ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

1217年

索引 1217年

記載なし。

90 関係: 南宋大理国大真国天台宗天徳 (後遼)天開 (大理)天泰寒巌義尹尊助法親王丁丑干支平安時代仏滅紀元建保建嘉御家人律宗忍性チンギス・カンバレンシア (スペイン)モンゴル帝国ユダヤ暦ラテン帝国ボロクルボードゥアン2世 (ラテン皇帝)ヘルマン1世 (テューリンゲン方伯)ヒジュラ暦テューリンゲンの君主一覧嘉定 (南宋)善鸞イングランド王国イブン・ジュバイルイザベル・オブ・グロスターエンリケ1世 (カスティーリャ王)カスティーリャ王国ジョン (イングランド王)儒学者公卿公家元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)光定 (西夏)皇帝神武天皇即位紀元真言律宗熊谷直時鎌倉時代...行意西夏親鸞高宗 (高麗王)高麗貞祐 (金)興定興龍藤原兼房 (太政大臣)金 (王朝)難波頼経李道伝李朝 (ベトナム)檀君紀元武将法親王浄土真宗旅行曹洞宗10月14日1145年1153年1155年1170年1177年11月29日 (旧暦)1204年1273年1280年1286年1291年12月29日1300年1303年2月22日 (旧暦)3月30日4月25日7月16日 (旧暦)8月19日9月8日 (旧暦) インデックスを展開 (40 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

新しい!!: 1217年と南宋 · 続きを見る »

大理国

大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.

新しい!!: 1217年と大理国 · 続きを見る »

大真国

大真国(だいしんこく)は、東真国や東夏国とも称され、13世紀に蒲鮮万奴が中国東北部で建国した女真系国家である。.

新しい!!: 1217年と大真国 · 続きを見る »

天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

新しい!!: 1217年と天台宗 · 続きを見る »

天徳 (後遼)

天徳(てんとく)は、金代に後遼政権で耶律金山が使用した私年号。天会、天成にも作る。1216年 - 1217年。.

新しい!!: 1217年と天徳 (後遼) · 続きを見る »

天開 (大理)

天開(てんかい)は、現在の中国雲南地方に興った大理国の段智祥の治世中に使われた元号。1205年 - 1225年。.

新しい!!: 1217年と天開 (大理) · 続きを見る »

天泰

天泰(てんたい)は中国金代に蒲鮮万奴が自立して建てた大真国(のち東夏)の私年号。1215年 - 1223年。.

新しい!!: 1217年と天泰 · 続きを見る »

寒巌義尹

大慈寺蔵) 寒巌 義尹(かんがん ぎいん、建保5年(1217年) - 正安2年8月21日(1300年10月4日))は、鎌倉時代中期の曹洞宗の禅僧。寒巌派(法皇派)の派祖。父は後鳥羽天皇(『扶桑禅林僧宝伝』)とも順徳天皇(『本朝高僧伝』)とも言われ、法皇長老と呼ばれた。.

新しい!!: 1217年と寒巌義尹 · 続きを見る »

尊助法親王

尊助法親王(そんじょほっしんのう、建保5年(1217年) - 正応3年12月1日(1291年1月2日))は、鎌倉時代中期の法親王。父は土御門天皇。母は法印尋恵の娘。後嵯峨天皇らの異母兄弟。青蓮院・大原宮と号した。.

新しい!!: 1217年と尊助法親王 · 続きを見る »

丁丑

丁丑(ひのとうし、ていちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの14番目で、前は丙子、次は戊寅である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の丑は陰の土で、相生(火生土)である。.

新しい!!: 1217年と丁丑 · 続きを見る »

干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

新しい!!: 1217年と干支 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 1217年と平安時代 · 続きを見る »

仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

新しい!!: 1217年と仏滅紀元 · 続きを見る »

建保

建保(けんぽう)は、日本の元号の一つ。建暦の後、承久の前。1213年から1218年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

新しい!!: 1217年と建保 · 続きを見る »

建嘉

建嘉(けんか、Kiến Gia、キェンザー)は、ベトナム、李朝の恵宗李旵の治世で使われた元号。1211年 - 1224年旧10月。.

新しい!!: 1217年と建嘉 · 続きを見る »

御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

新しい!!: 1217年と御家人 · 続きを見る »

律宗

律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった。.

新しい!!: 1217年と律宗 · 続きを見る »

忍性

忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られる。資産家としても知られ、鎌倉に入る主要な街道の関所で、「通行税」を人ごとに徴収していた。これが後の15世紀の土民一揆の原因と言われている。.

新しい!!: 1217年と忍性 · 続きを見る »

チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

新しい!!: 1217年とチンギス・カン · 続きを見る »

バレンシア (スペイン)

バレンシア(バレンシア語: València; 、スペイン語: Valencia; )は、スペイン・バレンシア州バレンシア県のムニシピ(基礎自治体)。バレンシア州の州都であり、バレンシア県の県都でもある港湾都市である。 紀元前138年にローマ人の植民市として建設された集落に起源をもつ。人口は約80万人で、マドリードとバルセロナに次いでスペインで3番目に多い。の人口は調査機関によって異なるが、約170万人-約230万人である。地中海西部のバレアレス海に面し、トゥリア川の河口部に位置する。バレンシアの気候は温暖で降水量の少ない地中海性気候である。世界遺産に登録されているラ・ロンハ、国立陶器博物館、バレンシア大聖堂などがある。3月にはスペイン3大祭りのひとつであるファジェス(サン・ホセの火祭り)が開催される。パエリア発祥の地である。はヨーロッパで5番目に貨物取扱量が多い港湾であり、地中海で最も貨物取扱量が多い港湾である。.

新しい!!: 1217年とバレンシア (スペイン) · 続きを見る »

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

新しい!!: 1217年とモンゴル帝国 · 続きを見る »

ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

新しい!!: 1217年とユダヤ暦 · 続きを見る »

僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

新しい!!: 1217年と僧 · 続きを見る »

ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.

新しい!!: 1217年とラテン帝国 · 続きを見る »

ボロクル

ボロクルまたはボロウル(Boroqul, Buroγul〜Boro'ul、?-1217年)は、モンゴル帝国初期の武将。『元朝秘史』では孛囉忽勒、孛囉兀勒、『元史』では博爾忽などと記され、『集史』では بورقول نويان Būrqūl Nūyān または بورغول نويان Būrghūl Nūyān などと表記される。いわゆる四駿(Dörben külü'üd)の1人。フウシン部族出身。『元朝秘史』巻八に載る1206年のチンギス・カン第2即位での功臣リストでは第15位にあたる。.

新しい!!: 1217年とボロクル · 続きを見る »

ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)

ボードゥアン2世・ド・クルトネー(Baudouin II de Courtenay, 1217年 - 1273年)は、ラテン帝国最後の皇帝(在位:1228年 - 1261年)、ナミュール侯。初代皇帝ボードゥアン1世の妹ヨランドと皇帝ピエール・ド・クルトネーの子。父方の祖父ピエール1世はフランス王ルイ6世の末子である。.

新しい!!: 1217年とボードゥアン2世 (ラテン皇帝) · 続きを見る »

ヘルマン1世 (テューリンゲン方伯)

ヘルマン1世(Hermann I., 1155年頃 - 1217年4月25日)は、テューリンゲン方伯(在位:1190年 - 1217年)。ルードヴィング家出身。父はテューリンゲン方伯、母はシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の娘。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の甥に当たる。.

新しい!!: 1217年とヘルマン1世 (テューリンゲン方伯) · 続きを見る »

ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

新しい!!: 1217年とヒジュラ暦 · 続きを見る »

テューリンゲンの君主一覧

テューリンゲンの君主一覧では、現在のドイツ・テューリンゲン州を支配した王・公爵・伯・辺境伯・方伯の一覧を記述する。.

新しい!!: 1217年とテューリンゲンの君主一覧 · 続きを見る »

嘉定 (南宋)

嘉定(かてい)は中国・南宋の元号。寧宗の治世で用いられた。1208年 - 1224年。.

新しい!!: 1217年と嘉定 (南宋) · 続きを見る »

善鸞

善鸞(ぜんらん、建保5年(1217年)? - 弘安9年3月6日(1286年4月1日)?)は、鎌倉時代中期の浄土真宗の僧。慈信房と号する。真宗出雲路派は、毫摂寺第二代と位置付けている。 父は親鸞。母は恵信尼とする説と恵信尼を継母とする説がある(後述)。続柄についても親鸞の長男とする説と次男とする説がある。子は本願寺第二世の如信。末妹に覚信尼がいる。生年は承元4年(1210年)、没年は正応5年(1292年)とする説もあり、そうであれば親鸞配流地の越後で生まれたことになる。 父親鸞が関東布教から京都に戻った後、関東における門弟たちの信仰上の動揺を鎮めるために、善鸞は実子の如信とともに関東へ派遣された。しかし関東で、善鸞は邪義とされた専修賢善(せんじゅけんぜん)を信仰するようになった。現地でひそかに善鸞に伝授された法門教義が正統であり、善鸞自身は善知識すなわち生き仏であると訴えたため、異義異端事件となった。その結果、建長8年(1256年)5月29日付けの手紙が東国に送られ、父から義絶された。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。ただし、高田派専修寺に収蔵されている顕智による写本が存在するのみで、親鸞の真蹟のものは発見されていない。 その後善鸞は如信と別れ、巫祝(ふしゅく)もしくは善知識として関東を中心に布教活動を続けた。その教えは浄土真宗の呪術的異教である隠し念仏として東北地方などで後世に伝えられている。 善鸞の子孫は、大谷ではなく、親鸞の配流時代の姓の藤井を名乗る。.

新しい!!: 1217年と善鸞 · 続きを見る »

イングランド王国

イングランド王国(イングランドおうこく、英語:Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から、1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。 スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ1世が1603年に王位を兼ねて以来、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。.

新しい!!: 1217年とイングランド王国 · 続きを見る »

イブン・ジュバイル

イブン・ジュバイル(ابن جبير、 Ibn Jubayr、 1145年9月1日 - 1217年11月29日)は、12世紀から13世紀にかけて活躍したムスリムの旅行家。 1183年から1185年にかけてのメッカ巡礼の旅行記『イブン・ジュバイルの旅行記(旅路での出来事に関する情報覚書、rihla Ibn Jubayr)』は巡礼の紀行として優れたものとみなされ、イブン・バットゥータの旅行記を記述したら多くの人間が旅行記の記述を借用した。後世の著述家は、イブン・ジュバイルの旅行記を紀行文の手本とした飯森「イブン・ジュバイル」『新イスラム事典』、120頁竹田「イブン・ジュバイル」『岩波イスラーム辞典』、159頁。旅行記には巡礼の儀式とその意義について解説されており、巡礼を志すムスリムにとっての指南書としても優れている。優れた紀行文としてのみならず、当時の十字軍、ノルマン朝(オートヴィル朝)統治下のシチリア史についての状況を知る貴重な史料としても評価されている。清水「イブン・ジュバイル」『アジア歴史事典』1巻、203頁。.

新しい!!: 1217年とイブン・ジュバイル · 続きを見る »

イザベル・オブ・グロスター

イザベル・オブ・グロスター(Isabel of Gloucester, 1173年 - 1217年10月14日)は、イングランド王ジョンの最初の妻。ヘンリー1世の庶系の孫である第2代グロスター伯ウィリアム・フィッツ・ロバート(ロバート・デ・カーンの子)の娘。父が1183年に死去した時、男子の後継者がいなかったため、グロスター伯の称号は一旦消滅したが、1186年に新たにイザベルに与えられた。.

新しい!!: 1217年とイザベル・オブ・グロスター · 続きを見る »

エンリケ1世 (カスティーリャ王)

ンリケ1世(スペイン語:Enrique I, 1204年4月14日 - 1217年6月6日)は、カスティーリャ王(在位:1214年 - 1217年)。アルフォンソ8世とその王妃でイングランド王ヘンリー2世の王女であったレオノールの息子。.

新しい!!: 1217年とエンリケ1世 (カスティーリャ王) · 続きを見る »

カスティーリャ王国

ティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。.

新しい!!: 1217年とカスティーリャ王国 · 続きを見る »

ジョン (イングランド王)

ョン(John, King of England、1167年12月24日 - 1216年10月18日または19日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。ヘンリー2世が幼年のジョンに領土を与えなかったことから、欠地王(けっちおう、John Lackland)と呼ばれる(領地を大幅に失ったため失地王という日本語表記も見られるが、前述の通りLostlandでは無いので間違いである)。.

新しい!!: 1217年とジョン (イングランド王) · 続きを見る »

儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.

新しい!!: 1217年と儒学者 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 1217年と公卿 · 続きを見る »

公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

新しい!!: 1217年と公家 · 続きを見る »

元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

新しい!!: 1217年と元号一覧 (中国) · 続きを見る »

元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

新しい!!: 1217年と元号一覧 (ベトナム) · 続きを見る »

元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

新しい!!: 1217年と元号一覧 (朝鮮) · 続きを見る »

元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

新しい!!: 1217年と元号一覧 (日本) · 続きを見る »

光定 (西夏)

光定(こうてい)は、西夏の神宗の治世で用いられた元号。1211年旧8月 - 1223年。.

新しい!!: 1217年と光定 (西夏) · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: 1217年と皇帝 · 続きを見る »

神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

新しい!!: 1217年と神武天皇即位紀元 · 続きを見る »

真言律宗

西大寺境内) 真言律宗(しんごんりっしゅう)は、真言密教の宗義に基づいて「根本仏教」の出家戒である『具足戒』と、金剛乗の戒律である『三昧耶戒』を修学する一派。また、南都六宗の1つである律宗精神の再興の意義も併せて有している。.

新しい!!: 1217年と真言律宗 · 続きを見る »

熊谷直時

谷 直時(くまがい なおとき、建保5年(1217年) - 弘安3年5月25日(1280年))は鎌倉時代の御家人。安芸国熊谷氏初代当主。父は熊谷直国。子に熊谷直久(なおひさ)、熊谷直高、熊谷直基(なおもと)。弟は熊谷祐直。幼名は千乕丸・千虎・千虎丸・千虎法師。通称二郎三郎、左衛門次郎、平内左衛門二郎、法名西忍。妻は大叔父・熊谷直勝(なおかつ)の娘。官途は図書介・図書助。.

新しい!!: 1217年と熊谷直時 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 1217年と鎌倉時代 · 続きを見る »

行意

行意(ぎょうい、治承元年(1177年)? - 建保5年11月29日(1217年12月29日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。父は関白太政大臣藤原基房。兄弟に左大臣隆忠、摂政師家、天台座主承円、興福寺別当実尊などがいる。山科僧正とも称される。新三十六歌仙の一人。 従兄弟にあたる覚尊僧正の室に入り、出家。建久4年(1193年)一身阿闍梨となり、同8年(1197年)12月に真円から伝法灌頂を受けた。土御門・順徳両天皇の護持僧を務め、元久元年(1204年)と建暦元年(1211年)には修明門院藤原重子のために五檀法を修し、承元元年(1207年)8月には土御門天皇の病気平癒を祈願して北斗法を修している。建保4年(1216年)7月に園城寺長吏に任じられ、10月には崇福寺別当を兼任した。 和歌にも秀でており、建保2年(1214年)の内裏歌合などの歌合に参加している。『新勅撰和歌集』以下の勅撰和歌集にも入集している。 Category:松殿家 Category:平安時代の僧 Category:鎌倉時代の僧 Category:天台宗の僧 Category:平安時代の歌人 Category:鎌倉時代の歌人 Category:1177年生 Category:1217年没.

新しい!!: 1217年と行意 · 続きを見る »

西夏

西夏(せいか、西夏文字: 、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。.

新しい!!: 1217年と西夏 · 続きを見る »

親鸞

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。、既成の仏教教団や、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。.

新しい!!: 1217年と親鸞 · 続きを見る »

高宗 (高麗王)

宗(こうそう、1192年2月3日 - 1259年7月21日)は第23代高麗王(在位:1213年 - 1259年)。姓は王、諱は皞、諡号は忠憲安孝大王。 1218年、モンゴル帝国と同盟を結ぶことで親睦を深めようとしたが、モンゴルに従属国同然に扱われたことに激怒し、1225年に断交して対立する。そのため、高麗はモンゴル軍の侵攻を6度にわたって受けることになった。 このため、モンゴルの襲来を恐れた崔氏政権は高麗の首都を江華島に移したが、その結果として本土が壊滅状態となり、1258年、これを見かねた高宗は、皇太子(のちの元宗)を人質として差し出すことを条件にして降伏した。このモンゴルの侵攻で高麗は荒廃し、実質的には滅亡状態にあったという。 服属後の高麗国王は、皇帝号・天子の呼称をあらゆる場面において禁止され、詔などの字を用いることも禁止された。太子は世子と格下げされるなどの処置もこうむった。高麗滅亡後、朝鮮では皇帝号・天子の呼称は基本的に使用されず、全て国王号に統一されたため、高宗は朝鮮における皇帝としては、大韓帝国以前の最後の人物となった。 1236年にモンゴルが高麗に侵攻し、符仁寺にあった版木は戦災で焼失してしまった。高宗は江華島に避難していたが、大蔵経の製作を指示し、巨済島や南海から白樺の材木を運び、15年の歳月をかけて8万枚以上もの版木を彫り上げた。これが、今日に伝わる高麗八萬大蔵経である。.

新しい!!: 1217年と高宗 (高麗王) · 続きを見る »

高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

新しい!!: 1217年と高麗 · 続きを見る »

貞祐 (金)

貞祐(ていゆう)は中国・金の宣宗の治世で用いられた元号。1213年 - 1217年。.

新しい!!: 1217年と貞祐 (金) · 続きを見る »

興定

興定(こうてい)は、中国・金の宣宗の治世で用いられた元号。1217年 - 1222年。.

新しい!!: 1217年と興定 · 続きを見る »

興龍

興龍(こうりゅう)は中国の金及びモンゴル帝国の時代に「瀛王」または「漢興皇帝」を号した張致が建てた年号。興隆にも作る。『元史』『続資治通鑑』は使用年代を1215年 - 1216年とするが、銭大昕『廿二史考異』は考証によって1216年建元説をとり、現在の研究もこれにしたがっている。.

新しい!!: 1217年と興龍 · 続きを見る »

藤原兼房 (太政大臣)

藤原 兼房(ふじわら の かねふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の十男。官位は従一位・太政大臣。.

新しい!!: 1217年と藤原兼房 (太政大臣) · 続きを見る »

金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

新しい!!: 1217年と金 (王朝) · 続きを見る »

難波頼経

難波 頼経(なんば よりつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。藤原頼経とも呼ばれる。藤原北家難波家、刑部卿・難波頼輔の長男。官位は従四位下・刑部卿。難波家3代。.

新しい!!: 1217年と難波頼経 · 続きを見る »

李道伝

李 道伝(り どうでん、1170年 - 1217年)は、中国宋(南宋)時代の儒学者。字は貫之。諡号は文節。父は李舜臣、兄弟に李心伝・李性伝、子に李達可・李当可・李献可がいる。 慶元2年(1196年)の科挙では進士となった。北方よりの金の圧迫に反抗し、失地回復を為す事を主張した。また、嘉定8年(1215年)に朱子の語を記録した『池録』を編纂した。.

新しい!!: 1217年と李道伝 · 続きを見る »

李朝 (ベトナム)

李朝(リちょう、)は、ベトナム北部に1009年から1225年まで存在した王朝。首都は昇龍(現在のハノイ)。.

新しい!!: 1217年と李朝 (ベトナム) · 続きを見る »

檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

新しい!!: 1217年と檀君紀元 · 続きを見る »

武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

新しい!!: 1217年と武将 · 続きを見る »

法親王

法親王(ほうしんのう、ほっしんのう)とは、日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の身位・称号。 これに対して、すでに親王宣下を受けている親王が出家(入道)した場合は入道親王と呼んで区別した。.

新しい!!: 1217年と法親王 · 続きを見る »

浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.

新しい!!: 1217年と浄土真宗 · 続きを見る »

旅行

本項目では旅行(りょこう)、旅(たび)について解説する。.

新しい!!: 1217年と旅行 · 続きを見る »

曹洞宗

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.

新しい!!: 1217年と曹洞宗 · 続きを見る »

10月14日

10月14日(じゅうがつじゅうよっか、じゅうがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から287日目(閏年では288日目)にあたり、年末まであと78日ある。.

新しい!!: 1217年と10月14日 · 続きを見る »

1145年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1145年 · 続きを見る »

1153年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1153年 · 続きを見る »

1155年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1155年 · 続きを見る »

1170年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1170年 · 続きを見る »

1177年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1177年 · 続きを見る »

11月29日 (旧暦)

旧暦11月29日は旧暦11月の29日目である。年によっては11月の最終日となる。六曜は先負である。.

新しい!!: 1217年と11月29日 (旧暦) · 続きを見る »

1204年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1204年 · 続きを見る »

1273年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1273年 · 続きを見る »

1280年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1280年 · 続きを見る »

1286年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1286年 · 続きを見る »

1291年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1291年 · 続きを見る »

12月29日

12月29日(じゅうにがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から363日目(閏年では364日目)にあたり、年末まであと2日ある。.

新しい!!: 1217年と12月29日 · 続きを見る »

1300年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1300年 · 続きを見る »

1303年

記載なし。

新しい!!: 1217年と1303年 · 続きを見る »

2月22日 (旧暦)

旧暦2月22日は旧暦2月の22日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 1217年と2月22日 (旧暦) · 続きを見る »

3月30日

3月30日(さんがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から89日目(閏年では90日目)にあたり、年末まであと276日ある。.

新しい!!: 1217年と3月30日 · 続きを見る »

4月25日

4月25日(しがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から115日目(閏年では116日目)にあたり、年末まではあと250日ある。誕生花はシャガ、モッコウバラ。.

新しい!!: 1217年と4月25日 · 続きを見る »

7月16日 (旧暦)

旧暦7月16日は、旧暦7月の16日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 1217年と7月16日 (旧暦) · 続きを見る »

8月19日

8月19日(はちがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から231日目(閏年では232日目)にあたり、年末まであと134日ある。.

新しい!!: 1217年と8月19日 · 続きを見る »

9月8日 (旧暦)

旧暦9月8日は旧暦9月の8日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 1217年と9月8日 (旧暦) · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »