ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

冷泉家

索引 冷泉家

冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家。家格は羽林家。代々近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。.

205 関係: 加古郡十六夜日記南北朝時代 (日本)同志社女子大学坊城俊良堂上家大内弘世大内義興大内氏大納言大覚寺統大正天皇大手前大学天皇天正太平洋戦争太政大臣夷川通外戚奈良華族婿養子嫡流子爵室町幕府室町時代家庭裁判所家系家長家柄家格守護官位宗家寛政山城国山科言行中山孝麿中山家中山愛親中国中納言中院家三条西家平安女学院大学平安京幕末久良親王久明親王乙訓郡京都...京都市京都府京都御苑京極氏京極派二条家二条派今城定政今城家今川氏今出川駅今出川通仙台藩伊達氏伯爵征夷大将軍侍従御子左家徳川家康徳川将軍家徳川氏後深草天皇応永地下家北陸地方別所氏和歌冷泉家時雨亭文庫冷泉為尹冷泉為久冷泉為人冷泉為広冷泉為任冷泉為和冷泉為勇冷泉為理冷泉為秀冷泉為章冷泉為系冷泉為純冷泉為紀冷泉為経冷泉為益冷泉為相冷泉為柔冷泉為恭冷泉為村冷泉為満冷泉為景冷泉隆豊冷泉氏冷泉派冷泉持為内裏入江家入江為守入江為常入江相政公家公家町六条家兵庫県勧修寺経逸勘事国立歴史民俗博物館国民公園四条隆昌稲美町竹内家織田信長羽林家烏丸家爵位絵師甘露寺経元狩野派相楽郡相模国白川伯王家花山院愛徳鎌倉鎌倉幕府荘園華族落胤飛鳥井家西四辻家駿河国豊臣秀吉豊臣氏足利将軍家足利義持足利義政蹴鞠近衛府能登国阿仏尼赤松氏関白関東大震災閑院宮藤原定家藤原北家藤原為家藤原惺窩藤谷家藤谷為寛藤谷為賢重要文化財集英社NHK出版柳原家柳原前光柳原紀光東宮侍従東京東京大空襲東海地方桂宮極位極官正四位武家武蔵国歌道毛利氏民部省江戸時代池坊短期大学持明院統朱子学有栖川宮戦国大名戦国時代 (日本)明治明治天皇明治維新昭和天皇新古今和歌集旧高旧領取調帳旗本摂家播磨国愛宕郡慶長所領1416年1585年1586年1598年1599年1790年1999年2004年2005年 インデックスを展開 (155 もっと) »

加古郡

*.

新しい!!: 冷泉家と加古郡 · 続きを見る »

十六夜日記

『十六夜日記』(いざよいにっき)は、藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記。中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『東関紀行』)のうちの一つ。内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど他の女流日記とは大きく趣きを異としている。鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重である。一巻。大別すると鎌倉への道中記と鎌倉滞在期の二部構成。弘安6年(1283年)ころ成立か。 阿仏尼自筆の原本は下冷泉家(安土桃山時代まで播磨国細川庄を伝領していた公家)に伝来していた。 成立当初、作者はこの日記に名前をつけておらず、単に『阿仏日記』などと呼ばれていたが、日記が10月16日に始まっていることを由来として後世に現在の名前が付けられた。.

新しい!!: 冷泉家と十六夜日記 · 続きを見る »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

新しい!!: 冷泉家と南北朝時代 (日本) · 続きを見る »

同志社女子大学

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と同志社女子大学 · 続きを見る »

坊城俊良

坊城 俊良(ぼうじょう としなが、1893年(明治26年)8月15日『平成新修旧華族家系大成』下巻、470-471頁。 - 1966年(昭和41年)5月30日)は、日本の宮内官、神職、華族。皇太后宮大夫、伊勢神宮大宮司、伯爵。.

新しい!!: 冷泉家と坊城俊良 · 続きを見る »

堂上家

堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。 中級貴族である地下の官人を除く公家を指す。江戸時代末期には137家があった。.

新しい!!: 冷泉家と堂上家 · 続きを見る »

大内弘世

大内 弘世(おおうち ひろよ)は、南北朝時代の武将、守護大名。周防・長門・石見守護。多々良姓大内氏の第9代当主。大内弘幸の子。義弘、満弘、盛見、弘茂らの父。.

新しい!!: 冷泉家と大内弘世 · 続きを見る »

大内義興

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.

新しい!!: 冷泉家と大内義興 · 続きを見る »

大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

新しい!!: 冷泉家と大内氏 · 続きを見る »

大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

新しい!!: 冷泉家と大納言 · 続きを見る »

大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

新しい!!: 冷泉家と大覚寺統 · 続きを見る »

大正天皇

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.

新しい!!: 冷泉家と大正天皇 · 続きを見る »

大手前大学

いたみ稲野キャンパ.

新しい!!: 冷泉家と大手前大学 · 続きを見る »

天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

新しい!!: 冷泉家と天皇 · 続きを見る »

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

新しい!!: 冷泉家と天正 · 続きを見る »

太平洋戦争

太平洋戦争(たいへいようせんそう、Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争である。日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館リンク切れ --> - 国立国会図書館リサーチ・ナビ(2012年12月20日版/2016年9月16日閲覧)。 日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。.

新しい!!: 冷泉家と太平洋戦争 · 続きを見る »

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

新しい!!: 冷泉家と太政大臣 · 続きを見る »

夷川通

堀川通(夷川通の西端)から見た夷川通 夷川発電所 冷泉通 夷川通(えびすがわどおり)は京都市内の東西の通りの一つ。東は鴨川西岸から西は堀川通まで。鴨川と寺町通の間ではやや南にずれている。 平安京の冷泉小路(れいぜいこうじ)にあたる。和歌で有名な公家の冷泉家は、この通り沿いに当初存在した。寺町通から烏丸通の間は建具・家具屋街として有名である。 鴨川東岸の冷泉通と二条通に挟まれた地域にも、西からの延長線上に夷川通が存在し、住所表示として「夷川通」が用いられている。なお、昭和10年の大洪水までは、鴨川に橋があり、これら東西の夷川通りはつながっていた。江戸時代の地図には西洞院川の上流部分で夷川通りの部分で東西に水が流れる部分(現在の夷川公園の北辺り)が短いながらもあり、この川が通りの名前の由来とされている。.

新しい!!: 冷泉家と夷川通 · 続きを見る »

外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

新しい!!: 冷泉家と外戚 · 続きを見る »

奈良華族

奈良華族(ならかぞく)は、奈良 興福寺の塔頭の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶のうち、明治維新後廃仏毀釈が進む中で勅令により復飾(還俗)し、公家社会に復帰して華族となることを得た26家の総称。いずれも明治17年(1884年)7月8日の華族令の施行とともに男爵が授爵された。 維新後新たに公家となり華族に列して男爵を授かった家はこの奈良華族以外にも十数家ある。そのほとんどが既存の堂上家からの分家によるものだが、このうちの3家は幕末まで興福寺以外の寺院の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶が復飾したもので、その成立過程には奈良華族のそれと本質的に類似した経緯がある。そこで本項では別節を立てこの3家についても紹介する。.

新しい!!: 冷泉家と奈良華族 · 続きを見る »

婿養子

婿養子(むこようし)は、婚姻と同時に夫が妻の親と養子縁組すること、またその場合に養子になった夫のことをいう。本記事では主に日本の民法における規定を説明する。歴史的な事柄は入婿を参照。.

新しい!!: 冷泉家と婿養子 · 続きを見る »

嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

新しい!!: 冷泉家と嫡流 · 続きを見る »

子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

新しい!!: 冷泉家と子爵 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 冷泉家と室町幕府 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 冷泉家と室町時代 · 続きを見る »

家庭裁判所

家庭裁判所(かていさいばんしょ、Family Court)は、家庭に関する事件の審判(家事審判)及び調停(家事調停)、少年の保護事件の審判(少年審判)などの権限を有する日本の裁判所。略称は家裁(かさい)。.

新しい!!: 冷泉家と家庭裁判所 · 続きを見る »

家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

新しい!!: 冷泉家と家系 · 続きを見る »

家長

家長(かちょう)とは、一家の家督を継承して家族を統括し、その祭祀を主宰する者を指す。当主と同義の言葉とされている。.

新しい!!: 冷泉家と家長 · 続きを見る »

家柄

家柄(いえがら)とは、先祖からの家すじを意味する。家格と同義とされることもある。.

新しい!!: 冷泉家と家柄 · 続きを見る »

家格

家格(かかく)とは、歴史において、ある氏族や家系が得た又は与えられた格式・評価をいう用語。.

新しい!!: 冷泉家と家格 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

新しい!!: 冷泉家と守護 · 続きを見る »

官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

新しい!!: 冷泉家と官位 · 続きを見る »

宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

新しい!!: 冷泉家と宗家 · 続きを見る »

寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

新しい!!: 冷泉家と寛政 · 続きを見る »

山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

新しい!!: 冷泉家と山城国 · 続きを見る »

山科言行

山科 言行(やましな ときゆき)は、江戸時代前期の公卿。山科家16代当主。.

新しい!!: 冷泉家と山科言行 · 続きを見る »

中山孝麿

中山 孝麿(なかやま たかまろ、嘉永5年12月3日(1853年1月12日) - 大正8年(1919年)11月27日)は、日本の華族(侯爵)。貴族院議員。東京府麹町区区長(第6代)。山城国(京都)生まれ。中山忠愛の次男。子に中山輔親、今城定政(定徳養子)。.

新しい!!: 冷泉家と中山孝麿 · 続きを見る »

中山家

中山家(なかやまけ)は、羽林家の家格をもつ公家。江戸時代の家禄は200石。.

新しい!!: 冷泉家と中山家 · 続きを見る »

中山愛親

中山 愛親(なかやま なるちか)は、江戸時代後期の公家。 宝暦11年(1761年)参議に任命され、安永3年(1774年)権大納言に至る。天明2年(1782年)議奏となり、光格天皇に近侍した。天皇の父閑院宮典仁親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態は紛糾した(いわゆる「尊号一件」)。寛政5年(1792年)幕府の命により武家伝奏正親町公明とともに江戸に喚問され、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰洛したのち蟄居し、議奏を罷免された。 明治時代に入り、明治17年(1884年)従一位が贈られている。なお明治天皇は愛親の来孫に当たる。 尊号一件で愛親が勅使として江戸に下った際に、江戸城の将軍徳川家斉の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、これを元に『中山東下記』『中山伝記』といった小説(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)が密かに書かれている。またこの経過に触れている漫画として、みなもと太郎の『風雲児たち』がある。.

新しい!!: 冷泉家と中山愛親 · 続きを見る »

中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

新しい!!: 冷泉家と中国 · 続きを見る »

中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

新しい!!: 冷泉家と中納言 · 続きを見る »

中院家

中院家(なかのいん け)は、大臣家の家格を持つ公家。村上源氏久我家支流。内大臣源通親(土御門通親)の五男通方を家祖とする。家名は、嫡流久我家の4代雅定が中院町(六条室町)に住んで中院右大臣と称したことに拠るが、狭義にはその曾孫通方から分かれた後を中院家と呼ぶ。またこれとは別に、村上源氏久我流の六条家から分かれた別系の中院家もあった。.

新しい!!: 冷泉家と中院家 · 続きを見る »

三条西家

三条西家(さんじょうにし け)は、藤原北家 閑院流 嫡流・転法輪三条家の分家である正親町三条家のそのまた分家で、大臣家の家格を持つ公家。西三条家(にしさんじょう け)ともいう。正親町三条家の分家でありながら家格は本家のそれをしのぎ、三大臣家の中でも別格とみなされていたばかりか、室町時代から江戸時代初期にかけて右大臣をたびたび出したため、その家格は清華家とほぼ同格とみなされていた。閑院家嫡流の転法輪三条家にもたびたび養子を出したため、戦国時代以後の転法輪三条家の直接の血統は三条西家のものとなっている。江戸時代の家禄は502石。 維新までは三条西と西三条の双方を比較的自由に使っており、明治になって17代公允が伯爵に授爵されたのを機にこれを西三条に一本化したが、しばらくしてこれを三条西に替えている。通字は「公」「実」「季」。分家に押小路家・武者小路家・高松家がある。.

新しい!!: 冷泉家と三条西家 · 続きを見る »

平安女学院大学

京都キャンパスの聖アグネス教会 高槻キャンパス 京都府京都市と大阪府高槻市にキャンパスがあり、聖公会系のキリスト教主義学校(ミッション・スクール)。.

新しい!!: 冷泉家と平安女学院大学 · 続きを見る »

平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

新しい!!: 冷泉家と平安京 · 続きを見る »

幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

新しい!!: 冷泉家と幕末 · 続きを見る »

久良親王

久良親王(ひさながしんのう/ひさよししんのう)は鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・皇族。土御門入道親王と称される。式部卿久明親王(鎌倉幕府第8代将軍)の二男。母は権中納言冷泉為相の娘。異母兄に守邦親王(鎌倉幕府第9代将軍)。無品王から従三位左中将を経て親王に復した。子は従一位・権大納言に至った源宗明。.

新しい!!: 冷泉家と久良親王 · 続きを見る »

久明親王

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府8代征夷大将軍。第89代後深草天皇の第六皇子。.

新しい!!: 冷泉家と久明親王 · 続きを見る »

乙訓郡

*.

新しい!!: 冷泉家と乙訓郡 · 続きを見る »

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

新しい!!: 冷泉家と京都 · 続きを見る »

京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

新しい!!: 冷泉家と京都市 · 続きを見る »

京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

新しい!!: 冷泉家と京都府 · 続きを見る »

京都御苑

京都御苑(きょうとぎょえん)は京都府京都市上京区にある国民公園。京都御所の周囲の地区を指す。.

新しい!!: 冷泉家と京都御苑 · 続きを見る »

京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

新しい!!: 冷泉家と京極氏 · 続きを見る »

京極派

京極派(きょうごくは)は、鎌倉中期から室町初期にかけての和歌の流派の一つ。 「和歌の家」としての京極派は、藤原北家御子左流に属し、御子左家の嫡男二条為氏の庶弟京極為教とその子為兼に始まるが、実質的には為兼によって和歌の流派としての京極派は生まれた。御子左嫡流で、大覚寺統(のちの南朝)と結びついた二条派に対し、為兼は伏見院の歌道師範として迎えられたのを契機に持明院統(のちの北朝)宮廷において歌壇を築き、斬新な歌風を流行させた。実感を尊び繊細な感覚的表現による歌は鎌倉時代末期の沈滞していた当時の歌壇に新鮮味を与えたが、その奇抜で型破りな表現によって二条派からつよい非難を浴びることになった。為兼の歌論書として『為兼卿和歌抄』がある。 京極派歌壇には、(1)歌の家としての京極家(および当時はまだ一家を成すにいたっていなかった冷泉家)、(2)京極派歌風を信奉する歌人たちの集まり、(3)伏見院宮廷における文学サロンの三つの面があり、それぞれが互いに重なりあいつつ全体として「京極派」と呼ぶべきものをかたちづくっている。通常鎌倉期のそれを前期、南北朝期以降のそれを後期と呼んで区分しているが、前期京極派においては京極為兼、伏見院、久明親王、永福門院、藤原為子(従三位為子)、冷泉為相(娘が持明院統の久明親王に嫁す)らが主要な歌人として活躍し、十三番目の勅撰集『玉葉和歌集』(伏見院下命、為兼撰)が編まれた。後期京極派においては、永福門院、花園院、光厳院らが主要な歌人として活躍し、十七番目の勅撰集『風雅和歌集』(花園院下命、光厳院親撰)が編まれたが、観応の擾乱によって光厳院ら持明院統の要人が南朝側に監禁された結果、持明院統宮廷が大きな打撃を受け、そして光厳院が監禁されている間に持明院統を継いだ後光厳院が二条派を重んじたため、思わしい後嗣を得ないままに断絶した。 中世・近世においては高く評価されることがなく、長らく埋もれたままになっていた京極派ではあるが、近代に入ってから再評価が行われ、特に折口信夫や土岐善麿がその歌風をつよく称揚した。戦後に入って岩佐美代子らによる研究が進み、その全貌が徐々にあきらかになりつつある。.

新しい!!: 冷泉家と京極派 · 続きを見る »

二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

新しい!!: 冷泉家と二条家 · 続きを見る »

二条派

二条派(にじょうは)は、中世における和歌の流派。 藤原北家御堂流である御子左家は、藤原俊成・定家・為家と和歌の家としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていた。為氏の庶弟為教・為相と相続をめぐって不和となり、為教は京極家、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(のちの南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(のちの北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立して勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまう。 その後秘伝は、東氏(千葉氏の支流で武家)をへて三条西家(藤原氏で公家)に伝わり明治を迎えた。世に言う古今伝授である。また、三条西家高弟細川幽斎からは近世初頭の天皇家、宮家、堂上家、地下家(じげけ)にも広まったが、三条西家は、これ以降も、二条家嫡流の宗匠家としての権威を保ち続けた。中院家、烏丸家も二条派に属する。 近世、三条西家に伝来した古文書の多くは早稲田大学とカリフォルニア大学に所蔵されている。.

新しい!!: 冷泉家と二条派 · 続きを見る »

今城定政

今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月19日『平成新修旧華族家系大成』上巻、200頁。 - 1958年(昭和33年)12月11日)は、日本の政治家、華族。貴族院議員。従二位勲二等、研究会所属。.

新しい!!: 冷泉家と今城定政 · 続きを見る »

今城家

今城家(いまきけ)は、羽林家の家格をもつ藤原北家花山院流の公家である。江戸時代前期の中山冷泉家、権中納言中山冷泉為尚の息子・今城定淳(冷泉為継)を祖とする。家格は羽林家。江戸時代の石高は181石。家職は和歌・有職故実。明治維新後は、定徳が子爵に叙せられた『公家事典』340-341頁。。なお、前身の中山冷泉家を始まりとすることがある。.

新しい!!: 冷泉家と今城家 · 続きを見る »

今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

新しい!!: 冷泉家と今川氏 · 続きを見る »

今出川駅

同志社大学連絡口 今出川駅(いまでがわえき)は、京都府京都市上京区にある、京都市営地下鉄烏丸線の駅である。駅番号はK06。.

新しい!!: 冷泉家と今出川駅 · 続きを見る »

今出川通

今出川通、寺町付近から西方向を見る 今出川通(いまでがわどおり)は京都市中心市街地北部の主要な東西の通りの一つ。.

新しい!!: 冷泉家と今出川通 · 続きを見る »

仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

新しい!!: 冷泉家と仙台藩 · 続きを見る »

伊達氏

伊達氏(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、桓武平氏繁盛流常陸大掾と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。.

新しい!!: 冷泉家と伊達氏 · 続きを見る »

伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

新しい!!: 冷泉家と伯爵 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 冷泉家と征夷大将軍 · 続きを見る »

侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

新しい!!: 冷泉家と侍従 · 続きを見る »

御子左家

御子左家(みこひだりけ)は、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする藤原氏の系流。御子左流(みこひだりりゅう)ともいう。ただし「御子左」を家名として名乗った者はない。 「御子左」は、醍醐天皇の第十六皇子で左大臣に上った兼明親王の通称「御子左大臣」(みこさだいじん、御子=皇子)に由来する。親王の邸宅・御子左第を伝領した長家が「御子左民部卿」と呼ばれたことから、彼以後その流れをこう呼ぶようになった。.

新しい!!: 冷泉家と御子左家 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: 冷泉家と徳川家康 · 続きを見る »

徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

新しい!!: 冷泉家と徳川将軍家 · 続きを見る »

徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

新しい!!: 冷泉家と徳川氏 · 続きを見る »

後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

新しい!!: 冷泉家と後深草天皇 · 続きを見る »

応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

新しい!!: 冷泉家と応永 · 続きを見る »

地下家

地下家(じげけ)は、昇殿が許されない廷臣の家格。江戸時代には約460余家あった。.

新しい!!: 冷泉家と地下家 · 続きを見る »

北陸地方

北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部に位置する中部地方のうち日本海に面する地域である。新潟県、富山県、石川県、福井県の4県『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7、あるいは富山県、石川県、福井県の3県を指す。区別のため前者を「北陸4県」「新潟県を含む北陸地方」、後者を「北陸3県」などと表現することがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。 名称は、畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。.

新しい!!: 冷泉家と北陸地方 · 続きを見る »

別所氏

別所氏(べっしょし)は、播磨の戦国大名を輩出した氏族。 播磨の守護大名・赤松氏の庶流であり、三木城を本拠とした。.

新しい!!: 冷泉家と別所氏 · 続きを見る »

和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

新しい!!: 冷泉家と和歌 · 続きを見る »

冷泉家時雨亭文庫

冷泉家表門 公益財団法人冷泉家時雨亭文庫(れいぜいけしぐれていぶんこ)は、京都市上京区にある公益財団法人。藤原定家の子孫であり、歌道の家として知られる冷泉家(上冷泉家)に伝わる古写本、建築、年中行事などの文化遺産を保存活用し、冷泉流歌道を継承することを目的として設立された。主たる事務所の所在地は京都市上京区今出川通り烏丸東入ル玄武町。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉家時雨亭文庫 · 続きを見る »

冷泉為尹

冷泉 為尹(れいぜい ためまさ)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・歌人。従二位権中納言・冷泉為秀の子。官位は正二位権大納言。冷泉家3代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為尹 · 続きを見る »

冷泉為久

冷泉 為久(れいぜい ためひさ)は、江戸時代中期の公卿・歌人。上冷泉家14代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為久 · 続きを見る »

冷泉為人

冷泉 為人(れいぜい ためひと、1944年3月2日 - )は兵庫県出身の日本美術史家。専攻は近世絵画史。上冷泉家第25代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為人 · 続きを見る »

冷泉為広

冷泉 為広(れいぜい ためひろ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・歌人。権大納言・冷泉為富の子。官位は正二位・権大納言。上冷泉家6代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為広 · 続きを見る »

冷泉為任

冷泉 為任(れいぜい ためとう、1914年3月4日 - 1986年7月8日)は、日本の歌人。上冷泉家の第24代当主。 西四辻公堯の子。第22代当主冷泉為系の長男為臣が1944年(昭和19年)に戦死し、為臣に子がなかったので、昭和21年(1946年)に為系の娘の冷泉布美子に西四辻家から婿入りし、この時名前も公順から為任に改めた。実家の西四辻家も歌道の家であり、西四辻公業も藤原定家の流れをくむ二条派(三条西家一門)の歌人であった。娘は冷泉貴実子。娘婿は冷泉為人。 1981年(昭和56年)、財団法人冷泉家時雨亭文庫を作る。これによって、冷泉家に伝わる古文書や典籍の調査研究がはじめられて、貴重な資料が公開されるようになった。 実弟に、滋賀プラスチック代表取締役でスケベ椅子の開発者である西四辻公敬がいる『平成新修旧華族家系大成』下巻。。評論家の川本三郎は甥にあたる。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為任 · 続きを見る »

冷泉為和

冷泉 為和(れいぜい ためかず)は、戦国時代の公卿・歌人。正二位権大納言・冷泉為広の子。上冷泉家7代当主。官位は正二位・権大納言。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為和 · 続きを見る »

冷泉為勇

冷泉 為勇(爲勇、れいぜい ためいさ、1870年3月28日(明治3年2月27日『平成新修旧華族家系大成』下巻、837-838頁。)- 1946年(昭和21年)8月2日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』60頁。)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・治麿『大日本華族大鑑』97頁。。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為勇 · 続きを見る »

冷泉為理

冷泉 為理(れいぜい ためただ)は、江戸時代後期から明治時代にかけての公卿・歌人。上冷泉家20代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為理 · 続きを見る »

冷泉為秀

冷泉 為秀(れいぜい ためひで)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。官位は従二位・権中納言。冷泉家2代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為秀 · 続きを見る »

冷泉為章

冷泉 為章(れいぜい ためふみ)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿・歌人。上冷泉家17代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為章 · 続きを見る »

冷泉為系

冷泉 為系(れいぜい ためつぎ、1881年 - 1946年)は、日本の歌人。伯爵。上冷泉家22代当主。父は冷泉為紀。妻は水無瀬忠輔の娘・恭子。子は冷泉為臣、冷泉布美子。婿養子に冷泉為任。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為系 · 続きを見る »

冷泉為純

冷泉 為純(れいぜい ためずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿・武将。歌人。細川庄を領したので細川 為純(ほそかわ ためずみ)と呼ばれることもあるが、室町幕府管領の細川氏との関係はない。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為純 · 続きを見る »

冷泉為紀

冷泉 為紀(れいぜい ためもと、嘉永7年1月11日(1854年2月8日) - 明治38年(1905年)11月24日)は、日本の歌人。上冷泉家21代当主。父は冷泉為理。子は冷泉為系。 明治17年(1884年)7月7日、伯爵を授かり、明治23年(1890年)より貴族院議員を務めた。明治31年(1898年)から死去まで伊勢神宮の大宮司をつとめた。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為紀 · 続きを見る »

冷泉為経

冷泉 為経(れいぜい ためつね)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿。官位は正二位・権大納言。下冷泉家10代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為経 · 続きを見る »

冷泉為益

冷泉 為益(れいぜい ためます)は、戦国時代の公卿・歌人。上冷泉家8代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為益 · 続きを見る »

冷泉為相

冷泉 為相(れいぜい ためすけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人。冷泉家の祖。権大納言民部卿・藤原為家の晩年の子。母は『十六夜日記』作者として知られる阿仏尼(安嘉門院四条)。官位は正二位・権中納言。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為相 · 続きを見る »

冷泉為柔

冷泉 為柔(れいぜい ためとう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての貴族。維新後、子爵。冷泉家17代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為柔 · 続きを見る »

冷泉為恭

冷泉 為恭(れいぜい ためちか、文政6年9月17日(1823年10月20日) - 元治元年5月5日(1864年6月8日))は、幕末期の公家召抱えの復古大和絵の絵師。幼名は晋三。出家後は心蓮(しんれん)。初名は狩野永恭(かのう えいきょう)、のち冷泉為恭に改める(「冷泉」の姓は自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出自ではない)。また蔵人所衆である岡田氏に養子入りしたため、岡田為恭(おかだ -)とも言われ、絵にしばしば岡田氏の遠祖・菅原姓と署名している。為恭の読みは、岡田氏に養子入りする前は「ためたか」、養子後は「ためちか」と名乗ったというのが通説である。 最高級の絵の具を惜しげも無く用いた濃彩画を得意としたが、障壁画や白描画、仏画にも当時としては傑作といわれるほどの名画を残している。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為恭 · 続きを見る »

冷泉為村

冷泉 為村(れいぜい ためむら)は、江戸時代中期の公卿・歌人。権大納言・冷泉為久の子。官位は正二位・権大納言。上冷泉家15代当主。上冷泉家中興の祖とされている。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為村 · 続きを見る »

冷泉為満

冷泉 為満(れいぜい ためみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿・歌人。正二位権中納言・冷泉為益の子。官位は正三位・権大納言。上冷泉家9代当主。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為満 · 続きを見る »

冷泉為景

冷泉 為景(れいぜい ためかげ)は、江戸時代前期の貴族・歌人。官位は正四位下・左近衛中将。下冷泉家8代当主。実の姪・貞子は後光明天皇の典侍である事でも知られる。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉為景 · 続きを見る »

冷泉隆豊

冷泉 隆豊(れいぜい たかとよ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉隆豊 · 続きを見る »

冷泉氏

冷泉氏(れいぜいし)は、日本の氏族。本姓は多々良氏。大内氏の庶流。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉氏 · 続きを見る »

冷泉派

冷泉派(れいぜいは)は、鎌倉時代中期から現代にいたるまでの和歌の流派の一つ。二条派の分派。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉派 · 続きを見る »

冷泉持為

冷泉 持為(れいぜい もちため)は、室町時代中期の公卿・歌人。権大納言・冷泉為尹の子。官位は正三位・権大納言。下冷泉家の祖。.

新しい!!: 冷泉家と冷泉持為 · 続きを見る »

内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

新しい!!: 冷泉家と内裏 · 続きを見る »

入江家

入江家(いりえけ)は、藤原北家御子左流の公家である。冷泉家の分家藤谷家の支流で、家格は羽林家。権中納言藤谷為条の末子・相尚を祖とする。江戸時代の石高は30石3人扶持。家学は歌道。 明治維新後は、入江為守(上冷泉家の冷泉為紀の実弟)が子爵に叙せられた。為守は貴族院議員の他、東宮侍従長として大正天皇に仕えた。また、為守の三男の入江相政は長らく侍従長として昭和天皇に近侍した。.

新しい!!: 冷泉家と入江家 · 続きを見る »

入江為守

入江 為守(いりえ ためもり、1868年5月12日(慶応4年4月20日) - 1936年(昭和11年)3月19日)は、明治 ‐ 昭和時代前期に活躍した日本の貴族院議員、官僚、歌人講談社刊 『日本人名大辞典』 2001年12月6日発行 ISBN 978-4-06-210800-3。位階・勲等は、正二位勲一等。子爵 。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は為守の三男講談社刊 『日本人名大辞典』 2001年12月6日発行 ISBN 978-4-06-210800-3。.

新しい!!: 冷泉家と入江為守 · 続きを見る »

入江為常

入江為常(いりえ ためつね 1894年2月 - 1969年3月3日)は、日本の貴族院議員。子爵。入江為守の子。弟は入江相政。母・信子は柳原前光伯爵の長女で、柳原白蓮の異母姉、大正天皇の生母・柳原愛子の姪にあたる。昭和天皇と「はとこ」の関係にある。後継者として、甥で坊城俊良の次男俊久を婿養子に迎えた。 東京府出身。学習院を経て1914年、東京府立一中卒業。東京帝国大学理学部卒業。1938年から1947年まで貴族院議員を務めた。 Category:貴族院子爵議員 ためつね Category:東京都立日比谷高等学校出身の人物 Category:東京大学出身の人物 Category:東京都出身の人物 Category:1894年生 Category:1969年没.

新しい!!: 冷泉家と入江為常 · 続きを見る »

入江相政

入江 相政(いりえ すけまさ、1905年(明治38年)6月29日 - 1985年(昭和60年)9月29日)は、日本の官僚、歌人・随筆家である。昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。 堂上華族の入江家出身入江家は、藤原北家・長家流御子左家の支流、冷泉家(上冷泉家)の分家で、旧家格は羽林家である。鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の子孫。。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。柳原前光の孫である。.

新しい!!: 冷泉家と入江相政 · 続きを見る »

公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

新しい!!: 冷泉家と公家 · 続きを見る »

公家町

公家町(くげまち)とは、近世の京都にあった内裏(土御門東洞院殿・京都御所)周辺に設けられた公家の居住空間。現在の京都御苑およびその周辺部にあたる。.

新しい!!: 冷泉家と公家町 · 続きを見る »

六条家

六条家(ろくじょうけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我家庶流。太政大臣・久我通光の五男・六条通有を家祖とする。家名は、2代・有房が京都六条に住した事による。歌道家として著名な六条藤家は別系(藤原北家末茂流)である。.

新しい!!: 冷泉家と六条家 · 続きを見る »

兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

新しい!!: 冷泉家と兵庫県 · 続きを見る »

勧修寺経逸

勧修寺 経逸(かじゅうじ つねはや、寛延元年10月6日(1748年10月27日) - 文化2年9月16日(1805年11月6日))は、江戸時代の公家(公卿)。仁孝天皇の外祖父。権大納言勧修寺顕道の次男。母は臼杵藩主稲葉恒通の娘。兄権右中弁勧修寺敬明の養子となる。正二位権大納言。 堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の23代当主。.

新しい!!: 冷泉家と勧修寺経逸 · 続きを見る »

勘事

勘事(かんじ/こうじ)とは、上官の譴責を受けて出仕の差し止めなどの処分を受けること。勘当とも称した。天皇からの勘事の場合は、特に勅勘(ちょっかん)と称した。.

新しい!!: 冷泉家と勘事 · 続きを見る »

国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

新しい!!: 冷泉家と国立歴史民俗博物館 · 続きを見る »

国民公園

国民公園(こくみんこうえん)とは、環境省が管理する公園の一つ。国が設置・管理する公園で、都市公園・自然公園以外のものを指す。昭和22年12月の閣議決定(旧皇室苑地の運営に関する件)に基づき、旧皇室苑地である皇居外苑・新宿御苑・京都御苑の3箇所が国民公園とされ、これと無名戦没者の遺骨が納められている千鳥ヶ淵戦没者墓苑と戦後強制抑留及び引揚死没者慰霊碑苑地を合わせて国民公園等という。維持及び管理は、環境省自然環境局に置かれる国民公園管理事務所(皇居外苑・京都御苑・新宿御苑)及び千鳥ケ淵戦没者墓苑管理事務所が行う。.

新しい!!: 冷泉家と国民公園 · 続きを見る »

四条隆昌

四条 隆昌(しじょう たかまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。冷泉為益の長男。官位は左近中将。四条家15代当主。.

新しい!!: 冷泉家と四条隆昌 · 続きを見る »

稲美町

美町(いなみちょう)は、兵庫県中南部、加古郡の町。.

新しい!!: 冷泉家と稲美町 · 続きを見る »

竹内家

竹内家(たけのうちけ)は公家のひとつ。本姓は源氏。いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。家格は半家、家業は弓箭と笙と和歌。.

新しい!!: 冷泉家と竹内家 · 続きを見る »

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

新しい!!: 冷泉家と織田信長 · 続きを見る »

羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

新しい!!: 冷泉家と羽林家 · 続きを見る »

烏丸家

烏丸家(からすまるけ)は、藤原北家日野氏流の公家である。家格は名家。室町時代の権大納言日野資康(裏松資康)の三男・贈内大臣豊光を祖とする。家業は歌道。江戸時代の石高は1153石。 豊光の子・資任は准大臣。室町幕府8代将軍足利義政の生母日野重子の従弟にあたり、義政の養育に努めて成長後はその寵臣となる(義政が成長するまで、資任の屋敷である烏丸殿が将軍の御所として用いられた)。今参局、有馬持家とともに権勢を振るい、「おいま・ありま・からすま」の3人で「三魔」と呼ばれ恐れられた。 江戸時代初期の光広は、歌人、能書家として知られた文化人であり、細川幽斎から古今伝授を受けている。 幕末・明治維新では、光徳が尊皇攘夷派として活躍し、明治維新後は参与、初代東京府知事等を務めた。光徳の二男・光亨は、華族令施行により伯爵に叙せられた。光徳の三男・光臣は、大審院長を務めた南部甕男の養子となり男爵。内務官僚となり群馬県知事、貴族院議員、宮中顧問官等を務めた。.

新しい!!: 冷泉家と烏丸家 · 続きを見る »

爵位

爵位(しゃくい、)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。.

新しい!!: 冷泉家と爵位 · 続きを見る »

絵師

絵師(えし)とは、.

新しい!!: 冷泉家と絵師 · 続きを見る »

甘露寺経元

露寺 経元(かんろじ つねもと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。官位は正二位・権大納言。.

新しい!!: 冷泉家と甘露寺経元 · 続きを見る »

狩野派

狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館 狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。.

新しい!!: 冷泉家と狩野派 · 続きを見る »

相楽郡

*.

新しい!!: 冷泉家と相楽郡 · 続きを見る »

相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 冷泉家と相模国 · 続きを見る »

白川伯王家

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。.

新しい!!: 冷泉家と白川伯王家 · 続きを見る »

花山院愛徳

花山院 愛徳(かざんいん よしのり)は、江戸時代中期から後期の公卿。能書家でもあった。 権大納言中山栄親の次男として生まれる。宝暦9年(1759年)に叙爵。明和6年(1769年)に中山家から花山院家に養子に入った。その後、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、安永3年(1774年)に従三位権中納言となり、公卿に列する。同年、踏歌節会外弁。天明5年(1785年)には権大納言に任命される。寛政11年(1799年)には右近衛大将・右馬寮御監となり、文化11年(1814年)に内大臣に任命された。翌年に内大臣を辞すが、従一位を授与される。文政3年(1820年)右大臣に任じられるも同年に辞職した。 よしのり Category:花山院流中山家 Category:江戸時代の公家 Category:日本の能書家 Category:1755年生 Category:1829年没.

新しい!!: 冷泉家と花山院愛徳 · 続きを見る »

鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

新しい!!: 冷泉家と鎌倉 · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

新しい!!: 冷泉家と鎌倉幕府 · 続きを見る »

荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

新しい!!: 冷泉家と荘園 · 続きを見る »

華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

新しい!!: 冷泉家と華族 · 続きを見る »

落胤

落胤(らくいん)とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。落とし胤(だね)、落とし子とも。正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。 このような子は一般民衆に混じって生活している。当時の実力者によって、正当な血統を継承する者とされて権力に利用されることがあるが、歴史の表舞台に出てくる人物の多くがそのような確証に乏しく(さらには天一坊改行のように落胤を自称した例もある)、研究上疑問視されている例が多数みられる。.

新しい!!: 冷泉家と落胤 · 続きを見る »

飛鳥井家

飛鳥井邸跡に建つ白峯神宮 飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。.

新しい!!: 冷泉家と飛鳥井家 · 続きを見る »

西四辻家

西四辻家(にしよつつじけ)は、藤原北家閑院流四辻支流の公家である。江戸時代中期の権大納言四辻公亨の子・左兵衛佐西四辻公碩を祖とする。家格は羽林家。家学は箏。江戸時代の石高は御蔵米30石。.

新しい!!: 冷泉家と西四辻家 · 続きを見る »

駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 冷泉家と駿河国 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 冷泉家と諱 · 続きを見る »

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

新しい!!: 冷泉家と豊臣秀吉 · 続きを見る »

豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

新しい!!: 冷泉家と豊臣氏 · 続きを見る »

足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

新しい!!: 冷泉家と足利将軍家 · 続きを見る »

足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

新しい!!: 冷泉家と足利義持 · 続きを見る »

足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

新しい!!: 冷泉家と足利義政 · 続きを見る »

蹴鞠

談山神社のけまり祭 蹴鞠(けまり/しゅうきく)とは、平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技である。.

新しい!!: 冷泉家と蹴鞠 · 続きを見る »

近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

新しい!!: 冷泉家と近衛府 · 続きを見る »

能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 冷泉家と能登国 · 続きを見る »

阿仏尼

阿仏尼(あぶつに、阿佛尼, 貞応元年(1222年)? - 弘安6年4月8日(1283年5月6日))は鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女となる(ただし奥山度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)。.

新しい!!: 冷泉家と阿仏尼 · 続きを見る »

赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

新しい!!: 冷泉家と赤松氏 · 続きを見る »

関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

新しい!!: 冷泉家と関白 · 続きを見る »

関東大震災

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃(日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。.

新しい!!: 冷泉家と関東大震災 · 続きを見る »

閑院宮

閑院宮(かんいんのみや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。 閑院宮の宮号は平安時代の清和天皇の皇子である貞元親王が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚して以来、閑院宮系の血統が皇統として続いている。.

新しい!!: 冷泉家と閑院宮 · 続きを見る »

藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.

新しい!!: 冷泉家と藤原定家 · 続きを見る »

藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

新しい!!: 冷泉家と藤原北家 · 続きを見る »

藤原為家

藤原 為家(ふじわら の ためいえ)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。正二位・権中納言藤原定家の三男。官位は正二位・権大納言。.

新しい!!: 冷泉家と藤原為家 · 続きを見る »

藤原惺窩

藤原惺窩像( 『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』より) 藤原 惺窩(ふじわら せいか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐(とう)を公称した。.

新しい!!: 冷泉家と藤原惺窩 · 続きを見る »

藤谷家

藤谷家(ふじたにけ、ふじがやつけ)は、羽林家の家格を持つ藤原北家御子左流の公家。冷泉家(上冷泉家)の支流で、権大納言冷泉為満の次男・為賢を祖とする。家名は冷泉家家祖の冷泉為相が長く居を定めた鎌倉の藤ヶ谷に由来する。江戸時代の石高は200石。家学は歌道。明治維新後は、為寛が華族令施行により子爵に叙せられ、貴族院で有爵者議員に互選された。その後裔は戦後も続いたが、.

新しい!!: 冷泉家と藤谷家 · 続きを見る »

藤谷為寛

藤谷 為寛(爲寛、ふじたに ためちか、1865年6月8日(慶応元年5月15日『平成新修旧華族家系大成』下巻、451頁。)- 1936年(昭和11年)1月12日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』53頁。)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・琴麿『大日本華族大鑑』186頁。。.

新しい!!: 冷泉家と藤谷為寛 · 続きを見る »

藤谷為賢

藤谷 為賢(ふじたに ためかた)は、江戸時代前期の公卿。権大納言・冷泉為満の次男。官位は従二位・権中納言。藤谷家の祖。.

新しい!!: 冷泉家と藤谷為賢 · 続きを見る »

重要文化財

建造物の例(通潤橋) 歴史資料の例(123号機関車 京都・宮津海陸運輸所有) 彫刻の例(塑造金剛力士立像 法隆寺蔵) 考古資料の例(埴輪子持家 東京国立博物館蔵) 絵画の例(黒田清輝筆「湖畔」) 建造物(民家)の例:荒井家住宅(栃木県矢板市) 重要文化財(じゅうようぶんかざい)は、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties。 日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(いわゆる「国の重要文化財」)について記述する。.

新しい!!: 冷泉家と重要文化財 · 続きを見る »

集英社

株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.

新しい!!: 冷泉家と集英社 · 続きを見る »

NHK出版

株式会社NHK出版(エヌエイチケイしゅっぱん、NHK Publishing, Inc.)は、1931年(昭和6年)に設立された日本の出版社である。日本放送協会 (NHK) の関連会社で、2010年までの旧社名は日本放送出版協会(にっぽんほうそうしゅっぱんきょうかい)であった。.

新しい!!: 冷泉家とNHK出版 · 続きを見る »

柳原家

柳原家(やなぎわらけ、やなぎはらの読みは慣例)は、名家の家格を有する公家。京都十三名家。藤原北家の日野家の分流。家業は文筆。江戸時代の家禄は202石。家紋は鶴丸。明治維新後は伯爵に叙される。.

新しい!!: 冷泉家と柳原家 · 続きを見る »

柳原前光

柳原 前光(やなぎわら さきみつ)は、幕末から明治時代にかけての公家。華族。伯爵。柳原家21代当主。大正天皇の伯父。.

新しい!!: 冷泉家と柳原前光 · 続きを見る »

柳原紀光

柳原 紀光(やなぎわら もとみつ/のりみつ)は、江戸時代中期の公卿・歴史家。柳原光綱の子。官位は正二位権大納言。柳原家17代当主。柳原前光・愛子(大正天皇生母)兄妹は玄孫、柳原義光・柳原白蓮義兄妹は来孫にあたる。歴史書『続史愚抄』の著者。.

新しい!!: 冷泉家と柳原紀光 · 続きを見る »

東宮侍従

東宮侍従(とうぐうじじゅう)は皇太子につかえる文官のこと。.

新しい!!: 冷泉家と東宮侍従 · 続きを見る »

東京

西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.

新しい!!: 冷泉家と東京 · 続きを見る »

東京大空襲

航空写真 両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。 B-29爆撃機 イズリー飛行場(1945年) 広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる。撮影当時、現地を南南西の風が吹いていたことがこの写真から見て取れる。 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。 早乙女勝元によれば、空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされる。 東京は1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多い内藤光博「空襲被災と憲法的補償―東京大空襲訴訟における被災者救済の憲法論―」専修法学論集 (106), 1-51, 2009-07。この3月10日の空襲だけで罹災者は100万人を超えた。.

新しい!!: 冷泉家と東京大空襲 · 続きを見る »

東海地方

東海地方(とうかいちほう)は、本州中央部に位置し太平洋に面する地域である。愛知県、岐阜県、三重県、静岡県の4県、あるいは愛知県、岐阜県、三重県の3県を指す。区別のため前者を「東海4県」「静岡県を含む東海地方」、後者を「東海3県」「中京地方」などと表現することがある。後者の繋がりについては「東海3県」の項目を参照。 名称は、五畿七道の東海道に由来してこのように呼ばれている『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.768 ISBN 4-09-523101-7。.

新しい!!: 冷泉家と東海地方 · 続きを見る »

桂宮

桂宮(かつらのみや)は、四世襲親王家の一。および桂宮家の宮号。安土桃山時代に創設され、明治時代に断絶した。主な所領が平安京近郊の桂周辺にあった。石高3000石余は宮家中最大。八条宮→常磐井宮→京極宮の流れをくむ。.

新しい!!: 冷泉家と桂宮 · 続きを見る »

極位極官

極位極官(きょくいきょっかん、ごくいごっかん)は、人物が受けた叙任の中で最高の官位を指す。最高の位階を極位、最高の官職を極官と呼ぶが、極官の一語で極位極官を表す場合も多い。 律令制においては、最高の官職を指して極官と呼ばれることがある。制度上は太政大臣がそれに相当するが、平安時代中期以後に人臣の摂政・関白が任ぜられると、極官として認識されるようになる。平安時代後期以後、家職が形成されるようになると貴族・官人の極位極官は家ごとで概ね定まる様になり、それに基づいて摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家と公家の家格が決定されるようになる。公家社会では自己の家格の極官を越えて任命されると非難の対象になり、また却って不幸な出来事があるとする「官打ち」の思想が形成され、極位極官制度によって身分秩序の統制が図られるようになり、それが幕末に至るまで続いた。もっとも、治天の君や武家政権(将軍)と個々の公家との関係によっては、この原則が無視される場合もあった。 また、武家は羽林家に準じた家格が定められた。.

新しい!!: 冷泉家と極位極官 · 続きを見る »

正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

新しい!!: 冷泉家と正四位 · 続きを見る »

武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

新しい!!: 冷泉家と武家 · 続きを見る »

武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

新しい!!: 冷泉家と武蔵国 · 続きを見る »

歌道

歌道(かどう)とは、和歌の創作や和歌自体に関する学問(歌論・歌学)を追究する学芸を道に擬えたもの。.

新しい!!: 冷泉家と歌道 · 続きを見る »

毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

新しい!!: 冷泉家と毛利氏 · 続きを見る »

民部省

民部省(みんぶしょう)は、.

新しい!!: 冷泉家と民部省 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 冷泉家と江戸時代 · 続きを見る »

池坊短期大学

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と池坊短期大学 · 続きを見る »

持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

新しい!!: 冷泉家と持明院統 · 続きを見る »

朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

新しい!!: 冷泉家と朱子学 · 続きを見る »

有栖川宮

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代良仁親王は皇統を継ぎ、後西天皇となった。.

新しい!!: 冷泉家と有栖川宮 · 続きを見る »

戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

新しい!!: 冷泉家と戦国大名 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 冷泉家と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 冷泉家と明治 · 続きを見る »

明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

新しい!!: 冷泉家と明治天皇 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: 冷泉家と明治維新 · 続きを見る »

昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.

新しい!!: 冷泉家と昭和天皇 · 続きを見る »

新古今和歌集

『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)とは、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾るもの。略称を『新古今集』(しんこきんしゅう)と称す。.

新しい!!: 冷泉家と新古今和歌集 · 続きを見る »

旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

新しい!!: 冷泉家と旧高旧領取調帳 · 続きを見る »

旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

新しい!!: 冷泉家と旗本 · 続きを見る »

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

新しい!!: 冷泉家と摂家 · 続きを見る »

播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 冷泉家と播磨国 · 続きを見る »

愛宕郡

*.

新しい!!: 冷泉家と愛宕郡 · 続きを見る »

慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

新しい!!: 冷泉家と慶長 · 続きを見る »

所領

所領(しょりょう/そりょう)とは、領主・地主によって私有され、支配(知行)権が行使されている土地のこと。 領主・地主に対して経済的利益を生み出す一定の領域の事を指し、主として家屋敷と田畑から構成されているが、山野や荒地・牧・浜なども含まれていた。律令法でも私有が認められた家地や園地、墾田などを除けば、本来は国衙領・荘園の一部であり、国衙・本所に年貢を納める義務があったが、領主らは彼らと対立と協調を繰り返しながらその支配権を強めていった。所領は謀反などの重大犯罪によって改易・闕所などに処せられない限り没収を免れ、売買や相続・寄進の対象となったが、その所有や権利を巡ってしばしば争いになった。 鎌倉幕府は領主を御家人として傘下に加えて軍役などの一定の奉公義務を課す代わりに安堵状を発給して、その知行権を保護することで支配体制の強化を図り、奉公の功績に応じて恩賞として新たな所領を与える事もあった。御成敗式目において様々な所領の争いに関する規定が定められる一方で、御家人としての義務を果たさないものに対しては所領の没収などの措置を取る事を規定した。以後、江戸幕府に至るまで所領の没収(改易)は武士に対する最大の威嚇・統制手段として機能していく事になった。.

新しい!!: 冷泉家と所領 · 続きを見る »

1416年

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と1416年 · 続きを見る »

1585年

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と1585年 · 続きを見る »

1586年

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と1586年 · 続きを見る »

1598年

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と1598年 · 続きを見る »

1599年

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と1599年 · 続きを見る »

1790年

記載なし。

新しい!!: 冷泉家と1790年 · 続きを見る »

1999年

1990年代最後の年であり、1000の位が1になる最後の年でもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。.

新しい!!: 冷泉家と1999年 · 続きを見る »

2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

新しい!!: 冷泉家と2004年 · 続きを見る »

2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

新しい!!: 冷泉家と2005年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

中山冷泉家上冷泉家下冷泉家

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »