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ホラズム・シャー朝

索引 ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝( Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。.

110 関係: 奴隷王朝契丹山川出版社岩村忍中央アジア平凡社ペルシア文学ナイマンマムルークマー・ワラー・アンナフルチンギス・カンバグダードモンゴル帝国ルーム・セルジューク朝ワシーリィ・バルトリドトゥグリル2世ヘラートブハラテュルク系民族ディヤルバクルファールス (イラン)ホラーサーンホラズムダマスカスアナトリア半島アムダリヤ川アラル海アラーウッディーン・ムハンマドアラーウッディーン・テキシュアラブ人アラビア語アヌーシュ・テギーンアッバース朝アトスズアブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンアフマド・ヤサヴィーアフマド・サンジャルアフガニスタンアイユーブ朝アゼルバイジャンアタベクイナルチュクイラン高原イラクイラク・セルジューク朝イル・アルスランイルデニズ朝インド亜大陸インダス川イスラム王朝...イスラム教エルズィンジャンエスファハーンオトラルオゴデイカラハン朝カリフカトワーンの戦いカスピ海ガズナ朝キプチャククチュルククルド人クトゥブッディーン・ムハンマドクフナ・ウルゲンチグルジア王国コーカサスゴール朝シハーブッディーン・ムハンマドシルダリヤ川ジャラールッディーン・メングベルディージャラールッディーン・スルターン・シャースルターンセルジューク朝タブリーズサマルカンド第三書館遊牧民西遼講談社講談社学術文庫講談社現代新書東洋文庫 (平凡社)杉山正明1077年1097年1127年1135年1138年1141年1156年1157年1172年1189年1193年1194年1197年11世紀1200年1210年1212年1215年1216年1217年1219年1220年1225年1227年1230年1231年 インデックスを展開 (60 もっと) »

奴隷王朝

奴隷王朝(どれいおうちょう、Slave Dynasty)またはマムルーク・スルターン朝(سلطنت مملوک 転写:Sulṭanat Mamluk、Mamluk Sultanate)は、北インドを支配したデリー・スルターン朝最初のトルコ系イスラーム王朝(1206年 - 1290年)。首都はデリー。.

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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岩村忍

岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日〜1988年6月1日)は、日本の東洋史学者。専攻は内陸ユーラシア史・東西交渉史。戦後日本におけるシルクロード学の開拓者として知られる。.

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中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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ペルシア文学

ペルシア文学(ぺるしあぶんがく、ادبیات پارسی)はペルシア語で書かれた文学を言う。ここでのペルシア語とは、主として、アラビア文字表記の近世ペルシア語を指す。ペルシア文学というと、主にこの近世ペルシア語を母体として、現在のイラン、中央アジアの一部、アフガニスタン、北西インド、アナトリアの諸地域で生み出された韻文・散文の作品群のことを指す。  このような近世ペルシア語によるペルシア文学の歴史は西暦10世紀まで遡り、ペルシア文化奨励政策を掲げたサーマーン朝期に開花した。ガズナ朝初期には『シャー・ナーメ』が完成され、イスラーム期ペルシア民族の歴史意識の文学的拠り所を獲得する。11世紀半ばには、ペルシアの宮廷文学の伝統はホラーサーンからアゼルバイジャンへと広がり、ペルシア的詩型による多様な主題の表現形式がニザーミーによって打ち立てられる。11世紀後半にはイスマーイール派のナースィレ・フスラウ、12世紀前半には哲学者のウマル・ハイヤームらの思索的作品も登場する。その一方で、アシュアリー学派の教義を土台としたセルジューク朝期の神権統治下で、ホラーサーン派神秘主義の文学的表出としてのペルシア神秘主義文学が登場する。そこでのルーミーらの著作により、イル・ハーン朝期以降のペルシア文学の方向性が位置付けられる。13世紀にはイラン西部でもペルシア文学の活動は本格化し、ペルシア語散文の規範となる『薔薇園』の作者サアディー、さらに14世紀にはイスラーム期イランの詩的精神性の結実といえるハーフィズが出現する。ティームール朝期に活躍したジャーミーを最後に、サファヴィー朝のシーア派政策により神秘主義文学が衰えるなか、ペルシア文学の拠点は一時期、ムガル朝期のインドに移行し、豊かなペルシア詩、文芸批評の新たな伝統が生まれた。19世紀初頭、古典作品への回帰が奨励されるが、20世紀初頭のイラン立憲革命期には内容・形式ともに斬新な近代文学が生まれ、今日まで旺盛な文学活動が継続している。.

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ナイマン

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク系遊牧民で、後にモンゴル化した部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた。.

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マムルーク

マムルーク(単数形: مملوك mamlūk, 複数形: مماليك mamālīk)は、イスラム世界における奴隷身分出身の軍人のこと。.

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マー・ワラー・アンナフル

マー・ワラー・アンナフル(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。 アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁川口『ティムール帝国』、116頁。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ、その領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈とパミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠とカラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい。 「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドやブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれている。 「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁、イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である。ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた。 7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀のティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた川口『ティムール帝国』、115-116頁。テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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バグダード

バグダード(/ラテン文字表記:Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都で同国最大の都市。また、バグダード県の県都でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではイスタンブール、テヘランに次ぐ大都市である。2005年の人口はおよそ590.4万人。日本語では多くの場合バグダッドと表記されるが、アラビア語の綴りと発音(bæɣˈdæːd)に近づけるとバグダードという表記になる。 バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはイラク正式政府が成立し、現在に至っている。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、Rûm sultanate, Saljūqiyān-i Rūm سلجوقیان روم, 1077年 - 1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。.

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ワシーリィ・バルトリド

ワシーリィ・バルトリド ワシーリィ・ウラディミロヴィチ・バルトリド(Василий Владимирович Бартольд, 1869年11月15日(ユリウス暦では11月3日) - 1930年8月19日)は、ロシア・ソ連の歴史家。中央ユーラシア史の解明に大きな功績を残した。欧米諸国ではヴィルヘルム・バルトルトという名でも知られる。.

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トゥグリル2世

トゥグリル2世(? - 1134年)は、セルジューク朝の君主(スルターン、在位:1132年 - 1134年)。ムハンマド・タパルの子。ムハンマド・タパルを祖とするイラク・セルジューク朝の君主としては、トゥグリル1世井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、111頁。.

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ヘラート

ヘラート(ダリー語: هرات Herāt)は、アフガニスタンの都市。(هري رود - Harī Rūd - ハリー・ルード、Tarius)の河谷に形成された肥沃なオアシスに位置し、古にはワイン生産地として名高かった。国内第3の人口を擁する (2006年の公式推計で349,000人) 同国北西部の最重要都市で、現在はヘラート州の州都である。住民はスンナ派またはシーア派のペルシア語系タジク人中心で、主にダリー語が話される。 アフガニスタン北西部からイラン北東部、トルクメニスタン南部にまたがったホラーサーン地方の東部に位置し、中央アジアとインド亜大陸、西アジアを結ぶ重要な交易路上にあって古来より栄え「ホラーサーンの真珠」とその繁栄を謳われた。ペルシア語系タジク人が住民の多数を占めることからもうかがえるように、ヘラートを含むアフガニスタン北西部のハリー・ルード水系地域は、歴史的にはアフガン(パシュトゥーン)よりもイランの文化圏に属した。その歴史の古さは、古代ペルシア帝国の碑文に名が記されているほどで、現在も多くの歴史的建造物に恵まれている。もっとも、多くの遺跡が近年の激しい内戦によって損傷を受けている。ヘラートからイラン、トルクメニスタン、マザーリシャリーフ、カンダハールに通じる複数の幹線道路は、現在もなお戦略的に重要である。.

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ブハラ

ブハラ(;)は、ウズベキスタンの都市で、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されている。人口は約23万7千人(1995年)。 都市名は、ソグド語では、pwγ'r/puχār と呼ばれていたようで、イスラーム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近世ペルシア語・チャガタイ語では (Bukhārā; ブハーラー)と表記される。諸外国語による表記ではBukharaあるいはBokharaとされることが多く、古くは日本語でもボハラと書かれることがあった。「ブハーラー」とは元来サンスクリット語で「僧院」を意味する Vihāra ないし Vihāraḥ に由来すると考えられている。 古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。.

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テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

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ディヤルバクル

ディヤルバクル(Diyarbakır, Amed / ئامەد)はトルコ南東部の都市。ティグリス川に臨む。ディヤルバクル県の県都。人口は589,000人(2003年)。ただし、町をとりまくスラムの住民を含めると、人口は100万人を越えると推定される。住民の大半はクルド人。イスタンブールやアンカラと空路で結ばれ、トルコ空軍の基地がある。.

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ファールス (イラン)

ファールスの位置(FARSISTAN) ファールス(ペルシア語: فارس Fārs、英語:Fars)は、イラン南部の歴史的地域名。現在のファールス州を中心とした地方を指す。.

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ホラーサーン

ホラーサーン(、Khorasan)は、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。「太陽の登るところ」を意味する。現在はラザヴィ・ホラーサーン州の州都となっている。.

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ホラズム

ホラズム(Xorazm)は、中央アジア西部に位置する歴史的地域。漢字では花剌子模と表記する。.

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ダマスカス

ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。アラビア語ではディマシュク(دمشق Dimashq)で、別名をシャーム(الشام al-sham)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。.

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アナトリア半島

アナトリア半島(アナトリアはんとう、Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリアであり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(Μικρά Ασία, Mikra Asia, Asia Minor)とも言う。.

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アムダリヤ川

アムダリヤ川(アムダリヤがわ、ペルシア語:آمودریا, Āmū Daryā)は、パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈から発するパンジ川とヴァクシュ川が合流し、北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。延長2574km、全長1415km「シルクロードの古代都市」P6, 8。.

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アラル海

アラル海(アラルかい、Арал Теңізі、Orol dengizi、Аральское море、Aral Sea、鹹海)はカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖である。.

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アラーウッディーン・ムハンマド

アラーウッディーン・ムハンマド(علاءالدين محمد ‘Alā' al-Dīn Muhammad, 1169年 - 1220年)は、ホラズム・シャー朝の第7代スルターン(在位:1200年 - 1220年)。.

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アラーウッディーン・テキシュ

アラーウッディーン・テキシュ(علاء الدين تكش Ala ad-Dunya wa ad-Din Abul Muzaffar Tekish, ? - 1200年)は、ホラズム・シャー朝の第6代君主(在位:1172年 - 1200年)。ホラズム・シャーの称号に加えて初めてスルターンを称した。.

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アラブ人

アラブ人(アラブじん、العرب،عربي)は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。 7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、中東・北アフリカを中心に勢力を拡大した。 もともとアラビア人をアラブと呼ぶが、日本では誤訳から始まった呼び方で定着した。.

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アラビア語

アラビア語(アラビアご、اللغة العربية, UNGEGN式:al-lughatu l-ʻarabīyah, アッ.

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アヌーシュ・テギーン

アヌーシュ・テギーン(نوشتکین غرچه、Nūštekīn Gharcha、? - 1096/97年)は、セルジューク朝のトルコ人マムルーク(軍人奴隷)C.E. Bosworth "Anuštigin Ĝarčāī", Encyclopaedia Iranica (reference to Turkish scholar Kafesoğlu), v, p. 140, Online Edition,。1077年から1097年ごろまでホラズム地方を統治した。彼の子孫はホラズム地方の名を冠する王朝(ホラズム・シャー朝)の君主として、12世紀から13世紀初頭までこの地方を統治した。彼はホラズム・シャー朝の創始者とみなされているが、セルジューク朝に対しての忠誠は失わず、セルジューク朝のスルターンに対して忠勤に励んだロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、178頁。.

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アッバース朝

アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.

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アトスズ

アトスズ(أتسز Atsïz, ? - 1156年)は、ホラズム・シャー朝の第3代君主(在位:1127年 - 1156年)。ホラズム・シャー朝の事実上の創始者。.

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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン

アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779年11月26日 - 1851年12月25日)は、オスマン帝国におけるアルメニア系の外交官、歴史家。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(邦題:『蒙古史』、『モンゴル帝国史』)の著者として有名であった。.

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アフマド・ヤサヴィー

ホージャ・アフマド・ヤサヴィー (ラテン文字:Khoja Ahmad Yasavi、Xoja Ahmad Yassaviy、Қожа Ахмед Яссауи コージャ・アフメド・ヤサウィー、Ahmad Yasawi、Ahmet Yasevi、Ahmed Yesevi、Ata Yeseviとも表記、1103年,-1166年,テュルキスタン) はテュルク語詩人であり、スーフィズム (神秘主義派のイスラム教)のホージャである。早期のスーフィズムにおけるスーフィーとしてテュルク語世界を通し、スーフィズムの発展に大きな影響を与えた。ヤサヴィーは現在ではテュルク語方言を用いた詩を多数創作した詩人として知られている。アフマド・ヤサヴィーはスーフィズムの発展に貢献した先駆者であり、初めてテュルク語によるタリーカ (スーフィズム教団)を創設した。このタリーカは(Yasaviyya)と呼ばれ、瞬く間にテュルク語話者の間に広まった。.

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アフマド・サンジャル

アフマド・サンジャル(ペルシア語:احمد سنجر Aḥmad Sanjar、معزّ الدنيا والدين أبو الحارث أحمد سنجر بن ملكشاه بن الپ ارسلان بن چغريبك Mu'izz al-Dunyā wa al-Dīn Abū al-Ḥārith Aḥmad Sanjar b. Malik-Shāh b. Alp Arslān b. Chaghrī-Bak、1086年 - 1157年5月8日)は、セルジューク朝の第8代スルターン(在位:1118年4月 - 1157年5月)。アッバース朝カリフから授けられた尊号は、السلطان معزّ الدنيا والدين أبو الحارث أحمد سنجر برهان امير المؤمنين al-Sulṭān Mu'izz al-Dunyā wa al-Dīn Abū al-Ḥārith Aḥmad Sanjar Burhān Amīr al-Mu'minīn。 単にスルターン・サンジャル سلطان سنجر Sulṭān Sanjar とも呼ばれる。また、『集史』などの後代の資料では「諸スルターンのスルターン」(سلطان السلاطين Sulṭān al-Salāṭīn)などの尊称でも呼ばれている。 大セルジューク朝の統一的なスルターンとして実質最後の君主で、イラン東部ホラーサーン地方を領有、特にニーシャープールを根拠地としたため、イラン東部はサンジャルの治世で繁栄した。しかし、サンジャル以降はイラクやイラン高原でセルジューク王族がスルターン位を巡って各地で分裂状態となった。マリク・シャーの死後内紛で弱体化した大セルジューク朝を一時再興した英主であるが、治世後半と晩年の挫折によって同王朝の衰退は決定的となってしまった。.

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アフガニスタン

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・中央アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。 パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。.

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アイユーブ朝

アイユーブ朝(الأيوبيون、クルド語:دەوڵەتی ئەییووبی )は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配した スンナ派のイスラーム王朝太田「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』、4頁。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。 1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する佐藤「アイユーブ朝」『新イスラム事典』、41頁。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、212頁。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。.

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アゼルバイジャン

アゼルバイジャン共和国(アゼルバイジャンきょうわこく、)、通称アゼルバイジャン は、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。北はロシア、北西はジョージア(グルジア)、西はアルメニア、南はイランと国境を接し、東はカスピ海に面する。アルメニアをまたいで西南方に飛地のナヒチェヴァン自治共和国があり、アルメニア、イランおよびトルコと接している。首都はバクー。アルメニア人が多数居住する西部のナゴルノ・カラバフ地方は、事実上独立した状態となっている。.

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アタベク

アタベク(atabeg、アターベク、アターベグとも書かれる)はテュルク語で「父なる君侯」を意味する。幼い君主の後見人・摂政であり養父となる有力者のこと。アラビア語・ペルシア語の資料では اتابك Atābak などと書かれている。 セルジューク朝などテュルク系の政権でしばしば活発に活動し大きな役割を果たした。その半面で混乱のもととなったこともあり、後には各地に自ら王朝を作ることとなり、トルコ系の国家における君主号のひとつともなった。後に位は王や皇帝の次席に位する単なる領主の称号となった。 日本の武家における傅役(ふやく、もりやく)と同じく幼い世継ぎの後見人であるので、「傅役」と訳されることもある。.

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イナルチュク

イナルチュク(Inalchuq もしくは Inalchuk、? - 1219年)は、13世紀初頭のホラズム・シャー朝でオトラルの長官を務めた軍人。モンゴル帝国のホラズム・シャー朝征服と関連の深い人物として知られる。 テュルク系出身で、王朝の第6代スルターン・アラーウッディーン・テキシュの妃の親族であり、第7代スルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの叔父にあたる。名前は「小さなイナル(Inal)」を意味し、ガイル・ハーンの称号を有していた。 1218年に、450人あまりのムスリムから成るモンゴルの隊商がオトラルを訪れ、その中にはチンギス・カンが派遣した外交使節が含まれていた。その際にイナルチュクは隊商にスパイの容疑をかけ、彼らを逮捕した。スルターン・ムハンマドの承認を得たイナルチュクは隊商を虐殺し、その積荷をブハラで売り捌いた。隊商の中でかろうじて虐殺を逃れた者はチンギス・カンの元に戻って事態を報告し、チンギス・カンはムハンマドにイナルチュクの処罰を要求した。ムハンマドはモンゴルから派遣された使者を斬首し、同行していた二人の従者の鬚を切り落として追放したためにチンギス・カンの敵意を煽った。 イナルチュクが隊商を逮捕した真意については意見が分かれている。実際にモンゴルのスパイであったとする説の他、隊商の中でイナルチュクと面識のあった1人が彼を称号のガイル・ハーンではなく本名で呼び捨てにしたためイナルチュクの不快感を煽った、あるいは隊商が所有していた財貨を奪うために濡れ衣を被せたという説が知られている。 1219年にモンゴル帝国の軍はイナルチュクが統治するオトラルを5か月間にわたって包囲し、オトラルの城壁は破壊された。イナルチュクはオトラルの内城の周囲に防壁を建設して籠城し、モンゴル軍はイナルチュクを生け捕りにするためにさらに1か月の期間を要した。モンゴル兵に追い詰められたイナルチュクは城砦の上から煉瓦を落としてモンゴル軍に抵抗するが、周囲に残った2人の護衛も倒れ、イナルチュクはモンゴル軍に生け捕られた。サマルカンドに連行されチンギス・カンの前に引き出されたイナルチュクは、虐殺の報復として両目と両耳に溶かされた銀を流し込まれて殺されたと伝えられているが、現在ではイナルチュクの最期を伝えた逸話の信憑性は疑問視されている。.

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イラン高原

イラン高原(イランこうげん、)は、中東イランの北部一帯の高原である。ペルシア高原またはペルシャ高原とも呼ぶ。カビール砂漠が広がるが、首都テヘランの南にはナマク湖(Daryacheh-ye Namak) という塩湖がある。 イラン中部から東はアフガニスタン、パキスタンにまたがる盆地状の高原が広がっている。北部にはエルブールズ山脈、ヒンズークシ山脈、南西部にザグロス山脈が連なっており、気候は乾燥気候。砂漠・ステップが広がっており、塩湖やワジが多く存在する。.

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イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく、、)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。.

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イラク・セルジューク朝

イラク・セルジューク朝(イラク・セルジュークちょう、1118年 - 1194年3月)は、現在のイラクからイラン西部を支配した王朝で、中央アジアに覇を唱えた大セルジューク朝の地方政権である。.

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イル・アルスラン

イル・アルスラン(ایل ارسلان Il-Arslan、? - 1172年3月)は、ホラズム・シャー朝の第4代君主(在位:1156年 - 1172年)。アトスズの子。.

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イルデニズ朝

イルデニズ朝(Ildenizids)は、かつてアゼルバイジャンの大部分を支配していたアタベク(セルジューク朝の有力な軍事指導者)の政権。王朝の創始者であるイルデニズは遊牧民族のキプチャクの出身で、セルジューク朝の王族にマムルーク(軍人奴隷)として購入された井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、116頁。イルデュグュズ朝、イルデギズ朝、イルデギズド朝(Ildegizids/EldiguzidsBosworth, Clifford Edmund (1996).

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インド亜大陸

インド亜大陸(インドあたいりく)は、インド半島ともいい、南アジアのインド・バングラデシュ・パキスタン・ネパール・ブータンなどの国々を含む亜大陸・半島。かつては独立したインド大陸であった。 「インド亜大陸」という語はしばしば「南アジア」と同義に使われる。.

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インダス川

インダス川(ヒンディー語、サンスクリット: सिन्धु、دریائے سندھ、シンド語: سندھو、パンジャーブ語:سندھ、ペルシア語:حندو、パシュトー語:ّآباسن、チベット語: Sengge Chu、中国語: 印度河、ギリシア語: Ινδός)は、インド亜大陸を流れる主要河川。 チベット自治区のマーナサローワル湖の近くのチベット高原から始まり、ジャンムー・カシミール州のラダックを通る。その後、パキスタンに入ってギルギット・バルティスタン州を通り、パンジャーブ州を南に抜け、シンド州に入り、パキスタンの港都市カラチの近くのアラビア海に注いでいる。インダス川の長さは3,180Kmで、パキスタン最大の河川である。インダス川本流の93%はパキスタン領内であり、5%がインド、2%が中国領を流れる。 インダス川の流域面積は1,165,000Km2以上である。一年間に流れる水の量は、約207Km3と推定され、世界で21番目である。氷河が広がる標高から始まり、温帯樹林の生態系、平野、乾燥地帯を作っている。チェナーブ川、、サトレジ川、ジェルム川、ビアース川及び北西辺境州とアフガニスタンから流れる2つの支流と共にシンドゥ七大河のデルタを形成する。.

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イスラム王朝

イスラム王朝(イスラムおうちょう)とは、ムスリム(イスラム教徒)の皇帝や国王が支配する国家である。ムハンマドの指導によりムスリムたちがイスラム教の教えの下に結束して、アラビア地域をはじめとする西アジア周辺のオリエント全域に興した国が最初で、分裂したり、新たに建国されたり、征服活動や貿易活動などにより、さまざまな地域にイスラム教が伝播し、北アフリカ、東アフリカ、西アフリカ、中央アジア(トルキスタン)、スペイン、インド、マレーシア、インドネシアにもイスラム王朝が誕生した。 中でもイスラム世界の中心的なイスラム王朝をイスラム帝国と呼ぶ。 カリフやスルタンを擁する中近東に拠点を置いた中心的な大帝国を築いた正統カリフ4代とウマイヤ朝、アッバース朝を代々まとめてサラセン帝国(ヨーロッパで使われていた呼称)、大食(唐で使われていた呼称)という。この大帝国をイスラム帝国と呼ぶことが多く、特にアッバース朝が真のイスラム帝国と考えることができる国家体制を築き上げた。 西アジア周辺ではイスラム教による厳格な律法が支配し、異教徒に対する団結とジハードが徹底して行われ、逆にムスリム同士及び服従した属領との間であれば寛容な政策が行われることがほぼ共通していた。そのため、ユーラシア大陸のほぼ中央を支配していた地の利も幸いして文物の交流が空前の規模で行われ、イスラムの諸帝国は世界の他の地域に比べ抜きんでた発展を遂げ、イスラム世界が世界の広い地域に広がった。のちにその技術や科学、思想が異教世界にも広がり、ヨーロッパのルネッサンスやインドのシク教などのきっかけともなった。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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エルズィンジャン

ルズィンジャン(Erzincan、エルジンジャンと表記されることも)はトルコ東部の都市。エルズィンジャン県の県都。人口は約10万人。標高1185m。産業が未発達な地域であり、イスタンブールなどへ出稼ぎに行く人も多い。 地震活動が活発な地域である。1939年12月26日、マグニチュード8の地震が起こり、3万人を越える死者が出た。1992年3月13日にもマグニチュード6.8の地震があり、500人ほどが犠牲となった。 Category:トルコの都市 Category:エルズィンジャン県.

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エスファハーン

ファハーン(اصفهان; Eṣfahān) は、イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する『西アジア』、108頁。日本語では、慣例的にイスファハン、イスファハーンとも表記される。 古くからの政治・文化・交通の拠点であり蒲生「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻、168頁、16世紀末にサファヴィー朝の首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分(Esfahān nesf-e jahān ast、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され20世紀のイランの作家サーデグ・ヘダーヤトは、1932年に同名の紀行文『エスファハーンは世界の半分』を発表した。(『事典 イスラームの都市性』、59頁)、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる。 町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建設した新市街で構成される。有名なイマーム・モスク(王のモスク1979年のイラン革命でパフラヴィー朝が崩壊した後、王(シャー)という言葉の使用が禁止されたため、王のモスクはイマーム・モスク、王の広場はイマーム広場に改称された。(宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83-84頁))などがある新市街のイマーム広場(王の広場)は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。 町の住人は出費に厳しい「倹約家」「吝嗇家」として良くも悪くも有名であり、他の地域の人間からは敬遠されることがある『西アジア』、111頁。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーン人さえいなければ」という住民を揶揄する言葉も知られている上岡『イラン』、291-293頁。また、エスファハーンの人間は訛りが強いことでも知られ、言葉を聞いただけで容易に出身地が判別できるほどだと言われる。.

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オトラル

トラル (Otrar) は、中央アジアの歴史的都市遺跡。シル川中流の右岸、支流アリス川との合流点近く(現カザフスタン南部南カザフスタン州)に位置する。旧称はバーラーブ(Bārāb/Fārāb)。 13世紀にモンゴル帝国により攻略され、徹底的な破壊を受けた。その後復興して数百年にわたって栄えたが、のちに衰亡し、現在は内城の廃墟が残るのみである。.

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オゴデイ

デイ(Ögödei、Ögedei、20px)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日本語表記。元朝によって贈られた諡は英文皇帝、廟号は太宗。 チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。.

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カラハン朝

ラハン朝(カラハンちょう、ペルシア語: قراخانيان Qarākhānīyān)は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝。中央アジアのテュルク(トルコ)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている濱田「カラハン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、147頁。 カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフルを支配した国家である。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、87頁。 カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベク、カザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。タリム盆地のウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンやマフムード・カーシュガリー、ユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。.

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カリフ

イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.

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カトワーンの戦い

トワーンの戦いは、1141年9月9日に起きた、西遼とセルジューク朝・西カラハン朝連合軍の戦闘である。この戦いでセルジューク朝は大敗を喫し、この時からセルジューク朝の衰退が始まる。.

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カスピ海

ピ海周辺の地図。黄色の部分が集水域である カスピ海(カスピかい、、)は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。カスピの名は古代に南西岸にいたカス族あるいはカスピ族に由来する。カスピ海に近い現在のイラン・ガズヴィーン州都ガズヴィーンは同じ語源であると言われる。現代のペルシア語では一般に「ハザール海」دریای خزرと呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサスや黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する(現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」دریای مازندرانとも呼ばれる)。また、トルコ語でも同様の名でHazar Deniziと呼ばれる。中国語では現在に至るまで「裏海」(りかい)と呼ばれる。.

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ガズナ朝

ナ朝(ペルシア語: غزنويان Ghaznaviyān)は、現在のアフガニスタンのガズナ(ガズニー)を首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年/977年 - 1187年)。ガズニー朝ともいう。 ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。その歴史上における重要性は特にインドへの侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。.

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キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

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クチュルク

チュルク(Küčülüg)は、モンゴル高原東部の遊牧集団ナイマン部の王族。西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝。 『遼史』では屈出律、『元史』では曲出律、『元朝秘史』では古出魯克の名で表記されている。ペルシア語表記では『世界征服者の歴史』および『集史』がともにكوچلك خان. Kūchuluk Khān ないしكوشلوك. Kūshulūkと綴る。クチュルクとはテュルク語で küč+lüg 「力ある者」の意味である。日本語表記では「グチルク」とも表記される。.

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クルド人

ルド人(クルドじん、クルド語: Kurd, 英語: Kurds)は、中東のクルディスタンに住むイラン系山岳民族。.

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クトゥブッディーン・ムハンマド

トゥブッディーン・ムハンマド(قطب الدين محمد、Qutb ud-Dīn Muḥammad、? - 1127年)は、ホラズム・シャー朝の君主(在位:1097年 - 1127年)。 アヌーシュ・テギーンの子。アヌーシュ・テギーンの一族の中で、初めてホラズム・シャーの称号を名乗った人物と考えられている井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、126頁。.

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クフナ・ウルゲンチ

フナ・ウルゲンチ(Köneürgenç、کهنه‌گرگانج、Кёнеургенч, Куня-Ургенч)は、旧ウルゲンチとも訳されるトルクメニスタン北東部の都市である。人口は約3万人であり、ウズベキスタンとの国境線に位置する。新ウルゲンチと呼ばれる現在のウルゲンチは、ウズベキスタンの都市となっている。12世紀には、ホラズム・シャー朝の首都として機能していた。2005年に、UNESCOの世界遺産に登録された。.

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グルジア王国

ルジア王国(საქართველოს სამეფო サカルトヴェロス・サメポ)は、1008年ごろに成立した中世の王国。グルジア連合王国、またはグルジア帝国とも呼ばれる。11世紀から13世紀にかけて、ダヴィド4世とタマル女王の治世の下、を現出した。その最盛期には今日のウクライナ南部とイラン北部までを版図に収め、アトス山とエルサレムに修道院を保持した。住民の多くはグルジア語を話す正教徒であり、現代のグルジアの前身となった。 13世紀、王国はモンゴルの侵攻に晒されたが、1340年代に再独立した。しかし、その後も遊牧民がもたらした黒死病とティムールの数回にわたる侵攻に悩まされ、王国の人口は減少、経済は大打撃を受けた。さらに1453年、コンスタンティノープルの陥落により王国の古くからの同盟国である東ローマ帝国が滅亡した。15世紀末までに王国はテュルク系民族とイラン系民族の国に囲まれ、キリスト教のグルジア王国は孤立した。1386年にティムールの侵攻がはじまり、最終的に1466年の王国崩壊をもたらした。無政府状態はその後、1490年に、、カルトリ王国が独立を相互承認するまで続いた。グルジアの再統一は1762年にカルトリ王国とカヘティ王国が統合され、が成立するまで待たなければならない。カルトリ・カヘティ王国はさらに18世紀、ロシア帝国に併合された。.

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コーカサス

ーカサス山脈 コーカサス()、またはカフカース、カフカス( (ラテン文字転写例: Kavkaz)、、、)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。 英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。 コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサスと南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるがヨーロッパに区分されることもある。 全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。 ケフィア発祥の地で、しばしば、この地方の人々は、ケフィアを飲んでいるために長寿であると喧伝されるが、統計的に見て、この地方の人々が長寿であるという科学的根拠はない。.

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ゴール朝

ール朝(ペルシア語: غوريان Ghūrīyān)は、現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いたイスラーム王朝(11世紀初め頃 - 1215年)。グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家という。.

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シハーブッディーン・ムハンマド

ハーブッディーン・ムハンマド(شهاب‌ الدين محمد Shihāb al-Dīn Muhammad, 1149年 - 1206年3月15日)は、ゴール朝のガズナ政権の君主(在位:1173年 - 1206年)。ゴール朝の宗主ギヤースッディーン・ムハンマドの弟で、兄の死んだ1202年からはゴール朝全体の君主ともなった。兄の生前からインド方面の経略をもっぱら担当し、北インドにおける史上最初のムスリム(イスラム教徒)による安定支配を樹立したシハーブッディーンは、インド史の文脈ではもっぱらムハンマド・ゴーリー(محمد غوري Muhammad Ghār&#299)、すなわち「ゴールのムハンマド」という名で知られている。尊称(ラカブ)はムイッズッディーン(معز الدين Mu'izz al-Dīn)とも称した。.

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シルダリヤ川

アラル海とアムダリヤ川(下)、シルダリヤ川(上) シルダリヤ川(シルダリヤがわ、Syr Darya/Sīr-Daryā سیردریا)は、天山山脈の2箇所(キルギスと東部ウズベキスタン)に源を発し、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンを通過して北西へ向かって流れ、北アラル海に注ぐ川である。延長は2,212 km。河口の標高は42m。.

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ジャラールッディーン・メングベルディー

ャラールッディーン・メングベルディー(جلال الدين منكبرتي Jalāl al-Dīn Menguberdī、1199年 - 1231年8月15日)は、ホラズム・シャー朝の第8代スルターン(在位:1220年 - 1231年)。『元史』では札闌丁、『元朝秘史』では札剌勒丁莎勒壇と音写される。.

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ジャラールッディーン・スルターン・シャー

ャラールッディーン・スルターン・シャー(جلال‌الدین محمود سلطانشاه, ? - 1193年)は、ホラズム・シャー朝の第5代君主(在位:1172年 - 1193年)。第4代君主イル・アルスランの子。.

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スルターン

ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.

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セルジューク朝

ルジューク朝 (سلجوقیان, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。.

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タブリーズ

タブリーズ(تبریز; Tabrīz)はイラン北西部の都市。東アーザルバーイジャーン州(東アゼルバイジャン州)の州都。人口は約140万人でイラン第4位。.

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サマルカンド

マルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Самарқанд (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。 ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。.

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第三書館

三書館(だいさんしょかん)は文芸、ノンフィクションを中心とした日本の出版社。.

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遊牧民

遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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講談社現代新書

講談社現代新書(こうだんしゃげんだいしんしょ、Kodansha's new library of knowledge)とは、講談社が発行する教養新書のシリーズである。1964年(昭和39年)4月に創刊した。.

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東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.

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杉山正明

杉山 正明(すぎやま まさあき、1952年3月1日 - )は、静岡県生まれの日本の歴史学者。京都大学文学研究科名誉教授。主要研究テーマはモンゴル時代史、中央ユーラシア史。日本におけるモンゴル史研究の第一人者である。.

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1077年

記載なし。

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1097年

記載なし。

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1127年

記載なし。

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1135年

記載なし。

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1138年

記載なし。

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1141年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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1157年

記載なし。

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1172年

記載なし。

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1189年

記載なし。

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1193年

記載なし。

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1194年

記載なし。

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1197年

記載なし。

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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1200年

記載なし。

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1210年

記載なし。

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1212年

記載なし。

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1215年

記載なし。

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1216年

記載なし。

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1217年

記載なし。

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1219年

記載なし。

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1220年

記載なし。

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1225年

記載なし。

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1227年

記載なし。

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1230年

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1231年

記載なし。

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