151 関係: 南北朝時代 (中国)、堅昆、大中、大和 (唐)、大暦、天宝 (唐)、天復 (唐)、天保 (北斉)、天祐 (唐)、太康 (遼)、夫余、奚、女真、契丹、嫩江、宮脇淳子、宇文部、丁零、中国東北部、平凡社、会同、会昌、体育座り、匈奴、北史、北斉、チチハル市、バイカル湖、バガトル、ムジナ、モンゴル (曖昧さ回避)、モンゴル系民族、モンゴル高原、ユウ婁、レビラト婚、ワイ人、ワイ貊、ヘルレン川、ブタ、テン、ホショ・ツァイダム碑文、刀水書房、咸通、アムール川、アルグン川、オノン川、オルホン川、カムク・モンゴル、キツネ、ケレイト、...、シラムレン川、セレンガ川、タタル部、タタール、哀帝 (唐)、唐、内田吟風、勿吉、回鶻、禅譲、突厥、粛慎 (中国)、羈縻政策、烏介可汗、烏桓、烏洛侯、田村実造、隋、隋書、遊牧民、遏捻可汗、遼、遼史、靺鞨、言語、骨利幹、高句麗、魏書、鮮卑、豆莫婁、貞元 (唐)、貞観 (唐)、辮髪、都督、開元、開成 (唐)、金 (王朝)、長寿 (武周)、耶律剌葛、耶律阿保機、東夷、東魏、東胡、武定 (東魏)、武州、武徳、武則天、民族、沃沮、渤海 (国)、漢、朱全忠、新五代史、新唐書、旧唐書、景龍 (唐)、1084年、10世紀、13世紀、1971年、2002年、543年、544年、550年、618年、626年、629年、693年、6世紀、707年、710年、713年、741年、742年、756年、766年、779年、788年、789年、792年、831年、834年、835年、836年、840年、841年、846年、848年、860年、874年、8世紀、901年、904年、905年、907年、908年、909年、913年、938年、940年、9世紀。 インデックスを展開 (101 もっと) »
南北朝時代 (中国)
北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.
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堅昆
堅昆(けんこん、拼音:Jiānkūn)は、かつて中央ユーラシア北部に分布したテュルク系遊牧民族。キルギズ(Qïrqïz)の転写とされており、時代によっては鬲昆(へきこん、Gékūn),契骨(けいこつ、Qìgŭ),居勿(きょぶつ、Jūwù),結骨(けつこつ、Jiégŭ),紇骨(こつこつ、Gēgŭ),紇扢斯(こつこつし、Gēgŭsī),黠戛斯(かつかつし、Xiájiásī),戛戛斯(かつかつし、Jiájiásī),吉利吉思,乞力吉思,乞児吉思,乞里吉思などと記された。現代のキルギス人(天山キルギズ)と区別するためイェニセイ・キルギズとも呼ばれる。現在のハカス人の祖先にあたる。.
大中
大中(だいちゅう)は中国・唐代の元号。宣宗の治世で用いられた元号。847年正月 - 860年10月。.
大和 (唐)
大和(だいわ)は、唐の文宗の治世に使用された元号。827年旧2月-835年旧12月。.
大暦
大暦(だいれき)は中国・唐の代宗の治世最後に使用された元号。.
天宝 (唐)
天宝(てんぽう)は、中国・唐の玄宗の治世後半に使用された元号。742年 - 756年。.
天復 (唐)
天復(てんふく)は、中国・唐の昭宗の治世で用いられた元号。901年4月-904年閏4月,907年9月。 呉の楊行密も、建国後に天復の年号を用いている。また、前蜀の王建も907年に唐が滅亡すると、簒奪を起こした朱全忠主導下で行われた天祐改元をも遡って否定して、この年を天復7年と称した。.
天保 (北斉)
天保(てんほう)は、南北朝時代の北斉において、文宣帝の治世に使用された元号。550年5月 - 559年12月。.
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天祐 (唐)
天祐(てんゆう)は、中国・唐の昭宗の治世で用いられた元号。天佑にも作る。904年 - 907年。 唐の滅亡後も河東、鳳翔、淮南地方では天祐を使用し続け、石碑碑文に「天祐二十年」の用例がある。また前蜀、南漢、呉、呉越では唐滅亡後も天祐の年号を使用している。.
太康 (遼)
太康(たいこう)は、遼の道宗耶律洪基の治世に使用された元号。1075年 - 1084年。.
夫余
夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。 2世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 4世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。.
奚
奚(けい、拼音:Xī)は、4世紀から10世紀頃までモンゴル高原東部から中国東北部にあるラオハムレン(老哈河、遼河の源流)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に存在していた遊牧民族。初めは庫莫奚(しゃまくけい、Šira Mö xī、Shèmò xī)と呼ばれていた。『ホショ・ツァイダム碑文』(オルホン碑文)では、12px12px12px12px(Ttbi:Tatabï、タタビ)と記されている。.
女真
女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.
契丹
宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.
嫩江
嫩江(のんこう、どんこう、Nen River、Nonni、、満州語:、転写:non ula、モンゴル語:Ноон мөрөн)は、ユーラシア大陸・中国東北部を流れる川で、アムール川水系に属する松花江最長の支流である。.
宮脇淳子
宮脇 淳子(みやわき じゅんこ、1952年9月21日 - )は、日本の歴史学者。専門は東洋史(中央アジア)。本名は岡田淳子。東洋史学者の岡田英弘は夫である。.
宇文部
宇文 部(うぶん ぶ、)は、元来は匈奴系俟汾氏であった鮮卑の一部族で、宇文莫珪のときに強盛となった。南北朝時代にはその子孫が北周を建てた。.
丁零
丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令,丁霊,勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀~6世紀では高車、6世紀~8世紀では鉄勒(てつろく)とも呼ばれた。.
中国東北部
中国東北部(ちゅうごくとうほくぶ、中国語簡体字:中国东北 (拼音:Zhōngguó dōngběi))とは、中華人民共和国の東北側外縁に存在する地域であり、歴史的に満州と呼ばれていた地域である。狭義には遼寧省・吉林省・黒竜江省の東北三省(旧称:東三省)の総称。中華人民共和国における地域をブロックに分けた区分では「東北区」と呼んでいる。 広義には旧満州国に相当する、東三省と内蒙古の東北部(すなわち現在のフルンボイル市、ヒンガン盟、通遼市、赤峰市)を合わせて指す。19世紀中頃の条約でも清朝のもとに残された、内満洲地域である。 日本や欧米からは(旧)満州とも呼ばれ、第二次大戦前の中国においても同様であるが、現代中国語においては満洲は満州族のことを指し、地域を指す名称としては使われない。地名としての「満州」は中国本土に含まれないという含意があるため、中国の一部であることを強調する中国東北部と言い換えられている。 この項目では、第二次世界大戦後の状況について記述する。.
平凡社
株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.
会同
会同(かいどう)は、遼の太宗耶律堯骨の治世で用いられた元号。938年 - 947年。.
会昌
会昌(かいしょう)は中国・唐代の元号。武宗の治世で用いられた元号。841年正月 - 846年12月。.
体育座り
運動会の合間に体育座りをしている幼稚園児達。 体育座り(たいいくずわり)または体操座り(たいそうすわり、たいそうずわり)は、坐法(座法、座る姿勢)の一つ。尻を地や床などに着けて、両脚の膝を立てて踵を揃え、両腕は両膝を抱え込む坐法を指す。また足をクロスさせることもある愛知県教育委員会 『集団行動指導の手引』 平成20年3月発行 (6ページ) 。.
匈奴
匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.
北史
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。.
北斉
北斉(ほくせい、550年 - 577年)は、中国の南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代の斉や南朝の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。.
チチハル市
チチハル(斉斉哈爾)市(‐し)は中華人民共和国黒竜江省に位置する省直轄市。市区人口は155万人、都市圏人口は1000万人の省内第二の大都市であり、清代には黒竜江将軍が駐在し黒竜江地区の中心地として繁栄したが、清末東清鉄道が建設されると、物流がハルビン市に移行し、新中国成立後は黒龍江省都もハルビンに移転した。現在でも黒竜江省西部の政治、経済、文化の中心である。市名は満州語ではチチガル・ホトン( 転写:cicigar hoton)で辺境あるいは天然の牧場の意味である。また市域には十数種の鶴が生息する有名な湿地・ジャロン自然保護区があり、鶴城とも呼ばれる。.
バイカル湖
バイカル湖の位置 accessdate.
バガトル
バガトル(baγatur; 中世モンゴル語: ba'atur; 現代モンゴル語: баатар (baatar); 近世ペルシア語: بهادر (bahādur);近世テュルク語: bahadur;中国語:拔都兒)は、テュルク語やモンゴル語における称号のひとつ。「勇者」を意味する。中世モンゴル語ではバアトル(バートル)、現代モンゴル語ではバータル。中央アジア以西において近世ペルシア語およびチャガタイ語、オスマン語などではバハードゥル(バハードル)という。.
ムジナ
『和漢三才図会』より「狢」 ムジナ(貉、狢)とは、主にアナグマのことを指す。地方によってはタヌキやハクビシンを指したり、これらの種をはっきり区別することなくまとめて指している場合もある。 この混乱は、「マミ」のような地方名を交えて、非常に複雑な様相を呈しており、栃木県の一部のように、アナグマを「タヌキ」、タヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域さえある。.
モンゴル (曖昧さ回避)
モンゴル (Монгол) 民族.
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モンゴル系民族
モンゴル系民族(Mongols、モンゴル文字: Mongɣul、キリル文字:Монгол)は、モンゴル高原(現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域(中央ユーラシア)に居住するモンゴル諸語を母語とする民族。 大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万、中国・内モンゴル自治区に400万、ロシア・ブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。.
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モンゴル高原
モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.
ユウ婁
挹婁(ゆうろう、)は、後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。.
レビラト婚
レビラト婚(レビラトこん)は、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。レビレート婚とも。 死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習のことはソロレート婚という。.
ワイ人
(わい、)は、中国の史書である『三国志』や『後漢書』などに記されている古代民族。現在の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から朝鮮半島北東部にかけて、北西から南東に伸びる帯状に存在したとされる。.
ワイ貊
紀元前1世紀頃の東夷諸国と濊の位置。 濊貊(わいはく、かいはく)は、中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて、北西から南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である濊と貊の2種族を連称したもの。周代以降の記録に濊・貊の名が見えるが、漢代に入り濊貊と記されるケースが増える。.
ヘルレン川
ヘルレン川(ケルレン川、Kherlen、Kerülen、, Kherlen gol; 、)は、ユーラシア大陸の北東部を流れる川で、モンゴル東部のヘンティー県から中華人民共和国北部(内モンゴル自治区)にかけて流れている。.
ブタ
岐阜市畜産センターのビジターハウス内に展示) 岐阜市畜産センターにて) 仔豚に母乳を与える豚 豚小屋で飼育されている放牧豚 ブタ(豚、学名:Sus scrofa domesticus(仮名転写:スース・スクローファ・ドメスティクス)、英名:pig)は、哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ科の動物で、イノシシ(Sus scrofa)を家畜化したものである。主に食用(豚肉)とされる。.
テン
テン(貂『広辞苑 第5版』、岩波書店、黄鼬、)は、哺乳綱ネコ目(食肉目)イヌ亜目 イタチ科テン属に分類される食肉類。北海道に生息するエゾクロテン(蝦夷黒貂、)は同属異種。.
ホショ・ツァイダム碑文
ホショ・ツァイダム碑文(ホショ・ツァイダムひぶん)は、8世紀に建てられた東突厥第二可汗国時代の碑文で、発見地であるホショ・ツァイダム(Khöshöö Tsaidam)からその名がつけられた。ホショ・ツァイダム碑文にはビルゲ・カガン(Bilgä Qaγan、毘伽可汗)を称えた碑文と、キュル・テギン(Köl Tägin、Kül Tegin、闕特勤)を称えた碑文の2種類あるので、それぞれビルゲ・カガン碑文、キュル・テギン碑文と呼ばれる。また、オルホン川流域にあることからオルホン碑文とも呼ばれる。.
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刀水書房
刀水書房(とうすいしょぼう)は歴史書を専門とする日本の出版社である。.
咸通
咸通(かんつう)は、中国・唐の懿宗の治世で用いられた元号。860年11月 - 874年11月。.
アムール川
アムール川(アムールがわ、、ラテン文字転写: Amur)、あるいは黒竜江(こくりゅうこう、、、満州語:或いは、転写:sahaliyan ula或いはhelung giyang)は、ユーラシア大陸の北東部を流れる川である。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。上流部の支流を含めた全長4,368kmは世界8位、流域面積は185万5500km2で世界10位である。.
アルグン川
内モンゴルの室韋付近より撮影 アルグン川(Argun、, ᠡᠷᠬᠥᠨᠠᠭᠣᠣᠯ, Эргүнэ мөрөн, Ergüne mörön, 、、満州語: ergune bira)は、ユーラシア大陸の北東部を流れる川で、シルカ川とならぶアムール川の大きな源流の一つである。アルグン川というロシア語名は、ブリヤート語の「ウルゲン・ゴル」(Urgengol, 「広い川」)に由来する。 上流はハイラル川と呼ばれる。長さは708km。内モンゴル自治区の大興安嶺山脈の西麓から発し、内モンゴル北端のフルンボイルを西へ流れる。ハイラル区で伊敏河を合わせ、牙克石市より下流では流れは緩やかになり川幅も広くなり、フルンボイル草原を蛇行する。 満州里市付近で、中国領のフルン湖からの流れを合わせてアルグン川となる。北東へ向きを変え、900km以上にわたりロシアと中国の国境を流れ、黒竜江省漠河県付近でシルカ川と合流し、アムール川となる。 満州里の下流にあり航路の中国側にある中州・ボリショイ島(中国名:阿巴該図島、アバガイト島)は1929年にソ連軍が占領して以来長年中ソ・中露の国境紛争の焦点の一つであったが、2004年の国境協定で中国・ロシア間で二等分することになった。.
オノン川
ノン川の位置 アムール川とその支流 オノン川上流、チンギス・ハーンの生誕地と伝えられる場所 オノン川(オノンがわ、モンゴル語:Онон гол、 転写:Onon γoul、オノン・ゴル)は、モンゴル国ヘンティー山脈のブルカン山を源流とする黒竜江(アムール川)の支流である。流域面積96,200km2。漢名は斡難・鄂嫩・敖嫩などで表記される。現在は「オノン」だが、古くは「オナン川」と呼ばれ、『元朝秘史』では冒頭にオナン・ムレン(オナン川)斡難 木舌漣 Onan Müren、『集史』でも رودخانه اونن rūdkhāna-yi Ūnan として表れる。隣接するヘルレン川がヘンティー山脈の南麓を流れるのに対し、オノン川は山脈の北側を流れる。 北東へ流れ、ロシア国境を越えてシベリアのザバイカリエ地方へ入り、1,032kmを流れた後にシルカ川に合流する。.
オルホン川
ルホン川(Орхон гол)は、モンゴル国を流れるモンゴルで一番長い川である。古称は頞根河(あつこんかわ)、嗢昆河(あつこんかわ)。アルハンガイ県のハンガイ山脈に源を発し、北へ1,124 km流れ、セレンガ川に合流する。主な支流にトール川とタミル川がある。.
カムク・モンゴル
ムク・モンゴル・ウルス(1147年-1206年)とは、チンギス・カン登場以前のモンゴル・ウルスを指す歴史用語である。現代モンゴル語発音でハマグ・モンゴル(Khamag Mongol)とも表記され、直訳すると「全き(あまねき)モンゴル」となる。モンゴル部の指導者であったチンギス・カンの曾祖父カブル・カンによって建国され、モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)の直接の前身となった。.
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キツネ
ツネ(狐)は、哺乳綱ネコ目(食肉目)イヌ科イヌ亜科の一部。 狭義にはキツネ属のことである。広義には、明確な定義はないがイヌ亜科の数属を総称するが、これは互いに近縁でない属からなる多系統である。 最も狭義にはキツネ属の1種アカギツネのことである。古来、日本で「狐」といえば、アカギツネの亜種ホンドギツネのことだったが、蝦夷地進出後は、北海道の別亜種キタキツネも含むようになった。 ただし、この記事では広義のキツネを扱うものとする。キツネ属、アカギツネについてはそれぞれの記事を参照。.
ケレイト
13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ケレイト(Kereid, Kerait)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原中北部のハンガイ山脈付近に割拠していたテュルク遊牧民の部族集団である。漢字表記では客烈亦、怯烈、怯烈亦など。ペルシア語史料では كرايت Kirāyt などと表される。.
シラムレン川
シラムレン川(Xar Moron river、中国語:西拉木倫河、Xilamulun、モンゴル語:Šira Mören)は、内モンゴル自治区東部を流れる河川。遼河水系に属し、老哈河(ラオハ川、ラオハムレン)と合流した後に西遼河となる。 シラ・ムレンとはモンゴル語で「黄色い川」を意味する。黄河と区別するため、かつては潢水とも書かれた。他にも饒楽水、吐護真水などの別称もある。 シラムレン川は内モンゴルの赤峰市北部、ヘシグテン旗(克什克騰旗)に発する。源流付近は大興安嶺山脈の南端・白岔山にあたり、白槽溝河の名で呼ばれる。ヘグシテン旗、オンニュド旗、林西県、バイリン右旗、アルホルチン旗と草原地帯を東へ向けて流れ、オンニュド旗とナイマン旗の境で遼河の源流である老哈河と合流し、西遼河になる。全長は380km、流域面積は3万平方km余り。川沿いは農業や牧畜が盛ん。 この流域では新石器時代に紅山文化が栄えた。契丹は4世紀ごろからこの川の上流付近で活動し、唐が崩壊した10世紀初頭に遼を建ててモンゴル高原から中国北部を支配した。また奚も4世紀以来、老哈河からシラムレン河流域で活動し、契丹に服属した。胡琴を経て二胡などへと発展した弦楽器・奚琴は、奚の人々によりシラムレン川流域で発祥したと考えられている。 Category:満州の河川 Category:内モンゴル自治区の河川 Category:遼河水系.
セレンガ川
レンガ川(Селенга)またはセレンゲ川(Сэлэнгэ гол, Сэлэнгэ мѳрѳн)は、モンゴル国およびロシア連邦を流れる全長992kmの川である。モンゴル中北部のハンガイ山脈に源を発するイデル川とデルゲルムルン川の合流地点を起点とし、オルホン川などの諸河川を合わせバイカル湖の南東側に注ぐ。イェニセイ-アンガラ水系の源流の一つである。.
タタル部
13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 タタル部(塔塔児、Tatar)は、モンゴル帝国以前にモンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族。『元史』などでは塔塔児、『集史』ではQaum Tātārと記される。チンギス・カンによって滅ぼされたが、その名は遊牧騎馬民族の代名詞となり、ヨーロッパに広まってタタールと呼ばれるようになる。また、オングト部が「白韃靼」と呼ばれたのに対して「黒韃靼」とよばれた。タタール部とも表記される。.
タタール
18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.
哀帝 (唐)
哀帝(あいてい)は、唐朝の第23代(最後)の皇帝。昭宗の九男。.
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
内田吟風
内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。.
勿吉
勿吉(もつきつ、拼音:Wùjí)は、中国の南北朝時代に、高句麗の北から満州地域に住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。粛慎、挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前身である。 5世紀頃の東夷諸国と勿吉の位置。.
回鶻
回鶻(かいこつ、ウイグル、拼音:Huígŭ、古代テュルク語:10px10px10px10px【Uyγur】、ウイグル語:ئورخۇن ئۇيغۇر خانلىقى)は、テュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、可汗国)。ウイグル帝国森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』,ウイグル国小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可汗(カガン:Qaγan)を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の史書による漢字表記には迴紇『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇、回紇『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下、迴鶻、回鶻などがある。.
禅譲
禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.
突厥
突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.
粛慎 (中国)
紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''粛慎'''の位置 粛慎(しゅくしん、拼音:Sùshèn)は、満州(中国東北地方及び外満州)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。粛慎という呼び名は中国の周代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が粛慎人の自称を音訳したもので、息慎(そくしん、Xīshèn),稷慎(しょくしん、Jìshèn)とも表記される。 中国の周代の文献の中にしばしば見られ、後代の挹婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)と同系の民族と考えられている。 日本の歴史書に現れる粛慎(みしはせ)とは字が同じだが、年代に大きな開きがあり、両者の関係性は不明である。.
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羈縻政策
羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。.
烏介可汗
烏介可汗(呉音:うけかがん、漢音:おかいかかん、拼音:Wūjièkĕhàn、? - 846年)は、回鶻可汗国崩壊後の可汗。昭礼可汗の弟で、彰信可汗の叔父。初めは特勤(テギン、Tägin)だったが、回鶻可汗国が崩壊すると錯子山に割拠して可汗となった。原音はウゲ・カガン(Ügä Qaγan)。.
烏桓
紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 2世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 烏桓(呉音:うがん、漢音:おかん、)は、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)に存在していた民族。『三国志』などでは烏丸と表記する。.
烏洛侯
5世紀頃の東夷諸国と烏洛侯の位置。 烏洛侯(うらくこう、拼音:Wūluòhóu)は、中国の北朝時代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区のフルンボイル市あたりに住んでいた遊牧民族。狩猟と農耕も兼業した。唐代は烏羅渾(うらこん、Wūluóhún)、あるいは烏羅護(うらご、Wūluóhù)と表記された。.
田村実造
村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、東洋史学者、京都大学名誉教授、元京都女子大学学長。 1930年代に中国東北部の実地調査を行い、契丹・遼代の遺跡墳墓を発掘、契丹文字を初めて学会に紹介した。 1940年に京都帝国大学助教授、1947年に教授、文学部長を務め、1968年に定年退官。1954年、日本学士院賞恩賜賞受賞。京都女子大学学長。1974年、勲二等瑞宝章受章。主著に『中国征服王朝の研究』、東洋史教科書作成にも多く参加した。.
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.
隋書
『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。.
遊牧民
遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.
遏捻可汗
遏捻可汗(呉音:あちねんかがん、漢音:あつねんかかん、拼音:Èniǎnkĕhàn、? - 848年)は、回鶻可汗国崩壊後の可汗。烏介可汗の弟。.
遼
遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.
遼史
『遼史』(りょうし)は、中国の正史・二十四史(清の乾隆帝が定めた24種の紀伝体の史書)の一つで、遼の歴史書である。116巻。元の宰相であった脱脱が総裁となって、史料を集めて1344年に完成した。清代の歴史学者趙翼の『二十二史剳記』では「遼・金二史又缺略多し」と書かれているが、遼の歴史を知る上では根本史料である。.
靺鞨
靺鞨(まつかつ、まっかつ、拼音:Mòhé)は、中国の隋唐時代に中国東北部、沿海州に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎,挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。.
言語
この記事では言語(げんご)、特に自然言語について述べる。.
骨利幹
利幹(こつりかん、ピンイン:Gŭlìgàn)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシアに分布したテュルク系民族鉄勒の有力部族のひとつ。突厥碑文にある三姓クリカン(Üč Qurïqan)の音写と考えられている。.
高句麗
句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.
魏書
『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。.
鮮卑
鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.
豆莫婁
5世紀頃の東夷諸国と豆莫婁の位置。 豆莫婁(呉音:づまくる、漢音:とうばくろう、拼音:Dòumòlóu)は、6世紀から8世紀にかけて中国東北部の嫩江流域に存在した民族。北夫余の後裔であるが、モンゴル系の言語を話す。大莫盧、達末婁とも表記される。.
貞元 (唐)
貞元(ていげん)は唐代徳宗の治世で使用された元号。785年 - 805年。.
貞観 (唐)
貞観(じょうがん)は、中国唐代の太宗の治世に使われた元号。627年 - 649年)。太宗が魏徴などの賢臣を任用し、広く諫言を納れて善政を敷いたため、隋末の戦乱から民生を立ち直らせることに成功した。貞観年間は賦役も軽く、殖産が奨励されたかたわら、突厥との防衛戦にも勝利し、社会は安定して経済は繁栄を見た。後世の治政の範とされ、その原理は『貞観政要』(太宗と名臣たちの論議を記した書)に詳しい。.
辮髪
辮髪(べんぱつ、弁髪、満州語:、転写:soncoho、モンゴル語:гэзэг 、、中国語:辮髪)は、主にモンゴル(モンゴル高原)周辺の男性の髪型で、頭髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らした。女真や満州族の清朝中期以降の前頭部を剃り後頭部を伸ばすスタイルが有名だが、契丹族の頭頂部のみを残すスタイルや、モンゴル族(モンゴル人)の両側頭部を残すスタイルなど、民族や時代により様々なスタイルの辮髪があった。古代にはテュルク系諸族も辮髪の風習を持っていた。.
都督
都督(ととく)とは中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した。.
開元
開元(かいげん)は、中国・唐代の元号のひとつ。玄宗の治世に行われた。 この時期は、玄宗の治世の前半にあたり、「開元の治」と呼ばれ唐の絶頂期と評価されている。.
開成 (唐)
開成(かいせい)は中国・唐代の元号。文宗の治世で用いられた元号。836年正月 - 840年12月。.
金 (王朝)
金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.
長寿 (武周)
長寿(ちょうじゅ)は、武周の武則天の治世に使用された元号。692年 - 694年。.
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耶律剌葛
耶律剌葛(やりつ らかつ、生年不詳 - 917年)は、遼(契丹)の皇族。太祖耶律阿保機の弟にあたるが、たびたび兄に叛いた。字は率懶。.
耶律阿保機
耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yelü Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。.
東夷
四夷の名称 東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。 「夷」という漢字は「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。 本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。.
東魏
東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した二つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の方は、西魏と呼んで区別する。 「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。.
東胡
紀元前210年、秦帝国と東胡(东胡)の位置。 東胡(とうこ、簡体字: 东胡、)は、中国の春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。.
武定 (東魏)
武定(ぶてい)は、南北朝時代の東魏において、孝静帝の治世に使用された元号。543年正月 - 550年5月。.
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武州
武州(ぶしゅう).
武徳
武徳(ぶとく)は、唐の高祖李淵の治世に行われた年号。唐朝最初の年号。618年 - 626年。.
武則天
武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.
民族
民族(みんぞく)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。また、日本語の民族の語には、近代国民国家の成立と密接な関係を有する政治的共同体の色の濃い nation の概念と、政治的共同体の形成や、集合的な主体をなしているという意識の有無とはかかわりなく、同一の文化習俗を有する集団として認識される ethnic group(ジュリアン・ハクスリーが考案)の概念の双方が十分区別されずに共存しているため、その使用においては一定の注意を要する。 .
沃沮
沃沮(よくそ、옥저)は、紀元前2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の日本海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。.
渤海 (国)
渤海(ぼっかい、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し、『新唐書』はより具体的に「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高(句)麗に付属していた。姓は大氏である。)と記しており、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出とある。 『大金国志』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。 渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。.
漢
漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.
朱全忠
朱 全忠(しゅ ぜんちゅう)は、五代後梁の初代皇帝。廟号は太祖。諱は初め温であったが、黄巣の乱の際の功で唐朝より全忠の名が下賜され、さらに皇帝即位後に晃と改めた。.
新五代史
『新五代史』(しんごだいし)は、北宋の欧陽脩による歴史書。元の名を『五代史記』といい、皇祐5年(1053年)書となった。私撰であるため家に蔵されていたが、撰を終えた後に朝廷に献上された。乾隆の時、薛居正の『旧五代史』と共に正史とするため、欧陽脩の史は『新五代史』と改称された。本紀12巻、列伝45巻、考3巻、世家及年譜11巻、四夷附録3巻の合わせて74卷。後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)までの歴史が記載されている。 現在の歴史学会の評価として、杉山正明のまとめた説によると、「事実誤認も多い上、著者の癖が強く、司馬光の資治通鑑のようなあからさまなウソはないものの、創作も混じっており、旧五代史に比べて良質な史料とは言いがたい」とされている。また、山崎覚士からは本来、五代王朝の節度使に過ぎない荊南節度使をあたかも別の国家(荊南)のように記載して「十国」としたのは欧陽脩個人の史観に過ぎないとする指摘もある。.
新唐書
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.
旧唐書
『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.
景龍 (唐)
景龍(けいりゅう)は、唐の中宗李顕の治世に使用された元号。707年-710年。.
1084年
記載なし。
10世紀
江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.
13世紀
チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.
1971年
記載なし。
2002年
この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.
543年
記載なし。
544年
記載なし。
550年
記載なし。
618年
記載なし。
626年
記載なし。
629年
記載なし。
693年
記載なし。
6世紀
地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.
707年
記載なし。
710年
記載なし。
713年
記載なし。
741年
記載なし。
742年
記載なし。
756年
記載なし。
766年
記載なし。
779年
記載なし。
788年
記載なし。
789年
記載なし。
792年
記載なし。
831年
記載なし。
834年
記載なし。
835年
記載なし。
836年
記載なし。
840年
記載なし。
841年
記載なし。
846年
記載なし。
848年
記載なし。
860年
記載なし。
874年
記載なし。
8世紀
イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.
901年
記載なし。
904年
記載なし。
905年
記載なし。
907年
記載なし。
908年
記載なし。
909年
記載なし。
913年
記載なし。
938年
記載なし。
940年
記載なし。
9世紀
船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.