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奈良華族

索引 奈良華族

奈良華族(ならかぞく)は、奈良 興福寺の塔頭の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶のうち、明治維新後廃仏毀釈が進む中で勅令により復飾(還俗)し、公家社会に復帰して華族となることを得た26家の総称。いずれも明治17年(1884年)7月8日の華族令の施行とともに男爵が授爵された。 維新後新たに公家となり華族に列して男爵を授かった家はこの奈良華族以外にも十数家ある。そのほとんどが既存の堂上家からの分家によるものだが、このうちの3家は幕末まで興福寺以外の寺院の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶が復飾したもので、その成立過程には奈良華族のそれと本質的に類似した経緯がある。そこで本項では別節を立てこの3家についても紹介する。.

131 関係: 基金半家南岩倉具威南光利古代名家坊城家坊城俊政堂上家堀河家堀河康親塔頭大納言大臣家太宰府天満宮太秦家太秦供康奈良子爵室町家宇多源氏富小路家小田部雄次小松家小松行正山科家山科言縄岩倉家岩倉具視中川興長中公新書中納言三条実起三条家九条家九条尚忠平松家平氏久我家京都二条家二条治孝広橋家広橋伊光五辻家五辻高仲今園国映延寿王院延寿院廃仏毀釈...廃藩置県伯爵御子左家侯爵サラリーマン冷泉家公家公爵勧修坊勧修寺家勧修寺顕彰勧修寺流勅令国家神道四条家石井家玉松真幸玉松真弘神官神仏分離神仏習合神道羽林家終身華族生活保護男爵甘露寺家無量寿院芝山家聖護院華族華族令菅原氏裏辻家飛鳥井家西大路家西五辻文仲西園寺家西高辻家西洞院家高倉家高辻家鹿園実博近世近衛家近衛忠煕興福寺阿野家阿野公誠閑院流門跡藤原北家藤原氏藤枝雅之葉室家還俗醍醐寺若一王子若王子遠文難波家院家村上源氏杉溪言長桜井家正親町家氏神水無瀬家水谷川家水谷川忠起油小路家清華家滋野井家戸田忠綱明治明治天皇明治維新春日大社日野家摂家1869年 インデックスを展開 (81 もっと) »

基金

基金(ききん、fund)は、特定の目的のために準備された元手となる資金のことである。この資金を元手に預金や投資等の運用で得た収益によって事業費を賄うという基本は共通であるが、その目的は以下のような類型に分けられる。.

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半家

半家とは、.

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南岩倉具威

南岩倉 具威(みなみいわくら ともたけ、1868年- 1945年(昭和20年))は、明治時代から昭和時代の華族・貴族院議員。爵位は男爵。.

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南光利

南 光利(みなみ みつとし、1857年1月24日(慶応2年12月19日『平成新修旧華族家系大成』下巻、693頁。)- 1934年(昭和9年)12月1日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』86頁。)は、明治から昭和期の神職、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。幼名・岩丸、岩麿『大日本華族大鑑』251頁。。.

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古代

古代(こだい、)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である。古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。.

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名家

名家(めいけ、めいか)とは、.

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坊城家

坊城家(ぼうじょうけ)は、名家の家格を有する公家(公家貴族)。藤原北家勧修寺流のうち勧修寺家の支流。「小川坊城」とも称する。家業は紀伝道と装束。家紋は竹に雀。江戸時代の家禄は180石。伯爵。 鎌倉時代に吉田経俊の子・坊城俊定を祖として創設されたといわれているが、俊定の子である定資の長男俊実(俊定の孫にあたる)を祖とする説もある。戦国時代末期、一時期中絶したが、後に勧修寺晴豊の三男、俊昌が入って再興された。 1884年(明治17年)俊章(としあや)が伯爵を授けられる。俊章は貴族院議員、陸軍少将、山形県知事などを務めた。俊良は侍従、皇太后宮大夫、伊勢神宮大宮司を務めた。俊民(としたみ)は東京都立高校の教諭、校長を歴任。1951年(昭和26年)以来、宮中で行われる歌会始の講師(こうじ)を務め、披講会会長を務めた。 坊城俊成は一般社団法人霞会館会員、堂上会会員、1981年から宮中で行われる歌会始の所役を三十余年、講師(こうじ)を二十三回務める。.

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坊城俊政

坊城 俊政(ぼうじょう としただ、1826年9月22日(文政9年8月21日)- 1881年(明治14年)9月16日『明治維新人名辞典』78頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。.

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堂上家

堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。 中級貴族である地下の官人を除く公家を指す。江戸時代末期には137家があった。.

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堀河家

堀河家(ほりかわけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家高倉流。江戸時代の家禄は180石。明治維新後、華族令施行により子爵。 なお、村上源氏の源通具から始まる堀川家(室町時代に絶家)との関係は無い。.

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堀河康親

堀河 康親(ほりかわ やすちか、寛政9年2月20日(1797年3月18日) - 安政6年9月3日(1859年9月28日))は、江戸時代後期の公卿。おもに仁孝天皇(120代)と孝明天皇(121代)の二代にわたり仕え、従二位権中納言まで昇った。.

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塔頭

塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。 塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。 やがて塔頭に類する塔台を建立するようになった他宗派も現れたり、後に改宗や廃絶したものの塔が残ったりなど現存例は混然としている。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大臣家

大臣家(だいじんけ)とは、公家の家格のひとつで、摂家、清華家に次ぐ家格。 大臣家は元は清華家の庶流から生まれた家であり、清華家に準じて昇進(ただし、摂家・清華家が任じられない参議を経て中納言となる)して、大臣に欠員が出た場合、大納言から近衛大将を経ずに直接内大臣に昇進する家柄である(清華家とは異なり近衛大将を兼ねることはできない)。極官は太政大臣(ただし、江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者に限られた)であるが、希に右大臣に昇進した例(三条西実条・中院通躬)がある程度で、現実には大臣家から内大臣を超えて昇進した事例は少ない。准大臣以上に昇進したのは中院家(通方から通富まで25代)で10人18代通躬が右大臣、2代通成、4代通重、5代通顕、10代通秀、13代通為、15代通村、17代通茂が内大臣、3代通頼、9代通淳が准大臣、正親町三条家(公氏から公勝まで29代)で8人5代公秀、6代実継、7代公豊、10代実雅、12代実望、13代公兄が内大臣、9代公雅に贈内大臣、15代公仲に贈准大臣、三条西家(公時から公允まで17代)で6人5代公条、8代実条が右大臣、3代公保、4代実隆、6代実枝、7代公国が内大臣と、大臣輩出率は高いとは言えない。維新後は伯爵となったが、嵯峨家(正親町三条家)はのちに侯爵となった。 大臣家は、以下の3家。.

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太宰府天満宮

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間にすると850万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。.

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太秦家

太秦家(うずまさけ)は、藤原北家水無瀬一門桜井支流の公家、奈良華族である。石高は50石。左近衛権中将桜井供秀の次男(実は権中納言堀河康親の男)・供親を祖とする。.

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太秦供康

太秦 供康(うずまさ ともやす、 1866年5月16日(慶応2年10月29日『平成新修旧華族家系大成』上巻、244頁。)- 1925年(大正14年)1月30日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』65頁。)は、日本の陸軍軍人、政治家、奈良華族。最終階級は陸軍歩兵少佐。貴族院男爵議員。旧姓・堀河。.

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奈良

奈良(なら)は、日本国の発祥とされる歴史的地名である。 異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)。平安京(京都)に都が遷った後は南都(なんと)とも呼ばれた。古くは大和と呼ばれ、また平城京にも相当した。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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室町家

室町家(むろまちけ)は、羽林家の家格を有する公家。別名、四辻家、花亭家。 藤原北家閑院流。西園寺家の一門。家業は和琴、箏。江戸時代の家禄は200石。伯爵。西園寺家・洞院家・清水谷家とともに西園寺流四家のひとつ。.

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宇多源氏

宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.

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富小路家

富小路家(とみのこうじけ)は、藤原北家流の堂上家。元来は九条家の諸大夫だった富小路俊通が二条家の庶流を称する形で従三位に昇ったことから始まる。富小路俊通の子富小路資直が従三位となり昇殿を許可されて以後、堂上家の一員となる。家格は半家。 従二位非参議を極位極官とした。 江戸時代の家禄は200石。明治維新後は敬直が子爵に叙せられた。.

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小田部雄次

小田部 雄次(おたべ ゆうじ、1952年6月25日- )は、日本の歴史学者、静岡福祉大学教授。専攻は日本近現代史(皇室制度・華族制度)。 "竹田恒泰"に対して、恒泰の父である恆和は、父の恒徳王が皇籍離脱した後に生まれているため、生涯で一度も皇族であったことはない。また、1920年5月19日に内規として裁定された「皇族の降下に関する施行準則」では「長子孫の系統四世を除く全ての王が華族に降下する」ことに定められている。竹田宮の場合、北白川宮能久親王が1世、竹田宮恒久王が2世、離脱した竹田宮恒徳王が3世、同じく離脱した竹田宮恒正王が4世であり、この世代以降は全て皇族ではなく華族となると主張している。.

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小松家

小松家(こまつけ).

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小松行正

小松 行正(こまつ ゆきまさ / ゆきただ、1862年6月8日(文久2年5月11日『平成新修旧華族家系大成』上巻、611-612頁。)- 1908年(明治41年)11月10日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』71頁。)は、明治期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧名・平松時韶、別名・平松行正「平松時厚」『人事興信録』〔初版〕、1105頁。。.

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山科家

山科家(やましなけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家四条流。家名は家領があった京都山科荘に由来する。家業は装束・衣紋で江戸時代には高倉家(藪家)とともに装束色目を担当した。江戸時代の家禄は300石。.

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山科言縄

山科 言縄(やましな ときなお、天保6年6月20日(1835年7月15日) - 大正5年(1916年)11月6日)は、江戸時代末期の公家。正二位伯爵。父は山科言成。明治17年の華族令で、伯爵に任ぜられた。装束などに精通。三男の言長は、分家杉渓家の祖。.

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岩倉家

岩倉家(いわくらけ)は、村上源氏久我家の流れを汲む公家の家柄。羽林家。新家。堂上源氏十家のひとつ。鎌倉幕府の源頼朝と対立した源通親の子孫である。村上源氏の名門ではあったが家禄は150石で、中級の公家だった。通字は「具」(とも)。.

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.

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中川興長

中川 興長(なかがわ おきなが、1853年11月20日(嘉永6年10月20日『平成新修旧華族家系大成』下巻、229頁。)- 1920年(大正9年)5月15日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』81頁。)は、明治・大正期の神職、宮内官、政治家、奈良華族。正三位勲三等。貴族院男爵議員。旧姓・甘露寺、旧名・堯祐。.

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中公新書

中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベルの1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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三条実起

三条 実起(さんじょう さねおき、宝暦6年11月14日(1756年12月5日) - 文政6年9月7日(1823年10月10日))は、江戸時代後期の公卿。主に桃園天皇(116代)から光格天皇(119代)にわたって朝廷に仕え、官位は従一位右大臣まで昇っている。父は右大臣三条季晴。母は彦根藩主井伊直定娘。妻は彦根藩主井伊直幸の養女(徳島藩主蜂須賀宗鎮の娘)。息子に内大臣三条公修、右近衛権少将押小路実茂(押小路公岑養子)、鹿園空晁(興福寺喜多院住職)。娘に沖君(権大納言滋野井公敬室)。養子として左大臣二条治孝の子女数名がいる。 宝暦7年(1757年)に従五位上に叙爵。その後清華家三条家の当主として早いスピードで昇進し、明和元年(1764年)には従三位に達して公卿に列する。左近衛中将・踏歌節会外弁・権中納言・権大納言などを歴任し、寛政4年(1792年)には右近衛大将・右馬寮監となる。寛政8年(1796年)に内大臣となるも翌年には辞した。文化11年(1814年)に右大臣になるも同年中に辞す。その後は「転法輪前右大臣」と称された。文政6年(1823年)に薨去。享年68。.

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三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

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九条家

九条家(くじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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九条尚忠

九条 尚忠(くじょう ひさただ、寛政10年7月25日(1798年9月5日) - 明治4年8月21日(1871年10月5日))は、江戸時代後期から明治時代の公家。官位は従一位・関白。 昭和天皇の曽祖父である。.

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平松家

平松家(ひらまつけ)は、「日記之家」として知られる桓武平氏高棟王流の公家で、西洞院時慶の次男時庸を祖とする堂上家(名家・内々・新家)。江戸時代の家禄は200石。明治時代以降は子爵。.

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平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

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久我家

久我家(こがけ)は、日本の氏族のひとつ。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。家紋は竜胆紋のひとつである久我山竜胆こがやまりんどう/久我竜胆こがりんどう。 久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち内大臣まで昇った者6名、右大臣まで昇った者4名、太政大臣まで昇った者7名である。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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二条治孝

二条 治孝(にじょう はるたか、宝暦4年9月15日(1754年10月30日) - 文政9年10月6日(1826年11月5日))は江戸時代後期の公卿。父は二条宗基。母は家女房。正室は嘉姫(水戸藩5代藩主徳川宗翰の娘)。側室に信子(権大納言樋口基康の娘)。子女は二条斉通、九条輔嗣、西園寺寛季、二条斉信、九条尚忠(輔嗣養子)、隆子(乗蓮院、徳川治国室)、親子(本願寺本如光摂室)、保子(徳川斉敦正室)、福子(黒田斉清正室)、千万(鍋島直与継室)、最子(松平頼縄継室)など。其の他にも夭折した子女がいる。号は法寿金剛院。「治」の字は将軍徳川家治からの偏諱。 昭和天皇の高祖父である。.

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広橋家

広橋家(廣橋家、ひろはしけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家日野流。家業は文学。江戸時代の家禄は850石。明治維新後は伯爵。鎌倉時代初期に日野資実の弟の頼資によって創立された。当初は勘解由小路とも号し、頼資の孫である兼仲の日記は『勘仲記』と呼ばれている。 室町時代から江戸時代にかけては幕府との折衝役を務める者が多く、特に江戸時代には武家伝奏役を多数輩出した。同家に伝来した中世写本は数多く、東洋文庫にまとまって所蔵される。明治維新後の1884年7月8日賢光に伯爵の位を授けられた。賢光は内務省に入省し、内閣記録局長を経て、帝室制度調査局御用掛を務めた。真光は千葉県知事を務めた。夫人は梨本宮守正王の第2王女規子女王。李方子は義姉に当たる。真光の二男、儀光は一時期、梨本家を継いでいる。.

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広橋伊光

広橋 伊光(ひろはし これみつ、延享2年6月16日(1745年7月15日) - 文政6年4月4日(1823年5月14日))は江戸時代の公家。名家・広橋家(廣橋家、ひろはしけ)の23代目当主。家禄は850石。官位は従一位准大臣。 父は広橋勝胤。母は成瀬正幸の娘。正室は黒田継高の娘・代々姫。子に嫡男・広橋胤定、竹屋光棣、交野時雍、七条信敬、竹屋俊康、南光度、五条為徳室、光子(中宮上臈号梅仙院)など。広橋光成は孫にあたる。 尊号事件では、議奏を務めていたため罪に問われ、寛政5年(1793年)に参内20日停止となった。享和3年(1803年)から文化10年(1813年)9月まで、武家伝奏を長く務めた。法号は勁松院。日記「勁槐記」を残した。.

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五辻家

五辻家(いつつじけ)は、半家の家格を持つ公家(堂上家)。家系は宇多源氏庭田同祖。源時方(ときまさ)を祖とし、鎌倉時代初期の五辻仲兼以降に五辻家を称する。極官は従二位、非参議。家業は神楽。旧家。江戸時代の家禄は200石。居所は西殿町北側。菩提寺は洛東西方寺。 家祖の時方は左大臣・源雅信の子だが、五位少将まで昇進するも若くして卒去。その後、子孫は受領となり代々五位止まりであった。 鎌倉時代初期の仲兼は四ヶ国の国司を務め従四位上まで昇進し、この頃より五辻の家号を称するようになった。 仲兼以降は蔵人や北面武士を務める地下家だったが、室町時代末期の天文7年(1538年)に五辻諸仲が従三位に叙せられて、堂上家に加わる。 明治維新後、安仲が子爵に叙せられた。 支流に、明治維新後興福寺明王院住職から還俗した文仲が興した奈良華族の西五辻家、仲兼の孫・仲清を祖とする慈光寺家及び、その庶流の中川家(二条家諸大夫)・三木家(伏見宮家諸大夫)、時方の玄孫にあたる仲親の子・仲康を祖とする春日家(久我家諸大夫)がある。.

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五辻高仲

五辻 高仲(いつつじ たかなか)は江戸時代後期から明治時代にかけての公卿。半家の五辻家第33代当主。権大納言庭田重能の次男。 安政5年(1858年)の日米修好通商条約勅許に反対し、廷臣88人の列参に加わった(廷臣八十八卿列参事件)。明治元年(1868年)に参与・内国事務局権判事に任命され、同2年(1869年)少弁となる。明治6年(1873年)積年の神楽奉仕を褒賞され、同年隠居した。明治19年(1896年)、80歳で薨去した。 たかなか Category:庭田家 Category:日本の華族 Category:明治時代の人物 Category:廷臣八十八卿 Category:山城国の人物 Category:1808年生 Category:1886年没.

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今園国映

今園 国映(いまぞの くにてる、嘉永4年5月25日(1851年6月24日) - 明治26年(1893年)4月12日)は、日本の華族。坊城俊政の次男で芝山国典養子。.

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延寿王院

延寿王院(えんじゅおういん)は、太宰府天満宮が安楽寺天満宮と呼ばれていたときの宿坊。現在は太宰府天満宮の西高辻家の邸宅となっている。.

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延寿院

延寿院(えんじゅいん).

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廃仏毀釈

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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御子左家

御子左家(みこひだりけ)は、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする藤原氏の系流。御子左流(みこひだりりゅう)ともいう。ただし「御子左」を家名として名乗った者はない。 「御子左」は、醍醐天皇の第十六皇子で左大臣に上った兼明親王の通称「御子左大臣」(みこさだいじん、御子=皇子)に由来する。親王の邸宅・御子左第を伝領した長家が「御子左民部卿」と呼ばれたことから、彼以後その流れをこう呼ぶようになった。.

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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サラリーマン

ラリーマン(英: office worker / 和製英語: Salaryman)とは、日本における正規雇用の会社員を現わす用語で、会社企業に勤める給与所得者のうち、役員や専門職(医師・弁護士など)を除いた者であるhttp://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou040/hou36/2-8.html。通常はホワイトカラーの職務に就いている男性に対して使われ、女性の場合には「OL」という用語があてられる。また、国語辞典にはサラリーマンを、「毎月の給料で生計を立てている人」・「給料取り」・「勤め人」などと解説している例もある 大辞泉。.

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冷泉家

冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家。家格は羽林家。代々近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公爵

公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.

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勧修坊

勧修坊(かんしゅうぼう、かんじゅぼう).

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勧修寺家

勧修寺家(かじゅうじけ/かんじゅじけ)は、藤原北家勧修寺流の支流の公家(公家貴族)である。 家格は名家。藤原高藤の子孫の系統を「勧修寺流」と言うが、嫡流は勧修寺家ではなく、甘露寺家である。ただし、戦国時代から江戸時代初期に勧修寺家から2代の国母を輩出した事から、当時は勧修寺家を嫡流とみなす説もあり、それに基づいて書かれた文献もある(『諸家伝』)。 南北朝時代の坊城定資の子・経顕(南北朝時代)を勧修寺家の祖とする。江戸時代の石高は726石。家学は儒学。 明治維新後は華族となり顕允が伯爵に叙せられた。.

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勧修寺顕彰

勧修寺 顕彰(かしゅうじ あきてる、文化11年12月2日(1815年1月11日)-万延2年1月1日(1861年2月10日))は、江戸時代後期の公卿で勧修寺家第26代当主。坊城俊明の子、勧修寺経則の養子。子に穂波経度・長尾顕慎ら、養子に勧修寺経理。.

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勧修寺流

勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。.

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勅令

勅令(ちょくれい).

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国家神道

国家神道(こっかしんとう)とは、近代天皇制国家において作られた一種の国教制度『日本大百科全書』(小学館)”国家神道"、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。「国体神道(こくたいしんとう)」や「神社神道(じんじゃしんとう)」、単に「神社(じんじゃ)」とも称した。.

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四条家

四条家(しじょうけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家魚名流の嫡流。藤原家成の一男隆季を家祖とする。家名は、隆季が四条大宮に構えた邸宅により、大宮とも称した。分家に山科家・鷲尾家・西大路家・油小路家・櫛笥家がある。.

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石井家

石井家(いわいけ)は桓武平氏高棟王流の堂上家である。東福門院(徳川和子)付きの女官で西洞院時慶(従二位・参議)(1552年 - 1640年)の娘行子の養子となった石井行豊(従二位・権中納言)(1653年 - 1713年)を祖とする。行子の宮中での呼び名(石井局)にちなんで石井を家名とした。 石井家設立が上のように複雑な経緯をたどったのは、初代・行豊は正二位・権中納言・平松時量(1627年 - 1704年)を実父とするが、養子先である石井局の勤務を後水尾上皇及び東福門院が労うという形で行豊に新家の創設を認めたためである。 家格は半家、極官は正二位・権中納言である。 江戸時代の家禄は130石。明治維新後、華族令施行により行昌が子爵に叙せられた。.

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玉松真幸

玉松 真幸(眞幸、たままつ まさき、1859年4月13日(安政6年3月11日『平成新修旧華族家系大成』下巻、83頁。)- 1907年(明治40年)5月26日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』77頁。)は、明治期の国学者『神道人名辞典』199頁。『日本人名大辞典』1199頁。、本草家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・山本、旧名・永丸。.

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玉松真弘

玉松 真弘(たままつ まひろ、文化7年3月17日(1810年4月20日) - 明治5年2月15日(1872年3月23日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての国学者。通称は操(みさお)。雅号は毅軒。.

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神官

官(しんかん)とは、国家の官吏として、何らかの神に仕える、または神を祀る施設に奉職する者のことである。現在、日本には神官は存在しない。 日本の神道に関しては、古文献に神職(神社の祭祀や事務に従事する者)を指す語として用いられる例が散見され、現在も日常語では神職の通称として用いられている。明治時代初期に神祇官が再興された際、全ての神職が官吏(神職=神官)になったが、制度上の問題から伊勢神宮・官国幣社の神職に限定され、1894年(明治27年)以降は伊勢神宮の神職のみが官職としての神官とされた。太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦の後、GHQによって出された神道指令によって、制度上の神官は廃止された。 また、古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマなどで神殿に奉職していた者(主として男性)のことも神官と呼ばれる。.

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神仏分離

仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。 その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。.

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神仏習合

仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。.

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神道

道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.

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(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。.

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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終身華族

終身華族(しゅうしんかぞく)とは、1884年の華族令成立前の旧華族に存在した華族の区別である。.

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生活保護

生活保護(せいかつほご、ライフサポート。Public Assistance)は、経済的に困窮する国民に対して、国や自治体が、健康で文化的な最低限度の生活を保障する公的扶助制度である。 日本において、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、生活保護法第1条にあるように、国が生活に困窮するすべての国民に対して、その困窮の程度によっては必要な生活費の給付を行い、最低限度の生活を保障するとともに自立を促すことを目的とする。最低賃金を改定する際には目安の1つとなる。 「生保」と略されるが、「生命保険」(せいほ)との混合を避けるため「ナマポ」とカタカナで表現される場合もある(蔑称とされている)。 受給者は医療費が無償であることで、不要・過剰な通院を続ける頻回受診をする傾向にある。そのために、国・地方自治体の生活保護費のための支出の半分を医療費が占めていることが大きな問題になっている。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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甘露寺家

露寺家(かんろじけ)は、藤原北家高藤流(勧修寺流)の堂上家。家格は名家。.

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無量寿院

無量寿院(むりょうじゅいん)は阿弥陀仏(無量寿仏)に由来する寺院の称号。この号を持つ寺院は各地に存在、またはかつて存在したが、なかでも藤原道長が寛仁4年(1020年)に建立した無量寿院(法成寺阿弥陀堂)と、12世紀に元海が開いた醍醐寺五門跡の一である無量寿院が著名である。.

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芝山家

芝山家(しばやまけ)は、藤原北家勧修寺流のうち勧修寺家の庶流の堂上家、家格は、名家。家紋は三つ集め雀。 右京亮・阿部致康(准大臣・勧修寺晴豊の五男)の実子である大蔵卿・勧修寺宣豊が、叔父である権大納言・勧修寺光豊の猶子となり、芝山を称したのにはじまる。 芝山とは元々は勧修寺家の別称であり、勧修寺家初代、内大臣・勧修寺経顕も芝山内大臣と称した。.

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聖護院

本堂 宸殿 聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。 日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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華族令

華族令(かぞくれい)は、日本の法令。1884年(明治17年)7月7日に制定された明治17年宮内省達無号と、それを廃して1907年(明治40年)に制定された皇室令がある。明治40年制定の華族令(明治40年皇室令第2号)は昭和22年(1947年)に廃止された。.

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菅原氏

菅原氏(すがわらうじ)は、「菅原」を氏の名とする氏族。.

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裏辻家

裏辻家(うらつじけ)は羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流正親町家支流。江戸時代の家禄は150石。権大納言正親町季秀の次男季福から始まる。居所は今出川半町上室町東入。家名の由来については正親町家の項目を参照のこと。 明治維新後は彦六郎が子爵に叙せられた。.

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飛鳥井家

飛鳥井邸跡に建つ白峯神宮 飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。.

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西大路家

西大路家(にしおおじけ)は、羽林家の家格を持つ公家である。藤原北家末茂流であり四条家の分家である。家業は、書道である。家紋は、田字草。江戸時代の家禄は100石。明治維新後、華族令施行により隆修が子爵に叙せられた。.

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西五辻文仲

西五辻 文仲(にしいつつじ あやなか、1859年2月3日(安政6年1月1日『平成新修旧華族家系大成』下巻、303頁。『西五辻家譜』、『日本人名大事典』第5巻(7頁)では安政6年1月7日。)- 1935年(昭和10年)4月17日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』81頁。)は、明治期の宮内官、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・五辻、幼名・亀麿『日本人名大事典』第5巻、7頁。、旧名・清純。.

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西園寺家

西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用。.

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西高辻家

西高辻家(にしたかつじけ)は、太宰府天満宮の社家。太宰府安楽寺天満宮別当家。 菅原氏嫡流の堂上家である高辻家から分かれ、1868年(明治元年)に少納言高辻以長の四男・西高辻信厳(弘化3年9月20日(1846年11月8日) - 1899年(明治32年)1月29日)が立家した。 初代の信厳は筑前太宰府の延寿王院で出家し、1868年に還俗して、西高辻家を立てた。1882年(明治15年)に華族に列せられ、1884年(明治17年)に男爵に叙された。太宰府神社(太宰府天満宮)の宮司を勤めた。以後、西高辻家が太宰府天満宮の社家として宮司職を世襲している。 現在の当主は西高辻信良。信良は1983年(昭和58年)に太宰府天満宮宮司に就任した。 + category:社家.

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西洞院家

西洞院家(にしのとういんけ)は、高棟王流・桓武平氏の流れをくむ公家。高棟王から17世の孫にあたる南北朝時代の正三位参議・西洞院行時(1324年 – 1369年)を祖とする堂上家。家格は半家。 戦国時代の従三位左兵衛督・西洞院時当(ときまさ、1531–1566年)の代で中絶。その後河鰭家から飛鳥井雅綱の孫である従二位参議・西洞院時慶が入り、その子からは平松家、長谷家、交野家が分家している。 権大納言となった西洞院時成(1645–1724年)及び権中納言となった西洞院信堅(1804–1891年)を除き、歴代当主の極位極官は従二位参議だった。それでも西洞院家の女子の多くは後宮に勤めているほか、歴代当主の多くは日記を記しており、特に西洞院時慶が綴った『時慶卿記』は豊臣政権から江戸幕府創設期にかけての宮中や公家社会の様子を知る上での貴重な史料となっている。 江戸時代の家禄は273石、後に260石。明治維新後は華族令施行により西洞院信愛が子爵に叙せられた。.

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高倉家

倉家(たかくらけ)は藤原北家である藤原長良の子孫である従二位参議高倉永季(ながすえ、1338–1392年)を祖とする堂上家。家格は半家。江戸時代の家禄は812石、分家に堀河家・樋口家の両羽林家がある。明治維新後は永則が子爵に叙せられた。.

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高辻家

辻家(たかつじけ)は菅原道真の子孫である高辻是綱(正四位下・大学頭)(1030年 - 1107年)を祖とする堂上家である。ちなみに唐橋家の祖である在良(従四位上・式部大輔・贈従三位)(1041年 - 1121年)は是綱の弟に当たる。 家格は半家。当初は受領層の貴族と同じく四位止まりの家柄であったが、鎌倉時代初期の菅原為長(1158年 - 1246年)が参議に昇進して公卿の列に加わり、室町時代の高辻継長(1414年 - 1475年)以降は文章博士・大学頭・式部大輔を経て権大納言を極官とするようになる。鎌倉時代になり高辻家からは五条家が分かれ出る事となる。明治になり太宰府天満宮の社家として西高辻家が分家、興された。 家業は紀伝道で、代々天皇の侍読を務めた。 安土桃山時代の高辻長雅(正二位・権大納言・式部大輔)(1515年 - 1580年)の代で中絶するが、寛永11年(1634年)に後水尾上皇の命で同族の五条家から高辻遂長(かつなが)(正三位・参議・大蔵卿)(1600年 - 1643年)を養子として家名が再興される。 江戸時代の家禄は200石。明治維新後、華族令施行により修長が子爵に叙せられた。.

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鹿園実博

鹿園 実博(實博、しかぞの さねひろ、1860年7月18日(慶応2年5月20日『平成新修旧華族家系大成』上巻、703頁。)- 1922年(大正11年)2月27日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73頁。)は、明治・大正期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧名・亥五郎『大日本華族大鑑』79頁。。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛忠煕

近衛 忠煕(このえ ただひろ、文化5年7月14日(1808年9月4日) - 明治31年(1898年)3月18日)は、幕末の公卿。公武合体派として活動した。翠山と号す。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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阿野家

阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。 家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。(旧家、外様)明治維新後は子爵。 阿野の家名は草創期における武家との相続関係に由来しており、源義朝の七男で義経の同母兄である今若丸が駿河国駿東郡阿野荘(静岡県沼津市西部)を領し、その地名を苗字の地として阿野全成と称したことがもともとの始まりである。.

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阿野公誠

阿野 公誠(あの きんみ、1818年4月22日(文化15年1月7日)- 1879年(明治12年)6月1日『明治維新人名辞典』31頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。麝香間祗候。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤枝雅之

藤枝 雅之(ふじえ まさゆき、1855年12月16日(安政2年11月8日『平成新修旧華族家系大成』下巻、229頁。)- 1922年(大正11年)3月17日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』83頁。)は、明治・大正期の神職、宮内官、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・飛鳥井。.

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葉室家

葉室家(はむろけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流の支流。藤原高藤の後裔で、参議藤原為房の二男・顕隆を家祖とする。家名は、3代光頼が洛西葉室(京都市西京区山田)に営んだ別業に因む。分家に姉小路家などがある。.

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還俗

還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。「復飾」(ふくしょく)とも。自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。 日本では、律令「僧尼令」における刑罰の一つでもあった。武士・公家の家督や棟梁、氏長者といったものを相続していた当主が亡くなり、謀反防止のためなどの理由で出家していた子弟・縁者などが相続して家名存続させる目的のものもあるなど、背景はさまざまである。明治時代初頭には神仏分離に端を発する廃仏毀釈により、全国で神宮寺の社僧などが還俗した。 また、宮門跡となって入寺得度(出家)した親王が再び皇親に戻り、宮家を継承することもあった。特に幕末維新期にはその数は増えていった。.

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醍醐寺

醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。.

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若一王子

若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。 熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。 熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。.

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若王子遠文

若王子 遠文(にゃくおおじ ふかあや / にゃこうじ ふかや、1828年8月27日(文政11年7月17日『平成新修旧華族家系大成』下巻、329-330頁。)- 1898年(明治31年)2月10日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』81頁。)は、幕末の僧侶、明治期の宮内官、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・山科、法名・雄厳、幼名・多寿麿。.

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難波家

難波家(なんばけ)は、羽林家の家格を有する堂上家の一つをなす公家。分家の飛鳥井家と並ぶ蹴鞠の二大流派のひとつ。藤原北家花山院流の系統。南北朝時代に断絶したが、戦国時代に入って、飛鳥井雅庸の次男宗勝によって再興された。江戸時代の家禄は300石。明治維新後に宗美が子爵位を授けられた。.

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院家

院家(いんげ)とは、.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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杉溪言長

杉溪 言長(杉渓、すぎたに ときなが、1865年7月5日(慶応元年閏5月13日『平成新修旧華族家系大成』上巻、770頁。)- 1944年(昭和19年)10月30日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』75頁。)は、明治・大正期の神職、宮内官、政治家、日本画家(南画)、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・山科、幼名・狟丸。雅号・六橋『現代名士人格と修養』168-170頁。。.

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桜井家

桜井家(さくらいけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家水無瀬流。江戸時代の家禄は蔵米30俵3人扶持。明治維新後は子爵。 江戸時代に水無瀬兼俊の子・兼里によって設立された。極官は近衛中将。江戸時代中期の桜井氏福が竹内敬持に師事していたために宝暦事件に連座した。この時家名断絶の危機に陥るが、実弟の供敦を養子として家督を継ぐ事が許された。 明治維新に氏福の罪が許されて正四位が追贈され、1884年(明治17年)7月8日桜井供義が子爵の位を授けられた。.

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正親町家

正親町家(おおぎまちけ)は羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流。洞院家支流。本家である洞院家は室町期に断絶したが、清華クラスの家柄であった。江戸時代の家禄は355石。明治維新後、華族令施行により伯爵。 太政大臣西園寺公経の孫で、太政大臣洞院公守の二男正親町実明から始まる。 家名の由来は、正親町東洞院南西角に屋敷にあったことに由来しているが、その屋敷が土御門東洞院殿の裏築地に面していたことから、裏築地(うらついじ)もしくはそれが変じた裏辻(うらつじ)とも称した。後に分家した一流が「裏辻」と称したのはこれに由来している。 江戸時代元禄時代の正親町町子は、実豊の女で柳沢吉保の側室である。「松蔭日記(東源氏)」を著わした才媛として知られる。寛政年間の公明は、尊号一件で中山愛親とともに処分された。 明治維新後の1884年(明治17年)7月8日実正に伯爵の位を授けられた。実正は、埼玉県知事、侍従長、賞勲局総裁を歴任した。.

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氏神

氏神(うじがみ)は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のこと。同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)という。現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い。氏神を祀る神社のことを氏社という。 本稿では、氏神・鎮守・産土神・氏子などについて記述する。.

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水無瀬家

水無瀬家(みなせけ)は、藤原北家隆家流の藤原親信を祖とする堂上家である。家格は羽林家。家紋は菊。.

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水谷川家

水谷川家(みやがわけ)は、藤原北家近衛庶流の華族(奈良華族)である。左大臣近衛忠熙の八男・水谷川忠起を祖とする。.

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水谷川忠起

水谷川 忠起(みやがわ ただおき、嘉永元年3月17日(1848年4月20日) - 大正12年(1923年)5月25日)は、日本の僧侶、神職。還俗前は応昭(おうしょう)を名乗った。僧位・僧階は法印大僧正。 一乗院門跡(第42代)、春日大社宮司などを歴任した。.

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油小路家

油小路家(あぶらのこうじけ)は藤原北家四条流の公家である。四条家の分家西大路家の庶流で、家格は羽林家。西大路隆政の二男・隆蔭を祖とする。室町時代末期に隆継の子隆秀が早世したことにより江戸時代初期まで中絶していたが、広橋兼勝の次男・隆基により再興された。江戸時代の石高は150石。 明治維新後、華族令施行により油小路隆晃が伯爵に叙せられた。.

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清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

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滋野井家

滋野井家(しげのいけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流(公季流)。家業は神楽。江戸時代の家禄は180石。.

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戸田忠綱

戸田 忠綱(とだ ただつな)は、下野高徳藩の第2代藩主。後に下総曾我野藩知事。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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春日大社

一の鳥居 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。.

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日野家

日野家(ひのけ)は、日本の貴族の家系のひとつ。藤原北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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1869年

記載なし。

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