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ナイマン

索引 ナイマン

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク系遊牧民で、後にモンゴル化した部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた。.

100 関係: 堅昆天山ウイグル王国宮脇淳子中央ユーラシア平凡社仏教佐口透ペルシア語ナイマン旗チュルク語族チョロースチンギス・カンネストリウス派ハンガイ山脈バルグトバダフシャーンバアリンポール・ペリオムスリムメルキトモンゴル (曖昧さ回避)モンゴルの西遼征服モンゴル帝国モンゴル系民族モンゴル高原ラシードゥッディーントルキスタントクトア・ベキビシュバリクテュルク系民族ホラズム・シャー朝ホータン市刀水書房アラーウッディーン・ムハンマドアラクシ・ディギト・クリアルタイ山脈アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンイマームイェスゲイウリャンカイウイグルウイグル語ウイグル文字エルティシ川オン・カンオングトオイラトカラハン朝カラコルム山脈カザフスタン...カシュガル市カタギンキリスト教クチャ県クチュルククリルタイクビライケレイトコンギラトシャーマニズムジャムカジャライルジュンガルジュンガル盆地ジェベスルターンタヤン・カンタイチウト氏タタルタタル部タタ・トゥンガタタールサルジウト元史元朝秘史皇帝遊牧民西夏西遼赤峰市集史耶律直魯古1177年1199年1200年1202年1203年1204年1206年1208年1211年1212年1213年1218年1220年1970年1972年1989年2002年 インデックスを展開 (50 もっと) »

堅昆

堅昆(けんこん、拼音:Jiānkūn)は、かつて中央ユーラシア北部に分布したテュルク系遊牧民族。キルギズ(Qïrqïz)の転写とされており、時代によっては鬲昆(へきこん、Gékūn),契骨(けいこつ、Qìgŭ),居勿(きょぶつ、Jūwù),結骨(けつこつ、Jiégŭ),紇骨(こつこつ、Gēgŭ),紇扢斯(こつこつし、Gēgŭsī),黠戛斯(かつかつし、Xiájiásī),戛戛斯(かつかつし、Jiájiásī),吉利吉思,乞力吉思,乞児吉思,乞里吉思などと記された。現代のキルギス人(天山キルギズ)と区別するためイェニセイ・キルギズとも呼ばれる。現在のハカス人の祖先にあたる。.

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天山ウイグル王国

天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、11世紀から13世紀に現在の新疆ウイグル自治区に存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。.

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宮脇淳子

宮脇 淳子(みやわき じゅんこ、1952年9月21日 - )は、日本の歴史学者。専門は東洋史(中央アジア)。本名は岡田淳子。東洋史学者の岡田英弘は夫である。.

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中央ユーラシア

中央ユーラシア(ちゅうおうユーラシア)とは、ユーラシア大陸の中央部分に広がるウラル・アルタイ系の諸言語を用いる諸民族が居住する地域を広く指す文化的な地域概念である。1960年代にハンガリー出身の学者が用い始めて以来、ウラル・アルタイ系の民族の歴史や文化を研究対象とするアルタイ学にとって便利な地域概念として、次第に広く用いられるようになった。 これらの地域の特徴は歴史上、ツングース、モンゴル、テュルク、フィン・ウゴルなどのウラル・アルタイ系の諸言語を話す人々が歴史的に重要な役割を果たしてきたことである。古くは遊牧民、新しくは定住民としてウラル・アルタイ系の人々に様々な文化的影響を与えたイラン系の人々もこの地域の重要な構成員である。また、彼らはロシア人や漢民族などの周辺の大民族と密接に関わってきた。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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佐口透

佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。.

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ペルシア語

ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی‌, پارسی‌; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.

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ナイマン旗

ナイマン旗(ナイマンき、モンゴル語: Naiman qosiɣu)は中華人民共和国内モンゴル自治区通遼市に位置する旗。旗人民政府の所在地は大沁他拉鎮。.

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チュルク語族

チュルク語族(チュルクごぞく)/突厥語族(とっけつ-)(Turkic languages)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される語族である。.

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チョロース

チョロース氏(、)とは、北元時代のドルベン・オイラト(四オイラト、オイラト部族連合)に屬する氏族の一つ。ウイグル帝国の子孫の一派であり、特にモンゴル帝国に征服されたナイマン部の流れをくむと見られる。15世紀以降に隆盛し、ジューンガル部・ドルベト部の支配者を輩出した。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ネストリウス派

ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。.

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ハンガイ山脈

ハンガイ山脈(Хангайн нурууハンガイ・ノロー)とは、モンゴル国中央部の山脈。モンゴルの首都ウランバートルより400kmほど西に位置する。.

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バルグト

バルグト()とは、現在のロシア連邦ブリヤート共和国一帯に居住していたモンゴル系民族。『モンゴル秘史』での漢字表記は巴児忽惕、『集史』におけるペルシア語表記はبرقوت(Barqūt)。 バルグン部(,バルグトの単数形)とその他の諸部族からなる部族連合であったと見られ、バルグト諸部が住まう一帯はバルグジン・トクム()と呼称されていた。また、バルグト(部族連合)は唐代における「三姓クリカン(Üč Qurïqan)」の後身であり、後の「ブリヤート部」はバルグト部の末裔であると考えられている。.

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バダフシャーン

バダフシャーン(パシュトー語/بدخشان.、Бадахшон)は、アフガニスタンとタジキスタンにまたがる中央アジアの地域名。パミール高原西部に位置し、パンジ川と呼ばれるアム川上流域両岸の山岳地帯を指す島田「バダフシャーン地方」『中央ユーラシアを知る事典』、429頁。アフガニスタンのバダフシャーン州、タジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州(山岳バダフシャン自治州)は、この地域に含まれる。.

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バアリン

バアリン()とは、モンゴル高原に居住するモンゴル系遊牧集団の1つ。『モンゴル秘史』では巴阿鄰、『集史』ではبارین(Bārīn)と記される。バーリン、バリンとも。.

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ポール・ペリオ

敦煌の莫高窟蔵経洞で文書・経典などを調査するポール・ペリオ(30歳)。 ポール・ペリオ(Paul Pelliot, 1878年5月28日 - 1945年10月26日)はフランスの著名な東洋学者で、中央アジアの探検家である。有名な敦煌文献をフランスにもたらした。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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メルキト

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 メルキト(英語:Merkit、モンゴル語:Мэргид Mergid)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原北部から東南シベリアにかけての地域に割拠していた遊牧民の部族集団。唐代の記録に現れる「弥列哥」がその初出と考えられる。遼金時代には密児紀、梅里急などと書かれ、モンゴル帝国時代には『元史』などの漢語表記では滅里吉、『元朝秘史』では蔑児乞惕、『集史』などのペルシア語表記では مركيت Markīt としている。その居住地はバイカル湖の南の地域を中心とし、南にはケレイト、東にはモンゴルと接していた。.

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モンゴル (曖昧さ回避)

モンゴル (Монгол) 民族.

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モンゴルの西遼征服

この項目では、1218年に行われたモンゴル帝国による西遼(カラ・キタイ)の征服について記述する。 モンゴルの征服が始まる前、西遼は隣国ホラズム・シャー朝との抗争とナイマン部族の王子クチュルクの簒奪によって衰退していた。クチュルクがモンゴル帝国に従属を誓っていたカルルクの都市アルマリクを攻撃した後、西遼はモンゴルの攻撃の目標にされる。1218年にチンギス・カンは将軍ジェベにクチュルクの追討を命じ、ジェベは西遼の首都ベラサグンで30,000の西遼軍を撃破する。ベラサグンでの戦闘の後、クチュルクの統治に不満を抱く人間が反乱を起こし、1218年にクチュルクは逃亡先のアフガニスタンで猟師に殺害された。西遼の征服を達成してまもなく、1219年にモンゴル帝国は国境を接するホラズム・シャー朝への攻撃を開始する。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル系民族

モンゴル系民族(Mongols、モンゴル文字: Mongɣul、キリル文字:Монгол)は、モンゴル高原(現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域(中央ユーラシア)に居住するモンゴル諸語を母語とする民族。 大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万、中国・内モンゴル自治区に400万、ロシア・ブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。.

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モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

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ラシードゥッディーン

ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー()(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Abū al-Khayr Hamadānī)、, 生没年1249年 - 1318年)はイルハン朝後期、第7代君主ガザンから次代オルジェイトゥ、アブー・サイード治世のもとで活躍した政治家。ガザンとオルジェイトゥの命によって編纂されたペルシア語による世界史『集史』の編纂責任者であったことでも知られている。また、ユネスコの「世界の記憶」に2007年登録された「ラシード区ワクフ文書補遺写本作成指示書」の大部分(382ページ中の最初の290ページ)を著作している。イランの歴史上、「ハージャ・ラシードゥッディーン」 خواجه رشیدالدین Khwāja Rashīd al-Dīn、「医師ラシードゥッディーン」 رشیدالدین طبیب Rashīd al-Dīn Ṭabīb などと呼ばれた。.

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トルキスタン

トルキスタンに含まれる国家・地域を囲った地図トルキスタンの面積は、インド亜大陸よりも広い テュルク系民族分布 トルキスタン (Turkestan / Turkistan) は今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な地域名称であり、 「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、ロシア語、欧米語に入った。トルケスタン、トゥルケスタン『コンサイス外国地名辞典』、三省堂、1998年4月20日、ISBN 4-385-15338-8、629頁。、トゥルケスターンとも。.

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トクトア・ベキ

トクトア・ベキ(Toqto'a,Tōqtā、脱黒脱阿、? - 1205年)は、メルキト部族の部族長であり、その一氏族ウドイト・メルキトの氏族長でもある。『元朝秘史』ではトクトア・ボエ(脱黒脱阿 Toqto'a Bö'e)、『集史』ではトクタ・ベキ(Tūqtā Bīkī)、『元史』ではトト(脱脱)と表記される。.

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ビシュバリク

ビシュバリクは、かつて天山山脈東部の北麓に存在した都市。9世紀から13世紀にかけて繁栄した天山ウイグル王国の首都だった。 漢語史料では別失八里のほか、鼈思馬、別石把とも表記される。いつごろから「ビシュバリク」の名で呼ばれたかは明らかになっていないが、8世紀のオルホン碑文には既にビシュバリクの名が刻まれている。名前はトルコ語で「5つの城」を意味し、唐代の史書ではトルコ語の訳に由来する「五城」とも書かれる。新疆ウイグル自治区ジムサル県北部の北庭故城がビシュバリクの遺構に相当する。.

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テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

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ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝( Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。.

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ホータン市

ホータン市(-し、和田市)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区ホータン地区に位置する県級市。高品質の軟玉の産地として知られる。.

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刀水書房

刀水書房(とうすいしょぼう)は歴史書を専門とする日本の出版社である。.

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アラーウッディーン・ムハンマド

アラーウッディーン・ムハンマド(علاءالدين محمد ‘Alā' al-Dīn Muhammad, 1169年 - 1220年)は、ホラズム・シャー朝の第7代スルターン(在位:1200年 - 1220年)。.

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アラクシ・ディギト・クリ

アラクシ・ディギト・クリ(,,? - 1227年)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたテュルク系オングト部族長。チンギス・カンの娘を妻としたことから駙馬(キュレゲン)と称し、アラクシの子孫はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて「オングト駙馬王家」として尊重された。 『元史』などの漢文史料では阿剌兀思剔吉忽里、『集史』などのペルシア語史料ではŪlāqūsh Tīkīn Qūrīاولاقوش تیکین قوریと記される。「アラクシ」が鵲を意味する本名で、「ディギト・クリ」が称号に当たる。「ディギト」はテュルク諸語の称号「テギン」の複数形で、書籍によってはアラクシ・テギン・クリ(アラクシ・テギン)と表記されることも多い。.

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アルタイ山脈

アルタイ山脈(アルタイさんみゃく)は西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。漢字で阿爾泰山脈とも。.

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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン

アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779年11月26日 - 1851年12月25日)は、オスマン帝国におけるアルメニア系の外交官、歴史家。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(邦題:『蒙古史』、『モンゴル帝国史』)の著者として有名であった。.

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イマーム

イマーム( imām)は、アラビア語で「指導者」、「模範となるべきもの」を意味する語で、イスラム教の「指導者」を指す。他の日本語表記としてエマーム、イマムなど。 スンナ派においては、ムスリム(イスラム教徒)の大小の宗教共同体を指導する統率者のことをイマームと呼ぶ。一方、シーア派においては宗教共同体にとって特別な存在である「最高指導者」をイマームと呼ぶ(後述)。.

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イェスゲイ

イェスゲイ(Есүхэй、、Yesügei, 生没年不詳)は、12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部のうちボルジギン氏系キヤト氏の首長のひとり。モンゴル帝国を築いたチンギス・カンの父であり、キヤト・ボルジギン氏の祖である。バアトルという称号を帯び、イェスゲイ・バアトル (Yesügei Ba'atur) の名で知られている。『元史』における漢字表記は也速該、『集史』のペルシア語表記ではイースーカーイー・バハードゥル(ييسوكاى بهادر Yīsūkāī bahādur) と書かれる。書籍によってはエスゲイ(エスゲイ・バートル)とも表記される。.

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ウリャンカイ

ウリャンカイないしウリヤンカイ(、Uryangqai, Uriyangqai)はモンゴル高原北部周辺にいた民族集団のひとつ。近世・現代モンゴル語ではウリヤンハイ Урианхай Uriankhai となる。中期モンゴル語の複数形はウリヤンカン Uriyangqan 、またはウリヤンカト Uriyangqad 。漢文資料では、『遼史』に嗢娘罕、『元史』『元朝秘史』に兀良哈・兀良孩として表れ、明清代には兀良罕・烏梁海などと書かれた。『集史』には اوريانكقت Ūriyānkqat と書かれる。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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ウイグル語

ウイグル語(ウイグルご、ウイグル語: ئۇيغۇرچە、)は、中央アジアで使用されるテュルク諸語のひとつ。.

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ウイグル文字

ウイグル文字(Old Uyghur alphabet)は、8世紀頃から中央アジアで主に用いられたウイグル語の表記に使用された文字。.

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エルティシ川

ルティシ川(エルティシがわ、Irtysh River, Иртыш, Ertis/Эртiс, İrteş/Иртеш, 额尔齐斯河/額爾齊斯河、日本語でイルティシュ川、イルティッシュ川、イルティシ川、イルチシ川とも表記)はアジアの川で、オビ川の主要な支流のひとつ。主な支流にトボル川、エシム川、オミ川がある。長さは4,248km。流域面積は1,643,000km2。.

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オン・カン

ン・カン(Ong Khan, Ong Qan, ? - 1203年)は、モンゴル高原中央部の遊牧民集団ケレイト部最後のカン。本名はトグリル(Toγril)あるいはトオリル(To'oril)。尊称・称号のオンは王(中国語の発音でワン・カン(Wng Khan, Wng Qan))に由来する。漢語資料の表記では『元朝秘史』では王罕、『元史』では汪罕、『聖武親征録』では汪可汗とあり、『集史』などのペルシア語資料の表記では اونك خان Ūnk Khān と綴られる。 本名のトオリルは禿鷹に似た想像上の猛禽を意味しており、テュルク系の遊牧民によく見られる名前であって、セルジューク朝の創始者(トゥグリル・ベグ)も同名である。ケレイト部族の間ではネストリウス派キリスト教が信仰されており、オン・カンはダビデ(David)という洗礼名を有していたと言われる。.

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オングト

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 オングト『元朝秘史』、もしくはオングート、オングート部(汪古・白達達部、Ongud)は、モンゴル帝国以前から元代にかけて存在した遊牧民族。タタル部が「黒韃靼」と呼ばれたのに対して「白韃靼」とよばれた。.

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オイラト

イラト(Oirad、Oyirad、瓦剌、衛拉特)は、モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住する民族。.

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カラハン朝

ラハン朝(カラハンちょう、ペルシア語: قراخانيان Qarākhānīyān)は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝。中央アジアのテュルク(トルコ)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている濱田「カラハン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、147頁。 カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフルを支配した国家である。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、87頁。 カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベク、カザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。タリム盆地のウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンやマフムード・カーシュガリー、ユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。.

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カラコルム山脈

ラコルム山脈(カラコルムさんみゃく)は、パキスタン・インド・中国の国境付近に横たわる山脈である。アジアの大きな山塊の一部として広義のヒマラヤ山脈の一部であるが、狭義のヒマラヤ山脈とは独立した山脈である。氷河の多くが瓦礫に覆われている。カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂利」という意味である。 カラコルム山脈には世界第2位のK2を筆頭に60座以上の標高7000m以上の山が存在している。これらは主にパキスタンの北方地区(パキスタン名: ギルギット・バルティスタン州)に集中している。山脈の長さは500kmに亘り、極地を除けば世界最大の氷河地帯もある。70kmのシアチェン氷河と63kmのビアフォ氷河は、極地を除けば世界で2・3番目に長い氷河である(最長はタジキスタンのフェドチェンコ氷河(77km)である)。 カラコルム山脈は、北東部でチベット高原に接し、北にはアフガニスタンとタジキスタンの国境がある。他にパミール高原にも囲まれている。北西部はヒンドゥークシュ山脈につながっている。南部は、インダス川・・といった川によってヒマラヤ山脈との境界が作られている。 標高が高く起伏に富む地形のため、カラコルム山脈は人が住むのに余り適していない。ヨーロッパの探検家が最初にこの地を訪れたのは19世紀初頭だったが、その後イギリスの測量士が現地入りしたのは1856年だった。 は1887年にフランシス・ヤングハズバンド大佐の遠征で横断された。また、上流の谷は1892年にによって探検された。その後1910年代から1920年代にかけての探索によって、この地域の地理の大部分が判明している。.

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カザフスタン

フスタン共和国(カザフスタンきょうわこく、)、通称カザフスタンは、中央アジアの共和制国家である。北をロシア連邦、東に中華人民共和国、南にキルギス、ウズベキスタン、西南をトルクメニスタンとそれぞれ国境を接する内陸国。カスピ海、アラル海に面している。首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ。.

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カシュガル市

ュガル市(カシュガルし、ウイグル語:قەشقەر 転写:Qeşqer、ケシケル市、喀什市)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区に位置する県級市である。同地区の首府が設置される。人口の80%は土着のウイグル族など少数民族が占める。カシュガル大都市圏人口は120万人に達する。古くからシルクロードの要衝として、またイスラームの拠点都市としても発展し、国家歴史文化名城に指定されている。.

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カタギン

タギン()とは、モンゴル部に属する遊牧集団の名称。『元史』などの漢文史料では合答斤/合塔斤/合答吉/哈答吉/哈塔斤/合底忻、『集史』ではQataqinと記される。書籍によってはカダギン(Qadagin)、カダキン(Qadaqin)とも表記される。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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クチャ県

3世紀のタリム盆地。盆地北部の茶色部分(Kuqa)が亀茲 クチャ県(-けん、庫車県)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区に位置する県。シルクロード(天山南路)のルート上にあって、古代オアシス都市国家亀茲国の栄えた地であり、歌舞の郷と称される。 石油や天然ガスが豊富な、西部大開発の重要な基地である。.

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クチュルク

チュルク(Küčülüg)は、モンゴル高原東部の遊牧集団ナイマン部の王族。西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝。 『遼史』では屈出律、『元史』では曲出律、『元朝秘史』では古出魯克の名で表記されている。ペルシア語表記では『世界征服者の歴史』および『集史』がともにكوچلك خان. Kūchuluk Khān ないしكوشلوك. Kūshulūkと綴る。クチュルクとはテュルク語で küč+lüg 「力ある者」の意味である。日本語表記では「グチルク」とも表記される。.

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クリルタイ

リルタイ(モンゴル語:, Хуралдай, Khuruldai; トルコ語: Kurultay))は、中世から近世にかけて開催されたモンゴルの最高意志決定機関である。有力者が集まってハーンの位の決定、戦争、法令などを議題にした。『元朝秘史』では忽鄰塔、『集史』などのペルシア語資料では قوريلتاى Qūrīltāī などと表記される。 『元朝秘史』などの中世モンゴル語では qurilta と言うが、これは「(血縁関係の者が)集まる」を意味する語幹 quri- に動詞から実詞を形成する接尾辞 -lta〜lte が付された形で、いわば動詞 quri- の名詞形にあたり、「集まり」ほどの意味になる。ただ、この qurilta とはただの「集まり」ではなく、「血族類縁者の集まり」である。 モンゴル皇帝(カアン)の命のもとに広く召集された王族および有力諸部族の首長、重臣たちからなる遊牧国家の最高の政治会議である。その役割は、第一に皇帝候補者の選定と即位、第二に諸外国への遠征計画、第三に法令の制定、などが含まれていた。開催時期は春期や夏期が多く、大河の水源地域など牧草地や水情に恵まれた土地が開催地として選ばれた。また回数も、皇帝一代のうちでせいぜい2、3回程度で、皇帝のオルドの近傍で定められ、国政についての様々な討議ののちに、場合によっては1週間以上にもわたる長い祝宴(トイ toi )が常に伴った。 モンゴル皇帝や皇族たちがウルスの方針を決めるために主催するこれらのクリルタイは、特に大クリルタイ(Yeke Qurilta、 ペルシア語では Qūrīltāī-yi Buzurg)と呼ばれた。その他の集会をジェルゲ(jerge)と呼んでいたが、現在のアフガニスタンにおいて国会に相当するローヤ・ジルガの「ジルガ」はこのモンゴル語のジェルゲに由来する。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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ケレイト

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ケレイト(Kereid, Kerait)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原中北部のハンガイ山脈付近に割拠していたテュルク遊牧民の部族集団である。漢字表記では客烈亦、怯烈、怯烈亦など。ペルシア語史料では كرايت Kirāyt などと表される。.

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コンギラト

ンギラト(Qonggirad)とは、モンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族である。モンゴル帝国-元朝時代を通じてチンギス・カン家に多くの后妃(ハトゥン)を輩出しており、最も有力な姻族として繁栄した。「翁吉剌」という表記からオンギラト(ウンギラト)、現代モンゴル語発音からホンギラト(フンギラト)と記されることも多い。.

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シャーマニズム

ャーマニズムあるいはシャマニズム(Shamanism)とは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称であり佐々木 (1973), pp.

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ジャムカ

ャムカ(Jamuqa, ? - 1205年)は、モンゴル帝国以前のモンゴル部の首長のひとり。グル・カンと称する。同じくモンゴル部の首長から成長してモンゴル高原を統一し、モンゴル帝国を開いたテムジン(後のチンギス・カン)と対立し、滅ぼされた。歴史の敗残者であるが、チンギス・カンの盟友およびライバルとして、諸書において非常に高く評価されている。日本語表記ではジャムハとも記される。.

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ジャライル

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ジャライル(英語:Jalairs、モンゴル語:Жалайр)は、かつてモンゴル高原を始め中央ユーラシアに分布した遊牧民族。古くからモンゴル帝国に仕え、その子孫の一部は14世紀に西アジアでジャライル朝を建設した。.

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ジュンガル

ュンガル(、 転写:jegün γar、、準噶爾)は、17世紀から18世紀にかけて現在のジュンガル盆地を中心とする地域に遊牧民オイラトが築き上げた遊牧帝国、およびその中心となったオイラトの一部族。オイラト部族連合に属し、一時期はオイラトの盟主となって一大遊牧帝国を築き上げた。ジュンガル帝国の滅亡後、このような遊牧帝国が2度と生まれなかったため、最後の遊牧帝国とも呼ばれる。.

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ジュンガル盆地

ュンガル盆地の範囲。 ジュンガル盆地、ジュンガリア(Зүүнгар / Züüngar, جۇڭغار_ئويمانلىقى, 准噶尔盆地)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区の北西部にある盆地を中心とした土地である。面積はおおよそ77万7000平方キロメートル。.

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ジェベ

ェベ(モンゴル語: Jebe、? - 1224年『新元史』巻123、列伝第20もしくは1225年村上「ジェベ」『アジア歴史事典』4巻、118頁)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・カンの家臣。ベスト(ベスート)氏族の出身で、はじめタイチウト氏に属する隷属民だった。『元朝秘史』では者別、『元史』では哲別などと漢語表記され、『集史』などのペルシア語資料では جبه نويان Jebe Nūyān と表記される。書籍によってはジュベとも表記される。.

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スルターン

ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.

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タヤン・カン

タヤン・カン(Tayang Qan, 生年不詳 - 1204年)は、モンゴル高原西部の遊牧部族連合ナイマンの最後のカン(Qan)。漢字表記は塔陽罕、太陽可汗、泰陽罕、『集史』などのペルシア語表記では تايانك خان Tāyānk khān (ターヤーン・ハーン)と表記される。実名はタイ・ブカ(Tai Buqa 脱兒魯黒)。父はイナンチュ・ビルゲ・ブク・カン、母および妻はグルベス。子は西遼の王となったクチュルク。.

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タイチウト氏

タイチウト氏(Tayichiud)は、モンゴル高原で活動した遊牧民の氏族集団。モンゴル部のボルジギン氏の一支族であり、オノン川中下流域(あるいはセレンゲ河畔)で遊牧生活を営んでいた。同族のキヤト氏と共にモンゴル部の中核を成していた。キヤト氏との抗争の末、チンギス・カンによって屈服させられた。 氏族名の語源は、中国王朝の官職名である「太師」がモンゴル語化した「Taǐci」の複数形と考えられている。漢語史料では泰赤兀惕と表記される。同時に「タイチュウト氏」「タイチュート氏」とも表記される場合がある。.

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タタル

タタル(Tatar); 民族名.

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タタル部

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 タタル部(塔塔児、Tatar)は、モンゴル帝国以前にモンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族。『元史』などでは塔塔児、『集史』ではQaum Tātārと記される。チンギス・カンによって滅ぼされたが、その名は遊牧騎馬民族の代名詞となり、ヨーロッパに広まってタタールと呼ばれるようになる。また、オングト部が「白韃靼」と呼ばれたのに対して「黒韃靼」とよばれた。タタール部とも表記される。.

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タタ・トゥンガ

タタ・トゥンガ(,Тататунга/Tatatungүa))とは、モンゴル帝国のチンギス・カンに仕えたウイグル人で、ウイグル式モンゴル文字をモンゴル帝国に広めた事で知られる。.

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タタール

18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.

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サルジウト

ルジウト()とは、モンゴル部に属する遊牧集団の名称。『元史』などの漢文史料では散竹台/珊竹/山只昆、『集史』ではSālǰīūtと記される。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元朝秘史

『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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遊牧民

遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.

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西夏

西夏(せいか、西夏文字: 、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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赤峰市

赤峰市(せきほうし、モンゴル語: Ulaɣanqada qota)は中華人民共和国内モンゴル自治区東南部に位置する地級市。市名の赤峰はモンゴル語のウランハダ(赤い山)に由来する。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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耶律直魯古

耶律 直魯古(やりつ ちょくろこ、契丹音:ヤルート・チルク)は、西遼の第3代(最後)の皇帝。仁宗耶律夷列の次男。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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1177年

記載なし。

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1199年

記載なし。

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1200年

記載なし。

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1202年

記載なし。

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1203年

記載なし。

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1204年

記載なし。

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1206年

記載なし。

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1208年

記載なし。

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1211年

記載なし。

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1212年

記載なし。

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1213年

記載なし。

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1218年

記載なし。

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1220年

記載なし。

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1970年

記載なし。

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1972年

協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.

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1989年

この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。.

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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