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ティムール朝

索引 ティムール朝

ティムール朝(、)は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。 王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。.

156 関係: 同朋舎天文学川口琢司中央アジア中国医学ペルシア人ペルシア語ナクシュバンディー教団ミーラーン・シャーミール・アリー・シール・ナヴァーイーミニアチュールマムルーク朝マー・ワラー・アンナフルチャガタイ・ハン国チャガタイ語チュルク語族チンギス・カンハリール・スルタンハーンバルラスバーブルバーブル・ナーマバディー・ウッザマーンムハンマド・シャイバーニー・ハンムガル帝国ムザッファル・フサインムザッファル朝モンゴル (曖昧さ回避)モンゴル帝国モグーリスタン・ハン国ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホローディー朝ヴォルガ川ボルジギン氏トルキスタントルコ人トルコ・イスラーム文化トゥグルク・ティムールトクタミシュヘラートビービー・ハーヌム・モスクピール・ムハンマド・ジャハーンギールテュルキスタンテュルク系民族ティムールデリーデリー・スルターン朝フレグファールス (イラン)...フサイン・バイカラホラーサーンホラズムホルムズホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟アナトリア半島アミールアムダリヤ川アルメニアアンカラの戦いアブー・サイード (ティムール朝)アブドゥッラー (ティムール朝)アブドゥッラティーフアフガニスタンアゼルバイジャンイランイラン高原イラクイルハン朝インドインダス川イスラム王朝イスラム教ウマル・シャイフ2世ウルグ・ベクウルグ・ベク天文台ウルグ・ベク・マドラサウズン・ハサンウズベキスタンウズベクエンリケ3世 (カスティーリャ王)オアシスオグズオゴデイオスマン帝国カーブルカイドゥカザフスタンキプチャク草原グーリ・アミール廟コーカサスシャリーアシャルル6世 (フランス王)シャー・ルフシャイバーニー朝シーア派ジャハーンギール (ティムール朝)ジョチ・ウルスジョージア (国)スルタン・アフマド (ティムール朝)スーフィズムセルジューク朝ソユルガトミシュタシュケントサマルカンドサライ (都市)サファヴィー朝サドル (イスラム)元 (王朝)竺沙雅章白羊朝遊牧国家遊牧民黒羊朝間野英二鄭和集史東トルキスタン歴史的シリア永楽帝清浄の園文学数学1335年1340年1360年1370年1380年1388年1393年1398年1400年1402年1404年1405年1409年1447年1449年1451年1457年1467年1469年1470年1494年14世紀1500年1503年1506年1507年1511年1512年1526年15世紀16世紀19世紀 インデックスを展開 (106 もっと) »

同朋舎

株式会社図書印刷同朋舎(としょいんさつ どうほうしゃ)は、京都府京都市下京区に本社をおく出版社である。通称は同朋舎。仏教書や人文関係の専門書の出版、受託印刷を行っている。.

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天文学

星空を観察する人々 天文学(てんもんがく、英:astronomy, 独:Astronomie, Sternkunde, 蘭:astronomie (astronomia)カッコ内は『ラランデ歴書』のオランダ語訳本の書名に見られる綴り。, sterrenkunde (sterrekunde), 仏:astronomie)は、天体や天文現象など、地球外で生起する自然現象の観測、法則の発見などを行う自然科学の一分野。主に位置天文学・天体力学・天体物理学などが知られている。宇宙を研究対象とする宇宙論(うちゅうろん、英:cosmology)とは深く関連するが、思想哲学を起源とする異なる学問である。 天文学は、自然科学として最も早く古代から発達した学問である。先史時代の文化は、古代エジプトの記念碑やヌビアのピラミッドなどの天文遺産を残した。発生間もない文明でも、バビロニアや古代ギリシア、古代中国や古代インドなど、そしてイランやマヤ文明などでも、夜空の入念な観測が行われた。 とはいえ、天文学が現代科学の仲間入りをするためには、望遠鏡の発明が欠かせなかった。歴史的には、天文学の学問領域は位置天文学や天測航法また観測天文学や暦法などと同じく多様なものだが、近年では天文学の専門家とはしばしば天体物理学者と同義と受け止められる。 天文学 (astronomy) を、天体の位置と人間界の出来事には関連があるという主張を基盤とする信念体系である占星術 (astrology) と混同しないよう注意が必要である。これらは同じ起源から発達したが、今や完全に異なるものである。.

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川口琢司

川口 琢司(かわぐち たくじ、1959年 - )は、東洋史学者。 北海道生まれ。1982年北海道大学文学部史学科卒業。1993年同大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。1995‐97年財団法人東洋文庫奨励研究員。2006年「ティムール帝国前半期の研究」で北大文学博士。藤女子大学兼任講師。.

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中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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医学

医学(いがく、英:Medicine, Medical science)とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である広辞苑「医学」。 医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な医療を包含する。.

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ペルシア人

古代ペルシヤの貴族と兵士の服装 ペルシア人(ペルシアじん、、)は、中東のイランを中心に住み、ペルシア語を話す人々。イラン系民族の一。.

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ペルシア語

ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی‌, پارسی‌; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.

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ナクシュバンディー教団

ナクシュバンディー教団(英:Naqshbandi,トルコ語:Nakşibendilik)とは、イスラム神秘主義のスーフィー(スーフィズム)の一派である。.

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ミーラーン・シャー

ミーラーン・シャー(میران شاہ、Miran Shah、1366年 - 1408年)は、ティムール朝の王族。王朝の創始者であるティムールの三男であり、ティムールの側室ミンリチェクを母に持つ。ムガル帝国の創始者バーブルはミーラーン・シャーの玄孫にあたる久保『ティムール』、57頁。.

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ミール・アリー・シール・ナヴァーイー

ミール・アリー・シール・ナヴァーイー(مير علی شير نوايی、Mīr ʿAlī Shīr Navā'ī、1441年2月9日加藤『中央アジア歴史群像』、153頁 - 1501年1月3日)は、ティムール朝の政治家・詩人。 ナヴァーイーはチャガタイ語による詩作を好み、チャガタイ文学の確立者と見なされている羽田「ミール・アリー・シール」『アジア歴史事典』8巻、412頁堀川、帯谷「ナヴァーイー」『中央ユーラシアを知る事典』、399-400頁。ティムール朝を代表する文人であり、チャガタイ語を文章語として確立した功績より、ウズベキスタンではソビエト連邦からの独立前から高い評価を受けている。.

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ミニアチュール

ミニアチュール(フランス語:miniature)または彩画(さいが)・細密画(さいみつが)とは、古代・中世の絵付き写本に収録された挿絵である。語源はラテン語のminium(鉛丹)。初期の写本の赤色インクに鉛丹が使われていたことにちなむ。中世のミニアチュールは小さいものが多かったため、「minute(微細な)」などが語源であると誤解され、小さいサイズのイラストを指してミニアチュールと呼ばれるようになった。ミニアチュールの翻訳語として細密画という表現が採用されたのもこれに由来する。.

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マムルーク朝

マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.

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マー・ワラー・アンナフル

マー・ワラー・アンナフル(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。 アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁川口『ティムール帝国』、116頁。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ、その領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈とパミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠とカラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい。 「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドやブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれている。 「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁、イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である。ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた。 7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀のティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた川口『ティムール帝国』、115-116頁。テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる。.

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チャガタイ・ハン国

チャガタイ・ハン国は、13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家(ウルス)である。 モンゴル帝国の建国者であるチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨した。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国とも呼ばれる。内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実権を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。西チャガタイ・ハン国の貴族やティムール朝の創始者ティムールは傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。 チャガタイ・ハン国の軍事力の基盤となった遊牧民たちは王朝の創始者であるチャガタイの名前から「チャガタイ人」と呼ばれ、「チャガタイ」は中央アジアに存在するモンゴル国家を指す言葉として使われるようになるバルトリド『トルキスタン文化史』1巻、216頁。中央アジアで成立したトルコ系の文語は「チャガタイ語(チャガタイ・トルコ語)」と呼ばれ、ティムール朝の時代に確立される。.

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チャガタイ語

チャガタイ語は中央アジアのテュルク系言語を基礎とし、それにペルシア語やアラビア語の語彙語法を加えた言語。チャガタイ・トルコ語とも呼ばれる。現在は死語である。 15世紀のティムール朝の時代を中心に中央アジアとイラン東部で発達した文語で、20世紀まで中央アジア、南ロシアなどの地域で使用された間野「チャガタイ語」『新イスラム事典』、336頁。13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在したチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)に住む遊牧民の総称である「チャガタイ」に由来する濱田「チャガタイ語」『岩波イスラーム辞典』、633頁。.

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チュルク語族

チュルク語族(チュルクごぞく)/突厥語族(とっけつ-)(Turkic languages)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される語族である。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ハリール・スルタン

ハリール・スルタン(خلیل سلطان, 1384年頃ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、76-77頁 - 1411年11月4日)は、ティムール朝の第2代君主(在位:1405年 - 1409年)。王朝の創始者であるティムールの孫で、ティムールの三男ミーラーン・シャーを父に持つ。母のソユン・ベグはジョチ・ウルスの王女でジャーニー・ベクの孫にあたる人物で、先夫ジャハーンギールが没した後にミーラーン・シャーと結婚し、ハリールを生んだ。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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バルラス

バルラス(Barlas)は、中央ユーラシアで活動した部族集団。漢語表記は『元史』では八魯剌思、『元朝秘史』では把舌魯剌、把舌魯剌思。『集史』などのペルシア語表記では برلاس Barlās 。.

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バーブル

バーブル(ظهیرالدین محمد بابُر、Ẓahīr al-Dīn Muḥammad Bābur、1483年2月14日グプタ「バーブル」『世界伝記大事典 世界編』7巻、432-433頁 - 1530年12月26日加藤『中央アジア歴史群像』、139頁)は、北インド、ムガル帝国の創始者であり初代君主(在位:1526年 - 1530年)。ティムール朝サマルカンド政権の君主(在位:1497年 - 1498年)でもある。 16世紀初頭に中央アジアからインドに移り、ムガル帝国を建国した。名前の「バーブル」はトラを意味する。バーブルはティムールの三男ミーラーン・シャーの玄孫であり、母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスはチンギス・カンの次男チャガタイの後裔にあたる。 軍事力に優れた指導者、優れた文人として評価されている。自らの半生を著述した回想録『バーブル・ナーマ』は文学性・史料的価値を高く評価されており、多くの言語に翻訳された。.

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バーブル・ナーマ

バーブル・ナーマ (ラテン文字:Bāburnāma、チャガタイ語/بابر نامہ、「バーブルの書」を意味する。別名:トゥーズキ・バーブリー - Tuzk-e Babri, Tuzk-i Babri) はティムール朝サマルカンド政権の第6代君主であり、ムガル帝国の初代皇帝であるバーブル(1483年 - 1530年)の回想録である。.

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バディー・ウッザマーン

バディー・ウッザマーン(بدیع الزمان、Badi' al-Zaman Mirza、? - 1517年)は、ティムール朝の君主(ミールザー、在位:1506年 - 1507年)。フサイン・バイカラの長子であり、父からホラーサーン地方のヘラートを中心とする政権を継承した。.

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ムハンマド・シャイバーニー・ハン

ムハンマド・シャイバーニー・ハン(ウズベク語: Muhammad Shayboniy, ペルシア語:شایبک خان Muḥammad Shaybānī Khān、1451年 - 1510年12月2日)は、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝の初代ハン。アブル=ハイル・ハンの孫。.

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ムガル帝国

ムガル帝国(ムガルていこく、شاهان مغول、Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれる。首都はデリー、アーグラなど。.

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ムザッファル・フサイン

ムザッファル・フサイン(生没年不詳)は、ティムール朝のヘラート政権の君主(在位:1506年 - 1507年)。 父は初代君主のフサイン・バイカラ。兄弟にバディー・ウッザマーンがいる。1506年に父がムハンマド・シャイバーニー・ハンへの遠征の行軍中に陣没したため、跡を継いだ。しかし、敵に敢然と立ち向かえるような人物ではなかった。1507年にシャイバーニー・ハンがヘラートに侵攻してくると兄弟はヘラートを捨てて逃亡し、ティムール朝は滅亡した。 ムザッファルはその後まもなく死亡した。.

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ムザッファル朝

ムザッファル朝(مظفریان. - モザッファリヤン)は、14世紀にイランに存在していたアラブ系の国家ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、386頁ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、54頁。イラン中央部のヤズドからケルマーン、シーラーズに至る地域を支配していた。.

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モンゴル (曖昧さ回避)

モンゴル (Монгол) 民族.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モグーリスタン・ハン国

モグーリスタン・ハン国(英語:Moghulistan Khanate、トルコ語:Moğolistan Hanlığı)は、1340年代にチャガタイ・ハン国が東西に分裂して成立した東チャガタイ・ハン国の別称。単にモグーリスタン、モグール・ウルスとも呼ばれる。.

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ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ

ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ(Ruy González de Clavijo、生年未詳 - 1412年4月2日)は、カスティーリャ王国の外交官であり、作家である。1403年から1405年にかけて、クラビホはカスティーリャ国王エンリケ3世の命を受け、ティムール朝の創始者であり支配者であったティムールの許を訪問した。旅行の道中に残したメモを元にして綴られた道中記『タメルラン大帝史』は1582年に出版され (Embajada a Tamorlán) 、1859年に英語に翻訳された (Narrative of the Embassy of Ruy Gonzalez de Clavijo to the Court of Timour at Samarcand AD 1403-6)。.

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ローディー朝

ーディー朝(ローディーちょう、、Lodī dynasty)とは、15世紀後半から16世紀初頭にかけてガンジス川流域とパンジャーブ地方を中心に北インドを支配した、デリー・スルターン朝の5番目のアフガン系イスラーム王朝(1451年 - 1526年)。長母音を無視してロディー朝とも呼ばれる。首都はデリー、アーグラ。.

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ヴォルガ川

最上流の町・ルジェフ周辺(1909年から1915年頃のカラー写真) ヴォルガ川流域 ヴォルガ川(ヴォルガがわ、 ヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。.

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ボルジギン氏

ボルジギン氏(Borjigin)は、モンゴル帝国のカアン(ハーン)の家系となったモンゴル部の中心氏族。モンゴル帝国、元の国姓である。 12世紀頃、アルグン川渓谷流域にいた蒙兀室韋(蒙瓦部)の後身で、モンゴル高原北東部において一大勢力を築いたモンゴル部の有力氏族で、ボドンチャルという人物を始祖とする男系から成る。この氏族は史上初めて全モンゴル部族を支配したとされるカブル・カンを出して以来、モンゴル部のカン(王)を独占した。そして13世紀にモンゴルのチンギス・カンがモンゴル高原の全遊牧部族を統一してモンゴル帝国を興してから後はモンゴル高原で最も高貴な氏族とみなされるに至る。チンギス・カンの男系は現在まで連綿と続いているため、現在のモンゴル国や中華人民共和国においても氏族の名は残っている。.

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トルキスタン

トルキスタンに含まれる国家・地域を囲った地図トルキスタンの面積は、インド亜大陸よりも広い テュルク系民族分布 トルキスタン (Turkestan / Turkistan) は今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な地域名称であり、 「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、ロシア語、欧米語に入った。トルケスタン、トゥルケスタン『コンサイス外国地名辞典』、三省堂、1998年4月20日、ISBN 4-385-15338-8、629頁。、トゥルケスターンとも。.

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トルコ人

トルコ人(トルコじん、Türk HalkıあるいはTürkler)は、アナトリア半島とバルカン半島、アラブ諸国の一部に居住し、イスタンブール方言を公用語・共通語とするトルコ語を話すテュルク系の民族である。アゼルバイジャン人やトルクメン人とは民族的に親近関係にある。.

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トルコ・イスラーム文化

トルコ・イスラーム文化は、イラン・イスラーム文化が14世紀のティムール朝時代にトルコ民族の居住していた中央アジアに伝えられて形成された文化。ティムール帝国の都サマルカンドやヘラートに壮大なモスクが建設され、中国から伝えられた画法からミニアチュールが発達し、多数のトルコ語の文学作品が生み出され、また暦法や天文学が発達したことが特徴として挙げられる。.

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トゥグルク・ティムール

トゥグルク・ティムール(? - 1363年)は、チャガタイ・ハン国分裂後に成立したモグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)のハン(在位:1347年/48年濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、98頁 - 1363年)。14世紀半ばに東西に分裂したチャガタイ・ハン国を一時的に再統一したハンとして知られる。.

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トクタミシュ

トクタミシュ(Toqtamish, ? - 1406年)は、バトゥ家断絶後のジョチ・ウルスのハン(在位:1377年、1378年 - 1406年)で、ジョチの十三男トカ・テムルの子孫である。ペルシア語・チャガタイ語資料ではトクタミシュ・ハン توقتاميش خان Tūqtāmīsh Khān と表記され、ロシア語ではトフタムィシ(Тохтамыш; Tokhtamysh)と表記される。ジョチ・ウルス左翼(東部)の小王族からティムール朝の援助を受けてハン位に立ち、分裂していたジョチ・ウルスの再統合と再編を果たすが、のちにティムールと対立し、敗れて没落した。.

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ヘラート

ヘラート(ダリー語: هرات Herāt)は、アフガニスタンの都市。(هري رود - Harī Rūd - ハリー・ルード、Tarius)の河谷に形成された肥沃なオアシスに位置し、古にはワイン生産地として名高かった。国内第3の人口を擁する (2006年の公式推計で349,000人) 同国北西部の最重要都市で、現在はヘラート州の州都である。住民はスンナ派またはシーア派のペルシア語系タジク人中心で、主にダリー語が話される。 アフガニスタン北西部からイラン北東部、トルクメニスタン南部にまたがったホラーサーン地方の東部に位置し、中央アジアとインド亜大陸、西アジアを結ぶ重要な交易路上にあって古来より栄え「ホラーサーンの真珠」とその繁栄を謳われた。ペルシア語系タジク人が住民の多数を占めることからもうかがえるように、ヘラートを含むアフガニスタン北西部のハリー・ルード水系地域は、歴史的にはアフガン(パシュトゥーン)よりもイランの文化圏に属した。その歴史の古さは、古代ペルシア帝国の碑文に名が記されているほどで、現在も多くの歴史的建造物に恵まれている。もっとも、多くの遺跡が近年の激しい内戦によって損傷を受けている。ヘラートからイラン、トルクメニスタン、マザーリシャリーフ、カンダハールに通じる複数の幹線道路は、現在もなお戦略的に重要である。.

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ビービー・ハーヌム・モスク

ビービー・ハーヌム・モスク (ラテン文字:Bibi-Khanum Mosque、مسجد بی بی خانم、Bibi-Xonum machiti、ビビ・ハヌム・モスクとも表記) はウズベキスタンのサマルカンドにあるモスクである。モスクの名前は14世紀にサマルカンドを支配したティムールの妻の名前より採られている。.

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ピール・ムハンマド・ジャハーンギール

ピール・ムハンマド・ジャハーンギール(1376年 - 1407年)は、ティムール朝の王族。ティムールの子ジャハーンギールの子。母はチャガタイ・ハン国のハン・バヤン・クリの娘ハニケ、あるいはヤサウリー部族出身のバフト・ムルクと考えられている。 過度の飲酒を好む人物と伝えられている。1404年にサマルカンドを訪れたカスティーリャ王国の使者ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホは、ピール・ムハンマドの容姿について、黄褐色の肌をした髭の無い人物と記録している。.

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テュルキスタン

テュルキスタン(Türkistan) (カザフ語ではТүркістан)は、カザフスタン共和国南カザフスタン州の都市。 シルダリヤ川に近く、かつては康居の都があった。トランス・アラル鉄道が通り、タラズの160km北に位置している。シムケントからは車で約2時間。かつての市名はヤシ(Yasi)。.

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テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

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ティムール

ティムール(تيمور Tīmūr/Taymūr, 1336年4月8日 - 1405年2月18日)は、中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)。 中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した羽田「ティームール」『アジア歴史事典』6巻、422頁。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。.

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デリー

デリー連邦直轄地(デリーれんぽうちょっかつち、दिल्ली 、Delhi )は、インドの首都特別地域である。面積1,483km2、人口は1,679万人で、インド北部の大都市圏を形成しており、同国の商業・工業・政治の中心地にして南アジアを代表する世界都市の一つ。.

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デリー・スルターン朝

デリー・スルターン朝(デリー・スルターンちょう、Delhi Sultanate)は、13世紀初頭から16世紀初め(1206年 - 1526年)までの約320年間デリーを中心に主として北インドを支配した5つのイスラーム王朝の総称。名称に関しては、デリー・スルタン朝、デリー諸王朝、デリー・サルタナットなど様々ある。.

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フレグ

フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku 『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。.

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ファールス (イラン)

ファールスの位置(FARSISTAN) ファールス(ペルシア語: فارس Fārs、英語:Fars)は、イラン南部の歴史的地域名。現在のファールス州を中心とした地方を指す。.

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フサイン・バイカラ

フサイン・バイカラ(スルターン・フサイン・バイカラ、 سلطان حسین بایقرا Sulṭān Ḥusayn Bāy-Qarā、1438年 - 1506年5月4日 )は、ティムール朝の君主(在位:1469年 - 1506年)。スルタン・フサイン・ミールザー( سلطان حسين ميرزا Sulṭān Ḥusayn Mīrzā)とも呼ばれる。ヘラートを中心としてホラーサーン地方を支配する政権を建てた。.

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ホラーサーン

ホラーサーン(、Khorasan)は、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。「太陽の登るところ」を意味する。現在はラザヴィ・ホラーサーン州の州都となっている。.

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ホラズム

ホラズム(Xorazm)は、中央アジア西部に位置する歴史的地域。漢字では花剌子模と表記する。.

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ホルムズ

ホルムズ(Hormuz、オルムズ)はペルシャ湾で10世紀から17世紀に存在したホルムズ王国の港湾都市。オマーン湾からホルムズ海峡を望むとララク島、ホルムズ島、ケシム島がある。.

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ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟

ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟(Қожа Ахмет Яссауи кесенесі)は、カザフスタン南部のテュルキスタン市にある、未完成に終わった廟建築である。12世紀に活躍したスーフィー(聖者)であるホージャ・アフマド・ヤサヴィーと、歴代のヤサヴィー教団の指導者の墓が置かれている。中央アジアのイスラム教徒の聖地の一つであり、草原地帯ではヤサヴィー廟への参詣はメッカ巡礼に勝る善行と見なされていた堀川「ヤサヴィー」『中央ユーラシアを知る事典』、513-514頁。 カザフスタンにおけるユネスコの世界遺産第1号であり、2003年に指定された。.

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アナトリア半島

アナトリア半島(アナトリアはんとう、Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリアであり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(Μικρά Ασία, Mikra Asia, Asia Minor)とも言う。.

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アミール

アミール()は、イスラム世界で用いられる称号である。君主号のひとつとしても用いられる。.

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アムダリヤ川

アムダリヤ川(アムダリヤがわ、ペルシア語:آمودریا, Āmū Daryā)は、パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈から発するパンジ川とヴァクシュ川が合流し、北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。延長2574km、全長1415km「シルクロードの古代都市」P6, 8。.

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アルメニア

アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。.

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アンカラの戦い

アンカラの戦い(アンカラのたたかい、英語:Battle of Ankara)は、1402年7月20日にアンカラ近郊において、バヤズィト1世率いるオスマン朝軍とティムール率いるティムール朝軍の間で行われた戦闘。.

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アブー・サイード (ティムール朝)

アブー・サイード(1424年 - 1469年)は、ティムール朝の第7代君主(在位:1451年 - 1469年)。初代君主ティムールの三男でアゼルバイジャン・タブリーズのアミールであったミーラーン・シャーの孫にあたる。.

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アブドゥッラー (ティムール朝)

アブドゥッラー(? - 1451年)は、アブドゥッラー・ミズラといい、ティムール朝の第6代君主(在位:1450年 - 1451年)である。第3代君主シャー・ルフの子でファールス地方の支配者であったイブラーヒーム・ミズラの子である。 アブドゥッラティーフにより投獄されるが、暗殺後支持者により釈放されて、サマルカンド政権の支配者となる。しかし、翌年反乱を起こしたアブー・サイードに敗れ、処刑された。.

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アブドゥッラティーフ

アブドゥッラティーフ(Abd al-Latif ibn Muhammad Taraghay Ulughbek, 1420年頃? - 1450年5月9日)は、ティムール朝の第5代君主(在位:1449年 - 1450年5月)。.

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アフガニスタン

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・中央アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。 パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。.

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アゼルバイジャン

アゼルバイジャン共和国(アゼルバイジャンきょうわこく、)、通称アゼルバイジャン は、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。北はロシア、北西はジョージア(グルジア)、西はアルメニア、南はイランと国境を接し、東はカスピ海に面する。アルメニアをまたいで西南方に飛地のナヒチェヴァン自治共和国があり、アルメニア、イランおよびトルコと接している。首都はバクー。アルメニア人が多数居住する西部のナゴルノ・カラバフ地方は、事実上独立した状態となっている。.

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イラン

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。.

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イラン高原

イラン高原(イランこうげん、)は、中東イランの北部一帯の高原である。ペルシア高原またはペルシャ高原とも呼ぶ。カビール砂漠が広がるが、首都テヘランの南にはナマク湖(Daryacheh-ye Namak) という塩湖がある。 イラン中部から東はアフガニスタン、パキスタンにまたがる盆地状の高原が広がっている。北部にはエルブールズ山脈、ヒンズークシ山脈、南西部にザグロス山脈が連なっており、気候は乾燥気候。砂漠・ステップが広がっており、塩湖やワジが多く存在する。.

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イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく、、)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。.

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イルハン朝

14世紀のフレグ・ウルスとその周辺国 イルハン朝(ペルシア語: ايلخانيان Īlkhāniyān、英語:Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1256年/1258年 - 1335年/1353年)。首都はタブリーズ。.

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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インダス川

インダス川(ヒンディー語、サンスクリット: सिन्धु、دریائے سندھ、シンド語: سندھو、パンジャーブ語:سندھ、ペルシア語:حندو、パシュトー語:ّآباسن、チベット語: Sengge Chu、中国語: 印度河、ギリシア語: Ινδός)は、インド亜大陸を流れる主要河川。 チベット自治区のマーナサローワル湖の近くのチベット高原から始まり、ジャンムー・カシミール州のラダックを通る。その後、パキスタンに入ってギルギット・バルティスタン州を通り、パンジャーブ州を南に抜け、シンド州に入り、パキスタンの港都市カラチの近くのアラビア海に注いでいる。インダス川の長さは3,180Kmで、パキスタン最大の河川である。インダス川本流の93%はパキスタン領内であり、5%がインド、2%が中国領を流れる。 インダス川の流域面積は1,165,000Km2以上である。一年間に流れる水の量は、約207Km3と推定され、世界で21番目である。氷河が広がる標高から始まり、温帯樹林の生態系、平野、乾燥地帯を作っている。チェナーブ川、、サトレジ川、ジェルム川、ビアース川及び北西辺境州とアフガニスタンから流れる2つの支流と共にシンドゥ七大河のデルタを形成する。.

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イスラム王朝

イスラム王朝(イスラムおうちょう)とは、ムスリム(イスラム教徒)の皇帝や国王が支配する国家である。ムハンマドの指導によりムスリムたちがイスラム教の教えの下に結束して、アラビア地域をはじめとする西アジア周辺のオリエント全域に興した国が最初で、分裂したり、新たに建国されたり、征服活動や貿易活動などにより、さまざまな地域にイスラム教が伝播し、北アフリカ、東アフリカ、西アフリカ、中央アジア(トルキスタン)、スペイン、インド、マレーシア、インドネシアにもイスラム王朝が誕生した。 中でもイスラム世界の中心的なイスラム王朝をイスラム帝国と呼ぶ。 カリフやスルタンを擁する中近東に拠点を置いた中心的な大帝国を築いた正統カリフ4代とウマイヤ朝、アッバース朝を代々まとめてサラセン帝国(ヨーロッパで使われていた呼称)、大食(唐で使われていた呼称)という。この大帝国をイスラム帝国と呼ぶことが多く、特にアッバース朝が真のイスラム帝国と考えることができる国家体制を築き上げた。 西アジア周辺ではイスラム教による厳格な律法が支配し、異教徒に対する団結とジハードが徹底して行われ、逆にムスリム同士及び服従した属領との間であれば寛容な政策が行われることがほぼ共通していた。そのため、ユーラシア大陸のほぼ中央を支配していた地の利も幸いして文物の交流が空前の規模で行われ、イスラムの諸帝国は世界の他の地域に比べ抜きんでた発展を遂げ、イスラム世界が世界の広い地域に広がった。のちにその技術や科学、思想が異教世界にも広がり、ヨーロッパのルネッサンスやインドのシク教などのきっかけともなった。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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ウマル・シャイフ2世

ウマル・シャイフ2世(Umar Shaikh II, 1456年 - 1494年6月10日)は、ティムール朝、フェルガナの君主。ムガル帝国の初代君主バーブルの父でもある。.

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ウルグ・ベク

ウルグ・ベク(میرزا محمد طارق بن شاہرخ الغ‌بیگ Mīrzā Muhammad Tāraghay bin Shāhrukh Uluġ Beg、漢籍:兀魯伯 1394年3月22日川口『ティムール帝国』、190頁 - 1449年10月27日前嶋「ウルグ・ベグ」『世界伝記大事典 世界編』2巻、246-2148頁)は、ティムール朝の第4代君主(在位: 1447年 - 1449年)。ティムールの四男シャー・ルフの長男。幼名はムハンマド・タラガイ()。 文人・学者の保護者となったウルグ・ベクは自身も優れた天文学者・数学者・文人であり植村「ウルグ・ベグ」『アジア歴史事典』1巻、350頁、統治者としての事績よりも学者としての事績を高く評価されている堀川「ウルグ・ベク」『中央ユーラシアを知る事典』、83,87頁ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、89頁。ウルグ・ベクによって統治されたサマルカンドでは王族や有力者による建設事業が盛んに行われ、町に集まった多くの学者が天文学、数学、暦学などの分野で成果を挙げた。ウルグ・ベクの治世はトルキスタン文化の黄金期と呼ばれている。ウルグ・ベクの生誕600周年にあたる1994年は「ウルグ・ベクの年」に指定され、様々な式典が行われた。.

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ウルグ・ベク天文台

ウルグ・ベク天文台 (Ulugh Beg Observatory) はウズベキスタンのサマルカンドにある天文台である。ウルグ・ベク天文台はティムール朝の君主であり、天文学者でもあったウルグ・ベクにより1420年代に建設され、中世イスラム世界において有数の天文台とされている。ウルグ・ベク天文台にはジャムシード・カーシーや、そしてウルグ・ベク本人といった、中世イスラム世界の有名な天文学者が多数勤務していた。ウルグ・ベク天文台はウルグ・ベクの死後1449年に大部分が破壊され、約450年後の1908年に地下部分が発見されることとなった。.

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ウルグ・ベク・マドラサ

ウルグ・ベク・マドラサ ウルグ・ベク・マドラサ(英語:Ulugh Beg Madrasah, 現代トルコ語:Uluğ Bey Medresesi)とは、ティムール朝第4代君主ウルグ・ベク(1394年 - 1449年)によって現在のウズベキスタンのサマルカンドに建てられたマドラサ(神学校)。.

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ウズン・ハサン

ウズン・ハサン(Uzun Ḥasan, 1423年 - 1478年1月6日)は、白羊朝のスルタン。1453年から1478年までの間、現在のイラン西部、イラク、トルコ東部、アゼルバイジャン、アルメニアを統治した。白羊朝の英主として有名である。本名はアブー・ナスル・ハサン・ベグ(Abū Naṣr Ḥasan Beg)であり、トルコ語で「背の高い」を意味する「ウズン(Uzun)」の形容詞を付けた名前で呼ばれる井谷(2002)p.198羽田 (1990) p.18。.

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ウズベキスタン

ウズベキスタン共和国(ウズベキスタンきょうわこく、)、通称ウズベキスタンは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和国。首都はタシュケント(タシケント)。 北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接する。国土の西部はカラカルパクスタン共和国として自治を行っており、東部のフェルガナ盆地はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいる。 国境を最低2回越えないと海に達することができない、いわゆる「二重内陸国」の1つである。.

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ウズベク

ウズベク(O‘zbek, Узбек, Uzbek)は、西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族で、容貌的にはモンゴロイドを基本としてコーカソイドが濃厚に入り混じっている。 民族国家として、中央アジアでもっとも人口の集中したマー・ワラー・アンナフル地方の大半を領土とするウズベキスタン共和国を持つほか、中国の新疆ウイグル自治区とアフガニスタンの北部マザーリシャリーフ周辺にもそれぞれ数十万人が住む。.

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エンリケ3世 (カスティーリャ王)

ンリケ3世(スペイン語:Enrique III, 1379年10月4日 - 1406年12月25日)は、カスティーリャ王国(トラスタマラ朝)の国王(在位:1390年 - 1406年)。「病弱王」(el Doliente)と呼ばれる。カスティーリャ王フアン1世とその王妃であったアラゴン王ペドロ4世の王女レオノールの息子。アラゴン王フェルナンド1世は弟である。.

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オアシス

アシス(リビア) オアシス(英語:Oasis)とは砂漠・ステップなど乾燥地域における緑地。英語読みはオウエイスィス。.

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オグズ

ペチェネグ汗国とその周辺国。中央右下がオグズ葉護国(OĞUZ YABGULUĞU) オグズ(Oghuz)は、かつて中央アジアの北部に存在したテュルク系遊牧民族。10世紀以降になると南下してトゥルクマーン(「テュルクに似たもの」の意)という名で呼ばれるようになり、その一部はセルジューク朝などのイスラーム王朝を建てた。.

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オゴデイ

デイ(Ögödei、Ögedei、20px)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日本語表記。元朝によって贈られた諡は英文皇帝、廟号は太宗。 チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カーブル

ーブル市(カーブルし、)は、アフガニスタンの首都、カーブル州の州都。日本の主だった報道機関各社は「カブール」という呼称を用いているが、学術的にも一般的にも「カーブル」が妥当である。現地語での発音も「カーブル」に近い。 ヒンドゥークシュ山脈の南縁、カイバル峠の麓の沿いの狭小な丘陵に位置する標高約1,800mの町。商業が非常に活発であるほか、皮革・家具・ガラス工業、テンサイ糖の生産なども行われる。アフガニスタンの経済的・文化的中心地で国内最大の都市である。1931年に開学された同国を代表する最高学府である国立カーブル大学はこの都市にある。ガズニー、カンダハール、ヘラート、マザーリシャリーフとアフガニスタン国内を一周する環状の高速道路で結ばれている。 3000年以上の歴史を持ち、古くから"文明の十字路"と呼ばれた。現在、数十年続いた戦災からの復興の途上にある。カトマンズと並び、ヒッピーの聖地と言われていた時期もある。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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カザフスタン

フスタン共和国(カザフスタンきょうわこく、)、通称カザフスタンは、中央アジアの共和制国家である。北をロシア連邦、東に中華人民共和国、南にキルギス、ウズベキスタン、西南をトルクメニスタンとそれぞれ国境を接する内陸国。カスピ海、アラル海に面している。首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ。.

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キプチャク草原

プチャク(欽察)草原の範囲(カザフ語) キプチャク草原(キプチャクそうげん)は、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの歴史的呼称。ペルシア語のダシュティ・キプチャーク(دشت قپچاق、Dasht-i Qipchāq)の訳語で、この地域に11世紀から13世紀にかけてテュルク系遊牧民キプチャク(別名クマン、コマン、ポロヴェツ)が活動したことからこのように呼ばれるようになった。ラテン語の記録では「クマニア」(Cumania)・「コマニア」、古東スラヴ語・ルーシ語の記録では「ポロヴェツ草原」(Половецкая степь)と呼ばれる。中国語の記録では欽察草原(きんさつそうげん)と呼ばれる。.

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グーリ・アミール廟

ーリ・アミール廟 (グーリ・アミールびょう、ラテン文字:Gūr-e Amīr, Guri Amir、گورِ امیر) はウズベキスタンのサマルカンドにある、ティムール朝建国者のティムールおよびその家族の霊廟である。グリアミール廟とも表記する。グーリ・アミール廟は、後代に建設されたデリーのフマーユーン廟やアーグラのタージ・マハルのような素晴らしいの礎を築くこととなった、テュルク・ペルシア建築史上の重要な建築物である。グーリ・アミールはこれまでに大規模な修復が行われている。.

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コーカサス

ーカサス山脈 コーカサス()、またはカフカース、カフカス( (ラテン文字転写例: Kavkaz)、、、)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。 英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。 コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサスと南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるがヨーロッパに区分されることもある。 全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。 ケフィア発祥の地で、しばしば、この地方の人々は、ケフィアを飲んでいるために長寿であると喧伝されるが、統計的に見て、この地方の人々が長寿であるという科学的根拠はない。.

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シャリーア

ャリーア(شريعة Shari'a)は、コーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とする法律。1000年以上の運用実績がある。ローマ法を起源としないイスラム世界独自のものである。イスラム法、イスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。 シャリーアはコーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とし、イスラム法学者が法解釈を行う。イスラム法を解釈するための学問体系(イスラム法学)も存在し、預言者ムハンマドの時代から1000年以上、法解釈について議論され続けている。法解釈をする権限はイスラム法学者のみが持ち、カリフが独断で法解釈をすることはできないとされる。預言者ムハンマドの言行録はハディースとよばれ預言者の言行に虚偽が混ざらぬように、情報源(出典)が必ず明記される。 シャリーアは民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法(スィヤル)、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。シャリーアのうち主にイスラム教の信仰に関わる部分をイバーダート(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(法的規範)と分類する。イバーダートは神と人間の関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラートは社会における人間同士の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。 また、イスラム共同体(ウンマ)は、シャリーアの理念の地上的表現としての意味を持つとされる。 シャリーアが六法全書と国際法を合わせたような性格を持つようになったのは、預言者ムハンマド自身が軍の指揮官であり国家元首であったことが大きく関わっている。 シャリーアでは、異教徒との戦闘において、異教徒に「ジズヤ(人頭税)を払う」と言われてしまうと、カリフには講和を拒否する権利がない。 日本語で読める原典に、アブドル=ワッハーブ・ハッラーフ『イスラムの法 法源と理論』(中村廣治郎訳、東京大学出版会、1984年)と、イブン・ザイヌッディーン『イスラーム法理論序説』(村田幸子訳解説、<イスラーム古典叢書>岩波書店、1985年)がある。.

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シャルル6世 (フランス王)

ャルル6世(Charles VI, 1368年12月3日 - 1422年10月21日)は、フランス・ヴァロワ朝の第4代国王(在位:1380年 - 1422年)。第3代国王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。親愛王(le Bienaimé)、狂気王(le Fol, le Fou)と呼ばれた。1385年にイザボー・ド・バヴィエールを王妃に迎えている。.

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シャー・ルフ

ャー・ルフ(ペルシア語: Šāhrukh Mīrzā、英語:Shah Rukh、漢籍:沙哈魯 1377年8月30日 - 1447年3月12日)は、ティムール朝の第3代君主(在位:1409年 - 1447年)。.

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シャイバーニー朝

ャイバーニー朝(シャイバーニーちょう、、、)は、15世紀 - 16世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスの系譜を引く遊牧集団ウズベクによって建てられたため、ウズベク・ハン国、ウズベク・ウルスとも呼ばれるが、ブハラを首都としたため、続くジャーン朝、とともにブハラ・ハン国とも呼ばれる。また、ホラズム地方のウルゲンチを首都とした政権もシャイバーニー朝であるが、こちらはウルゲンチのシャイバーニー朝、もしくはヒヴァ・ハン国と呼んで区別する。シャイバーン朝とも表記される。.

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シーア派

ーア派(アラビア語:、ラテン文字転写:)は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派(スンニ派)である。 7世紀のカリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。.

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ジャハーンギール (ティムール朝)

ャハーンギール(1356年? - 1376年)は、ティムール朝の建国者ティムールの息子。ティムールの後継者として期待されたが、父に先立って没した。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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スルタン・アフマド (ティムール朝)

ルタン・アフマド(生年不詳 - 1494年、在位:1470年 - 1494年)は、ティムール朝サマルカンド政権の初代君主。後にムガル帝国を築いたバーブルは甥にあたる。.

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スーフィズム

ーフィーの回旋舞踊 スーフィズム(صوفية, )とは、イスラム教の神秘主義哲学である。.

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セルジューク朝

ルジューク朝 (سلجوقیان, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。.

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ソユルガトミシュ

ユルガトミシュ(? - 1388年)は、ティムールによって擁立された西チャガタイ・ハン国の君主(在位:1370年 - 1388年)。かつて西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンがハンとして擁立し、その後殺害したダーニシュマンドの息子で、オゴデイ系の人物川口琢司『ティムール帝国』p.53。 1366年頃から活動が史料上に見られ、ティムール配下の優秀な武将であった。 ティムールの覇権が確立した1370年に西チャガタイ・ハン国の名目上の君主として擁立された。 1388年、病没。.

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タシュケント

タシュケント(Toshkent, Тошкент 、Ташкент, Tashkent, )は、ウズベキスタンの首都。ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。 都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。ペルシア語表記では (Tāshkand) であり、タシケントと表記されることも多い。.

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サマルカンド

マルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Самарқанд (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。 ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。.

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サライ (都市)

ライ(バトゥ・サライ、旧サライ、 Sarai Batu、 Old Sarai、 Sarai-al-Maqrus、 Saraj、 Saray) は、13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配したモンゴル遊牧政権、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の首都だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。 都市の名はペルシャ語で館・宮殿・オアシス・故郷などを意味するサラーイ(sarā(i))から来ている。漢字では「薩来」と表記される。.

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サファヴィー朝

ファヴィー朝(ペルシア語:صفويان Safaviyān)は、16世紀から18世紀前半にかけてペルシア (現在のイランを中心とした地域)を支配したイスラーム王朝(1501年 - 1736年)。.

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サドル (イスラム)

ドル(صدر sadr)は、イスラム世界において、称号や官職名、人名の一要素として使われるアラビア語起源の語彙。アラビア語で、原義は「胸」、「心」といった意味であり、歴史的なペルシア語文化圏であるトルコ・イラク・イランから中央アジアにかけての東方イスラム世界では、「中心」の語義から転じて最高責任者、首席のことを指すのに使われている。 サドルの語は古くから貴人の尊称として使われ、政府の宰相やイスラムの宗務に関係する指導者に対して用いられた。後の時代になって13世紀から14世紀にイルハン朝の宗主権下でヘラートを支配したクルト朝によって宗務を監督する官職の名として用いられ始め、続くティムール朝のもとで中央アジアからイラン方面まで広まる。官職としてのサドルは、イマーム(礼拝の指導者)やカーディー(法官)、ムフタスィブ(監督官)などのイスラム法(シャリーア)に関わる領域を職務とする役職の任免を担い、ワクフ(宗教寄進財)の管理運営を監督するなど、シャリーアによって律せられたイスラム社会における社会生活・信仰を管轄する宗務の最高官として機能した。サドルの権限は、サイイド(預言者の聖裔)やウラマー(イスラム学識者)などの社会の指導層を事実上統括するものであり、東方イスラム世界を特徴づける定住民と遊牧民の共存支配体制においては、定住民社会の民政の最高責任者であった。サドルは各都市に一人から複数が置かれ、多くの場合その土地のサイイドやウラマーの名門家系によって世襲されていた。 ティムール朝解体後イラン高原に興ったサファヴィー朝でもその国家体制は基本的に共通しておりサドルが設置されたが、中央政府にサドルが置かれた点が異なる。中央のサドルはサファヴィー朝の支配権が及ぶ領内の全てに対して権限を持ち、広大なサファヴィー朝領全域の宗教関係の職務の最高責任者として強い力をもった。 一方、ティムール朝と同じ頃勃興したオスマン帝国では、「偉大」を意味するアザム(azam)を付した「サドラザム」(Sadrazam)という語が君主に代わって政治・軍事の全権を担った大宰相のことをいい、「両サドル」(sadrayn)といえば2人の首席法官を指した。 また、イラン方面ではシーア派(十二イマーム派)の有力者の人名の一要素としてサドルの語が使われ、イラク中部のシーア派の聖地カーズィマイン出身の十二イマーム派ウラマー名家のサドル家が有名である。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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竺沙雅章

沙 雅章(ちくさ まさあき、1930年3月14日 - 2015年10月2日)は、中国史学者、京都大学名誉教授。京都府出身。 京都府船井郡三ノ宮村(後の京丹波町)粟野の曹洞宗無動寺に生まれる。三ノ宮国民学校六年の時得度して雅章、初名幹雄。1943年旧制園部中学で入学し、1949年新制の園部高校で卒業。1953年京都大学文学部卒、同大学院、1958年単位取得退学、京都大学人文科学研究所助手(司書系)、同研究所助教授から、1968年京都大学文学部助教授(教授佐伯富・佐藤長・萩原淳平)、1980年「宋代仏教社会史研究」で京大文学博士。1981年島田虔次退官後同教授、1989年谷川道雄退官を受けて教室主任、1993年3月定年退官、名誉教授、同4月大谷大学教授。2001年退任。 中国仏教史研究会を組織し、研究活動を続けた。.

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白羊朝

白羊朝が赤、薄オレンジがウズン・ハサンの征服地、黄緑が属国 白羊朝(はくようちょう、ペルシャ/アゼリー語:آق قویونلو)は、チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配したテュルク系のイスラム王朝(1378年 - 1508年)。王朝の基礎となったのはトゥルクマーンと呼ばれるテュルク系遊牧民で、バヤンドル部族から出た君主を中心とする部族連合をもととする遊牧国家であった。日本語名として広く用いられている白羊朝は、トルコ語でこの部族連合がアク・コユンル(Akkoyunlu)、すなわち「『白い羊』に属する者」と呼ばれたことに由来する直訳名称である。.

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遊牧国家

遊牧国家(ゆうぼくこっか)とは、遊牧民が支配階層を形成して組織された国家のこと。面的に広がる集約農耕の展開が困難ではあるが、遊牧による牧畜に適した乾燥地帯が広がる中央アジア、イラン高原などに多く存在した。 有史以来、遊牧国家を築いたのは、紀元前9世紀、中央ユーラシアのキンメリアとスキタイである。ただし彼らはその地に安住することはなかったので、国家と呼べるかは謎である。一方イラン高原では、ペルシア系の民族が団結して遊牧国家を築いていく。紀元前6世紀にアケメネス朝が成立し、遊牧国家の基礎が造られた。しかし本格的な遊牧国家としては、8世紀の回鶻可汗国の誕生を待たなくてはならない。回鶻可汗国は遊牧国家としてはじめて都城を建設し、国家体制を整えた。そして、その後に現われたモンゴル帝国の成立によって遊牧国家は完成された。 モンゴル帝国が北ユーラシアを征服し空前の大国家を築いたことは、分裂していた東洋と西洋を結びつけ、世界史と言う言葉が誕生した要因となった。その体制は、パクス・モンゴリカといわれるモンゴル人による覇権と平和の時代を生み出した。しかし広大な国家は、領土が分割相続されたことや、政権を構成する諸部族が分裂抗争するなどにより、緩やかな連合政権の形状を保ちつつも次第に統一政権の形を弱めていき、わずか1世紀あまりで後継諸政権に分裂した。.

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遊牧民

遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.

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黒羊朝

黒羊朝(こくようちょう、ペルシャ/アゼリー語:قرا قویونلو)は、イラク北部から東部アナトリアを経てアゼルバイジャン、イラン西部に広がる遊牧地帯を支配したテュルク系のイスラム王朝(1375年 - 1468年)。トゥルクマーンと呼ばれるテュルク系遊牧民の部族連合をもととする遊牧国家であり、王朝名はトルコ語でこの部族連合がカラ・コユンル(Karakoyunlu/Qara Qoyunlu)、すなわち「『黒い羊』に属する者」と呼ばれたことに由来する直訳名称であるが、語源は不明である羽田「カラコユンル」『岩波イスラーム辞典』、286頁。.

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間野英二

間野 英二(まの えいじ、1939年2月7日 - )は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授、日本学士院会員。.

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鄭和

鄭 和(てい わ、, 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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東トルキスタン

東トルキスタン(ひがしトルキスタン)は、テュルク(突厥)系民族が居住する中央アジアの地域で、テュルクの土地を意味するトルキスタンの東部地域を指す地域概念である。 トルキスタンは、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割しており、西トルキスタンにはトルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキスタン(ただし、タジキスタンの主要言語であるタジク語はテュルク諸語ではなく、インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属する近世ペルシア語の方言である)が含まれる。 トルキスタンに含まれる国家・地域を囲った地図。区切られたうち右部分が東トルキスタン 漢民族視点の呼称に「新疆」があり、中華民国は1912年からこの地を新疆省としている。1949年に中華人民共和国に侵略されると、新疆ウイグル自治区と命名された。中国領トルキスタン、ウイグルスタン、東トルケスタンとも呼ばれる。 南にチベット自治区および青海省、東に甘粛省、北東にモンゴル国と接しており、北西から南西にかけては、カザフスタン、キルギス、タジキスタン等西トルキスタン地域と呼称される旧ソビエト連邦領中央アジア諸国、インド・パキスタン間で係争中のカシミール(アクサイチン)地方などと接している。.

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歴史的シリア

マン帝国時代のシリアを示した地図。歴史的シリアに当たる領域が含まれている。 歴史的シリア(れきしてきシリア)は、大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。イスラーム勃興時代からアラビア語でシャーム地方(bilād al-Shām)と呼ばれた地域はほぼこの範囲に該当する。 なお、このシャームという単語は、単に地中海の東部沿岸地方のみを指したり、シリアの首都ダマスカスを指す場合もある。ヨーロッパではレバントとも訳される。 考古学によれば歴史的シリアは人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。1975年に発掘された古代都市エブラの発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の紅海から北はアナトリア、東はイラクに及ぶアッカドが広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古のセム語であると考えている。 時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、マケドニア人、ローマ人、ナバタイ人、ギリシャ人、アラブ人、十字軍、モンゴル人、テュルク人によって支配された。歴史的シリアはまた宗教にとって重要な役割を果たした。古代末期に築かれた港町アンティオキアはシルクロードの西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、ユーラシア大陸における東西の交易路の拠点として繁栄した。 第一次世界大戦の後、オスマン帝国は解体され、1922年国際連盟において、シリアをイギリスとフランスの二国が分割、支配することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方とパレスチナ地方を奪い、フランスは現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンを奪った。 フランスが植民地に組み込んだ地域はシリアの名前を継承して1941年に独立を宣言したが、すぐには承認されず、1944年1月1日国際的に承認された。フランス植民地時代にアンティオキア(現・アンタキヤ)周辺の北西地域はトルコに割譲され、現在ではトルコのハタイ県となっているが、この地域も歴史的シリアの一部である。.

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永楽帝

永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。.

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清浄の園

『清浄の園』(せいじょうのその、 روضة الصفاء Rawḍat al-Ṣafā')は、15世紀末にティムール朝の都ヘラートで書かれた歴史書。全7章で構成されており、天地創造からティムール朝までの歴史を記す。著者は(1433年 - 1498年)。題名はペルシア語で『ラウザトゥ=ッサファー(Rawżat al-Ṣafā')』。正式名称は『諸預言者・諸王・諸カリフの行状における清浄なる庭園』( روضة الصفا في سیرة الانبياء والملوك والخلفاء Rawḍat al-Ṣafā' fī Sīrat al-Anbiyā' wa al-Mulūk wa al-Khulafā')。日本語訳としては『清浄園』、『清浄の楽園』、『清浄の庭園』、『清浄なる庭園』などと表記される。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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文学

ジャン・オノレ・フラゴナール『読書する女』(1772年) 文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品のこと。文芸ともいう。それらを研究する学問も文学と称されるが、これについては文芸学で扱う。狭義には、詩・小説・戯曲・随筆・文芸評論などを典型的な文学の例とする。 西洋での文学(、、、、)はラテン語のlittera(文字)及びその派生語litteratura(筆記、文法、教養)を語源とし、現在では主に以下の意味を持つ。.

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数学

数学(すうがく、μαθηματικά, mathematica, math)は、量(数)、構造、空間、変化について研究する学問である。数学の範囲と定義については、数学者や哲学者の間で様々な見解がある。.

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1335年

記載なし。

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1340年

記載なし。

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1360年

記載なし。

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1370年

記載なし。

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1380年

記載なし。

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1388年

記載なし。

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1393年

記載なし。

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1398年

記載なし。

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1400年

14世紀の最後でもある。.

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1402年

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1404年

記載なし。

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1405年

記載なし。

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1409年

記載なし。

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1447年

記載なし。

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1449年

記載なし。

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1451年

記載なし。

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1457年

記載なし。

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1467年

記載なし。

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1469年

記載なし。

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1470年

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1494年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1500年

15世紀最後の年である。.

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1503年

日曜日から始まる。.

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1506年

記載なし。

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1507年

記載なし。

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1511年

記載なし。

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1512年

記載なし。

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1526年

記載なし。

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.

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