ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

近衛政家

索引 近衛政家

近衛 政家(このえ まさいえ、文安元年(1444年) - 永正2年6月19日(1505年7月20日))は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての公家。関白、太政大臣。藤原北家摂家近衛家13代当主。一字名は霞。号は後法興院。.

85 関係: 右大臣吉川弘文館大納言太政大臣女房室町幕府室町時代守護寛正左大臣中納言京都延徳征夷大将軍御堂関白記後法興院記従三位従二位応仁応仁の乱北小路俊子僧位僧正別当和歌内大臣准后公家六角高頼元服琵琶湖道興衛門府足利義政近衛家近衛尚通近衛府近衛房嗣近衛教基近江八景近江国興福寺関白藤原北家藤原道長藤原氏長享陽明文庫正三位...正二位永正戦国時代 (日本)明応新撰菟玖波集文安文正文明 (日本)日外アソシエーツ摂家1444年1445年1446年1462年1463年1464年1465年1466年1467年1472年1475年1477年1478年1479年1481年1483年1488年1490年1497年1500年1505年6月19日 (旧暦)7月20日8月13日 (旧暦)9月6日 インデックスを展開 (35 もっと) »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 近衛政家と右大臣 · 続きを見る »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

新しい!!: 近衛政家と吉川弘文館 · 続きを見る »

大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

新しい!!: 近衛政家と大納言 · 続きを見る »

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

新しい!!: 近衛政家と太政大臣 · 続きを見る »

女房

女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。 もっぱら主人の身辺に直接関わる雑務を果たす身分の高い使用人であり、場合によっては乳母、幼児や女子の主人に対する家庭教師、男子の主人に対する内々の秘書などの役割を果たした。主人が男性の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持つことが多く、結婚などによって退職するのが一般的であった。 尚、内裏で働く女房のうち、天皇に仕えるのは「上の女房」(内裏女房)と呼ばれる女官で、後宮の妃(ひいてはその実家)に仕える私的な女房とは区別される。後宮の妃に仕える女房である「宮の女房」のほとんどが、妃の実家から妃に付けられて後宮に入った人々で、清少納言や紫式部なども女叙位は受けていたものの、この身分であったと考えられている。かつて、「女房の中に女官としての性格を持つ公的な女房と、私的な女房に分かれる」とする、加納重文と、「全ての女房は、朝廷から位階と禄を受ける公的存在」とする角田文衛による論争が存在したが、今日の研究においては収入面においては、中宮や皇后に仕える女房には、妃自身の封戸や年給からの収入などからも給与を受けていたと考えられるものの、大勢の女房の生活を支えるためには、妃の実家の支援も必要としていたと考えられている。一方、宮中に仕える主立った女房は女叙位は受けていたと考えられるが、全ての女房に女官としての公的な地位を与えられていたのか否かについては、今日でも議論がある。 平安時代中期以降の社会においては、受領階級などの中級貴族の娘が出仕することが多く、そのため教養に優れていた。ひらがなの使用など国風文化に大きな影響を与えた。和歌や和文文学に優れた人物も多く、平安時代から鎌倉時代にかけての、この階層の作者の手になるものを、特に「女房文学」と呼ぶ。.

新しい!!: 近衛政家と女房 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 近衛政家と室町幕府 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 近衛政家と室町時代 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

新しい!!: 近衛政家と守護 · 続きを見る »

寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 近衛政家と寛正 · 続きを見る »

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 近衛政家と左大臣 · 続きを見る »

中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

新しい!!: 近衛政家と中納言 · 続きを見る »

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

新しい!!: 近衛政家と京都 · 続きを見る »

延徳

延徳(えんとく)は、日本の元号の一つ。長享の後、明応の前。1489年から1491年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚、足利義材。.

新しい!!: 近衛政家と延徳 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 近衛政家と征夷大将軍 · 続きを見る »

御堂関白記

『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、平安時代の貴族の摂政太政大臣・藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。 「御堂」とは、藤原道長建立の法成寺無量寿院を指している。しかし、道長は生前、一度として関白となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。 道長は、政権を獲得した長徳元年(995年)から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)の間の記事である。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、国宝に指定されている。 『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。これは同じ藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、藤原師通による『後二条師通記』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる。 道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという。同時代の貴族が記した日記、『小右記』(藤原実資)、『権記』(藤原行成)とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ史料である。 なお、寛弘5年12月20日(1009年1月18日)条の裏書には近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは近衛信尹とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち寛弘5年(1008年)の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の近衛信尋がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという。 平成23年(2011年)5月、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦され、平成25年(2013年)6月18日に登録された。.

新しい!!: 近衛政家と御堂関白記 · 続きを見る »

後法興院記

後法興院記(ごほうこういんき)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた公卿近衛政家の日記。.

新しい!!: 近衛政家と後法興院記 · 続きを見る »

従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

新しい!!: 近衛政家と従三位 · 続きを見る »

従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

新しい!!: 近衛政家と従二位 · 続きを見る »

応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 近衛政家と応仁 · 続きを見る »

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 近衛政家と応仁の乱 · 続きを見る »

北小路俊子

北小路 俊子(きたこうじ としこ、?-文明14年7月6日(1482年7月21日))は、室町時代の関白近衛政家の家女房。越前国の武士加治能登入道の娘。近衛家諸大夫北小路俊宣の養女となる。関白近衛尚通の生母。法号は等心院。.

新しい!!: 近衛政家と北小路俊子 · 続きを見る »

僧位

僧位(そうい)とは日本において僧侶に対し与えられた位階のことである。.

新しい!!: 近衛政家と僧位 · 続きを見る »

僧正

僧正(そうじょう)は、中国の南朝と日本で仏教の僧と尼を統括するために僧侶が任命された官職(僧官)の一つである。.

新しい!!: 近衛政家と僧正 · 続きを見る »

別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

新しい!!: 近衛政家と別当 · 続きを見る »

和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

新しい!!: 近衛政家と和歌 · 続きを見る »

内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

新しい!!: 近衛政家と内大臣 · 続きを見る »

准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

新しい!!: 近衛政家と准后 · 続きを見る »

公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

新しい!!: 近衛政家と公家 · 続きを見る »

六角高頼

六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。近江国守護、南近江の戦国大名。六角氏12代当主。.

新しい!!: 近衛政家と六角高頼 · 続きを見る »

元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

新しい!!: 近衛政家と元服 · 続きを見る »

琵琶湖

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を持つ。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。河川法上は一級水系「淀川水系」に属する一級河川であり、同法上の名称は「一級河川琵琶湖」で、滋賀県が管理している例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:。.

新しい!!: 近衛政家と琵琶湖 · 続きを見る »

道興

道興(どうこう、永享2年(1430年) - 大永7年7月7日(1527年8月3日))は、室町時代の僧侶で聖護院門跡。 関白近衛房嗣の子。兄弟に近衛教基、近衛政家。寛正6年(1465年)に准三宮宣下を受ける。 幼少の頃から出家し、聖護院満意の弟子となりその後継者と位置づけられるが、室町幕府から将軍足利義教の子である義観を後継とするように申し入れがあり、これを受けて道興は廃されて如意寺に送られた(『建内記』嘉吉3年2月19日条)。文安4年(1447年)、如意寺継承を前提として満意から伝法灌頂を受けている。ところが、寛正3年(1462年)になって義観が突如隠居してしまう。将軍・足利義政は二条持通の子である政瑜を後継に推す(『大乗院寺社雑事記』寛正3年12月26日条)が、政瑜は当時13歳であったことから、道興を中継ぎとして聖護院を継がせることになった近藤祐介「聖護院門跡の成立と展開」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3。 寛正6年(1465年)12月7日に准后宣下を受け、道興准后(どうこうじゅごう)と呼ばれるようになりその後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。当初は中継ぎの門跡であったが、実弟の近衛政家の支援に加え、足利義政もその能力を評価したため、その地位は安定したかに見えた。 ところが、応仁の乱において足利義政と弟の足利義視の間の仲介に奔走したところ、西軍への内通を疑われるようになり、文明8年(1476年)に聖護院門跡を政瑜に交替させることになり、翌文明9年(1477年)11月道興は義視を追って美濃国に亡命した。ところが、翌文明10年(1478年)に政瑜が急逝してしまうと、道興の復帰を求める声が強まり、文明11年(1479年)閏9月に義政は道興の赦免と門跡復帰を命じた。 文明18年から19年(1486–87年)にかけては聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国した。文明18年6月に京都を発つと、若狭国から越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国の関東を廻り、翌年5月には武蔵国から甲斐国を廻り、奥州まで至っている。道興は後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。.

新しい!!: 近衛政家と道興 · 続きを見る »

衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

新しい!!: 近衛政家と衛門府 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 近衛政家と諱 · 続きを見る »

足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

新しい!!: 近衛政家と足利義政 · 続きを見る »

近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

新しい!!: 近衛政家と近衛家 · 続きを見る »

近衛尚通

近衛 尚通(このえ ひさみち)は、戦国時代の公卿、関白。父は近衛政家。母は家女房であった越前国の加治能登入道の娘・俊子(北小路俊宣養女)。妻は徳大寺実淳の娘・維子。子に近衛稙家、久我晴通、大覚寺義俊、慶寿院(足利義晴室)、近衛殿(北条氏綱室)ら。猶子に足利義輝、足利義昭(共に慶寿院の子)。 文明14年(1482年)に元服、当時の室町幕府の将軍であった足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る。延徳2年(1490年)に右大臣に就任、以降は関白に二度就く。その後永正11年(1514年)に太政大臣、同16年(1519年)に准三宮となった。天文2年(1533年)に出家し、大証と号した。天文13年(1544年)、薨去。日記『後法成寺関白記』を残した。.

新しい!!: 近衛政家と近衛尚通 · 続きを見る »

近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

新しい!!: 近衛政家と近衛府 · 続きを見る »

近衛房嗣

近衛 房嗣(このえ ふさつぐ)は、日本の室町時代の公卿。.

新しい!!: 近衛政家と近衛房嗣 · 続きを見る »

近衛教基

近衛 教基(このえ のりもと)は、室町時代の公卿。関白近衛房嗣の一男で、母は家女房播磨局(父不詳)。聖護院道興・関白政家の兄。父から家督を継いで右大臣に至ったが、摂関に昇ることなく早世した。後九条と号する。.

新しい!!: 近衛政家と近衛教基 · 続きを見る »

近江八景

近江八景(おうみはっけい)は、日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つである。.

新しい!!: 近衛政家と近江八景 · 続きを見る »

近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 近衛政家と近江国 · 続きを見る »

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 近衛政家と興福寺 · 続きを見る »

関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

新しい!!: 近衛政家と関白 · 続きを見る »

藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

新しい!!: 近衛政家と藤原北家 · 続きを見る »

藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

新しい!!: 近衛政家と藤原道長 · 続きを見る »

藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

新しい!!: 近衛政家と藤原氏 · 続きを見る »

長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

新しい!!: 近衛政家と長享 · 続きを見る »

陽明文庫

陽明文庫(ようめいぶんこ)は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設。 公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衛家伝来の古文書(こもんじょ)、典籍、記録、日記、書状、古美術品など約10万件に及ぶ史料を保管している。昭和13年(1938年)、当時の近衛家の当主で内閣総理大臣であった近衛文麿が京都市街地の北西、仁和寺の近くの現在地に財団法人陽明文庫設立した。近衛家の遠祖にあたる藤原道長(966 - 1028)の自筆日記『御堂関白記』から、20世紀の近衛文麿の関係資料まで、1,000年以上にわたる歴史資料を収蔵し、研究者に閲覧の便を図るとともに、調査研究事業、展示出陳事業、複製本の刊行などの事業を行っている。2012年4月より公益財団法人に移行した。.

新しい!!: 近衛政家と陽明文庫 · 続きを見る »

正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

新しい!!: 近衛政家と正三位 · 続きを見る »

正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

新しい!!: 近衛政家と正二位 · 続きを見る »

永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

新しい!!: 近衛政家と永正 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 近衛政家と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

明応

明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.

新しい!!: 近衛政家と明応 · 続きを見る »

新撰菟玖波集

『新撰莬玖波集』(しんせんつくばしゅう)は、室町時代後期の准勅撰連歌撰集。20巻。句数は約2000句。 大内政弘の発願により、宗祇を中心として、猪苗代兼載・宗長・肖柏らの協力により撰集され、1495年(明応4年)に成立した。心敬・宗砌・後土御門天皇・専順・大内政弘など約250人の句を集めた有心連歌の集大成である。.

新しい!!: 近衛政家と新撰菟玖波集 · 続きを見る »

文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

新しい!!: 近衛政家と文安 · 続きを見る »

文正

文正(ぶんしょう)は、日本の元号の一つ。寛正の後、応仁の前。1466年の期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

新しい!!: 近衛政家と文正 · 続きを見る »

文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

新しい!!: 近衛政家と文明 (日本) · 続きを見る »

日外アソシエーツ

日外アソシエーツ株式会社(にちがいあそしえーつ)は東京都品川区に本社を置く出版社・情報提供会社。1965年創業。紀伊國屋書店を主要株主、総発売元とする。出版梓会、日本電子出版協会、日本書籍出版協会加盟。 辞書、事典、年鑑、資料集などを制作するとともに、書籍やCD-ROM、インターネットを介した検索サービスの形で提供している。 日外ドキュメンツ貿易として1965年に設立された『中小公庫マンスリー』2002年3月、30-31ページ「ベンチャー企業訪問レポート インターネットが広げる人物情報データベース検索サービス 日外アソシエーツ株式会社 大高利夫」(調査部 池添誠)。2016年に大田区から品川区に会社を移転。.

新しい!!: 近衛政家と日外アソシエーツ · 続きを見る »

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

新しい!!: 近衛政家と摂家 · 続きを見る »

1444年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1444年 · 続きを見る »

1445年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1445年 · 続きを見る »

1446年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1446年 · 続きを見る »

1462年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1462年 · 続きを見る »

1463年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1463年 · 続きを見る »

1464年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1464年 · 続きを見る »

1465年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1465年 · 続きを見る »

1466年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1466年 · 続きを見る »

1467年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1467年 · 続きを見る »

1472年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1472年 · 続きを見る »

1475年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1475年 · 続きを見る »

1477年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1477年 · 続きを見る »

1478年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1478年 · 続きを見る »

1479年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1479年 · 続きを見る »

1481年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1481年 · 続きを見る »

1483年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1483年 · 続きを見る »

1488年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1488年 · 続きを見る »

1490年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1490年 · 続きを見る »

1497年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1497年 · 続きを見る »

1500年

15世紀最後の年である。.

新しい!!: 近衛政家と1500年 · 続きを見る »

1505年

記載なし。

新しい!!: 近衛政家と1505年 · 続きを見る »

6月19日 (旧暦)

旧暦6月19日は旧暦6月の19日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 近衛政家と6月19日 (旧暦) · 続きを見る »

7月20日

7月20日(しちがつはつか、しちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から201日目(閏年では202日目)にあたり、年末まであと164日ある。誕生花はナス、ルコウソウ。.

新しい!!: 近衛政家と7月20日 · 続きを見る »

8月13日 (旧暦)

旧暦8月13日は旧暦8月の13日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 近衛政家と8月13日 (旧暦) · 続きを見る »

9月6日

9月6日(くがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から249日目(閏年では250日目)にあたり、年末まであと116日ある。.

新しい!!: 近衛政家と9月6日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

藤原政家

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »