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1357年

索引 1357年

記載なし。

104 関係: 南北朝時代 (日本)南朝 (日本)大公大炊御門冬宗天祐 (張士誠)太平 (徐寿輝)女御定宗 (朝鮮王)室町時代丁酉干支仏滅紀元延文張士誠徐寿輝後伏見天皇律宗北朝 (日本)マリア・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃)チョバン朝チベット仏教バルトールス・デ・サクソフェラートポルトガル王国ユダヤ暦ヨハン2世 (ニュルンベルク城伯)トヴェリヒジュラ暦ツォンカパフランシスコ会ニュルンベルク城伯ベトナムアルフォンソ11世 (カスティーリャ王)アヴィス王朝アフォンソ4世 (ポルトガル王)アシュラフイヴァン・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)イタリアカスティーリャ王国ゲルク派ジャーニー・ベクジョチ・ウルスジョアン1世 (ポルトガル王)儒学者公卿元 (王朝)元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)...国王倪文俊皇帝神武天皇即位紀元紹豊真言宗韓林児鎌倉時代西園寺寧子高麗賢俊龍鳳 (韓林児)鄂隠慧カツ臨済宗至正陳朝陳明宗恭愍王李氏朝鮮檀君紀元正平 (日本)法学者法華宗方孝孺文観日仙10月9日 (旧暦)11月21日1262年1278年1291年1292年1299年1300年1309年1313年1314年1402年1405年1419年1425年1433年1月18日1月27日1月7日 (旧暦)4月11日5月28日7月13日7月16日 (旧暦)7月18日7月22日 (旧暦)8月2日9月6日 インデックスを展開 (54 もっと) »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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大公

大公(たいこう、、)は、称号の一つ。ヨーロッパの称号のうち公と訳されるものよりさらに上の称号を訳すのに使われる。大公と訳される称号には、grand duke などいくつかある(以下、原義を示すのに便宜上原則として英語を用いる)。.

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大炊御門冬宗

大炊御門 冬宗(おおいのみかど ふゆむね)は、南北朝時代から室町時代前期の公卿。.

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天祐 (張士誠)

天祐(てんゆう)は元末に泰州での反乱指導者張士誠が建てた私年号。1354年 - 1357年旧8月。 正史には張士誠が叛した1353年を元年とするものがあるが、李崇智、鄧洪波は翌年正月を以て建元したと解釈している。.

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太平 (徐寿輝)

太平(たいへい)は中国・元末に天完(宋ともいう)政権を樹立した徐寿輝が建てた私年号。1356年 - 1358年旧7月。(1358年改元説もある) 元年、末年については史書、研究書により異説が多く、定説が固まっていない。李崇智によると、劉孔慶、薛新力は治平→天啓(1355年)→太平(1358年)の順で改元したと考証している。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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定宗 (朝鮮王)

定宗(チョンジョン、ていそう、1357年7月18日 - 1419年10月15日)は、李氏朝鮮の第2代国王(在位:1398年 - 1400年)、権知高麗国事。本名を李芳果(イ・バンカ、り・ほうか)という。世子になる前は永安君(ヨンアングン、えいあんくん)。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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丁酉

丁酉(ひのととり、ていゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの34番目で、前は丙申、次は戊戌である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の酉は陰の金で、相剋(火剋金)である。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

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延文

延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年から1360年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。.

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張士誠

張士誠 張 士誠(ちょう しせい)は、元末の群雄の一人。娘婿に潘元紹。 蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇り、朱元璋、陳友諒と覇を競ったが、朱元璋によって滅ぼされた。 元末に蜂起した群雄の多くは白蓮教の影響を受けた紅巾軍の系譜に属していたが、張士誠は紅巾軍には属していない。.

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徐寿輝

徐 寿輝(じょ じゅき)は元末の群雄の一人。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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律宗

律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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マリア・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃)

マリア・デ・ポルトゥガル(María de Portugal, 1313年2月9日 - 1357年1月18日)は、カスティーリャ王アルフォンソ11世の王妃。父はポルトガル王アフォンソ4世、母はその最初の妃ベアトリス。.

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チョバン朝

チョバン朝(ちょばんちょう)は、現在のイラン・イラク地方を支配した王朝(1340年 - 1357年)。.

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チベット仏教

チベット仏教(チベットぶっきょう)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。チベット仏教は、根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。また、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。 教義としては、智慧と方便を重視する。インド後期密教の流れを汲む無上ヨーガ・タントラが実践されている。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする。チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れた。そのため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が保存されていることが特徴である。 ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマを尊崇することから、かつては一般にラマ教(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、ややもすると、仏教とは異質な宗教と見なす向きもあったが、その実態が一般の認識を得るにつれ、ラマ教という呼称は不適切だとして、現在では使用されなくなっている。.

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バルトールス・デ・サクソフェラート

バルトールス・デ・サクソフェラート(ラテン語: Bartolus de Saxoferrato、1313年 - 1357年7月13日)は、14世紀のイタリアの及び大陸法の権威であった法学者。ボローニャ大学、ピサ大学、ペルージャ大学の法学教授。フランチェスコ会士。バルトルス・デ・サッソフェラト、バルトロ・ダ・サッソフェラートとも。 スコラ哲学の演繹法を使って法を体系化することにより、実用性に難点の多かった註釈学派に替えて後期註釈学派を発展させ、「バルトールスの徒にあらざる者は法律家にあらず」と言われた。.

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ポルトガル王国

ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、)は、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に、1139年から1910年まで存在した王国。.

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ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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ヨハン2世 (ニュルンベルク城伯)

ベルリンの勝利の並木道にあったヨハン2世の胸像 ヨハン2世・フォン・ニュルンベルク(Johann II.

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トヴェリ

トヴェリ(p)はヴォルガ川に面するロシア連邦の都市。トヴェリ州の州都。人口は376,400人(2004年)。ロシア有数の古い歴史を持つ都市。ヴォルガ川とトヴェルツァ川との合流点にある。モスクワより北西に170km。モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道、および高速道路M10が通る。 1931年から1990年までは、革命家ミハイル・カリーニンに因んでカリーニン(Калинин, Kalinin)と呼ばれていた。.

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ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

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ツォンカパ

ツォンカパ( 、1357年 - 1419年)はチベット仏教最大の学僧であり、代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派(黄帽派)の開祖。本名はロサン・タクパ()。アムド地方ツォンカ(湟中・クンブム・チャンパーリン寺(タール寺)の所在地)の地に生まれる。ツォンカパとは「ツォンカ(湟中)の人」という意味で出身地の地名にちなんだ通称である。ツォンカと言う地名の語源は葱()石濱裕美子 の地()であり、人()を加えると「葱畑の人」という意味ともなる。守護尊(イダム)は文殊菩薩とヴァジュラバイラヴァ。.

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フランシスコ会

フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.

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ニュルンベルク城伯

ニュルンベルク城伯(Burggraf von Nürnberg)は、中世に存在した神聖ローマ帝国の領邦君主。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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アルフォンソ11世 (カスティーリャ王)

アルフォンソ11世(Alfonso XI, 1311年8月13日 - 1350年3月26日/27日)は、カスティーリャ王国の国王(在位:1312年 - 1350年)。カスティーリャ王フェルナンド4世と王妃コンスタンサの唯一の男子。.

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アヴィス王朝

アヴィス王朝(Dinastia de Avis、)は、ポルトガルの王朝。ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ王朝に次いで、1385年から1580年までポルトガル王国を支配した。 創始者であるジョアン1世から最後の国王であるエンリケ1世に至る200年近くの期間のほとんどはポルトガルの「大航海時代」と重複する金七「アビス朝」『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版、11頁。エンリケ航海王子が実施したアフリカ大陸への進出、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によって、大西洋とインド洋にまたがる「ポルトガル海上帝国」が出現した。香料交易の衰退とともにポルトガルの国力は低下し、1580年にスペイン王フェリペ2世が空位となったポルトガル王位に就き、王朝は滅亡を迎える。.

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アフォンソ4世 (ポルトガル王)

アフォンソ4世(Afonso IV 、1291年2月8日 - 1357年5月28日)は、第7代ポルトガル王(在位:1325年 - 1357年)。ディニス1世と王妃イザベル・デ・アラゴンの子。1340年ので負傷しながらも自ら剣を振るって戦ったため、「勇敢王」と呼ばれる。 アフォンソ4世は隣国のカスティーリャ王国とイベリア半島のイスラーム勢力との抗争で多くの戦果を挙げたAlphonso(1911 Encyclopædia Britannica)。一方でポルトガル経済の発展はアフォンソ4世の治世から停滞し、1348年秋のペストの流行によって人口の3分の1が失われた。息子ドン・ペドロと恋仲になった侍女イネス・デ・カストロを処刑したことで、倫理・国家的大義を遵守する厳格な王という印象を持たれているブールドン『ポルトガル史』、34頁。イネスの処刑は後世の人間の非難の的にもなり、またイネスを題材とする多くの文学作品が制作された金七『図説 ポルトガルの歴史』、23頁。.

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アシュラフ

アシュラフ(? - 1357年)は、チョバン朝の第2代(最後)の君主(在位:1343年 - 1357年)。.

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イヴァン・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)

イヴァン・ミハイロヴィチ(, 1357年 - 1425年)は、トヴェリ大公(在位:1399年 - 1425年)、父はトヴェリ大公にして一時はウラジーミル大公にもなったミハイル・アレクサンドロヴィチ、母はスーズダリ公コンスタンチン・ヴァシリエヴィチの娘エフドキア。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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カスティーリャ王国

ティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。.

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ゲルク派

ルク派はチベット仏教4大宗派の1つで、ツォンカパの開いた宗派である。ガンデン寺を総本山とする。ダライ・ラマ、パンチェン・ラマもこの宗派に所属している。.

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ジャーニー・ベク

ャーニー・ベク(جانى بيك خان, Jānī bīk Khan, ? - 1357年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第12代当主(ハン、在位:1342年-1357年)。ジャニベク・ハンとも呼ばれる。先々代のウズベク・ハンの息子。先代のティーニー・ベク・ハンの同母兄弟で、母はウズベク・ハンの4人いた正妃(ハトゥン)のうち第一正妃で大ハトゥンであったタイ・ドゥラ(タイトゥグリー)であった。バトゥの6世の子孫にあたる。 名前の「ジャーニー」とは、ペルシア語で「魂」「親愛さを」を意味する「ジャーン」جان jān から派生した「霊」「精神」という意味の単語「ジャーニー」(جانى jānī)に由来しており、兄のティーニー(「肉体の」「有形の」の意味)と対になる意味の単語である。 1334年頃にウズベク・ハンの宮廷を訪れたイブン・バットゥータの旅行記には、両兄弟について述べられており、ジャーニ・バク جان بك Jāni bak と書かれている。敬虔なムスリムとして知られた人物で、異教徒たちの寺院を破壊し、モスクやマドラサを建設して父ウズベクが推進していた国内のイスラーム化に尽力したという。バトゥータによると、彼のイスラームについての教育はサイイド・シャリーフ・イブン・アブドル=ハミードという人物だったようで、バットゥータは宮廷では彼らジャーニー・ベク配下のムスリム高官たちから主人ジャーニー・ベクの方が人格的により好ましいからと勧められ、彼の帳戸に滞在していた。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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ジョアン1世 (ポルトガル王)

ョアン1世王の旗 ジョアン1世(João I, o de Boa Memória, 1357年4月11日 - 1433年8月14日)は、ポルトガル王国アヴィス王朝の創始者でポルトガル王(在位:1385年 - 1433年)。ペドロ1世の庶子で、フェルナンド1世の異母弟。エンリケ航海王子の父に当たる。政治・軍事の多くに成功を収め、ポルトガルの全盛期の基礎を築き上げたことから「大王」と呼ばれている。.

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儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

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元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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国王

国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.

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倪文俊

倪文俊(げいぶんしゅん、生年不詳 - 1357年)は、元末の農民反乱の指導者。号は蛮子、湖北省沔陽(現在の仙桃市)出身。 成人後に黄陂県(現在の湖北省武漢市北部)に移住し農業に従事していた。1351年(至正11年)、徐寿輝が湖北で紅巾軍を率いた蜂起に参加し元帥に任じられる。その後徐寿輝は天完国を建国、倪文俊は太尉に封じられた。1355年(至正15年)には元水軍を漢川(漢川県)で打ち破った。1356年(至正16年)春、倪文俊は沔陽を攻撃、陳友諒が倪文俊に投降している。翌年秋、政権内紛の結果倪文俊が徐寿輝殺害を計画するが失敗、黄州(黄岡県)に逃れたところを、配下となっていた陳友諒に殺害された。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

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紹豊

紹豊(しょうほう)は、ベトナム陳朝の裕宗が使用した元号。1341年旧8月21日 - 1357年。.

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真言宗

右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう) - コトバンク/世界大百科事典、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。.

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韓林児

韓 林児(かん りんじ)は、元末の群雄の一人。本貫は河北欒城。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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西園寺寧子

西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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賢俊

賢俊(けんしゅん、正安元年(1299年) - 正平12年/延文2年7月16日(1357年8月2日))は、南北朝時代の真言宗の僧。父は権大納言日野俊光。兄弟に日野資名・資朝。俗名は日野 賢俊(ひの たかとし)。菩薩寺大僧正。.

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龍鳳 (韓林児)

龍鳳(りゅうほう)は元代、宋政権を樹立した韓林児が建てた私年号。1355年 - 1366年。.

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鄂隠慧カツ

鄂隠 慧奯(がくいん えかつ、正平12年/延文2年(1357年)- 応永32年2月18日(1425年3月8日)、奯は(大+歳))は、南北朝時代から室町時代中期にかけての臨済宗の僧。諱は初め梵奯とし、のちに慧奯と改めている。字は初め鄂隠と称し、いったん大奯と改めたが、後に鄂院に戻している。別号は関西。諡号は仏慧正続国師。出身は筑後国。 幼い頃に絶海中津に従って出家し、その法を継いだ。1386年(至徳3年/元中3年)に明に渡り、10年間滞在した後日本に帰国。1414年(応永21年)に京都相国寺の塔頭鹿苑院の院主となったが、その後土佐国に隠遁した。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:筑後国の人物 Category:1357年生 Category:1425年没.

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臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

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至正

至正(しせい)は、中国・元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。1341年 - 1370年。1368年に元が大都(現在の北京)を追われた後も、北元の元号として使用された。.

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陳朝

陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.

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陳明宗

陳明宗(ちんめいそう、Trần Minh Tông)は、陳朝大越の第5代皇帝。.

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恭愍王

恭愍王(きょうびんおう、1330年5月23日 - 1374年10月27日)は第31代の高麗王(在位:1351年 - 1374年)。忠粛王の子。姓は王、名は顓、初名は祺。蒙古名は伯顔帖木児(モンゴル語:、Bayan Temür)。諡号は恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王。妃は元の魏王女、 魯国大長公主高麗史89卷列傳2 后妃 魯國大長公主 恭愍王 徽懿魯國大長公主 寶塔失里 元宗室 魏王之女 王在元 親迎於北庭 元封承懿公主.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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法学者

Smeden og bageren. 法学者(ほうがくしゃ)は、学問分野で法学として分類される領域で研究をおこなう学者・研究者。 日本においては、大学に所属する研究者のみを指すのが通常であるが、裁判官や弁護士などの法曹・法律家や、外交官でも法学(国際法・条約)の分野で研究業績のある者を「法学者」と呼ぶこともある。 現役の法学研究者の中にも、同時に実務家(法実務家)として活躍する者もいる。.

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法華宗

法華宗(ほっけしゅう)とは、妙法蓮華経を依拠教典とする仏教の宗旨に対して使用される呼称のひとつ。以下の各種の用法で用いられる。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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方孝孺

方孝孺(ほうこうじゅ、1357年-1402年)は、明初期の儒学者。字は希直、または希古。別名方正学。 洪武帝(朱元璋)の家臣の息子で、1376年に宋濂に師事した。その時、才能を発揮したことから、知識人層から推挙されたが、洪武帝からは、重用されず、官は漢中府教授に止まっていた。 1392年、皇太孫(のちの建文帝)の側近となる。建文帝からは重用され、翰林侍講学士に抜擢された。そして建文帝の信任のもとで国政改革に従事し、徳治による政治体制を目指したが、燕王・朱棣(のちの永楽帝)による靖難の変が起こる。靖難の変末期には、方孝孺は建文帝から軍の総司令官に任命されたが、大敗して方孝孺は捕らえられた。 即位して永楽帝となった朱棣は、姚広孝の進言もあって方孝孺を助命し、「詔天下,非先生草不可」(詔勅を書いていただきたい。先生でなければダメなのですよ)と、彼に即位の詔を書くよう、懇願した。これは、方孝孺が当時、儒学の大家として有名であったため、即位に関して簒奪として見ている儒学者の支持を得るためである。しかし、方孝孺は建文帝から重用された恩を忘れていなかったため、筆を投げ捨て、泣き乱しながら朱棣を罵り、「死即死耳,詔不可草。(さあ殺せ!わしは詔勅など書かんぞ!)」と騒いだので、激怒した朱棣に磔の刑に処され、死亡した。方孝孺は処刑の直前、「天は乱離を降す、いずれか其の由を知らんや。云々」という辞世の詩を詠んでいる。方の宗族・親友は連座して処刑されたものが数百人に及んだ(明史『方孝孺伝』) あまり信用出来ない民間の野史(『明史記事本末』など)は、方孝孺は朱棣に捕らえられた時に、朱棣の目の前で「燕賊簒位(燕の逆賊が皇帝位を乗っ取りやがった)」と大書し、これが永楽帝の怒りに触れて、磔にされて一族800余名全てを目の前で処刑された後(妻子は既に自殺していた)、同じく建文帝派であった斉泰・黄子澄と共に処刑された。さらに永楽帝は、方孝孺の著作を抹消すべく、それらを全て焼き捨てたうえ、方孝孺の門下生の多くを処刑、もしくは流罪に処し、この虐殺は滅十族と称されたとし、この話が非常に普及しているが、『明史記事本末』という史書は元々建文帝が海外に逃亡したという伝説をそのまま書いているような至って程度の低い歴史小説に過ぎず、高島俊男が批判したように現在ではこの話は殆ど史実とみなされていない。 category:中国の儒学者 Category:14世紀の学者 Category:15世紀の学者 category:明代の人物 Category:1357年生 Category:1402年没 Category:刑死した人物.

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文観

文観(もんかん、弘安元年(1278年) - 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代の僧。小野僧正。殊音上人、弘真。醍醐座主。「文観」という僧名と「殊音上人」という上人号は「文殊」菩薩と「観音」菩薩に因むものという。 正安2年(1302年)には般若寺の律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律を学ぶ。正和5年(1316年)に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。邪教とされていた真言宗立川流の僧としても知られ、円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。 後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。元亨4年(1324年)には般若寺に文殊菩薩像を造り、嘉暦元年(1326年)から後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪となる。 正慶2年 / 元弘3年(1333年)に元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り東寺長者となり、建武の新政で栄華を極めた。しかし、高野山の僧らは文観と立川流を危険視し、1335年(建武2年)に立川流の僧の多くを殺害、書物を灰燼に帰するといった大規模な弾圧を加えた。文観自身もこの時期に東寺長者の地位をはく奪され甲斐国へ流された。その後京都へ戻り、南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となる。河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没、享年80。 、河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。.

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日仙

日仙(にっせん、弘長2年(1262年) - 正平12年/延文2年1月7日(1357年1月27日))は、鎌倉時代中期から後期にかけて法華宗(日蓮正宗)の僧。摂津公・上蓮坊(百貫坊)と号す。日興の弟子。本六の一人。日蓮に仕え「百貫坊」という名前を与えられた。日華に従って讃岐地方に布教した。西国三十三ヵ国の導師といわれる。讃岐本門寺開基。.

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10月9日 (旧暦)

旧暦10月9日(きゅうれきじゅうがつここのか)は、旧暦10月の9日目である。六曜は赤口である。.

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11月21日

11月21日(じゅういちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から325日目(閏年では326日目)にあたり、年末まであと40日ある。.

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1262年

記載なし。

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1278年

記載なし。

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1291年

記載なし。

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1292年

記載なし。

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1299年

記載なし。

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1300年

記載なし。

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1309年

記載なし。

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1313年

記載なし。

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1314年

記載なし。

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1402年

記載なし。

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1405年

記載なし。

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1419年

記載なし。

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1425年

記載なし。

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1433年

記載なし。

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1月18日

1月18日(いちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から18日目に当たり、年末まであと347日(閏年では348日)ある。.

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1月27日

1月27日(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から27日目に当たり、年末まであと338日(閏年では339日)ある。.

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1月7日 (旧暦)

旧暦1月7日(きゅうれきいちがつなのか)は、旧暦1月の7日目である。六曜は先勝である。.

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4月11日

4月11日(しがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から101日目(閏年では102日目)にあたり、年末まではあと264日ある。誕生花はヤグルマギク、クンシラン。.

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5月28日

5月28日(ごがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から148日目(閏年では149日目)にあたり、年末まではあと217日ある。誕生花はアマリリス。.

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7月13日

7月13日(しちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から194日目(閏年では195日目)にあたり、年末まであと171日ある。誕生花はホテイアオイ、ニチニチソウ。.

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7月16日 (旧暦)

旧暦7月16日は、旧暦7月の16日目である。六曜は仏滅である。.

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7月18日

7月18日(しちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から199日目(閏年では200日目)にあたり、年末まであと166日ある。誕生花はトルコキキョウ、ゲッカビジン。.

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7月22日 (旧暦)

旧暦7月22日は旧暦7月の22日目である。六曜は仏滅である。.

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8月2日

8月2日(はちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から214日目(閏年では215日目)にあたり、年末まではあと151日ある。.

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9月6日

9月6日(くがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から249日目(閏年では250日目)にあたり、年末まであと116日ある。.

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