安委員会や内閣府特命担当大臣の所掌は除く)の総括整理を担当し(内閣府設置法第8条第1項)、内閣官房副長官は特定事項に係るものに参画する(同2項)。 内閣府の広報誌としては、「広報ぼうさい」(政策統括官(防災担当))、「学術の動向」(日本学術会議)などが部局ごとに存在する。.

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入道親王

入道親王(にゅうどう しんのう)とは、すでに親王宣下を受けている親王が出家(入道)した後の身位と称号。入道宮(にゅうどうの みや)、優婆塞宮(うばそくの みや)ともいった。 これに対して、王が出家した後に親王宣下を受けると、これを法親王といった。.

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元帥 (日本)

日本における元帥(げんすい)は、1872年(明治5年)から1873年(明治6年)においては階級(陸軍元帥)、1898年(明治31年)以降は元帥府に列せられた陸軍大将または海軍大将に与えられた称号(元帥)である。自衛隊にはこれに相当する称号は存在しない。.

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元老院 (日本)

元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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副島種臣

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。.

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勧修寺晴子

勧修寺 晴子(かじゅうじ はるこ、天文22年(1553年) - 元和6年2月18日(1620年3月21日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。正親町天皇の第五皇子・誠仁親王の女房。後陽成天皇の生母。女院。院号は新上東門院。.

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国会前庭

国会前庭(こっかいぜんてい)は、東京都千代田区永田町一丁目にある国会議事堂前にある庭園。洋式庭園の北地区と、和式庭園の南地区からなる。国有地で、衆議院が管理している。 南北の両地区は国会正門からまっすぐ伸びる並木道を挟んで分けられており、地勢の低い霞が関側の正面から国会議事堂を見あげると、国会議事堂を緑の向こう側に美しく際立たせるようになっている。 北地区は、江戸時代ははじめ加藤清正の屋敷、次いで彦根藩井伊氏の上屋敷があったところで、幕末の大老井伊直弼はここから内堀(桜田濠)沿いの道を桜田門に向かう途中の路上で桜田門外の変に遭った。明治時代になって当地は国有地となり、はじめ弾正台、のちに参謀本部・陸軍省が置かれた。そして陸軍省が廃止された戦後に衆議院の所管に移され、周囲の土地区画整理や道路拡張の後に洋式の庭園に整備された。 北地区の中心には三権分立を象徴するとされる時計塔が建てられており、シンボルになっている。また、軍事的な理由から全国の測量を進めた参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身)がこの地に置かれていた名残である日本水準原点が園内に存在することが有名。尾崎行雄の業績を称えて建設され、現在は衆議院が管理している憲政記念館も北地区の敷地内にある。 南地区は、江戸時代は九鬼氏の屋敷、明治期以降は有栖川宮邸を経て、霞ヶ関離宮となった場所であった。現在では和風を基調とした回遊式庭園になっている。 うこん桜、ヤエベニオオシマ(八重紅大島)、イチハラトラノオ(市原虎の尾)などのサクラや、ハナミズキ、ハンカチノキといった木が植えられている。 Image:国会前庭04.jpg|庭園内 Image:国会前庭03.jpg|庭園内を流れる小川.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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皇室の系図一覧

皇室の系図一覧(こうしつのけいずいちらん)では、日本の皇室(天皇および皇族)、並びに皇室を祖とする氏族に連なる人物のうち、日本史上の主要な人物を配した系図の一覧を示す。神話上の人物も、実在の人物とする説はあるので記載する。.

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皇室典範 (1889年)

皇室典範(こうしつてんぱん)は、1889年(明治22年)から1947年(昭和22年)までの、皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について規定していた家憲である。大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称した。昭和22年5月2日に廃止され、新たに法律として制定された皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が、同年5月3日の日本国憲法と同時に施行された。.

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皇典講究所

皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)は、1882年に明治政府が東京に設立した神職の中央機関であり、神道事務局に代わって神職の教育養成機関としての役割を担った。1946年に宗教法人神社本庁の設立ともに解散し、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社本庁へ統合した。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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王政復古 (日本)

王政復古(おうせいふっこ)とは、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立を宣言した政変である。.

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神戸市

戸市(こうべし)は、兵庫県南部に位置する兵庫県の県庁所在地である。垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区から構成される政令指定都市である。日本の市で6番目の人口を有する。.

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福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

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総裁

総裁(そうさい)とは、政(まつりごと)に携わる政府機関・政党・公団などにおいて最終決裁権を持つ代表職への名称。 元々は、後述する幕末の江戸幕府の役職名として使用され、その後、明治時代における新政府の長の名称として用いられ、以後様々な組織や団体における「長」たる職の名称として用いられている。また、諸外国における英語のdirectorまたはpresidentに相当する語の訳語として用いられている。.

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烏丸通

京都タワーから北に見る。左手の覆屋のある施設一帯が東本願寺。 8号京都線がおおむね東西に蛇行する。手前は京都駅ビル、左端の建物は京都アバンティ。 烏丸通(からすまどおり)は京都市の主要な南北の通りのひとつ。今朱雀とも呼ばれる表どおりである。本来は「からすまる」と読まれたが、撥音便化を経て音が脱落し、現在は「からすま」と読む(からすまるどほり→からすまんどおり→からすまどおり)。「烏丸家」という公家もあるが、こちらは「からすまるけ」と読む。.

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熾仁親王妃董子

仁親王妃董子(たるひとしんのうひ ただこ、1855年6月25日(安政2年5月12日) - 1923年(大正12年)2月7日)は、明治時代から大正時代にかけての皇族。有栖川宮熾仁親王の2番目の親王妃である。.

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花町宮

花町宮(はなまちのみや)には、2つの系統が存在する。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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西南戦争

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、2018年現在日本国内で最後の内戦である。鹿児島では丁丑戦として語られている。.

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詐欺

詐欺(さぎ)とは、他人をだまして、金品を奪ったり損害を与えたりすること。.

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高遠藩

遠藩(たかとおはん)は、信濃国南部(現在の長野県伊那市高遠町)に存在した藩。居城は高遠城。.

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高松宮

松宮(たかまつのみや)は、かつて存在した日本の皇室の宮家。1913年(大正2年)7月6日創設。伏見宮系皇族の臣籍降下後に存続した宮家のなかでは、もっとも創設時期が古い。ただ、有栖川宮の祭祀や財産を継承していることから、宮家としての伝統はさらに遡るとも言える。.

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高松宮好仁親王

松宮好仁親王(たかまつのみや よしひとしんのう、慶長8年3月18日(1603年4月29日) - 寛永15年6月3日(1638年7月14日)は、江戸時代前期の日本の皇族。高松宮(有栖川宮)初代。後陽成天皇の第7皇子。母は中和門院前子(関白近衛前久の女)。幼称は七宮といい、後に三宮に改める。.

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高松宮宣仁親王

松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年(明治38年)1月3日 - 1987年(昭和62年)2月3日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第三皇子。今上天皇の叔父にあたる。有栖川宮の祭祀を継承。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。.

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麹町区

麹町区(こうじまちく)は、かつて東京都にあった区。現在の千代田区。.

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霊元天皇

霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.

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霞が関

霞が関周辺・1989年(平成元年)撮影、国土航空写真 霞が関(かすみがせき)は、東京都千代田区の地名。旧麹町区にあたる麹町地域内である。現行行政地名は霞が関一丁目から霞が関三丁目。住居表示実施済みの地域。郵便番号は100-0013。.

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舞子ビラ

ントランスホール シーサイドホテル舞子ビラ神戸(Seaside Hotel MAIKO VILLA)は兵庫県神戸市垂水区舞子にあるシティホテルである。単に「舞子ビラ」とも称される。.

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関東大震災

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃(日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。.

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閑院宮

閑院宮(かんいんのみや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。 閑院宮の宮号は平安時代の清和天皇の皇子である貞元親王が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚して以来、閑院宮系の血統が皇統として続いている。.

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葛野郡

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酒井忠清

酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩の第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家4代。第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。.

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離宮

離宮(りきゅう)とは、皇居や王宮とは別に設けられた宮殿のことである。 一般的には王族・皇族等が居住するために建設された宮殿とは別の敷地に建設される。例えば皇太子などが成人・結婚し、天皇・皇帝と別に住居を構える場合などが当たる。また、避暑・避寒、静養のために建てられるものもある。.

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掛川市

掛川市(かけがわし)は、静岡県西部の都市。.

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東宝日比谷ビル

東宝日比谷ビル(とうほうひびやビル)は、東京都千代田区有楽町一丁目にあるオフィスとショッピングモールで構成される高層ビルである。不動産は東宝が所有している。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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東京大空襲

航空写真 両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。 B-29爆撃機 イズリー飛行場(1945年) 広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる。撮影当時、現地を南南西の風が吹いていたことがこの写真から見て取れる。 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。 早乙女勝元によれば、空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされる。 東京は1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多い内藤光博「空襲被災と憲法的補償―東京大空襲訴訟における被災者救済の憲法論―」専修法学論集 (106), 1-51, 2009-07。この3月10日の空襲だけで罹災者は100万人を超えた。.

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東京奠都

東京奠都(とうきょうてんと)は、明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたこと。京都との東西両京としたうえで、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。遷都と奠都の用語の違いについては後述する(#奠都と遷都の語義)。.

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東京市

東京市役所(東京府庁との合同庁舎) 東京市(とうきょうし)は、旧東京府(現東京都)東部に1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)までの間に存在していた市である。東京府の府庁所在地。最終的な市域は現在の東京都区部(東京23区)に相当する。 東京市が存在していた時期以外の旧東京市地域の歴史については東京都の歴史を参照のこと。旧東京市地域の現状については東京都区部を参照のこと。.

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東京府

東京府庁(東京市役所との合同庁舎) 東京府(とうきょうふ)は、1868年から1943年までの間に存在していた日本の府県の一つである。現在の東京都の前身に当たる。府庁所在地は東京市。.

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東京都道302号新宿両国線

歌舞伎町の靖国通り 曙橋駅 東京都道302号新宿両国線(とうきょうとどう302ごう しんじゅくりょうごくせん)は、東京都新宿区・千代田区・中央区を東西に走る都道(主要地方道)である。新宿区内には新宿駅近辺を避け、本線の北側を通る支線も存在する。 本線の通称は靖国通り(やすくにどおり)。千代田区内で靖国神社の前を通ることから、戦後に「大正通り」から改名された。支線部分は複数回に渡って開通しており、区間ごとに通称が存在する(後述)。.

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東征大総督

東征大総督(とうせいだいそうとく)とは、幕末期に、旧江戸幕府軍勢力制圧のために明治新政府によって設置された臨時の軍司令官のことである。.

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松平容保

松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。.

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松平忠直

松平 忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代初期の大名。越前北ノ庄(福井)藩主。結城秀康の長男。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。.

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栽仁王

栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月3日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。 有栖川宮威仁親王の第一王子(男女合わせた王子女の中では3人中2番目)で、 母は加賀金沢藩主前田慶寧の四女・慰子。公爵徳川慶久の夫人となった實枝子は実妹。.

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桂宮

桂宮(かつらのみや)は、四世襲親王家の一。および桂宮家の宮号。安土桃山時代に創設され、明治時代に断絶した。主な所領が平安京近郊の桂周辺にあった。石高3000石余は宮家中最大。八条宮→常磐井宮→京極宮の流れをくむ。.

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歌道

歌道(かどう)とは、和歌の創作や和歌自体に関する学問(歌論・歌学)を追究する学芸を道に擬えたもの。.

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毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

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水戸徳川家

水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。.

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永田町

永田町(ながたちょう)は、東京都千代田区の地名。現行行政地名は永田町一丁目及び永田町二丁目。住居表示実施済みの地域。郵便番号は100-0014。 隣接する霞が関とともに日本の国家中枢機能が集中する。特に国会議事堂を中心に総理大臣官邸(首相官邸)、衆議院議長公邸・参議院議長公邸、諸政党の本部などが立地し、日本における国会や議会の場の代名詞でもある。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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法親王

法親王(ほうしんのう、ほっしんのう)とは、日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の身位・称号。 これに対して、すでに親王宣下を受けている親王が出家(入道)した場合は入道親王と呼んで区別した。.

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有栖川宮威仁親王

有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日(文久2年1月13日)- 1913年 7月5日(大正2年)は、日本の皇族、軍人。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。 有栖川宮幟仁親王の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、但し成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。 幼称は稠宮(さわのみや)。 妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。.

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有栖川宮幟仁親王

有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう、文化9年1月5日(1812年2月17日) - 明治19年(1886年1月24日)は、幕末・明治期の日本の皇族。有栖川宮韶仁親王の第一王子。.

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有栖川宮幸仁親王

有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう 明暦2年3月15日(1656年4月9日) - 元禄12年7月25日(1699年8月20日))は、江戸時代の皇族。後西天皇の第二皇子、母は清閑寺共綱の娘共子。子に正仁親王、幸子女王(東山天皇中宮、承秋門院)、尊統法親王。有栖川宮家第三代当主。 寛文7年(1667年)に高松宮を継承、寛文12年(1672年)に有栖川宮と宮号を変更した。延宝8年(1680年)に将軍徳川家綱が継嗣のないまま死去した際に、大老酒井忠清に徳川将軍に擁立されたとする宮将軍擁立説がある(→江戸時代の宮将軍擁立説を参照)。.

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有栖川宮織仁親王

有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう 宝暦4年7月2日(1754年8月19日) - 文政3年2月20日(1820年4月2日))は、江戸時代の皇族。職仁親王第7王子。有栖川宮第6代当主。徳川慶喜(江戸幕府第15代征夷大将軍)の外祖父。.

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有栖川宮熾仁親王

有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。 有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られる#三島由紀夫のニ・ニ六事件76-77頁。だが和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。主旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。 明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。.

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有栖川宮韶仁親王

有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう 天明4年12月19日(1785年1月29日) - 弘化2年2月28日(1845年4月4日))は、江戸時代の皇族。有栖川宮第7代当主。.

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有栖川宮職仁親王

有栖川宮職仁親王(ありすがわのみやよりひとしんのう 正徳3年9月10日(1713年10月28日) - 明和6年10月22日(1769年11月19日))は江戸時代の皇族。有栖川宮第5代当主。霊元天皇第17皇子。いわゆる有栖川流書道を創始した。 享保元年(1716年)に、有栖川宮の第4代当主正仁親王が嗣子なく没したため、有栖川宮を相続した。享保11年(1726年)に親王宣下・中務卿となる。寛延2年(1749年)5月に一品に叙せられる。 霊元天皇の皇子としては兄尊昭法親王に次ぎ歌道に優れ、桃園・後桜町・後桃園の3天皇をはじめとして300名に伝授した。父から受け継いだ書道にも造詣が深く、有栖川流書道の創始者として知られる。.

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有栖川宮記念公園

有栖川宮記念公園(ありすがわのみやきねんこうえん)は、東京都港区南麻布にある公園である。 かつての有栖川宮の御用地に造られた公園で、現在は港区が所管している。単に「有栖川公園(ありすがわこうえん)」とも呼ばれる。.

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有栖川宮詐欺事件

有栖川宮詐欺事件(ありすがわのみやさぎじけん)は、2003年(平成15年)4月に東京で発生した詐欺事件。華族・有栖川宮の祭祀継承者であると偽った男性が偽の結婚披露宴を開催、招待客から祝儀等を騙し取った。.

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有栖川宮正仁親王

有栖川宮正仁親王(ありすがわのみや ただひと しんのう 元禄7年2月11日(1694年3月6日)-享保元年9月24日(1716年11月7日))は、江戸時代の皇族。有栖川宮第4代。父は幸仁親王。宝永7年(1710年)、清閑寺熙定の女で徳川綱吉養女の竹姫と婚約したが、6年後に婚儀を目前にして早世。嗣子無く薨したため、霊元天皇第17皇子の職仁親王が有栖川宮を相続した。 Category:日本の親王 Category:江戸時代の男性皇族 たたひと Category:1694年生 Category:1716年没.

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有栖川流

有栖川流書道(ありすがわりゅうしょどう)は、日本の書道の流派。 幟仁親王が揮毫した御誓文の原本.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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明石郡

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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海軍大将

海軍大将(かいぐんだいしょう)は、海軍の階級の一。海軍中将の上に位置する。一般に将官の最高位であり、海軍軍人の最高位である。 英呼称である“admiral”はアラビア語で「海の司令官」を意味するアミール・アルハル“amīr al-baḥr”に由来する。.

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浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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旧芝離宮恩賜庭園

旧芝離宮恩賜庭園(きゅうしばりきゅうおんしていえん)は、東京都港区海岸にある都立庭園。大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで、宮内庁管理の離宮を経て、大正13年(1924年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開された。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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数寄屋橋

旧朝日新聞本社 数寄屋橋交差点 数寄屋橋(すきやばし)は、1629年(寛永6年)江戸城外濠に架けられた橋である。関東大震災後の帝都復興事業によって1929年(昭和4年)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられた。山口文象設計。旧麹町区と旧京橋区の境界に位置し、現在の晴海通り (都道304号)にあった橋である。その後、取り壊されて現存しない。周辺の地域も数寄屋橋と呼ばれる。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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書道

京都・東寺蔵 『蘭亭序』(部分)王羲之 書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。カリグラフィーの一種。中国が起源であるが、日本語圏においては漢字から派生した仮名、ベトナム語圏では同じく漢字から派生したチュノムやローマンアルファベットを使用するクォック・グーなどでも創作活動が行われている。2009年に中国の書道が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。 本項では主に中国語圏及び日本語圏の書道について述べる。その他の文字・地域における書道は他の文字による書道を参照。.

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1625年

記載なし。

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1812年

記載なし。

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1835年

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1862年

記載なし。

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1865年

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1866年

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1867年

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1871年

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1872年

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1873年

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1881年

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1884年

記載なし。

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1886年

記載なし。

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1894年

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1895年

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1896年

記載なし。

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1903年

記載なし。

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1913年

記載なし。

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1923年

記載なし。

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1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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