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今川義元

索引 今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.

241 関係: おんな城主 直虎おんな太閤記お歯黒古河公方参謀本部 (日本)名古屋市吉原市吉川弘文館堀越氏大休宗休大高城大阪府大河ドラマ天と地と (NHK大河ドラマ)天野景貫天文 (元号)太原雪斎太閤記 (NHK大河ドラマ)太閤検地妙心寺学研プラス孕石元泰定恵院宝飯郡室町幕府宮下英樹守護守護大名守護使不入宗三左文字安城市安部元真寿桂尼富士郡寄親・寄子小学館小川剛生小和田哲男尾張国山内上杉家岡崎城岡部元信岡部親綱岡部正綱岡部氏 (藤原南家)岸和田市岸和田藩嶺松院川中島の戦い川越城...上杉謙信上杉朝定 (扇谷上杉家)上杉憲政中御門宣胤中村勘三郎 (18代目)三の丸神社三好長慶三國一朗三条西実隆三河国一色時家一月長得平成幸田露伴幕臣久野宗能享年庵原元政井伊直平井伊直親井伊氏今川仮名目録今川彦五郎今川氏今川氏真今川氏親今川氏豊今川氏輝仮名 (通称)仮名目録追加21条建仁寺伊豆国佐々木睦当代記征夷大将軍徳川家康徳川家康 (NHK大河ドラマ)後北条氏信長 KING OF ZIPANGU北条氏康北条氏綱ミネルヴァ書房ハルキ文庫利家とまつ〜加賀百万石物語〜命日センゴク外伝 桶狭間戦記冷泉為和国盗り物語 (NHK大河ドラマ)玄広恵探神奈川県秀吉 (NHK大河ドラマ)米倉斉加年緑区 (名古屋市)織田信広織田信秀織田信長瑞渓院田原城 (三河国)田原市甲相駿三国同盟甲斐国相模国瀬名氏俊隠居花倉の乱花柳喜章遠江国菅沼定盈落合芳幾静岡市静岡県風林火山 (NHK大河ドラマ)飯尾連龍西尾市西郷氏観泉寺首実検駿州往還駿府駿河国角川学芸出版諏訪頼重 (戦国時代)高家 (江戸時代)高遠合戦講談社谷原章介豊川市豊明市鳴海城足利将軍家足利義輝足利義晴足利晴氏軍師鈴木英治鵜殿長照鵜殿長持鵜殿氏長関口親永葵区那古野城臨済寺 (静岡市)連歌柴田てる彦東向寺東京都東海市松平広忠松平親善松井宗信村上義清杉並区根上淳桶狭間の戦い検地正室正覚寺武田信玄武田信玄 (NHK大河ドラマ)武田信虎武田義信武田氏毎日新聞毛利元就毛利良勝永禄永正河越城の戦い河東の乱治部省沓掛城泉奘泉岳寺清須市服部一忠朝倉宗滴朝比奈元長朝比奈元智朝比奈氏朝比奈泰能朝比奈泰朝成田三樹夫戦国大名戦国時代 (日本)戸田宣成戸田康光戸田氏明治春風亭昇太海道一の弓取り海野平の戦い浜野卓也新実新人物往来社日本軍日本文学館早川殿愛知県慶長1519年1536年1537年1540年1541年1542年1545年1548年1549年1551年1553年1554年1555年1558年1560年1612年1876年1965年1969年1973年1981年1983年1988年1992年1996年2002年2007年2010年2017年5月19日 (旧暦)6月12日 インデックスを展開 (191 もっと) »

おんな城主 直虎

『おんな城主 直虎』(おんなじょうしゅ なおとら)は、2017年1月8日から同年12月17日まで放送されたNHK大河ドラマ第56作。 戦国時代、後に徳川四天王の一人に数えられ彦根藩の藩祖となった井伊直政を育てた遠州井伊谷の女領主・井伊直虎を主人公とした物語である。主演は柴咲コウ。.

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おんな太閤記

『おんな太閤記』(おんなたいこうき)は、1981年1月11日から12月20日までNHKで放映された大河ドラマ第19作。原作および脚本・橋田壽賀子。主演・佐久間良子。全50話。.

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お歯黒

お歯黒(おはぐろ)とは、明治時代以前の日本や中国南西部・東南アジアの風習で主として既婚女性、まれに男性などの歯を黒く染める化粧法のこと。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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参謀本部 (日本)

参謀本部(さんぼうほんぶ)は、大日本帝国陸軍(1903年〔明治36年〕までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。 参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。 なお、1886年(明治19年)から1888年(明治21年)までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む)については軍令部を参照。 当初は、陸軍省等とともに彦根藩井伊家上屋敷跡三宅坂一帯(現在は、憲政記念館等が立地する国会前庭(千代田区永田町))に置かれたが、1941年(昭和16年)12月 - 8日から15日にかけて、陸軍省、教育総監部、陸軍航空総監部共々、三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地(現在、防衛省が所在)に移転した。.

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名古屋市

名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.

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吉原市

吉原市(よしわらし)は、静岡県東部にあった市である。1966年(昭和41年)11月1日に(旧)富士市、富士郡鷹岡町と合併し、富士市となった。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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堀越氏

堀越氏(ほりこしし)は、清和源氏義国流、足利氏の一門今川氏の一派で、初代は今川貞世(了俊)である。遠江を本拠地とし当初は遠江守護職であったため、駿河今川氏に対して遠江今川氏とも呼ばれる。 また、瀬名氏(せなし)も堀越氏と同じ系統の一族のため本稿で合わせて記述する。.

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大休宗休

大休宗休(だいきゅうそうきゅう、応仁2年(1468年) - 天文18年8月24日(1549年9月15日))は、戦国時代の臨済宗の僧。出自については不詳である。諱は宗休。道号は大休。諡号は円満本光国師。 幼いとき京都の東福寺永明庵で出家して学び、のち龍安寺の特芳禅傑に師事して参禅し、その印可を受けた。特芳の死後は西源院・龍安寺の住持を経て妙心寺の住持となったが、晩年は霊雲院を開創してそこに住した。今川義元の招きにより、駿河国に臨済寺を開山したが、のち妙心寺・尾張国瑞泉寺等を歴住した。後奈良天皇に臨済宗の宗義を進講し、円満本光国師の諡号を賜った。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:1468年生 Category:1549年没.

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大高城

大高城(おおだかじょう)は、名古屋市緑区大高町にあった日本の城。 桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。.

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大阪府

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.

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大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

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天と地と (NHK大河ドラマ)

『天と地と』(てんとちと)は、NHKが1969年1月5日 - 12月28日に放送した7作目の大河ドラマ。全52回。.

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天野景貫

天野 景貫(あまの かげつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。犬居城主。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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太原雪斎

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。大塚勲『戦国大名今川氏四代』P48。 父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。 後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。.

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太閤記 (NHK大河ドラマ)

『太閤記』(たいこうき)は、1965年1月3日から12月26日にNHKで放送された3作目の大河ドラマ。.

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太閤検地

太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.

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妙心寺

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。.

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学研プラス

株式会社 学研プラス(がっけんプラス、Gakken Plus Co.,Ltd.)は、日本の出版社。.

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孕石元泰

孕石 元泰(はらみいし もとやす、生年不詳 - 天正9年(1581年)3月23日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏の家臣。通称は藤六、主人。主水佑・和泉守を自称。諱の「元」は今川義元の偏諱と思われる。.

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定恵院

定恵院(じょうけいいん、永正16年(1519年)- 天文19年6月2日(1550年7月15日))は、戦国時代の女性。甲斐国の戦国大名武田信虎の長女。今川義元の正室。武田信玄・武田信繁・武田信廉らの姉にあたる。実名は不明。.

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宝飯郡

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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宮下英樹

宮下 英樹(みやした ひでき 1976年 講談社コミックプラス 2016年4月21日 - )は、日本の漫画家。石川県七尾市出身 北陸中日新聞 2011年10月12日。石川県立七尾高等学校卒業、富山大学工学部途中退学。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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守護使不入

如意輪寺) 守護使不入(しゅごしふにゅう)とは、鎌倉時代・室町時代において幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。守護不入(しゅごふにゅう)とも。 戦国時代には幕府による権限は否定され、代わりに戦国大名が守護・国主の権限の一環としてこれを付与するようになった。.

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宗三左文字

宗三左文字(そうざさもんじ)は、南北朝時代に作刀された日本刀。持ち主の変遷から「三好左文字」「義元左文字」と称されることもあり、「義元左文字」の名で重要文化財に指定されている。 元々は二尺六寸の長さを持つ太刀であり、戦国時代、畿内を支配していた三好氏の三好政長(三好宗三)から甲斐守護武田信虎に贈られた刀であるが、無銘であり、刀匠の名は明らかとなっていない。その後、武田信虎から当時抗争を繰り広げていた駿河の今川義元に渡り、義元は、この刀を自分の愛刀として大切にしたと伝わる。 永禄3年(1560年)、義元はこの刀を携えて三河・遠江へ向けて軍を起こすが、桶狭間の戦いにおいて義元は討死し、義元をこの戦いで敗死させた尾張の織田信長が戦利品としてこの刀を接収した。信長はこの刀を短く磨り上げて、茎表裏に「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と金象嵌銘を入れ、自分の愛刀とし、信長が本能寺の変で横死するまで信長の手元にあった。 本能寺の変の後は、松尾大社の神官の手を経て、信長の家臣であった豊臣秀吉の手に渡った。のちに天下を統一した太閤秀吉の死去後は、その子の豊臣秀頼に伝わり、さらに、江戸幕府を開府した征夷大将軍・徳川家康の手に渡った。家康は大坂の陣で、この刀を佩いていたとされる。これ以降、徳川将軍家の重宝として代々受け継がれていくこととなった。 明暦3年(1657年)、明暦の大火にて被害に遭ったが、再刃された。 明治維新後、明治天皇が織田信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、京都市北区の船岡山に建勲神社が創建されると、明治2年(1869年)に徳川家から信長所縁のこの刀が「義元左文字」として、同神社に寄進された。 現在、同神社所有として重要文化財に指定されている。.

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安城市

安城市(あんじょうし)は、愛知県西三河地方の市。.

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安部元真

安部 元真(あんべ もとざね、永正10年(1513年) - 天正15年10月10日(1587年11月10日))は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、徳川氏の家臣。通称は大蔵尉。父は安部信真。子に信勝。姓は安倍とも表記される。本姓は神氏。 駿河の戦国大名今川氏に仕え、主君の今川義元より偏諱を賜り元真を名乗る。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで義元が戦死して以降、弱体化しつつあった今川氏の領土に甲斐の武田信玄が侵攻してくると(駿河侵攻)、元真は駿府で迎え撃つが敗れ自領に退散した。今川氏滅亡後は流浪の末に徳川家康に仕え、遠江伯耆塚城に入城し、仇敵・武田氏と戦い、諸戦で戦功をあげた。 子の信勝も家康に仕え戦功を挙げ、孫の信盛以降安部氏は譜代大名として栄えた。 もとさね Category:戦国武将 Category:駿河国の人物 Category:1513年生 Category:1587年没.

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寿桂尼

寿桂尼(じゅけいに、生年未詳 - 永禄11年3月14日(1568年4月11日))は、戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は権大納言中御門宣胤。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など。名は不詳。夫・氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれた。.

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富士郡

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寄親・寄子

寄親・寄子(よりおや・よりこ)とは、中世日本において親子に擬制して結ばれた主従関係あるいはこれに准ずる保護者・被保護者の関係。保護する側を寄親(よりおや、指南・奏者)、保護される側を寄子(よりこ、寄騎(与力)・同心)とも呼ぶ。『日葡辞書』では寄親は「ある主君の家中とか、その他の所とかにおいて、ある者が頼り、よりすがる相手の人」、寄子は「他人を頼り、その庇護のもとにある者。あるいは他の配下にある者」と解説されている。原則的には寄親・寄子関係は私的な契約関係によったが、戦国時代においては半ば強制的なものになっていった。 寄子と同様の性格を持つものとしては、奈良時代の寄口、平安時代の寄人などが挙げられるが、鎌倉時代の武家社会における惣領制の確立によって初期には総領に従う庶子の事を指した(『鎌倉幕府追加法』)が、程なく非血縁的武士も寄子として扱われ、やがて後者が占めることになる。寄子は総領が負っていた公事に対する負担を行う代わりにその地位と所領を保障されていた。 室町時代に入ると地侍たちが地元の有力武士と関係を結んで寄親・寄子の関係を結ぶようになり、守護大名や戦国大名も有力武士を傘下に入れる過程で彼らの寄親としての権限を認めて、自らも彼らと寄親・寄子の関係を結んで家臣団に取り込んでいった。この時代の寄親・寄子関係は、単に戦いへの一時的な参加を頼む・頼まれるという当座の関係から、寄親が寄子に所領や扶持を与える「給人的寄子」まで幅広く、更に大名が自己の寄子である有力武士に彼ら自身の寄子に与えるための所領(寄子給)が与えられる場合もあった。 戦国時代になると、大名は主従関係の安定化のため、寄親となった有力武士の権利を保障し、寄子が濫りに寄親を変えることを禁じたり、大名への訴訟は寄親を通じて行うことを命じて、強制力を持たせる一方、寄親が寄子に恩給を与えなかったり、その他寄子に対する不当な扱いを行った場合には寄親を変えさせるなど、寄子を自己の軍事力として確保する政策が取られた。 寄親・寄子制を採ったことが知られる戦国大名としては、北条氏・今川氏・武田氏・六角氏・毛利氏などが知られ、これよりも結びつきが低い(恩給は与えず、有事の時に指揮・被指揮の関係に入る)「指南・被指南」制度を採った伊達氏や結城氏の例もある。 江戸時代に入ると主従関係の再編成によって、武家社会における制度としての寄親・寄子は消滅するが、奉行所における与力・同心のように下級役人の役職名などに残されたほか、各種奉公人の斡旋を行う口入屋や人宿の大家(賃貸人)を寄親、奉公人や人宿の店子(賃借人)を寄子と呼ぶなど、制度の名残が広く残されていた。.

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小学館

株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。.

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小川剛生

小川 剛生(おがわ たけお、1971年 - )は、日本の国文学者。慶應義塾大学教授。専攻は中世和歌史。東京都出身。.

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小和田哲男

小和田 哲男(おわだ てつお、1944年(昭和19年)2月1日 - )は、日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本の戦国時代(特に今川氏)に関する研究で知られる。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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山内上杉家

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.

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岡崎城

岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にある日本の城。徳川家康の生地である。別名、龍城。岡崎公園の中にある。 戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。 岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。.

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岡部元信

岡部 元信(おかべ もとのぶ)は、戦国時代の武将。今川家の家臣。後に甲斐武田家の家臣。.

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岡部親綱

岡部 親綱(おかべ ちかつな、生年不詳 - 永禄5年(1562年))は、戦国時代の武将。駿河の大名今川氏の家臣。通称・左京進、出家して玄忠。 今川氏輝の側近であった。氏輝没後の天文5年(1536年)花倉の乱に際しては栴岳承芳方に味方し、方上城を攻撃、落城せしめるなど大いに戦功を上げた。 ちかつな Category:戦国武将 Category:1562年没.

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岡部正綱

岡部 正綱(おかべ まさつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏、徳川氏の家臣。岡部久綱の子、岡部長盛の父。次郎右衛門尉。 『武徳編年集成』には、少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたことが記されている。 最初は今川家に仕えており、弘治3年(1557年)に初陣、兜首2つを獲って名を馳せた。その後、武田信玄の侵攻(駿河侵攻)で駿河国を失うなどして、今川家が勢力を失った後も、今川館に籠もって頑強に抵抗した。今川氏の滅亡後は、その武勇を高く評価され、武田氏の家臣として仕えた。 その後は武田家臣として、三方ヶ原の戦いなど数多の戦で活躍したが、天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し、一門の岡部元信らが討ち死にする。その後は徳川家康の家臣となり、天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して家康が甲斐国に侵攻すると、旧武田家臣の調略などを行って、家康の甲斐平定に尽力した。徳川氏の甲斐支配においては、平岩親吉と同格に置かれていたとする説もある。 しかし翌年、戦傷が原因で死去したとも、武田旧臣達を調略する際に毎度酒宴を催していたため、急性アルコール中毒で身体を壊して死去したともいわれ、没年・死因ともに異説がある。 正綱の孫・岡部宣勝は祖父の功績を賞されて、和泉国岸和田に6万石を与えられた。.

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岡部氏 (藤原南家)

岡部氏(おかべし)は、日本の氏族の一つ。.

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岸和田市

岸和田市(きしわだし)は、大阪府泉南地域に位置する市。施行時特例市に指定されている。 岸和田藩の城下町を中心に発展してきた。泉南地域の中心都市でもあり、大阪府の出先機関や企業の支店などが集中している。岸和田だんじり祭で有名。行政の特徴として、永住外国人と国内在住期間が3年を越え満18歳以上で3ヵ月以上市内に住む「定住外国人」に住民投票の投票権(参政権ではない)を認めている。市のキャッチフレーズは「世界にいちばん近い城下町」。.

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岸和田藩

和泉国岸和田城絵図/国立公文書館内閣文庫所蔵 岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。.

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嶺松院

嶺松院(れいしょういん、生年不詳小和田哲男編『戦国大名閨閥事典』(新人物往来社、1996年)今川氏の章(執筆者:小和田美智子)は、天文10年(1541年)生まれとする。12歳で結婚、27歳で夫を失い、72歳で死去した計算になる。 - 慶長17年8月19日(1612年9月14日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。駿河国の戦国大名今川義元と正室定恵院の娘。甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚した。実名は不明。嶺松院殿。.

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川中島の戦い

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。.

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川越城

川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。.

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上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

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上杉朝定 (扇谷上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、戦国時代の武将。扇谷上杉家の事実上最後の当主。武蔵国松山城主。.

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上杉憲政

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。 上杉謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。.

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中御門宣胤

中御門 宣胤(なかみかど のぶたね、嘉吉2年(1442年) - 大永5年11月17日(1525年12月1日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流中御門家当主。官位は従一位・権大納言。出家後の法名は乗光。.

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中村勘三郎 (18代目)

十八代目 中村 勘三郎(じゅうはちだいめ なかむら かんざぶろう、1955年(昭和30年)5月30日 - 2012年(平成24年)12月5日)は、歌舞伎役者、俳優。本名は波野 哲明(なみの のりあき)。屋号は中村屋。定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。舞踊名に藤間勘暢(ふじま かんちょう)がある。 子役時代から46年間名乗った前名である五代目 中村 勘九郎(ごだいめ なかむら かんくろう)としても知られた。愛称は本名からきた「のりちゃん」。 所属事務所は。.

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三の丸神社

三の丸神社(さんのまるじんじゃ)は、大阪府岸和田市にある神社。.

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三好長慶

三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。.

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三國一朗

三國(三国) 一朗(みくに いちろう、1921年1月12日 - 2000年9月15日)は、日本の放送タレント、エッセイストである。.

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三条西実隆

三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。内大臣・三条西公保の次男。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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一色時家

一色 時家(いっしき ときいえ)は、室町時代の武将。鎌倉公方足利持氏の家臣。 喜連川判鑑に、「一色刑部小輔 大草子ニ時家」と記載されているが、鎌倉大草紙には、「一色刑部大輔持家」と記載されている。前者の「一色刑部小輔」の名は、牛窪記・三河国二葉松にも記載がみられ、時家と同一人物とされる。一方、後者の持家は、時家が足利持氏に仕えてその偏諱を賜って名乗ったもので同一人物とみられる。更に一色持家が持氏によって相模国の守護に任じられていたことも判明している佐藤博信「室町時代の相模守護」『中世東国の支配構造』(思文閣出版、1989年)。.

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一月長得

一月 長得(いちげつ ちょうとく)は、駿河今川氏出身の僧侶。今川家第9代当主・今川義元の三男であると伝えられる。生家の苗字を冠して今川長得と記されることもある。.

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平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

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幸田露伴

幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。高木卓の伯父。 『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。.

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幕臣

幕臣(ばくしん)は、幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のことである。 一般的には、江戸時代において徳川家の臣下のうち、1万石未満の禄を与えられた旗本および御家人と呼ばれる身分の者のことを指す。 彼ら旗本・御家人は、所領を与えられた者でも領地への下向を行わずに江戸に常時居住し(交代寄合として大名同様参勤交代を行うものもいた)、自身の知行高に定められた軍役を果たす準備を満たして将軍家の常備直轄軍事力としての役割を果たす一方で、江戸幕府の各種の役職(軍職の番方や吏務職の役方)を果たし、幕府の軍人・官僚として仕えた。 幕臣は幕藩体制のもとで特権を認められる世襲の武士身分であったが、江戸時代中頃から経済的に窮乏するようになり、下層の御家人の間では御家人株の売買による身分の流動が見られた。.

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久野宗能

久野 宗能(くのう むねよし、大永7年(1527年)-慶長14年10月8日(1609年11月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。久野忠宗の子。子に久野宗朝。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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庵原元政

庵原 元政(いはら もとまさ)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。之政とも記されるが、今川義元より偏諱を受ける以前の名乗りか。.

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井伊直平

井伊 直平(いい なおひら)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏16代当主。井伊直虎・井伊直政の曾祖父。一説には、徳川家康の正室・築山殿の外祖父に当たると言われる。その場合、直平は松平信康の曾祖父になる。.

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井伊直親

井伊 直親(いい なおちか)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏19代当主。.

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井伊氏

井伊氏(いいし)は、日本の氏族。近江国彦根藩の主家である。.

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今川仮名目録

今川仮名目録(いまがわかなもくろく)は駿河国の戦国大名である今川氏が制定した分国法である。東国では最古の分国法。 大永6年(1526年)4月、今川氏親は33条からなる家法である『仮名目録』を制定する。このころ氏親は病床にあり、草案には家臣や、嫡子の今川氏輝への後継を望み政権を安定させたいという氏親の妻(後の寿桂尼)の意向も大きく反映されたと見られる。 天文22年(1553年)2月、今川義元は『仮名目録追加21条』を制定して補訂する。戦国時代の東国では比較的早い時期に制定された分国法で、甲斐国の戦国大名で、今川氏とは盟友関係にあった武田氏の分国法である『甲州法度次第』(1547年)にも影響を与えている。 今川氏は既に幕府の命令を待たずに遠江国へと進出した時点で守護大名から戦国大名へと立場を変えつつあったが、『今川仮名目録』の成立をもって名実ともに戦国大名としての立場を明らかにしたとされる。更に『追加21条』においては、室町幕府によって義務付けられていた守護不入を否認して完全に守護大名色を払拭した。 内容は、戦国大名の権力誇示というよりも、土地などに関する訴訟の裁定基準といった色合いが強いのが特徴である。.

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今川彦五郎

今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)は、戦国時代の人物。今川氏親の次男、今川氏輝の弟。 当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今川氏真

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。 父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えた。.

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今川氏親

今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.

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今川氏豊

今川 氏豊(いまがわ うじとよ)は、戦国時代の武将。尾張国那古野城主。兄の今川彦五郎と同一人物とも考えられていたが、最近の研究では別人とされている。また、氏豊の名は今川氏の良質の文書には現れず、氏親の子ではなく傍流という説もある。.

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今川氏輝

今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、戦国時代の駿河の戦国大名。今川氏の第10代当主。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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仮名目録追加21条

仮名目録追加21条(かなもくろくついか21かじょう)は、天文22年(1553年)に駿河国の戦国大名・今川義元が制定した成文法。義元の父・今川氏親が制定した今川仮名目録に追加された分国法で、全21か条になる。家臣同士の境論や、父親死亡後の相続などについて規定されている。特に他国出身者の採用に関して厳しい姿勢を採ったり、室町幕府によって義務付けられていた守護不入を否認して完全に守護大名色を払拭するなど、義元の守護大名から戦国大名への移行が意識的に現れている点に特徴がある。また寄子の扶養に関する保護などの規定も盛り込まれており、現在の社会保障制度に類似のシステムもある。 Category:分国法 * Category:1553年の法 Category:1553年の日本 Category:名数21.

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建仁寺

建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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佐々木睦

佐々木 睦(ささき むつみ、1961年7月20日 - )は、日本の俳優、声優。北海道出身。身長178cm。体重67kg。演劇集団 円所属。.

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当代記

『当代記』(とうだいき)は、寛永年間(1624年〜1644年)頃に成立したとされる史書。編纂者は姫路藩主松平忠明と言われるが不詳。全九巻九冊。太田牛一の『信長公記』を中心に他の記録資料を再編した二次史料である。史籍雑纂第2に収録。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家康 (NHK大河ドラマ)

『徳川家康』(とくがわいえやす)は、NHKで1983年1月9日から12月18日にかけて放送された大河ドラマ第21作。主人公は徳川家康。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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信長 KING OF ZIPANGU

『信長 KING OF ZIPANGU』(のぶなが キング オブ ジパング)は、NHKで1992年1月5日から12月13日に放送された30作目の大河ドラマ。.

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北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.

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北条氏綱

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.

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ミネルヴァ書房

株式会社ミネルヴァ書房(ミネルヴァしょぼう)は、日本の学術専門書出版社。京都市山科区に本社を置いている。.

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ハルキ文庫

ハルキ文庫(ハルキぶんこ、Haruki Bunko)は、株式会社角川春樹事務所が発行している文庫レーベル。本項では、ハルキ・ホラー文庫についても述べる。.

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利家とまつ〜加賀百万石物語〜

『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(としいえとまつ かがひゃくまんごくものがたり)は、NHKで2002年1月6日から12月15日にかけて放送された大河ドラマ第41作。.

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命日

命日(めいにち)とは、ある人が死亡した日をいう。忌日(きにち)ともいう。対義語は誕生日。死亡した年月日を歿(没)年月日(ぼつねんがっぴ)という。 通常は、死亡した月を指す祥月と組み合わせて、一周忌以後の当月の命日である祥月命日(しょうつきめいにち)を指すことが多い。祥月にかかわらない月ごとの命日を月命日(つきめいにち)という。 日本の仏教では、年12回の月命日に故人の供養を行い、一定の年数の命日には年忌法要(法事)が営まれる(年忌法要一覧を参照)。仏教に深く帰依したとされる光明皇后は、月命日ごとに法要が行われている。 50回忌以降は、50年毎に行っていたが、近年では、31回忌、33回忌、50回忌のいずれかをもって「弔い上げ」(戒名を過去帳に移し、お骨を土に返す)とするのが一般的になってきた。.

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センゴク外伝 桶狭間戦記

『センゴク外伝 桶狭間戦記』は宮下英樹による漫画作品。同作者による漫画『センゴク』の外伝作品。『別冊ヤングマガジン』・『月刊ヤングマガジン』および『週刊ヤングマガジン』で連載された。.

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冷泉為和

冷泉 為和(れいぜい ためかず)は、戦国時代の公卿・歌人。正二位権大納言・冷泉為広の子。上冷泉家7代当主。官位は正二位・権大納言。.

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国盗り物語 (NHK大河ドラマ)

『国盗り物語』(くにとりものがたり)は、1973年1月7日から12月23日に放送されたNHK大河ドラマ第11作。全51回。.

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玄広恵探

広 恵探(げんこう えたん)は、戦国時代の武将。今川義元の庶兄。今川良真(ながさね)を名乗ったとする説もある。.

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神奈川県

奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300メートル (m) ほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位、人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位である。県内総生産も東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位となっている。県内の政令指定都市数は3つと日本最多で、面積は第43位の規模である(平成19年度面積)、国土地理院。。.

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秀吉 (NHK大河ドラマ)

『秀吉』(ひでよし)は、1996年1月7日から12月22日にかけて放送された第35作目のNHK大河ドラマ。原作:堺屋太一、脚本:竹山洋、主演:竹中直人。全49話。.

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米倉斉加年

米倉 斉加年(よねくら まさかね、1934年7月10日 - 2014年8月26日)は、日本の俳優・演出家・絵本作家・絵師。福岡県福岡市出身。福岡県立福岡中央高等学校卒業、西南学院大学文学部英文科中退。.

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緑区 (名古屋市)

緑区(みどりく)は、名古屋市を構成する16区のうちのひとつである。名古屋市の南東部に位置する。.

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織田信広

織田 信広(おだ のぶひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信秀の子。織田信長の庶兄。.

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織田信秀

織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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瑞渓院

渓院(ずいけいいん)または瑞渓院殿(ずいけいいんでん、生年不詳 - 天正18年6月12日(1590年7月13日))は、戦国時代の女性で、相模国・伊豆国の戦国大名である北条氏康の正室。瑞渓院は法名で、実名は不詳である。氏康とは、はとこ同士になる。父は駿河国守護今川氏親。母は寿桂尼。兄弟に今川氏輝、今川義元、今川彦五郎。異母兄に玄広恵探。子に男子は、夭折した長男新九郎(天用院殿)、次男で嫡子の北条氏政、三男北条氏照、四男北条氏邦、五男北条氏規。女子では今川氏真室の早川殿、足利義氏室の浄光院殿の母とされる。氏照、氏邦、早川殿の母に関しては異説もある。 氏康との婚姻時期は不明だが、兄である今川氏輝の小田原への訪問記録等により、天文5年(1536年)以前の天文4年(1535年)であったと考えられている。 この後、後北条氏と代替わりした今川義元との河東一乱による断交があっても実家に戻ることなく、氏康正室、嫡子生母として北条家にあった。子宝に恵まれ、しかもその弟たちは嫡男氏政を強く支え、後北条氏を更なる発展へ導いた。 元亀2年(1571年)11月21日、北条氏康の四十九日忌をもって逆修(『北条家過去帳』)、以後「御大方様」と称される(『青木文書』)。 天正18年(1590年)6月12日、豊臣秀吉による小田原征伐の際に死去した。氏政継室の鳳翔院殿と同日であることなどから、自害の可能性を指摘されている。 法名は瑞渓院殿光室宗照大姉。.

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田原城 (三河国)

原城(たはらじょう)は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった戦国期から江戸期の日本の城。江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁であった。.

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田原市

原市(たはらし)は、愛知県南端、渥美半島にある市。.

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甲相駿三国同盟

駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説(後述)からとも呼ばれている。同盟の名としては、それぞれの国をあらわす甲、相、駿の順番は定まってはおらず、文献・研究者・機関などによっては順番が異なる。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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瀬名氏俊

名 氏俊(せな うじとし)は、戦国時代の武将。遠江今川氏の流れを汲む瀬名氏の当主で、駿河今川氏に仕えた。別名は貞綱と伝わる。.

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隠居

居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。 日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。.

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花倉の乱

花倉の乱(はなくらのらん、花蔵、はなぐらとも)は、戦国時代の天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。嫡流の栴岳承芳(後の今川義元)らが勝利し終結。.

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花柳喜章

花柳 喜章(はなやぎ よしあき、1924年1月5日 - 1978年1月3日)は日本の俳優。本名は青山勝。 1924年1月5日、兵庫県出身(1923年1月22日、東京府出身とする説もある)。幼いとき俳優・花柳章太郎の養子となる。芸名は父親の名前から一字、章太郎の師匠の喜多村緑郎から一字貰い受け合成したものである。 1933年11月、明治座 で初舞台「侠艶録」のぼたんを演じた。俳優の養成同好会の「青年の会」で後進の指導に当たる。戦後は「山椒大夫」(1954年)、「春琴物語」(1954年)などの映画に出演した。その他、代表作としてNHK大河ドラマ『花神』で西郷隆盛を演じている。1978年1月2日、新橋演舞場の初日の舞台で倒れ、人事不省のまま翌日54歳で早世した。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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菅沼定盈

菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。野田菅沼氏3代目当主。上野阿保藩主。.

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落合芳幾

『鰐魚』(新聞錦絵、1875年頃) 落合 芳幾(おちあい よしいく、天保4年〈1833年〉 - 明治37年〈1904年〉2月6日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師のひとり。.

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静岡市

静岡市(しずおかし)は静岡県中部に位置する政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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風林火山 (NHK大河ドラマ)

『風林火山』(ふうりんかざん)は、2007年1月7日から12月16日まで放送された46作目のNHK大河ドラマ。原作・井上靖。脚本・大森寿美男。音楽・千住明。主演・内野聖陽。全50話。.

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飯尾連龍

飯尾 連龍(いのお つらたつ)/ 飯尾 致実(いのお むねざね)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国曳馬城主。飯尾氏(漢族系三善朝臣)最後の当主。『古事類苑』では飯尾能房と記されている。.

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西尾市

西尾市(にしおし)は、愛知県にある市。愛知県中央部を北から南へ流れる矢作川流域の南端にある。抹茶の産地(西尾茶)として、また「三河の小京都」として知られる。.

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西郷氏

西郷氏(さいごうし)は、日本の姓氏。「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。.

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観泉寺

観泉寺(かんせんじ)は、東京都杉並区今川にある曹洞宗の寺院。山号は宝珠山。.

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首実検

首実検(くびじっけん)とは、前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもあった。夏期においては穂垂首は軍鑑の確認に止める場合もあった。 大将や重臣が、討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認する。首級の確認は、寝返りした、または捕虜となった敵方に確認させることもあった。.

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駿州往還

『富嶽三十六景 身延川裏不二』における駿州往還 駿州往還(すんしゅうおうかん)は、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。なお、「駿州往還」とは甲斐側からの呼び方で、本来は東海道側(静岡側)からの甲州往還(こうしゅうおうかん)が正式な呼称。(後述).

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駿府

駿府(すんぷ)は、駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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角川学芸出版

角川学芸出版(かどかわがくげいしゅっぱん)は、日本の出版社・KADOKAWAと角川文化振興財団の共通ブランド。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川学芸出版についても解説する。.

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諏訪頼重 (戦国時代)

280px 諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。信濃四大将のひとり。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高家 (江戸時代)

家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.

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高遠合戦

遠合戦(たかとおかっせん)は、天文13年(1544年)から天文14年(1545年)に信濃高遠で行なわれた甲斐の武田晴信軍と信濃の高遠頼継軍の合戦である。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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谷原章介

谷原 章介(たにはら しょうすけ、1972年7月8日 - )は、日本の俳優、タレント、司会者。クリエートジャパンエージェンシーを経て、ジャパン・ミュージックエンターテインメント(イー・コンセプト)所属。 神奈川県横浜市出身。身長183cm、体重72kg。 三原市ふるさと大使(2014年7月4日任命)。.

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豊川市

豊川市(とよかわし)は、愛知県の東三河に位置する市である。計量特定市。.

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豊明市

豊明市(とよあけし)は、愛知県尾張地方にある市。.

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鳴海城

海城の石碑 鳴海城(なるみじょう)は、かつて愛知県名古屋市緑区に存在した日本の城である。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.

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足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

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足利晴氏

足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。室町幕府が正式に認め、尚且つ影響力を持っていた古河公方としては最後の古河公方である。.

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軍師

軍師(ぐんし)は、軍中において、軍を指揮する君主や将軍の戦略指揮を助ける職務を務める者のことである。このような職務を務める者は東アジアにおいては古代から軍中にみられたが、ヨーロッパでは近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在しなかった。 知将、策士などとも言われる。.

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鈴木英治

鈴木英治(すずき えいじ、1960年12月27日 - )は、静岡県沼津市生まれの時代小説家。沼津市立沼津高等学校、明治大学経営学部卒業。 1999年、『駿府に吹く風』で第1回角川春樹小説賞特別賞を受賞し、作家デビュー。(『義元謀殺』に改題し、2000年刊行。)妻も歴史作家の秋山香乃。 2016年6月、歴史小説をイノベーションする会「操觚の会」を、九名の歴史・時代小説作家で作り(秋山香乃、蒲原二郎、杉山大二郎、鈴木英治、鳴神響一、新美健、早見俊、幡大介、誉田龍一(五十音順))、局長と名乗る。.

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鵜殿長照

殿 長照(うどの ながてる)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。三河国宝飯郡上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主。.

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鵜殿長持

鵜殿 長持(うどの ながもち)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。 三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主で、今川義元の妹婿に当たる。弘治3年(1557年)に没して、嫡子・長照が家督を継いでいる。 『三河物語』では、その没年を永禄5年(1562年)としている。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、織田信長方に身動きを封じられた大高城の解放に協力、功を挙げた。しかし、後続の本隊が信長に襲われ、義元が討たれると、三河の自領に逃げ帰っている。その後も、義元の縁戚であった立場に忠実で、三河における今川氏の家臣として忠誠を尽くした。だが、周辺に在った鵜殿の分家は岡崎の家康に与する事となり、今川方の最前線で孤立していった。永禄5年(1562年)には、家康方の攻撃を受ける。先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、岡崎の本隊が加わった攻城軍には抗いきれず上ノ郷城は陥落。子の長照と共に戦死した。孫の氏長と氏次の兄弟は捕縛され、松平氏により人質とされた。 なかもち Category:戦国武将 Category:三河国の人物 Category:1513年生 Category:1557年没 .

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鵜殿氏長

殿 氏長(うどの うじなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。.

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関口親永

関口 親永・瀬名 義広(せきぐち ちかなが/せな よしひろ)は、戦国時代の武将。今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。駿河持船城主。妻は今川義元の妹(養妹とも)であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。.

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葵区

葵区(あおいく)は、2005年4月1日に誕生した静岡市の行政区の一つ。.

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那古野城

那古野城(なごやじょう)は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現愛知県名古屋市中区)にあった日本の城。今川氏親(今川義元の父)築城。織田信長生誕の城とされる。 16世紀前半に30年ほど存続した後に廃城となるが、旧城地は廃城から半世紀ほど後に再び城地に取り立てられ、名古屋城になった。.

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臨済寺 (静岡市)

臨済寺(りんざいじ)は、静岡市葵区大岩町にある、臨済宗妙心寺派の禅寺。山号は大龍山、同派の専門道場である。駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で、今川館(現在の駿府城)の北西に当たる賤機山(しずはたやま)の麓に位置する。.

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連歌

連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.

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柴田てる彦

柴田 侊彦(しばた てるひこ、1943年9月18日 - )は、東京都出身の俳優・声優。.

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東向寺

東向寺(とうこうじ)は愛知県西尾市にある浄土宗西山深草派の寺院。正式名称は、石峰山来迎院東向寺(せきほうざんらいごういんとうこうじ)。今川義元の首塚と伝わる宝篋印塔がある。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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東海市

東海市(とうかいし)は、愛知県にある市。知多半島の付け根に位置する。.

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松平広忠

松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。.

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松平親善

松平 親善(まつだいら ちかよし、文明17年(1485年) - 享禄4年3月13日(1531年3月31日))は、戦国時代の武将。竹谷松平家当主。通称、与二郎、玄蕃允。松平守親の長男。室は今川氏親の娘(のちに離縁、その後鵜殿長持室)。子に松平清善。法名は全長。 ちかよし Category:戦国武将 Category:1485年生 Category:1531年没.

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松井宗信

松井 宗信(まつい むねのぶ、永正12年(1515年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将。遠江の国人。今川氏の家臣。遠江二俣城主。通称は五郎八郎、のち左衛門佐。松井貞宗の子。今川義元の近従を勤め、のちには三河・尾張方面の遠征軍指揮官として忠節を積むが、桶狭間の戦いにて戦死した。.

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村上義清

村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。 信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。信濃四大将のひとり。.

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杉並区

杉並区(すぎなみく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。郵便番号(上3桁)166・167・168。.

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根上淳

根上 淳(ねがみ じゅん、1923年9月20日 - 2005年10月24日)は、日本の俳優。本名は森 不二雄(もり ふじお)。 身長171cm。1950年代より大映で菅原謙次と人気を二分し、活躍した二枚目スター。後年は活動の場をテレビ中心に移し、渋い脇役として存在感を示した。.

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桶狭間の戦い

今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.

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検地

検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正覚寺

正覚寺(しょうかくじ、しょうがくじ)とは、日本の各地にある寺院の名前。一部の寺の正式名は「正覺寺」。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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武田信玄 (NHK大河ドラマ)

『武田信玄』(たけだしんげん)は、NHKが1988年1月10日から12月18日に放送した第26作目の大河ドラマ。全50回。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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武田義信

武田 義信(たけだ よしのぶ)は、戦国時代の武将。武田信玄の嫡男で武田氏を嗣ぐはずであったが、廃嫡された。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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毎日新聞

毎日新聞大阪本社(大阪市北区) 毎日新聞北海道支社(札幌市中央区) 毎日新聞(まいにちしんぶん、)は、日本の新聞のひとつ。2017年9月期の販売部数(日本ABC協会調べ)は朝刊が約294万部、夕刊が73万部である 。毎日新聞社(毎日新聞グループホールディングス傘下)が発行している。 戦前から朝日新聞と共に2強に数えられていたが、拡販競争と西山事件による経営危機で後れを取り、1960年代後半から1970年代前半に掛けての読売新聞の発行部数増加などで販売不振が続いた。2008年には毎日デイリーニューズWaiWai問題が発覚し、再度経営問題が発生した。 現在のスローガンは、「報道に近道はない」。新聞販売店の愛称は「毎日ニュースポート」であるが、近年は呼称される機会が少ない。.

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毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.

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毛利良勝

毛利 良勝(もうり よしかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新介、後に新左衛門。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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河越城の戦い

河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。 北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。 「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」(かわごえよいくさ)である。本稿では河越夜戦について詳述する。 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。.

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河東の乱

河東の乱(かとうのらん)とは、戦国時代の天文6年(1537年)から天文14年(1545年)までの間に、駿河国(静岡県中部および東部)で起こった駿河の今川氏と相模国の北条氏との戦いである。「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味する。河東一乱とも呼ばれる。.

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治部省

治部省(じぶしょう)は律令制における八省のうちのひとつ。和名は「おさむるつかさ」。.

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沓掛城

沓掛城(くつかけじょう)は、尾張国愛知郡沓掛(現・愛知県豊明市沓掛町)にあった日本の城。旧記には沓懸城とも書かれている。.

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泉奘

象耳 泉奘(しょうじ せんじょう、永正15年(1518年) - 天正16年5月18日(1588年6月11日))は、日本の律宗の僧侶。 今川氏の出身とされ、今川氏親の4男とされる。今川義元の次男とする説もあるが各人の生年とは矛盾する。 幼少時から僧侶となり、後に、泉涌寺の長老となる。その後、唐招提寺の長老にもなる。 また、筒井氏の菩提寺である伝香寺の中興開山にもなった。.

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泉岳寺

泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる。 現在の住職は駒澤大学名誉教授の小坂機融。.

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清須市

清須市(きよすし)は、愛知県北西部(旧尾張国)の市である。清洲城(清須城)があることで知られる。.

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服部一忠

服部 一忠(はっとり かずただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太。名は春安、忠次とも。.

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朝倉宗滴

朝倉 宗滴(あさくら そうてき) / 朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名・朝倉氏の家臣。朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の3代の朝倉氏当主を一族の参謀格としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた。諱は教景(朝倉教景 (曖昧さ回避) を参照)で、宗滴は法名。茶器・九十九髪茄子を所有していたことでも知られる。.

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朝比奈元長

朝比奈 元長(あさひな もとなが)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。駿河朝比奈氏2代当主。庵原城主。.

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朝比奈元智

朝比奈 元智(あさひな もととも)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。三河国田原城代。.

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朝比奈氏

朝比奈氏(あさひなうじ)は、日本の氏族。藤原氏または平氏を名乗る。.

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朝比奈泰能

朝比奈 泰能(あさひな やすよし)は、戦国時代の武将。今川氏の重臣。遠江国掛川城主。.

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朝比奈泰朝

朝比奈 泰朝(あさひな やすとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏の家臣。掛川城主。.

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成田三樹夫

成田 三樹夫(なりた みきお、1935年1月31日 - 1990年4月9日)は、日本の俳優。愛称はミッキー。山形県酒田市出身。戦後日本映画史において、悪役の系列に確実に名を残した俳優であった日本映画俳優人名事典・男優篇 1995 下巻352~353ページ。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸田宣成

戸田 宣成(とだ のぶなり、生年不詳 - 天文15年(1546年))は戦国時代の東三河地方の武将、渥美郡田原城の国人領主戸田氏の一族。田原城主戸田憲光(弾正忠)の子、通称は金七郎・橘七郎・三郎兵衛尉。初め同郡大崎郷(豊橋市老津町)に居住したが、天文6年(1537年)牧野氏の今橋城を奪い城主となった。。.

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戸田康光

戸田 康光(とだ やすみつ、? - 天文16年(1547年))は、戦国時代の三河国の武将。渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった。初名は宗光で、松平清康の偏諱を受けて康光と改める。弾正少弼を称する。子に戸田尭光、戸田宣光、戸田重真。.

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戸田氏

戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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春風亭昇太

春風亭 昇太(しゅんぷうてい しょうた)は、落語家の名。先代は前座の時に名乗っただけであるため、代数をつけて呼ぶことはない。.

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海道一の弓取り

海道一の弓取り(かいどういちのゆみとり)は、以下の戦国武将の異名。海道とは東海道を指す。弓取りとは弓矢で戦うものから「武士」、転じて「国持大名」を指す。通常、以下の、東海道の国に拠点を置いた戦国大名を指す。;年齢順.

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海野平の戦い

海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)は、戦国時代の天文10年(1541年)5月に信濃国小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。 天文年間に甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱、根津元直ら滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)や真田氏との間で行われた。別名:海野平合戦。.

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浜野卓也

浜野 卓也(はまの たくや、1926年1月5日 - 2003年8月10日)は、日本の児童文学作家・評論家。専攻は近代文学。.

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新実

新 実(あたらし みのる、1954年10月4日 - )は、日本の殺陣師である。元芸名は新みのる,林邦史朗の弟子。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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日本軍

日本軍(にほんぐん、にっぽんぐん)は、広義には日本が有する軍隊のことであるが、狭義には第二次世界大戦以前(以下戦前)の日本が保持していた軍隊(帝国陸軍と帝国海軍の両軍)を指す。第二次世界大戦の敗戦により軍は解体されたため、戦後は旧日本軍(きゅうにほんぐん、きゅうにっぽんぐん)、旧軍(きゅうぐん)などと略称する。また、戦前からの名称・呼称としては陸海軍(りくかいぐん)、帝国陸海軍(ていこくりくかいぐん)、国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん、すめらみいくさ)、官軍(かんぐん)などがある。 戦後、日本の防衛組織として創設された「自衛隊」については、日本国内では「日本軍」と称されることはほとんどない。日本語以外の言語地域では正式には英語名称で「Japan Self-Defense Forces」など「自衛隊」に相当する語で表現するが、「日本軍」に相当する語(「Japanese military」、「Japan Armed Forces」など)で表す場合もある。本項では「旧日本軍」について詳述する。.

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日本文学館

株式会社日本文学館(にほんぶんがくかん)は日本の出版社。2002年11月18日に設立。代表取締役は米本守。.

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早川殿

早川殿/早河殿(はやかわどの、生年不詳 - 慶長18年2月15日(1613年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。相模国の戦国大名北条氏康の娘。甲相駿三国同盟の一環として、駿河国の戦国大名今川氏真の室となった。 実名は不明。法名から蔵春院殿、蔵春院とも称される。.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1519年

記載なし。

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1536年

ユリウス暦の.

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1537年

記載なし。

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1540年

記載なし。

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1541年

記載なし。

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1542年

記載なし。

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1545年

記載なし。

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1548年

記載なし。

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1549年

記載なし。

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1551年

記載なし。

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1553年

記載なし。

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1554年

記載なし。

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1555年

記載なし。

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1558年

記載なし。

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1560年

記載なし。

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1612年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1965年

記載なし。

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1969年

記載なし。

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1973年

記載なし。

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1981年

この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.

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1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

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1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.

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1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

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1996年

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2002年

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2007年

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2010年

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2017年

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5月19日 (旧暦)

旧暦5月19日は旧暦5月の19日目である。六曜は大安である。.

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6月12日

6月12日(ろくがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から163日目(閏年では164日目)にあたり、年末まであと202日ある。誕生花はライラック、ベロペロネ。.

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