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甲相駿三国同盟

索引 甲相駿三国同盟

駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説(後述)からとも呼ばれている。同盟の名としては、それぞれの国をあらわす甲、相、駿の順番は定まってはおらず、文献・研究者・機関などによっては順番が異なる。.

122 関係: 城郭千貫樋南北朝時代 (日本)古河公方同盟向山氏天下天文 (元号)太原雪斎定恵院守護富士市小山田氏小和田哲男小田原城小田原城の戦い (1560年)小田原市小田原衆所領役帳小豆坂の戦い尾張国山内上杉家嶺松院川中島の戦い上田原の戦い上野国上杉禅秀の乱上杉謙信上杉氏上杉朝興上杉憲政丸島和洋三増峠の戦い三河国一宮宗是平山優 (歴史学者)久保田昌希今川義忠今川義元今川氏今川氏真今川氏親今川氏輝伊勢氏信濃国志賀城北川殿北条氏康北条氏綱北条氏直北条氏政...北条早雲前橋城国人磯貝正義神田千里穴山氏織田信長織田氏甲相同盟甲越同盟甲斐国相模国花倉の乱遠江国静岡市静岡県駿河侵攻駿河国駿河湾駒井高白斎諏訪頼重 (戦国時代)諏訪氏講談社越後国越相同盟足利義輝足利義昭黄梅院 (北条氏政正室)関東管領藤木久志臨済宗柴辻俊六掛川城松山城 (武蔵国)松平氏板垣信方村上義清村上氏桶狭間の戦い武田信玄武田信玄 (NHK大河ドラマ)武田信虎武田信満武田勝頼武田義信武蔵国永禄河越城の戦い河東の乱戦国大名戦国時代 (日本)海野平の戦い海野棟綱日本海日本放送協会早川殿扇谷上杉家1536年1537年1541年1546年1548年1550年1552年1553年1554年1560年1561年1563年1567年1568年1569年 インデックスを展開 (72 もっと) »

城郭

城郭(じょうかく)とは、城のこと。または城と曲輪の総称。本来、城は内城、郭は外城を指した。城郭で囲まれた都市を城壁都市という。.

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千貫樋

千貫樋 (せんがんどい)は、静岡県三島市と駿東郡清水町の境、狩野川水系境川に架かる鉄筋コンクリート構造の樋(水路橋)。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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同盟

同盟(どうめい)とは.

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向山氏

向山氏(むこうやまし/むかいやまし)は、甲斐国に起こり八代郡向山郷(現・山梨県甲府市上向山・下向山)を地盤とした豪族。神姓を名乗る諏訪大社の氏人である神党のひとつ。その祖先は甲斐の大開祖とも言われる。 八代庄は金沢流北条氏の所領となるが、鎌倉時代末期の金沢貞顕・貞将期には被官化した一族の存在が確認されている。向山敦利(刑部左衛門、「敦」は諏訪大祝家の通字か)や右筆の向山景定(左衛門尉)らがいる。敦利は貞顕や貞将が六波羅探題南方として在京中に鎌倉との使節や検断頭人などを務めている重臣で(向山敦利書状、金沢文庫)、ほか、貞顕・貞将期の在京被官では御内人と考えられている五郎入道や神兵衛入道らがいる。 鎌倉北条氏の滅亡とともに向山氏も衰退したと考えられているが、戦国時代には甲斐守護・武田信虎・晴信(信玄)に仕えた三河守虎継や民部左衛門尉家安、郡内領主小山田氏とともに相模国後北条氏との取次を務めた向山又七郎らがいる。向山又七郎は信玄の側近で、相模国の後北条氏の分限帳である『小田原衆所領役帳』に小山田信有(弥三郎)や飯富左京亮らとともに「他国衆」として記載されている点が注目されている。高野山成慶院『武田家過去帳』によれば向山又七郎は天文21年(1552年)以前に死去しているが、天文24年3月には向山源五左衛門尉が後北条氏に嫁いだ信玄息女の黄梅院付きの家臣として活動している。江戸時代にも子孫家が存在する。 甲府市下向山の佐久神社にその由来の史料が初見されるが、15世紀中ごろから向山出雲守昌保の活動が各種史料に散見されるようになった。また向山丹後守盛吉(渡辺氏から改姓)など、戦国期には武田氏に従い高遠城(現・長野県伊那市)に拠った。武田氏の没落後は甲斐を領した徳川家康や家康に従った保科氏に仕え、武家として存続する。向山丹後守子孫は江戸旗本、向山出雲守子孫は会津藩や渡辺氏に仕え野本藩や伯太藩(現・大阪府和泉市)重臣として明治維新を迎えた。.

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天下

華夷思想に基づくもの。「天下」概念は時代および国によってその定義が異なるため、これはあくまで実例の一つである。赤の範囲が「華」あるいは「夏」の領域で、一般庶民に至るまで漢の礼制・法制にしたがう。青は漢の徳の及ぶ「外臣」および「朝貢国」の領域で、「外臣」とは漢皇帝に臣属した夷狄の君主たち。「外臣」の国では外臣のみが漢の礼制・法制にしたがう。その外側にはいまだ漢の徳の及んでいない「化外」の領域がある。外臣・朝貢国・化外は基本的に「夷」の領域である。一般に「天下」概念は観念上にこのような同心円的構造をもって成立する 天下(てんか、てんが、てんげ、あめのした)は、全世界を意味する概念。字義的には「普天の下」という意味で、地理的限定のない空間のことであるが、用法によっては一定の地理概念と同じ意味に用いられることもある。また一般に天下は、一定の秩序原理を伴い、その対象とされる地域・民衆・国家という形で捉えられる。すなわち一般に「世界」は「世界観」がなくても客観的に存在しているものと認識されるが、「天下」は一定の秩序原理によって観念的に成立している。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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太原雪斎

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。大塚勲『戦国大名今川氏四代』P48。 父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。 後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。.

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定恵院

定恵院(じょうけいいん、永正16年(1519年)- 天文19年6月2日(1550年7月15日))は、戦国時代の女性。甲斐国の戦国大名武田信虎の長女。今川義元の正室。武田信玄・武田信繁・武田信廉らの姉にあたる。実名は不明。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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富士市

富士市(ふじし)は、静岡県東部の市である。施行時特例市でもある。.

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小山田氏

小山田氏(おやまだし、こやまだし)は、日本の氏族の一つ。小山田氏(おやまだし)は武蔵国、小山田氏(こやまだし)は薩摩国に由来する。他にも陸前、陸中、羽後、越後、筑前、豊前などに「小山田(おやまだ)」の地名が存在した。.

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小和田哲男

小和田 哲男(おわだ てつお、1944年(昭和19年)2月1日 - )は、日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本の戦国時代(特に今川氏)に関する研究で知られる。.

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小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)で、北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。.

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小田原城の戦い (1560年)

小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)は、永禄3年(1560年)から永禄4年(1561年)に、関東の上野、武蔵、相模において、上杉氏、長尾氏の連合軍と後北条氏によって行われた一連の合戦である。大槻合戦ともいう同時代史料でもその名が見られる(「北条氏政判物、大藤式部丞宛感状」『神奈川県史 資料編2』)。。この合戦は、その後10年余にわたる上杉謙信による関東遠征の端緒である。本項では、合戦の経緯として、上杉軍の越山から小田原城包囲戦前後の緒城攻防戦、関連事項についても併せて解説する。.

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小田原市

小田原市(おだわらし)は、神奈川県西部の市である。施行時特例市に指定されている。.

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小田原衆所領役帳

小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)は、相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。原題は不明で、「北条家分限帳」、「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。全1巻。 原本は伝存せず、江戸時代の写本が知られる。氏康期にあたる永禄2年(1559年)の奥書をもつ。後北条氏は、永正17年(1520年)から弘治元年(1555年)にかけて領国内における数度の検地を実施しており、それに基づいて分限帳が作成されたと考えられている。 表題の由来となった小田原衆をはじめ馬廻衆、玉縄衆など家臣団を12の衆別560人の役高が貫文で記され、所有する郷村名も併記された。成立後に所領に加えられた八王子城、鉢形城、岩付城などの支城領の衆が欠けているが、後北条氏の家臣に対する軍役や知行役など諸役賦課の体制の究明には必須史料である。.

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小豆坂の戦い

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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山内上杉家

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.

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嶺松院

嶺松院(れいしょういん、生年不詳小和田哲男編『戦国大名閨閥事典』(新人物往来社、1996年)今川氏の章(執筆者:小和田美智子)は、天文10年(1541年)生まれとする。12歳で結婚、27歳で夫を失い、72歳で死去した計算になる。 - 慶長17年8月19日(1612年9月14日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。駿河国の戦国大名今川義元と正室定恵院の娘。甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚した。実名は不明。嶺松院殿。.

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川中島の戦い

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。.

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上田原の戦い

上田原の戦い(うえだはらのたたかい)は、天文17年2月14日(1548年3月23日)に信濃国上田原(長野県上田市)で行なわれた、甲斐国の戦国大名武田晴信(後の信玄)と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫した。上田原は、千曲川南岸に展開する段丘平野で、現在は上田原古戦場として保存されている。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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上杉禅秀の乱

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、室町時代の応永23年(1416年)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。.

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上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上杉朝興

上杉 朝興(うえすぎ ともおき)は、戦国時代の武将・大名。扇谷上杉家当主。.

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上杉憲政

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。 上杉謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。.

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丸島和洋

丸島 和洋(まるしま かずひろ、1977年 - )は、日本の歴史学者。専門は戦国大名論。慶應義塾大学文学部非常勤講師、立教大学文学部兼任講師、早稲田大学エクステンションセンター講師、戦国史研究会事務局長。.

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三増峠の戦い

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日に武田信玄と北条氏により行われた合戦である。本項では、合戦に至るまでの経緯として、小田原城包囲戦も合わせて解説する。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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一宮宗是

一宮 宗是(いちのみや むねこれ)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。子に一宮元実(持舟城主)。 天文23年(1554年)、甲相駿三国同盟により甲斐国の武田氏と同盟を結んでいた今川氏は武田信玄が信濃国に侵攻した際に、宗是を援軍として信濃に派遣したとされている。 永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで討死した。 Category:戦国武将 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1560年没.

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平山優 (歴史学者)

平山 優(ひらやま まさる/ゆう、1964年1月10日 - )は、日本の教員・歴史学者。専門は日本中世史・近世史。現在は山梨県立中央高等学校教諭(定時制)、元山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨大学非常勤講師、山梨県史編さん室主査、山梨県教育庁学術文化財課主査、山梨県立博物館副主幹。武田氏研究会、中世史研究会、戦国史研究会、織豊期研究会、山梨郷土研究会会員。武田氏研究会副会長。.

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久保田昌希

久保田 昌希(くぼた まさき、1949年12月23日 - )は、日本の日本史の歴史学者、文学博士。駒澤大学教授、副学長。.

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今川義忠

今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。義元の祖父にあたる。.

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今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今川氏真

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏12代当主。 父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えた。.

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今川氏親

今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.

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今川氏輝

今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、戦国時代の駿河の戦国大名。今川氏の第10代当主。.

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伊勢氏

伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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志賀城

志賀城(しがじょう)は、長野県佐久市にあった日本の城。.

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北川殿

北川殿(きたがわどの) / 桃源院殿(とうげんいんどの、生年月日不詳 - 享禄2年5月26日(1529年7月11日))は、戦国時代の女性。駿河の守護今川義忠の正室。戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)の姉(もしくは妹)と推定される。子に今川氏親、栄保(正親町三条実望室、北向殿)。.

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北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.

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北条氏綱

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.

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北条氏直

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。.

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北条氏政

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。 氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。.

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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

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前橋城

前橋城(まえばしじょう)は、上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった日本の城。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くはと呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。 利根川と広瀬川を外堀とする渦郭式の平城。周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となった。前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなったが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄された。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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磯貝正義

磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2008年7月25日)は、日本の歴史学者。山梨大学名誉教授。山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編さん委員会委員長。.

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神田千里

千里(かんだ ちさと、男性、1949年12月 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史(中世後期の宗教社会史)。東洋大学文学部教授。東京都出身。.

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穴山氏

山氏(あなやまし)は、武田氏一族で甲斐国の国人領主。家紋は三つ花菱。戦国時代末期まで甲斐南部の河内地方(現在の西八代郡と南巨摩郡の一帯)を領して甲斐国内で領域権力を及ぼした勢力の一つ。婚姻や養子縁組で代々武田宗家と姻戚関係を結んで甲斐武田勢の重臣となり、甲州征伐で宗家が滅亡した後はその名跡を継承して武田氏を名乗った。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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甲相同盟

同盟(こうそうどうめい)は、戦国時代の軍事同盟。ともに戦国大名である甲斐・武田氏と相模・北条氏との間で結ばれた同盟。.

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甲越同盟

越同盟(こうえつどうめい)は、天正7年(1579年)に甲斐の戦国大名武田勝頼と越後の戦国大名上杉景勝との間で成立した同盟。3年後の天正10年(1582年)に起こった甲州征伐まで軍事同盟として機能し、戦国時代後期の甲斐や越後、後北条氏の相模など東国における諸勢力の関係に影響を及ぼした。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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花倉の乱

花倉の乱(はなくらのらん、花蔵、はなぐらとも)は、戦国時代の天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。嫡流の栴岳承芳(後の今川義元)らが勝利し終結。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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静岡市

静岡市(しずおかし)は静岡県中部に位置する政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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駿河侵攻

駿河侵攻(するがしんこう)は、戦国時代の合戦。永禄11年(1568年)に行われた甲斐国の戦国大名である武田信玄による駿河国今川領への侵攻を端緒とする。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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駿河湾

薩埵峠から望む駿河湾越しの富士山と愛鷹山 駿河湾(するがわん)は伊豆半島先端にある石廊崎と御前崎を結ぶ線より北側の海域出典: - 国土交通省中部地方整備局 名古屋港湾空港技術調査事務所、2012年11月1日閲覧。最深部は水深2500mに達し、日本で最も深い湾である出典: - 静岡県、2012年11月1日閲覧。.

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駒井高白斎

駒井 高白斎(こまい こうはくさい)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣。譜代家老衆。武田信虎・晴信(信玄)期の武田家用務日誌を基に成立したとされる『高白斎記(甲陽日記)』原本の作者と考えられている人物。「高白斎」は出家名で、出家前の諱は政武(まさたけ)・昌頼など諸説あり、人物比定についても異説がある。.

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諏訪頼重 (戦国時代)

280px 諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。信濃四大将のひとり。.

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諏訪氏

諏訪氏(すわし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越相同盟

越相同盟/越相一和(えつそうどうめい/えつそういちわ)は、戦国時代の永禄12年(1569年)に甲斐の武田信玄に対抗するために、越後の上杉謙信と相模の北条氏政が結んだ軍事同盟である。本項では、これに対抗するために武田信玄と安房の里見義弘が結んだ軍事同盟である甲房同盟(こうぼうどうめい)についても解説する。.

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足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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黄梅院 (北条氏政正室)

梅院(おうばいいん(こうばいいん)、天文12年(1543年) - 永禄12年6月17日(1569年7月30日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。武田信玄と正室・三条の方の長女。北条氏政の正室。武田義信は同母兄、武田勝頼は異母弟。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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藤木久志

藤木 久志(ふじき ひさし、1933年10月27日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。立教大学名誉教授、東北大学文学博士。.

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臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

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柴辻俊六

柴辻 俊六(しばつじ しゅんろく、1941年9月10日 - )は、日本の歴史学者・古文書学者・図書館員。元早稲田大学図書館司書。専門は日本の戦国時代史。.

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掛川城

天守及び太鼓櫓 掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった日本の城である。.

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松山城 (武蔵国)

松山城(まつやまじょう)は、武蔵国横見郡松山(現在の埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山)にあった日本の城。別名「武州松山城」「武蔵松山城」。 2008年(平成20年)、「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定された。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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板垣信方

板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の2代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。 武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり初戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。.

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村上義清

村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。 信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。信濃四大将のひとり。.

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村上氏

村上氏(むらかみし)は、日本の氏族。複数の系統があり、血縁関係にある氏族もあれば、無関係な氏族もある。.

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桶狭間の戦い

今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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武田信玄 (NHK大河ドラマ)

『武田信玄』(たけだしんげん)は、NHKが1988年1月10日から12月18日に放送した第26作目の大河ドラマ。全50回。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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武田信満

武田 信満(たけだ のぶみつ、?-応永24年2月6日(1417年2月22日))は、室町時代前期の守護大名。甲斐国・安芸国守護。甲斐武田氏の第13代当主。甲斐守護 武田信春の嫡男。息子に甲斐守護 刑部大輔 武田信重、悪八郎 武田信長、江草兵庫助 信康、仁勝寺 宗印、今井孫六 左馬助 信景、巨瀬村宮内 信賢、倉科治部少輔 信広、上杉禅秀室(『武田系図』)がいる。官位は安芸守。通称は武田二郎。.

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武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.

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武田義信

武田 義信(たけだ よしのぶ)は、戦国時代の武将。武田信玄の嫡男で武田氏を嗣ぐはずであったが、廃嫡された。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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河越城の戦い

河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。 北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。 「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」(かわごえよいくさ)である。本稿では河越夜戦について詳述する。 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。.

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河東の乱

河東の乱(かとうのらん)とは、戦国時代の天文6年(1537年)から天文14年(1545年)までの間に、駿河国(静岡県中部および東部)で起こった駿河の今川氏と相模国の北条氏との戦いである。「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味する。河東一乱とも呼ばれる。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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海野平の戦い

海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)は、戦国時代の天文10年(1541年)5月に信濃国小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。 天文年間に甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱、根津元直ら滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)や真田氏との間で行われた。別名:海野平合戦。.

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海野棟綱

海野 棟綱(うんの むねつな、生没年不詳)は戦国時代の武将。信濃国の豪族。東信濃を古くから支配していた滋野三家の嫡流である海野家の当主で小県郡海野庄太平寺(現・東御市本海野字太平寺)を本拠としていた。海野幸棟の子。真田幸綱(系図上では「幸隆」)は棟綱娘の子、もしくは娘婿とする説がある。.

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日本海

日本海の位置 日本海(にほんかい)は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。.

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日本放送協会

日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、英称:Japan Broadcasting Corporation)は、日本の公共放送を担う事業者。よく誤解されるが国営放送ではない。日本の放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設立された放送事業を行う特殊法人。総務省(旧・郵政省)が所管する外郭団体である。 公式略称は、「NIPPON HOSO KYOKAI」の頭文字を取り「」と呼称・記される。 公共放送としての事業規模は、英国放送協会 (BBC) などと並び、国内にNHKエンタープライズ、NHKグローバルメディアサービス、NHK出版など13の連結子会社を持つ。また、関連会社として日本国外にNHKコスモメディアアメリカ、NHKコスモメディアヨーロッパが設立されている。1986年には子会社である株式会社NHKエンタープライズを出資母体として、NHKエンタープライズ25%、株式会社電通25%の共同出資による株式会社総合ビジョンを設立した。しかし、これは事業の縮小を経て2013年7月1日付けでNHKエンタープライズに吸収合併した。 愛宕山。 中継車(いすゞ・フォワード).

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早川殿

早川殿/早河殿(はやかわどの、生年不詳 - 慶長18年2月15日(1613年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。相模国の戦国大名北条氏康の娘。甲相駿三国同盟の一環として、駿河国の戦国大名今川氏真の室となった。 実名は不明。法名から蔵春院殿、蔵春院とも称される。.

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扇谷上杉家

扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.

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1536年

ユリウス暦の.

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1537年

記載なし。

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1541年

記載なし。

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1546年

記載なし。

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1548年

記載なし。

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1550年

記載なし。

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1552年

記載なし。

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1553年

記載なし。

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1554年

記載なし。

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1560年

記載なし。

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1561年

記載なし。

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1563年

記載なし。

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1567年

記載なし。

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1568年

記載なし。

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1569年

記載なし。

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