ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

騎士修道会

索引 騎士修道会

騎士修道会(きししゅうどうかい)は、十字軍時代に、聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として創設された中世のローマ・カトリックの修道会のことである。一般には「○○騎士団」と呼ばれることから誤解を受けやすいが、あくまで修道会の一形態であり、その成員の公的身分は修道誓願を立てた修道士であって騎士ではない。後にはイベリア半島と東ヨーロッパでも異教徒との戦いのために活動した。 1118年に創設され1128年に公認されたテンプル騎士団を端緒とし、騎士であり修道士である会員、キリスト教の教会を守護するための戦士と、清貧を旨とする宗教的に優れた人格をともに実現することを目標とする。後には、聖地における巡礼者の救護を目的として設立された聖ヨハネ病院修道会とドイツ人の聖マリア病院修道会も騎士修道会へと発展し、それぞれ聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団と呼ばれるようになった。 テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団は西ヨーロッパの各地に寄進によって数多くの所領を持ち、豊富な財力を背景にパレスチナにおけるムスリムとの戦いに従事した。13世紀末にシリア地方における十字軍の領土が完全に失われると、テンプル騎士団はフランス王権の忌避に遭い解散させられるが、聖ヨハネ騎士団はロドス島に移ってムスリムとの戦いを続けた。 一方、1198年に創立されたドイツ騎士団は聖地での軍事的役割を期待されず、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の勅許を獲得してバルト海南岸のプロイセンとリヴォニアに残る異教徒を十字軍の名目で征服する特権を与えられた。ドイツ騎士団はラトビアのキリスト教化を行っていたリヴォニア帯剣騎士団も吸収し、バルト海南岸に騎士団国家(ドイツ騎士団国)を築き上げる。しかし、ドイツ騎士団はポーランド王国と対立して1410年にタンネンベルクの戦いに敗れて衰え、1525年に騎士修道会総長がルター派に改宗して世俗の領邦のプロイセン公国となった。 聖ヨハネ騎士団のみが主権をもった騎士修道会として存続し、ロドス島からマルタ島を経てローマに移ってマルタ騎士団と呼ばれている。.

44 関係: 十字軍中世主権修道士修道会マルタ島マルタ騎士団バルト海ポーランド王国ムスリム僧兵ヨーロッパラトビアリヴォニアリヴォニア帯剣騎士団ルーテル教会ローマロドス島プロイセンプロイセン公国パレスチナテンプル騎士団フランスフリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)ドイツ騎士団ドイツ騎士団国イベリア半島エルサレムカトリック教会キリスト教キリスト教の歴史タンネンベルクの戦い (1410年)聖ヨハネ騎士団騎士騎士団東ヨーロッパ歴史的シリア教会1118年1128年1198年13世紀1410年1525年

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

新しい!!: 騎士修道会と十字軍 · 続きを見る »

中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

新しい!!: 騎士修道会と中世 · 続きを見る »

主権

主権(しゅけん)とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力中沢 和男「国際政治における主権の機能とその将来」東海大学紀要.

新しい!!: 騎士修道会と主権 · 続きを見る »

修道士

修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.

新しい!!: 騎士修道会と修道士 · 続きを見る »

修道会

修道会(しゅうどうかい)は、キリスト教の西方教会における組織。カトリック教会においては教皇庁の認可を受けて、キリスト教精神を共同生活の中で生きる、誓願によって結ばれた信徒の組織である。修道会の会員は修道者といわれる。 なお、東方諸教会・正教会・聖公会・ルター派にも修道院制度は存在するが、前二者の東方教会には修道会制度は存在しない。.

新しい!!: 騎士修道会と修道会 · 続きを見る »

マルタ島

マルタ島(Malta)は、地中海の中央、マルタ共和国内の島であり、同国内で最も大きな島である。 1989年12月2日から12月3日にかけて米ソ首脳が会談し、米ソ冷戦の終結を宣言したマルタ会談が開催された。.

新しい!!: 騎士修道会とマルタ島 · 続きを見る »

マルタ騎士団

ドス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会(ロドスおよびマルタにおけるエルサレムのせいヨハネびょういんどくりつきししゅうどうかい、Sovrano Militare Ordine Ospedaliero di San Giovanni di Gerusalemme di Rhodi e di Malta)、通称マルタ騎士団(マルタきしだん)は、キリスト教カトリックの騎士修道会である。現在は国家ではないが、かつて領土を有していた経緯から「主権実体」として承認している国々がある。 軍事組織としての意味合いは既に失われて久しいが、医療団体としての活動はあり、イタリア共和国軍の軍医部隊としても運用されている。.

新しい!!: 騎士修道会とマルタ騎士団 · 続きを見る »

バルト海

3月のバルト海北部のボスニア湾は一部氷結している(衛星写真)。 バルト海(バルトかい、Baltic Sea)は、北ヨーロッパに位置する地中海。ヨーロッパ大陸とスカンディナビア半島に囲まれた海域である。ユーラシア大陸に囲まれた海域と説明されることもある「バルト海」『新版 地学事典』p.1046。 西岸にスウェーデン、東岸は、北から順にフィンランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、南岸は、東から西にポーランド、ドイツ、デンマークが位置する。.

新しい!!: 騎士修道会とバルト海 · 続きを見る »

ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

新しい!!: 騎士修道会とポーランド王国 · 続きを見る »

ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

新しい!!: 騎士修道会とムスリム · 続きを見る »

僧兵

僧兵(そうへい)とは、日本の古代後期から中世、近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。.

新しい!!: 騎士修道会と僧兵 · 続きを見る »

ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

新しい!!: 騎士修道会とヨーロッパ · 続きを見る »

ラトビア

ラトビア共和国(ラトビアきょうわこく、Latvijas Republika)、通称ラトビアは、北ヨーロッパの共和制国家。EUそしてNATOの加盟国、OECDの加盟国。通貨はユーロ、人口は201.5万人、首都はリガである。.

新しい!!: 騎士修道会とラトビア · 続きを見る »

リヴォニア

1619年当時のポーランド・リトアニア連合とリヴォニア。濃い灰色の部分がリヴォニア公国 17世紀後半のリヴォニア。中・北部がスウェーデン・バルト帝国、南部がポーランド・リトアニア連合 リヴォニア (Livonia) は、現在のラトビアの東北部(ヴィドゼメ地方)からエストニアの南部にかけての地域の名称。また、リボニアやドイツ語風にリーフラント (Livland) ともいう。 この地にはフィン・ウゴル系(ウラル語系)とされるリヴォニア語を話すリーヴ人が住んでいたが、現在では人口数百人程度の少数民族となっている。ドイツ騎士団の植民やバルト人・フィン人等との混血により、激減したとされる。現在、住民はほぼバルト系ラトビア人とロシア人で占める。 中世リヴォニア:テッラ・マリアナ リヴォニア十字軍の間に、リヴォニア帯剣騎士団(後にリヴォニア騎士団と呼ばれる)に植民地化された。テッラ・マリアナはバルト海の東海に位置し、現在のエストニア南部とラトビア北部からなる領域。リヴォニア十字軍の結果作られた。 中世は北方十字軍や東方植民の影響でドイツ系の住民バルト・ドイツ人が多数を占め統治された。リーヴ人の影響は残り、この地はリーヴ人の土地、リヴォニアとして名を残す事になる。 ドイツ騎士団国(1224年–1237年)と支部のリヴォニア騎士団(1237年–1561年)、リヴォニア公国(ポーランド王国、ポーランド・リトアニア共和国 1561年-1621年)、スウェーデン(バルト帝国1629年–1721年)と支配者を変えた後、最終的に18世紀初頭に始まった大北方戦争によりロシア帝国(1721年–1918年)に帰した。20世紀には、リヴォニアの北部をエストニア、南部をラトビアとして国家が成立した。.

新しい!!: 騎士修道会とリヴォニア · 続きを見る »

リヴォニア帯剣騎士団

リヴォニア帯剣騎士団、正式名称リヴォニアのキリスト騎士修道会(羅:Fratres Militie Christi de Livonia, 独:Schwertbrüderorden)は、騎士修道会の一つ。刀剣騎士修道会とも呼ばれる。1202年に設立、1237年にドイツ騎士団に吸収された。.

新しい!!: 騎士修道会とリヴォニア帯剣騎士団 · 続きを見る »

ルーテル教会

ルーテル教会(ルーテルきょうかい、, )は、マルティン・ルターによりドイツに始まる、キリスト教の教派または教団。ルター派(ルターは)とも呼ばれる。プロテスタントの一つであり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する。発祥の地ドイツを始め、北欧諸国では国民の大半がルター派であり、そこから移民が渡った先のアメリカ合衆国、カナダ、ブラジル等の南アメリカ各国でも信徒数が多い。 パッヘルベル、J.S.バッハ、テレマン、メンデルスゾーンなど著名な音楽家が多く所属し、作曲家や音楽家に縁がある教会としても知られる。.

新しい!!: 騎士修道会とルーテル教会 · 続きを見る »

ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

新しい!!: 騎士修道会とローマ · 続きを見る »

ロドス島

ドス島(Ρόδος / Ródos; Rhodes)は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。ロードス島との表記も用いられる(#名称節参照) 。 島で最大の都市であるロドスの街は、古代以来港湾都市として栄え、世界の七不思議の一つである「ロドス島の巨像」が存在したことでも知られる。また、その中世期の街並みは「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 騎士修道会とロドス島 · 続きを見る »

プロイセン

プロイセン(、、、プロシア語: Prūsa)の歴史的地域はグダニスク湾(現、ポーランド、ロシア)からバルト海南東岸のクルシュー砂州(現リトアニア、ロシア)の端、そして内陸のマズールィ(Masuria、現ポーランド北部)までに及ぶ。プロシア(普魯西)は、英語名Prussiaに基づくの名称。 西暦98年、タキトゥスの「ゲルマニア」記述によると、スエビ族、ゴート族とその他のゲルマニア民族がヴィスワ川両岸から北東は (en:Aesti) まで居住していた。約800-900年後、Aestiは古プルーセン (Old Prussians) と名づけられ、997年以降ポラン族の新公国からの侵略には幾度も抵抗に成功した。1230年代、プルーセン人と近隣の:en:Curonians、リーヴ人達の領土は、教皇の秩序の基、ドイツ騎士団国家とし成立した。1466-1772年、プロイセンは政治的に西と東に分裂された。西はポーランド・リトアニア公国の王の守護下、東は1660年までポーランド領地となった。プロイセンの統一は、東西がプロイセン王国により政治的にも再統一されたるまで、国境、市民権、自治権により俟たれていた。 プロイセン公国とブランデンブルク辺境伯を起源とするドイツ帝国のプロイセン (1701–1947年)(ドイツ語:Preußen、英:Prussia、ポーランド語:Prusy)は、この地域の名が由来する。 古プルセーン族の地図(13世紀)、市・城はドイツ騎士団が建設.

新しい!!: 騎士修道会とプロイセン · 続きを見る »

プロイセン公国

プロイセン公国(プロイセンこうこく、ドイツ語:Herzogtum Preußen)は、1525年から1701年まで、現在のドイツ北東部、ロシア領カリーニングラード及びポーランド北部に存在した国家。プロシア公国とも。.

新しい!!: 騎士修道会とプロイセン公国 · 続きを見る »

パレスチナ

パレスチナの衛星写真 旧国際連盟イギリス委任統治領パレスチナ。当初は現在のヨルダンも含む範囲であった パレスチナ(فلسطين、פלשתינה)は、地中海東岸の歴史的シリア南部の地域的名称。西アジア・中東に位置する。 中世以降の主要な住民はアラビア語を日常語とするムスリム(イスラム教徒)、キリスト教徒、ユダヤ教徒(ミズラヒム)である。前2者とごくわずかのミズラヒムが、近代以降世界各地から移住してきたユダヤ人に対して、パレスチナに在住するアラブ人としてパレスチナ人と呼ばれる。.

新しい!!: 騎士修道会とパレスチナ · 続きを見る »

テンプル騎士団

テンプル騎士団の紋章一頭の馬に跨る二人の騎士は、清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。 テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち()」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。 十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は1096年の第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。.

新しい!!: 騎士修道会とテンプル騎士団 · 続きを見る »

フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

新しい!!: 騎士修道会とフランス · 続きを見る »

フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)

フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)はシチリア王(在位:1197年 - 1250年)、イタリア王(在位:1212年12月5日 - 1250年)及びローマ王(在位:1212年12月9日 - 1220年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1220年 - 1250年12月13日)、さらにエルサレム王(在位:1225年 - 1228年)。ホーエンシュタウフェン朝第2代シチリア王、第5代ローマ王、第3代ローマ皇帝。イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世(Federico II)で呼ばれることが多い。 学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞いから、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評したルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、134頁。中世で最も進歩的な君主と評価され、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛されたルイス「フリードリヒ2世」『世界伝記大事典 世界編』9巻、136頁。普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、ルネサンス時代を先取りしたとも思える宮廷生活を送っていた小森谷『シチリア歴史紀行』、163頁。フリードリヒの容貌について同時代のヨーロッパの人間は皆称賛していた。またその知性はイスラム教国アイユーブ朝の君主アル=カーミルを魅了した菊池『神聖ローマ帝国』、111頁。 一方、「早く生まれすぎた」彼は教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し、ローマ教皇から2回の破門を受けた。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した藤沢『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』、110頁。また、イタリアに重点を置いた彼の施策は帝国に混乱をもたらした。.

新しい!!: 騎士修道会とフリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。プロイセンなど統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。.

新しい!!: 騎士修道会とドイツ騎士団 · 続きを見る »

ドイツ騎士団国

ドイツ騎士団国()(Staat des Deutschen Ordens; Civitas Ordinis Theutonici)、 Deutschordensstaat Ordensstaat は、13世紀、バルト湾沿いで北方十字軍の期間、ドイツ騎士団により建国された十字軍国家である。 ドイツ騎士団領、ドイツ騎士修道会領などとも呼ばれ、ドイツ語ではOrdensstaat(騎士団国)とも呼ばれる。また、ドイツ騎士団はチュートン騎士団と訳されることもある。 ドイツ騎士団が1230年に、異教徒古プロイセン人を征服した後、故地を基盤に作った国。しかし、ゴットランド島、クールラント、リヴォニア、Neumark、ポメレリア、ジェマイティヤまで拡大した。領土は、現在のエストニア、ラトビア、ポーランド、リトアニア、ロシアにおよぶ。.

新しい!!: 騎士修道会とドイツ騎士団国 · 続きを見る »

イベリア半島

イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。.

新しい!!: 騎士修道会とイベリア半島 · 続きを見る »

エルサレム

ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.

新しい!!: 騎士修道会とエルサレム · 続きを見る »

カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

新しい!!: 騎士修道会とカトリック教会 · 続きを見る »

キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

新しい!!: 騎士修道会とキリスト教 · 続きを見る »

キリスト教の歴史

本項では、成立期から近代に到るまでのキリスト教の歴史(キリストきょうのれきし)を概説する。 キリスト教とは何か、聖典である『聖書』の範囲がどこまでかは、「キリスト教」を名乗る教団の中でも定義は一定していない。そこで本項では、キリスト教を自称する教派・教団を網羅的に取り扱うものとし、紀元後1世紀前半からはじまるその歴史を、近代に到るまで概観する。近代以降の展開については「キリスト教」の頁の「近代以降のキリスト教の展開」の節を参照。.

新しい!!: 騎士修道会とキリスト教の歴史 · 続きを見る »

タンネンベルクの戦い (1410年)

タンネンベルクの戦いあるいはグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在のポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村と村の間にある平原で戦われた。この戦いで勝利をおさめたポーランド・リトアニアはさらに勢力を拡大、ヨーロッパで最大の版図をもつ強国として最盛期を迎えることになる。.

新しい!!: 騎士修道会とタンネンベルクの戦い (1410年) · 続きを見る »

聖ヨハネ騎士団

聖ヨハネ騎士団(せいヨハネきしだん)は、11世紀に起源を持つ宗教騎士団。テンプル騎士団、ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。 本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としたが、聖地防衛の主力として活躍した。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)ともいい、本拠地を移すに従ってロドス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになった。現在の正式名称は「ロドスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」(Supremus Ordo Militaris Hospitalis Sancti Ioannis Hierosolymitani Rhodius et Melitensis.、Cavalieri dell’Ordine dell’Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme)である。.

新しい!!: 騎士修道会と聖ヨハネ騎士団 · 続きを見る »

騎士

騎士(きし)は、騎乗して戦う者を指す。.

新しい!!: 騎士修道会と騎士 · 続きを見る »

騎士団

騎士団(きしだん、英語:Chivalric order)は、十字軍時に設立された騎士修道会、及びそれを模して各国の王・貴族が作った騎士とその附属員から構成される団体である。前者はローマ教皇によって認可された修道会の一種であり、構成員は修道士になることが前提となる。後者は実際の軍事集団としてより、名誉・儀礼的な意味合いが強く、後にヨーロッパの勲章システムに受け継がれていく。.

新しい!!: 騎士修道会と騎士団 · 続きを見る »

東ヨーロッパ

中東 東ヨーロッパ(ひがしヨーロッパ)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。時代によって「東欧」の概念は大きく変わる。広義には、かつてのヨーロッパのソ連型社会主義圏を指して「東欧」と呼んでいたが、狭義にはロシア(のウラル山脈以西)・ウクライナ・ベラルーシの三国を指す。以下は「東欧」という概念の大まかな変遷を説明する。.

新しい!!: 騎士修道会と東ヨーロッパ · 続きを見る »

歴史的シリア

マン帝国時代のシリアを示した地図。歴史的シリアに当たる領域が含まれている。 歴史的シリア(れきしてきシリア)は、大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。イスラーム勃興時代からアラビア語でシャーム地方(bilād al-Shām)と呼ばれた地域はほぼこの範囲に該当する。 なお、このシャームという単語は、単に地中海の東部沿岸地方のみを指したり、シリアの首都ダマスカスを指す場合もある。ヨーロッパではレバントとも訳される。 考古学によれば歴史的シリアは人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。1975年に発掘された古代都市エブラの発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の紅海から北はアナトリア、東はイラクに及ぶアッカドが広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古のセム語であると考えている。 時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、マケドニア人、ローマ人、ナバタイ人、ギリシャ人、アラブ人、十字軍、モンゴル人、テュルク人によって支配された。歴史的シリアはまた宗教にとって重要な役割を果たした。古代末期に築かれた港町アンティオキアはシルクロードの西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、ユーラシア大陸における東西の交易路の拠点として繁栄した。 第一次世界大戦の後、オスマン帝国は解体され、1922年国際連盟において、シリアをイギリスとフランスの二国が分割、支配することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方とパレスチナ地方を奪い、フランスは現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンを奪った。 フランスが植民地に組み込んだ地域はシリアの名前を継承して1941年に独立を宣言したが、すぐには承認されず、1944年1月1日国際的に承認された。フランス植民地時代にアンティオキア(現・アンタキヤ)周辺の北西地域はトルコに割譲され、現在ではトルコのハタイ県となっているが、この地域も歴史的シリアの一部である。.

新しい!!: 騎士修道会と歴史的シリア · 続きを見る »

教会

教会(きょうかい).

新しい!!: 騎士修道会と教会 · 続きを見る »

1118年

記載なし。

新しい!!: 騎士修道会と1118年 · 続きを見る »

1128年

記載なし。

新しい!!: 騎士修道会と1128年 · 続きを見る »

1198年

記載なし。

新しい!!: 騎士修道会と1198年 · 続きを見る »

13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 騎士修道会と13世紀 · 続きを見る »

1410年

記載なし。

新しい!!: 騎士修道会と1410年 · 続きを見る »

1525年

記載なし。

新しい!!: 騎士修道会と1525年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

修道騎士団騎士団国騎士団領

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »