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姉小路家

索引 姉小路家

姉小路家(あねのこうじけ/あねがこうじけ/あねこうじけ)は、藤原氏系の公家の家系である。大きく分けると閑院流(1・2)、小一条流(3:飛騨国司)、勧修寺流(4)の3つの家系がある。 なお、3.の姉小路家の名跡を継承した戦国大名(旧・宇多源氏三木氏)については、姉小路氏の項目で解説を行う。.

100 関係: 南朝 (日本)参議名跡向宣政姉小路姉小路基綱姉小路定子姉小路実尚姉小路実世姉小路実文姉小路忠方姉小路信綱姉小路公宣姉小路公知姉小路公遂姉小路公朝姉小路公景姉小路秀綱姉小路頼綱姉小路顕朝姉小路高基姉小路高綱姉小路良頼姉小路氏姉小路済俊姉小路済継宝暦室町幕府家格守護宇多源氏小島勝言山城国岡山藩万里小路博房三条実房三条家三条公房三木顕綱三木近綱三木氏幕末乙訓郡京極氏建武の新政伯爵公家勧修寺流国司...国立歴史民俗博物館石山基正石山基文石山家石高紫式部細川興誠羽林家田向重継鎌倉時代遠藤慶利華族風早家飛騨の乱飛騨国豊臣秀吉阿野実顕阿野家閑院流藤原定時藤原宣孝藤原宗隆藤原師尹藤原師成藤原北家藤原公季藤原通任藤原氏藤原済時葉室家金森長近桃園天皇武家江戸時代池田輝録池田政礼池田政時池田慶政澤宣嘉澤宣元澤家朝廷戦国大名明治維新新家旧高旧領取調帳慶長1613年1759年 インデックスを展開 (50 もっと) »

南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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名跡

名跡(みょうせき)は、家制度と密接に結びつき、代々継承される個人名。もしくは家名。「めいせき」と発音するのは誤り。.

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向宣政

向 宣政(むかい のぶまさ、永禄3年(1560年) - 元和4年4月25日(1618年6月17日))は、戦国時代の飛騨国小鷹狩(小鷹利、小鷹垨)城主姉小路氏(三木氏)一族で、常陸国佐竹氏家臣。江戸時代には久保田藩士となり、横手城城代や久保田藩家老を勤める。家格宿老廻座である久保田藩士向氏(のちに小鷹狩《小鷹垨》氏に改姓)の祖。通称は右近大夫。諱は宣政。弟は向俊政(庄兵衛)。子女は向政次、向重政など2男2女。.

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姉小路

姉小路(あねこうじ / あねがこうじ / あねのこうじ / あねやこうじ).

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姉小路基綱

姉小路 基綱(あねがこうじ もとつな)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。飛騨国司。姉小路家(古川家)当主。.

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姉小路定子

姉小路 定子(あねがこうじ さだこ、享保2年7月18日(1717年8月24日) - 寛政元年9月22日(1789年11月9日))は江戸時代中期の女性。桜町天皇の典侍で、桃園天皇の母。父は参議・正四位上姉小路実武。女房名は権典侍、宰相典侍、大典侍、また三位局とも。女院号は開明門院で、法名は哲堂。 享保13年(1728年)3月ごろに東宮上臈として出仕。延享4年(1747年)5月1日に従三位。桃園天皇の急死後、同天皇が青綺門院を「実母」としていたため処遇に問題が発生し、稀な例ではあるが、准三宮を経ないで宝暦13年(1763年)2月1日に院号宣下を受ける。天明2年(1782年)2月に剃髪し、寛政元年(1789年)9月22日、72歳で逝去。 墓所は京都市上京区の清浄華院(菩提所は塔頭の松林院)。 Category:女院 Category:江戸時代の后妃後宮 さたこ Category:1717年生 Category:1789年没.

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姉小路実尚

姉小路 実尚(あねがこうじ さねなお、1211年 - 没年不明)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の三男。.

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姉小路実世

姉小路 実世(あねがこうじ さねよ)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の長男。姉小路家2代当主にあたる。.

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姉小路実文

姉小路 実文(あねがこうじ さねふみ。生没年不明)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の次男。.

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姉小路忠方

姉小路 忠方(あねがこうじ ただかた、仁治2年(1241年) - 弘安5年12月19日(1283年1月19日))は、鎌倉時代中期の公卿。権大納言・姉小路顕朝の長男。官位は正三位・権中納言。.

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姉小路信綱

姉小路 信綱(あねがこうじ のぶつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。.

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姉小路公宣

姉小路 公宣(あねがこうじ/あねこうじ きんのぶ)は鎌倉時代初期の公卿。左大臣・三条公房の次男。姉小路家の祖。初名は公信。姉小路に住み姉小路大納言と号す。.

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姉小路公知

姉小路公知 姉小路 公知(あねがこうじ きんとも、天保10年12月5日(1840年1月9日) - 文久3年5月20日(1863年7月5日))は、江戸時代末期の公家。位階は正四位下、維新後に生前の功により正二位を追贈。父は姉小路公前、叔父に澤宣嘉がいる。養子に姉小路公義(万里小路博房男、次代)。.

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姉小路公遂

姉小路 公遂(あねがこうじ きんすい、寛政6年6月13日(1794年7月9日) - 安政4年1月29日(1857年2月23日))は、江戸時代の公卿。姉小路公春の子。正室は松浦清の娘、継室は三条公修の娘。子には姉小路公前(公知の父)・石山基文・澤宣嘉らがいる。.

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姉小路公朝

姉小路 公朝(あねがこうじ きんとも)は鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。権中納言・姉小路実尚の次男。.

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姉小路公景

姉小路 公景(あねがこうじ きんかげ、慶長7年9月12日(1602年10月26日) - 慶安4年12月11日(1652年1月21日))は、江戸時代前期の公卿。父は阿野実顕、母は吉田兼治の娘。官位は参議、従二位権大納言。 慶長18年(1613年)、室町時代から300年近くにわたって断絶していた閑院流姉小路家を再興した。家禄は200石。寛永9年(1632年)、参議となる。慶安4年(1651年)薨去。 実道、実種の2人の男子がおり、実道は姉小路家の名跡を継ぎ、実種は風早家の祖となっている。娘が数人おり、一人は日向飫肥藩主・伊東祐由の正室となっている。一人は伊達兵部宗勝の嫡男・宗興の正室となり、伊達騒動に連座して伊予吉田藩に預けられた。 きんかけ きんかけ Category:江戸時代の公家 Category:1602年生 Category:1652年没.

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姉小路秀綱

姉小路 秀綱(あねがこうじ ひでつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。姉小路氏最後の当主。.

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姉小路頼綱

姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな)は戦国時代・安土桃山時代の武将、大名。飛騨姉小路氏の当主。父は姉小路良頼(嗣頼)。妻が斎藤道三の娘であるため、織田信長とは相婿の間柄になる。.

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姉小路顕朝

姉小路 顕朝(あねがこうじ あきとも、建暦2年(1212年) - 文永3年9月20日(1266年10月19日))は、鎌倉時代中期の公卿。参議・姉小路宗房の長男。官位は正二位・権大納言。.

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姉小路高基

姉小路 高基(あねのこうじ/あねこうじ たかもと)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公家。藤原頼基の子。官位は従三位・参議。 兄弟に姉小路家綱、姉小路基尹、姉小路頼時らがいる。飛騨国司、宮内卿、参議を務めた。 正平13年/延文3年(1358年)、薨去。享年62(61歳没)。 たかもと Category:鎌倉時代の公家 Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1298年生 Category:1358年没.

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姉小路高綱

姉小路 高綱(あねがこうじ たかつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。飛騨国小鷹利城主。田向重継と同一人物という説がある。.

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姉小路良頼

姉小路 嗣頼(あねがこうじ つぐより)は、戦国時代の武将、大名。飛騨、のち姉小路氏当主。三木直頼の嫡男。.

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姉小路氏

姉小路氏(あねこうじし/あねがこうじし/あねのこうじし)は飛騨の戦国大名となった氏族。元は宇多源氏系の三木氏(みきし/みつきし)である。.

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姉小路済俊

姉小路 済俊(あねがこうじ なるとし/なりとし)は、戦国時代の公家。飛騨国司。姉小路家当主。.

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姉小路済継

姉小路 済継(あねがこうじ なりつぐ/さだつぐ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。飛騨国司。姉小路家(古川家)当主。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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家格

家格(かかく)とは、歴史において、ある氏族や家系が得た又は与えられた格式・評価をいう用語。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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宇多源氏

宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.

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小島勝言

小島 勝言(こじま かつとき)は、室町時代後期の武将。飛騨国司・姉小路家宗家小島家当主。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

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万里小路博房

万里小路 博房(までのこうじ ひろふさ、文政7年6月25日(1824年7月21日) - 明治17年(1884年)2月22日)は、江戸時代後期の公卿、明治時代の政治家。.

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三条実房

三条 実房(さんじょう さねふさ)は平安時代末期および鎌倉時代の公卿。左大臣正二位。三条入道左府と号す。父は内大臣三条公教。母は権中納言藤原清隆の娘。室は左大臣藤原経宗の娘。子に公房、公宣、公氏、公俊などがおり、子孫から多くの三条家庶流が生まれた。.

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三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

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三条公房

三条 公房(さんじょう きんふさ、治承3年(1179年) - 建長元年8月16日(1249年9月23日))は鎌倉時代の公卿。左大臣・三条実房の長男。官位は従一位・太政大臣。浄土寺相国と呼ばれ、三条家が清華家となる基礎を築いた。.

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三木顕綱

三木 顕綱(みつき あきつな、天文14年(1545年)?天正11年(1583年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。父は姉小路良頼。兄に頼綱、姉妹に斎藤信利室。受領名は豊後守。 飛騨国の小豪族、鍋山氏の養子となり鍋山城を領した。後に義父・鍋山安室を毒殺、義母と安室の実子を追放し、鍋山氏を名実共に乗っ取った。貪欲で兄と折り合いが悪かったという。 天正11年(1583年)、兄に謀反の嫌疑をかけられて、放たれた刺客(荒川甚平)に妻と共に殺害された(『飛騨国治乱記』ほか)。.

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三木近綱

三木 近綱(みつき ちかつな、天正2年(1574年) - 寛永6年5月20日(1629年7月10日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、旗本。姉小路頼綱の末子。室は石崎左平太の娘。子に森自直(叔父森自綱養子)、三木春綱。「近」の字は、金森長近からの偏諱と思われる。.

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三木氏

三木氏(みきし、みつきし)は、日本の氏族。中世から近世まで栄えた豪族・大名の一族。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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乙訓郡

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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勧修寺流

勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。.

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勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令、または、その命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。なお、秘密裏に行われるものを密勅(みっちょく)という。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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石山基正

石山 基正(いしやま もとなお、1843年5月6日(天保14年4月7日)- 1894年(明治27年)12月28日『明治維新人名辞典』78頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。子爵。通称・亀麿。.

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石山基文

石山 基文(いしやま もとふみ、1827年2月2日(文政10年1月7日)- 1891年(明治24年)11月4日『明治維新人名辞典』78頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。子爵。幼名・千代麿。.

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石山家

石山家(いしやまけ)は、羽林家の家格をもつ公家。藤原北家中御門流。権中納言葉川基起の次男、石山師香から始まる。居所は新在家西側である。江戸時代の家禄は30石。 明治維新後、基文が子爵に叙せられた。.

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石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

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(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。.

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紫式部

紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵) 紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。正確な誕生年は特定できないが、近年の研究では、970年(天禄元年)から978年(天元元年)の間に生まれ、1019年(寛仁3年)までは存命したことがわかっている上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK出版「100分de名著」ブックス 紫式部『源氏物語』P26(2015/12/25発行)。。 「源氏物語」の作者とされ、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた「紫式部日記」も残している。源氏物語と紫式部日記の2作品は、後に「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」として絵画化された。また、歌人である紫式部には、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ歌から選び収めた「紫式部集」がある。「小倉百人一首」にも和歌が収められており、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもある。 父の藤原為時は、官位は正五位下と下級貴族ながら上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。1001年(長保3年)に結婚後3年程で夫が死去する。その後「源氏物語」を書き始め紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、一条天皇の中宮であり藤原道長の娘でもある中宮彰子(藤原彰子)に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。 なお、「紫式部集」には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている和歌の意「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」(塩釜:海藻を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の宮城県塩竈市)。.

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細川興誠

細川 興誠(ほそかわ おきざね、貞享4年(1687年) - 享保13年9月20日(1728年10月22日))は、常陸谷田部藩の嫡子。大納言姉小路公量の四男。正室は細川興栄の娘。子は細川興虎(長男)。通称は主馬。.

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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田向重継

向 重継(たむけ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公家・武将。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遠藤慶利

遠藤 慶利(えんどう よしとし、1609年5月11日(慶長14年4月8日) - 1646年8月9日(正保3年6月28日))は、美濃八幡藩の第2代藩主。三上藩遠藤家2代。 飛騨の戦国大名・姉小路氏の一門で徳川義直に仕えていた森直綱の次男。母は遠藤慶隆の娘・清洲。正室は板倉重宗の娘。子に遠藤常友(長男)、遠藤常昭(次男)、遠藤常紀(三男)、娘(小笠原貞信継室)。官位は従五位下、伊勢守、但馬守。 外祖父の遠藤慶隆には嫡子・遠藤慶勝がいたが大坂冬の陣で発病して翌年に京都で病死した。慶隆には他に男子が無かったため、慶利が養嗣子とされた。寛永9年(1632年)6月28日、慶隆の死去により家督を継ぐ。寛永11年(1634年)、将軍・徳川家光の3度目の上洛に供奉する。寛永13年(1636年)、朝鮮通信使御馳走役を命ぜられる。正保3年(1646年)6月28日、38歳で死去し、跡を長男の常友が継いだ。 Category:三木氏 よしとし Category:郡上藩主 Category:外様大名 Category:1609年生 Category:1646年没.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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風早家

早家(かざはやけ)は、藤原北家閑院流姉小路支流の公家である。江戸時代前期の権大納言姉小路公景の次男・権中納言実種を祖とする。家格は羽林家。家学は茶道。江戸時代の石高は30石3人扶持。.

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飛騨の乱

飛騨の乱(ひだのらん)は、応永18年(1411年)に起こった、飛騨国北部における反乱である。応永飛騨の乱ともいう。.

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飛騨国

飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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阿野実顕

阿野 実顕(あの さねあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿・歌人。阿野実時(内山上乗院道怡。還俗して休庵と号する)の子だが、祖父・右少将阿野季時の名跡を継いで阿野家を再興した。初名は実政(さねまさ)、一時実治(さねはる)とも。官位は正二位・権大納言。阿野家16代当主。.

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阿野家

阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。 家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。(旧家、外様)明治維新後は子爵。 阿野の家名は草創期における武家との相続関係に由来しており、源義朝の七男で義経の同母兄である今若丸が駿河国駿東郡阿野荘(静岡県沼津市西部)を領し、その地名を苗字の地として阿野全成と称したことがもともとの始まりである。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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藤原定時

藤原 定時(ふじわら の さだとき)は、平安時代中期の貴族。藤原北家小一条流、左大臣・藤原師尹の長男。官位は従五位下・侍従。 室は宇多源氏の祖の左大臣・源雅信の娘。百人一首で有名な藤原実方は長男で、定時の早世のため叔父・藤原済時の養子となった。娘は熊野神職の鈴木重実の室となった。.

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藤原宣孝

藤原 宣孝(ふじわら の のぶたか)は、平安時代中期の貴族。藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子。紫式部の夫。官位は正五位下・右衛門権佐。.

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藤原宗隆

藤原 宗隆(ふじわら の むねたか)は平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家、権中納言・藤原長方の長男。.

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藤原師尹

藤原 師尹(ふじわら の もろただ)は、平安時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・藤原忠平の五男。官位は正二位・左大臣。小一条流の祖。.

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藤原師成

藤原 師成(ふじわら の もろなり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小一条流、権中納言・藤原通任の長男。官位は正二位・参議。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原公季

藤原 公季(ふじわら の きんすえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・師輔の十一男(十二男とも)。官位は従一位、太政大臣、贈正一位。閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。閑院流の祖。.

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藤原通任

藤原 通任(ふじわら の みちとう)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小一条流、大納言・藤原済時の子。官位は正三位・権中納言。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤原済時

藤原 済時(ふじわら の なりとき)は、平安時代中期の公卿。左大臣・藤原師尹の次男。官位は正二位・大納言、左大将、贈右大臣。.

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葉室家

葉室家(はむろけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流の支流。藤原高藤の後裔で、参議藤原為房の二男・顕隆を家祖とする。家名は、3代光頼が洛西葉室(京都市西京区山田)に営んだ別業に因む。分家に姉小路家などがある。.

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金森長近

金森 長近(かなもり ながちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。通称は五郎八。法印素玄。飛騨高山藩初代藩主。従四位下、兵部大輔、飛騨守。.

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桃園天皇

桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、諱を遐仁(とおひと)という。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田輝録

池田 輝録(いけだ てるとし、慶安2年11月11日(1649年12月14日) - 正徳3年11月26日(1714年1月12日))は、備中生坂藩の初代藩主。 岡山藩主・池田光政の三男で庶子。母は側室・和田伝右衛門の娘・利清院。正室は若原一成の娘(浄円院)。側室に広田氏。子は池田輝廉(次男、通仙院)。官位は従五位下、丹波守。通称主税、初名は熊沢政倫。.

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池田政礼

池田 政礼(いけだ まさのり、嘉永2年12月17日(1850年1月29日) - 明治40年(1907年)10月7日)は、備中生坂藩の第8代(最後)の藩主。名の表記は池田政禮とも(旧字体)。 第7代藩主・池田政和の次男。正室は上杉斉憲の娘。養子に池田政時(本家岡山藩主池田慶政の子)。官位は従五位下、丹波守。幼名は日升丸。 安政2年(1855年)12月27日、父の隠居により家督を継ぐ。文久3年(1863年)、上京して御所の警備を務めた。慶応3年(1867年)12月に再び上京して、翌慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では本家の岡山藩と共に、新政府軍に与した。そして大津口の警備や尾張藩への進軍などで功を挙げている。明治3年(1870年)正月、生坂藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免職され、9月に東京に移った。後に子爵となり、明治40年(1907年)に死去。養子の政時が跡を継いだ。政時は実子の政良が早世したため、養子として政英(姉小路公政の子)を迎えた。政時、政英もまた子爵となっている。.

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池田政時

池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日(明治5年8月29日『平成新修旧華族家系大成』上巻、129-130頁。)- 1940年(昭和15年)7月9日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』34-35頁。)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。.

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池田慶政

池田 慶政(いけだ よしまさ、文政6年7月5日(1823年8月10日) - 明治26年(1893年)3月4日)は、備前岡山藩の第8代藩主。岡山藩池田家宗家10代。 豊前中津藩主奥平昌高の十男。正室は第7代藩主池田斉敏の養女(備中鴨方藩主池田政善の娘)宇多子。子に生駒親忠(長男、生駒親承養子)、池田政時(四男、備中生坂藩池田政礼養子)、萬寿子(池田茂政正室)、娘(池田政保正室)、銀子(柳原義光室)。官位は従四位下、内蔵頭、左近衛権少将。幼名を七五郎。初名は奥平 昌朝(おくだいら まさとも)、池田氏に入ってからは初め諱を道政(みちまさ)とし、のち将軍徳川家慶より偏諱を授かり慶政に改名した。.

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澤宣嘉

澤 宣嘉(さわ のぶよし)は、幕末期の公卿、明治の政治家。.

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澤宣元

澤 宣元(さわ のぶもと、1862年1月30日(文久2年1月1日『平成新修旧華族家系大成』上巻、695頁。) - 1934年(昭和9年)2月16日)は、明治から大正時代にかけての官吏、華族。男爵。 山城国出身。澤宣嘉の次男。兄に澤宣量、澤宣種(義兄、宣嘉の養子)。妻は三浦顕次の娘、後に鈴木亀吉の長女・義子。諱は後に元麿。分家を立てて男爵位を授けられる。外務省に入った後、宮内省に移り、侍従となった。昭和9年(1934年)死去。享年73。墓所は都立雑司ヶ谷霊園にある。(祖父澤為量の墓所も同霊園にある。).

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澤家

澤家(さわけ、新字体:沢家)は、清原氏の流れを汲む堂上家。江戸時代の初めの正二位大蔵卿伏原宣幸(ふせはら のぶゆき、1637年 – 1705年)の次男で従二位右衛門佐澤忠量(さわ ただかず、1637年 – 1754年)を祖とする。 江戸時代の家禄は30石。幕末には為量・宣嘉父子が勤皇・攘夷派の急先鋒として活躍した。 明治維新後は為量が子爵に叙せられたが、為量・宣嘉父子の功績が認められ、宣量の代に半家の中で唯一伯爵に陞爵した。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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新家

新家(しんけ).

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1613年

記載なし。

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1759年

記載なし。

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