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1172年

索引 1172年

記載なし。

69 関係: 南宋壬辰大友能直大友氏大定 (金)大理国宇都宮頼綱宇都宮氏崇福干支平安時代乾祐 (西夏)乾道 (宋)仏滅紀元御家人ハンガリー王国ユダヤ暦ラテン帝国ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)ヒジュラ暦利貞和田常盛アールパード朝イシュトヴァーン3世公卿元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)皇族神武天皇即位紀元鎌倉時代西夏西遼高麗金 (王朝)李朝 (ベトナム)松殿師家檀君紀元武士武将歌人源師仲惇子内親王明宗 (高麗王)海野幸氏海野氏斎宮政隆宝応承安 (日本)...曾我祐成1116年1147年1158年1193年1205年1213年1223年1238年1259年1月29日1月3日 (旧暦)3月4日5月16日 (旧暦)5月27日5月3日 (旧暦)6月20日 (旧暦)6月9日7月12日 インデックスを展開 (19 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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壬辰

壬辰(みずのえたつ、じんしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの29番目で、前は辛卯、次は癸巳である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の辰は陽の土で、相剋(土剋水)である。.

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大友能直

大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大定 (金)

大定(だいてい)は中国・金の世宗の治世で用いられた元号。1161年 - 1189年。.

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大理国

大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.

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宇都宮頼綱

宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。.

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宇都宮氏

宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。.

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崇福

崇福(すうふく)は、西遼の普速完(承天后)称制の時代に使用された元号。使用年代には1164年 - 1177年説と、1154年旧12月 - 1168年旧11月説とがある。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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乾祐 (西夏)

乾祐(けんゆう)は、西夏の仁宗の治世で用いられた元号。1170年 - 1193年。.

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乾道 (宋)

乾道(けんどう)は中国の南宋時代に孝宗の治世で用いられた元号。1165年 - 1173年。.

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仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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ハンガリー王国

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。.

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ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

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ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.

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ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)

ボードゥアン1世(Baudouin I, 1172年 - 1205年)は、ラテン帝国の皇帝(在位:1204年 - 1205年)。フランドル伯としてはボードゥアン9世(在位:1194年 - 1205年)、エノー伯(在位:1195年 - 1205年)としてはボードゥアン6世。第4回十字軍の際に皇帝に選出されたが、間もなくブルガリア帝国との戦いで捕虜となり獄死した。.

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ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

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利貞

利貞(りてい)は、雲南に興った後理国の段智興の時代に使用された元号。1172年 - 1175年。.

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和田常盛

和田 常盛(わだ つねもり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。.

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アールパード朝

アールパード朝()は、ハンガリー王国の最初の王朝。9世紀末にマジャル人を率いてパンノニア平原に定住させた大首長(ジュラ)アールパードを祖とする。11世紀初めにハンガリー王国を成立させ、14世紀初頭に断絶するまで約300年続いた。12世紀末から13世紀初頭にかけては、ハールィチ・ヴォルィーニ王国の王(ガリツィアおよびロドメリアの王)やハールィチ公国の公も出している。.

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イシュトヴァーン3世

イシュトヴァーン3世(III.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

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元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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西夏

西夏(せいか、西夏文字: 、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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李朝 (ベトナム)

李朝(リちょう、)は、ベトナム北部に1009年から1225年まで存在した王朝。首都は昇龍(現在のハノイ)。.

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松殿師家

松殿 師家(まつどの もろいえ)は、平安時代末期の貴族。松殿基房の三男。位階は正二位、官職は内大臣。摂政を務めた。.

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檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

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源師仲

源 師仲(みなもと の もろなか、永久4年(1116年) - 承安2年5月16日(1172年6月9日))は、平安時代後期の公卿、歌人。村上源氏の権中納言源師時(左大臣源俊房の子、『長秋記』作者)の三男。母は待賢門院の女房であった源師忠の女。従二位権中納言に列し、称号を「伏見源中納言」といった。室は石清水別当光清の女紀家子、子には源雅仲がいる。 後白河上皇の院政に参画、その一翼を担う有力な廷臣となるが、信西と対立したことからその政敵である藤原信頼に接近する。信西打倒のための武力蜂起計画が進行する過程で、伏見の自領を信頼の武芸の訓練のために提供するなど、深く謀議に関与している。 平治元年(1159年)、かねてからの計画通り信頼や源義朝らとともに挙兵(平治の乱)。上皇と上西門院を内裏に幽閉するに当たり、その護送用の車を用意するという任務を果たしている。 当初、戦局は信頼方に有利に展開するが、藤原惟方・藤原経宗らが敵方に寝返り二条天皇を内裏から脱出させたことから状況は一変、上皇も脱出し、信頼らは一転して賊軍としての立場に追い込まれる。こうした情勢を見て師仲は、味方陣中にあった三種の神器の一つである八咫鏡などを自らの手中に納め、早くも降伏を想定した保身行動に入っていたとされる。 やがて信頼・義朝らの敗戦を見届けた後、神鏡を姉小路東洞院にあった自邸に保管し、自らは六波羅に出頭する。しかし八咫鏡を守った功による減刑は認められず、永暦元年(1160年)3月31日に下野国に配流となった。この際、配所に赴く途上で詠んだ歌が、後に勅撰集『千載和歌集』に収録されている。 仁安元年(1166年)に赦され、3月29日に帰洛。戦前の地位である正三位に復位し、翌年従二位に進んでいる。しかし散位に留められて官職に就くことはなかった。承安2年(1172年)5月16日に57歳で没した。 Category:平安時代後期の貴族 もろなか Category:1116年生 Category:1172年没.

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惇子内親王

惇子内親王(あつこ/じゅんしないしんのう、保元3年(1158年) - 承安2年5月3日(1172年5月27日))は、平安時代末期の皇族。伊勢斎宮。後白河天皇の第5皇女で、母は坊門局(右大臣藤原公能の女)。堀河斎宮と呼ばれた。二条天皇・高倉天皇・以仁王らの異母姉妹。 仁安3年(1168年)8月27日内親王宣下を受け、同日伊勢斎宮に卜定される。翌嘉応元年(1169年)5月9日、一本御書所へ初斎院入り、同年9月27日野宮に遷る。同2年(1170年)9月10日、伊勢へ群行。承安元年(1171年)、不予のため母坊門殿が伊勢へ下向したが、翌2年(1172年)5月3日、御悩危急(急病)で斎宮寮頭の館に退下、同日15歳で薨去。隆子女王に続き、在任中に伊勢で薨じた2人目の斎宮となった。.

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明宗 (高麗王)

明宗(めいそう、1131年11月8日 - 1202年12月3日)は、第19代高麗王(在位:1170年 - 1197年)。姓は王、諱は晧、諡号は皇明光孝大王。妃は江陵公王温の娘、光靖王后金氏。.

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海野幸氏

海野 幸氏(うんの ゆきうじ)は、鎌倉時代初期の御家人で、信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる海野氏の当主。『保元物語』や『平家物語』などに登場する海野幸親の三男で、鎌倉時代初期を代表する弓の名手として知られる。「滋野系図」では海野幸広の子とされる。.

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海野氏

海野氏(うんのうじ/うんのし)は、信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を本貫地とした武家の氏族。.

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斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

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政隆宝応

政隆宝応(せいりゅうほうおう、Chính Long Bảo Ứng、チンロンバオウン)は、ベトナム・李朝の英宗李天祚の治世で使われた元号。1163年 - 1174年旧正月。.

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承安 (日本)

承安(じょうあん、しょうあん)は、日本の元号の一つ。嘉応の後、安元の前。1171年から1174年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.

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曾我祐成

曾我 祐成(そが すけなり)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。 安元2年(1176年)、祐成が5歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)、富士の巻狩りが行われた際、弟・時致と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた。.

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1116年

記載なし。

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1147年

記載なし。

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1158年

記載なし。

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1193年

記載なし。

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1205年

記載なし。

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1213年

記載なし。

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1223年

記載なし。

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1238年

記載なし。

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1259年

記載なし。

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1月29日

1月29日(いちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から29日目に当たり、年末まであと336日(閏年では337日)ある。.

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1月3日 (旧暦)

旧暦1月3日(きゅうれきいちがつみっか)は旧暦1月の3日目である。六曜は先負である。.

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3月4日

3月4日(さんがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から63日目(閏年では64日目)にあたり、年末まであと302日ある。.

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5月16日 (旧暦)

旧暦5月16日は旧暦5月の16日目である。六曜は友引である。.

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5月27日

5月27日(ごがつにじゅうななにち、ごがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から147日目(閏年では148日目)にあたり、年末まではあと218日ある。誕生花はシロツメクサ。.

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5月3日 (旧暦)

旧暦5月3日(きゅうれきごがつみっか)は、旧暦5月の3日目である。六曜は先勝である。.

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6月20日 (旧暦)

旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。.

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6月9日

6月9日(ろくがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から160日目(閏年では161日目)にあたり、年末まであと205日ある。誕生花はノバラ、ゴデチア。.

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7月12日

7月12日(しちがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から193日目(閏年では194日目)にあたり、年末まであと172日ある。誕生花はゼニアオイ、パッションフラワー。.

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