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三条家

索引 三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

116 関係: 南部利克右大臣大内義隆大炊御門信量大臣家天皇太上天皇太政大臣外戚奈良華族姉小路家姉小路公宣嫡流宇喜多宗家宇喜多氏山城国山口市左大臣三条の方三条季晴三条実万三条実忠三条実冬三条実秀三条実綱三条実美三条実行三条実顕三条実親三条実香三条実起三条実重三条実量三条実治三条実房三条実春三条実教三条公富三条公広三条公忠三条公修三条公冬三条公兼三条公充三条公睦三条公美三条公頼三条公行三条公親三条公輝...三条公茂三条公泰三条公房三条公敦三条公教三条西実枝三条西家下総国幕末久世郡乙訓郡二尊院侯爵徳大寺家周防国内大臣内閣総理大臣公卿公家公爵国立歴史民俗博物館紀伊郡羽林家男爵盛岡藩白河天皇花園家華族華族令西園寺家香道鳥羽天皇鹿園実博閑院流藤原北家藤原公実藤原氏長男長門国陶晴賢陸奥国林博太郎東三条実敏東三条公恭正親町三条家正親町三条公兄正親町三条公氏武家武田信玄江戸時代河鰭実英河鰭実文清華家滋野井実国滋野井家戦国大名戦国時代 (日本)戸田忠綱明治明治維新日本旧高旧領取調帳曾我野藩1884年 インデックスを展開 (66 もっと) »

南部利克

南部 利克(なんぶ としなり、明治5年10月17日(1872年11月17日) – 昭和25年(1950年)5月6日)は、八戸南部氏12代当主。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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大内義隆

大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。 周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。第15当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。.

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大炊御門信量

大炊御門 信量(おおいのみかど のぶかず、嘉吉2年(1442年) - 長享元年8月4日(1487年8月22日))は、室町時代の公卿。後花園天皇(102代)と後土御門天皇(103代)の二帝に仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。実父は右大臣三条実量、養父は内大臣大炊御門信宗。妻は正親町持季の娘。子は右大臣大炊御門経名。 長禄元年(1457年)に従三位となり、公卿に列する。以降累進して、権中納言・権大納言・右近衛大将・左近衛大将を経て、文明11年(1479年)に内大臣となる。翌年従一位となり、左近衛大将を辞した。文明15年(1483年)に右大臣に任じられた。 Category:室町・安土桃山時代の公家 のふかす Category:三条家 Category:1442年生 Category:1487年没.

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大臣家

大臣家(だいじんけ)とは、公家の家格のひとつで、摂家、清華家に次ぐ家格。 大臣家は元は清華家の庶流から生まれた家であり、清華家に準じて昇進(ただし、摂家・清華家が任じられない参議を経て中納言となる)して、大臣に欠員が出た場合、大納言から近衛大将を経ずに直接内大臣に昇進する家柄である(清華家とは異なり近衛大将を兼ねることはできない)。極官は太政大臣(ただし、江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者に限られた)であるが、希に右大臣に昇進した例(三条西実条・中院通躬)がある程度で、現実には大臣家から内大臣を超えて昇進した事例は少ない。准大臣以上に昇進したのは中院家(通方から通富まで25代)で10人18代通躬が右大臣、2代通成、4代通重、5代通顕、10代通秀、13代通為、15代通村、17代通茂が内大臣、3代通頼、9代通淳が准大臣、正親町三条家(公氏から公勝まで29代)で8人5代公秀、6代実継、7代公豊、10代実雅、12代実望、13代公兄が内大臣、9代公雅に贈内大臣、15代公仲に贈准大臣、三条西家(公時から公允まで17代)で6人5代公条、8代実条が右大臣、3代公保、4代実隆、6代実枝、7代公国が内大臣と、大臣輩出率は高いとは言えない。維新後は伯爵となったが、嵯峨家(正親町三条家)はのちに侯爵となった。 大臣家は、以下の3家。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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奈良華族

奈良華族(ならかぞく)は、奈良 興福寺の塔頭の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶のうち、明治維新後廃仏毀釈が進む中で勅令により復飾(還俗)し、公家社会に復帰して華族となることを得た26家の総称。いずれも明治17年(1884年)7月8日の華族令の施行とともに男爵が授爵された。 維新後新たに公家となり華族に列して男爵を授かった家はこの奈良華族以外にも十数家ある。そのほとんどが既存の堂上家からの分家によるものだが、このうちの3家は幕末まで興福寺以外の寺院の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶が復飾したもので、その成立過程には奈良華族のそれと本質的に類似した経緯がある。そこで本項では別節を立てこの3家についても紹介する。.

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姉小路家

姉小路家(あねのこうじけ/あねがこうじけ/あねこうじけ)は、藤原氏系の公家の家系である。大きく分けると閑院流(1・2)、小一条流(3:飛騨国司)、勧修寺流(4)の3つの家系がある。 なお、3.の姉小路家の名跡を継承した戦国大名(旧・宇多源氏三木氏)については、姉小路氏の項目で解説を行う。.

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姉小路公宣

姉小路 公宣(あねがこうじ/あねこうじ きんのぶ)は鎌倉時代初期の公卿。左大臣・三条公房の次男。姉小路家の祖。初名は公信。姉小路に住み姉小路大納言と号す。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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宇喜多宗家

宇喜多 宗家(うきた むねいえ、生没年不詳)は、室町時代後期の人物。修理進。代々「家」の字を通字とする宇喜多氏の始祖ではないかと思われる人物。 三条信宗(傍流であるので「三条」の姓では無かった可能性も)の子。妻は児島高家の娘。 宇喜多久家は実子、或いは児島信徳(実在したか怪しい人物であるが実在したならば妻の兄か弟にあたる人物であると思われる)の息子を養子縁組したのではないかと言われている。 文明2年(1470年)に、赤松政則の命で宇喜多宗家が西大寺に土地を寄進したという記録が西大寺文書に残されているので、赤松氏の被官であったと思われる。 かなり不明な点が多いが、系図などによると元々は藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる公家の名門、三条家の人間とするものが多い。 室町時代後期に起きた応仁の乱の戦火から逃れるために、この頃は地方へと下向する公家も多かったが、宗家もその中の一人ではないかと考えられている。 赤松氏を頼り備前へと下向した宗家は、そこで児島高徳の孫にあたる児島高家の娘と入婿という形で婚姻関係を結び、宇喜多を称したという。 これらの流れからも分かるように、宗家は藤原氏の三条家を出自とする公家であり、児島との血縁関係は皆無である。 この為、児島との縁を強調したい宇喜多氏は、久家を児島信徳の子とする系図では宗家の存在自体を無視するという扱いをしているが、 西大寺文書や大永6年(1526年)邑久郡弘法寺 (瀬戸内市)への寄進状に名が残る以上、「宇喜多宗家」という人物が存在した事は確実であり、久家を児島信徳の子とする説を信用するならば宗家が久家を養子にとったのではないかと考えられる。 ただ、その場合は「信徳という男子が存在しているのに何故、養子をとる必要があるのか?」「何故、児島の嫡流として生まれたはずの久家をわざわざ余所者である宗家へ養子に出す必要があるのか?」等の矛盾が数多く生まれる。 さらに、この系図自体が「これは久家は宗家の実子であって、一応は母親が児島の人間であるので児島の後裔を称する事に問題は無いのだが、やはり女系の系図を強調する事に不自然さを感じた人間が後付けで作り出した系図では無いか?」との意見もある。だが、久家が宗家の実子であった事の裏付けとなる史料も存在せず、やはり不詳とせざるを得ない。 また、宗家が西大寺に土地の寄進を行う一年前の文明元年(1469年)に宇喜多五郎右衛門入道寳昌(現存する古文書で確認できる最古の宇喜多氏)なる人物が 成光寺に寄進をしたとの文書が残っている。 これは宗家と同時期に下向をした父の信宗ではないか等、諸説あるがこれもまた詳細は一切不明である。.

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宇喜多氏

宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山口市

山口市(やまぐちし)は、中国地方西部(九州・山口地方北東部)の市。山口県の県庁所在地である。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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三条の方

三条の方(さんじょうのかた、大永元年(1521年)? - 元亀元年7月28日(1570年8月29日))は、甲斐国の戦国大名である武田信玄の継室である。左大臣・転法輪三条公頼の次女。姉には細川晴元室、妹には顕如の妻の如春尼がいる。子には武田義信、黄梅院(北条氏政室)、海野信親、信之、見性院(穴山梅雪室)がいる。本名は不詳。一般には三条の方、三条夫人などと称される。.

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三条季晴

三条 季晴(さんじょう すえはる、享保18年10月22日(1733年11月28日) - 天明元年11月28日(1782年1月11日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の四朝にわたって仕え、官位は従一位右大臣となった。父は右大臣三条実顕。母は権大納言三条公充の娘。妻は彦根藩主井伊直定の娘。子に右大臣三条実起、左近衛佐武者小路実純、娘に右大臣大炊御門家孝室がいる。号は後誠心院。 享保20年(1735年)に叙爵。以降、三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛延3年(1750年)に従三位に達し公卿に列する。権中納言・権大納言・踏歌節会外弁を経て、明和7年(1770年)に正二位内大臣。安永元年(1772年)には従一位となる。安永8年(1779年)には右大臣となるもすぐに辞職する。天明元年(1781年)に薨去。享年49。.

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三条実万

三条 実万(さんじょう さねつむ、三條實萬)は、幕末の公卿。明治時代の元勲・三条実美の父。.

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三条実忠

三条 実忠(さんじょう さねただ)は鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿。従一位内大臣。後三条内府と号す。実父は太政大臣三条実重だが、異母兄である公茂の養子となる。初名は公重。母は家女房。.

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三条実冬

三條 實冬(さんじょう さねふゆ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。.

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三条実秀

三条 実秀(さんじょう さねひで、慶長3年(1598年)‐寛文11年8月25日(1671年9月27日))は、江戸時代前期の公卿。 後陽成天皇(108代)から後西天皇(111代)までの四代にわたって仕え、従一位左大臣まで昇っている。父は権大納言三条公広。母は権中納言正親町三条公仲の娘。正室は権大納言日野資勝の娘。子に右大臣三条公富、延岡藩主内藤義概室がいる。 慶長9年(1604年)に叙爵してから累進し、元和元年(1615年)に左近衛中将となったのを機に元服した。元和5年(1619年)に従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言・権大納言・踏歌節会外弁などを歴任。慶安元年(1648年)に内大臣に任ぜられた。同年辞職。承応元年(1652年)から翌年にかけて右大臣を務めた。明暦3年(1657年)に従一位に叙せられ、万治3年(1660年)から翌年にかけて左大臣を務める。 長寿によって清華家の出世コースを順調にたどっていくことができた人物であった。.

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三条実綱

三条 実綱(さんじょう さねつな、永禄5年(1562年)‐天正9年2月7日(1581年3月11日))は、室町時代後期から安土桃山時代の公卿。主に正親町天皇(106代)の代に朝廷に仕えた。初名は三条 公宣。父は内大臣三条西実枝。 三条家の分家正親町三条家の分家三条西家に生まれたが、本家筋の転法輪三条家の当主の公頼が周防国へ下向していた際に大寧寺の変に巻き込まれて殺され、嗣子もなかったため、転法輪三条家を相続した。永禄12年(1569年)に叙爵。その後、清華家当主として速い速度で出世し、幼くして侍従・左近衛中将などをつとめ、天正8年(1580年)までには正三位・権中納言となっていたが、その翌年に死去した。享年20。早世を惜しまれて死後に右大臣を追贈された。兄公国の次男公広が三条家を相続した。 さねつな さねつな Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1562年生 Category:1581年没.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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三条実行

三条 実行(さんじょう さねゆき)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公実の次男。三条家の始祖。.

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三条実顕

三条 実顕(さんじょう さねあき、宝永5年5月29日(1708年7月16日) - 安永元年12月19日(1773年1月11日))は、江戸時代中期の公卿。主に中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三代にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで進んでいる。父は左近衛中将三条公兼。母は内大臣広幡豊忠の娘。妻は三条公充の娘。子に右大臣三条季晴、権大納言河鰭実祐(河鰭季満養子)、権大納言中山忠尹室、養子に権大納言三条西延季がいる。初名は利季。 正徳4年(1714年)に叙爵。享保4年(1719年)に叔父である三条公充の養子に入った。三条家の嫡男として早いスピードで昇進し、侍従・左近衛中将・権中納言・踏歌節会外弁・権大納言などをへて、寛延2年(1749年)に右近衛大将、内大臣となった。翌年辞職。宝暦4年(1754年)には従一位・右大臣に任じられるも辞職する。.

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三条実親

三条 実親(さんじょう さねちか)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。従一位右大臣。白川、又は後三条と号す。太政大臣三条公房の長男。.

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三条実香

三条 実香(さんじょう さねか、文明元年(1469年) - 永禄2年2月25日(1559年4月2日))は室町時代の公卿。三条公敦の子。子には三条公頼、三条香子(伏見宮貞敦親王室、伏見宮邦輔親王母)がいる。号は後浄土寺。法名は諦空。.

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三条実起

三条 実起(さんじょう さねおき、宝暦6年11月14日(1756年12月5日) - 文政6年9月7日(1823年10月10日))は、江戸時代後期の公卿。主に桃園天皇(116代)から光格天皇(119代)にわたって朝廷に仕え、官位は従一位右大臣まで昇っている。父は右大臣三条季晴。母は彦根藩主井伊直定娘。妻は彦根藩主井伊直幸の養女(徳島藩主蜂須賀宗鎮の娘)。息子に内大臣三条公修、右近衛権少将押小路実茂(押小路公岑養子)、鹿園空晁(興福寺喜多院住職)。娘に沖君(権大納言滋野井公敬室)。養子として左大臣二条治孝の子女数名がいる。 宝暦7年(1757年)に従五位上に叙爵。その後清華家三条家の当主として早いスピードで昇進し、明和元年(1764年)には従三位に達して公卿に列する。左近衛中将・踏歌節会外弁・権中納言・権大納言などを歴任し、寛政4年(1792年)には右近衛大将・右馬寮監となる。寛政8年(1796年)に内大臣となるも翌年には辞した。文化11年(1814年)に右大臣になるも同年中に辞す。その後は「転法輪前右大臣」と称された。文政6年(1823年)に薨去。享年68。.

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三条実重

三条 実重(さんじょう さねしげ)は鎌倉時代中期から後期の公卿。従一位太政大臣。三条入道相国と号す。父は内大臣三条公親、母は従一位左大臣洞院実雄の女。.

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三条実量

三條 實量(さんじょう さねかず)は、日本の室町時代の公卿。.

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三条実治

三条 実治(さんじょう さねはる、慶安3年12月6日(1651年2月6日)‐享保9年8月12日(1724年9月28日))は、江戸時代前期から中期の公卿。 おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三代にわたり仕え、従一位左大臣まで昇る。初名は季房・実通といった。実治は元禄2年(1689年)から薨去までの名前。号は暁心院観照。父は右大臣三条公富。母は不詳。子に左近衛中将三条公兼・権大納言三条公充、娘に彦根藩主井伊直通室がいる。 明暦元年(1655年)に叙爵。清華家三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛文8年(1668年)には従三位となり公卿に列している。権中納言、権大納言、神宮伝奏、踏歌節会外弁などを歴任。天和3年(1683年)には霊元天皇中宮鷹司房子の中宮大夫となり、貞享2年(1685年)には右近衛大将を兼務。貞享4年(1687年)に中宮大夫を辞した。元禄6年(1693年)に内大臣に就任したが、同年のうちに右近衛大将と内大臣を辞職。さらに宝永元年(1704年)には右大臣となったが、やはりすぐに辞職している。宝永2年(1705年)に従一位を授与された。正徳5年(1715年)に左大臣となったが、やはりすぐに辞職。享保9年(1724年)に薨去した。享年75。.

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三条実房

三条 実房(さんじょう さねふさ)は平安時代末期および鎌倉時代の公卿。左大臣正二位。三条入道左府と号す。父は内大臣三条公教。母は権中納言藤原清隆の娘。室は左大臣藤原経宗の娘。子に公房、公宣、公氏、公俊などがおり、子孫から多くの三条家庶流が生まれた。.

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三条実春

三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年(大正2年)3月2日『平成新修旧華族家系大成』上巻、697-698頁。 - 1990年(平成2年)6月30日)は、日本の神職、華族。貴族院公爵議員。.

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三条実教

三条 実教(さんじょう さねのり、天文7年(1538年)- 天文23年(1554年))は、戦国時代の公家。 転法輪三条家(三条家)当主。転法輪三条家の分家正親町三条家の当主・公兄の子息である。天文20年(1551年)、先代の当主・転法輪三条公頼が庇護を受けていた大内義隆とともに殺されたあと、実子のなかった公頼の養子というかたちをとって13歳で跡を継いだ。官職は左近衛中将、位階は従四位上にいたったが、16歳で早世した。実教の死後、転法輪三条家はいったん断絶し、永禄12年(1569年)にいたって正親町三条家の分家三条西家の当主・実枝の子息実綱が再興した。 転法輪三条家の当主は、実行→公教→実房→公房→…と「公」のつく名と「実」のつく名を1代ごとに交互に名づけていく慣行であり、実教の次の当主が実綱を名乗ったことは、実教が転法輪三条家の歴代当主から抹殺されたことを意味する。なぜそのような措置がとられたのか、理由は不明である。 なお、江戸時代に入って、花園家を創始した花園公久と、小倉家を再興した小倉公根は、表向きは公兄の孫・実教の子息ということになっているが、いずれも実教の死後20年以上も過ぎた天正年間の誕生であって、実際には実教の子息ではない。公久・公根兄弟の実の父親は、正親町三条家の血縁者と推測されるが、何者なのかまったくわかっていない。 Category:室町・安土桃山時代の公家 さねのり さねのり Category:1554年没.

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三条公富

三条 公富(さんじょう きんとみ、元和6年1月2日(1620年2月15日) - 延宝5年6月12日(1677年7月11日))は、江戸時代前期の公卿。おもに明正天皇(109代)・後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)・霊元天皇(112代)の四代にわたって仕え、従一位右大臣に叙任された。父は左大臣三条実秀。母は権大納言日野資勝娘。妹に延岡藩主内藤義概室がいる。妻は対馬府中藩主宗義成の娘・勝。子に左大臣三条実治。女子に法雲院(土佐藩主山内豊昌室)、高槻藩主永井直時室らがいる。号は唯心院。 寛永4年(1627年)に従五位上に叙爵してから清華家嫡男として速いスピードで昇進し、寛永14年(1637年)左近衛中将に叙されるとともに元服。寛永16年(1639年)には従三位権中納言となり、公卿に列した。権大納言・踏歌節会外弁・右近衛大将などを歴任。明暦2年(1656年)に内大臣に叙せられ、万治元年(1658年)までつとめた。寛文4年(1664年)に右大臣に任ぜられるも翌年辞職。寛文12年(1672年)に従一位を授与された。.

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三条公広

三条 公広(さんじょう きんひろ、天正5年2月4日(1577年2月21日) ‐ 寛永3年10月7日(1626年11月25日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。主に後陽成天皇(107代)・後水尾天皇(108代)の二代にわたり朝廷に仕えた。内大臣三条西公国の次男。母は左大臣西園寺公朝の娘。兄に右大臣実条が、子に左大臣実秀がいる。正室は権中納言正親町三条公仲の娘。初名は公盛(きんもり)。 叔父の三条実綱の養子となって三条家の家督を相続した。天正9年(1581年)1月に叙爵。以降累進して、慶長2年(1597年)1月に従三位に昇り、公卿に列する。同4年(1599年)6月公広と改名。同9年(1604年)8月正三位、同11年(1606年)1月権中納言、同14年(1609年)1月従二位、同17年(1612年)12月権大納言に叙任。さらに同19年(1614年)1月に正二位へと進んだが、大臣になる前の寛永3年(1626年)10月に薨去した。享年50。惜しまれて死後に内大臣を追贈されている。 きんひろ きんひろ Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:江戸時代の公家 Category:1577年生 Category:1626年没.

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三条公忠

三条 公忠(さんじょう きんただ)は南北朝時代の公卿。従一位内大臣。後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。 子には太政大臣に至った実冬、藤原(三条)厳子(通陽門院)、実苑、実禅がいる。.

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三条公修

三条 公修(さんじょう きんおさ、安永3年8月1日(1774年9月6日) - 天保11年9月7日(1840年10月2日))は、江戸時代の公卿。官位は従一位内大臣。 藤原北家閑院流の嫡流で、清華家の一つ三条家の出身。父は三条実起、母は彦根藩主井伊直幸の養女・美子。兄弟に押小路実茂、鹿園空晁、三条西実勲室がいる。妻は一条輝良の娘、和子(真観院)。子に実万、実師がいる。 天明4年2月16日(1784年4月5日)に従三位に叙任する。その後、従一位内大臣に至る。天保11年(1840年)、薨去。享年67(満66歳没)。 Category:江戸時代の公家 きんおさ Category:1774年生 Category:1840年没.

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三条公冬

三條 公冬(さんじょう きんふゆ)は、日本の室町時代の公卿。初名は公量(きんかず)。.

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三条公兼

三条 公兼(さんじょう きんかね、延宝7年8月16日(1679年9月20日) - 元文5年(1740年))は、江戸時代中期の公卿。主に東山天皇(112代)に仕え、官位は従三位左近衛中将まで昇った。父は左大臣三条実治。弟に権大納言三条公充がいる。妻は内大臣広幡豊忠の娘。子に右大臣三条実顕がいる。 元禄2年(1689年)に叙爵。以降、三条家の嫡男として速いスピードで昇進し、元禄10年(1697年)には従三位となり公卿に列しているが、元禄13年(1700年)になって突然官位を停止させられた。理由は不詳だが、朝廷内で大きな出来事のあった年でもないので彼個人の問題であると考えられる。弟の公充が三条家を相続し、公兼の子の実顕は公充の後を受けて三条家を相続した。.

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三条公充

三条 公充(さんじょう きんあつ、元禄4年1月23日(1691年2月20日) - 享保11年9月17日(1726年10月12日))は、江戸時代中期の公卿。東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の二代にわたり仕えたが、若くして薨去したため、三条家の当主でありながら官位は従二位権大納言止まり。父は左大臣三条実治。兄に左近衛中将三条公兼。妻は彦根藩主井伊直興の娘。娘に三条実顕室。 兄公兼が元禄13年(1700年)に突然官位を止められたため、かわって三条家の当主として叙爵。朝廷へ出仕することとなった。以降累進して、宝永2年(1705年)に従三位となり公卿となる。権中納言や踏歌節会外弁を経て、享保2年(1717年)に権大納言に任じられたが、享保4年(1719年)に辞職した。享保11年(1726年)に36歳の若さで薨去。甥で公兼の子実顕が三条家を相続した。.

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三条公睦

三条 公睦(さんじょう きんむつ、文政11年5月7日(1828年6月18日) - 嘉永7年2月11日(1854年3月9日))は、江戸時代後期の公卿。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の二朝にわたって仕え、従二位権中納言まで昇った。父は内大臣三条実万。母は土佐藩主山内豊策の娘。弟に明治維新の功臣三条実美(内閣総理大臣が設置されるまでの日本政府の首相である右大臣・太政大臣の地位にあった政治家)がいる。妻は土佐藩主山内豊資の養女(山内豊著の娘)・恒姫。子に東三条公恭がいる。 文政12年(1829年)に叙爵してから、清華家三条家の出身として速いスピードで昇進し、天保12年(1841年)には従三位となり、公卿に列する。嘉永5年(1852年)には従二位権中納言となったが、その二年後には薨去した。享年27。三条家は弟の実美が相続した。 なお、三条家を相続した実美は当初、兄公睦の子の公恭を継嗣としていたが、公恭の素行が悪かったため、これを廃嫡して実子の公美に三条家を相続させることにした。.

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三条公美

三条 公美(三條、さんじょう きみよし / きんよし、1875年(明治8年)5月8日『平成新修旧華族家系大成』上巻、697-698頁。 - 1914年(大正3年)1月30日)は、明治から大正期にかけての華族。貴族院公爵議員、麝香間祗候。旧姓・東三条。.

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三条公頼

三条 公頼(さんじょう きんより、1495年(明応4年) - 1551年9月30日(天文20年9月1日))は、戦国時代の公卿。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の流れを汲む閑院流嫡流の三条家の当主。太政大臣三条実香の子。官位は従一位左大臣。後龍翔院左大臣を号す。.

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三条公行

三条 公行(さんじょう きんゆき)は、平安時代末期の公卿。太政大臣三条実行の次男。参議従三位右兵衛督。三条と号す。内大臣三条公教の同母弟である。.

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三条公親

三条 公親(さんじょう きんちか)は鎌倉時代の公卿。後三条入道内府または白川前内府と号す。正二位内大臣。父は従一位右大臣三条実親。母は従一位太政大臣西園寺公経の女。.

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三条公輝

三条 公輝(さんじょう きんてる、明治15年(1882年)12月2日 - 昭和20年(1945年)11月10日)は、明治から昭和戦前期にかけての華族、貴族院議員。公爵。東京帝国大学卒業。.

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三条公茂

三条公茂(さんじょう きんしげ)は鎌倉時代後期の公卿。押小路内府と号す。従一位内大臣。父は太政大臣三条実重、母は内大臣中院通成の娘。異母弟である実忠を養子とした。 .

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三条公泰

三条公泰(さんじょう きんやす)は鎌倉時代中期の公卿。正二位権中納言。右大臣三条実親の二男。母は太政大臣西園寺公経の娘。内大臣三条公親の同母弟である。子には共に参議に至った実盛と実永、権中納言に至った公雅、実海、公聖、実尊、実顕、忠海、行讃、女子(後二条天皇後宮、祐助法親王母)がいる。.

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三条公房

三条 公房(さんじょう きんふさ、治承3年(1179年) - 建長元年8月16日(1249年9月23日))は鎌倉時代の公卿。左大臣・三条実房の長男。官位は従一位・太政大臣。浄土寺相国と呼ばれ、三条家が清華家となる基礎を築いた。.

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三条公敦

三条 公敦(さんじょう きんあつ)は、室町時代から戦国時代の公卿。 左近衛中将・尾張権守・権中納言・権大納言などを経て、文正元年(1466年)に右近衛大将、文明7年(1475年)には左近衛大将、内大臣となった。さらに文明8年(1476年)には従一位、文明11年(1479年)に右大臣に任じられるも翌年には辞職。文明13年(1481年)、43歳で出家した。 きんあつ Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1439年生 Category:1507年没.

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三条公教

三条 公教(さんじょう きみのり/さんじょう きんのり)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院家流三条家当主。太政大臣三条実行の子。正二位・内大臣。.

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三条西実枝

三条西 実枝(さんじょうにし さねき)は、戦国時代から安土桃山時代の公家・歌人・古典学者。.

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三条西家

三条西家(さんじょうにし け)は、藤原北家 閑院流 嫡流・転法輪三条家の分家である正親町三条家のそのまた分家で、大臣家の家格を持つ公家。西三条家(にしさんじょう け)ともいう。正親町三条家の分家でありながら家格は本家のそれをしのぎ、三大臣家の中でも別格とみなされていたばかりか、室町時代から江戸時代初期にかけて右大臣をたびたび出したため、その家格は清華家とほぼ同格とみなされていた。閑院家嫡流の転法輪三条家にもたびたび養子を出したため、戦国時代以後の転法輪三条家の直接の血統は三条西家のものとなっている。江戸時代の家禄は502石。 維新までは三条西と西三条の双方を比較的自由に使っており、明治になって17代公允が伯爵に授爵されたのを機にこれを西三条に一本化したが、しばらくしてこれを三条西に替えている。通字は「公」「実」「季」。分家に押小路家・武者小路家・高松家がある。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久世郡

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乙訓郡

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二尊院

二尊院(にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野の二尊院門前にある天台宗の寺院。山号は小倉山。正式には小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)という。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。 総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅葉の名所として知られる。また奥には百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。.

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳大寺家

徳大寺家(とくだいじけ、正字体:德大寺)は、日本の公家、藤原氏北家閑院流。公家としての家格は清華家で、三条家や西園寺家とは兄弟筋にあたる。明治以降は華族として徳大寺実則が侯爵を授けられ、のちにその功により公爵に陞爵した。家業は笛。家紋は木瓜花菱浮線綾(徳大寺家花角)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。 家祖の左大臣徳大寺実能は、閑院流の流祖である太政大臣藤原公季の五世孫・権大納言藤原公実の四男で、平安時代末期に崇徳・後白河両帝の国母となった待賢門院の同母兄にあたる。実能は葛野郡衣笠岡(現在の京都市北区)の西南麓に山荘を営み、その中に持仏堂を建ててこれを得大寺あるいは徳大寺と呼んでいたが、のちにはこの山荘自体が徳大寺殿と呼ばれるようになり、これが家名の由来となった。 江戸時代には禁裏北の公家屋敷の一角、今出川烏丸東入北側に屋敷を構えていた。その跡地には明治になって華族会館が建てられ、戦後は同志社大学が取得して同大学大学院の図書館が建てられたが、烏丸今出川交差点と京都市バスの烏丸今出川停留所の間に今日もたたずむ旧徳大寺家の表門がかろうじて往時の名残をその地に留めている。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内閣総理大臣

内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、prime minister of Japan)とは、日本国において行政権の属する内閣の首長たる国務大臣である(憲法第66条1項)。したがって、日本国における政府の長である。文民(憲法第66条2項)かつ国会議員の中から国会の議決で指名され(憲法第67条)、これに基いて天皇によって任命される(憲法第6条)。略称は総理大臣ないしは総理。一般的には首相、またはまれに宰相とも言う。現任は安倍晋三。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公爵

公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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笛(ふえ)は気流によって音を出す器具一般を指す。元来「吹き鳴らすもの」を意味し、現在では楽器、玩具、合図、警報など広い用途で用いられる。特にエアリード構造のものを指すことが多い。 語源は吹柄、吹枝(いずれもフキエないしフクエ)といわれるが異説も多い。文献上の初出は日本書紀の「天之鳥笛」であるが詳しい形状などは不明である。万葉仮名では「輔曳」と表記された。.

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紀伊郡

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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花園家

花園家(はなぞのけ)は、藤原北家閑院流正親町三条支流の公家である。平安時代末期の内大臣正親町三条公兄の次男・参議実教を祖とする。家格は羽林家。家学は琵琶。江戸時代の家禄は150石。明治維新後は公季が子爵に叙せられた。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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華族令

華族令(かぞくれい)は、日本の法令。1884年(明治17年)7月7日に制定された明治17年宮内省達無号と、それを廃して1907年(明治40年)に制定された皇室令がある。明治40年制定の華族令(明治40年皇室令第2号)は昭和22年(1947年)に廃止された。.

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西園寺家

西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用。.

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香道

香道(こうどう)とは、沈水香木と言われる東南アジアでのみ産出される天然香木の香りを鑑賞する芸道である。近年、文化の復興目覚ましい中国や台湾、韓国などで「中国香道」「台湾香道」「韓国香道」などと「香道」という文言を使用しているが、「香道」自体は日本独自の芸道である。香道は禅の精神を大事にし、礼儀作法・立居振舞など約束事の多い世界であり、上達するにつれ古典文学や書道の素養も求められる。しかし、香道の原点は何よりも、香りそのものを楽しむことにある。 香道においては香を「聞く」と表現するのが正式であり、「嗅ぐ」という表現は不粋とされる。香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)と、香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素である。香木は生き物、その一つ一つに魂が宿ると考え、この稀少な天然香木を敬い大切に扱う。大自然の恵み、地球に感謝し、そして彼らが語りかけてくる事を聞き取らなければならないと考えるのである。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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鹿園実博

鹿園 実博(實博、しかぞの さねひろ、1860年7月18日(慶応2年5月20日『平成新修旧華族家系大成』上巻、703頁。)- 1922年(大正11年)2月27日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73頁。)は、明治・大正期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧名・亥五郎『大日本華族大鑑』79頁。。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原公実

藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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長門国

長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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陶晴賢

陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。 晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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林博太郎

林 博太郎(はやし ひろたろう、1874年(明治7年)2月4日 - 1968年(昭和43年)4月28日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の教育学者、実業家、政治家。伯爵、文学博士。.

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東三条実敏

東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年5月5日 - 1935年3月13日『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)p.387)は、明治から昭和期にかけての華族。正四位、男爵。.

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東三条公恭

東三条 公恭(ひがしさんじょう きんあや、嘉永6年12月18日(1854年1月16日) - 明治34年(1901年)1月26日)は、幕末期の公家、明治時代の華族。後に平民身分とされた(後述)。 一時期まで三条公恭と名乗っていた。.

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正親町三条家

正親町三条家(おおぎまちさんじょう け、旧字体:–三條–)、現在の嵯峨家は、大臣家の家格をもつ公家。藤原北家閑院流 三条家庶流。左大臣三条実房の三男公氏を家祖とする。 実房の長男公房が継承した嫡流三条家(転法輪三条家)と区別するために公氏流を正親町三条と呼ぶようになったものだが、この家名が定着するのは7代公豊の頃だと考えられている。「正親町」は邸宅が正親町東洞院に面していたことに由来する。なお家祖の公氏はこの正親町三条のほかにも、嵯峨(さが)や西郊(にしむら)を名乗ることもあった。このことを先例として、明治時代になると漢字5文字の長い家名が至便性に劣ることを痛感した28代実愛は、以後その家名を嵯峨家(さが け)と改めている。墓所は二尊院(京都市右京区)。 5代公秀の孫に崇光天皇と後光厳天皇、25代実同・26代公則の子孫に大正天皇がおり、現皇室に繋がる系譜である。.

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正親町三条公兄

正親町三条 公兄(おおぎまちさんじょう きんえ、明応3年(1494年) - 天正6年1月20日(1578年2月26日))は、室町時代後期(戦国時代)の公卿。後土御門天皇(103代)から正親町天皇(106代)の四帝にわたり仕えた廷臣で、官位は正二位内大臣まで進んだ。 父は内大臣正親町三条実望。母は今川義忠女。子息に侍従正親町三条実兄、権中納言正親町三条実福、左近衛中将三条実教、松陰居士(四条隆憲・櫛笥隆致の父)がいる。娘に三条西実枝室がいる。 生後すぐに叙爵。以降、侍従・右近衛少将・右近衛中将・蔵人頭を経て、永正15年(1518年)には参議となり、公卿に列する。その後、備前権守・左近衛中将を歴任したが、経済的に困窮し、天文9年(1540年)より今川氏との縁を頼って駿河国に下った。天文13年(1544年)に一度帰京して朝廷へ出仕。参議に叙せられ、公卿に列した。ついで権中納言となり、天文15年(1546年)には権大納言となったが、天文16年(1547年)には再び甲斐国へ下向してしまった。のちふたたび帰京し、天文21年(1552年)には大宰権帥に任じられ、さらに天文23年(1554年)には内大臣を務めた。たびたび地方に下向して朝廷への奉仕を放棄しながら、正親町三条家の極官にまで官位昇進を遂げたことは、当時の朝廷の人事管理や廷臣統制がいかにいいかげんになものであったかを物語る。.

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正親町三条公氏

正親町三条公氏(おおぎまちさんじょう きんうじ)は、鎌倉時代の公卿。正二位権大納言。三条大納言と号す。左大臣三条実房の三男で、正親町三条家の祖。三条の他、嵯峨および西郊とも称す。兄に三条公房、姉小路公宣らがいる。子に正親町三条実蔭等。 なお、明治維新後に正親町三条家は本家の三条家(転法輪三条家)と区別するために家名を「嵯峨」と改称したが、これは公氏の別号に由来している(公氏のもうひとつの別号である西郊を称する公氏の子孫の公家もかつてあった)。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河鰭実英

河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月12日 - 1983年(昭和58年)2月23日)は、日本の服飾史学者。日本服飾史が専門。.

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河鰭実文

河鰭 実文(かわばた さねふみ)は、日本の公家、政治家。位階は従二位。爵位は子爵。 元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候などを歴任した。.

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清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

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滋野井実国

滋野井 実国(しげのい さねくに、實國)は平安時代末期の公卿、歌人。滋野井家の祖。三条大納言と号す。藤原実国とも。.

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滋野井家

滋野井家(しげのいけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流(公季流)。家業は神楽。江戸時代の家禄は180石。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸田忠綱

戸田 忠綱(とだ ただつな)は、下野高徳藩の第2代藩主。後に下総曾我野藩知事。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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曾我野藩

曾我野藩(そがのはん)は、明治初期に下総国千葉郡曾我野村(現在の千葉県千葉市中央区蘇我)に成立した藩。藩庁は曾我野陣屋である。.

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1884年

記載なし。

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