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三宝院

索引 三宝院

三宝院大玄関 三宝院(さんぼういん)は、京都市 伏見区 醍醐にある。真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院である。また、真言宗系の修験道当山派を統括する本山であった(現在は修験道当山派なる宗教法人はない)。三宝院門跡は、醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長の猊座にある。.

78 関係: 南北朝時代 (日本)古都京都の文化財塔頭天台宗定済室町幕府安土桃山時代山伏左大臣三宝座主京都市康治仏教廃仏毀釈伏見区伝法灌頂当山派征夷大将軍徳川家康快慶修験道応安応仁の乱応永北政所准后前田玄以勝覚四度加行石田幽汀祈願所義賢義演真言宗真言宗醍醐派猶子鎌倉時代聚楽第聖護院豊臣秀吉賢俊鳥羽天皇足利尊氏足利義稙足利義満足利義澄足利義教足利満詮黒衣の宰相...門跡藤戸醍醐醍醐の花見醍醐寺醍醐寺三宝院庭園長谷川等伯村上源氏永久 (元号)江戸幕府江戸時代源俊房満済本山本山派成賢明治文中日本の国宝一覧日本の特別史跡一覧日本の特別名勝一覧憲深慶長書院造1115年1374年1396年 インデックスを展開 (28 もっと) »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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古都京都の文化財

古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)(こときょうとのぶんかざい(きょうとし、うじし、おおつし))は、その名が示すように京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市の2県3市に点在する構成資産17件から成るユネスコの世界遺産リスト登録物件(文化遺産)である。1994年に日本で5件目の世界遺産として登録された。 正式名称には3市の名前が含まれており、文化庁の表記や日本ユネスコ協会連盟の表記はそうなっているが、しばしば市名の部分を省略して、単に「古都京都の文化財」と呼ばれる。.

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塔頭

塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。 塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。 やがて塔頭に類する塔台を建立するようになった他宗派も現れたり、後に改宗や廃絶したものの塔が残ったりなど現存例は混然としている。.

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天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

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定済

定濟(じょうさい、承久2年(1220年) - 弘安5年10月3日(1282年11月4日))は鎌倉時代前期から中期にかけての真言宗の僧。内大臣・土御門定通の子で、母は葉室光親の娘。 醍醐寺三宝院の憲深に師事にて出家。後に憲深より三宝院を譲られて同院を中興する。寛元元年(1243年)に三会を講じて、寛元2年(1244年)法眼に叙せられた。寛元3年(1245年)権少僧都に任ぜられる。宝治元年(1247年)に権大僧都に進み、建長5年(1253年)に法印に叙せられた。 建長8年(1256年)実深の後を継いで醍醐寺座主に補任され、文永4年(1267年)東大寺別当となる。文永10年(1273年)僧正に進み、弘安3年(1280年)東寺長者、弘安4年(1281年)に大僧正に至った。また同年に勅命を受けて伊勢神宮に参り、蒙古降伏を祈祷した。弘安5年(1282年)10月3日、63歳で入寂。弟子に定勝・通海・定海などがある。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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山伏

野山中でほら貝を吹き修行中の山伏 山伏問答の様子(伽耶院採燈大護摩供) 山岳修行者の出で立ち(都年中行事画帖〈1928年〉) 山伏(やまぶし)とは、山中で修行をする修験道の行者。「修験者」(しゅげんじゃ)とも言う。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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三宝

三宝(さんぽう、さんぼう、tri-ratna トリラトナ)とは、仏教における「仏・法・僧」(ぶっぽうそう)と呼ばれる3つの宝物を指し、仏と、法と、僧(僧伽)のこと。この三宝に帰依し、その上で授戒することで正式に仏教徒とされる。なお、3つという数については、3を聖数とする習俗や信仰とのかかわりも指摘されている。 三宝にも上記の他にもさまざまな理解がある。.

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座主

座主(ざす).

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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康治

康治(こうじ)は、日本の元号の一つ。永治の後、天養の前。1142年から1143年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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廃仏毀釈

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。.

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伏見区

伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。.

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伝法灌頂

伝法灌頂(でんぼうかんじょう)とは、阿闍梨という指導者の位を授ける儀式である。真言宗では、伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、はじめて正式な僧侶と認められる。.

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当山派

三宝院 当山派(とうざんは)は、平安時代から江戸時代にかけて存在した真言宗系の修験道の一派。金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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快慶

快慶(かいけい、生没年不詳)は、鎌倉時代に活動した仏師。運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人である。この流派の仏師は多く名前に慶の字を用いるところから慶派と呼ばれる。快慶は安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い。.

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修験道

野の深山にて修行中の修験者 修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。.

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応安

応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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北政所

北政所(きた の まんどころ)は、平安時代の三位以上の公卿の正室の呼び名。また後に、宣旨をもって特に授けられた摂政・関白の正室の称号。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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前田玄以

前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の1人。.

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勝覚

勝覚(しょうかく、天喜5年(1057年)- 大治4年4月1日(1129年4月21日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は源俊房。立川流の祖仁寛の兄。 醍醐寺座主定賢から灌頂を受け、また義範・範俊に師事して真言密教の奥義を伝授された。醍醐寺三宝院に住し、1085年(応徳2年)醍醐寺座主に就任し、1092年(寛治6年)に広隆寺、ついで1104年(長徳元年)には東大寺に移った。1107年(嘉承2年)に権少僧都に任じられる。度々神泉苑で祈雨法を修し、1120年(保安元年)に少僧都に任じられ、以後東寺長者・同寺法務・同寺寺務を経て権僧正に任じられて東寺別当に至った。弟子には三宝院流の祖定海・理性院流の祖賢覚・金剛王院流の祖聖賢などがいる。 Category:真言宗の僧 Category:真言宗醍醐派 Category:平安時代の僧 Category:村上源氏 Category:1057年生 Category:1129年没.

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四度加行

四度加行(しどけぎょう)は、日本密教において、修行者が阿闍梨となるための伝法灌頂を授かるに先立って修習される四段階の加行(けぎょう, 梵語:prayoga)の総称。 真言宗、天台宗それぞれの内部の流派により、順序や内容の細部に相違があるが、以下の四段階からなる。.

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石田幽汀

石田 幽汀(いしだ ゆうてい、享保6年(1721年 - 天明6年5月25日(1786年6月21日))は、江戸時代中期の鶴澤派(狩野派の一派)の絵師。幽汀は号で、名は守直。円山応挙、田中訥言、原在中らの師として知られる。.

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祈願所

所(きがんじょ)は神社、寺院の1つで、特に人々が神仏に願い事を行う寺社を指す。寺院の場合は祈願寺、御願寺と言う。 また、天皇によって祈願寺となった寺院を、特に勅願寺と言う。.

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義賢

義賢(ぎけん、応永6年(1399年) - 応仁2年閏10月2日(1468年11月16日))は、室町時代の真言宗の僧。将軍足利義満の弟、足利満詮の子。三宝院義賢(さんぼういん ぎけん)としても知られる。通称は後遍智院准后。 応永17年(1410年)4月8日三宝院満済の下で入り、翌18年(1411年)6月21日に法身院にて得度、11月8日に受戒している藤井雅子「中世における三宝院門跡の確立と存続」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3。密教僧としての修行を終えた後の応永32年(1425年)12月5日に東寺長者に任ぜられる。応永34年11月11日に満済から全ての修行を終えたとする付法状を授けられ、永享2年(1431年)に満済から正式に三宝院門跡の後継者に指名された。 三宝院門跡・醍醐寺座主・准三后を歴任した。だが、満済・義賢と2代続けて三宝院よりも室町殿に近い法身院にいる事が多く、寛正3年(1462年)にはこれに反発した三宝院の僧侶が義賢を訴える騒ぎを起こしている。70歳没。 なお、義賢が門跡だった三宝院は創建当初から貴種が住持する院家であり、同門に政深、義覚、政紹が得度していた。三宝院満済からは拠点だった金剛輪院を道場として伝法灌頂を受けており、『「前大僧正満済授義賢阿闍梨灌頂印信印明案」『醍醐寺文書』二六函二七号、「新要録」金剛輪院篇』として現存している。.

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義演

義演(ぎえん、永禄元年8月20日(1558年10月1日)- 寛永3年閏4月21日(1626年6月15日))は、戦国時代から江戸時代にかけての真言宗の僧。父は二条晴良、母は伏見宮貞敦親王王女の位子。室町幕府15代将軍・足利義昭の猶子となる。.

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真言宗

右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう) - コトバンク/世界大百科事典、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。.

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真言宗醍醐派

真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは)は、日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。総本山は醍醐寺。修験道の一派、当山派の中心でもある。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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聚楽第

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。.

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聖護院

本堂 宸殿 聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。 日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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賢俊

賢俊(けんしゅん、正安元年(1299年) - 正平12年/延文2年7月16日(1357年8月2日))は、南北朝時代の真言宗の僧。父は権大納言日野俊光。兄弟に日野資名・資朝。俗名は日野 賢俊(ひの たかとし)。菩薩寺大僧正。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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足利満詮

足利 満詮(あしかが みつあきら)は南北朝時代から室町時代にかけての武将。室町幕府第2代将軍・足利義詮の4男。母は紀良子。同第3代将軍・足利義満の同母弟にあたる。父・義詮と兄・義満より1字ずつ賜って満詮と名乗る。.

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黒衣の宰相

黒衣の宰相(こくえ/こくい の さいしょう).

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邸 門(もん、かど)とは、敷地と外部を区切る塀や垣に通行のために開けられた出入口のこと。外構の一種。 正面口のことは、特に正門(せいもん)とよばれる。門の脇の柱を門柱(もんちゅう)、門の番人を門番(もんばん)、門の扉を門扉(もんぴ)とそれぞれ呼ぶ。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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藤戸

藤戸(ふじと)は、かつて吉備国、あるいは備前国および備中国にわたって存在した海域である。広義では、その海浜や港のことも指す。藤門・藤ノ戸・藤ノ門・藤戸の海・藤門の海・藤戸の鳴門・藤門の鳴門などとも称された。現代では藤戸海峡と称されることもある。他に藤戸浦(ふじとうら)とも呼ばれるが、これは現在の倉敷市藤戸町藤戸にあたる海浜集落(のちの藤戸村)を指すことが多い。 その海域は、河川の堆積作用や干拓にのために時代により広狭変遷し、江戸時代中期頃に新田干拓により消失し陸地化・河川化した。.

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醍醐

醍醐(だいご)とは、五味の一つ。牛乳を加工した、濃厚な味わいとほのかな甘味を持った液汁とされ、最も美味しい味の代名詞として使われた。すでに製法は失われており、後述のような諸説(バターのようなもの松長有慶 「密教大系(9巻)」 1994年 法藏館、又は現代で言うカルピスや飲むヨーグルトのようなもの、または蘇(レアチーズ)を熟成させたものなど)入り乱れ実態は不明である有賀秀子、高橋セツ子、倉持泰子 ほか、 日本畜産学会報 Vol.59 (1988) No.3 P.253-260, 。再現実験を行った有賀らは、バターオイルのような物質であるとしている。.

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醍醐の花見

醍醐寺の清瀧宮本殿と桜 『醍醐の花』(尾形月耕『日本花図絵』) 醍醐の花見(だいごのはなみ)とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。.

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醍醐寺

醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。.

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醍醐寺三宝院庭園

三宝院唐門。院内(建物内)の撮影は禁止されているが、庭園のみの撮影は可能(2017年8月22日現在)。 醍醐寺三宝院庭園(だいごじさんぽういんていえん、-さんぼういん-)は、京都府京都市伏見区にある日本庭園である。醍醐寺の院家である三宝院の庭園であり、1952年(昭和27年)に国の特別史跡および特別名勝に指定された。.

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長谷川等伯

長谷川 等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日(1610年3月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。 能登国・七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。 楓図(旧祥雲寺障壁画のうち)智積院蔵 松林図(右隻) 松林図(左隻).

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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永久 (元号)

永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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満済

満済(まんさい/まんぜい)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺(真言宗)の僧。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后(まんさい じゅごう)、法身院准后(ほっしんいん じゅごう)、三宝院満済(さんぼういん -)としても知られる。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られる。.

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本山

本山(ほんざん)は、日本の仏教の特定の宗派内に於いて、特別な位置づけをされている寺院を指す。上方本寺とも言う。宗派によっては中枢機能を有する寺院も多い。対義語は末寺。 位置づけによって、総本山、大本山、別格本山、本山などの区別があるほか、宗派によってそれぞれの用法が異なり、使用されない事もある。たとえ、寺院が山中と呼べる場所に無くても「本山」と呼ばれることは多い。 また、日本仏教以外の宗教に於いても、例えば「バチカン市国はカトリックの総本山で…」のように便宜的に、また、日常的に使用される事がある。.

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本山派

聖護院 本山派(ほんざんは)は、平安時代から江戸時代にかけて存在した天台宗系の修験道の一派。熊野三山を拠点とし、聖護院を本寺とした。.

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成賢

成賢(じょうけん/せいけん、応保2年(1162年) - 寛喜3年9月19日(1231年10月16日))は鎌倉時代前期の真言宗の僧。藤原南家の出身で、中納言・藤原成範の子。遍智院僧正、宰相僧正と称された。 若くして醍醐寺の叔父勝賢に師事して諸経論を学び、文治元年(1185年)三宝院に入り、11月勝賢より灌頂を受ける。建久4年(1193年)勝賢の権僧正辞退にかわり権律師に任ぜられ、正治2年(1200年)には権少僧都に進む。建仁3年(1203年)に醍醐寺座主に補任された。元久2年(1205年)に座主を持して良海に譲るが、翌年再び座主に復任して、建永2年(1207年)祈雨の功で法印に叙せられた。承元2年(1208年)に大僧都、承元4年(1210年)3月に東寺三長者に任ぜられる。建暦元年(1211年)再び祈雨の功で権僧正となるなど、祈雨に長じたようである。建保6年(1218年)座主を弟子の光宝に譲りまた諸職を辞任した。 成賢は生涯に御修法を39度にわたって行い、秘法を修すれば常に法験を示したという。門弟らもその褒賞により僧官を与えられた。寛喜3年(1231年)9月19日、遍智院で入寂。享年70。藤原定家は成賢を「天下の富人」と評している。著作に、『薄双紙』や『遍口鈔』、『結縁灌頂私記』などがある。 四十人あまりの弟子があったが、特に道教、深賢、憲深、慈教は四傑と呼ばれてそれぞれ家風を起こし、これらは総じて成賢流と称された。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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文中

文中(ぶんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建徳の後、天授の前。1372年から1375年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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日本の国宝一覧

日本の国宝一覧(にほんのこくほういちらん)は、日本の国宝の一覧である。.

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日本の特別史跡一覧

日本の特別史跡一覧(にほんのとくべつしせきいちらん)では、日本の特別史跡をまとめた。.

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日本の特別名勝一覧

上高地 日本の特別名勝一覧(にほんのとくべつめいしょういちらん)は国(文部科学大臣)が文化財保護法に基づいて指定した特別名勝を一覧形式でまとめたものである。2015年(平成27年)10月1日現在、全36件。.

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憲深

憲深(けんじん、建久3年(1192年) - 弘長3年9月6日(1263年10月9日))は鎌倉時代前期から中期にかけての真言宗の僧。藤原南家、中納言・藤原成範の孫で、侍従・藤原通成の子。醍醐寺座主。権僧正。極楽房、または報恩院僧正と号す。 醍醐寺三宝院の叔父成賢に師事し、建保2年(1214年)11月に三宝院で灌頂を受ける。建長3年(1251年)に勝尊の後を継いで醍醐寺座主に就任する。この時の院宣(三宝院では『建長院宣』と呼ばれた)は、「三宝院門跡」の語が登場する初出であるとともに、三宝院が醍醐寺座主を務めたことを明示する先例として後世まで大切にされた。建長7年(1255年)にこれを実深に譲り、建長8年(1256年)に権僧正となった。弘長元年(1261年)7月に実深を正嫡とし、定済に三宝院を譲って、弘長3年(1263年)9月6日、72歳で入寂。 憲深は醍醐寺報恩院に住んだため、その法流は報恩院流と呼ばれた。同流は長きにわたって伝授されたために、憲深はその流祖として仰瞻された。著作に『大法外儀』や『報恩院記』がある。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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書院造

慈照寺東求堂 書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。.

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1115年

記載なし。

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1374年

記載なし。

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1396年

記載なし。

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