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穆王 (周)

索引 穆王 (周)

穆王(ぼくおう)は周朝の第5代王。 昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。 彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、雲に乗って走る「騰霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。 また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。 また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。 Category:周の王 Category:紀元前940年没.

11 関係: 崑崙刑法穆天子伝穆王八駿紀元前10世紀西王母西戎楚 (春秋)昭王 (周)

崑崙

崑崙(こんろん、クンルン)とは、中国古代の伝説上の山岳。崑崙山(こんろんさん、クンルンシャン)・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。 崑崙奴(こんろんど)とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙(くろん)面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。.

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刑法

刑法(けいほう)とは、犯罪とそれに対する刑罰の関係を規定する法である。 「刑法」という語は、前記のような意味(実質的意義)で用いられるほか、そのような内容を定めた法典(刑法典)の題名としても用いられる(形式的意義における刑法)。刑法典は、一般的な犯罪に関わるものとして「普通刑法」ないし「一般刑法」ともよばれる。実質的意義における刑法は、刑法典の内容に限らず、犯罪の成立要件とその犯罪に対して科せられる法律効果としての刑罰の内容を規定した国家的法規範の全てを指し、また、刑罰を補充する制度である保安処分に関する法をも含むこともある。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.

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穆天子伝

『穆天子伝』(ぼくてんしでん)は、周の穆王の伝記を中心とした全6巻からなる歴史書。『周王遊行』とも呼ばれる。穆王在位55年間の南征北戦(外征)について詳しい。その記録は穆王13-17年、崑崙山への9万里の西征で西王母と会い、帰還後は盛姫という美人に対する情愛についての記録で終わっている。『左伝』の歴史記述様式と違って、穆王を中心とした描写風の随筆になっている。.

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穆王八駿

王八駿(ぼくおうはっしゅん)は、中国の伝説に登場する8頭の駿馬(しゅんめ・よく走る馬の称)。 紀元前11世紀頃の周王朝の穆王が所有していたとされる。 土を踏まないほど速く走れる「絶地(ぜっち)」、鳥を追い越せる「翻羽(ほんう)」、一夜で5000kmを走る「奔霄(ほんしょう)」、自分の影を追い越す事が出来る「越影(えつえい)」、光よりも速く走れる「踰輝(ゆき)」と「超光(ちょうこう)」、雲に乗って走れる「騰霧(とうむ)」、翼ある馬「挟翼(きょうよく)」の8頭で構成される。 穆王はこの馬達に馬車を引かせ、中国全土を巡った。その旅の途中で、神々の住む崑崙山にも立ち寄ったという。.

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紀元前10世紀

Jewish Museum (Manhattan)蔵)。 シバの女王。シバはイエメンかエチオピアに相当すると考えられ、この地と地中海東岸が紅海貿易で結ばれていたことを示す。 画像はピエロ・デラ・フランチェスカの「ソロモン王を訪問するシバの女王」(アレッツォの聖フランチェスコ聖堂フレスコ壁画)。 エジプト第21王朝の王プスセンネス1世。下エジプトのタニスを都とした第21王朝でこの王は半世紀近い治世を営んだ。またこの王の墓は古代エジプトを通じて唯一の未盗掘王墓だったことでも知られる。 紀元前10世紀(きげんぜんじゅうせいき)は、西暦による紀元前1000年から紀元前901年までの100年間を指す世紀。.

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西王母

西王母(せいおうぼ、さいおうぼ)は、中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は楊、名は回。 九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、西海聖母、西老などともいう。 王母は祖母の謂いであり、西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。すべての女仙たちを統率する聖母。東王父に対応する。.

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西戎

四夷の名称 西戎(せいじゅう)あるいは戎(じゅう)および犬戎(けんじゅう)は、四夷の一つ。中国西部に住んでいた遊牧民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。.

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楚 (春秋)

楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。.

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昭王 (周)

昭王(しょうおう)は周朝の第4代王。 即位後、准夷の反乱が発生したがこれを平定した。積極的な南方遠征で東夷26邦を従わせ、さらに楚への遠征を実施するが、遠征途中に行方不明となった。楚軍の攻撃により戦死したと言われている。 『史記』の周本紀によると、南方を巡狩(視察)して戻ってくることなく死に、その死は諸侯にも知らされなかった。一方、同書の斉太公世家によると、斉の桓公が諸侯を率いて楚を破った。そのとき楚の成王への問責の一つに、300年前昭王が南方の巡狩から帰ってこなかったことをあげている。昭王が楚王の先祖との戦いで戦死したことは、諸侯のあいだで周知であったとみえる。 Category:周の王 Category:紀元前985年没.

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