目次
79 関係: 右大臣、吉川弘文館、堀河天皇、大同 (日本)、天皇、太上天皇、太政官、女院、官人、寛治、封戸、小右記、左大臣、中右記、中務省、九条忠家、平安時代、平安時代史事典、五色の賤、亀山天皇、佐藤誠実、御堂流、従五位、ミネルヴァ書房、冬至、円融天皇、内覧、元服、先例、勅許、国史大辞典 (昭和時代)、皇后、皇太后、皇族、立太子、為房卿記、白河天皇、随身、鎌倉幕府、選叙令、観察使、角川書店、譲位、貞観 (日本)、貴族、賤民、黒板伸夫、関白、藤原基経、藤原実資、... インデックスを展開 (29 もっと) »
右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。
見る 上表と右大臣
吉川弘文館
株式会社吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は、日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。
見る 上表と吉川弘文館
堀河天皇
堀河天皇内裏跡石碑(破壊され現存しない) 堀河天皇(ほりかわてんのう、1079年8月8日〈承暦3年7月9日〉- 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉)は、日本の第73代天皇(在位:1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉- 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉)。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第三皇子。母は藤原師実の養女で白河中宮の賢子。准母は同母姉の媞子内親王(郁芳門院)。
見る 上表と堀河天皇
大同 (日本)
は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。
見る 上表と大同 (日本)
天皇
天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。
見る 上表と天皇
太上天皇
光厳上皇宸筆「太上天皇」 太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにある。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。
見る 上表と太上天皇
太政官
太政官(だじょうかん、おおいまつりごとのつかさ)とは、律令制における最高国家機関。律令制に基づき司法・行政・立法を司った。長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。ただし通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が実質的な長官としての役割を担った。事務局として少納言局と左右弁官局が附属する。唐名から尚書省(しょうしょしょう)、都省(としょう)とも呼ばれた。 鎌倉時代から始まる武家政権の時代には実質的には機能しなかったが、武家政権の代表が太政官の大臣に就くことでその権威を保障した。
見る 上表と太政官
女院
女院(にょいん/にょういん)は、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇のことを指し、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。
見る 上表と女院
官人
官人(かんにん、かんじん、つかさびと、とね)とは、官吏・役人を指す言葉。律令制では諸司の主典以上六位以下、平安時代には判官以下、特に近衛府の将監以下の官吏を指した。
見る 上表と官人
寛治
寛治 (かんじ、)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。
見る 上表と寛治
封戸
封戸(ふこ)とは、古代の貴族に対する封禄制度の1つ。特定数の公民の戸を支給するもので、「封戸を食む」という意味から、実際に行われた支給制度を「食封(じきふ)」とも呼び、封戸は食封にあてられた戸そのものを指す場合もあった。 中国では春秋戦国時代の周、漢での食邑(しよくゆう)に当たる。南北朝時代以後に制度が整備された。
見る 上表と封戸
小右記
『小右記』(しょうゆうき / おうき)は、平安時代の公卿・藤原実資の日記。「小右記」とは小野宮右大臣(実資のことを指す)の日記という意味。全61巻。全文が漢文で書かれている。『野府記』(やふき)ともいう。
見る 上表と小右記
左大臣
左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。
見る 上表と左大臣
中右記
『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。宗忠は『愚林』と名付けたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。
見る 上表と中右記
中務省
中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名は「なかのまつりごとのつかさ」。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。
見る 上表と中務省
九条忠家
九条 忠家(くじょう ただいえ)は、鎌倉時代前期から後期にかけての公卿。摂政関白左大臣・九条教実の長男。官位は従一位・摂政関白右大臣。九条家5代当主。号に一音院関白。
見る 上表と九条忠家
平安時代
平安時代(へいあんじだい、、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念と古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。
見る 上表と平安時代
平安時代史事典
『平安時代史事典』(へいあんじだいしじてん)は、1994年に平安京遷都1,200年を記念して、古代学協会・古代学研究所編集のもと角川書店より出版された、平安時代の総合大事典。角田文衞監修。全3冊。なおこの事典は絶版となっていたが、2006年11月にCD-ROM版が発売された。
見る 上表と平安時代史事典
五色の賤
五色の賤(ごしきのせん)とは、律令制の元で設置された古代日本の5種の賤民である。 近世の被差別民や近現代日本の被差別部落の直接的な起源であるとする説が存在するが、議論がある。
見る 上表と五色の賤
亀山天皇
亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、、1249年7月9日〈建長元年5月27日〉- 1305年10月4日〈嘉元3年9月15日〉)は、日本の第90代天皇(在位:1260年1月9日〈正元元年11月26日〉- 1274年3月6日〈文永11年1月26日〉)。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。南朝(大覚寺統)の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の南朝と後深草系の北朝(持明院統)による対立が生じる端緒となった。 皇家の人間ながら、当時の新興宗教である禅宗・律宗を手厚く保護した。
見る 上表と亀山天皇
佐藤誠実
佐藤 誠実(さとう じょうじつ/のぶざね、1839年12月28日(天保10年11月13日)- 1908年(明治41年)3月31日)は、幕末から明治時代の国学者であるデジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『』- コトバンク朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『』- コトバンク。幼名は造酒、号は黙齋。
見る 上表と佐藤誠実
御堂流
御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門および彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。
見る 上表と御堂流
従五位
従五位(じゅごい)とは、日本の位階および神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。
見る 上表と従五位
ミネルヴァ書房
株式会社ミネルヴァ書房(ミネルヴァしょぼう)は、日本の出版社。本社は京都市山科区。
見る 上表とミネルヴァ書房
冬至
冬至(とうじ、winter solstice)は、二十四節気の第22。 天文・平気法・周正などの節切りでは第1となり、暦法上で1年間の干支の移行(年界)を冬至(太陽高度に基づいた判断)や冬至の存在する子月・大雪とする説があるが、先天・後天八卦論においては冬至時点ではまだ陰の氣が陽の氣を上回っており、先天・後天八卦論に基づいた判断では二十四山の艮(甲領域)から陽の氣が陰の氣を上回る事象に基づいて立春が年界となる等、年界には諸説が存在する。
見る 上表と冬至
円融天皇
円融天皇(えんゆうてんのう、、959年4月12日〈天徳3年3月2日〉- 991年3月1日〈正暦2年2月12日〉)は、日本の第64代とされる天皇(在位:969年9月27日〈安和2年8月13日〉- 984年9月24日〈永観2年8月27日〉)。諱は。 村上天皇の第5皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・皇后(中宮)安子。冷泉天皇の同母弟。
見る 上表と円融天皇
内覧
内覧(ないらん)とは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること、またはその令外官の役職。本項ではこれを扱う。 転じて、事前展示により一般公開前に特定の人(上得意、会員カード保有者など)に商品などを公開することを内覧、または内覧会とも言う。また、特定の取引先などをターゲットにした展示会も内覧会という。
見る 上表と内覧
元服
元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 元服の風習は時代、地方、階級によって大きく異なる。堂上家以上の公家は冠、武家や以下では冠の代わりに烏帽子を着用した。中世以降は混同されて烏帽子を用いても加冠といい、近世には烏帽子も省略されて月代を剃るだけで済ませた。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。
見る 上表と元服
先例
先例(せんれい)とは過去に存在した同様の事例。また、その中で特に規範としての重みを持ち、諸々の判断基準として位置づけられるもの。前例。また、特に繰り返し行われてきたものについては「慣例」「通例」などともいわれる。
見る 上表と先例
勅許
ジョージ4世が1827年に認可した、キングス・カレッジ・トロント(現トロント大学)を設立する勅許状。 1829年のキングス・カレッジ・ロンドンの勅許認可を祝う彩色版画(H. D. スミス作)。 勅許(ちょっきょ、)または勅許状(ちょっきょじょう)とは、君主が、大権に基づき発する公的な認可である。英米法系の国々と、日本などの国では法的位置付けが異なる。 英米法系の国々においては、歴史的には公法の公布のために用いられてきた。最も知られた例はイギリスの1215年のマグナ・カルタ(またの名を大憲章、)である。14世紀以降は、個人または団体に法的な権利または法人格を与える私法としてのみ用いられてきた。自治体()、大学や学会などの重要な組織の設立のため用いられることもあり、この点は現代においても同様である。
見る 上表と勅許
国史大辞典 (昭和時代)
國史大辭典(こくしだいじてん)とは、昭和54年(1979年)から平成9年(1997年)にかけて吉川弘文館から刊行された、日本で最大級の歴史百科事典である。四六倍判で全15巻(17冊)、総収録項目数は54000余である。各巻は平均して1000ページ、うち平均150ページは原色図版など。第45回菊池寛賞を受賞した。 2010年7月1日よりデジタル版「国史大辞典」が、インターネット百科事典「ジャパンナレッジ」の新しいコンテンツとして公開された。
皇后
皇后(こうごう、Empress)、王后(おうごう、Queen)は、皇帝・天皇・国王の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇・皇帝・国王の複数の妻のうち最上位の者となる。
見る 上表と皇后
皇太后
皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)王太后(おうたいごう、Queen Dowager)は、先代の皇帝・天皇・国王の皇后であった者、ならびに皇帝・天皇・国王の母親(母后)である者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。
見る 上表と皇太后
皇族
皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく、Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。
見る 上表と皇族
立太子
立太子(りったいし)は、広く東アジアにおいて広まった儀礼で、日本の天皇・中国の皇帝の皇子等を跡継ぎとして太子に立てることである。日本の皇子に対しては立坊(りゅうぼう、りつぼう)もしくは立儲(りっちょ)とも言う。 また、日本においてはこの概念が定着していることから、ヨーロッパの王家に対しても、「立太子」の語を用いることがある。
見る 上表と立太子
為房卿記
為房卿記(ためふさきょうき)は、後三条・白河・堀河・鳥羽天皇に蔵人・蔵人頭として仕え、大蔵卿・参議として活躍した藤原為房の日記で、「大記」「大御記」「大府記」とも呼ばれる。 延久2年(1070年)から永久2年(1114年)までの記録があるが、治暦年間(1065年-1068年)頃から記していたとも言われるが、京都大学文学部所蔵の自筆1巻を残し、ほとんどが散逸する。ただ、鎌倉期の古写本が京都大学や陽明文庫・宮内庁書陵部などに残る。院政政治についての内容が現存しているが、一年分を完備した年はなく断続的である。また、永保元年(1081年)秋の熊野詣の記事は特に「為房卿熊野参詣日記」として取り上げられることがある。
見る 上表と為房卿記
白河天皇
白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本国第72代天皇(在位:1073年1月18日〈延久4年12月8日〉- 1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉)。諱は貞仁(さだひと)。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。
見る 上表と白河天皇
随身
随身(ずいじん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人。令外官。
見る 上表と随身
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。
見る 上表と鎌倉幕府
選叙令
選叙令(せんじょりょう)は、令の篇目の1つ。養老令では第12番目に位置しており、全38条からなる。大宝令では選任令と称されていた。 唐の選挙令を継承したもので、飛鳥浄御原令の考仕令が大宝令で考仕令と選任令とに分かれたものである。「選」とは才能を選出して官職に任命することで、「叙」は考を数えて位階を叙することである。 官位を授与する際のもろもろの規定を収載し、考課令と合わせて官人の人事制度を規定したものである。叙位の年間の日程・手続きを定め、位階においては、内・外五位以上に叙する「勅授」、内八位・外七位以上に叙する「奏授」、外八位および内・外初位に叙する「判授」を区別し、官職においては、大納言以上などの中核的な官僚を任命する「勅任」のほかに、「奏任」、「判任」、「判補」の4段階に区分されていた。そのほか、成選の年限および進階法、秀才・明経・進士・明法などの各科の官吏登用試験の制度と合格者の叙位、蔭位の制などを制定する。任官に関しては、官人の兼官や致仕(辞職)、散位などや、郡司、国博士、帳内・資人などの任命に関する人事細則が見られる。
見る 上表と選叙令
観察使
観察使(かんさつし)は、中国の唐、李氏朝鮮、および平安時代初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。唐・日本ではいずれも律令に規定のない令外官だった。李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。
見る 上表と観察使
角川書店
角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店(Kadokawa Shoten Publishing Co., Ltd.)についても解説する。
見る 上表と角川書店
譲位
譲位(じょうい、)は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。 本項では、主に日本の天皇の譲位について記述する。
見る 上表と譲位
貞観 (日本)
は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。
見る 上表と貞観 (日本)
貴族
貴族(きぞく)は、特権を備えた名誉や称号を持ち、それゆえに他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団平凡社編『【新装新訂】マイペデイア 小百科事典』(平凡社、1995年)321頁参照。。
見る 上表と貴族
賤民
賤民(賎民、せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた身分またはその者を指す。
見る 上表と賤民
黒板伸夫
黒板 伸夫(くろいた のぶお、1923年(大正12年)4月5日『現代物故者事典2015~2017』(日外アソシエーツ、2018年)p.218 - 2015年(平成27年)5月11日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史。妻は作家の永井路子。歴史学者の黒板勝美は伯父。
見る 上表と黒板伸夫
関白
関白(かんぱく)は、前近代の日本の朝廷において、成人の天皇を補佐する官職。令外官であり、摂政とともに臣下が就きうる最高の職位であった。敬称は殿下。
見る 上表と関白
藤原基経
は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立て、政務を委任された。光孝天皇・宇多天皇期の執政は、日本史上初の関白であったとされる。
見る 上表と藤原基経
藤原実資
藤原 実資(ふじわら の さねすけ、天徳元年〈957年〉 - 永承元年〈1046年〉)は、平安時代の公卿。藤原北家小野宮流、参議・藤原斉敏の四男。 藤原北家嫡流・小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。
見る 上表と藤原実資
藤原師実
藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。
見る 上表と藤原師実
藤原師通
藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の嫡男。官位は従一位、関白、内大臣。
見る 上表と藤原師通
藤原伊尹
藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。「伊尹(いいん)」は古代中国・殷の天乙が阿衡(あこう)に任じ、太甲を一時追放して摂政となった名臣の名である(「阿衡事件」を参照)。
見る 上表と藤原伊尹
藤原彰子
藤原 彰子(ふじわら の あきこ/しょうし、988年〈永延2年〉- 1074年10月25日〈承保元年10月3日〉)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。 女房には、『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位、後冷泉天皇の乳母)、「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、文芸界を形成していた。
見る 上表と藤原彰子
藤原緒嗣
藤原 緒嗣(ふじわら の おつぐ)は、平安時代の政治家。藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左大臣、贈従一位。山本大臣と号す。
見る 上表と藤原緒嗣
藤原道隆
藤原 道隆(ふじわらの みちたか、天暦7年〈953年〉- 長徳元年4月10日〈995年5月12日〉)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病没した。
見る 上表と藤原道隆
藤原道長
藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年〈966年〉- 万寿4年12月4日〈1028年1月3日〉)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。
見る 上表と藤原道長
藤原済時
藤原 済時(ふじわら の なりとき、天慶4年〈941年〉 - 長徳元年〈995年〉)は、平安時代中期の公卿。左大臣・藤原師尹の次男。官位は正二位・大納言、左大将、贈右大臣。
見る 上表と藤原済時
臣籍降下
臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような(広義における)皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言う。身分制度が廃止された日本国憲法下においては、皇籍を喪失することを「降下」と表現するのは不適切とされ、皇籍離脱(こうせきりだつ)が用いられる。本記事では、一旦臣籍に下ったもの(あるいはその子孫)が再び皇族となる皇籍復帰についても記載する。
見る 上表と臣籍降下
長徳
は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。
見る 上表と長徳
長和
は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1017年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。
見る 上表と長和
東宮
東宮(とうぐう・みこのみや)、あるいは春宮 (しゅんぐう・はるのみや)とは、皇太子の居所、つまり住居する場所を意味し、転じて、皇太子そのものを意味する言葉にもなった。
見る 上表と東宮
東山道
東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分である。また、古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編された。
見る 上表と東山道
校倉書房
校倉書房(あぜくらしょぼう)は、かつて存在した出版社。東京都新宿区西早稲田に本社を置き、日本史を中心とした歴史書の出版及び販売を行っていた。
見る 上表と校倉書房
権記
『権記』(ごんき)は、平安時代中期に活躍した藤原行成の記した日記である。名の由来は、極官(ごくかん)の権大納言による。『行成卿記』、『権大納言記』とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、特に蔵人頭在任中(一条天皇期)の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料。 正暦2年(991年)から寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、これに万寿3年(1026年)までの逸文が残っている。自筆本は伝わらない。最も古い写本は、鎌倉時代以前に筆写された伏見宮本(宮内庁書陵部蔵)である。同時期の日記に『小右記』(藤原実資)、『御堂関白記』(藤原道長)がある。
見る 上表と権記
治天の君
治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、皇室の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇(上皇)を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。ただし、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。
見る 上表と治天の君
治安 (元号)
は、日本の元号の一つ。寛仁の後、万寿の前。1021年から1024年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。
見る 上表と治安 (元号)
清和天皇
清和天皇(せいわてんのう、、嘉祥3年3月25日〈850年5月10日〉- 元慶4年12月4日〈881年1月7日〉)は、日本の第56代天皇(在位:天安2年8月27日〈858年10月7日〉- 貞観18年11月29日〈876年12月18日〉)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣の藤原良房の娘の明子。
見る 上表と清和天皇
朧谷寿
朧谷 寿(おぼろや ひさし、1939年3月27日 - )は、日本の歴史学者。同志社女子大学名誉教授。
見る 上表と朧谷寿
有職故実
有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。
見る 上表と有職故実
日本後紀
『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(散逸しており、現存10巻)。
見る 上表と日本後紀
摂政
摂政(せっしょう、regent)は、君主制国家において、君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。 多くの場合、君主の親族(血縁関係にある者)や配偶者が就任する。
見る 上表と摂政
1000年
月曜日から始まる。10世紀最後の年である。
見る 上表と1000年
1990年
この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。
見る 上表と1990年
1993年
この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。
見る 上表と1993年
1994年
この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。
見る 上表と1994年
2003年
この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。
見る 上表と2003年
2007年
この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。
見る 上表と2007年
2011年
この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。
見る 上表と2011年

