231 関係: 厳島神社、はとこ、即位の礼、南北朝時代 (日本)、吉川弘文館、増鏡、大岡忠勝、大岡氏、大正天皇、奈良華族、嫡流、宣下、宮司、家督、寛元、山城国、岡山藩、上田萬年、三上参次、一条実経、一条実輝、一条家、一条内実、一条内経、一条経通、九条基家、九条しゅん子、九条尚実、九条尚忠、九条尚経、九条師孝、九条師教、九条幸家、九条幸経、九条幸教、九条任子、九条彦子、九条忠基、九条忠家、九条忠教、九条兼孝、九条兼実、九条兼晴、九条稙基、九条稙通、九条立子、九条経教、九条道孝、九条道実、九条道家、...、九条道前、九条道秀、九条道房、九条道教、九条輔実、九条輔家、九条輔嗣、九条良平、九条良経、九条良輔、九条良通、九条通、九条武子、九条満家、九条房実、九条流、九条政基、九条政忠、九条教実、九条教家、九条教嗣、九條道弘、平安神宮、平氏政権、乙訓郡、京都、京都御苑、二条基弘、二条家、二条宗基、二条尹房、二条康道、二条綱平、二条良実、二条治孝、二条晴良、建長、伊木忠恭、征夷大将軍、後二条師通記、後嵯峨天皇、後光厳天皇、後白河天皇、後醍醐天皇、北朝 (日本)、北海道大学、嘉元、嘉禎、内覧、公家、公爵、元亨、元服、勘当、勅、国立歴史民俗博物館、皇后、玉葉、細川澄之、紀伊郡、綸旨、経覚、花山院家定、花山院家輔、鎌倉幕府、鎌倉時代、遺言、菊麿王妃範子、華族、角川書店、譲状、豊島郡 (大阪府)、貞治、貞明皇后、鶴殿忠善、鷹司信尚、鷹司信房、鷹司煕通、鷹司政通、鷹司教平、近衛基実、関白、藤原基経、藤原忠通、藤原北家、藤原兼房 (太政大臣)、藤原聖子、藤原頼嗣、藤原頼経、藤原氏、藤氏長者、長子相続、長男、良円、英照皇太后、東京、東京国立博物館、東福寺、松殿基房、松殿家、正応、武家、江戸時代、法助、源頼朝、明仁、明治、明治維新、春日大社、昭和、文保、文永、日記、旧高旧領取調帳、摂家、摂家将軍、摂津国、摂政、摂政・関白の一覧、愛宕郡、慈円、1149年、1169年、1193年、11月29日 (旧暦)、1206年、1207年、1210年、1235年、1238年、1246年、1252年、1265年、1273年、1291年、1304年、1318年、1324年、1365年、1507年、1553年、1586年、1594年、1609年、1636年、1641年、1647年、1665年、1669年、1677年、1688年、1700年、1713年、1717年、1725年、1728年、1730年、1743年、1746年、1769年、1770年、1784年、1785年、1787年、1798年、1807年、1823年、1839年、1859年、1870年、1871年、1895年、1906年、1933年、1961年、1963年、1969年、1996年、2000年、2007年、2017年。 インデックスを展開 (181 もっと) »
厳島神社
境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。.
はとこ
はとこは、自分からみて祖父母の兄弟姉妹の孫である。6親等の傍系親族の一つ。再従兄弟、又従兄弟(またいとこ)、二従兄弟(ふたいとこ)ともいう。.
即位の礼
即位の礼で天皇が使用する高御座 即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
増鏡
『増鏡』(ますかがみ)は、歴史物語。成立は南北朝時代と推定される。作者は未詳だが、二条良基説や洞院公賢説、四条家関係者説などがある。いわゆる「四鏡」の成立順では最後に位置する作品である。内容的には最も新しい時代を扱っている。.
大岡忠勝
大岡 忠勝(おおおか ただとう/おおおか ただかつ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。『系図纂要』によると父は関白・九条忠教後裔(『華族類別譜』では九条尚経の子とも)とされる大岡伝蔵(大岡善吉)という。.
大岡氏
大岡氏(おおおかし)は、日本の氏族。家紋は大岡七宝(剣輪違)。.
大正天皇
大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.
奈良華族
奈良華族(ならかぞく)は、奈良 興福寺の塔頭の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶のうち、明治維新後廃仏毀釈が進む中で勅令により復飾(還俗)し、公家社会に復帰して華族となることを得た26家の総称。いずれも明治17年(1884年)7月8日の華族令の施行とともに男爵が授爵された。 維新後新たに公家となり華族に列して男爵を授かった家はこの奈良華族以外にも十数家ある。そのほとんどが既存の堂上家からの分家によるものだが、このうちの3家は幕末まで興福寺以外の寺院の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶が復飾したもので、その成立過程には奈良華族のそれと本質的に類似した経緯がある。そこで本項では別節を立てこの3家についても紹介する。.
嫡流
嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。 ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。 あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.
宣下
宣下(せんげ)とは、天皇の命令を伝える公文書を公布することである。.
宮司
宮司(ぐうじ、みやづかさ)とは神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階(職名・職称)である。.
家督
家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.
寛元
寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.
山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
岡山藩
後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.
上田萬年
上田 萬年(うえだ かずとし、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。小説家円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員。.
三上参次
三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日) - 1939年6月7日)は、日本史学者。.
一条実経
一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。 九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。.
一条実輝
一条 実輝(いちじょう さねてる、旧字体:一條實輝、慶応2年8月24日(1866年10月2日) - 大正13年(1924年)7月9日)は、日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵に上り、東宮侍従長を務める。陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。一条家は藤原北家、九条道家の三男実経を始祖とし、五摂家の一つに数えられる。実輝は、自身のはとこにあたる一条忠貞の跡を受け家督を継ぐ。昭憲皇太后は義理の叔母。.
一条家
一条家(いちじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。桃華(とうか)家とも称される。.
一条内実
一条 内実(いちじょう なかさね、建治2年(1276年) - 嘉元2年12月17日(1305年1月13日))は鎌倉時代の公卿。父は一条家経。母は松殿良嗣女。弟に一条冬実、子に一条内経がいる。号は棲心院。正二位。.
一条内経
一条 内経(いちじょう うちつね、正応4年7月17日(1291年8月12日) - 正中2年10月1日(1325年11月7日))は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。父は内大臣一条内実、母は内実の父である一条家経の異母妹(すなわち内実の叔母)。妻は西園寺公顕の娘。号は芬陀利華院関白(ふんだりかいん かんぱく)。 正安元年(1301年)に元服して翌年に公卿に列する。嘉元2年(1304年)、父の急死によって14歳で一条家を継いだ。『玉葉和歌集』以下の勅撰和歌集や『文保御百首』・『続現葉集』などに採録される優れた歌人であったが、政治的な才には乏しかったという。それでも文保2年(1318年)には従一位関白・藤氏長者に昇ったが、35歳の若さで病死する。法号は、芬陀利華院。 一条家の菩提所として東福寺に芬陀院(ふんだいん)を建立した。 Category:摂関 Category:鎌倉時代の公家 Category:鎌倉時代の歌人 うちつね うちつね Category:1291年生 Category:1325年没.
一条経通
一条 経通(いちじょう つねみち)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。1336年の南北分裂後は北朝側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務め、同時に藤氏長者となった。.
九条基家
九条 基家(くじょう もといえ)は、鎌倉時代中期の公卿・宮廷歌人。正二位内大臣。後九条内大臣、または鶴殿と号す。摂政太政大臣九条良経の三男。九条道家の異母弟。.
九条しゅん子
九条 竴子(くじょう しゅんし/よしこ、承元3年旧5月22日(1209年6月25日)- 天福元年旧9月18日(1233年10月22日))は、鎌倉時代の后妃、国母、女院。後堀河天皇の中宮で、四条天皇と皞子内親王の母。女院号は藻璧門院(そうへきもんいん)。父は摂政関白左大臣九条道家、母は太政大臣西園寺公経女・掄子(綸子)。摂政関白左大臣九条教実、二条家の祖となった関白左大臣二条良実、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経、一条家の祖となった摂政関白左大臣一条実経らは同母弟にあたる。.
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九条尚実
九条 尚実(くじょう なおざね、享保2年6月21日(1717年7月29日)- 天明7年9月22日(1787年11月1日))は、江戸時代中期の公家。関白輔実の三男。母は後西天皇の第十皇女益子内親王。同母兄に師孝、幸教が、同母姉に尾張藩主徳川吉通の正室となった輔姫がいる。子に道前、松殿忠孝がいる。 はじめは尭厳と名乗り、門跡である随心院に入り、権僧正に任じられる。兄幸教の子稙基が死亡したため、寛保3年(1743年)5月9日に還俗し、九条家を継ぐ。延享元年(1744年)4月13日従三位に叙せられる。宝暦事件では関白一条道香、近衛内前、鷹司輔平ら摂関家公卿と協力し、桃園天皇側近の尊皇論者である清華家以下の公家を失脚させ、摂関家の優位性を保つことに成功した。宝暦9年(1759年)から安永7年(1778年)にかけて左大臣を務め、同年から安永8年(1779年)まで後桃園天皇の関白を務める。 同年後桃園天皇が22歳の若さで崩御する。生まれたばかりの皇女欣子内親王を新帝の后とする事で公卿の意見は一致したが、後桜町上皇と長老格の前関白近衛内前は、当時あった四宮家の中で最も格式が高い伏見宮家の嘉禰宮を推した。これに対し、尚実は最も皇統に近い閑院宮家の師仁王を推した。10日余りの論争の末、閑院宮家の師仁王が新帝として擁立されることになり、諱を兼仁と改めて即位した。その後、尚実は光格天皇の下で摂政、関白、太政大臣を務め、准三后に叙せられた。 Category:摂関 Category:江戸時代の公家 Category:真言宗の僧 Category:真言宗善通寺派 Category:還俗した人物 なおさね なおさね Category:1717年生 Category:1787年没.
九条尚忠
九条 尚忠(くじょう ひさただ、寛政10年7月25日(1798年9月5日) - 明治4年8月21日(1871年10月5日))は、江戸時代後期から明治時代の公家。官位は従一位・関白。 昭和天皇の曽祖父である。.
九条尚経
九条 尚経(くじょう ひさつね、応仁2年11月25日(1469年1月7日) - 享禄3年7月8日(1530年8月1日))は、室町時代・戦国時代の公卿。九条家第15代目当主。九条政基の長男。母は従三位智子(姓不明)。異母弟に細川澄之らがいる。室は保子(三条西実隆の娘)。子に九条稙通・花山院家輔(花山院忠輔養子)・尋円(興福寺別当)・経子(二条尹房室)、大岡善吉がいる。後慈眼院と号す。法名は行智。道号は花渓。「尚」の字は、将軍足利義尚より偏諱を賜ったものである。 九条家が最も没落した時期の当主で、明応5年(1496年)、父とともに家司唐橋在数を殺害し、勅勘に処せられた。その後許され、文亀元年(1501年)関白・藤氏長者となる。永正3年(1506年)に左大臣となり、同11年(1514年)には従一位に叙せられる。享禄3年(1530年)、63歳で死去し、東福寺で葬礼が行われた。 日記『後慈眼院殿記』及び有職故実書『後慈眼院尚経公装束抄』を著した。.
九条師孝
九条 師孝(くじょう もろたか、元禄元年10月4日(1688年10月27日) - 正徳3年6月25日(1713年8月15日))は江戸時代の公卿。父は九条輔実。母は益子内親王(後西天皇皇女)。兄弟に九条幸教(師孝の養子)・九条輔子(徳川吉通室)・九条尚実らがいる。妻は浅野綱長の娘。号は如法光院。.
九条師教
九条 師教(くじょう もろのり)は、鎌倉時代後期の公卿。関白九条忠教の一男で、母は西園寺公相の女。正室は亀山天皇皇女(欠名)で、子に道教・覚尊(興福寺別当)がいる他、実弟房実を養子とした。号に己心院。浄土寺摂政。.
九条幸家
九条 幸家(くじょう ゆきいえ)は、江戸時代初期の公家。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。関白・左大臣に昇った。初名は忠栄(ただひで)。また一字名として「匀」とも。.
九条幸経
九条 幸経(くじょう ゆきつね)は江戸時代後期の公卿。実父は鷹司政通。号は平等信院。正二位、権大納言。.
九条幸教
九条 幸教(くじょう ゆきのり、元禄13年5月16日(1700年7月2日) - 享保13年5月26日(1728年7月3日))は江戸時代の公卿。父は九条輔実。義母は益子内親王(後西天皇皇女)。実母は側室。兄弟に九条師孝、九条尚実。院号は無量信院。子は九条稙基、二条宗基。室は徳川三千君(徳川吉通長女、徳川継友養女)。従二位。.
九条任子
九条 任子(くじょう たえこにんし、承安3年9月23日(1173年10月31日) - 暦仁元年12月28日(1239年2月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての后妃、女院。後鳥羽天皇の中宮。父は摂政関白九条兼実。母は中宮職藤原季行の女・兼子。院号は宜秋門院(ぎしゅうもんいん)。法名は清浄智。所生に昇子内親王(春華門院)がいる。.
九条彦子
九条 彦子(くじょう げんし/ひろこ、1227年(安貞元年) - 1262年1月26日(弘長2年1月5日)は、鎌倉時代の女院である。四条天皇の女御で、九条道家の孫娘で光明峰寺入道九条教実の娘。母は西園寺嘉子。女院号は宣仁門院。 「彦子」の名前はかつて彼女の叔母で四条天皇の生母である九条竴子が入内した際に、父の九条道家がこの名前を与えようとしたところ藤原定家の諫言などで取りやめた経緯があった。道家は亡き竴子の忘れ形見である四条天皇の后となる同じく亡き教実の忘れ形見である孫娘に自分が希望した名前を与えることになったのである(なお、諫言をした藤原定家は彦子の入内直前に死去している)。 1241年(仁治2年)1月3日に従三位に叙任。同年に入内し12月13日四条天皇の女御となる。しかし翌1242年(仁治3年)1月9日四条天皇が急死。同年12月准三宮、1243年(寛元元年)2月院号宣下、10月出家。1262年(弘長2年)1月5日に崩御。享年36。.
九条忠基
九条 忠基(くじょう ただもと、興国6年/貞和元年(1345年)- 応永4年12月20日(1398年1月8日))は、南北朝時代の公卿。従一位。関白。父は九条経教、母は内大臣三条実忠の娘。弟に九条教嗣、九条満教の他尊経、孝円、経覚、仁意がいる。異母弟九条満教を養子にした。 正平12年/延文2年(1357年)従三位に叙せられる。左大臣などを歴任した後、天授元年/永和元年(1375年)12月27日従一位関白に就任、天授5年/康暦元年(1379年)8月22日辞職。応永4年(1397年)12月20日薨去。.
九条忠家
九条 忠家(くじょう ただいえ)は鎌倉時代の公卿。摂政関白左大臣・九条教実の長男。官位は従一位・摂政関白右大臣。号に一音院関白。.
九条忠教
九条 忠教(くじょう ただのり、宝治2年(1248年) - 正慶元年/元弘2年12月6日(1332年12月24日))は鎌倉時代の公卿、従一位・関白、通称に報恩院関白。父は九条忠家。母は三条公房の娘。室は二条道良の娘、西園寺公相の娘、藤原有時の娘、二条道良の娘。子に九条師教、九条房実、尊覚(興福寺別当)、教寛(東大寺別当)、二条兼基室(禖子)。.
九条兼孝
九条 兼孝(くじょう かねたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての関白。九条家第17代目当主。同家第15代当主の九条尚経は曽祖父にあたる。後月輪と号した。.
九条兼実
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。.
九条兼晴
九条 兼晴(くじょう かねはる、寛永18年2月6日(1641年3月17日) - 延宝5年11月12日(1677年12月6日))は江戸時代前期の公卿。九条家第20代当主。父は左大臣鷹司教平。母は権大納言冷泉為満の娘。兄弟に鷹司房輔・鷹司信子(徳川綱吉正室)・鷹司房子(霊元天皇中宮)らがいる。正室は九条道房の娘九条待姫。号は後往生院。 子に九条輔実・二条綱平(二条光平養子)・本願寺光澄(本願寺光常養子)らがいる。.
九条稙基
九条 稙基(くじょう たねもと、享保10年10月13日(1725年11月17日) - 寛保3年2月22日(1743年3月17日))は江戸時代中期の公卿。父は内大臣・九条幸教。母は徳川三千君(徳川吉通の娘)。弟に二条宗基。号は後東光院。正二位。「稙」の字は、かつて室町幕府第10代将軍・足利義稙から偏諱の授与を受けた第16代当主九条稙通からその1字を取ったものである。.
九条稙通
九条 稙通(くじょう たねみち) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿・古典学者。五摂家の一つ、九条家の第16代当主。一字名に玖・身。.
九条立子
九条 立子(くじょう りっし/たつこ、建久3年(1192年) - 宝治元年12月21日(1248年1月18日))は鎌倉時代の后妃、女院。摂政九条良経の長女(母は権大納言一条能保の女)で、順徳天皇の中宮となる。仲恭天皇の母。院号は東一条院(ひがしいちじょういん)。法名は清浄観。 承元4年(1210年)に順徳天皇のもとへ入内したが、『愚管抄』によれば、当初は土御門天皇に入内させるべく準備が進められていたところを、後鳥羽院たっての要請により弟で東宮の守成親王、後の順徳天皇への入内が決められたという。同年12月29日に女御宣下され、翌承元5年(1211年)1月22日には中宮に冊立。建保5年(1217年)3月22日諦子内親王(明義門院)を出産。建保6年(1218年)10月10日には懐成親王、後の九条半帝(仲恭天皇))を出産する。 承久3年(1221年)の承久の乱で、夫・順徳上皇が佐渡島に配流となると、その翌年の3月25日に院号宣下あって、東一条院となる。嘉禄2年(1226年)8月7日出家。宝治元年(1247年)崩御。享年57。.
九条経教
九条 経教(くじょう つねのり、元弘元年/元徳3年(1331年) - 応永7年5月21日(1400年6月13日))は、南北朝時代の公家。関白二条道平の子で関白九条道教の養子となった。官位は従一位・関白・左大臣。.
九条道孝
九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 昭和天皇の外祖父である。.
九条道実
九条 道実(九條 道實、くじょう みちざね、1870年1月16日(明治2年12月15日)- 1933年(昭和8年)1月19日『平成新修旧華族家系大成』上巻、537-538頁。)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院公爵議員。.
九条道家
九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.
九条道前
九条 道前(くじょう みちさき、延享3年6月13日(1746年7月30日) - 明和7年6月5日(1770年6月27日))は江戸時代の公卿。父は九条尚実。妻は徳川宗勝の八女・恭姫(譲子)。子は九条輔家。号は盛光院。.
九条道秀
九条 道秀(九條、くじょう みちひで、1895年(明治28年)8月9日 - 1961年(昭和36年)5月27日『平成新修旧華族家系大成』上巻、537-538頁。)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院公爵議員。.
九条道房
九条 道房(くじょう みちふさ、慶長14年8月13日 (1609年9月11日) - 正保4年1月10日 (1647年2月14日))は、江戸時代前期の公家。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。摂政・左大臣に昇った。初名は忠象(ただかた)。徳川家光の甥にあたる。 九条幸家の次男として生まれる。母は豊臣完子。元和元年(1615年)従三位に叙せられ、以後も昇進を続ける。 正保4年(1647年)に摂政となるが、その5日後に薨去した。享年39。 正室は鶴姫(松平忠直の娘)。なお、道房と鶴姫は従兄妹である(母親同士が異父姉妹)。 子は5女があり、婿養子九条兼晴の正室待姫のほか、愛姫(浅野綱晟室)、令姫(東本願寺常如光晴室)、梅姫(松平綱賢室)、八代姫(浅野綱晟継室)。.
九条道教
九條 道教(くじょう みちのり)は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿。.
九条輔実
九条 輔実(くじょう すけざね、寛文9年6月16日(1669年7月13日) - 享保14年12月12日(1730年1月30日))は江戸時代中期の摂政・関白。左大臣九条兼晴の長男。母は九条道房の娘・九条待姫。正室は益子内親王(後西天皇皇女)。 子に九条師孝、九条幸教(師孝の養子)、九条輔子(徳川吉通正室)、九条尚実らがいる。号は後洞院。 絵画が得意で、京都上善寺の弁天十五童子は彼の遺作といわれている。.
九条輔家
九条 輔家(くじょう すけいえ、明和6年9月12日(1769年10月11日) - 天明5年6月19日(1785年7月24日))は江戸時代の公卿。父は九条道前。母は、徳川宗勝女・恭姫。嫡男の九条輔嗣は養子(輔家には子供ができなかった為)。正二位。権大納言。号は瑠璃光院。.
九条輔嗣
九条 輔嗣(くじょう すけつぐ、天明4年9月15日(1784年10月28日) - 文化4年1月28日(1807年3月6日))は江戸時代後期の公卿。二条治孝の次男。母は徳川宗翰の娘。養父は九条輔家。嫡男(養嗣子)は実弟の九条尚忠。正二位、権大納言。.
九条良平
九条 良平(くじょう よしひら、元暦元年4月19日(1184年5月30日) - 延応2年3月17日(1240年4月10日))は、鎌倉時代の公卿。九条兼実の三男で、母は藤原頼輔の女。兄九条良経の養子となり、醍醐太政大臣と呼ばれる。 侍従、右少将、左中将などを経て、元久元年(1204年)に参議となり、その後権中納言、権大納言、大納言と歴任。元仁元年(1224年)、内大臣に就任。安貞元年(1227年)には、左大臣となったが、病のため辞任。しかし、暦仁元年(1238年)太政大臣として官界に復帰した。暦仁2年(1239年)再び病を得て出家。翌年播磨で没した。 よしひら Category:1184年生 Category:1240年没 Category:鎌倉時代の公家.
九条良経
九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。摂政関白・九条兼実の次男。 小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」。 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ.
九条良輔
九条 良輔(くじょう よしすけ、文治元年9月20日(1185年10月15日) - 建保6年11月11日(1218年11月30日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。摂政関白・九条兼実の四男。官位は従一位・左大臣。八条と号す。.
九条良通
九条 良通(くじょう よしみち、仁安2年11月6日(1167年12月19日) - 文治4年2月20日(1188年3月19日))は、平安時代末期の公卿。摂政関白・九条兼実の長男。母は藤原季行の娘。妻は花山院兼雅の娘。官位は正二位・内大臣。九条内大臣、冷泉内大臣と号す。.
九条通
九条通(くじょうどおり)は、京都市の主要な東西の通りの一つ。平安京の南端の九条大路にあたる。東は鴨川の九条跨線橋東詰の東福寺交差点でそのまま東大路通につながり、西は葛野大路通に突き当たる。千本通から西でやや南へ、西大路通からはさらに大きく南に振れていて、平安時代のものとは大きくずれている。 現在の千本通との交差点あたりに羅城門があった。その羅城門は980年(天元3年)に暴風雨で倒壊した後には再建されず、現在は碑が立っているのみとなっている。 1926年(昭和初年)に道路拡幅された。 1939年(昭和14年)京都市電九条線が東大路から西大路まで全通するが、市電は1978年(昭和53年)に廃止となった。 油小路通から壬生川通(京阪国道口)までは国道1号、壬生川通から葛野大路通にかけては国道171号となっている。.
九条武子
200px 九条 武子(くじょう たけこ、1887年(明治20年)10月20日 - 1928年(昭和3年)2月7日)は、教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活動した。.
九条満家
九条 満家(くじょう みついえ、応永元年(1394年) - 文安6年5月4日(1449年5月25日))は、室町時代の関白。関白・九条経教の三男。兄に九条忠基、九条教嗣、弟に孝円、道尊、孝信、経覚らがいる。室に唐橋在豊女らが、子に政忠・政基・尋実(興福寺)がいる。号は後三縁院。.
九条房実
九条 房実(くじょう ふさざね)は鎌倉時代の公卿。摂家九条家の8代当主。後一音院関白と号す。.
九条流
藤原頼通 |支流.
九条政基
九条 政基(くじょう まさもと、文安2年5月7日(1445年6月12日) - 永正13年4月4日(1516年5月5日))は、室町時代末期から戦国時代初期の公家。関白・九条満家の子。従一位・関白・左大臣・准三宮。「政」の字は足利義政から偏諱を受けたものである。慈眼院と号す。.
九条政忠
九条 政忠(くじょう まさただ)は、室町時代の関白。 関白九条満家の子。弟に九条政基・尋実がいる。子に政超(室町幕府第6代将軍足利義教の猶子・権僧正)・忠厳(准三宮・東大寺別当)・桓昭(法成寺平等院執印)・忠承(延暦寺大僧正)がいる。 室町幕府第8代将軍足利義成から偏諱「成」を与えられ成家(しげいえ)と名乗る。のちに義成が「義政」に改名すると、重ねて「政」の字を与えられて政忠と名乗った。普門寺と号す。 宝徳3年(1451年)12歳で従三位に叙せられる。康正2年(1456年)正二位に昇叙される。25歳で内大臣となるが、弟の政基との間に家督争いが生じ、隠居を余儀なくされる(公卿補任)。その後宮廷に復帰して、長享元年(1487年)関白に就任、長享2年(1488年)に藤氏長者となるが、同年8月23日に49歳で薨去した。.
九条教実
九条 教実(くじょう のりざね、承元5年1月5日(1211年1月21日) - 文暦2年3月28日(1235年4月23日))は、鎌倉時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・九条道家の長男。官位は従一位摂政関白左大臣。通称に洞院摂政(とういん せっしょう)、洞院殿など。.
九条教家
九条 教家(くじょう のりいえ、建久5年(1194年) - 建長7年4月28日(1255年6月4日))は、鎌倉時代前期の公卿。九条良経の次男で母は一条能保の娘。九条良輔の養子。同母兄に九条道家がいる。弘誓院と号する。法名は観空、後に慈観。 12歳で近衛中将となり、承元元年(1207年)11月29日には14歳で従三位に叙される。建暦元年(1211年)1月に中宮権大夫、建保2年(1214年)1月に中納言、同6年(1218年)1月に中宮大夫、12月に大納言に任じられる。また、書家としても優れ、弘誓院流を確立する。 嘉禄元年(1225年)9月3日に32歳で明恵を戒師として出家した。『公卿補任』によれば「菩提心」によるものとされているが、一説によれば養父・良輔の没後、九条家の実権を取り戻した教家の実兄・道家による追い落としの圧迫を受けたことに加え、良輔・教家親子の後見人的な存在であった慈円が危篤に陥り(9月26日死去)、将来を悲観したとする説もある(教家の出家により、道家の嫡男九条教実は上臈大納言となり、更に教家が任じられていた橘氏是定の地位を奪った)。なお、3日後には良輔・教家父子に仕えていた藤原光家(定家の子)もこれに倣って出家している。.
九条教嗣
九條 教嗣(くじょう のりつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。.
九條道弘
九条 道弘(くじょう みちひろ、1933年(昭和8年)12月13日 - 2017年(平成29年)9月16日)は、日本の神職、平安神宮名誉宮司。 五摂家の一つ、元公爵九条家の第35代当主。子に九条道成。.
平安神宮
平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。.
平氏政権
平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)に登場した平清盛を中心とする伊勢平氏による政権。清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権ともいう。.
乙訓郡
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京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
京都御苑
京都御苑(きょうとぎょえん)は京都府京都市上京区にある国民公園。京都御所の周囲の地区を指す。.
二条基弘
二条 基弘(にじょう もとひろ、安政6年10月25日(1859年11月19日) - 昭和3年(1928年)4月2日)は、日本の華族。宮中顧問官、正二位勲二等公爵となる。九条尚忠の八男で、従兄・二条斉敬の養子となる。1890年(明治23年)9月から1920年(大正9年)1月まで貴族院議員を務める。斉敬の実子である二条正麿男爵は義弟。.
二条家
二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.
二条宗基
二条 宗基(にじょう むねもと、享保12年5月20日(1727年7月8日) - 宝暦4年1月18日(1754年2月9日))は江戸時代の公卿。父は九条幸教。養父は二条宗熙。母は徳川三千君(尾張藩四代藩主徳川吉通の長女)。子に二条重良、二条治孝、五千姫(基子。本願寺文如室)がいる。号は後敬心院。元文4年(1739年)正月、将軍家より諱を得るという二条家の伝統に則り、養父同様、将軍徳川吉宗から偏諱(「宗」の字)を授かる。昭和天皇は宗基の来孫に当たる。.
二条尹房
二条 尹房(にじょう ただふさ)は、戦国時代の公家。二条家第13代目当主。父は関白二条尚基。母は家女房。.
二条康道
二条 康道(にじょう やすみち)は、江戸時代前期の公卿・藤氏長者。藤原氏摂関家二条家の第16代当主。摂政・左大臣に昇った。関白九条幸家の長男。母は豊臣完子。養父は大叔父二条昭実。九条道房、松殿道基らの兄。幼名は松鶴。 慶長18年(1613年)、正五位下に叙せられて元服し、徳川家康より「康」の字を贈られて康道と名乗る(これ以降斉敬の代まで徳川将軍家から偏諱を賜るようになった)。 寛文6年(1666年)、薨去。享年60。 正室は貞子内親王(後陽成天皇皇女、後水尾天皇同母妹)。子女に二条光平、瑞照院日通(瑞龍寺三世)、華山仙禅師(慈受院五世)がいた。.
二条綱平
二条 綱平(にじょう つなひら、寛文12年4月13日(1672年5月10日) - 享保17年2月6日(1732年3月2日))は江戸時代の関白。父は九条兼晴。母は家女房。養父は二条光平。号は敬信院。子に吉忠がいる。室は栄子内親王(霊元天皇第三皇女、母は中宮鷹司房子)。「綱」の字は将軍徳川家綱からの偏諱、「平」は養父・光平の1字である。.
二条良実
二条 良実(にじょう よしざね)は、鎌倉時代中期の公卿。通称は福光園関白(ふっこうえん かんぱく)。極位極官は従一位関白左大臣。 摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経、子に左大臣二条道良、権大納言二条教良、関白左大臣二条師忠、非参議二条経通、摂政左大臣二条兼基がいる。.
二条治孝
二条 治孝(にじょう はるたか、宝暦4年9月15日(1754年10月30日) - 文政9年10月6日(1826年11月5日))は江戸時代後期の公卿。父は二条宗基。母は家女房。正室は嘉姫(水戸藩5代藩主徳川宗翰の娘)。側室に信子(権大納言樋口基康の娘)。子女は二条斉通、九条輔嗣、西園寺寛季、二条斉信、九条尚忠(輔嗣養子)、隆子(乗蓮院、徳川治国室)、親子(本願寺本如光摂室)、保子(徳川斉敦正室)、福子(黒田斉清正室)、千万(鍋島直与継室)、最子(松平頼縄継室)など。其の他にも夭折した子女がいる。号は法寿金剛院。「治」の字は将軍徳川家治からの偏諱。 昭和天皇の高祖父である。.
二条晴良
二条 晴良(にじょう はるよし / はれよし)は、戦国時代・安土桃山時代の公卿・藤氏長者。二条家第14代目当主。父は関白・二条尹房。母は九条尚経の長女・経子。後明珠院と号す。.
建長
建長(けんちょう)は、日本の元号の一つ。宝治の後、康元の前。1249年から1256年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、宗尊親王、執権は北条時頼。.
伊木忠恭
伊木 忠恭(いぎ ただゆき、天保7年9月11日(1836年10月20日) - 明治9年(1876年)11月14日)は、幕末の岡山藩最後の筆頭家老。第15代伊木家当主。通称は若狭。.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
後二条師通記
後二条師通記(ごにじょうもろみちき)は、平安時代後期に活躍した藤原師通の記した日記。原本は一条家に伝来していた。後二条関白記、後二条殿記とも。 永保3年(1083年)から康和元年(1099年)まで書かれたらしいが、うち数年分が欠ける。寛治7年(1093年)分の一部の自筆本が伝わる。この自筆本と、後に藤原頼長が書写させた古写本が、陽明文庫に伝わり、ともに国宝に指定されている。また、宮内庁書陵部にも古写本よりも時代が下ると見られる新写本が伝えられている。 同時代に記された日記に、中右記(藤原宗忠)、時範記(平時範)など。.
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後嵯峨天皇
後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.
後光厳天皇
後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.
後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.
後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.
北朝 (日本)
北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.
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嘉元
嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.
嘉禎
嘉禎(かてい)は、日本の元号の一つ。文暦の後、暦仁の前。1235年から1237年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.
内覧
内覧.
公家
公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.
公爵
公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.
元亨
元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.
元服
元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.
勘当
勘当(かんどう)は日本の風習で、親が子に対して親子の縁を切ること。.
勅
勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令、または、その命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。なお、秘密裏に行われるものを密勅(みっちょく)という。.
国立歴史民俗博物館
国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.
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皇后
皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.
玉葉
『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.
細川澄之
細川 澄之(ほそかわ すみゆき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。第29代室町幕府管領。第13代細川京兆家当主。第24、26、27、28代室町幕府管領・細川政元の養子となった。.
紀伊郡
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綸旨
綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.
経覚
経覚(きょうかく/ぎょうかく、応永2年(1395年)- 文明5年8月27日(1473年9月19日))は、室町時代の法相宗の僧侶。父は関白九条経教、母は浄土真宗本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めた事でも知られている。諡号は後五大院。.
花山院家定
花山院 家定(かざんいん いえさだ)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位右大臣。金光院入道右大臣と号す。父は権大納言花山院家教。子に花山院良定、花山院経定、花山院長定等がいる。.
花山院家輔
花山院 家輔(かざんいん いえすけ)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遺言
遺言(ゆいごん、いごん、いげん)とは、日常用語としては形式や内容にかかわらず広く故人が自らの死後のために遺した言葉や文章をいう。日常用語としてはゆいごんと読まれることが多い。このうち民法上の法制度における遺言は、死後の法律関係を定めるための最終意思の表示をいい、法律上の効力を生じせしめるためには、民法に定める方式に従わなければならないとされている(民法960条)。法律用語としてはいごんと読まれることが多い。.
菊麿王妃範子
菊麿王妃範子(きくまろおうひのりこ、1878年(明治11年)12月4日 - 1901年(明治34年)11月11日)は、日本の皇族。山階宮菊麿王の先妃。旧摂家、公爵・九条道孝の二女。貞明皇后は同腹の妹である。.
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華族
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.
角川書店
角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.
譲状
譲状(ゆずりじょう)は処分状(しょぶんじょう)とも呼ばれ、古代から中世にかけて、所領などの財産を親族などに譲渡する際にその事実を証明するために所有者が譲渡相手に対して作成した証文のこと。一般的には相続による遺産配分に関する取り決めを被相続人で作成者から相続人である親族に渡すケースが多かった。単独相続制の成立した室町時代中期以後はほとんど作成されなくなる。以後も戦国時代にかけては家督相続の後継者に選んだ親族に対してその正当性を示すために渡される事もあったが、次第に置文などの形式に替わってゆくことになる。 なお、譲状と処分状は書式において違いがある(譲状には冒頭において必ず「譲与(譲り与う)」という文言が記された)ものの、その趣旨・内容に関してはほぼ同じものである。また、僧侶が自ら住持する寺院を弟子などに譲渡する場合には同様の目的を持った付属状(ふしょくじょう)が作成された。 平安時代前期の10世紀初頭より、目上の相手に譲渡の約束を保証してもらうために「解」の書式を取った文書が作成された。平安時代後期に入ると、一定の書式が定められるようになり、文書も直接譲渡相手に渡されるようになった。譲状であれば、「譲与~~事」という書き出しに始まり、「譲渡(譲り渡す)○○」と譲与文言とその対象が書かれ、最後に「譲状如件(譲状件の如し)」で締めくくる様式であり、処分状であれば、冒頭あるいは文中に「処分」の語が入っているものとされていた。ただし、後日法的な証拠となりうる物であったから、日付は年号から書き、本人の自筆及び署名が求められ、証人の加判が必要とされた。なお、譲状や処分状の書式に従わない形式の文書によっても効力は生じたが、正式な証文とはみなされず、法的には不利な扱いを受ける事もあった。 前述のように譲状は相続など後日を期して効果を発揮する場合も多く、期日の到達以前に何らかの事情で譲状に書かれた譲渡の約束が取り消される場合も存在した。これを「悔返」と呼ぶ。悔返は公家法では認められていなかった(異説もある)が、武家法においては時間的に後から作成された譲状を有効としてこれを認めた。ただし、妻妾や子孫に対するものに限られ、兄弟などへの譲渡は他人への譲渡(他人和与)とみなされて悔返は認められなかった。このため、弟や甥に家督を譲る場合にも後日の事を考えて養子として親子関係を結ぶことが行われるようになった。 鎌倉幕府は御家人の義務遂行能力の確保の観点からその所領相続の円滑化に関心を抱き、譲状を幕府に提出させ、それに応じて惣領には下文(将軍家政所下文)、庶子には下知状(関東下知状)という形式の安堵状を与えて内容を保障していたが、嘉元元年(1303年)以後においては、惣領・庶子ともに下知状に倣う形式で譲状の袖(外題)に「安堵」の文字を加えて外題安堵も行われた。室町幕府も安堵方という役職を設置して同様の処理を行った。 Category:日本の歴史資料 Category:日本の私法.
豊島郡 (大阪府)
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貞治
貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.
貞明皇后
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年(明治17年)6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、大正天皇の皇后。九条道孝(華族・公爵)の四女。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。.
鶴殿忠善
殿 忠善(靏殿、つるどの ただよし、 1853年6月4日(嘉永6年4月28日『平成新修旧華族家系大成』下巻、120頁。)- 1895年(明治28年)3月11日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』78頁。)は、明治期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・九条、伊木。旧名・増縁。.
鷹司信尚
鷹司 信尚(たかつかさ のぶひさ、天正18年4月14日(1590年5月17日) - 元和7年11月19日(1621年12月31日))は、江戸時代初期の公卿。父は鷹司信房。母は継室である佐々輝子。兄弟姉妹に鷹司孝子、松平信平、子は鷹司教平、娘(花山院定好室)。後陽成天皇第三皇女の清子内親王は室。従一位。号は景皓院。.
鷹司信房
鷹司 信房(たかつかさ のぶふさ、永禄8年10月25日(1565年11月17日) - 明暦3年12月15日(1658年1月18日))は安土桃山時代から江戸時代にかけての公卿。父は二条晴良。母は伏見宮貞敦親王王女の位子。継室は佐々輝子。兄弟に九条兼孝、二条昭実、義演、子に鷹司信尚、松平信平、鷹司孝子(徳川家光正室)らがいる。従一位。.
鷹司煕通
鷹司 煕通(たかつかさ ひろみち、安政2年2月16日(1855年4月2日) - 1918年(大正7年)5月17日)は、日本の華族、陸軍軍人。侍従長、貴族院議員。官位は陸軍少将従一位勲一等公爵。.
鷹司政通
鷹司 政通(たかつかさ まさみち)は、江戸時代の公家、政治家。父は関白・鷹司政煕、母は正室・蜂須賀儀子。正室は徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。.
鷹司教平
鷹司 教平(たかつかさ のりひら、慶長14年1月10日(1609年2月14日) - 寛文8年10月3日(1668年11月7日))は江戸時代の公卿。父は鷹司信尚。母は後陽成天皇第三皇女清子内親王。正室は文智女王。側室に冷泉為満の娘がいる。子に鷹司房輔、九条兼晴、鷹司信子(徳川綱吉正室)、鷹司房子(霊元天皇の中宮)、俊海(九条兼晴猶子)らがいる。号は一致院。一字名は雲・謙・公。権大納言左大将。従一位(1655年(承応4年)1月29日叙)。.
近衛基実
近衞 基実(このえ もとざね)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。通称は六条摂政(ろくじょう せっしょう)。五摂家の一つとなった近衞家の祖。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
藤原基経
藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.
藤原忠通
藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。.
藤原北家
藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.
藤原兼房 (太政大臣)
藤原 兼房(ふじわら の かねふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の十男。官位は従一位・太政大臣。.
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藤原聖子
藤原 聖子(ふじわら の きよこ、保安3年(1122年) - 養和元年12月4日(1182年1月10日))は平安末期の后妃。崇徳天皇の中宮、近衛天皇の養母、女院。院号は皇嘉門院(こうかもんいん)。 摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女、母は北政所従一位・藤原宗子(権大納言・藤原宗通の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。.
藤原頼嗣
藤原 頼嗣(ふじわら の よりつぐ)は、鎌倉幕府5代将軍。五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍。九条頼嗣とも呼ばれる。.
藤原頼経
藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤氏長者
藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.
長子相続
長子相続(ちょうしそうぞく)とは、直系卑属にあたる長子(一般には長男)が相続するという形態尾形勇編『歴史学事典10 身分と共同体』(弘文堂、2003年)430頁。。 前近代社会では相続によって継承されるものは個人的な私有財産ではなく家産であると考えられていた。相続の第一目的は直系家族の維持(家の存続)であるとされ、それに最も適合的だったのが長子相続であった。つまり子のうち親との年齢差が最も少ない長子が相続することが父系的な継承線の維持にとって最も合理的と考えられていた。.
長男
長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.
良円
良円(りょうえん、治承3年7月13日(1179年8月17日) - 承久2年1月14日(1220年2月19日)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての興福寺の僧。父は太政大臣九条兼実、兼実の同母弟である慈円の弟子であり後に天台座主となった良快とは同母兄弟である。 1189年(文治5年)に父の意向で出家し興福寺に入り、別当職を辞したばかりの信円に師事して法相教学を受けた。1196年(建久7年)には18歳にして維摩会の講師となり、その優れた才能故に師である信円や父である兼実のみならず、父の政敵であった源通親の弟である雅縁などからも将来を嘱望され、1207年(承元元年)に雅縁の跡を襲う形で興福寺別当職に就いた。 しかしながら生来病弱であったらしく別当職の激務に耐えられず、翌1208年(承元2年)にわずか1年あまりでその職を辞し、1218年(建保6年)に再度別当職に就いていた雅縁の後継として別当職に補され僧正となったものの、在任中の1220年(承久2年)に院主を務めていた一条院で没している。 Category:平安時代の僧 Category:鎌倉時代の僧 Category:九条家 Category:1179年生 Category:1220年没.
英照皇太后
英照皇太后(えいしょうこうたいごう、天保5年12月13日(1835年1月11日)天保4年11月13日(1833年12月23日)誕生とする資料もあるが、これは誤り。皇太子統仁親王との婚姻時、親王との年齢差「中四つ」(3歳違い)を忌み嫌う風習があったので、一年早い天保4年を公式の生年としたのが真相である(小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』「英照皇太后」の項目、河内八郎執筆)。 - 明治30年(1897年)1月11日)は、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない)。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。.
東京
西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.
東京国立博物館
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.
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東福寺
京都名所之内 通天橋紅楓(歌川広重) 通天橋 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。.
松殿基房
松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。.
松殿家
松殿家(まつどのけ)は、摂関家として創設された公家のひとつ。藤原氏北家嫡流の藤原忠通の次男・松殿基房が祖で、家名の由来は京都に松殿と呼ばれる屋敷を構えたことによる。 本来であれば五摂家の近衛家・九条家に並ぶ家格の家であるが、藤原北家嫡流でありながら摂関は初代とその子の2人のみ、その後は大体が参議、出世しても権大納言がやっとで、戦国時代には断絶した。.
正応
正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.
武家
武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
法助
法助(ほうじょ、嘉禄3年閏3月5日(1227年4月22日) - 弘安7年11月21日(1284年12月29日))は、鎌倉時代中期の真言宗僧侶。摂政左大臣九条道家の5男。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。非皇族で初めて仁和寺門跡となり、僧侶として初めて准后となる。 嘉禎4年6月23日(1238年8月4日)に12歳で出家して京都仁和寺の道深法親王に学び、同年に東大寺戒壇院において満分戒を受ける。延応元年7月26日(1239年8月26日)に一身阿闍梨の宣下を受け、翌27日に准后宣下を受ける。寛元元年11月28日(1244年1月9日)、八大師御影を図し、翌年12月観音院において道深法親王より伝法潅頂を受ける。建長元年(1249年)、皇胤以外で初めて仁和寺第10世を継承して教説を講ずる。正嘉2年(1258年)門跡の地位を辞して性助入道親王に譲り、乙訓郡開田院に隠退。開田准后・開田御室と号す。文永元年(1264年)8月孔雀法を修す。弘安7年(1284年)58歳で示寂した。 後深草院二条の随筆『とはずがたり』に登場する「有明の月」のモデルは、性助入道親王もしくはこの法助ではないかと考えられている。 Category:鎌倉時代の僧 Category:真言宗の僧 Category:真言宗御室派 Category:九条家 Category:1227年生 Category:1284年没.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
明仁
明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は日本の第125代天皇(在位: 1989年(昭和64年)1月7日 - )である代数は皇統譜による。。現時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇(きんじょうてんのう)、または敬称をつけて天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれることが多い。 昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。 御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)。 日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
春日大社
一の鳥居 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
文保
文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.
文永
文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.
日記
日記(にっき)とは、日々の出来事を紙などに記録したものである。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅、ある職務、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。.
旧高旧領取調帳
旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.
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摂家
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.
摂家将軍
摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府将軍のうち、摂家から迎えられた将軍のこと。源氏将軍が絶えた後を継いだ第4代・藤原頼経と、その嫡男の第5代・藤原頼嗣の2人がこれにあたる。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれる。.
摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
摂政
摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.
摂政・関白の一覧
日本の摂政および関白(摂関)の一覧。 なお、摂政・関白の具体的な職掌などについてはそれぞれの項目を参照のこと。.
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愛宕郡
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慈円
慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.
1149年
記載なし。
1169年
記載なし。
1193年
記載なし。
11月29日 (旧暦)
旧暦11月29日は旧暦11月の29日目である。年によっては11月の最終日となる。六曜は先負である。.
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1206年
記載なし。
1207年
記載なし。
1210年
記載なし。
1235年
記載なし。
1238年
記載なし。
1246年
記載なし。
1252年
記載なし。
1265年
記載なし。
1273年
記載なし。
1291年
記載なし。
1304年
記載なし。
1318年
記載なし。
1324年
記載なし。
1365年
記載なし。
1507年
記載なし。
1553年
記載なし。
1586年
記載なし。
1594年
記載なし。
1609年
記載なし。
1636年
記載なし。
1641年
記載なし。
1647年
記載なし。
1665年
記載なし。
1669年
記載なし。
1677年
記載なし。
1688年
記載なし。
1700年
17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1713年
記載なし。
1717年
記載なし。
1725年
記載なし。
1728年
記載なし。
1730年
記載なし。
1743年
記載なし。
1746年
記載なし。
1769年
記載なし。
1770年
記載なし。
1784年
記載なし。
1785年
記載なし。
1787年
記載なし。
1798年
記載なし。
1807年
記載なし。
1823年
記載なし。
1839年
記載なし。
1859年
記載なし。
1870年
記載なし。
1871年
記載なし。
1895年
記載なし。
1906年
記載なし。
1933年
記載なし。
1961年
記載なし。
1963年
記載なし。
1969年
記載なし。
1996年
この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.
2000年
400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.
2007年
この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.
2017年
この項目では国際的な視点に基づいた2017年について記載する。.
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