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即位灌頂

索引 即位灌頂

即位灌頂(そくいかんじょう)とは、11世紀ないし13世紀から江戸時代にかけて、天皇の即位式の中で行われた密教儀式で、その内容は秘儀とされていた。一般的には即位式の前に摂関家、主に二条家の人物から天皇に対して印相と真言が伝授される「印明伝授」と呼ばれる伝授行為と、即位式の中で天皇が伝授された印明を結び、真言を唱える実修行為を併せて即位灌頂と呼んでいるが、印明伝授と即位灌頂の実修を明確に区別する研究者もある。ここでは印明伝授と即位灌頂を併せて説明する。.

188 関係: 印相即位の礼南北朝時代 (日本)塗油大嘗祭大納言大覚寺統大江匡房大日如来天台宗天台座主天孫降臨天皇天照大神太閤孝明天皇室町幕府室町時代家業密教小川剛生崇光天皇両界曼荼羅両部神道中御門天皇中国万有引力三種の神器一条実経一条冬経一条経嗣九条師教九条道家平安時代二条吉忠二条家二条宗基二条尹房二条師忠二条師嗣二条師良二条康道二条兼基二条光平二条綱平二条道平二条重良二条良基二条良実...二条治孝二条持基二条持通二条昭実二条斉信二条斉敬二条晴良亀山天皇仁孝天皇仏教伏見天皇伝法灌頂征夷大将軍徳川秀忠後奈良天皇後宇多天皇後小松天皇後三条天皇後二条天皇後伏見天皇後土御門天皇後円融天皇後光厳天皇後光明天皇後花園天皇後西天皇後醍醐天皇後陽成天皇後柏原天皇後桜町天皇後桃園天皇後水尾天皇後深草天皇地動説地球球体説北朝 (日本)チャクリー王朝バラモンバラモン教ラーマラーマ1世ラーマーヤナヴィシュヌヴェーダアユタヤ王朝インドシヴァタイ王国八十島祭光厳天皇光格天皇光明天皇国学灌頂神仏習合神皇正統記神道称光天皇穆王 (周)網野善彦真言真言宗花園天皇荼枳尼天須弥山西園寺寧子観応の擾乱高御座豊臣秀吉足利義満鷹司兼忠近衛基熙近衛家近衛家久近衛家熙近衛信尹近衛前久霊元天皇院政東山天皇桜町天皇桃園天皇正親町天皇江戸幕府江戸時代治天の君法華経持明院統本地垂迹有職故実明正天皇明治天皇新嘗祭摂家扇子11世紀1246年1288年1298年1301年1308年1318年1332年1337年1349年1353年1374年1383年13世紀1414年1429年1465年1521年1534年1560年1586年15世紀1611年1630年1643年1656年1663年1675年1687年1710年1735年1739年1747年1763年1771年1780年1817年1847年1868年9世紀 インデックスを展開 (138 もっと) »

偈(げ、gāthā)とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。.

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印相

印相(いんそう、いんぞう、mudrā)は、仏教において、手の指で様々な形を作り、仏・菩薩・諸尊の内証を標示するもの。印(いん)、印契(いんげい)、密印、契印ともいう。修行者が本尊と渉入し融合するために、その本尊の印相を結ぶこともある。もともとは、印相に関する定まった軌則は無かったが、密教の発達に伴って相が定まり、意味が説かれるようになった。儀軌の成立した時代の違いや地方の別によって、印相には差異がある。.

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即位の礼

即位の礼で天皇が使用する高御座 即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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塗油

塗油(とゆ、Anointing)には、以下のケースがある。.

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大嘗祭

大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じたが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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大江匡房

大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。.

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大日如来

胎蔵曼荼羅の胎蔵大日如来(中央) 胎蔵曼荼羅 金剛界曼荼羅 大日如来(だいにちにょらい、Mahāvairocana)は、真言密教の教主である仏であり、密教の本尊。一切の諸仏菩薩の本地。.

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天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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天孫降臨

千穂河原の天孫降臨神籬斎場 天孫降臨(てんそんこうりん)とは、日本神話において、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。 邇邇藝命は天照大神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をし、邇邇藝命は筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降り立ったという、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天照大神

天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本国民の総氏神ともされる。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。 天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされる。神社としては伊勢神宮が特に有名『八百万の神々』。.

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太閤

太閤(たいこう)、正式名称太閤下は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指す。敬称は「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。 また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という。.

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孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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家業

家業(かぎょう).

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密教

密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。中国語圏では一般に密宗(ミイゾン)という。.

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小川剛生

小川 剛生(おがわ たけお、1971年 - )は、日本の国文学者。慶應義塾大学教授。専攻は中世和歌史。東京都出身。.

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崇光天皇

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.

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両界曼荼羅

両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、日本密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅である。.

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両部神道

金剛界曼荼羅 胎蔵曼荼羅 両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想である。両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)ともいう。.

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中御門天皇

中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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万有引力

万有引力(ばんゆういんりょく、universal gravitation)または万有引力の法則(ばんゆういんりょくのほうそく、law of universal gravitation)とは、「地上において質点(物体)が地球に引き寄せられるだけではなく、この宇宙においてはどこでも全ての質点(物体)は互いに gravitation(.

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三種の神器

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。中でも八尺瓊勾玉・草薙剣は併せて剣璽と称される。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。.

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一条実経

一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。 九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。.

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一条冬経

一条 冬経 (いちじょう ふゆつね )は、江戸時代中期の公卿。霊元天皇の第一の側近であり、近衛基熙と権勢を争った。初名は内房(うちふさ)、晩年には兼輝(かねてる)と称する。官位は従一位・関白及び摂政。円成寺と号した。父は、右大臣一条教輔。.

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一条経嗣

一条 経嗣(いちじょう つねつぐ、正平13年/延文3年(1358年) - 応永25年11月17日(1418年12月14日))は、室町時代前期の公卿(関白)。関白二条良基の三男で、一条経通の猶子として一条家を継いだ。子に一条兼良・僧雲章一慶がいる。.

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九条師教

九条 師教(くじょう もろのり)は、鎌倉時代後期の公卿。関白九条忠教の一男で、母は西園寺公相の女。正室は亀山天皇皇女(欠名)で、子に道教・覚尊(興福寺別当)がいる他、実弟房実を養子とした。号に己心院。浄土寺摂政。.

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九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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二条吉忠

二条 吉忠(にじょう よしただ)は、江戸時代中期の公卿。関白左大臣二条綱平の子で、母は霊元天皇皇女・栄子内親王である。安祥院と号する。「吉」の字は将軍徳川綱吉からの偏諱。.

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二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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二条宗基

二条 宗基(にじょう むねもと、享保12年5月20日(1727年7月8日) - 宝暦4年1月18日(1754年2月9日))は江戸時代の公卿。父は九条幸教。養父は二条宗熙。母は徳川三千君(尾張藩四代藩主徳川吉通の長女)。子に二条重良、二条治孝、五千姫(基子。本願寺文如室)がいる。号は後敬心院。元文4年(1739年)正月、将軍家より諱を得るという二条家の伝統に則り、養父同様、将軍徳川吉宗から偏諱(「宗」の字)を授かる。昭和天皇は宗基の来孫に当たる。.

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二条尹房

二条 尹房(にじょう ただふさ)は、戦国時代の公家。二条家第13代目当主。父は関白二条尚基。母は家女房。.

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二条師忠

二条師忠(天子摂関御影より) 二条 師忠(にじょう もろただ、建長6年(1254年) - 興国2年/暦応4年1月14日(1341年1月31日))は、鎌倉時代の公卿。関白二条良実の三男。兄道良の早世により二条家を継ぐ。子に二条冬通が、弟で養継嗣に二条兼基がいる。従一位関白左大臣。号に香園院関白。.

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二条師嗣

二條 師嗣(にじょう もろつぐ)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての公卿。.

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二条師良

二条 師良(にじょう もろよし、貞和元年(1345年)- 永徳2年/弘和2年5月1日(1382年6月12日))は、南北朝時代の公卿。従一位。関白。左大臣。二条良基の嫡男。 北朝の後光厳天皇、後円融天皇の2代にわたって関白を務める。晩年に発狂した。.

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二条康道

二条 康道(にじょう やすみち)は、江戸時代前期の公卿・藤氏長者。藤原氏摂関家二条家の第16代当主。摂政・左大臣に昇った。関白九条幸家の長男。母は豊臣完子。養父は大叔父二条昭実。九条道房、松殿道基らの兄。幼名は松鶴。 慶長18年(1613年)、正五位下に叙せられて元服し、徳川家康より「康」の字を贈られて康道と名乗る(これ以降斉敬の代まで徳川将軍家から偏諱を賜るようになった)。 寛文6年(1666年)、薨去。享年60。 正室は貞子内親王(後陽成天皇皇女、後水尾天皇同母妹)。子女に二条光平、瑞照院日通(瑞龍寺三世)、華山仙禅師(慈受院五世)がいた。.

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二条兼基

二条 兼基(にじょう かねもと)は、鎌倉時代の公卿。関白二条良実の子。兄師忠の養子となり二条家を継ぐ。正室は従一位禖子(九条忠教の娘)。子に二条道平らがいる。従一位。号に光明照院関白。.

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二条光平

二条 光平(にじょう みつひら、寛永元年12月13日(1625年1月21日) - 天和2年11月12日(1682年12月10日))は、江戸時代前期の公卿。摂政二条康道の子。母は貞子内親王(後陽成天皇の皇女、後水尾天皇同母妹)。正室は賀子内親王(後水尾天皇第六皇女、明正天皇同母妹)。子に甲府藩主徳川綱重室がおり、二条綱平(再従弟九条兼晴の子)を養子とした。「光」の字は将軍徳川家光(綱重の父)からの偏諱。.

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二条綱平

二条 綱平(にじょう つなひら、寛文12年4月13日(1672年5月10日) - 享保17年2月6日(1732年3月2日))は江戸時代の関白。父は九条兼晴。母は家女房。養父は二条光平。号は敬信院。子に吉忠がいる。室は栄子内親王(霊元天皇第三皇女、母は中宮鷹司房子)。「綱」の字は将軍徳川家綱からの偏諱、「平」は養父・光平の1字である。.

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二条道平

二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。.

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二条重良

二条 重良(にじょう しげよし、宝暦元年11月8日(1751年12月25日) - 明和5年7月2日(1768年8月13日))は江戸時代の公家。父は二条宗基。母は家女房。正二位、権大納言。号は維則院。「重」の字は将軍徳川家重からの偏諱。.

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二条良基

二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。 最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度(理由は後述))にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。.

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二条良実

二条 良実(にじょう よしざね)は、鎌倉時代中期の公卿。通称は福光園関白(ふっこうえん かんぱく)。極位極官は従一位関白左大臣。 摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経、子に左大臣二条道良、権大納言二条教良、関白左大臣二条師忠、非参議二条経通、摂政左大臣二条兼基がいる。.

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二条治孝

二条 治孝(にじょう はるたか、宝暦4年9月15日(1754年10月30日) - 文政9年10月6日(1826年11月5日))は江戸時代後期の公卿。父は二条宗基。母は家女房。正室は嘉姫(水戸藩5代藩主徳川宗翰の娘)。側室に信子(権大納言樋口基康の娘)。子女は二条斉通、九条輔嗣、西園寺寛季、二条斉信、九条尚忠(輔嗣養子)、隆子(乗蓮院、徳川治国室)、親子(本願寺本如光摂室)、保子(徳川斉敦正室)、福子(黒田斉清正室)、千万(鍋島直与継室)、最子(松平頼縄継室)など。其の他にも夭折した子女がいる。号は法寿金剛院。「治」の字は将軍徳川家治からの偏諱。 昭和天皇の高祖父である。.

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二条持基

二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。.

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二条持通

二条 持通(にじょう もちみち)は、日本の室町時代の公卿。.

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二条昭実

二条 昭実(にじょう あきざね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。関白、准三宮。摂関家二条家の当主。織田信長の養女・実娘を娶ったのをはじめ、豊臣秀吉・徳川家康など天下人との接触が多かった。.

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二条斉信

二条 斉信(にじょう なりのぶ、天明8年3月5日(1788年4月10日) - 弘化4年4月26日(1847年6月9日))は江戸時代後期の公卿。父は二条治孝。母は徳川宗翰女。子は二条斉敬、二条広子(有栖川宮幟仁親王妃)など。号は成徳院。室は徳川従子(徳川治紀長女)。「斉」の字は将軍徳川家斉からの偏諱。.

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二条斉敬

二条 斉敬(にじょう なりゆき、文化13年9月12日(1816年11月1日) - 明治11年(1878年)12月5日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての公卿。藤原北家摂関家の二条家当主。日本史上最後の関白であり、人臣としては最後の摂政。.

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二条晴良

二条 晴良(にじょう はるよし / はれよし)は、戦国時代・安土桃山時代の公卿・藤氏長者。二条家第14代目当主。父は関白・二条尹房。母は九条尚経の長女・経子。後明珠院と号す。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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仁孝天皇

仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇(在位:文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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伝法灌頂

伝法灌頂(でんぼうかんじょう)とは、阿闍梨という指導者の位を授ける儀式である。真言宗では、伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、はじめて正式な僧侶と認められる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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後奈良天皇

後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後円融天皇

後円融天皇(ごえんゆうてんのう、延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日))は、南北朝時代の北朝第5代天皇(在位:応安4年3月23日(1371年4月9日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日))。諱は緒仁(おひと)という。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後光明天皇

後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は、江戸時代前期の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮(すがのみや)、諱を紹仁(つぐひと)という。儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。.

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後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

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後西天皇

後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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後柏原天皇

後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。.

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後桜町天皇

後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年4月28日(1770年5月23日))。江戸時代、また今上天皇までで最後の女性天皇。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。という。.

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後桃園天皇

後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。 なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

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地動説

地動説(ちどうせつ)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星と共に太陽の周りを自転しながら公転している、という学説のこと。宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)に対義する学説であり、ニコラウス・コペルニクスが唱えた。彼以前にも太陽を宇宙の中心とする説はあった。太陽中心説(Heliocentrism)ともいうが、地球が動いているかどうかと、太陽と地球どちらが宇宙の中心であるかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。聖書の解釈と地球が動くかどうかという問題は関係していたが、地球中心説がカトリックの教義であったことはなかった。地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られたストーリーであり、事実とは異なる。 地動説の図.

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地球球体説

地球球体説(ちきゅうきゅうたいせつ、Spherical Earth)とは、地(大地)は球体である、とする説、考え方のことである。大地球体説(だいちきゅうたいせつ)とも。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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チャクリー王朝

チャクリー王朝(チャクリーおうちょう)は、1782年(タイ仏暦2325年)、乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝(ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ10世を含めて、10代の歴王が名を連ねる。チャクリーとは、ラーマ1世の改名前の名前である。.

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バラモン

バラモン階級の人々(インド・カルナータカ州) バラモン(brāhmaṇa、婆羅門)とは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。ブラフミン(brahmin)ともいう。.

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バラモン教

バラモン教の儀式(南インド) インドラの像(ネパール、16世紀) バラモン教(ばらもんきょう、Brahmanism)は、近代のイギリス人がバラモン中心の宗教を呼ぶために作った造語である大正大学綜合佛教研究所公開講座 2002年12月4日。実質的にヴェーダに説かれる祭祀を行う人々の宗教を指す意味で使われることが多い。.

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ラーマ

伝説の戦士『ラーマ』 ラーマ(デーヴァナーガリー:राम Rāma)は、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公。イクシュヴァーク王朝に生まれた薔薇色の瞳を持つ英雄で、インドの理想君主像であり、ダルマを体現したとされる。シーターを妃とした。 神話上、特にヴァイシュナヴァ派では、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)であるとされる。神の化身としてのラーマへの信仰は篤く、マハトマ・ガンディーは死の際に「ヘー・ラーム」(神よ)と言った。この「ラーム」とはラーマのことである。 王と妃カウサリヤーとの間に生まれ、異母兄弟にバラタ、ラクシュマナ、シャトルグナがいる。『ラーマーヤナ』によると、彼ら4兄弟はいずれもラークシャサ(羅刹)の王ラーヴァナを倒すために生まれたヴィシュヌ神の4分身であるという。大聖ヴィシュヴァーミトラの導きによって、ミティラーの王ジャナカを尋ね、そこで王の娘シーターと出会い、結婚する。しかしバラタ王子の母カイケーイー妃によって、14年の間アヨーディヤを追放された。ダンダカの森でラーヴァナによってシーターを略奪され、これをきっかけにラークシャサ族との間に大戦争が勃発する。.

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ラーマ1世

ラーマ1世()はチャクリー王朝の初代のシャム国王。プッタヨートファーチュラーローク()とも呼ばれる。.

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ラーマーヤナ

『ラーマーヤナ』(Rāmāyana、サンスクリット:रामायण, Ramayana)は、古代インドの大長編叙事詩。ヒンドゥー教の聖典の一つであり、『マハーバーラタ』と並ぶインド2大叙事詩の一つである。サンスクリットで書かれ、全7巻、総行数は聖書にも並ぶ48,000行に及ぶ。成立は紀元3世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる。 この叙事詩は、ラーマ王子が、誘拐された妻シーターを奪還すべく大軍を率いて、ラークシャサの王ラーヴァナに挑む姿を描いている。ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」。 現代でも、ラーマーヤナは、絵画、彫刻、建築、音楽、舞踏、演劇、映画など多くの分野で、インドのみならず、当時同じサンスクリット圏であり古くからインド文化を取り入れてきた東南アジア一円に深く浸透し影響力を持っており、王権を強調するその内容は、支配階級のみならず、民衆の間でも広く親しまれている。 なお、編纂された紀元3世紀当時のクシャトリヤ勢力の台頭を反映し、この叙事詩で活躍する人物は全てクシャトリヤである。また、ラーマーヤナの核心部分は第2巻から第6巻とされ、その成立は紀元前4-5世紀頃で、第1巻と第7巻よりも古い。.

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ヴィシュヌ

ヴィシュヌ(विष्णु Viṣṇu)はヒンドゥー教の神である。ブラフマー、シヴァとともにトリムルティの1柱を成す重要な神格でありDavid White (2006), Kiss of the Yogini, University of Chicago Press, ISBN 978-0226894843, pages 4, 29、特に ヴィシュヌ派では最高神として信仰を集める, (1996), p. 17.

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ヴェーダ

ヴェーダ(वेद、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」は「知識」の意である。 バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが後世になって書き留められ、記録されたものである。 「ヴェーダ詠唱の伝統」は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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アユタヤ王朝

アユタヤ王朝(1351年 - 1767年)は現タイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪で、5つの王家にわかれる。三番目の王家(1569-1629)は、スコータイ朝の王家の末裔である タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国の富として重要であった。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われた。主に中国への米の輸出で国力を付けたほか、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えた。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けた独自の華やかな文化が開花した。.

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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シヴァ

ヴァ(; サンスクリット: 、「吉祥者」の意)はヒンドゥー教のである。現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人であり、特にシヴァ派では最高神に位置付けられている。 トリムルティ(ヒンドゥーの理論の1つ)ではシヴァは「破壊/再生」を司る様相であり、ブラフマー、ヴィシュヌとともに3柱の重要な神の中の1人として扱われているZimmer (1972) p. 124.

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タイ王国

タイ王国(タイおうこく、ราชอาณาจักรไทย )、通称タイ(ประเทศไทย )は、東南アジアに位置する君主制国家。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都はバンコク。 国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。 2014年にプラユット将軍率いる国軍が軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止し実権掌握以降、軍事独裁政権が継続している。 2016年10月13日にプーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王が崩御。 同年12月1日にワチラーロンコーンが国王に即位した。 2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された。.

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八十島祭

八十島祭(やそしままつり/やそじままつり/やそじまのまつり、八十嶋祭/八十島神祭)は、平安時代から鎌倉時代に天皇の即位儀礼の一環として難波津で行われた祭祀。現在は廃絶している。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光格天皇

光格天皇御胞塚、光格天皇の胞衣を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内 光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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国学

国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。.

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灌頂

頂(かんじょう, abhiṣeka, abhiṣecana)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。本項では密教における潅頂について述べる。.

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神仏習合

仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。.

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神皇正統記

『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。.

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神道

道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.

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称光天皇

光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。.

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穆王 (周)

穆王(ぼくおう)は周朝の第5代王。 昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。 彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、雲に乗って走る「騰霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。 また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。 また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。 Category:周の王 Category:紀元前940年没.

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右手に笏を持つ平清盛の石像 笏(しゃく)とは、日本において束帯の着用の際、右手に持つ細長い板である。.

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網野善彦

網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の歴史学者。専攻は中世日本史。.

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真言

真言(しんごん)とは、サンスクリット語のマントラ(मन्त्र )の訳語で、「(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意。『大日経』などの密教経典に由来し、浄土真宗を除く多くの大乗仏教の宗派で用いられる呪術的な語句である。 漢訳経典では、「真言」の他に「密言」、「呪」、「明呪」等と訳される「呪」は「咒」と書かれることもあるが、「咒」は「呪」の異体字(俗字)であり意味の違いもない。。.

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真言宗

右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう) - コトバンク/世界大百科事典、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。.

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花園天皇

花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。 伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の二つの皇統のうち持明院統に属する。.

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荼枳尼天

荼枳尼天(剣と宝珠を持つ)仏像図彙 1783年 荼枳尼天(だきにてん)は、仏教の神(天)『仏尊の事典』166、167頁。夜叉の一種とされる『岩波 仏教辞典 第2版』683頁、「荼吉尼天」の項。。 「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー()を音訳したものである。また、荼吉尼天、吒枳尼天とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。ダーキニーはもともと集団や種族を指す名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった。日本では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表される。剣、宝珠、稲束、鎌などを持物とする。.

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須弥山

弥山を描いた絵画 須弥山(しゅみせん、旧字体:須彌山、サンスクリット:Sumeru)は、古代インドの世界観の中で中心にそびえる山。インド神話のメール山、スメール山(su- は「善」を意味する接頭辞)の漢字音訳語。.

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西園寺寧子

西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高御座

御座(戦前の絵葉書) 紫宸殿に据えられている高御座(京都御所) 平城宮跡に復元された高御座 高御座(たかみくら)は、天皇位を象徴する玉座のこと。調度品としては、歴史的に伝統的な皇位継承儀式の中核で、いわゆる即位礼において用いられるものであり、皇位と密接に結びついている。京都府京都市の京都御所に常設されている。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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鷹司兼忠

鷹司兼忠(たかつかさ かねただ)は、日本の鎌倉時代の公卿。従一位関白左大臣。号に歓喜苑摂政。兄基忠の養子となり、基忠の長男冬平を自身の養子とした。.

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近衛基熙

近衞 基熙(このえ もとひろ)は、江戸時代前・中期の公卿。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛家久

近衛 家久(このえ いえひさ)は、江戸時代中期の公家・公卿、関白、太政大臣、准三宮。父は近衛家熙。母は霊元天皇第二皇女の憲子内親王。伯母に近衛熙子(6代将軍徳川家宣御台所)。.

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近衛家熙

近衞 家熈(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。.

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近衛信尹

近衛 信尹(このえ のぶただ、旧字:近衞信尹)は、安土桃山時代の公家。近衛前久の子。母は波多野惣七の娘。初名、信基、信輔。号は三藐院(さんみゃくいん)。.

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近衛前久

近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。.

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霊元天皇

霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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桜町天皇

桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日(1747年6月9日))。幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。.

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桃園天皇

桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、諱を遐仁(とおひと)という。.

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正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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法華経

法華経の 現代の解説書にはしばしば、このような写真とこのような主旨の解説が添えられている。。 『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれているNHK 100分de名著 法華経[新]第1回「全てのいのちは平等である」2018年4月2日放送。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した聖徳太子によって著されたとされる法華経の注釈書「法華経義疏」は、三経義疏の1つである。。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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本地垂迹

飯綱権現を祀る高尾山薬王院の権現堂 本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。.

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有職故実

有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.

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明正天皇

明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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新嘗祭

新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。 収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。 今上天皇の大嘗祭 また、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭という。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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扇子

沈折(しずめおり)の白扇。白扇は古くは贈答の品として使われた。 扇子(せんす)とは、あおいで風を起こす道具のひとつ。また儀礼、芸能で用いられる。ただし古くは扇(おうぎ)と呼ぶのが普通であった。「おうぎ」という言葉は古くは「あふぐ」(扇ぐ)の派生形の「阿布岐(あふぎ)」と呼ばれたが、日本語の変化により関連がわかりにくくなった。.

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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1246年

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1288年

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1298年

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1301年

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1308年

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1318年

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1332年

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1337年

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1349年

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1353年

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1374年

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1383年

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1414年

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1429年

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1465年

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1521年

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1534年

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1560年

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1586年

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1611年

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1630年

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1643年

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1656年

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1663年

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1675年

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1687年

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1710年

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1735年

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1739年

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1747年

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1763年

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1771年

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1780年

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1817年

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1847年

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1868年

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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