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領家

索引 領家

家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた。.

28 関係: 半済天皇太閤検地室町時代守護平安時代年貢地頭公事国衙国衙領田堵百姓鎌倉幕府鎌倉時代荘官荘園荘園 (日本)荘園公領制荘園整理令負所開発領主武士本家本所摂家10世紀11世紀

半済

半済(はんぜい)は、室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指す。半済を認める法令を半済令または半済法という。 元来、半済とは「年貢の半分を納付する」という意味より百姓の年貢の半分を免除することを意味していたが、南北朝時代頃から、守護が軍費・兵糧を現地調達するために、荘園・公領の年貢の半分を軍勢に預け置くことが、半済として行われ始め、1352年に最初の半済令が幕府から出された(なお、南北朝・室町時代においても年貢の半分免除の意味で「半済」という言葉が用いられる場合も存在しており注意を要する)。これを契機に、守護による荘園・公領への侵蝕が本格化し、守護領国制・守護大名の誕生へとつながっていった。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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太閤検地

太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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年貢

年貢(ねんぐ)は、日本史上の租税の一形態。律令制における田租が、平安時代初期-中期に律令制が崩壊・形骸化したことにともなって、年貢へと変質したが、貢租(こうそ)という別称に名残が見られる。その後、中世・近世を通じて、領主が百姓(農民でなく普通の民をいう。)を始めとする民衆に課する租税として存続した。主に、米で納めるため、その米を年貢米(ねんぐまい)と呼ばれた。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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公事

公事(くじ、くうじ、おほやけごと)とは日本史における用語の1つで、下記の意味で用いられている。.

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国衙

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.

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国衙領

国衙領(こくがりょう)は、平安時代中期頃以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語。国衙は国の役所の意味。.

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田堵

堵(たと)は、日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層である。田刀、田頭とも。貞観元年(895年)12月付の元興寺領近江愛智荘(えちのしょう)の検田帳である。田堵の堵は、垣を意味する。また、「田刀」を「田刀禰」の略とみて、元は国司・郡司の下にいて田地の境界画定や勧農を担った刀禰を指していたとする見方もある。.

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百姓

姓(ひゃくせい / ひゃくしょう)とは、.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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荘官

荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。.

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荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

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荘園 (日本)

ここでは日本の荘園(にほんのしょうえん)について扱う。.

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荘園公領制

荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)とは、日本の中世における、荘園と公領を土台とした、重層的土地支配構造のことである。歴史学者の網野善彦が提唱した。11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立し、院政期を通じて発展し、鎌倉時代前後に最盛期を迎えた。その一方で、鎌倉時代には地頭による侵食を受け、室町時代には守護(守護大名)によって蚕食されるなど、武士の進出に伴って次第に解体への道を進み、戦国時代頃までにほぼ形骸化した。最終的には太閤検地で完全に消滅する。 なお、この項目においての荘園・公領とは、それぞれ荘園公領制の土台となった寄進地系荘園・国衙領を指すものとする。.

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荘園整理令

荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。 特に有名なものは、1069年(治暦5年.

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負所

負所(おっしょ)とは、中世の荘園において、本来は国衙に納めるべき雑役(場合によっては官物の一部を含む)の免除を受け、その分を自己に収めることが出来る荘園領主及びその土地を指す。 元来、朝廷や皇族の所有地であったものが寺院などに寄進されて荘園化されたものが多い。本来こうした荘園の取り分である雑役は国衙が官物とともに一括徴収していたが、負所では荘園領主に直接納入された。本来は実際にこれを耕作していた負人(ふにん)側からの呼び名であると言われている。ただし、負所の荘園領主は不作の年でも一定の得分を確保する特権を有する代わりに得分そのものが反別一斗程度と低く、下地支配権を持たなかった。そこで荘園領主は現地の名主と結びついて一円支配の確立に努めた。 Category:日本の荘園制.

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開発領主

開発領主(かいほつりょうしゅ/かいはつりょうしゅ)は、日本の荘園公領制において、田地を開発して領地を確保した者をいう。根本領主ともいう。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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本家

本家(ほんけ)は、日本の荘園制における重層的土地支配構造(荘園公領制、職の体系を参照)上、最上位に位置づけられる土地の名義上の所有権者である。開発領主(かいほつりょうしゅ)から寄進を受けた領家から更に寄進を受けた院宮家、摂関家、大寺社が本家となっていた。宗家ともいう。.

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本所

本所(ほんじょ)は、日本荘園制の荘園領主である本家および領家のうち、荘務を行う権限、すなわち荘園の実効支配権を有した者をいう。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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