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今川氏親

索引 今川氏親

今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.

155 関係: お家騒動側室印判状吉田城 (三河国)堀越公方増善寺大井信達大永大河内貞綱太田道灌室町幕府家永遵嗣守護守護大名寿桂尼小山田氏小川城 (駿河国)小和田哲男小鹿範満尾張国山内上杉家岡崎市岩津町 (岡崎市)上総国上杉顕定上杉政憲中御門宣胤中道往還中風三河国三浦氏幼名京都康正井田町 (岡崎市)今川仮名目録今川彦五郎今川義忠今川義元今川氏今川氏豊今川氏輝伊勢盛定伊勢氏伊豆国征夷大将軍従四位修理職応仁の乱北川殿...北条五代記北条氏康北条早雲分国法和歌出家元服勝山城 (甲斐国八代郡)勝間田氏国司石脇城玄広恵探祭文立河原の戦い管領細川政元瑞渓院甲斐国申次衆焼津市牧野古白瀬名氏俊花押遠江国静岡市静岡県駿河国講談社足利義尚足利義稙足利義澄足利義政足利茶々丸足利氏足利政知黒田基樹都留郡興国寺城鵜殿長持関口親永関東関東管領葵区那古野城長享の乱長谷川氏連歌松平親善松平長親松平氏梅ヶ島金山検地正室正親町三条実望武将武田信虎武田氏武蔵国永享永正池上裕子池享治部省朝比奈氏戦国大名戦国時代 (日本)明応明応の政変浪人浜松城浜松市斯波義寛斯波義達斯波氏新人物往来社文亀文明 (日本)政所愛知県扇谷上杉家曹洞宗1432年1456年1471年1473年1476年1479年1487年1493年1494年1501年1504年1505年1506年1508年1509年1511年1515年1516年1517年1518年1526年6月23日 (旧暦)8月1日 インデックスを展開 (105 もっと) »

お家騒動

お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.

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側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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印判状

印判状(いんぱんじょう)とは、日本における古文書史料のうち、主に戦国時代以降の印判(印章)を用いた武家文書を指す。花押を用いる判物に代わり次第に流行した。印肉に用いられる色により、朱印状・黒印状等と呼ばれる。押印があることにより文書の発給主体を表すとともに、その文書に権威や効力を持たせたり、内容の保証をするものである。.

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吉田城 (三河国)

吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。 戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。.

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堀越公方

堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.

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増善寺

増善寺(ぞうぜんじ)は静岡市葵区慈悲尾(しいのお)にある曹洞宗の寺院である。天武天皇10年(681年)に法相宗の始祖道昭法師が開いた真言宗の寺で、「慈悲寺」と呼ばれていた。.

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大井信達

大井 信達(おおい のぶさと)は、戦国時代の武将。甲斐国西部の西郡を領した国人。上野城(椿城)主。 大井氏は甲斐源氏武田氏の流れを汲み、武田信武の子・大井信明を祖とする。娘の瑞雲院殿(大井の方)は武田信玄の生母でる。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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大河内貞綱

大河内 貞綱(おおこうち さだつな).

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太田道灌

太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。 以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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家永遵嗣

家永 遵嗣(いえなが じゅんじ、1957年4月 - )は日本の歴史学者。学習院大学文学部教授。専門は日本中世史。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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寿桂尼

寿桂尼(じゅけいに、生年未詳 - 永禄11年3月14日(1568年4月11日))は、戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は権大納言中御門宣胤。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など。名は不詳。夫・氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれた。.

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小山田氏

小山田氏(おやまだし、こやまだし)は、日本の氏族の一つ。小山田氏(おやまだし)は武蔵国、小山田氏(こやまだし)は薩摩国に由来する。他にも陸前、陸中、羽後、越後、筑前、豊前などに「小山田(おやまだ)」の地名が存在した。.

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小川城 (駿河国)

小川城(こがわじょう)は、現在の静岡県焼津市小川5丁目付近にあった日本の城。.

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小和田哲男

小和田 哲男(おわだ てつお、1944年(昭和19年)2月1日 - )は、日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本の戦国時代(特に今川氏)に関する研究で知られる。.

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小鹿範満

小鹿 範満(おしか のりみつ)は、室町時代後期の武将。小鹿範頼(のりより)の子。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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山内上杉家

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.

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岡崎市

乙川と岡崎市街地遠景 岡崎市中心部(康生地区) 西康生通り 岡崎市中心部を通る国道1号 岡崎市(おかざきし)は、愛知県の旧三河国のほぼ中央に位置する市。全国的には「八丁味噌」の産地として知られ、豊田市とともに西三河を代表する都市。中核市に指定されている。.

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岩津町 (岡崎市)

岩津町(いわづちょう)は愛知県岡崎市岩津地区の町名。郵便番号は444-2144。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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上杉顕定

上杉 顕定(うえすぎ あきさだ) は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。山内上杉家11代当主。越後上杉家の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。.

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上杉政憲

上杉 政憲(うえすぎ まさのり)は、室町時代後期の武将。堀越公方・足利政知の家臣。.

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中御門宣胤

中御門 宣胤(なかみかど のぶたね、嘉吉2年(1442年) - 大永5年11月17日(1525年12月1日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流中御門家当主。官位は従一位・権大納言。出家後の法名は乗光。.

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中道往還

中道往還(なかみちおうかん)は、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。駿州往還(河内路)と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれる(『甲斐国志』による)。山梨県甲府市の右左口宿(うばくち、姥口)を通過することから、右左口路とも呼ばれる。「中道往還」は甲州側からの呼称であり、静岡方面からは甲駿街道や甲州街道の呼称が使われる。.

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中風

中風(ちゅうふう、地方によって「ちゅうぶ」、「ちゅうぶう」、「ちゅうふ」などと呼ぶところもある)は、現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉として用いられている。中気、卒中また俗に「よいよい」ともいう。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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三浦氏

三浦氏(みうらし)は、平安時代の相模国の武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。.

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幼名

幼名(ようみょう/ようめい)は、幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。 主に平安時代~江戸時代にかけて、武士や貴族の子が幼児である期間につけられる名前で、だいたい元服して諱をつけるまでその名前でいる。江戸期では、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前も幼名と呼ばれるが、武士とは違って諱をつける事は無い。 現在でも幼少時に改名した場合は、以前の名前を幼名と呼ぶ。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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井田町 (岡崎市)

井田町(いだちょう)は、愛知県岡崎市の町名である。郵便番号は444-0876.

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今川仮名目録

今川仮名目録(いまがわかなもくろく)は駿河国の戦国大名である今川氏が制定した分国法である。東国では最古の分国法。 大永6年(1526年)4月、今川氏親は33条からなる家法である『仮名目録』を制定する。このころ氏親は病床にあり、草案には家臣や、嫡子の今川氏輝への後継を望み政権を安定させたいという氏親の妻(後の寿桂尼)の意向も大きく反映されたと見られる。 天文22年(1553年)2月、今川義元は『仮名目録追加21条』を制定して補訂する。戦国時代の東国では比較的早い時期に制定された分国法で、甲斐国の戦国大名で、今川氏とは盟友関係にあった武田氏の分国法である『甲州法度次第』(1547年)にも影響を与えている。 今川氏は既に幕府の命令を待たずに遠江国へと進出した時点で守護大名から戦国大名へと立場を変えつつあったが、『今川仮名目録』の成立をもって名実ともに戦国大名としての立場を明らかにしたとされる。更に『追加21条』においては、室町幕府によって義務付けられていた守護不入を否認して完全に守護大名色を払拭した。 内容は、戦国大名の権力誇示というよりも、土地などに関する訴訟の裁定基準といった色合いが強いのが特徴である。.

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今川彦五郎

今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)は、戦国時代の人物。今川氏親の次男、今川氏輝の弟。 当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。.

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今川義忠

今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。義元の祖父にあたる。.

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今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今川氏豊

今川 氏豊(いまがわ うじとよ)は、戦国時代の武将。尾張国那古野城主。兄の今川彦五郎と同一人物とも考えられていたが、最近の研究では別人とされている。また、氏豊の名は今川氏の良質の文書には現れず、氏親の子ではなく傍流という説もある。.

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今川氏輝

今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、戦国時代の駿河の戦国大名。今川氏の第10代当主。.

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伊勢盛定

伊勢 盛定(いせ もりさだ、生没年不詳)は、室町時代の武将。伊勢氏の一族の備中伊勢氏出身。伊勢盛綱の子。妻は政所執事伊勢貞国の娘。子に北川殿(今川義忠室)、盛時(北条早雲)など。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守・備前守と伝わる。 長年、北条早雲の出自は不明で一般には伊勢素浪人と考えられていたが、近年の研究で北条早雲の前身が幕臣伊勢盛時であることが定説化している。伊勢盛時の研究の過程でその父の盛定についても次第に明らかになってきている。.

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伊勢氏

伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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修理職

修理職(しゅりしき、すりしき)は平安時代に設置された令外官。和名は「をさめ(おさめ)つくるつかさ」。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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北川殿

北川殿(きたがわどの) / 桃源院殿(とうげんいんどの、生年月日不詳 - 享禄2年5月26日(1529年7月11日))は、戦国時代の女性。駿河の守護今川義忠の正室。戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)の姉(もしくは妹)と推定される。子に今川氏親、栄保(正親町三条実望室、北向殿)。.

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北条五代記

『北条五代記』(ほうじょうごだいき)は、後北条氏の5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書。全10巻。『北条五代実記』(国会図書館本以下)、『北条盛衰記』(内閣文庫本・昌平坂学問所本以下)などと称される。 題名が似通った本に江西逸志子が著した『小田原北条記』、作者不詳の軍記物『北条記(小田原記)』があるが、全く別の書物である。.

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北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.

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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

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分国法

分国法(ぶんこくほう)は、戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典である。 単行法と並んで戦国法を構成する。分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名や国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。 分国法には、先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。 また、分国法は、戦国大名の家中を規律する家法(かほう)と守護公権に由来し国内一般を対象とする国法(こくほう)に区別される。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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勝山城 (甲斐国八代郡)

勝山城(かつやまじょう)は、山梨県甲府市上曾根に存在した日本の城。.

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勝間田氏

勝間田氏(かつまたし、かつまたうじ)は日本の氏族の一である平凡社,『世界大百科事典 第2版』, 2018年5月13日閲覧。。本貫を遠江国蓁原郡勝田(静岡県牧之原市榛原)の勝間田川流域一帯とする。勝田、勝間、勝俣などの異表記もある。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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石脇城

石脇城(いしわきじょう)は、現在の静岡県焼津市石脇下字山崎にあった日本の城。.

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玄広恵探

広 恵探(げんこう えたん)は、戦国時代の武将。今川義元の庶兄。今川良真(ながさね)を名乗ったとする説もある。.

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祭文

祭文とは、.

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立河原の戦い

立河原の戦い(たちかわのはら(たちがわら)のたたかい)は、1504年11月13日(永正元年9月27日)に武蔵国立河原(現在の東京都立川市)において、上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・北条早雲(伊勢宗瑞)らの連合軍との間で行われた合戦である。 長享の乱の事実上の決戦であり、事実それだけの規模に相当する戦いであったが、この戦いに勝利した上杉朝良は結果的に上杉顕定に降伏した。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

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瑞渓院

渓院(ずいけいいん)または瑞渓院殿(ずいけいいんでん、生年不詳 - 天正18年6月12日(1590年7月13日))は、戦国時代の女性で、相模国・伊豆国の戦国大名である北条氏康の正室。瑞渓院は法名で、実名は不詳である。氏康とは、はとこ同士になる。父は駿河国守護今川氏親。母は寿桂尼。兄弟に今川氏輝、今川義元、今川彦五郎。異母兄に玄広恵探。子に男子は、夭折した長男新九郎(天用院殿)、次男で嫡子の北条氏政、三男北条氏照、四男北条氏邦、五男北条氏規。女子では今川氏真室の早川殿、足利義氏室の浄光院殿の母とされる。氏照、氏邦、早川殿の母に関しては異説もある。 氏康との婚姻時期は不明だが、兄である今川氏輝の小田原への訪問記録等により、天文5年(1536年)以前の天文4年(1535年)であったと考えられている。 この後、後北条氏と代替わりした今川義元との河東一乱による断交があっても実家に戻ることなく、氏康正室、嫡子生母として北条家にあった。子宝に恵まれ、しかもその弟たちは嫡男氏政を強く支え、後北条氏を更なる発展へ導いた。 元亀2年(1571年)11月21日、北条氏康の四十九日忌をもって逆修(『北条家過去帳』)、以後「御大方様」と称される(『青木文書』)。 天正18年(1590年)6月12日、豊臣秀吉による小田原征伐の際に死去した。氏政継室の鳳翔院殿と同日であることなどから、自害の可能性を指摘されている。 法名は瑞渓院殿光室宗照大姉。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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申次衆

申次衆(もうしつぎしゅう)とは、室町幕府の職名の1つ。.

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焼津市

津市(やいづし)は、静岡県中部に位置する市。漁港を中心に発展し、遠洋漁業・水産加工業は全国的に有名である。.

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牧野古白

牧野 古白(まきの こはく)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。俗名は成時(しげとき)。法名の古白は古伯とも書く。利成とする文書もあるが一般的ではない。三河国今橋城(吉田城)主。.

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瀬名氏俊

名 氏俊(せな うじとし)は、戦国時代の武将。遠江今川氏の流れを汲む瀬名氏の当主で、駿河今川氏に仕えた。別名は貞綱と伝わる。.

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花押

花押(かおう、華押)は、署名の代わりに使用される記号・符号をいう。 元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の斉(5世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた。世界各地においても、花押の類例(イスラム圏でのトゥグラなど)が見られる。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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静岡市

静岡市(しずおかし)は静岡県中部に位置する政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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足利義尚

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利茶々丸

足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)は、室町時代後期の武将。初代堀越公方の足利政知の子。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡した。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利政知

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。.

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黒田基樹

黒田 基樹(くろだ もとき、1965年4月 - )は、日本の歴史学者、駿河台大学法学部教授。専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開する。.

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都留郡

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興国寺城

興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。.

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鵜殿長持

鵜殿 長持(うどの ながもち)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。 三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主で、今川義元の妹婿に当たる。弘治3年(1557年)に没して、嫡子・長照が家督を継いでいる。 『三河物語』では、その没年を永禄5年(1562年)としている。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、織田信長方に身動きを封じられた大高城の解放に協力、功を挙げた。しかし、後続の本隊が信長に襲われ、義元が討たれると、三河の自領に逃げ帰っている。その後も、義元の縁戚であった立場に忠実で、三河における今川氏の家臣として忠誠を尽くした。だが、周辺に在った鵜殿の分家は岡崎の家康に与する事となり、今川方の最前線で孤立していった。永禄5年(1562年)には、家康方の攻撃を受ける。先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、岡崎の本隊が加わった攻城軍には抗いきれず上ノ郷城は陥落。子の長照と共に戦死した。孫の氏長と氏次の兄弟は捕縛され、松平氏により人質とされた。 なかもち Category:戦国武将 Category:三河国の人物 Category:1513年生 Category:1557年没 .

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関口親永

関口 親永・瀬名 義広(せきぐち ちかなが/せな よしひろ)は、戦国時代の武将。今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。駿河持船城主。妻は今川義元の妹(養妹とも)であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。.

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関東

関東(かんとう)とは、日本の中の、特定の地域・地方を指す言葉・概念である。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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葵区

葵区(あおいく)は、2005年4月1日に誕生した静岡市の行政区の一つ。.

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那古野城

那古野城(なごやじょう)は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現愛知県名古屋市中区)にあった日本の城。今川氏親(今川義元の父)築城。織田信長生誕の城とされる。 16世紀前半に30年ほど存続した後に廃城となるが、旧城地は廃城から半世紀ほど後に再び城地に取り立てられ、名古屋城になった。.

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長享の乱

長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出を許す結果となった。.

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長谷川氏

長谷川(はせがわ、はせかわ)氏は、日本の氏族。いくつかの流れがある。.

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連歌

連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.

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松平親善

松平 親善(まつだいら ちかよし、文明17年(1485年) - 享禄4年3月13日(1531年3月31日))は、戦国時代の武将。竹谷松平家当主。通称、与二郎、玄蕃允。松平守親の長男。室は今川氏親の娘(のちに離縁、その後鵜殿長持室)。子に松平清善。法名は全長。 ちかよし Category:戦国武将 Category:1485年生 Category:1531年没.

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松平長親

松平 長親(まつだいら ながちか)は、戦国時代の武将。松平氏の第5代当主。松平親忠の三男。徳川家康の高祖父。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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梅ヶ島金山

梅ヶ島金山(うめがしまきんざん)は、駿河国安倍郡(現・静岡県静岡市葵区)で採掘されていた金山である。現在は閉山。 梅ヶ島金山は梅ヶ島村の日影沢金山(ひかげざわきんざん)、関之沢金山(せきのさわきんざん)、および入島村の湯ノ森金山(ゆのもりきんざん)などの総称であり、井川村の笹山金山(ささやまきんざん)を中心とする井川金山(いかわきんざん)も含めて、安倍金山(あべきんざん)と呼ばれる『日本歴史地名大系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。.

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検地

検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正親町三条実望

正親町三条実望(おおぎまちさんじょう さねもち、寛正4年(1463年)‐享禄3年3月5日(1530年4月2日))は、室町時代の公卿。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)の二帝にわたり仕えた廷臣で官位は正二位内大臣まで昇った。父は内大臣正親町三条公治。兄に参議正親町三条実興がいる。正室は今川義忠の娘。子息に内大臣正親町三条公兄。娘に西園寺実宣室がいる。初名は実統(さねすべ)。号は後慈光院(ごじこういん)。 文明11年(1479年)に叙爵。以降累進して、右近衛少将・右近衛権中将、蔵人頭を経て、延徳3年(1491年)には参議となり、公卿に列する。権中納言を経て、永正4年(1507年)に権大納言となる。将軍足利義澄の側近的な存在で相伴衆に任じられただけでなく、義澄と朝廷や管領細川政元との調停を行ったり、義澄のために奉書を作成したり、更に子の足利義晴を託される程であった。だが、永正の錯乱で義澄が将軍の地位を追われると、実望も身の危険を感じて一時妻の実家である駿河国今川氏を頼っている。今川家では駿河山西の稲葉荘を賄領として与えられており、実望の死後は領主不在となり、今川氏が甲斐武田氏と和睦・婚姻同盟を結んだ際に仲介した甲斐河内領の国衆である穴山信友に与えられている。 その後、永正12年(1515年)内大臣に任じられるもすぐに辞した。大永3年(1523年)に61歳で出家。芳名は盛空(じょうくう)。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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池上裕子

池上 裕子(いけがみ ひろこ、1947年11月 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。成蹊大学名誉教授。角川源義賞受賞。専門は戦国時代および近世移行期の社会経済史。.

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池享

池 享(いけ すすむ、1950年9月 - )は、日本史学者。一橋大学名誉教授。専門は日本中近世史。室町、戦国時代の大名の研究を行う。 一橋大学教授や、ソウル大学校教授、歴史学研究会委員長などを歴任した。.

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治部省

治部省(じぶしょう)は律令制における八省のうちのひとつ。和名は「おさむるつかさ」。.

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朝比奈氏

朝比奈氏(あさひなうじ)は、日本の氏族。藤原氏または平氏を名乗る。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明応

明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.

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明応の政変

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.

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浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

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浜松城

浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.

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浜松市

浜松市(はままつし)は静岡県西部にある政令指定都市。面積と人口は浜松市が同県最大である。 戦国時代には浜松城の城下町、江戸時代には東海道の宿場町として栄えた。.

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斯波義寛

斯波 義寛(しば よしひろ / - よしとお)は室町時代後期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。尾張・越前・遠江守護。斯波氏(武衛家)12代当主。幼名は松王丸、初名は義良(よしすけ/よしなが)。父は斯波義敏、母は家女房といわれる。子に義達、足利義澄室、村上顕国室。.

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斯波義達

斯波 義達(しば よしたつ)は戦国時代の守護大名・戦国大名。尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)13代当主。父は斯波義寛、母は一色義直の娘。祖父は応仁の乱の中心人物の1人である斯波義敏。.

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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文亀

文亀(ぶんき)は、日本の元号の一つ。明応の後、永正の前。1501年から1503年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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政所

政所(まんどころ)は、.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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扇谷上杉家

扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.

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曹洞宗

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.

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1432年

記載なし。

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1456年

記載なし。

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1471年

記載なし。

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1473年

記載なし。

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1476年

記載なし。

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1479年

記載なし。

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1487年

記載なし。

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1493年

記載なし。

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1494年

記載なし。

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1501年

金曜日から始まる。16世紀最初の年。.

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1504年

記載なし。

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1505年

記載なし。

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1506年

記載なし。

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1508年

土曜日から始まる。.

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1509年

記載なし。

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1511年

記載なし。

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1515年

記載なし。

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1516年

記載なし。

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1517年

記載なし。

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1518年

記載なし。

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1526年

記載なし。

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6月23日 (旧暦)

旧暦6月23日は旧暦6月の23日目である。六曜は仏滅である。.

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8月1日

8月1日(はちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から213日目(閏年では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。.

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