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プレスター・ジョン

索引 プレスター・ジョン

プレスター・ジョン(Prester John、Presbyter Johannes、Preste João、プレステ・ジョアン)は、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、587頁。.

165 関係: 原書房大航海時代契丹岩波書店平凡社年代記仏教地中海ペルシアナイマンマムルーク朝マルコ・ポーロマヌエル1世コムネノスマゴグチンギス・カンチベットチベット仏教チグリス川ネストリウス派バラモンバルトロメウ・ディアスバトゥバイエルンバグダードポルトガル君主一覧ポルトガル王国メディア王国モノモタパ王国モーシェ・ベン=マイモーンヨルバ人リスボンルーシルイ7世 (フランス王)ルイ9世 (フランス王)ロバート・E・ハワードローマヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハトマス (使徒)トンブクトゥヘンリー4世 (イングランド王)プラノ・カルピニヒロイック・ファンタジービブロスティムール朝ディオゴ・カンフランシスコ会フランス君主一覧フランス王国フライジングのオットーフリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)...ドミニコ会ドイツホラズム・シャー朝ダライ・ラマ6世ベニン王国アマゾーンアルメニアアレクサンデル3世 (ローマ教皇)アレクサンドロス3世アレクサンドロス・ロマンスアッバース朝アッコアブラハム・オルテリウスアビシニアアデンアフマド・サンジャルアフリカアフォンソ1世 (ポルトガル王)アクスム王国アジアイエメンイエズス会イギリスイスラエルの失われた10支族イタリアウンベルト・エーコウィリアム・ルブルックウイグルエチオピア帝国エンリケ航海王子エウゲニウス3世 (ローマ教皇)エクバタナエジプトオヨ王国オン・カンオドリコカリストゥス2世 (ローマ教皇)カトリック教会カトワーンの戦いキリスト教キプロス島キタイ (地理的呼称)クチュルクグユクケレイトコンゴ王国ゴンドファルネスシリア正教会ジャラールッディーン・メングベルディージャブラジョン・マンデヴィルジョアン2世 (ポルトガル王)ジブラルタル海峡ジェノヴァ共和国セルジューク朝タタール元 (王朝)国王王笏神聖ローマ皇帝第5回十字軍第7回十字軍筑摩書房白水社青土社西遼騎士修道会講談社講談社学術文庫英雄コナン耶律大石東ローマ帝国の皇帝一覧東方の三博士東方見聞録東方旅行記歴史的シリア河出書房新社法政大学出版局月の山脈明石書店新約聖書教皇教文館1122年1141年1145年1165年1177年1181年1219年1221年1237年1245年1247年1248年1251年1253年12世紀1380年1382年13世紀1400年1411年1412年1415年1486年1493年14世紀1540年1572年15世紀1692年16世紀17世紀 インデックスを展開 (115 もっと) »

原書房

原書房(はらしょぼう)は、日本の出版社。戦史、外交史料集の出版・復刻を出発点としているが、現在はそれに加え推理小説・海外恋愛小説などの文芸書、軍事を扱う書籍、『食人全書』『不潔の歴史』などの一風変わった人文書、『天声人語』の英訳版など、幅広いラインナップを持つ。.

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大航海時代

大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。主にポルトガルとスペインにより行われた。.

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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年代記

年代記(ねんだいき)または編年史(へんねんし)は、出来事や事件を年ごとに記述した歴史書のこと。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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地中海

地中海(ちちゅうかい、Mare Mediterraneum)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。海洋学上の地中海の一つ。.

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ペルシア

ペルシア、ペルシャ(ギリシャ語 Περσία)は、現在のイランを表す古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。.

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ナイマン

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク系遊牧民で、後にモンゴル化した部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた。.

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マムルーク朝

マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.

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マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもある。.

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マヌエル1世コムネノス

マヌエル1世コムネノス“メガス”(ギリシア語:Μανουήλ Α' Κομνηνός o Μέγας (Manūēl I Komnēnos o Megas)、1118年11月28日 - 1180年9月24日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の第3代皇帝(在位:1143年 - 1180年)。同王朝第2代皇帝ヨハネス2世コムネノスとハンガリー王女エイレーネー(イレーネー)の子。 “メガス”は「偉大なる」という意味のあだな。彼に仕えたものが非常な忠誠心を抱き、秘書や配下の将兵に賞賛されたことに由来する。中世ギリシア語では「マヌイル1世コムニノス」。.

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マゴグ

(Gog)とマゴグ(Magog)は、主に旧約聖書のエゼキエル書と新約聖書のヨハネの黙示録に登場する神に逆らう勢力。 マゴグはヤペテの子孫とされる。 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。(口語訳聖書:創世記10章2節)  現在の黒海・カスピ海沿岸付近に居住していた(スキタイなどの)民族がモデルだと考えられている。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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チベット

チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.

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チベット仏教

チベット仏教(チベットぶっきょう)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。チベット仏教は、根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。また、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。 教義としては、智慧と方便を重視する。インド後期密教の流れを汲む無上ヨーガ・タントラが実践されている。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする。チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れた。そのため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が保存されていることが特徴である。 ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマを尊崇することから、かつては一般にラマ教(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、ややもすると、仏教とは異質な宗教と見なす向きもあったが、その実態が一般の認識を得るにつれ、ラマ教という呼称は不適切だとして、現在では使用されなくなっている。.

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チグリス川

バトマン川 チグリス川、またはティグリス川()は西アジアでユーフラテス川とともにメソポタミアを形作る大河。ユーフラテス川の東側を流れている。この川は南東トルコの山岳地帯から南に流れ、シリア、イラクを通過してペルシア湾に注ぎ込む。.

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ネストリウス派

ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。.

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バラモン

バラモン階級の人々(インド・カルナータカ州) バラモン(brāhmaṇa、婆羅門)とは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。ブラフミン(brahmin)ともいう。.

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バルトロメウ・ディアス

バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias de Novais, 1450年頃 – 1500年5月29日)はポルトガルの航海者で、ヨーロッパ人として初めて喜望峰に到達した。 資料によっては、英語名のバーソロミュー・ディアズ と表記される。 1993年に発行された2000エスクード紙幣に肖像が印刷されていた。.

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バトゥ

バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.

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バイエルン

バイエルン は、ドイツ南部にある地域。.

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バグダード

バグダード(/ラテン文字表記:Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都で同国最大の都市。また、バグダード県の県都でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではイスタンブール、テヘランに次ぐ大都市である。2005年の人口はおよそ590.4万人。日本語では多くの場合バグダッドと表記されるが、アラビア語の綴りと発音(bæɣˈdæːd)に近づけるとバグダードという表記になる。 バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはイラク正式政府が成立し、現在に至っている。.

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ポルトガル君主一覧

ポルトガル君主一覧では、1139年のポルトガル王国の建国から1910年10月5日革命による王政の廃止とポルトガル第一共和政の成立に至るまでのポルトガルの君主について記述する。.

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ポルトガル王国

ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、)は、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に、1139年から1910年まで存在した王国。.

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メディア王国

メディア王国(黄色) 紀元前600年ごろの版図を示したもの。首都エクバタナ(現在のハマダーン州ハマダーン)は地図中央、チグリス川・ユーフラテス川河口とカスピ海のほぼ中間の位置に建設された メディア王国(メディアおうこく、Μηδία, Media、紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、現在のイラン北西部を中心に広がっていたの王国である。首都はエクバタナ。アッシリアが紀元前612年頃崩壊し、その後影響力を拡大したエジプト、リュディア、新バビロニア(カルデア)とともに当時の大国となった。.

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モノモタパ王国

モノモタパ王国(Monomotapa)もしくはムタパ王国(Mutapa)は、かつてアフリカ大陸の南東部に存在していた国家。南部アフリカのザンベジ川とリンポポ川の間に広がり、支配領域にはジンバブエ共和国とモザンビーク共和国の領土にあたる地域が含まれている。最盛期の16世紀半ばには北はザンベジ川、南はサビ川、西はジンバブエ高原北西部のマニャメ川、東はインド洋に影響力を行使していたが、一部のポルトガル語文献にはアンゴラから喜望峰までを支配する大国として誇張して記されている吉國『グレートジンバブウェ』、118頁。 モノモタパ、ムタパのほか、ムニュムタパ、ムウェネムタパ、ベノモタパなどの呼称も用いられる。ポルトガル語に由来する「モノモタパ(Monomotapa)」は「征服した土地の王子」を意味する「Mwenemutapa」という称号の音訳であり、ムウェネ(Mwene)は「王子」、ムタパ(Mutapa)は領土を意味する言葉である。モノモタパという称号が王国自体を指す言葉として使われるようになり、ある時期には「モノモタパ」の語が王国の支配領域と共に地図上に併記されていた。 ルヤ川の源流付近に存在するツォンゴンベ(ゾンゴンベ)遺跡は、最初期のモノモタパ王国の首都に推定されている吉國『グレートジンバブウェ』、115-116頁。16世紀のモノモタパ王国の首都はカミ川の近辺に存在していたと考えられているが、正確な位置は判明していない池谷「南部アフリカ」『アフリカ史』、323-324頁。.

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モーシェ・ベン=マイモーン

ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン(רבי משה בן מיימון Mōšéh ben Mayimōn, Abū ‘Imrān Mūsa ibn ‘Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, スペイン語:Moises Maimonides, ラテン語(本来はギリシア語):Moses Maimonides, 1135年3月30日 - 1204年12月13日)は、スペインのユダヤ教徒のラビであり、哲学者。医学・天文学・神学にも精通していた。カバリスト、アリストテレス主義者、新プラトン主義者。 その業績は「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と称賛されザハル『ユダヤ人の歴史』、305頁、ルネサンスのヒューマニズムの先駆者と評価されるディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190頁。 アイユーブ朝前後のアラビア語資料ではイブン・マイムーンの名前で表れるが、ラテン語でのマイモニデスという名前でも知られている。ラムバム RaMBaM (הרמב"&#1501) という、「ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン」の頭文字をとったヘブライ語的な略称でも知られる。.

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ヨルバ人

ヨルバ人(Ọmọ Yorùbá)は、アフリカの民族。主にナイジェリア南西部に居住し、西アフリカ最大の民族集団のひとつである。ナイジェリアにおいては、ハウサ人・イボ人とともにナイジェリアの三大民族のひとつとなっている。.

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リスボン

リスボン(Lisboa 、 リジュボア、Lisbon )は、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積はに過ぎないが、そのぶん高い人口密度を保持している。リスボンの都市的地域は行政区としての市域を越えて広がっており、人口は300万人を超え, March 2010、面積はを占めており、欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人 の人々が、に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパの大都市では最も西にある都市であると同時に、ヨーロッパの中で最も西側に位置する政府首都でもある。ヨーロッパ諸国の首都のなかで唯一の大西洋岸にあるリスボンは、イベリア半島の西側、テージョ川の河畔に位置している。 リスボンは金融や商業、出版、娯楽、芸術、貿易、教育、観光と言った様々な分野で重要な都市であることから、世界都市と見なされている。 ポルテラ空港は2012年に1,530万人の旅客を扱い、高速道路Auto-estradaや高速列車アルファ・ペンドゥラールによりポルトガルの他の主要都市と結ばれている。南ヨーロッパではイスタンブール、ローマ、バルセロナ、マドリード、アテネ、ミラノに次いで7番目に多くの観光客が訪れる都市で、2009年には1,740,000人の観光客が訪れた。リスボンの総所得は世界の都市で32番目に高い位置を占めている。 ポルトガルの多国籍企業の本社はほとんどがリスボン地域に置いており、世界では9番目に多くの国際会議が開かれる都市でもある。 また、ポルトガルの政治の中心での首府やポルトガルの大統領官邸が置かれている他、やリスボン県の中心でもある。 世界的にも古い歴史がある都市の一つで、西ヨーロッパでは最古の都市であり現代のヨーロッパの他の首都であるロンドンやパリ、ローマなどよりも数百年遡る。ガイウス・ユリウス・カエサルはフェリキタス・ユリアFelicitas Juliaと呼ばれるムニキピウムを創建し、オリピソOlissipoの名に加えた。5世紀から一連のゲルマン人部族により支配され、8世紀にはムーア人により攻略された。1147年、ポルトガル王国の建国者アフォンソ1世下のレコンキスタでのリスボン攻防戦で、ポルトガルはムーア人からリスボンを奪回する。以来、リスボンはポルトガルの主要な政治、経済、文化の中心となっている。ほとんどの首都と異なり、リスボンのポルトガルの首都としての地位は法令や書面の形式では公式に認められたり確認されていない。首都としての地位は憲法制定会議を通じて事実上の首都としてに定められている。 リスボンには欧州薬物・薬物依存監視センター(EMCDDA)と欧州海上保安機関(EMSA)の2つの欧州連合の専門機関が置かれている。「ルゾフォニアの世界の首都」と呼ばれポルトガル語諸国共同体の本部がに置かれている。ベレンの塔とジェロニモス修道院の2つはUNESCOの世界遺産に登録されている。さらに1994年、リスボンは欧州文化首都になり、1998年にはリスボン国際博覧会が開催された。.

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ルーシ

ルーシとは、以下のようなものに用いられた名称である。.

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ルイ7世 (フランス王)

ルイ7世(Louis VII, 1120年 - 1180年9月18日)は、フランス・カペー朝第6代国王(在位:1137年 - 1180年)。ルイ6世と2番目の王妃アデル・ド・サヴォワの息子。 若王(le Jeune)と呼ばれる。.

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ルイ9世 (フランス王)

ルイ9世(Louis IX, 1214年4月25日 - 1270年8月25日)は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位:1226年 - 1270年)。ルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。米国の都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった(セントルイスはSaint-Louisを英語読みしたもの)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。 内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わっている。.

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ロバート・E・ハワード

バート・アーヴィン・ハワード(、1906年1月22日 - 1936年6月11日)は、アメリカのパルプ・フィクション作家。「英雄コナン」シリーズで最もよく知られ、「剣と魔法」ジャンルの創始者と見なされている。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(マネッセ写本) ルートヴィヒ2世により建立 アーベンベルク城にあるヴォルフラムの立像 ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach, 1160年/1180年頃 - 1220年頃またはそれ以降)は、中世ドイツの詩人。中世ドイツ文学の多くの叙事的作品が彼によるものである。また、ミンネザングの歌人として多くの抒情詩も残している。.

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トマス (使徒)

イエスに触れるトマス。ドゥッチオ・ディ・ブオニンセーニャ作。1308-1311頃。 使徒トマス(Thomas the Apostle, 生年不詳 - 72年12月21日)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。アラム語の原義は「双子」。彼に由来する男性名としても一般的に用いられている。ディディモ (Didymus) は「双子」をギリシャ語に訳したもの。ロシア正教会とその流れを汲む日本ハリストス正教会ではフォマ (Фома)。.

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トンブクトゥ

トンブクトゥ()は、西アフリカのマリ共和国内のニジェール川の中流域、川の湾曲部に位置する砂漠の民トゥアレグ族の都市である。ティンブクトゥ(Timbuktu)とも呼ばれる。マリ帝国、ソンガイ帝国時代に繁栄し西欧では「黄金郷」として知られるほどであった。アラブ・ムスリムの学者たちも往来し学問研究も盛んであったが、16世紀以降は次第に衰退する。.

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ヘンリー4世 (イングランド王)

ヘンリー4世(Henry IV, 1367年4月15日 - 1413年3月20日)は、ランカスター朝最初のイングランド国王(在位:1399年 - 1413年)。エドワード3世の第3子ジョン・オブ・ゴーントと初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュの長男。リンカンシャーのボリングブルック城で生まれたので、ヘンリー・ボリングブルック(Henry Bolingbroke)とも呼ばれる。即位前はヘレフォード公、ダービー伯、ノーサンプトン伯、レスター伯。.

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プラノ・カルピニ

プラノ・カルピニのモンゴル帝国領内の行路(北部の青い線) ヨハンネス・デ・プラノ・カルピニ(Iohannes de Plano Carpini、1182年 - 1252年8月1日)は、イタリア・ヴェネツィア共和国の修道士。本名はイタリア語でジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネ (Giovanni da Pian del Carpine) だが、ラテン語読みしたプラノ・カルピニが有名である。.

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ヒロイック・ファンタジー

ヒロイック・ファンタジー(Heroic fantasy)は、ファンタジーのサブジャンルのひとつ。1963年にL・スプレイグ・ディ・キャンプが編集したアンソロジーの副題にこの言葉が初めて用いられた。また、その内容から「」(Sword and Sorcery)という別名で呼ばれることもあり、こちらは1960年代初頭にフリッツ・ライバーが命名したものである。.

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ビブロス

聖ヨハネ洗礼教会 ローマ劇場 ビブロス(ギリシャ語:Βύβλος、ラテン文字表記:Byblos)は、レバノンの首都であるベイルートの北方約30kmにある地中海沿岸の都市。古代にはフェニキア人の都市として栄えた。「ビブロス」はギリシャ人がつけた呼び名で、本来は「グブラ」のちに「ゲバル」。現在はジュベイル(Jbeil)と呼ばれている。遺跡群はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

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ティムール朝

ティムール朝(、)は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。 王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。.

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ディオゴ・カン

ディオゴ・カンとパドラン ディオゴ・カン(、古ポルトガル語では)は、大航海時代のポルトガルで最も優れた航海士の1人として活躍した探険家。1480年代にアフリカ西海岸を南下する航海を2回行った。アンゴラがポルトガルに植民地化されるきっかけを作った人物であり、アンゴラでは非常に有名である。.

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フランシスコ会

フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.

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フランス君主一覧

ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーユの戴冠式。1450年代に描かれたフランス大年代記 (''Grandes Chroniques de France'') のミニアチュールより(フランス国立図書館所蔵) フランス君主一覧では、君主制時代のフランスの君主の一覧を示す。.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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フライジングのオットー

フライジングのオットー(Otto von Freising、1111年または1114年 - 1158年)はドイツの司教、歴史書記者。日本語ではフライジンクのオットー、オットー・フォン・フライジングなどと表記されるが、本項では以降、「オットー」とのみ表記する。.

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フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)

フリードリヒ1世(Friedrich I., 1122年 - 1190年6月10日)はローマ王(在位:1152年 - 1190年)及びイタリア王(在位:1155年 - 1190年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1155年 - 1190年)。1178年にブルグント王としても戴冠。ホーエンシュタウフェン朝第2代の王で初代皇帝。父はシュヴァーベン大公フリードリヒ2世(独眼公)、母はバイエルン公ハインリヒ9世の娘ユーディト。皇帝ハインリヒ4世の曾孫にあたる。西ヨーロッパの歴代ローマ皇帝の中でも有能なことで知られ、後世では英雄とまで呼ばれた。また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、赤髭王(バルバロッサ、Barbarossa)と呼ばれた。 なお、弟のライン宮中伯コンラート(1135年 - 1195年)の娘のアグネスはハインリヒ5世(バイエルン公ハインリヒ9世の曾孫)に嫁いでいる。.

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ドミニコ会

ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝( Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。.

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ダライ・ラマ6世

ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォ(, 1683年3月1日 -1706年11月15日)は、チベット仏教ゲルク派の有力な化身系譜であるダライ・ラマの6代目として認定された人物である。ツァンヤンギャムツォ、ツァンヤン・ギャムツォ、ツァンヤン・ギャンツォとも表記される。ダライ・ラマ5世の死後、摂政のにより、チベット南部モン地方のタワンで探し出された。1697年、数え15歳で沙弥戒を受けてダライ・ラマ6世に即位するが、僧の生活になじめず、1702年に沙弥戒を返上、以後は恋愛と即興歌作りをして暮らした。このようなダライ・ラマの素行を口実に、ホシュート部の長ラサン・ハーンによって1706年に廃位させられ、同年、清の北京への護送途中の青海の地で没した(場所はクンガノール湖畔と伝えられる)。病死とも暗殺されたとも言われる。ダライ・ラマとしては型破りの人物であったが、その人柄と歌がチベットの多くの民に愛された。.

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ベニン王国

ベニン王国(ベニンおうこく)とは、12世紀から1897年までナイジェリア南部の海岸地帯に存在した王国。首都は現在のベニンシティ。現在のベナン共和国はこの国の名にちなんで命名されたが、地理的にも歴史的にもつながりは全く無い。 12世紀、この地域の住民によって建国された。西のヨルバ人が建国した国家ではないが、オドゥドゥワ王によって建国されたというヨルバ人と同じ建国神話を持ち、イフェの聖王(オニ)のもとにベニン王が認証を受けに行くなど、ヨルバ諸国と強いつながりを持っていた。 15世紀、エウアレ王の統治下で、ベニンは黄金時代を迎えた。1481年には、空位時代を迎えていたベニン王に、民会がオゾルア王を選出した。オゾルア王統治期の1485年にポルトガル人の探検家がベニンに到達し、西欧との交易が始まった。海岸線に近く、西欧との交易に有利だったことで、ベニンは貿易の中心地として発展していく。ヨーロッパには胡椒や奴隷、象牙を売り、代わりに火器を輸入して奴隷狩りを行い、ベニンはさらに勢力を拡大していった。当時のヨーロッパ人によって、ギニア湾岸一の大都市として紹介されたのもこの頃のことである。16世紀には王がリスボンに遣欧使節を送り、ポルトガル王は返礼として宣教師をベニンに送った。 その後、18世紀に入ると、西のヨルバ人のオヨ王国が力を伸ばし、また奴隷貿易の中心も西のダホメ王国やアシャンティ王国方面に移り、ベニンは衰退したが、19世紀にはパームオイルの輸出により、往時には及ばないものの少し勢力を回復した。 1897年、イギリスとの間に紛争が起こり、イギリスはベニンを占領()。街を焼き払い、王国の文化財を破壊し略奪した。ベニンのブロンズ像はこのときに略奪され、世界各国へと流れていった。 1914年、イギリスはベニン王室の復活を許可。実権はないものの、現在もベニン王家は住人の尊敬を受けている。 ベニン王国の象牙のマ.

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アマゾーン

アマゾーン(Ἀμαζών、Amazōn、複数形 Ἀμαζόνες、Amazónes)は、ギリシア神話に登場する女性だけの部族。ピンダロスなどにアマゾニス(Ἀμαζονίς、Amazonis)の別形がある。日本では長音記号を省略しアマゾン(亜馬森)と呼ばれるが、この語はそれが由来となった地名などを指すのに使われ、主にアマゾネスと呼び分けられる。 フランス語ではアマゾーヌ(Amazones)、ポルトガル語ではアマゾナス(Amazonas)、スペイン語ではアマソナス(Amazonas)という。.

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アルメニア

アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。.

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アレクサンデル3世 (ローマ教皇)

アレクサンデル3世(Alexander III, 1100年代(1105年(?)) - 1181年8月30日)は、シエーナ(イタリア)生まれのローマ教皇(在位:1159年 - 1181年)。パリのノートルダム聖堂の礎石を築いた。.

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アレクサンドロス3世

アレクサンドロス3世(Ἀλέξανδρος Γ'、紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日)、通称アレクサンドロス大王(Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)である。また、コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。その他にはイスカンダルなどと呼ばれている。 ハンニバルプルタルコスの『英雄伝』によると、史上最も優れた指揮官としてアレクサンドロス大王を挙げている。、ガイウス・ユリウス・カエサルプルタルコスの『英雄伝』によると、アレクサンドロスの銅像をみたカエサルは、自分の業績は、彼に比べればとるにたらないと言って泣いたという逸話がある。、ナポレオンMémoires de Napoléon Bonaparte, Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne(1821年)は、ナポレオンに同行した秘書の回想録であるが、「アレクサンドロスはナポレオンが最も尊敬する偉人であり、同列に並べられることを常に願っていた。」「エジプト遠征時も、自分とアレクサンドロスを重ねていた」という趣旨の内容が度々登場する。などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書やコーラン、ゾロアスター教、シャー・ナーメなど多様な民族の教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に因んだ名前をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や旧100ドラクマ硬貨、1926年からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。.

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アレクサンドロス・ロマンス

アレクサンドロス・ロマンス、またはアレクサンダー・ロマンスは、古代マケドニアのアレクサンドロス大王の生涯を素材として多くの空想をまじえ、ユーラシア大陸各地で語り継がれた伝説群の総称。伝奇的な内容のものが多く、分布地域は地中海地域と西アジアを中心に、インドや中国やエチオピアにまでおよぶ。.

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アッバース朝

アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.

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アッコ

thumb アッコ(、、)は、イスラエル北部の西ガリラヤ地方に位置する北部地区にある市。「アッコ」はヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではアッカー(アッカ)と呼ばれる。また、アッコン、アクレ、アークル、サン・ジャン・ダクル()などとも呼ばれる。新約聖書ではヘレニズム時代の呼称であるトレマイもしくはプトレマイスとして言及される。.

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アブラハム・オルテリウス

ルテリウス(50歳ごろの肖像画) アブラハム・オルテリウス(Abraham Ortelius、1527年4月14日 - 1598年6月28日)は、フランドル人の地図製作者・地理学者。近代的地図製作の創始者として知られている。.

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アビシニア

アビシニア、アビシニアン.

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アデン

アデン(Aden, )はアラビア半島南端、アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市。現在の人口は約59万人で、同国第2の都市である。1990年の南北イエメン統合まではイエメン人民民主共和国(南イエメン)の首都であった。.

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アフマド・サンジャル

アフマド・サンジャル(ペルシア語:احمد سنجر Aḥmad Sanjar、معزّ الدنيا والدين أبو الحارث أحمد سنجر بن ملكشاه بن الپ ارسلان بن چغريبك Mu'izz al-Dunyā wa al-Dīn Abū al-Ḥārith Aḥmad Sanjar b. Malik-Shāh b. Alp Arslān b. Chaghrī-Bak、1086年 - 1157年5月8日)は、セルジューク朝の第8代スルターン(在位:1118年4月 - 1157年5月)。アッバース朝カリフから授けられた尊号は、السلطان معزّ الدنيا والدين أبو الحارث أحمد سنجر برهان امير المؤمنين al-Sulṭān Mu'izz al-Dunyā wa al-Dīn Abū al-Ḥārith Aḥmad Sanjar Burhān Amīr al-Mu'minīn。 単にスルターン・サンジャル سلطان سنجر Sulṭān Sanjar とも呼ばれる。また、『集史』などの後代の資料では「諸スルターンのスルターン」(سلطان السلاطين Sulṭān al-Salāṭīn)などの尊称でも呼ばれている。 大セルジューク朝の統一的なスルターンとして実質最後の君主で、イラン東部ホラーサーン地方を領有、特にニーシャープールを根拠地としたため、イラン東部はサンジャルの治世で繁栄した。しかし、サンジャル以降はイラクやイラン高原でセルジューク王族がスルターン位を巡って各地で分裂状態となった。マリク・シャーの死後内紛で弱体化した大セルジューク朝を一時再興した英主であるが、治世後半と晩年の挫折によって同王朝の衰退は決定的となってしまった。.

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アフリカ

衛星画像 NASA) 南部アフリカ アフリカ(ラテン語:Āfrica、英語:Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。阿州。漢字表記は阿弗利加。.

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アフォンソ1世 (ポルトガル王)

アフォンソ1世(Afonso I, 1109年? - 1185年12月6日)は、ポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)の初代ポルトガル王(在位:1139年 - 1185年)。「エンリケの子」を意味するアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)の名前でも呼ばれる。 父はブルゴーニュ家出身のポルトゥカーレ伯エンリケ(フランス語名アンリ、公位を継いだユーグ1世、ウード1世の弟)。母はカスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の娘テレサ。 主君筋にあたるカスティーリャ=レオン王国の混乱を利用して独立を達成し、ポルトガル王国の基礎を築いたグリック「アフォンソ・エンリケス」『世界伝記大事典 世界編』1巻、145-146頁。.

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アクスム王国

アクスム王国(アクスムおうこく)は、過去のエチオピア東北部、エリトリア地域に栄えた交易国である。.

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アジア

アジア アジアの地図 東南アジア アジア(ラテン語: Asia古典ラテン語では「アシア」だが、現代ラテン語では「アジア」とも発音する。)は、世界の大州のひとつ。現在では一般的にヨーロッパを除くユーラシア大陸全般を指すが、政治的・経済的な立場の違いにより、様々な定義がなされる場合がある。亜州。 アッシリア語で東を意味する「アス」に語源をもつ。古代では現在の小アジアを指した。.

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イエメン

イエメン共和国(イエメンきょうわこく、الجمهورية اليمنية)、通称イエメンは、中東のアラビア半島南端部に位置する共和制国家である。ただし、インド洋上の島々の一部も領有している。.

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イエズス会

イエズス会(イエズスかい、)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による (イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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イスラエルの失われた10支族

イスラエルの失われた10支族(イスラエルのうしなわれたじゅうしぞく。Ten Lost Tribes)とは、旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていない10部族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)を指す。 日本語では「失われた10部族」ともいうがどちらが正しいということはない。ただし「失われた10氏族」という表記は誤りである。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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ウンベルト・エーコ

ウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932年1月5日 - 2016年2月19日)は、イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前(lI nome della rosa)』の著者として最もよく知られる。同作品はフィクションの記号論的分析、聖書分析、中世研究、文学理論の要素を盛り込んだ知的ミステリーである。後に発表した小説作品には、『フーコーの振り子(Il pendolo di Foucault)』、『前日島(L'isola del giorno prima)』などがある。2010年に上梓した『プラハの墓地(Il cimitero di Praga)』はベストセラーとなった。 エーコは学術書や論文、児童書、エッセイなども著した。サンマリノ共和国大学コミュニケーション学科創立者、ボローニャ大学大学院人文学研究科長、アカデミア・デイ・リンチェイ会員、オックスフォード大学ケロッグ・カレッジ名誉フェローを務めた。2016年2月19日、癌のために84歳で死去した。.

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ウィリアム・ルブルック

ウィリアム・ルブルック(Guillaume de Rubrouck、1220年? - 1293年?)は、フランス(当時はフランドル伯領)のフランシスコ会修道士。読みはギヨーム・リュブリキとも。1253年にフランス国王ルイ9世の命を受けてモンゴル帝国に派遣された。翌年モンゴル帝国の都カラコルムを訪れ、モンケ・ハン(憲宗)に謁見した。その時の見聞にもとづき、モンゴル・中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを伝える貴重な旅行記「東方諸国旅行記」を書き残した。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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エチオピア帝国

チオピア帝国(エチオピアていこく、)は、1270年から1974年まで存続したアフリカ東部の国家。現在のエチオピアおよびエリトリアにほぼ一致する領域を支配し、最大版図は現在のソマリア、ジブチ、ケニア、スーダン、南スーダン、エジプト、アラビア半島の一部まで及んだ。欧米のアフリカ分割の最中にあって独立を保ったアフリカ最古の独立国である。 実際は複数の王朝が交代し、また皇帝の存在しなかった時代もあるため、エチオピアの歴代王朝の総称ないし国家の系譜と考えることもできる。また、前身のザグウェ朝もエチオピア帝国の歴史の一部として捉える説もあり、その場合に推定される国家成立年は1137年である。軍事クーデターにより、最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が1974年に倒れ、帝国は終焉した。.

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エンリケ航海王子

ンリケ航海王子の紋章。「''Talant de bíẽ faire''」(成すことへの渇望)をモットーとした。 エンリケ航海王子(エンリケこうかいおうじ、、1394年3月4日 - 1460年11月13日)は、ポルトガル王国の王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィス王朝を開いたジョアン1世の子であり、後に初代のヴィゼウ公となる。 名は単に「エンリケ王子」()だが、歴史資料などにおいても、「航海王子」(もしくは)の称とともに呼ばれていることが常である。英語圏ではと通称されており、その影響により日本においても英語風に「ヘンリー航海王子」と記述されることもある。他に、「エンリケ親王」と呼ばれることもある。 1960年にポルトガルでエンリケ航海王子勲章が創設され、1996年に発行された10000エスクード紙幣に肖像が印刷されていた。.

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エウゲニウス3世 (ローマ教皇)

ウゲニウス3世(Eugenius III、生年不明 - 1153年7月8日)は、第2回十字軍を呼びかけたローマ教皇(在位:1145年2月15日 - 1153年7月8日)。 イタリアのピサ近郊出身と見られ、シトー会のに入り、クレルヴォーのベルナルドゥスのもとで修行した。のちにローマ近郊のシトー会修道院の院長をへて、クレルヴォーのベルナルドゥスの影響力によって初のシトー会出身のローマ教皇となった。しかし、アルノルド・ダ・ブレシアに率いられた市民自治を求める反乱軍によって当時のローマは混乱状態にあり戴冠のためサン・ピエトロ大聖堂に向かったが反乱軍に阻止されやむなくローマを放棄し、その在位期間のほとんどを各地に滞在して過ごすことになる。、 十字軍国家のエデッサ伯領が失われたことをフランスで聞き、1145年12月、ルイ7世に教皇勅書を送り、十字軍を呼びかけた。クレルヴォーのベルナルドゥスの勧誘演説により、国王2人を含む多くの参加者を得たが、ほとんど成果を挙げられず大失敗に終わった。 一方、ローマは混迷を極め教会、反乱軍、双方とも事態を打開するため和平を結び市民自治を合法と認める条件で1152年にエウゲニウス3世は無事に帰還した。翌1153年7月8日に避暑のため滞在していたティヴォリで死去、ローマ(現在はバチカン市国)のサン・ピエトロ大聖堂に埋葬された。ちなみにクレルヴォーのベルナルドゥスもひと月ほど後の8月20日に死去した。.

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エクバタナ

イランにおけるハマダーンの位置 エクバタナ(Ecbatana、エクバターナ)は、古代ペルシアにあった都市の名。現在のハマダーン(イラン・ハマダーン州)にあたる。古代ペルシア語ではハグマターナ(Haŋgmatana)と呼ばれ、原義は「集いの場所」となる。エクバタナはメディア王国の首都と考えられているほか、その後のアケメネス朝やパルティアの夏の王都(夏営地)にもなった。 古代ギリシア語ではエクバタナ(Ἐκβάτανα, Ekbatana)となるが、アイスキュロスおよびヘロドトスによる資料ではアグバタナ(Ἀγβάτανα, Agbatana)となっている。ダレイオス1世が刻ませたベヒストゥン碑文にもその名は登場している。ヘブライ語聖書ではエズラ記(6章2節)に「אַחְמְתָא」(近代ヘブライ語の発音では Aẖmeta アフメタ、ティベリア式発音では ʼAḥməṯā。ラテン語聖書では Ecbatana エクバタナと訳されている)の名で登場する。.

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エジプト

プト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、جمهورية مصر العربية)、通称エジプトは、中東・アフリカの共和国。首都はカイロ。 西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。.

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オヨ王国

ヨ王国は、1400年ごろから1905年まで、ナイジェリア南東部を支配したヨルバ人の王国。.

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オン・カン

ン・カン(Ong Khan, Ong Qan, ? - 1203年)は、モンゴル高原中央部の遊牧民集団ケレイト部最後のカン。本名はトグリル(Toγril)あるいはトオリル(To'oril)。尊称・称号のオンは王(中国語の発音でワン・カン(Wng Khan, Wng Qan))に由来する。漢語資料の表記では『元朝秘史』では王罕、『元史』では汪罕、『聖武親征録』では汪可汗とあり、『集史』などのペルシア語資料の表記では اونك خان Ūnk Khān と綴られる。 本名のトオリルは禿鷹に似た想像上の猛禽を意味しており、テュルク系の遊牧民によく見られる名前であって、セルジューク朝の創始者(トゥグリル・ベグ)も同名である。ケレイト部族の間ではネストリウス派キリスト教が信仰されており、オン・カンはダビデ(David)という洗礼名を有していたと言われる。.

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オドリコ

ポルデノーネのオドリコ(俗名 オドリコ マッティウシ 或いは マッティウジ; 1286年 – 1331年1月14日)は、後期中世イタリアの旅行家・修道士。彼の中国訪問に関する報告書簡はジョン・マンデヴィル の旅行記の重要資料となった。マンデヴィルの旅行記に掲載されている多くの驚異の事物はオドリコの目撃談を捻じ曲げて利用したものだと考えられている。.

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カリストゥス2世 (ローマ教皇)

リストゥス2世(Callixtus II, 1065年/1068年? - 1124年12月13日)は、ローマ教皇(在位:1119年 - 1124年)。ブルゴーニュ伯家の出身で、元の名はギー・ド・ヴィエンヌ(Guy de Vienne)。 1122年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世との間でヴォルムス協約を結び、叙任権闘争の決着を図った。この協約の承認を求めて、カリストゥス2世が翌1123年に召集した第1ラテラン公会議は、第4コンスタンティノポリス公会議以来2世紀半ぶりに開催された公会議であり、また西方地域で開催された最初の公会議であった。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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カトワーンの戦い

トワーンの戦いは、1141年9月9日に起きた、西遼とセルジューク朝・西カラハン朝連合軍の戦闘である。この戦いでセルジューク朝は大敗を喫し、この時からセルジューク朝の衰退が始まる。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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キプロス島

プロス島(キプロスとう)は、東地中海のシリア・アナトリア半島の沿岸にある島。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きな島である。.

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キタイ (地理的呼称)

タイ(Qitai)とは、中国および中国の一部の地域を指して使用する言葉である。10世紀に中国北部に遼を建国した契丹に由来する新免「キタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、159頁。.

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クチュルク

チュルク(Küčülüg)は、モンゴル高原東部の遊牧集団ナイマン部の王族。西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝。 『遼史』では屈出律、『元史』では曲出律、『元朝秘史』では古出魯克の名で表記されている。ペルシア語表記では『世界征服者の歴史』および『集史』がともにكوچلك خان. Kūchuluk Khān ないしكوشلوك. Kūshulūkと綴る。クチュルクとはテュルク語で küč+lüg 「力ある者」の意味である。日本語表記では「グチルク」とも表記される。.

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グユク

1246年にグユクがインノケンティウス4世へ宛てた勅書に捺された印璽 グユク(Güyük、、 1206年3月19日 - 1248年4月20日)は、モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日 - 1248年4月20日)。漢語資料の表記では貴由、古余克、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記では كيك خان kuyuk khān ないし گيوك خان Guyūk khān など。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗。 第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后ドレゲネとの間に生まれた長男である。グユクは第3代モンゴル皇帝であるが、先代のオゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」(Qaγan, Qa'an)を名乗ったものの、グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇帝)を父オゴデイのみの称号と考えたのか、自らは名乗りとして用いず、もっぱらカン(ハン Qan/χan 〜 خان khān)の称号のみを名乗ったと考えられている。.

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ケレイト

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ケレイト(Kereid, Kerait)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原中北部のハンガイ山脈付近に割拠していたテュルク遊牧民の部族集団である。漢字表記では客烈亦、怯烈、怯烈亦など。ペルシア語史料では كرايت Kirāyt などと表される。.

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コンゴ王国

ンゴ王国(コンゴおうこく、)は、14世紀末から1914年までの間、中部アフリカ大西洋岸にあった王国である。現在のコンゴ共和国・コンゴ民主共和国・北アンゴラ・ガボンに相当する地域を支配していた。首都はンバンザ・コンゴ。.

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ゴンドファルネス

ンドファルネス(GondopharnesまたはGondophares, ペルシア語形はヴィンダファルナ(Vindafarna 栄光ある勝利者)か?、在位:20年頃?)は、インド・パルティア王国の建設者とされている王。キリスト教の伝説において聖トマスの伝道に登場するインドの王として有名である。.

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シリア正教会

リア正教会の聖職者達 シリア正教会(―せいきょうかい)は、東方諸教会のひとつ。シリア、メソポタミアを中心に発展した。インドに庇護下に置く教区・教会組織があるほか、現在では海外への移民を通じ、欧米にも教会が存在している。 単性論を採ると言われる事があるが、シリア正教会は自身の教説を単性論と看做される事を拒絶しており、「単性論教会」を自称しない。カルケドン公会議(第四全地公会議)を承認しない事で分離した教会であるため、より中立的な呼び名・カテゴライズとしては非カルケドン派がある。.

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ジャラールッディーン・メングベルディー

ャラールッディーン・メングベルディー(جلال الدين منكبرتي Jalāl al-Dīn Menguberdī、1199年 - 1231年8月15日)は、ホラズム・シャー朝の第8代スルターン(在位:1220年 - 1231年)。『元史』では札闌丁、『元朝秘史』では札剌勒丁莎勒壇と音写される。.

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ジャブラ

ャブラ (جبلة、、Jableh, Jablah) はシリア・ラタキア県の地中海に面した地域にある都市である。2003年時点の人口は約61,181人、2013年時点の人口は77,186人となっている。.

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ジョン・マンデヴィル

ョン・マンデヴィル(Sir John Mandeville、? - 1372年11月12日?ミルトン『コロンブスをペテンにかけた男』、132頁/11月17日?マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳)、284頁)は、中世イングランドの騎士。中東、インド、中国、ジャワ島、スマトラ島の見聞録『東方旅行記(マンデヴィル旅行記)』の著者として知られる。 ヨーロッパ外の奇習・風俗を記したマンデヴィルの旅行記はヨーロッパ中の注目を集め、各国語に翻訳された愛宕「マンデヴィル」『アジア歴史事典』8巻、395頁。テューダー朝時代の探検家ウォルター・ローリーはマンデヴィルの記述に誤りは無いと述べ、クリストファー・コロンブス、マーティン・フロビッシャーはマンデヴィルの著作に刺激されて航海に出た。しかし、実際のところマンデヴィルの旅行記はの百科事典、プラノ・カルピニやウィリアム・ルブルック、オドリコらアジアを訪れた修道士の報告を元に書かれたものだった。ヨーロッパ世界の地理学の知識が発達するにつれて旅行記はマンデヴィルの空想に基づくものだと見なされるようになり、17世紀には虚言癖の著述家として風刺劇に取り上げられるようになる。著作の内容と同様にマンデヴィル自身の経歴、職業、存在自体も疑問視されている。 また、マンデヴィルの文章力は高い評価を受けており、かつてはシェイクスピア以上の名文家と賞賛されていた。しかし、ヴィクトリア朝時代に文学者としての評価は下がり、当時出版された『ブリタニカ百科事典』第9版では著作だけでなくマンデヴィルの経歴をも虚偽だと断定されている。近年では「ジョン・マンデヴィル」を作品内の「語り手」とみなし、旅行記の作者と分けて考える傾向にある。.

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ジョアン2世 (ポルトガル王)

ョアン2世(João II, 1455年3月3日 - 1495年10月25日)は、アヴィス王朝のポルトガル王(在位:1481年 - 1495年)。アフォンソ5世と最初の王妃イザベル・デ・コインブラの子。「無欠王」(O Príncipe Perfeito)と称される。.

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ジブラルタル海峡

ブラルタル海峡(ジブラルタルかいきょう、、)は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を隔てる海峡。北はイベリア半島のスペイン、およびイギリス領ジブラルタル、南はモロッコであり、西の大西洋と東の地中海をつなぐ出入り口としても軍事上・海上交通上、きわめて重要な位置を占めてきた。東はアルボラン海に接する。 幅は、イベリア半島最南端のタリファ岬からモロッコのアルカサル・エ・セリルまでが最も狭く14キロメートル、西端のトラファルガー岬〜スパルテル岬の間が最も広く45キロメートルとなる。水深はスパルテル岬沖が最も浅く345メートル、ジブラルタル〜セウタ間が最も深く942メートルとなる。西から東へ毎時4キロメートルの表面潮流があり、塩分濃度の濃い反対流が下層にある。 地中海側の両岸の岩山は、古代より「ヘラクレスの柱」として知られてきた。ゲルマン民族の大移動、ハンニバルの侵攻、ウマイヤ朝の支配、イギリスの植民地化など、古から戦略的に重要な位置づけにあった。現在、北岸のジブラルタルにはイギリス軍が、南岸のセウタにはスペイン軍が駐屯し、それぞれは軍港として機能している。現代においては麻薬密輸ルートとしての機能が指摘されている。2003年以降、この海峡の底を通るジブラルタルトンネルが計画中である。.

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ジェノヴァ共和国

ェノヴァ共和国(ジェノヴァきょうわこく、Repubblica di Genova、リグーリア語: Repúbrica de Zêna, Respublica Ianuensis, 別称: Serenissima Repubblica di Genova)は、ジェノヴァを中心にして1005年から1797年まで存在した都市領邦。 1148年以来公債を引き受けた国内のシ団は、塩税の管理を委任されてからジェノア銀行として組織化された。同行は国の収入を管理した。植民地、属領、軍隊、艦隊までも保有した。戦争を行い、条約を結んだ。1407年にフランスのジャン・ル・メングル元帥は社名変更の上、累積した国家債務の借り換え資金を提供させた。その軌跡はマキャベリをして「市民は国家の暴政と、会社のすぐれた管理とのために、国家の権威よりもむしろ会社のそれを欲した」と言わしめ、イギリス東インド会社の本国に占めた地位が遠く及ばなかったほどである。衰退期を経て1797年の恐慌で破産。同行の負債は、共和国を併合したサルデーニャ王国の国債に継承された。 ジェノヴァ出身のジョン・カボットは、共和国衰退期の直前に北米海岸を発見した。.

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セルジューク朝

ルジューク朝 (سلجوقیان, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。.

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タタール

18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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国王

国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.

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王笏

王笏(おうしゃく、sceptre、scepter)は、君主が持つ象徴的かつ装飾的な杖であり、レガリアの一種である。職杖によく似たものもあるが、その用途は全く異なる。宝珠と組み合わせて描写されることが多い。.

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神聖ローマ皇帝

聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.

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第5回十字軍

5回十字軍(だい5かいじゅうじぐん、1228年 - 1229年)は、ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍。 アイユーブ朝の本拠地エジプトの攻略を目指しダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功したが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退した。.

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第7回十字軍

7回十字軍(だい7かいじゅうじぐん、1248年 - 1254年)は、フランス王ルイ9世が主導した十字軍。アイユーブ朝のエジプトを攻撃したが、敗北して捕虜となり、占領地を全て放棄した上に莫大な身代金を支払って撤退した。.

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筑摩書房

株式会社筑摩書房(ちくましょぼう)は、日本の出版社。筑摩書房のマーク(空を截る鷹)のデザインは青山二郎作。 文学者を中心に個人全集は、増補改訂し繰り返し刊行するので、「全集の筑摩」と称されている。特に『世界文学全集』は多くの類書シリーズを刊行した。ほかに古典・現代文の教科書を現在まで毎年出版している。月刊PR誌に『ちくま』がある。.

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白水社

株式会社白水社(はくすいしゃ)は、日本の出版社。語学書や翻訳書の出版を多く手がける。新人劇作家の登竜門といわれる岸田國士戯曲賞を主催していることでも知られる。 社名は、屈原の長詩「離騒」の註の「淮南子に言ふ、白水は崑崙(こんろん)の山に出で、これを飲めば死せずと。神泉なり」に由来する。.

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遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.

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青土社

青土社(せいどしゃ)は、日本における出版社の一つ。神話・言語・哲学・文学・宗教・文明論・科学思想・芸術などの人文諸科学の専門書の出版社として名高い。清水康雄が1969年に創業し、現在まで続く雑誌『ユリイカ』を創刊した。 詩と芸術について扱った雑誌『ユリイカ』、思想と哲学を扱った雑誌『現代思想』は当該分野における一般向け雑誌として有名で、国内外を問わず著名な学者や研究者がこれらの雑誌に論文やエッセイ等を寄稿し、話題になることもしばしばある。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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騎士修道会

騎士修道会(きししゅうどうかい)は、十字軍時代に、聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として創設された中世のローマ・カトリックの修道会のことである。一般には「○○騎士団」と呼ばれることから誤解を受けやすいが、あくまで修道会の一形態であり、その成員の公的身分は修道誓願を立てた修道士であって騎士ではない。後にはイベリア半島と東ヨーロッパでも異教徒との戦いのために活動した。 1118年に創設され1128年に公認されたテンプル騎士団を端緒とし、騎士であり修道士である会員、キリスト教の教会を守護するための戦士と、清貧を旨とする宗教的に優れた人格をともに実現することを目標とする。後には、聖地における巡礼者の救護を目的として設立された聖ヨハネ病院修道会とドイツ人の聖マリア病院修道会も騎士修道会へと発展し、それぞれ聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団と呼ばれるようになった。 テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団は西ヨーロッパの各地に寄進によって数多くの所領を持ち、豊富な財力を背景にパレスチナにおけるムスリムとの戦いに従事した。13世紀末にシリア地方における十字軍の領土が完全に失われると、テンプル騎士団はフランス王権の忌避に遭い解散させられるが、聖ヨハネ騎士団はロドス島に移ってムスリムとの戦いを続けた。 一方、1198年に創立されたドイツ騎士団は聖地での軍事的役割を期待されず、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の勅許を獲得してバルト海南岸のプロイセンとリヴォニアに残る異教徒を十字軍の名目で征服する特権を与えられた。ドイツ騎士団はラトビアのキリスト教化を行っていたリヴォニア帯剣騎士団も吸収し、バルト海南岸に騎士団国家(ドイツ騎士団国)を築き上げる。しかし、ドイツ騎士団はポーランド王国と対立して1410年にタンネンベルクの戦いに敗れて衰え、1525年に騎士修道会総長がルター派に改宗して世俗の領邦のプロイセン公国となった。 聖ヨハネ騎士団のみが主権をもった騎士修道会として存続し、ロドス島からマルタ島を経てローマに移ってマルタ騎士団と呼ばれている。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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英雄コナン

英雄コナン(えいゆうコナン、蛮人コナン、キンメリアのコナンとも)は、1932年からロバート・E・ハワード(一部作品はディ=キャンプ、ビョルン・ニューベリイらの補作)により著されたヒロイック・ファンタジーのシリーズであり、その主人公である。本シリーズは、典型的なヒロイック・ファンタジーの先駆けとなった。 アーノルド・シュワルツェネッガーを主演とし『コナン・ザ・グレート』(1982年)および『キング・オブ・デストロイヤー』(1984年)として映画化された。彼をターミネーターへと続く一連のスターダムへ導いたことでも知られ、現在でも彼の出演した主要な作品の一つとして記憶されている。2011年には再起動として『コナン・ザ・バーバリアン』が映画化された。.

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耶律大石

耶律 大石(やりつ たいせき、契丹音:ヤルート・タイシ)は、西遼(カラ・キタイ)の初代皇帝(グル・ハン)。 太祖耶律阿保機の末子(第4子)であるの7世の子孫に当たる。『集史』においては、 تاشي طايفو Tāshī Ṭāīfū と記される。遼が滅亡する際に、契丹人を引き連れて西へ逃れてその地で勢力を広げ、モンゴル高原西部・新疆ウイグル自治区からカザフスタン東部・マー・ワラー・アンナフルまでの広大な地域を領有すると、故地回復を望んで東征軍を出すが途中で挫折した。ある説では、隠れマニ教徒だったという。.

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東ローマ帝国の皇帝一覧

東ローマ帝国皇帝の一覧.

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東方の三博士

東方の三博士の来訪 東方の三博士像(ブラジル・ナタール) 東方の三博士(とうほうのさんはかせ)とは、新約聖書に登場し、イエスの誕生時にやってきてこれを拝んだとされる人物。東方の三賢者(とうほうのさんけんじゃ)または東方の三賢人(とうほうのさんけんじん)という呼称も多い。.

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東方見聞録

『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。.

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東方旅行記

『東方旅行記』(とうほうりょこうき、The Travels of Sir John Mandeville)は、14世紀後半に成立した旅行記。ヨーロッパ、中近東、アジアを遍歴した騎士ジョン・マンデヴィルの一人称の物語となっている。 2部構成となっていて、第1部では聖地エルサレムへ至る巡礼の旅で遭遇する事物がいくつもの陸路、海路を通過する場合を想定して描かれ、第2部では聖地よりさらに東方の非キリスト教世界の奇異驚嘆の数々を描く。日本では1919年(大正8年)に『マンダヴィル東洋旅行記』として出版された。.

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歴史的シリア

マン帝国時代のシリアを示した地図。歴史的シリアに当たる領域が含まれている。 歴史的シリア(れきしてきシリア)は、大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。イスラーム勃興時代からアラビア語でシャーム地方(bilād al-Shām)と呼ばれた地域はほぼこの範囲に該当する。 なお、このシャームという単語は、単に地中海の東部沿岸地方のみを指したり、シリアの首都ダマスカスを指す場合もある。ヨーロッパではレバントとも訳される。 考古学によれば歴史的シリアは人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。1975年に発掘された古代都市エブラの発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の紅海から北はアナトリア、東はイラクに及ぶアッカドが広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古のセム語であると考えている。 時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、マケドニア人、ローマ人、ナバタイ人、ギリシャ人、アラブ人、十字軍、モンゴル人、テュルク人によって支配された。歴史的シリアはまた宗教にとって重要な役割を果たした。古代末期に築かれた港町アンティオキアはシルクロードの西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、ユーラシア大陸における東西の交易路の拠点として繁栄した。 第一次世界大戦の後、オスマン帝国は解体され、1922年国際連盟において、シリアをイギリスとフランスの二国が分割、支配することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方とパレスチナ地方を奪い、フランスは現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンを奪った。 フランスが植民地に組み込んだ地域はシリアの名前を継承して1941年に独立を宣言したが、すぐには承認されず、1944年1月1日国際的に承認された。フランス植民地時代にアンティオキア(現・アンタキヤ)周辺の北西地域はトルコに割譲され、現在ではトルコのハタイ県となっているが、この地域も歴史的シリアの一部である。.

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河出書房新社

株式会社河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)は、日本の出版社である。本社は東京都渋谷区千駄ヶ谷にある。 3代目社長の河出朋久は歌人でもあり、歌集『白葉集』1-3(短歌研究社、2004-06)がある。佐佐木幸綱、高野公彦、小野茂樹など学生歌人を社員登用していたこともある。.

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法政大学出版局

一般財団法人法政大学出版局(ほうせいだいがくしゅっぱんきょく、英語名: HOSEI UNIVERSITY PRESS、1948年12月 - )は、法政大学の出版部にあたる法人。法政大学総長を会長とし、法政大学の活動に対応した書籍を中心に出版を行う。 理事を学部や研究所から迎えるなど学校法人法政大学本体との関係は深いが、組織・財政は独立したものとなっている。.

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月の山脈

月の山脈」が記されているプトレマイオスの地図(150年ころ)、15世紀の複製品。 月の山脈()は、東アフリカにあってナイル川の源流があるといわれていた伝説上の山脈または山地。現代に至るまでに、ウガンダとコンゴ民主共和国の国境付近にあるルウェンゾリ山地をはじめとするいくつかの地域に比定されている。.

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明石書店

明石書店(あかししょてん)は、日本の出版社。 1978年に起業された。.

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新約聖書

『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」「新約聖書」は、新旧の別による「旧いから無視してよい・誤っている、新しいから正しい」といった錯誤を避けるため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはキリストが生まれる前までを旧約聖書、キリスト生誕後を新約聖書がまとめている。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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教文館

株式会社教文館(きょうぶんかん、Kyobunkwan Inc., Christian Literature Society of Japan)とは、東京都中央区銀座四丁目に所在する出版社、書店。.

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1122年

記載なし。

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1141年

記載なし。

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1145年

記載なし。

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1165年

記載なし。

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1177年

記載なし。

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1181年

記載なし。

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1219年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1237年

記載なし。

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1245年

記載なし。

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1247年

記載なし。

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1248年

記載なし。

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1251年

記載なし。

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1253年

記載なし。

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1380年

記載なし。

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1382年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1400年

14世紀の最後でもある。.

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1411年

記載なし。

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1412年

記載なし。

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1415年

記載なし。

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1486年

記載なし。

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1493年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1540年

記載なし。

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1572年

記載なし。

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1692年

記載なし。

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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