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ブルガリア正教会

索引 ブルガリア正教会

ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。.

186 関係: 司祭大主教大ブルガリア公国大聖堂奉神礼中央ヨーロッパ府主教使徒修道司祭修道士修道院修正ユリウス暦ペタル4世マクシム (ブルガリア総主教)マケドニアマケドニア共和国マケドニア正教会ネオ・ビザンティン建築バルカン半島バルカン戦争バンスコバシレイオス2世ポモリエポリフォニーポルーチメトディオス (スラヴの(亜)使徒)モルダヴィアモエシアモスクヨハネス1世ツィミスケスリヤサリラ修道院ルセロヴェチローマローマ帝国ロシアロシア正教会ワラキアヴラツァヴァルナ (ブルガリア)ヴィディンヴェリコ・タルノヴォボヤナ教会ボリス1世トラキアブラゴエヴグラトブラゴエヴグラト州ブルガリアブルガリア人...ブルガリア共産党ブルガール人ブルジョワジープリスカ (ブルガリア)プレヴェンプロヴディフパウロビザンティン聖歌ツァーリツァールテッサロニキフル・コミュニオンフェロンドーブリ・フリストフニューヨークベルリンアメリカ合衆国アレクサンドリアアレクサンドル・ネフスキー大聖堂 (ソフィア)アンティオキアアンデレアンカラアトス山インノケンティウス3世 (ローマ教皇)イヴァノヴォの岩窟教会群イヴァン・アセン2世イオアンイスラム教イスタンブールエルサレムエピタラヒリエデッサエディルネエクザルフオーストラリアオフリドオフリドのクリメントオフリド大主教区オスマン帝国カナダカロヤン・アセンカトリック百科事典カトリック教会カテキズムガブロヴォキュリロス (スラヴの(亜)使徒)キリストの昇天キリスト教ギリシャ人ギリシャ正教会ギリシア語グラゴル文字コンスタンティノープルコンスタンディヌーポリ総主教庁ゴツェ・デルチェフ (地名)シメオン1世シリストラスラヴ人スラヴ語派スリヴェンスタラ・ザゴラセルビアセルビア正教会ソビエト連邦ソフィア (ブルガリア)共産主義第4コンスタンティノポリス公会議第一次世界大戦第二次世界大戦第二次ブルガリア帝国総主教生神女就寝大聖堂 (ヴァルナ)独立正教会聖ペトカ教会聖ネデリャ教会聖シノド西ヨーロッパ首座主教露土戦争 (1877年-1878年)自治正教会致命者東ローマ帝国東欧諸国のビザンティン建築機密 (正教会)正教会正教徒民族主義日本ハリストス正教会教会会議教会スラヴ語教皇1018年1185年1186年1203年1219年1235年1346年1393年13世紀14世紀1515年1596年1670年1767年1771年1795年1814年1818年1820年1850年1860年1870年1872年1877年1885年18世紀1913年1945年1948年1950年1953年1970年1989年19世紀1世紀2013年4世紀5世紀6世紀7世紀870年893年927年972年990年 インデックスを展開 (136 もっと) »

司祭

司祭(しさい)とは、キリスト教における位階の一つ。東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会に存在する。 プロテスタントには、万人祭司の教理により司祭がおらず、指導者として牧師がいる。.

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大主教

大主教(ギリシア語: Αρχιεπίσκοπος (archepiskopos) )はキリスト教の役職のひとつ。主教の中で権威の高い位として用いられる称号。 正教会、ルター派、聖公会でこの訳語を用いる。日本カトリック教会では大司教に相当するが、他言語では両者を区別しないことが多い。たとえば英語ではともにアーチビショップ (archbishop) である。.

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大ブルガリア公国

大ブルガリア公国(だいブルガリアこうこく、Княжество България / Knyazhestvo Bulgaria)は、1878年3月に露土戦争の講和条約として結ばれたサン・ステファノ条約によって、一時的にブルガリアに成立した公国。 ロシア帝国からの影響が強く、この新たな国家はロシアの地中海への南下政策を容易にするものであったためイギリス、オーストリアの反発を招き、事態の収拾を図ったドイツが主催したベルリン会議の結果、ベルリン条約によって大きく領土を縮小された。.

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大聖堂

大聖堂(だいせいどう)は、キリスト教の宗教建築の種別のひとつ。語義には教派によって差がある。日本のカトリック教会では「カテドラル」との片仮名表記も頻繁に用いられるが、日本の他教派ではこれはあまり用いられない。.

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奉神礼

在のコンスタンディヌーポリ総主教座聖堂である聖ゲオルギオス大聖堂の内観。奉神礼時の光景。詠隊が歌っている。左側に至聖所のイコノスタシスが写っている。 奉神礼(ほうしんれい、λειτουργία高橋保行『ギリシャ正教』162頁、講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002), Богослуже́ние, Liturgy)は、正教会における奉事・祈りの総称。日本ハリストス正教会の訳語。カトリック教会における典礼に相当する。 公祈祷(時と場所を定めて行われる公的な祈祷)と私祈祷(日々の生活の場や私室等において行う祈祷や臨時祈祷等)のいずれも含む。公に行う狭義の奉神礼を指す事を特に示したい場合には「公祈祷」「公奉神礼」といった用語が用いられる。 聖体礼儀などの機密を含む礼儀の他にも、毎日の奉事である時課、さらに成聖式・各種祈願・モレーベン・パニヒダ・埋葬式などの機会に応じた祈祷などが含まれる。 より広義には、奉神礼には日々の生活までが含まれる。正教会では奉神礼(=リトゥルギア)の範囲をどこからどこまでというように明確に区分する事を避け、奉神礼を広義の奉神礼としての生活の雛形として捉えるべきである事を教えている。 本記事では祈り・儀礼の総称としての奉神礼について詳述する。.

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中央ヨーロッパ

中東 中央ヨーロッパ(ちゅうおうヨーロッパ、Central Europe、Mitteleuropa)は、ヨーロッパの中央部に位置し、人口規模が大きい地域である。中欧と表記されることもある。.

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府主教

ンボスキニオン(チョトキ)と呼ばれる、正教会での数珠状の祈りの用具。リヤサを着用している。 府主教(ふしゅきょう、Μητροπολίτης, Митрополит, metropolitan)はキリスト教のうちで正教会の主教品の位階の一つで、日本正教会の訳語。カトリック教会の管区大司教、あるいは首都大司教に相当する。 正教会の場合、主教の上位聖職者として、総主教、府主教、大主教がある。各地域の正教会毎に序列が異なる。.

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使徒

使徒(しと)は、狭義にはイエス・キリストの12人の高弟を指すが、それに近い弟子(パウロ、七十門徒など)にもこの語が用いられることがある。広義には、重要な役割を果たしたキリスト教の宣教者(「遣わされた者」)および、その宣教者の称号である。 原語のギリシア語はαπόστολος (apostolos) で、「派遣された者」が原義である。転じて「使者」「使節」をも指す。このギリシア語は、キリスト教文書以外にも出てくるものであるが、キリスト教文書の日本語訳の際だけ「使徒」という専門語を当てて訳すため、両者の単語間には齟齬がある。この点では、他の西洋語も、ギリシア語の形を踏襲しているものの、事情はさして変わらない(apostolus、apôtre、Apostel、apostleなど)。なお、「使徒」という訳語は、漢訳聖書から継いだものである。 また、イスラム教においては、ラスール(rasūl, رسول)という語が同じく「使者」の意であり、キリスト教の使徒と似た意味に用いられて、訳語として「apostle」や「使徒」があてられている。.

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修道司祭

修道司祭(しゅうどうしさい)とは、正教会、カトリック教会、聖公会において、修道士かつ司祭である者を言う。.

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修道士

修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.

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修道院

イスラエルにあるカトリック教会のトラピスト修道院 シナイ山にある正教会の聖カタリナ修道院 カラー写真。 パドゥーラ修道院(イタリア、カトリック教会) グレゴール・ヨハン・メンデル。修道士であると共に、遺伝学の研究も行った 修道院(しゅうどういん、Abbey)は、キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。 男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士・修道女は独身を守る。いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会がある。ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い。 カトリック教会には修道会の制度がある。このうち観想修道会の会員は原則的に修道院の敷地内を出ずに生活するため、修道院が修道士たちが自由に行き来することが可能な唯一の場所になる。トラピスト会のような観想修道会に所属する会員(修道士)は、基本的には自分の意思で修道院から出ることは出来ない。 帝国代表者会議主要決議の第35条は、各領主に修道院を自由に処分する権限を与えた。有力なプロイセン王国・バーデン王国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国において、修道院はどんどん解体されていった。バイエルン選帝侯領の修道院は身分制議会に議席を持ち、また選帝侯領の32%を保有していた。このころの修道院は科学研究機関をかねており、解散により保有していた学術的収集品が資産として処分されてしまった。.

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修正ユリウス暦

修正ユリウス暦(しゅうせいユリウスれき、Revised Julian Calendar)は、1923年5月にコンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)で開かれた公会において、幾つかの正教会の教会に受け入れられたとされる暦である。.

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ペタル4世

ペタル4世(Петър IV, ? - 1197年)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位:1185年/86年 - 1187年寺島「アセン兄弟の蜂起」『東欧を知る事典』新訂増補、9頁/90年森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、120-121頁、1196年 - 1197年)。即位前の名前はテオドル(Theodore、あるいはトドル/Todor)。第一次ブルガリア帝国滅亡後から第二次ブルガリア帝国建国までの間に、一時的にブルガリアに独立した政権を樹立したとを皇帝に数えない場合、ペタル2世と数える。 ペタル4世は弟のイヴァン・アセンとともに170年近くに及ぶビザンツ帝国(東ローマ帝国)のブルガリア支配に終止符を打ち、ブルガリアの再独立を達成した。テオドル兄弟はヴラフ人、あるいはクマン人とブルガリア人の混血だと考えられている。.

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マクシム (ブルガリア総主教)

総主教マクシム(1914年(大正3年)10月29日 - 2012年(平成24年)11月6日, Патриарх Максим, Patriarch Maxim)は、ブルガリア総主教・ソフィア主教であり、ブルガリア正教会の首座主教。 2009年11月15日にセルビア正教会の首座主教であるパヴレ総主教が永眠してから自身が永眠した2012年11月6日までの間、全世界の各独立正教会・自治正教会の首座主教達の中で最高齢の首座主教であった。.

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マケドニア

マケドニア。マケドニア共和国(赤)、ギリシャ(白)、ブルガリア(緑)、アルバニア(橙)、セルビア(桃)にまたがっている マケドニアの地形 マケドニア(ギリシア語:Μακεδονία、マケドニア語:Македонија、英語:Macedonia、ブルガリア語:Македония)は、東ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的な地域。67,000km2ほどの広さにおよそ465万人が住み、中心的な都市は南東部にあるギリシャ領のテッサロニキ(サロニカ)である。 現在はギリシャ、ブルガリアのそれぞれ一部と、独立国のマケドニア共和国(国際連合などでの呼称はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国。詳細は後述)の3つの国の領土に分かたれており、南部を占めるギリシャがおおよそ50%、マケドニア共和国が北西部40%、ブルガリアが北東部10%ほどを占めている。 ギリシャ領となっている南部を「エーゲ・マケドニア」(エーゲ海に由来)、ブルガリア領の北東部を「ピリン・マケドニア」(ブルガリア・マケドニア国境に位置するピリン山脈に由来)、ユーゴスラビア領から独立してマケドニア共和国となった北西部を「ヴァルダル・マケドニア」(領内を流れるヴァルダル川に由来)と呼ぶ事もある。この名称はマケドニア地域の統一感を好むスラヴ系マケドニア人によって好んで用いられ、ギリシャ人やブルガリア人にとっては攻撃的で不快な呼称とみなされる。また、アルバニア領の「マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド」、コソボ領の「ゴーラ」、セルビア領の「プロホル・プチニスキ」もマケドニアの一部と見なされる。.

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マケドニア共和国

マケドニア共和国(マケドニアきょうわこく)、通称マケドニアは、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国の1つで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を外国に囲まれた内陸国である。 マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあり、マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、ギリシャがマケドニアという国名を拒否し、同国との間で激しい国名論争(マケドニア呼称問題)が生じている。2018年6月にはマケドニア共和国が北マケドニア共和国の国名を使用することで両国の政府間合意が成立したが、それぞれの国内で合意内容を承認するための手続きを要することから、正式な改名には至っていない。 現状、憲法上の正式名称はマケドニア共和国であり、約125ヶ国はこの呼称を用いている一方、欧州連合や日本等はこれを認めず、国際連合に加盟したときの暫定呼称マケドニア旧ユーゴスラビア共和国を使用している(後述)。.

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マケドニア正教会

マケドニア正教会(-せいきょうかい、マケドニア語:Македонска Православна Црква、ラテン文字転写:Makedonska Pravoslavna Crkva)は、オフリド大主教のもとに創設された正教会の独立教会。マケドニア正教会はマケドニアにおけるセルビア正教会の自治教会として1967年に創設されたが、コンスタンディヌーポリ総主教庁はじめ各正教会からその地位を承認されていない。 しかしながら、多くの正教会の教会は教義の一致に基づくマケドニア正教会の、聖体礼儀(聖餐)の有効性を含む機密の有効性については認めており、相互領聖も行われている。ただし、他の地域の正教会の神品(聖職者)がマケドニア正教会の神品と共同して奉神礼にあたる事が出来るかどうかは、当該教区を管轄する主教の判断による。 マケドニア正教会はマケドニアおよび同国出身者(ディアスポラ)に対して管轄が及んでいる。なお、正教会では国や地域ごとに独自の組織を設置し、マケドニア正教会はマケドニアにおける正教会の組織という位置づけになっている。そのため、その教義については正教会のものであるため、そちらを参照されたい。本項では組織としてのマケドニア正教会について述べる。.

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ネオ・ビザンティン建築

フィア) ネオ・ビザンティン建築は、19世紀中葉から20世紀初頭に発展した建築様式のひとつである。宗教施設や公共施設などによく見られる。ネオ・ビザンティン建築様式は、5世紀から11世紀にかけての東方教会や東方正教会によく見られるビザンティン建築様式の流れをくんでいる。 帝政ロシアでコンスタンチン・トーンが新古典主義建築にロシアの信仰復興運動を合わせてネオ・ビザンティン建築を世間に広めたこともあり、ロシアや東ヨーロッパで発達した。ソフィアのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂は特に有名である。ネオ・ビザンティン建築様式の特徴として、円形のアーチ、ヴォールト、ドームや、煉瓦や石目塗りのしっくいの外壁、象徴的な外装、モザイク装飾があげられる。 アメリカでは、テキサス州のライス大学のキャンパス内にある建物などがネオ・ビザンティン建築様式として有名である。 1850年頃から1880年頃、イギリスのブリストルではブリストル・ビザンティンという建築様式が有名であった。.

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バルカン半島

バルカン半島(バルカンはんとう、Balkans、Balcania)は、ヨーロッパの南東部で、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、ヴォイヴォディナ(スレム、バチュカ、バナト)及びトルコのヨーロッパ部分(ボスフォラス海峡以西)からなる地域である。バルカン半島の北限はしばしばドナウ川とサヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや、旧ユーゴスラビア連邦のスロヴェニア(1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分がドナウ川またはサヴァ川以南)をバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない(バルカン山脈に詳しい)。オスマン語でバルカンは森林山脈を意味する。.

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バルカン戦争

バルカン戦争(バルカンせんそう、Balkan Wars)は、1912年から1913年にかけてヨーロッパの東南部で発生した戦争。バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつあるオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月 - 1913年5月)と、その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した第二次バルカン戦争(:en:Second Balkan War、1913年6月 - 1913年8月)からなる。.

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バンスコ

12月のバンスコ バンスコ(ブルガリア語:Банско、ラテン文字転写:Bansko)はブルガリア南西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ブラゴエヴグラト州に属する。 ピリン山脈のふもとに位置し、標高925メートルである。バンスコはブルガリア、そして東ヨーロッパ随一のスキー・リゾートの地として知られている。 バンスコは20世紀のブルガリアの詩人ニコラ・ヴァプツァロフ(Никола Вапцаров、Nikola Vaptsarov)や、聖職者で民族復興の英雄であるヒランダルの聖パイシウス(свети Паисий Хилендарски、sveti Paiciy Hilendarski、Paisiy Hilendarski)、ネオフィト・リルスキ(Неофит Рилски、Neofit Rilski)らの出身地である。 領域の一部はピリン国立公園に含まれている。ピリン国立公園はユネスコの世界遺産にも登録されている国立公園である。.

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バシレイオス2世

バシレイオス2世“ブルガロクトノス”(Βασίλειος Βʹ ὁ Βουλγαροκτόνος、958年 - 1025年12月25日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:976年 - 1025年)。禁欲的な軍人皇帝として活躍し、第一次ブルガリア帝国などの周辺地域を征服。東ローマ帝国の最盛期を現出した。“ブルガロクトノス”は「ブルガリア人殺し」を意味する渾名。中世ギリシア語読みでは「ヴァシリオス」となる。.

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ポモリエ

ポモリエ(ブルガリア語:Поморие、ラテン文字転写:Pomorie、旧称はギリシャ語でアンヒアロス、Αγχίαλος、Anchialos、ラテン語でアンキアルス、Anchialus、ブルガール語でトゥトム、Tuthom、ブルガリア語でアンヒアロ、Анхиало、Anhialo、トルコ語でアフヨル、Ahyolu)はブルガリア南東部、ブルガス州に位置する町で、黒海沿いのリゾート地。黒海岸のブルガス湾にある細い岩の半島の中にある。ブルガスから20キロメートル、サニー・ビーチから18キロメートルに位置している。塩分の強い潟湖であるポモリエ湖(Поморийско езеро、Pomoriysko ezero、en)はブルガス諸湖(Бургаски езера、Burgaski ezera、en)の北端に位置している。 ポモリエは古代都市であり、今日では重要な観光地となっている。位置はである。.

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ポリフォニー

ポリフォニー (polyphony) とは、複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。 西洋音楽史上では中世〜ルネサンス期にかけてもっとも盛んに行われた。ただし、多声音楽そのものは西洋音楽の独創ではなく世界各地にみられるものであり、東方教会においてもグルジア正教会は西方教会の音楽史とは別系統にありながら多声聖歌を導入していた。 ポリフォニーは独立した複数の声部からなる音楽であり、一つの旋律(声部)を複数の演奏単位(楽器や男声・女声のグループ別など)で奏する場合に生じる自然な「ずれ」による一時的な多声化はヘテロフォニーと呼んで区別する。 なお、西洋音楽では、複数の声部からなっていてもリズムが別の動きでなければポリフォニーとして扱わないことが多く、この意味で対位法と重複する部分を持つ。 また、とりわけ西洋音楽において、主旋律と伴奏からなるホモフォニーの対義語としても使われる。ポリフォニーにはホモフォニーのような主旋律・伴奏といった区別は無く、どの声部も対等に扱われる。 文学においては、ミハイル・バフチンが『ドストエフスキーの詩学』において、ドストエフスキーの作品を「ポリフォニー」の語を用いて分析している。 ほりふおにい ほりふぉにい ほりふおにい ほりふおにい.

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ポルーチ

ポルーチ(「ポルーチ」はロシア語に由来する表記。現代ギリシア語からは「エピマニカ」と転写し得る。поручи, επιμάνικα, epimanikia もしくは poruchi もしくは cuffs)は、手首に着用される正教会の祭服。ポルチあるいは籠手(こて)とも呼ばれる - 日本正教会公式サイト 。 神品 (正教会の聖職)の全て(主教・司祭・輔祭)が、奉神礼の際に着用する。 実務的には、袖を固定し、機密の執行に当たって粗相が無いようにしている。 込められている意味としては以下が挙げられる。.

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メトディオス (スラヴの(亜)使徒)

メトディオス(826年-885年4月6日、ギリシャ語:,ラテン文字転写:Methodios, ラテン語:Methodius)は9世紀の東ローマ帝国の知識人、キリスト教の聖職者、モラヴィアの主教(司教)である。メトディウス(ラテン語形)、メフォディ(スラヴ諸語形)とも表記する。中世以降のギリシャ語ではメソディオス。 「キリル文字」で知られるキュリロスの兄にあたる。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。 キュリロスとともにスラヴ地方にキリスト教をはじめて伝えた。キュリロスの補助を得ながら、教会スラヴ語への聖書の翻訳に従事した。そのためキュリロスとともに「スラブの(亜)使徒」と称され、スラヴ圏のキリスト教会では篤く崇敬される。.

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モルダヴィア

モルダヴィア、モルダビア(、、)もしくはモルドヴァ、モルドバ(、)、モルダウ()は、東ヨーロッパの一角を占める地域の名称である。ルーマニアの東北部、すなわちカルパティア山脈の東、プルート川の西で両者に挟まれた地域にあたり、時にはルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川を西限とするベッサラビア地方を含めた、さらに広い地域を指す。 中世に建国されて現ルーマニア領モルダヴィアとベッサラビアを支配したルーマニア人の国家であるモルダヴィア公国の領有した地域であり、21世紀においてはルーマニア領、モルドバ共和国領、ウクライナ領の3か国に分割されている。 モルドバ(モルドヴァ)共和国の国名となっている「モルドヴァ」とは、「モルダヴィア」のルーマニア語・モルドバ語における呼称である。モルドバ共和国がソビエト連邦(以下「ソ連」)の構成共和国であった時代は、ロシア語に基づく「モルダビア・ソビエト社会主義共和国」を正式国名としていた。.

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モエシア

モエシア属州の位置(120年頃のローマ帝国) モエシア(Moesia)は、古代ローマの属州であり、現在のセルビアとブルガリアの領域に位置した。古代の地理でいうとモエシアは、南はバルカン山脈(ハエモナ山、Haemus)とシャール山(スカルディス山、Scardus)、西はドリナ川(ドリヌス川、Drinus)、北はドナウ川(ダヌビウス川、Danubius) 、そして東は黒海(ユークシン、Euxine)に囲われていた。この地域の住民は主にトラキア人とイリュリア人であった。地名は、当地に住んでいたトラキア人のモエシ族(Moesi)に由来する。.

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モスク

モスク(mosque)は、イスラム教の礼拝堂のことである。 アラビア語ではマスジド(, masjid, 「ひざまずく場所」(サジダ を行う場所)の意)といい、マスジドの訛った語で、イスラーム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語でメスキータ (mezquita) となり、それが英語ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。中国ではモスクを清真寺(せいしんじ、清真はイスラム教の中国での通称)と呼んでいる。 モスクは欧米、日本、韓国などにおける呼び名である。しばしばイスラーム寺院または回教寺院と訳されるが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。.

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ヨハネス1世ツィミスケス

ヨハネス1世ツィミスケス(ギリシア語:Ἰωἅννης Αʹ Τζιμισκής, Iōhannēs I Tzimiskēs, 925年 - 976年1月10日)は、東ローマ帝国中期、マケドニア王朝の皇帝(在位:969年 - 976年)。軍人皇帝として活躍し、東ローマ帝国領を東方へ拡大させた。「ヨハネス」は慣用読みで、中世ギリシア語では「ヨアニス1世ツィミスキス」となる。.

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リヤサ

リヤサを着用し、胸掛け十字架を身に着けている、典院フィリップ(ロシア正教会) リヤサ(εξώρασον, Ря́са, ryasa, riassa, outer cassock)は、正教会・東方諸教会で用いられる、だぶだぶのゆったりとした衣服の一種。主教、司祭、輔祭、修道士によって、日常的な上着として用いられ、ポドリャスニクの上に纏われる。西方教会のキャソック(カソック)に相当する。 「リヤサ」はロシア語(Ря́са)からの転写に由来する表記であり、日本正教会において公式ページなどで使用頻度の高いものであるが、他にリャサとも転写し得る。 ギリシャ語では"εξώρασον"(エクソラソン)と呼ばれるが、単に"ράσον"(転写例:ラーソ、もしくはラソ)とも呼ばれる。ただし単に「ラーソ」「ラソ」と言った場合、アンテリ(ロシア語由来の表記ではポドリャスニク)を指す場合があるので注意が必要である。 英語では本記事で扱っている正教会の服装につき、ギリシャ語やロシア語から転写した表記の他、アウターキャソック(カソック)転写出典:(outer cassock)とも呼ぶ。 ロシア系の伝統にある教会では神学生、誦経者、副輔祭は身に着けない。他方ギリシャ系の伝統にある教会では、聖歌者は教会内でリャサ(ラソ)を身に着ける。この時聖歌者は、通常ポドリャスニクを着用せずに世俗の衣服の上に直接にリャサ(ラソ)を着用する。 晩課のような、奉事例(定められた奉神礼の方法を定めたもの)が司祭に完装までは要求していない場面においては、リヤサを着用すべきものとされるが、ステハリ(司祭用の祭袍下着)が着用される時においては司祭はリヤサを着用しない。 リヤサには袖の先が時には色違いにされた上で返されたものがある。ギリシャ系伝統のものはロシア系伝統のものよりも、より軽めに十分に裁断する傾向がある。起源は修道士の上着である。.

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リラ修道院

リラ修道院(-しゅうどういん、ブルガリア語:Рилски манастир)は、ブルガリア最大で最も著名な正教会(ブルガリア正教会)の修道院。リラの聖ヨハネ修道院、またはリラの僧院とも称される。修道院はリラ山脈の北西、及び海抜1147メートルの高さにあるリラ川の深い低地にある、ブルガリアの首都ソフィアから117キロメートルに位置する。キュステンディル州リラ自治体にある。 10世紀に創設されたリラ修道院は、ブルガリアにおいて最も文化的、歴史的、建築学的に重要な遺跡の一つであると評価されている。こうした理由から、ブルガリアとヨーロッパ南東部において、観光客をひきつける要所となっている。 リラ修道院は1983年、ユネスコの世界遺産に登録された。.

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ルセ

ルセ、またはルーセ(ブルガリア語:Русе、ラテン文字転写Ruse、トルコ語:Rusçuk ルスチュク、英語:Rousse、Russeと綴られることも)はブルガリア北部の都市。人口は166 056 人(2010)。ルセ州の州都。ブルガリア第5の都市。.

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ロヴェチ

ヴェチの眺め ロヴェチ(ブルガリア語:Ловеч、Lovech)はブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ロヴェチ州に属する。ソフィアから150キロメートルにある。プレヴェン、トロヤン、テテヴェンに近い。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロシア正教会

ア正教会(ロシアせいきょうかい、Русская Православная Церковь、Russian Orthodox Church)は、正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つである。 正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。 教派名は「正教」「正教会」であり、「ロシア正教」「ロシア正教会」は主にロシア連邦・近隣地域を管轄する一教会組織名である。 本項では日本正教会による訳語を断りなく用いる場合がある。 17世紀の奉神礼改革に反対し古い奉事方法を守ったために主流派ロシア正教会から追放された古儀式派は、自らこそが正統なロシア正教会だとしている。.

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ワラキア

ワラキア(Wallachia, Walachia 、Valahia 、Havasalföld )は、ルーマニア南部の地方名である。ルーマニアの首都ブカレストがある地域で、かつては14世紀に建国されたワラキア公国があった。ここでは、古代に始まり、モルダヴィアと統合してルーマニア王国が成立するまでのワラキアの歴史を主に記す。.

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ヴラツァ

ヴラツァ(ブルガリア語:Враца / Vratsa)はブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴラツァ州に属し、その州都である。バルカン山脈のふもとに位置している。ラテン文字表記には Vratsa の他、Vratza や Vraca が用いられることもある。 ヴラツァの町は商業と工芸の中心地であり、鉄道網の交差点である。ヴラツァでは織物、金属生産、化学、陶業の生産が盛んである。ヴラツァはオスマン帝国統治時代の統治と防衛の拠点となっていた。.

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ヴァルナ (ブルガリア)

生神女就寝大聖堂 聖ニコラウス船員教会 ヴァルナ(Варна、ラテン文字表記:Varna、発音)はブルガリア北東部ヴァルナ州に位置する都市で、ブルガリアの黒海沿岸では保養地であり最大の都市でブルガリア国内では首都ソフィアやプロヴディフに次いで3番目に大きな都市である。2011年2月現在の人口は市街で334,870人(2011年4月8日時点のアーカイブ)、基礎自治体全体では343,704人。ヴァルナはヴァルナ州やヴァルナ基礎自治体の行政的な中心地で、バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラード、テッサロニキ、ザグレブ、スコピエ、ティラナ、プロブディフに次いで11番目に大きな都市である。ヴァルナはブルガリアの「海の首都」あるいは「夏の首都」とよく言われ、メジャーな観光地でありビジネスや大学、海港、ブルガリア海軍の司令部、商船などの各拠点が置かれている。1949年から1956年までは、ヨシフ・スターリンの名をとってスターリン (Сталин, Stalin) という都市名であった。ヴァルナ州や統計的な地域であるドブリチ州やシュメン州、トゥルゴヴィシテ州を含むブルガリア北東計画地域(NUTS II)の中心都市である。ヴァルナ空港は2011年に1,181,830人の旅客を扱っており、ブルガリアではブルガス空港やソフィア空港に次いで3番目に旅客数が多い空港である。 2008年4月にヴァルナは黒海欧州地域 Black Sea Euro-Region(Black Sea Euroregionと同一でない新たな組織)の中心として欧州評議会で指定された。 ヴァルナ・ネクロポリスでは世界最古の黄金の宝物が発見され、これらはコインと武器、宝石などで構成され紀元前4,600年頃に遡る。.

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ヴィディン

ヴィディン(ブルガリア語:Видин / Vidin)はブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴィディン州に属し、その州都である。セルビアおよびルーマニアとの国境に程近い。.

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ヴェリコ・タルノヴォ

ヴェリコ・タルノヴォ(ブルガリア語:Велико Търново / Veliko Tarnovo)はブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴェリコ・タルノヴォ州の州都である。町はヤントラ川沿いに広がり、第二次ブルガリア帝国の首都として多くの観光資源で知られている。.

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ボヤナ教会

ボヤナ教会(Боянска църква, Boyanska tsarkva)は、ブルガリアの首都ソフィア郊外のボヤナ地区に建っているブルガリア正教会の教会堂である。ヴィトシャ山の麓にある。2階建ての教会の東翼は、元々10世紀後半ないし11世紀初頭に建てられたものであり、その後、第2次ブルガリア帝国の下で13世紀に中央棟が加えられた。西翼がさらに拡張され、現存する形が完成したのは19世紀半ばのことであった。それぞれの時代の姿をとどめつつ美しい調和を保っているこの教会は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された。.

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ボリス1世

ボリス1世ミハイル(Борѝс I Михаѝл / Boris I Mikhail, ? - 907年5月2日)は、第一次ブルガリア帝国のハーン(在位:852年 - 889年)。ブルガリアが遊牧民の小国からヨーロッパ有数の大国に発展する礎を築いた人物。ミハイルはギリシア正教帰依後に自ら名乗った洗礼名である。.

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トラキア

トラキア(Thracia、Trakya)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。.

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ブラゴエヴグラト

ブラゴエヴグラト(ブルガリア語:Благоевград、ラテン文字転写:Blagoevgrad)はブルガリア南西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ブラゴエヴグラト州に属する。旧称ゴルナ・ジュマヤ(Горна Джумая、Gorna Dzhumaya)、オスマン帝国時代はユカル・ジュマ(Yukarı Cuma)。 ブラゴエヴグラツカ・ビストリツァ川(Blagoevgradska Bistritsa)の河岸に位置する。.

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ブラゴエヴグラト州

ブラゴエヴグラト州(ブルガリア語:Област Благоевград、ラテン文字転写:Oblast Blagoevgrad)はブルガリア南西部に位置するブルガリアの州。この地方は歴史的な経緯よりピリン・マケドニア(ブルガリア語:Пиринска Македония、ラテン文字転写:Pirinska Makedoniya、英語:Pirin Macedonia)と呼ばれる。北にキュステンディル州、ソフィア州、東にパザルジク州、スモリャン州と接し、南はギリシャ、西はマケドニア共和国と国境を接している。.

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ブルガリア

ブルガリア共和国(ブルガリアきょうわこく)、通称ブルガリアは、ヨーロッパの共和制国家である。 バルカン半島に位置し、北にルーマニア、西にセルビア、マケドニア共和国、南にギリシャ、トルコと隣接し、東は黒海に面している。首都はソフィア。.

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ブルガリア人

ブルガリア人()は、以下の2つの意味を持つ呼称。.

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ブルガリア共産党

ブルガリア共産党(ブルガリアきょうさんとう、Българска комунистическа партия、略:БКП、)は、かつてブルガリアに存在した共産主義政党である。1946年から1990年までの社会主義国家ブルガリア人民共和国において、人民民主主義体制の下で国家の指導政党の位置を与えられ、形式的な衛星政党は残したものの、事実上の一党独裁制(ヘゲモニー政党制)を敷いていた。.

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ブルガール人

ブルガール人(Прабългари、Bulgars)は、中世において中央アジアから移動し東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民で、人種はモンゴロイドに属していた。 ブルガール人の中で広い地域に分散した部族のうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民であるコーカソイドの南スラヴ人に言語的にも人種的にも同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。そのためにプロト・ブルガリア人ともいう。.

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ブルジョワジー

ブルジョワジー(Bourgeoisie)は、中産階級の事であり、特に17 - 19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層であったが、市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級をさす場合も有る。貴族や農民と区別して使われた。 短くブルジョワ(Bourgeois)ともいうが、これは単数形で個人を指す。20世紀の共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられたが、この資本家階級という意味では上層ブルジョワジーのみをさしている。.

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プリスカ (ブルガリア)

プリスカ (ラテン文字:Pliska、, Пльсковъ、ラテン文字転写: Plĭskovŭ) はドナウ川下流域に建設された第一次ブルガリア帝国の最初の首都であり、現在ではシュメン州の村である。以前はアボバ (Aboba)と呼ばれていたが、ブルガリア帝国の遺跡が発掘された後に現在の名前に改名された。.

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プレヴェン

プレヴェン(ブルガリア語:、発音:)は、ブルガリア北部の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、プレヴェン州の州都である。 トルコ語での呼称はプレヴネ(Plevne)であり、歴史的に、英語等ではプレヴナ(Plevna)とも呼ばれる。1945年のブルガリアの正書法改革の以前は、街の名前は「」と綴られ、この時に廃止されたキリル文字のѣ(ヤト)が含まれていた。 露土戦争の重要な包囲戦であった1877年のプレヴェン包囲で知られ、今日ではブルガリア北中部および北西部の経済の拠点として、同地域でヴァルナおよびルセに次ぐ人口を持っている。.

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プロヴディフ

プロヴディフ(ブルガリア語:Пловдив / Plovdiv)は、ブルガリア中部に位置するブルガリア第2の都市、およびそれを中心とした基礎自治体であり、プロヴディフ州の州都である。その人口は2010年3月時点の推計で376,103人であり、ブルガリアでは首都のソフィアに次いで2番目に大きい。 プロヴディフは新石器時代に遡る、6千年に及ぶ歴史を有しており、紀元前4千年ごろの居住跡が見つかっている。 街にはプロヴディフ基礎自治体および隣接するロドピ基礎自治体、マリツァ基礎自治体の行政府が置かれている。プロヴディフはプロヴディフ州の州都であり、ブルガリアのNUTS-2の地域区分であるユジェン・ツェントラレン(南中部)の中心都市、北トラキア地方で最大の都市であり、国境を超えた歴史的なトラキア地方の中心都市である。街は経済、交通、文化および教育の重要拠点となっている。プロヴディフは、国際プロヴディフ・フェア(International Fair Plovdiv)、国際演劇フェスティバル「スツェナ・ナ・クルストルト」()、テレビ・フェスティバル「ズラトナタ・ラクラ」(Златната ракла)などの、国際的な文化的・経済的催し物の主催地となっている。 歴史的なギリシャ語呼称である「フィリッポポリス」の名でも知られ、古代ローマに征服されローマ都市となる前はトラキア人が居住していた。中世でも、その戦略的重要性は高く、東ローマ帝国とブルガリア帝国との間で度々支配者が入れ替わった。14世紀にはオスマン帝国の手にわたる。1878年には、オスマン帝国の一部として新設された東ルメリ自治州の州都となり、1885年のブルガリア統一によってブルガリア公国の一部となった。 プロヴディフは、マリツァ川の両岸に広がるプロヴディフ平原の南部に位置している。歴史的に、7つの閃長岩の丘の上に築かれ、そこから発達してきた。7つある丘は大きいもので250メートルの高さがある。これらの丘にちなんで、プロヴディフは「7つの丘の街」と呼ばれる。ローマ劇場、円形競技場、地下遺跡エイレーネーをはじめとして、多くの古代遺跡が街中にみられる。.

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パウロ

ャン・フーケによる絵、中央にパウロ パウロ(Παῦλοςラテン文字表記: ? - 65年?)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となり、キリスト教発展の基礎を作った。ユダヤ名でサウロ (שָׁאוּל、) とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。.

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ビザンティン聖歌

右詠隊(「右側の聖歌隊」の意。正教会の詠隊が左右に分かれる場合の、右側の詠隊を指す語)が歌っている。左側に至聖所のイコノスタシスが写っている。 ビザンティン聖歌(ビザンティンせいか、Byzantine Chant)とは、正教会の奉神礼で用いられる聖歌。ギリシャ語世界に存在するビザンティン聖歌の伝統は、ビザンティウムが東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルとして建都された330年から、その陥落の1453年までの間に発展し、現代においても日常的に歌い継がれている。ビザンツ聖歌とも。 ビザンティン聖歌には明らかに、組み合わされた起源がある。古典時代およびヘブライ音楽の芸術的・技術的産物の上に成立し、アレクサンドリア・アンティオキア・エフェソスといった初期のキリスト教都市で展開されたモノフォニー声楽から影響を受けている。.

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ツァーリ

ツァーリ(царь)あるいはツァール(ブルガリア語、セルビア語、ウクライナ語:цар)は、ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用された君主の称号。当初は、ギリシャ語の「バシレウス」と同様に東ローマ皇帝や聖書に登場する王を指す語であったが、やがて(大公の称号より上ではあるが皇帝の称号より下である)一部の国の王やハーンを指す語としても用いられるようになった。 ラテン語「カエサル」やギリシア語「カイサル」のスラヴ語形。そもそもは、ローマ皇帝やその継承者である東ローマ皇帝の有する称号として「カエサル」という語が用いられており、その称号を周辺の国家が用いたもの。その際に発音が変化して「ツァーリ」や「ツァール」となった。モスクワ大公らが用いたこの称号を西欧語において「王」と訳すか「皇帝」と訳すかについては中世ヨーロッパにおいても外交上の問題として議論があった。漢語においても「王」とも「皇帝」とも訳す。 民話においては、「善き王」を意味する。.

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ツァール

*クトゥルフ神話に登場する架空の神性。詳細はロイガーとツァールを参照。.

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テッサロニキ

アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki )またはテサロニカ (Thessalonica)(or)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。テサロニキとも表記する。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。 2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域のテッサロニキ都市圏の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアやテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラの会議が開催される。 2014年の欧州青年首都に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。.

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フル・コミュニオン

フル・コミュニオン(Full communion)はキリスト教の教会論において、相互に同じ教理を分かち合う、共同体同士もしくは共同体と個人との間にある、コミュニオンの関係を表す術語。 カトリック教会と正教会は、それぞれの地域教会にフル・コミュニオンを認めて一つの統一された教会としている。他の西方の諸教派は術語「フル・コミュニオン」を、異なったアイデンティティをもつそれぞれの教会・共同体において実際的にアレンジして用いている。 日本語におけるフル・コミュニオンの類語としては完全相互陪餐などがあるが、ほとんどの教派において完全な(Full)コミュニオン(communion)とは聖餐(陪餐・聖体拝領・領聖)の局面のみに限定されないため、フル・コミュニオンと完全相互陪餐は同義ではない。.

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フェロン

レゴリウス1世のイコン画(14世紀) フェロン(фело́нь, φαιλόνιο フェロニオン)とは、正教の司祭がまとう袖なしの祭服である。ピラトの法廷でイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が身につけた紫衣を象徴化したもの。カトリック教会では、カズラ(チャズブル)に相当する。またフェロンは日本正教会での表記である。ロシアでは、リザともいう。.

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ドーブリ・フリストフ

ドーブリ・フリストフ(ブルガリア語:Добри Христов、ラテン文字表記:Dobri (Dobre) Hristov (Christov) (Khristov)、1875年12月14日 - 1941年1月23日)はブルガリアの作曲家。同国のヴァルナ出身。 1900年から1903年までプラハ音楽院でドヴォルザークに学び、帰国後はブルガリアの近代音楽の父として国立音楽学校等で後進の指導にあたり、合唱音楽やオーケストラの作曲も行った。ブルガリア民謡の収集にも尽力している。正教会聖歌の作品は数多く、ブルガリア正教会のみならずロシア正教会などでもその聖歌が歌われたり録音されたりする事は少なくない。 1912年から1928年にかけて、フリストフは「七聖人声楽アンサンブル(The Seven Saints Vocal Ensemble)」の指揮者に就任する。また、「七聖人」に同名の教会の聖歌隊指揮者にも就任した。これらの合唱団・聖歌隊のためにも、数多くの正教会聖歌が作曲された。.

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ニューヨーク

ニューヨーク市(New York City)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある都市。 1790年以来、同国最大の都市であり、市域人口は800万人を超え、都市圏人口では定義にもよるが2000万人以上である.

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ベルリン

ベルリン(Berlin 、伯林)は、ドイツ北東部、ベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の中心に位置する都市である。16ある連邦州のうちの一つで、市域人口は万人とドイツでは最大の都市で欧州連合の市域人口ではロンドンに次いで2番目に多く、都市的地域の人口は7番目に多い。同国の首都と定められている。.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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アレクサンドリア

アレクサンドリア (羅/Alexandria, الإسكندرية, Ἀλεξάνδρεια) は、カイロに次ぐエジプト第2の都市で、アレクサンドリア県の県庁所在地である。2010年の都市的地域の人口は429万人である。マケドニア国王アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)が、その遠征行の途上でオリエントの各地に自らの名を冠して建設したギリシア風の都市の第一号であった。 建設当時のギリシア語(古典ギリシア語再建音)ではアレクサンドレイア (Ἀλεξάνδρεια, Alexandreia)。現代の現地語であるアラビア語においても「アレクサンドロス(イスカンダル)の町」を意味する名で呼ばれており、文語のフスハーではアル=イスカンダリーヤ (الإسكندرية, al-Iskandariyya)、口語のエジプト方言ではエスケンデレイヤ (اسكندريه, Eskendereyya) という。 「地中海の真珠」とも呼ばれる港町アレクサンドリアでは、街中に英語の看板も多く、大きなサッカー場もある。歴史的経緯から多くの文化的要素を合わせ持ち、独特かつ開放的でコスモポリタン、そこはかとなく欧米的な雰囲気が漂う国際観光・商業都市である。国際機関も置かれ、世界保健機関の東地中海方面本部がある。 世界的な企業や組織の支部、支社が置かれ、現在は北アフリカ有数の世界都市にまで成長している。近現代の世界では「アレクサンドリア」と言えば当地を指す場合が多い。.

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アレクサンドル・ネフスキー大聖堂 (ソフィア)

アレクサンドル・ネフスキー大聖堂(ブルガリア語: Храм-паметник Свети Александър Невски)は、ブルガリアの首都ソフィアにある、ブルガリア正教会の大聖堂。ネオ・ビザンティン建築様式で建てられた聖堂は、ブルガリア総主教の本拠地として機能し、世界最大級の正教会の聖堂であるとともに、多くの観光客が訪れるソフィアのシンボルともなっている。アレクサンドル・ネフスキーを記念している。.

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アンティオキア

アンティオキア(ギリシア語: Αντιόχεια)は、セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオキアが有名。『口語訳聖書』や、第三版までの『新改訳聖書』ではアンテオケと表記する。 シリアのアンティオキアは、古代の西シリア、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都、ローマ時代のシリア属州の州都として栄えた。シルクロードの出発点として知られる。一般に用いられる「アンティオキア」はヘレニズム時代以降のギリシャ語発音で、古典ギリシャ語読みの「アンティオケイア」が用いられることもある。ローマ時代はAntiochiaアンティオキーアと呼ばれた。なお現代音では「アンディオヒア」という表記が近い。.

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アンデレ

アンデレは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。シモン・ペトロの兄弟であるとされている。西方教会、東方教会ともに聖人で記念日(聖名祝日)は11月30日。アンデレは格変化語尾をはずして名詞幹のみにした日本語聖書の慣用表記で、ギリシア語での主格表記はアンドレアス(Ανδρέας)。英語ではアンドリュー(Andrew)、フランス語ではアンドレ (André)、ドイツ語ではアンドレアス (Andreas) 、スペイン語ではアンドレス (Andres)、イタリア語ではアンドレア (Andrea)、ロシア語ではアンドレイ(Андрей)、ウクライナ語ではアンドリーイ(Андрій)。.

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アンカラ

アンカラ(Ankara )は、トルコ共和国の首都。人口約442万人(2013年)を抱え、イスタンブールに次ぐ同国第2の都市でありアンカラ県の県都でもある。アナトリア半島中央部に位置する。中東・西アジア有数の世界都市で、トルコの政治の中心地。.

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アトス山

アトス山( / )は、ギリシャ北東部・エーゲ海に突き出したアトス半島の先端にそびえる標高2033mの山。その周辺は正教会の聖地となっており、「聖山」(、Holy Mountain)の名でも呼ばれる。アトス山周辺には現在20もの修道院が所在し、東方正教の一大中心地である。「アトス山」の名は、聖地となっている半島の全域や、修道士たちの共同体についても用いられることがある デイリー新潮 国際 2017年8月18日掲載 2017年9月1日閲覧。 ギリシャ共和国の領内ではあるが「聖山の修道院による自治国家」として大幅な自治が認められており、いわば「独立宗教国」ともいえる存在となっている。1988年にはユネスコによって世界遺産に認定された。.

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インノケンティウス3世 (ローマ教皇)

インノケンティウス3世(Innocentius III、1161年 - 1216年7月16日)は、12世紀末から13世紀初頭にかけての第176代ローマ教皇(在位:1198年 - 1216年)。本名はロタリオ・ディ・コンティ(Lotario dei Conti)。教皇権全盛期時代の教皇で、西欧諸国の政治に介入した事で有名である。.

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イヴァノヴォの岩窟教会群

イヴァノヴォの岩窟教会群(Ивановски скални църкви, Ivanovski skalni tsarkvi)は、ブルガリアにある岩を刳り貫いて作られた聖堂、修道院などの建造物群をさすユネスコの世界遺産としての登録名。ルセ州イヴァノヴォ村に近く、ルーセの南20 km にあたるルセンスキ・ロム川沿いにそびえる岩だらけの堤にある(川からの標高は32 m である)。この教会群は、保存状態の良い美しい中世のフレスコ画で知られている。 この地方の洞窟群には、後のブルガリア正教会総主教ヨアキムが居を定めた1320年代以降17世紀まで、修道士たちが住むようになっていた。彼らは、僧房、教会群、礼拝堂などを硬い岩から切り出しており、修道院建造物群はおよそ40もの教会群を頂点に戴いていた。その周りには、他の宗教施設用地が300ほどあったが、そのほとんどは現存していない。 教会群に残る肖像画からも明らかなように、イヴァン・アレクサンダルやイヴァン・アセン2世といった第2次ブルガリア帝国の皇帝たちは、この教会群に頻繁に寄進を行った。王族以外のパトロンには、13世紀から14世紀にかけて修道院が強く結びついていた首都タルノヴォの貴族たちが含まれていた。 14世紀にはブルガリア一帯のヘシカズム(hesychasm)の中心地となり、オスマン帝国に組み込まれた当初も存続し続けたが、漸次衰退していった。 修道院の建築物群の名声は、その多くを13世紀から14世紀にかけてのフレスコ画に負っている。それらは教会群の内の5つの教会に保存されており、中世ブルガリア美術の傑作として評価されている。岩窟施設群は修道士たちに使われていたもので、大天使聖ミカエル礼拝堂、洗礼堂、Gospodev Dol礼拝堂、聖テオドルス礼拝堂や、中心となる聖母教会などを含んでいた。特に聖母教会に残る14世紀の壁画はおそらく最も有名なもので、かつPalaeologan美術の最も優れた例証とされている。修道院群の敷地内には、同様に何世紀も経た碑文が残されている。その中でも有名なのは、1308年から1309年に修道士イヴォ・グラマティク(Ivo Gramatik)によって書かれたものである。.

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イヴァン・アセン2世

イヴァン・アセン2世(Иван Асен II, Ivan Asen II, ? - 1241年6月24日)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(在位:1218年 - 1241年)。初代皇帝の子。.

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イオアン

イオアン(教会スラヴ語:Иоанн, Ioan)は男性の人名。特に日本正教会で頻繁に用いられる表記。女性形のイオアンナはブルガリア人女性・ギリシャ人女性にみられる人名。 ヘブライ語の「主は恵み深い」を意味するヨーハーナーン יוחנן Yôḥānān が元の形とされる。教会スラヴ語のイオアン(Иоанн)は、中世以降のギリシア語のイオアンニス(Ιωάννης)の活用語尾を落とした形に由来する(ただし古典ギリシャ語再建音はイオーアンネース)。 日本聖書協会の日本語訳聖書ではヨハネと表記される。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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イスタンブール

イスタンブール(İstanbul 、Istanbul 、Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。.

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エルサレム

ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.

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エピタラヒリ

ピタラヒリ(επιτραχήλιο, епитрахиль, epitrachil)とは、正教会の奉神礼で、機密執行者である主教・司祭が着用する祭服の一つ。首から掛けた布が正面で合わせられた形状をしている。 各種祈祷書等において漢字では領帯とも表記されるが、この漢字表記は会話では教会内でもあまり使われない。 主教・司祭は、エピタラヒリを着用しなければいかなる聖務をも行う事は出来ない (日本正教会公式サイトより)。首から掛ける形状には、機密執行者に神恩が豊かに流れている事と、機密執行者が背負うくびき、すなわち機密執行者への恵みと重荷を示す意味合いが込められている。 聖体礼儀をはじめとする各種奉神礼で、主教・司祭はエピタラヒリを必ず着用する。痛悔機密の際には、祈祷、信徒による罪の告悔と司祭による助言が行われたのち、司祭はエピタラヒリを信徒の頭に被せて「赦罪経」を唱える。 副輔祭・輔祭が着用するオラリの変形であるとも言われるが、オラリと違い、痛悔機密や婚配機密の時、神恩が降る事を明示する際以外には動かして使用する事は殆どない。これは、奉神礼において多くの動きの伴う副輔祭・輔祭と、祝福や発声などの他には奉神礼において動きが少ない主教・司祭の違いに対応する。主教・司祭は黙誦(もくしょう)を以て祈る場面が相対的に多い。これは機密執行者が人知れず神と対話し、その事によって教会の生命の源泉である機密執行がもたらされるとされる事を表す。オラリは物理的な動き・発声に伴うのに対し、エピタラヒリは目に見えない霊的な動きと祈りに伴うものとされる。オラリとエピタラヒリの違いは、神恩を受ける者と降す者の違いを表す。 エピタラヒリは教会の生命の源泉である機密を執行する者が、神と人の仲立ちにあることを示すものであるゆえに、祭服の中で最も重要であるとされる。.

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エデッサ

エデッサの位置 エデッサの滝 エデッサ (Έδεσσα, ローマ字転写: EdessaまたはEdhessa) は、ギリシア北部、中央マケドニア地域ペラ県の都市で、ペラ県の県都。 エデッサは「水の町」という意味で、市の中央にある滝に由来する。中世以降、ヴォデナ (Βοδενά, Vodena) という別名でも呼ばれるようになったが、これはスラヴ語でやはり「水の町」を意味するヴォデン(Воден, ローマ字転写: Voden) に由来する。トルコや南スラブ諸国ではヴォデンないしその派生形で呼ぶ。 人口1万8253人。丘陵上に位置し、標高320メートル。主な産業は、綿工業とタバコの栽培。 紀元前5世紀末、マケドニア王国が近くのペラに遷都したため、マケドニア王の墳墓が多くある。 Category:ギリシャの都市 Category:ギリシャの県都 Category:ギリシャの古都 Category:中央マケドニア.

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エディルネ

ディルネ(Edirne、ギリシア語:、ブルガリア語:)は、トルコの都市。トルコの最西端、ヨーロッパ側の東トラキア地方の国境地帯に横たわるエディルネ県の県都で、市街中心部からギリシャ国境まで5km、ブルガリア国境まで10kmの国境の町である。2000年の人口は約12万人。 旧市街はブルガリア領に源流を発し、ギリシャとトルコの国境地帯を流れるメリチ川(エヴノス川、マリツァ川)が、その支流トゥンジャ川と合流する地点近くの左岸(北岸)に位置する。旧市街の西を流れるトゥンジャ川の中州には、トルコの伝統競技であるヤールギュレシ(オイルレスリング)の大会が行われるクルクプナルの草原がある。.

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エクザルフ

ルフ(Экзарх, exarch)とは、正教会の主教の役職・称号。総主教の使節としての役割を果たす他、独自の教区(エクザルフ教区, exarchate)を持つ場合もある。総主教代理と表記されることもある。 原語であるἔξαρχος(エグザルホス「エグザルホス」…現代のコンスタンディヌーポリ総主教庁やギリシャ正教会といった、現代ギリシャ語を用いる正教会でも用いられる語彙であるため、現代ギリシャ語転写に則った。後述の通り、古典ギリシャ語再建音では「エクサルコス」となる。、英語・ロシア語風表記としてはエクザルフ)は、上述の主教の役職・称号としての用法の他に、東ローマ帝国時代の「総督」「地方大守」等と訳される職も指していた。日本語以外の言語では、東ローマ帝国の総督職と、正教会における主教としてのエクザルフとを、原語からの転写を基にした同じ言葉で言い表す事が多い。.

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オーストラリア

ーストラリア連邦(オーストラリアれんぽう、Commonwealth of Australia)、またはオーストラリア(Australia)は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。南方の南極大陸とは7,877km離れている。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。日本での略称は「豪州」である。.

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オフリド

フリド(Ohrid、マケドニア語:Охрид)は、マケドニア共和国西部にある都市。バルカン半島の大湖オフリド湖のほとりにある。かつては市内に365もの教会があり、マケドニアのエルサレムと呼ばれた時代があった。10世紀末から11世紀にかけて、ブルガリア帝国の首都であった。このため大主教座が置かれ、現在でもマケドニア正教会の大主教座が置かれている。1979年から1980年にかけて、オフリドとオフリド湖はともに「オフリド地域の自然・文化遺産」の名でUNESCOの世界遺産リストに登録された。.

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オフリドのクリメント

フリドのクリメント(古代教会スラヴ語: Климє́нтъ Охрїдьскъ, ブルガリア語・マケドニア語: Свети Климент Охридски, 840年頃 – 916年)は、聖キリル(キュリロス)と聖メフォディ(メトディオス)の弟子であり、のちにオフリドの主教となった人物。正教会で聖人であり、亜使徒と呼ばれる。初めてスラヴ語で説教、著述活動を行った最初のブルガリアの主教であった。.

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オフリド大主教区

フリド大主教区(オフリドだいしゅきょうく、Охридска архиепископия / Ohridska arhieliskoliya、Охридска архиепископија / Ohridska archieliskolija)には、次のようなものがある.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カナダ

ナダ(英・、 キャナダ、 キャナダ、カナダ)は、10の州と3の準州を持つ連邦立憲君主制国家である。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。北アメリカ大陸北部に位置し、アメリカ合衆国と国境を接する。首都はオタワ(オンタリオ州)。国土面積は世界最大のロシアに次いで広い。 歴史的に先住民族が居住する中、外からやってきた英仏両国の植民地連合体として始まった。1763年からイギリス帝国に包括された。1867年の連邦化をきっかけに独立が進み、1931年ウエストミンスター憲章で承認され、1982年憲法制定をもって政体が安定した。一連の過程においてアメリカと政治・経済両面での関係が深まった。第一次世界大戦のとき首都にはイングランド銀行初の在外金準備が保管され、1917年7月上旬にJPモルガンへ償還するときなどに取り崩された。1943年にケベック協定を結んだ(当時のウラン生産力も参照)。1952年にはロスチャイルドの主導でブリンコ(BRINCO)という自然開発計画がスタートしている。結果として1955年と1960年を比べて、ウラン生産量は約13倍に跳ね上がった。1969年に石油自給国となる過程では、開発資金を供給するセカンダリー・バンキングへ機関投資家も参入したので、カナダの政治経済は機関化したのであった。 立憲君主制で、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。パワー・コーポレーションと政界の連携により北米自由貿易協定(NAFTA)に加盟した。.

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カロヤン・アセン

ヤン・アセン(Калоян Асен、1168年もしくは1169年 - 1207年10月)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位1197年 - 1207年)。第二次ブルガリア帝国の建国者であるペタル4世との弟。ブルガリア皇帝の権力と帝国の地位を向上させ、十字軍国家・ラテン帝国との戦争で成功を収めた。.

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カトリック百科事典

トリック百科事典 (the Catholic Encyclopedia) は1913年にThe Encyclopedia Pressにより出版された英語の百科事典で、今日では別のカトリック百科事典 the ''New Catholic Encyclopedia'' に対して the Old Catholic Encyclopedia(即ち旧カトリック百科事典)とも称される。 現在はパブリックドメインの情報源となっており、インターネット上において無料で公開されている。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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カテキズム

テキズム (Catechism)は、キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説の事で、伝統的には洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われる入門教育(catechesis)で用いられる。文体は問答形式をとることが多い。 カテキズムは歴史的にはもともとギリシャ・ローマの秘教会(英語版)、とくにミトラ教において秘密の教えを授ける為に用いられていたが、キリスト教においても類似の体裁のものを用いるようになった。 κατηχισμός カテーキズモス は、動詞 κατηχέω カテーケオー に由来する。κατηχέω は κατά カタ(下へ)と ηχέω エーケオー(音がする・響く)から構成される語で、文字通りには「下へ向かって鳴る」だが、 「(口頭で)教える・知らせる」という意味になる。 問答形式をとる事が多いため「教理問答」「信仰問答」などが日本語の定訳となっているが、語義的には問答体である必要はなく、実際に問答体ではない例も存在する。今日の問答体によるカテキズムは西方教会(カトリック教会のカテキズム)で成立し、近代以降おもにロシア正教会を中心として東方教会でも用いられた。 なお、日本のカトリック教会では、第2バチカン公会議以前は「公教要理」の訳語が用いられていた。一方、日本正教会では「正教要理」と呼ばれる。.

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ガブロヴォ

ブロヴォ(Габрово / Gabrovo)は、ブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ガブロヴォ州に属し、その州都である。バルカン山脈中部のふもとの、ヤントラ川(Янтра / Yantra)の渓谷にあり、ガブロヴォ・ユーモアとして知られるユーモアと風刺の街として知られる。また、ブルガリア民族復興期の建築でも知られている。ガブロヴォはまたブルガリアで最も「長い」街であり、ヤントラ川に沿って長さ25キロメートルにわたって続いており、他方でその幅は最も狭いところで1キロメートルに過ぎない。ガブロヴォの近くにはブルガリアのスキー・リゾート地ウザナ(Узана / Uzana)がある。.

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キュリロス (スラヴの(亜)使徒)

ュリロス(ギリシア語: Κύριλλος, ブルガリア語: Константин-Кирил Философ, チェコ語: Cyril, ロシア語: Кирилл Философ, 827年 - 869年2月14日)は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教の修道士、神学者である。教会スラヴ語・ブルガリア語・ロシア語等からキリル、キリール、チェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。 現在のロシアなどで使用されるキリル文字の考案者と考えられていたが、彼が実際に考案したのはグラゴル文字であり、キリル文字は後世に作成されたとされる。.

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キリストの昇天

リストの昇天(キリストのしょうてん)はキリスト教の教義で、復活したイエス・キリストが天にあげられたこと、またそれを記念するキリスト教の祝日。「イエスの昇天」は使徒信条やニカイア・コンスタンティノポリス信条にも含まれている。復活祭と連動する移動祭日でもある。なお、日本正教会では升天祭(しょうてんさい)との表記が祈祷書などにおいて正式な表記である。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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ギリシャ人

リシャ人(ギリシャじん、ギリシア語:Ἕλληνες 現代ギリシア語, Hellēnes古代ギリシア語)とはバルカン半島周辺およびキプロスに出自を持ち、ギリシャ語を母語とする民族。国民としてのギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍を有するもの)にはアルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。.

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ギリシャ正教会

リシャ正教会(ギリシャせいきょうかい)は、以下の三通りの意義に使われる、キリスト教の教派・教会組織を指す言葉。本項では下記1番の用例による、ギリシャ共和国に存在するギリシャ正教会について詳述する。.

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ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

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グラゴル文字

ラゴル文字(グラゴルもじ、Глаголица、グラゴーリツァ)は、主にスラヴ系言語を記述するために作られたアルファベットで、スラヴ圏最古の文字である。正教会のキュリロス(827年 - 869年)とメトディオス(826年 - 885年)が、855年か862年から863年のころ、聖書やその他の文書をスラヴ諸語に翻訳するために作成した。ギリシア文字を元にして作られたものと思われるが、独特の外見を持つ。キリル文字になるまでの400〜500年間使われた文字である。古代教会スラヴ語でも用いられた文字である。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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コンスタンディヌーポリ総主教庁

ンスタンディヌーポリ全地総主教庁(コンスタンディヌーポリぜんちそうしゅきょうちょう、,, )は、正教会で筆頭の格を有する総主教庁・教会である。管掌・統括するのはコンスタンディヌーポリ総主教。 単に「コンスタンディヌーポリ総主教庁」もしくは「全地総主教庁」とも表記される。日本ハリストス正教会の奉神礼ではコンスタンティノポリ総主教と呼称される。一般にはコンスタンティノープル総主教とも。 初代総主教は十二使徒の一人である聖アンドレアスとされている。現在の総主教はヴァルソロメオス1世(1991年 - )である。 総主教庁の所在地コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)は、現在のトルコ共和国最大の都市イスタンブールにあたる。総主教座はイスタンブール旧市街の金角湾に面したファナリ地区に建つ聖ゲオルギオス大聖堂に置かれている。コンスタンティノポリスには、時代・地域によって様々な都市名の転写があるため様々な表記が存在するが、いずれも誤りではない。これについては当記事内の「都市名の転写・カナ表記」の節で詳述する。 1カ国に1つの教会組織を具えることが原則である正教会には、他にギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本ハリストス正教会などがあるが、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。その教義や全正教会の性格については正教会の項を参照。.

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ゴツェ・デルチェフ (地名)

ツェ・デルチェフ(ブルガリア語:Гоце Делчев、ラテン文字転写:Gotse Delchev)はブルガリア南西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ブラゴエヴグラト州に属する。 ゴツェ・デルチェフの町の名前はマケドニア地方のオスマン帝国からの分離とブルガリアへの編入を求めて闘争を行った内部マケドニア革命組織の指導者の一人、ゴツェ・デルチェフ(Gotse (Georgi) Nikolov Delchev)にちなんで改名された。1951年以前の名称はネヴロコプ (ブルガリア語:Неврокоп、Nevrokop ギリシャ語:ネヴロコピ Νευροκόπι、Nevrokópi、トルコ語:ネヴレコプ Nevrekop)。 付近には、ローマ帝国がダキア王国に勝利したのを記念して建造された紀元後2世紀の城壁都市の遺跡が残されている。この町はネストルム(Nestrum)と呼ばれていた。ここでは考古学的調査が行われているが、1986年からは財政難により調査は停止していた。 領域の一部はピリン国立公園に含まれている。ピリン国立公園はユネスコの世界遺産にも登録されている国立公園である。.

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シメオン1世

メオン1世が刻まれた銅貨 シメオン1世が刻まれたもう一種類の銅貨 シメオン1世(Симеон I, 863年頃 - 927年5月27日)は、第一次ブルガリア帝国の君主(在位:893年 - 927年)。ボリス1世の三男。一時期は東ローマ帝国を圧倒し、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称した。シメオン大帝とも呼ばれる。.

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シリストラ

リストラ (Силистра, Silistra) は、ブルガリア北東部、ドナウ川沿い位置する港町で、シリストラ州の州都である。ルーマニアと国境を接している。ブルガリア北東部の中心都市である。ローマ時代には、ドゥロストルム(Durostorum)と呼ばれていた。 800px.

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スラヴ人

南スラヴ人 スラヴ人(スラヴじん)は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。.

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スラヴ語派

ラヴ語派(スラヴごは)とは、インド・ヨーロッパ語族バルト・スラヴ語派の一派で、スラヴ系諸民族が話す言語の総称。かつては同民族の祖先スラヴ人に話される「スラヴ祖語」が存在したと想定されるが、スラヴ人の民族大移動の頃(5 - 6世紀)から分化が進み、次第に各語群が独自の特徴を明確にし始め、12世紀には単一言語としての統一は完全に失われた。.

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スリヴェン

リヴェン(Сливен/Sliven)はブルガリアのスリヴェン州にある都市で、ブルガリアでは8番目に大きな都市である。スリヴェン州の行政や産業の中心となる自治体で、2011年2月現在の人口は89,848人である。 スリヴェンはブルガリアのハイドゥクが19世紀にオスマン帝国に抵抗し戦った場所として有名で、「100のヴォイヴォダの街」として知られる。ヴォイヴォダはハイドゥクのリーダーとして存在した。岩がちな山塊として知られるSinite Kamani(Сините камъни)と国立公園に関連した新鮮な空気やミネラル分が豊富な源泉は多様なレジャーや観光を提供している。投資家には地元のボーラによる風力発電による電力供給の機会を切り開いている。 スリヴェンの他の点で興味が惹かれる点には市の紋章で、これは中心部にある樹齢1,000年以上の古いエルム(Старият Бряст, "The Old Elm")で街のシンボルとなっている。オスマン帝国支配期には木の上にブルガリアの革命家を吊るしていた。今日、市では3本をベストな状態で生育させるため努力しており、加えて根元を保護するためセメントで守っている。.

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スタラ・ザゴラ

タラ・ザゴラの位置 スタラ・ザゴラ(Стара Загора、ラテン文字転写: Stara Zagora)は、ブルガリア中南部の都市。地元の商工会議所によれば、8000年の歴史を持つ、ヨーロッパで最も古い町のひとつだといわれている。スタラザゴラはブルガリアでも有名なビールの名前にもなっている。.

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セルビア

ルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。 首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。.

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セルビア正教会

ルビア正教会(セルビアせいきょうかい;セルビア語 Српска православна црква スルプスカ・プラヴォスラヴナ・ツルクヴァ、略称 СПЦ セペツェ)は、セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されている正教会の一組織であり、独立正教会の一つ。 正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(セルビア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。.

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ソビエト連邦

ビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、Союз Советских Социалистических Республик)は、1922年から1991年までの間に存在したユーラシア大陸における共和制国家である。複数のソビエト共和国により構成された連邦国家であり、マルクス・レーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制の社会主義国家でもある。首都はモスクワ。 多数ある地方のソビエト共和国の政治および経済の統合は、高度に中央集権化されていた。.

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ソフィア (ブルガリア)

フィア( ラテン文字表記:Sofiya、)は、ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人である。北緯42度42分、東経23度20分。 ヨーロッパ最古の都市の一つであり、セルディカ (Serdica)、スレデツ (Sredets)、トリアディツァ (Triaditsa) と呼ばれた。その歴史は7千年以上に及ぶとされる。有史以前の集落跡が現在のソフィアの中心や王宮の付近、オベリャ (Обеля)、スラティナ (Слатина) などで見つかっている。トラキア人が最も重要視していた、鉱泉の周囲に町を築いた紀元前7世紀にさかのぼる城壁は良いコンディションで保存されている。鉱泉は現在も湧水がある。時代の変遷とともに幾つかの異なる名前で呼ばれてきたソフィアの数千年にわたる歴史の痕跡は、今日でもその一部を見ることができる。.

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共産主義

主にマルクス・レーニン主義系の共産主義のシンボルともされる赤い星 共産主義(きょうさんしゅぎ、Communism、Коммунизм)とは、政治や経済分野での思想や理論、運動、政治体制のひとつ、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざす。その理念、共有化の範囲や形態、あるいは共産主義社会実現のための方法論などには古くから多数の議論があり、このため「共産主義」の定義は多数存在している。 共産主義のシンボルには、社会主義と同様に赤色や赤旗が広く使用されている。また特にマルクス・レーニン主義系の共産主義を表すシンボルには赤い星や鎌と槌なども使用されている。.

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第4コンスタンティノポリス公会議

4コンスタンティノポリス公会議(だい4コンスタンティノポリスこうかいぎ)は、869年から東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノポリス(現トルコ領イスタンブール)で開催された、キリスト教の公会議。867年に罷免された前コンスタンティノポリス総主教のフォティオスを断罪。.

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第一次世界大戦

一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた世界大戦である。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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第二次ブルガリア帝国

二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。.

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総主教

総主教(そうしゅきょう、Πατριάρχης, ロシア語・ブルガリア語: Патриарх, Patriarch)は、東方教会(正教会、東方諸教会)における最高位聖職者であり、主教品の最上位。正教会においては特定の独立正教会の首座主教に付与される称号(首座主教であっても総主教ではない主教が正教会には居る)。 総主教の管轄する教区・教会・事務局・総主教邸は総主教庁(Patriarchate)と呼ばれる。.

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生神女就寝大聖堂 (ヴァルナ)

ヴァルナの生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう、Катедрален храм "Успение Пресвятия Богородици" or Катедрален храм "Успение Богородично")は、ブルガリアの黒海沿岸の港湾都市ヴァルナで最大かつ最も有名なブルガリア正教会の大聖堂である。公式には1886年8月30日に開かれた。大聖堂はヴァルナとプレスラフ(:en:Preslav)の主教座であり、ヴァルナの象徴的存在の一つである。 生神女(しょうしんじょ)とは正教会における、聖母マリアを指す称号。生神女就寝祭とは生神女の永眠を記憶する祭であり、これを記憶するのが生神女就寝聖堂である。聖母被昇天の教義はカトリック教会のものであり、正教会では「被昇天」の語は用いずあくまで「就寝」との語を用いる。従って当記事で扱う正教会の聖堂に「聖母被昇天聖堂」等の訳を当てるのは誤りである。.

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独立正教会

立正教会(どくりつせいきょうかい、Αυτοκεφαλία, Автокефалия, Autocephaly(Autocephalous Church))とは、ヒエラルキーを有する教会、特に正教会と非カルケドン派の教会において、その最高位の主教がより上位の主教に対して報告を行わない教会の地位形態をいう。.

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聖ペトカ教会

具工の聖ペトカ教会(ばぐこうのせい-きょうかい、Църква „Света Петка Самарджийска“、ラテン文字転写Tsarkva Sveta Petka "Samardzhiyska")、通称聖ペトカ教会あるいは聖ペトカ地下教会は中世ブルガリアに建てられたブルガリア正教会の聖堂。ブルガリアの首都ソフィアにある。 聖ペトカ教会は一室の身廊を持つ小さな聖堂で、その高さの半分ほどは地面を掘った穴の中にある。教会はかつても今もソフィアの中心部となっている地区に建っており、現在はツム・デパート(ЦУМ、TZUM)の地下道に接続している。教会はその半円柱型のアーチ型屋根、球形のアプス、そして第二次世界大戦後の発掘により発見された地下聖堂などを有する。その外壁は1メートルの厚さがあり、石とれんがによって出来ている。 聖堂はオスマン帝国の支配下であった16世紀に登場し、かつての古代ローマの宗教施設の跡に建造されている。こんにちでは14世紀、15世紀、17世紀、19世紀の壁画で知られる文化的遺産である。 聖堂はブルガリアの聖ペトカ(Петка Българска、Petka Bulgarska)と呼ばれる11世紀の聖人に捧げられたものである。また、「馬具工」という呼称は、教会が中世に馬具工たちの守護者となって機密を行ったことに由来する。 一説によれば、ブルガリアの国家的英雄ヴァシル・レフスキ(Васил Левски、Vasil Levski)はここで埋葬されたとされている。この説はレフスキに関するニコライ・ハイトフ(Николай Хайтов、Nikolay Haytov)の研究によって支持され、さらに1956年の発掘調査によって裏付けられている。発掘調査では地下聖堂に幾らかの人骨が見つかっている。しかし、1980年代にブルガリア科学アカデミー(en)の考古学部門はこの説を支持せず、厳しい論争を引き起こした。この説に関してはいまだ結論は得られていない。.

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聖ネデリャ教会

聖ネデリャ教会(せいねでりゃきょうかい、ブルガリア語:църква "Света Неделя")はブルガリアの首都ソフィアにある正教会の教会であり、ブルガリア正教会ソフィア主教職の聖堂である。教会は長い期間を経て破壊の被害を受けており、幾度も修復されてきている。.

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聖シノド

聖シノド(Σύνοδος, Свяще́нный Сино́д Holy Synod)とは正教会における、教会を管掌する組織の一種である。首座主教によって主宰され、通常メンバーたる主教達によって構成され、首座主教は主教達に対して説明責任を有する。聖シノド(Holy Synod)は組織それ自体の公式名称として使用され、しばしば単にシノド(Synod)と呼ばれる、メンバーによる実際の会合とは区別される。またローマ・カトリック教会でも東方典礼カトリック教会における教会会議も聖シノドと呼ばれる。.

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西ヨーロッパ

中東 西ヨーロッパ(にしヨーロッパ、Western Europe、L’europe de l'ouest、Westeuropa)は、西欧ともいい、ヨーロッパ地域の西部を指す。.

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首座主教

首座主教(しゅざしゅきょう、Προκαθήμενοι, Primate, Примас)とは、キリスト教の聖職者の役職のひとつである。正教会に属する日本ハリストス正教会、および聖公会に属する日本聖公会などで用いられる用語である。 英語表記は "Primate" が一般的だが、アングリカン・コミュニオンのうち、スコットランド聖公会と歴史上その流れを汲んだ米国聖公会では "Presiding Bishop" と呼ぶ。聖公会には「総裁主教」(そうさいしゅきょう)との表記もある。.

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露土戦争 (1877年-1878年)

露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ(他の露土戦争については、露土戦争を参照オスマン帝国とロシアの間の戦争はしばしば起こっているが、狭義の露土戦争はこの戦争のことをいう。『世界史を読む事典』(1994)p.117)。 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった『世界史を読む事典』(1994)p.117。ロシア帝国の勝利で終わった。 ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争 (Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。.

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自治正教会

自治正教会(じちせいきょうかい、Αυτονομία, Автономия(Автономная церковь), Autonomy(Autonomous Church)とは、キリスト教・正教会の教会組織の種別・地位。自治教会(じちきょうかい)とも呼ばれる。「自治正教会」「自治教会」のいずれも、日本正教会の各種公式ホームページや出版物といった日本語媒体で見られるものであって正式な訳語であるが、本項はルーテル教会およびその他の教派の用語と区別するために「自治正教会」の記事名を採った。.

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致命者

聖致命女解繋者アナスタシヤ(正教会のイコン) 致命者(ちめいしゃ、μάρτυς, Му́ченик, Martyr)とは、正教会で聖人に付されて記憶に用いられる称号。女性の場合は致命女(ちめいじょ)。信仰の立証者として全生命を代償に与えた者(致命した者)をいう。これに対し、信仰の立証者として苦難を受けた者のうち、死には至らなかった聖人には表信者の称号が付されて記憶される。 但し、致命者に限らず正教会の聖人の称号には厳密な区分けは無いこともあり、直接に殺害されなくとも(例えば監禁・軟禁・抑圧状態下で死を迎えるケースなどで)、致命者として記憶される聖人もいる(モスクワの総主教聖ティーホンなど)。 他教派・他宗教でいう殉教者に該当するが、日本正教会ではこの語は用いない。 「大致命者」(だいちめいしゃ)の称号で記憶される聖人もいる。また、「聖大致命者廉施者パンテレイモン」の名で記憶される聖パンテレイモンのように、称号が幾つか重ねられる場合も少なく無い。 正教会ではステファノが初致命者首輔祭聖ステファンとして記憶される。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東欧諸国のビザンティン建築

東欧諸国のビザンティン建築(とうおうしょこくのビザンティンけんちく)では、ブルガリアやロシア、ルーマニアに伝播したビザンティン建築を便宜的にまとめる。 東ローマ帝国の1000年以上もの長期に渡る歴史は一様ではなく、その支配領域は絶えず変化し続けた。周辺地域へのビザンティン建築の影響について考えるとき、必ず直面するのがこの問題であり、バルカン半島南部とアナトリア半島以外の建築物であっても、ある時期のある地域の建築物は、ビザンティン建築の項で取り上げられたとしても不思議ではなく、その逆も考えられる。また、特定の建築的伝統を保持した勢力がビザンティン建築を採用した場合は、その形態は折衷的なものになるが、アルメニア建築のように、ビザンティン建築そのものに影響を与えるような場合もあった。しかし、これはビザンティン建築のなかで取り上げるにはあまりに複雑な背景を持つため、本項ではビザンティン建築とは別に、東欧諸国へ波及していったビザンティン建築の影響について解説する。.

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機密 (正教会)

正教会における機密(きみつ、μυστήριον, Таинство)とは、「主(イイスス・ハリストス(イエス・キリスト))がすべての信者に恩寵を与えようとして自ら定める、見える状態でもって信者の霊魂に見えない神の恩寵を授けるものマカリイ p.381 - p.382」とされる。 狭義の機密は七件機密など、目に見える形で神の恩寵が授けられるものを指すが、広義の機密概念は、教会そのものを機密と捉える。 狭義の機密は、聖体礼儀等、定められた各種儀礼・形式に沿って執行される。西方教会でのサクラメント(カトリック教会では秘跡、プロテスタント教会では礼典、聖公会では聖奠と呼ばれる)に相当する。.

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正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

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正教徒

正教会の教会機構の図解。 正教徒(せいきょうと)とは、キリスト教の教派のひとつである正教の信者を意味する用語。正教信徒(せいきょうしんと)とも。日本ハリストス正教会でも頻繁に用いられる。一般には7つの全地公会議を認める諸教会(Eastern Orthodox)の信徒を指し、非カルケドン派(Oriental Orthodox)に所属する教会の信徒にはあまり用いられない。 グルジア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、ロシア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会等、そのいずれもが正教会なのであり、同じ信仰を有している。 教義・教理は全く同じであり、機密(秘蹟)はいずれの教会のものも相互に有効であるとされ、いずれの教会に属する信徒も「正教徒」と呼ばれ、教会間の相互領聖は完全に行われており、フル・コミュニオンの関係にある。.

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民族主義

民族主義(みんぞくしゅぎ、ethnic nationalism)は、異なる自他の民族間で政治・経済・文化などの分野について、みづからの民族を主体と考える思想や運動。 国家主義・愛郷主義・地域主義とは相互に関連するが、同一の概念ではないことに注意。.

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日本ハリストス正教会

函館ハリストス正教会復活聖堂 聖マトフェイ聖堂 日本ハリストス正教会(にほんハリストスせいきょうかい)は、キリスト教の教会。自治独立が認められている正教会所属教会のひとつである。ハリストスは「キリスト」の意(こうした独自の表記・翻訳については後述する)。英語表記は"Orthodox Church in Japan"である(略号はOCJ)。 通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。1970年以前、自治正教会となっていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた。 正教会は一カ国に一つの教会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している。 19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財。 本項では日本ハリストス正教会で用いられている用語を断りなく用いることがある。.

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教会会議

教会会議(synodもしくはcouncil)とは、教会の会議。通常はキリスト教教会が、教義や管理上の問題を話し合うために催す会議を指す。公会議は教会全体の会議であるため(あるいはより正確には、会議の参加者たちを教会全体であるとみなす者が集めた会議であるため)にそう呼ばれる。 教会会議を示す英単語Synodは、ギリシャ語で集まりを意味するsynodosから来ており、ラテン語のconciliumと同義である。教会会議という言葉は元は司教:主教の会議を意味しており、現在でもカトリック教会と正教会ではその意味で用いられる。 時折、総会(general synodあるいはgeneral council)という言葉が公会議を指すために用いられることがある。またシノド(synod)という言葉は正教会で独立教会を統治している高い地位の主教達の会議を指すのに用いられることもある(聖シノド:Holy Synod)。.

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教会スラヴ語

教会スラヴ語は古代教会スラヴ語より後、11世紀~17世紀頃に東・南スラヴで用いられた文章語である。 古代教会スラヴ語を教会スラヴ語と呼ぶ場合があり注意が必要である。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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1018年

記載なし。

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1185年

記載なし。

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1186年

記載なし。

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1203年

記載なし。

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1219年

記載なし。

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1235年

記載なし。

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1346年

記載なし。

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1393年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1515年

記載なし。

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1596年

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1670年

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1767年

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1771年

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1795年

記載なし。

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1814年

記載なし。

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1818年

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1820年

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1850年

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1860年

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1870年

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1872年

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1877年

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1885年

記載なし。

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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1913年

記載なし。

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1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.

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1948年

記載なし。

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1950年

記載なし。

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1953年

記載なし。

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1970年

記載なし。

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1989年

この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。.

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19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.

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1世紀

全能者キリスト(ハリストス)」。 1世紀(いっせいき、いちせいき)は、西暦元年(1年)から西暦100年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最初の世紀でもある。 天文学以外では通常、西暦0年は存在せず、また0世紀もない。これは、ヨーロッパで西暦ができた6世紀の時点では、まだヨーロッパ人は零の概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために紀元前が導入されたのは零の概念が普及した後の17世紀のことである。 なお、天文学やISO 8601では、紀元1年の前年、すなわち紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。.

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2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.

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4世紀

皇帝コンスタンティヌス1世。ミラノ勅令によりキリスト教を公式に認め新首都コンスタンティノポリスを造営した。画像はローマのカピトリーノ美術館にある皇帝の巨像(コロッスス)。 Musée national du Moyen Âgeにある皇帝の像。 メリダ国立ローマ博物館蔵)のレプリカ。 修道生活の基礎が築かれた。画像は大アントニオスを追慕して356年に建てられたエジプトのスエズ県にあるコプト教会の「聖アントニオス修道院」。 アクスム王国の勃興。クシュ王国を滅ぼし現在のエチオピアの地に成立したのがアクスム王国で、最も古くからキリスト教を受容していたことでも知られている。画像はキリスト教に改宗したエザナ王によるオベリスク(石柱)で24mの高さがある。 ゲルマン民族の大移動。ローマ帝国との国境を越えたゲルマン諸族は各地で混乱や衝突を起こした。画像は1920年代に描かれた西ゴート族の王アラリック1世のアテナイ入城(395年)の挿絵。 顧愷之。顧愷之は東晋の画家で、画絶・才絶・癡絶の三絶を備えると云われていた人物。画像は代表作「女史箴図」(大英博物館蔵)。 書聖王羲之。王羲之は東晋の書家で「蘭亭序」他の作で知られ、歴代皇帝にも愛好された。画像は宋末元初の文人画家銭選が王羲之を画題として描いた「蘭亭観鵝図」(台湾・国立故宮博物院蔵)。 七支刀が所蔵されている石上神宮。ここの七支刀が『日本書紀』神功記に記載のある百済から献上されたものだと推定されている。 チャンドラグプタ2世の金貨。チャンドラグプタ2世はインド・グプタ朝の領土を最大に広げ、繁栄をもたらした。 シャクンタラー』。指輪をめぐるシャクンタラー姫の数奇な運命の物語でチャンドラグプタ2世王時代の宮廷詩人カーリダーサによりまとめられたとされる。画像はラヴィ・ヴァルマによる物語絵。 4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀。.

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5世紀

大仙古墳。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の前方後円墳で、大阪府堺市に広がる百舌鳥古墳群を代表する。伝承では仁徳天皇陵とされている。 レオ1世とアッティラの会見」。 ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。初期キリスト教美術を代表するモザイク壁画が残されている。 慧遠と道士の陸修静と詩人の陶淵明の邂逅が画題となっている。 雲崗石窟。北魏時代に都の平城(大同市)から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。 キジル千仏洞壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家亀茲(クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い鳩摩羅什もここの出身である。 アジャンター石窟寺院。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。 シーギリヤ。スリランカのシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、アヌラーダプラからこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。 アルメニア教会。カルケドン公会議以後にキリスト論をめぐりキリスト教は分立した。「単性論派」と呼ばれる「非カルケドン派」にはシリア・エジプト・アルメニアの諸教会がある。画像は483年に再建されたアルメニア教会のエチミアジン大聖堂。 ラテラノ大聖堂に描かれた肖像画。 5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。.

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6世紀

地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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870年

記載なし。

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893年

記載なし。

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927年

記載なし。

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972年

記載なし。

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990年

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