295 関係: 劉キン (学者)、劉盆子、十字架、南越、古代ローマ、墓、大司馬、大秦、大長秋、大英博物館、天文学、太学、太玄経、外戚、変身物語、奴国、小アグリッピナ、属州総督、両都賦、中国、主教、七十門徒、七略、世紀、九州、平帝 (漢)、年表、康居、五賢帝、仏教、仏教のシルクロード伝播、仙道、弥生時代、使徒、使徒教父、徴姉妹、後漢、後漢書、志賀島、匈奴、ナバテア王国、ペトラ、ペトロ、マウレタニア、マサダ、ネルウァ、ネロ、バールベック、バアル、ポンペイ、...、ポントス、ポートランドの壺、メノーラー、メコン川、モエシア、モザイク、ヤムニア会議、ヤコブ (イエスの兄弟)、ユリウス・クラウディウス朝、ユーピテル、ユダヤ属州、ユダヤ人、ユダヤ戦争、ユダヤ教、ヨハネ (使徒)、ヨハネによる福音書、ヨハネの黙示録、ヨーロッパ、ヨーク、ラテン文学、ライン川、ラエティア、リメス、リウィア、ルー・ウォーレス、ルキウス・アンナエウス・セネカ、ルキウス・アエリウス・セイヤヌス、ローマ大火、ローマ帝国、ローマ市民権、ローマ内戦 (68年-70年)、ローマ皇帝、ヴィマ・タクト、ヴェスヴィオ、トマス (使徒)、トラヤヌス、トラキア属州、トイトブルク森の戦い、トウ禹、ヘンリク・シェンキェヴィチ、ヘブライ語聖書、ブリタンニア、ブーディカ、プリンケプス、パルティア、パウロ、ピクト人、ティトゥス、ティトゥスの凱旋門、ティベリウス、ディオニューソス、フラウィウス朝、フェニキア、ドナウ川、ドミティアヌス、ダマスカス、ベン・ハー、ベトナム、和帝、和帝 (漢)、アルミニウス (ゲルマン人)、アルケラオス (カッパドキア王)、アレクサンドリアのフィロン、アンティオキア、アンティオキアのイグナティオス、アンフィテアトルム、アフガニスタン、アウグストゥス、インド、インド・パルティア王国、イエス、イエスの兄弟、イエス・キリスト、イスタンブール、ウェスパシアヌス、エリュトゥラー海案内記、エル・カズネ、エルサレム、エルサレム教会、オウィディウス、オケオ、カリグラ、カレドニア、カッパドキア、カプリ、カイサリア・マリティマ、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス、キリスト教、ギリシア哲学、クラウディウス、クレメンス1世 (ローマ教皇)、クォ・ヴァディス、クシャーナ朝、クジュラ・カドフィセス、グノーシス主義、グラウピウス山の戦い、ケルン、ケルト人、ゲルマン、ゲルマン人、ゲルマニア・スペリオル、コロッセオ、ゴルゴタの丘、ゴンドファルネス、シモン・マグス、シュヴァルツヴァルト、シリア属州、ストラボン、ストア派、ステファノ、スキタイ、タナハ、サカ、哀帝 (漢)、全能者ハリストス、光武帝、前漢、倭、王匡 (更始)、王充、王莽、班固、班超、班昭、琅邪郡、神、神の子、福岡市博物館、竇憲、第二神殿、紀元、紀元前、紀元前10年、紀元前14年、紀元前16年、紀元前1年、紀元前20年、紀元前25年、紀元前27年、紀元前30年、紀元前42年、紀元前43年、紀元前45年、紀元前46年、紀元前4年、紀元前53年、紀元前63年、紀元前6年、紙、緑林軍、甘英、白馬寺、白馬寺 (洛陽)、隗囂、聖ソフィア聖堂、預言者、西域、西域都護、西暦、馬援、論衡、鮮卑、費長房 (後漢)、黒海、迦葉摩騰、赤眉軍、閻立本、董賢、鄭衆 (宦官)、長安、雲台二十八将、ISO 8601、揚雄、条支国、東北地方、楽浪郡、樊崇、殉教者、法言、洛陽市、港市国家、漢委奴国王印、漢書、月氏、明帝 (漢)、昆陽の戦い、新、新末後漢初、方言 (辞典)、悦般、救世主、教皇、扶南国、更始帝、0、0年、100年、101年、102年、10年、110年、114年、117年、14年、17世紀、17年、180年、18年、1千年紀、1年、20年、21年、220年、22年、23年、25年、27年、28年、2年、30年、32年、33年、35年、37年、40年、41年、45年、49年、54年、57年、58年、60年、61年、62年、65年、67年、6世紀、6年、75年、80年、8年、90年、91年、92年、9年。 インデックスを展開 (245 もっと) »
劉キン (学者)
劉 歆(りゅう きん、? - 23年)は、中国、前漢末から新にかけての経学者、天文学者、目録学者。字は子駿。漢の時の爵位は紅休侯、新では嘉新公。陽城侯・劉向の第3子。兄に劉伋と劉賜がいる。子に劉畳(新の伊休侯)、劉棻(新の隆威侯)、劉泳(新の伐虜侯)がいる。前漢の宗室の身分である。後に、名を秀に、字を穎叔と改める。.
新しい!!: 1世紀と劉キン (学者) · 続きを見る »
劉盆子
劉 盆子(りゅう ぼんし、10年 - ?)は、新末後漢初に新朝に対して叛乱を起こした赤眉政権の皇帝。兄に劉恭、劉茂がいる。.
十字架
ラテン十字 ギリシャ十字 十字架(じゅうじか)はイエス・キリストが磔刑に処されたときの刑具と伝えられ、主要なキリスト教教派が、最も重要な宗教的象徴とするもの。イエスの十字架を象り、立体のものを作ったり画布や板に描いたものを崇敬の対象とする。また、祈祷の一部として手で自分の胸に画いたり、相手の頭上に画いたりする。.
南越
南越(なんえつ).
古代ローマ
古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.
墓
墓(はか)は遺体または遺骨を収めて故人を弔う構造物 亘徳、2017年2月6日閲覧。墳墓(ふんぼ)、墳塋(ふんえい)ともいう。一般に墓石・墓碑などの目印を置き、これを墓標(ぼひょう)という。また、この墓石・墓碑を指して墓ということもある。.
大司馬
大司馬(だいしば)は、中国の官職の一つで、主に軍事を取り仕切る、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職がもうけられる場合もあった。 周(春秋戦国時代)代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。 秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。 前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。恵帝の6年(紀元前189年)に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の建元2年(紀元前139年)に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の建元4年(紀元前119年)に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。宣帝の地節2年(紀元前68年)に、大司馬大将軍霍光が亡くなると、宣帝はその子霍禹を単に大司馬とし、将軍号を削って兵権を奪った。この時のみ大司馬には兵権が無かった。その後も三公での順位や将軍号の有無の変遷があったが、大司馬の職位は続いた。 新の王莽を打倒した更始帝も大司馬を置き、劉秀は当初、兼務の行大司馬として河北に渡った。劉秀が皇帝に即位すると、また大司馬を置き、呉漢が任じられた。 後漢の建武27年(51年)に太尉に置き換わった。 魏晋には、太尉と並立しながらも三公より格上の職として復活し、曹仁などの大物が就任した。.
大秦
1532年に作成された世界地図『四海華夷總圖』。西の果てに大秦国の表記がある 大秦(だいしん)は、中国の史書に記載されている国名で、ローマ帝国、のち東ローマ帝国のことを指すとされる。 「ローマ帝国」を現代中国語で書くと「羅馬帝国」となる。.
大長秋
大長秋(だいちょうしゅう)は、中国の王朝で皇后府をとりしきる宦官の最高位。前漢までは民間出身でも任命されたようであるが、後漢の初代皇帝・光武帝により宦官のみ大長秋に任命するように制定された。特に魏の曹操の祖父・曹騰が任じられたことで有名である。漢代の秩は二千石で、侯に封ぜられた者で功が多いものを選んで任官された。皇后府の卿と書かれることもある。三国時代の各国にも引き続き置かれたが宦官のみとする任命が継続したかは不明である(『三国志』ちくま学芸文庫8巻P273)。 Category:中国の官名 *.
大英博物館
大英博物館(だいえいはくぶつかん、British Museum)は、イギリス・ロンドンにある博物館である。.
天文学
星空を観察する人々 天文学(てんもんがく、英:astronomy, 独:Astronomie, Sternkunde, 蘭:astronomie (astronomia)カッコ内は『ラランデ歴書』のオランダ語訳本の書名に見られる綴り。, sterrenkunde (sterrekunde), 仏:astronomie)は、天体や天文現象など、地球外で生起する自然現象の観測、法則の発見などを行う自然科学の一分野。主に位置天文学・天体力学・天体物理学などが知られている。宇宙を研究対象とする宇宙論(うちゅうろん、英:cosmology)とは深く関連するが、思想哲学を起源とする異なる学問である。 天文学は、自然科学として最も早く古代から発達した学問である。先史時代の文化は、古代エジプトの記念碑やヌビアのピラミッドなどの天文遺産を残した。発生間もない文明でも、バビロニアや古代ギリシア、古代中国や古代インドなど、そしてイランやマヤ文明などでも、夜空の入念な観測が行われた。 とはいえ、天文学が現代科学の仲間入りをするためには、望遠鏡の発明が欠かせなかった。歴史的には、天文学の学問領域は位置天文学や天測航法また観測天文学や暦法などと同じく多様なものだが、近年では天文学の専門家とはしばしば天体物理学者と同義と受け止められる。 天文学 (astronomy) を、天体の位置と人間界の出来事には関連があるという主張を基盤とする信念体系である占星術 (astrology) と混同しないよう注意が必要である。これらは同じ起源から発達したが、今や完全に異なるものである。.
太学
太学(たいがく)とは、古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関。古代の教育体系においては最高学府にあたり、官僚を養成する機関であった。.
太玄経
『太玄経』(たいげんきょう)または『太玄』は、前漢末の揚雄の撰述による『易経』に似た書物。易が陰陽の二爻を6つ重ねた六十四卦によるのに対し、天地人の三才を4つ重ねた八十一首から構成される。.
外戚
外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.
変身物語
『変身物語』(へんしんものがたり、)は、古代ローマの詩人オウィディウスによるラテン文学の名作。神話原典のひとつである。『転身物語』(てんしんものがたり)や、原題のまま『メタモルポーセース』などとも呼ばれる。.
奴国
奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる倭人の国である。大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される。.
小アグリッピナ
小アグリッピナ(, 西暦15年11月6日 - 西暦59年3月23日)は、ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝の皇族。正式の名前はユリア・アグリッピナ()、後にユリア・アウグスタ・アグリッピナ()と名乗る。 皇帝ネロの母親として知られている。父はゲルマニクス、母は大アグリッピナ。兄に第3代皇帝カリグラがいる。.
新しい!!: 1世紀と小アグリッピナ · 続きを見る »
属州総督
ーマ帝国の属州(120年時点) 属州総督(ぞくしゅうそうとく、古典ラテン語:rector provinciae レークトル・プローウィンキアエ)は、古代ローマにおいてローマ法に基づき属州の行政を任された総督のことである。英語ではガヴァナー(governor)、フランス語ではグヴェルヌール(gouverneur)の語が用いられるが、これはラテン語のグベルナートル(gubernator)に由来する。.
両都賦
『両都賦』(りょうとふ)は、中国の詩作品のひとつである。中国後漢の歴史家・文学者である班固(32年 - 92年)の作。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
主教
主教(しゅきょう、Επίσκοπος, Episcopus, Bishop, Епископ)とは、正教会、聖公会における高位聖職者主教について、「最高位」(英語では"highest" もしくは"supreme")に類した表現を使用して居らず、「高位」(英語では"high")に当たる言葉も使っていないケースもあるが(、 )、一方で「最高位」 ("highest") を使用している文献もある。ここでは大辞泉での表現「高位」に拠った。。複数教会によって構成される教区を管轄する(大辞泉)正教会の出典:聖公会の出典:。 カトリック教会では司教と呼ばれる。「主教」は正教会に属する日本ハリストス正教会、および聖公会に属する日本聖公会などで用いられる訳語。なお朝鮮語および中国語では、カトリック教会の司教も「主教」である。ルーテル教会やメソジストでは監督と呼ばれる『キリスト教大事典』519頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版。 2世紀初頭には既に主教職があり現代に至っているが、教派ごとにその位置付けは異なる。.
七十門徒
七十門徒のイコン 七十門徒(しちじゅうもんと、Апостолы от семидесяти, Seventy Disciples)とは、ルカによる福音書10章1節にある、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの現代ギリシャ語読み)によって十二使徒の他に選抜されて2人1組として伝道に遣わされた、イイススの70人の弟子達のことであり、日本正教会での訳語。七十徒とも表記される。 七十門徒を、正教会では使徒にも数えている。.
七略
『七略』(しちりゃく)は、中国前漢代の劉向・劉歆父子により編纂され、『漢書』「芸文志」の基礎となった書目(図書目録)である。.
世紀
世紀(せいき)とは、西暦を100年単位で区切った範囲に対しての呼称である。百年紀。“century”(英 /ˈsenʧɚi/ センチュリー)の訳語(語源はラテン語で「百」を意味する"centum")である。「世紀」を「C」という略記号で表すことがある(例えば、“20C ”は20世紀を表す)。 世紀は紀元後については、西暦元年(1年)から100年区切りごとに一単位として数える序数で表現される。また紀元前の世紀は、紀元前1年から遡って100年区切りごとに数える。このため、紀元0年が存在しないことと同様に、「0世紀」というものは存在しない。例えば、21世紀は英語で“The 21st (twenty-first) century ”と表現される「21番目の世紀」「第21世紀」という意味である。 また、天文学では時間的な「量」の単位としてユリウス世紀(.
九州
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.
平帝 (漢)
平帝(へいてい)は、前漢の第13代皇帝。元帝の孫にあたる。.
新しい!!: 1世紀と平帝 (漢) · 続きを見る »
年表
年表(ねんぴょう)とは、歴史上の出来事を起こった年とともに年代順に並べたものである。タイムラインとも言う。 横方向に構成される場合(通常は左から右へと年代が下る)と縦方向に構成される場合がある。通常は歴史年表のことをいうが、科学史年表や音楽史年表のように特定のテーマのみの出来事を扱った年表もある。テーマ別の年表については「年表一覧」を参照のこと。.
康居
紀元前1世紀の西域諸国。 康居(呉音:こうこ、漢音:こうきょ、拼音:Kāngjū)は、かつて中央アジアに在ったとされる遊牧国家。大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現在のカザフスタン南部にあたる。.
五賢帝
西暦125年、ハドリアヌス統治下のローマ帝国 五賢帝(ごけんてい)とは、1世紀末から2世紀後期に在位したローマ帝国の5人の皇帝、またその在位した時代のこと。しばしばネルウァ=アントニヌス朝(英語:Nerva–Antonine dynasty)とも称される(この場合はルキウス・ウェルス、コンモドゥスも歴代皇帝に含まれるが)。共和政時代から続いてきた領土拡大が一種の集大成を迎え、ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた。パクス・ロマーナと呼ばれる時代の一角をなす。.
仏教
仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.
仏教のシルクロード伝播
ルクロードを通じて仏教は陸路により中国にもたらされた。この仏教のシルクロード伝播(ぶっきょうのシルクロードでんぱ)が始まったのは2世紀後半もしくは1世紀と考えるのが最も一般的である。 最初に中国の仏僧(完全に外国人)による仏典漢訳が行われたのは記録されている限りでは2世紀のことで、クシャナ朝がタリム盆地の中国の領土にまで伸長したことの結果ではないかと考えられている。 4世紀以降、法顕のインド巡礼(395年–414年)やそれに次ぐ玄奘のインド巡礼(629年–644年)にみられるように、中国からの巡礼者たちが原典によりよく触れるために、彼らの仏教の源泉たる北インドへと旅をするようになった。仏教のシルクロード伝播は中央アジアでイスラームが興隆する7世紀ごろに衰え始めた。.
新しい!!: 1世紀と仏教のシルクロード伝播 · 続きを見る »
仙道
*仙道(せんどう)は、中国の内丹術を中心とした仙人になるための修行法。仙人の方術、仙術の修行法。.
弥生時代
弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。.
使徒
使徒(しと)は、狭義にはイエス・キリストの12人の高弟を指すが、それに近い弟子(パウロ、七十門徒など)にもこの語が用いられることがある。広義には、重要な役割を果たしたキリスト教の宣教者(「遣わされた者」)および、その宣教者の称号である。 原語のギリシア語はαπόστολος (apostolos) で、「派遣された者」が原義である。転じて「使者」「使節」をも指す。このギリシア語は、キリスト教文書以外にも出てくるものであるが、キリスト教文書の日本語訳の際だけ「使徒」という専門語を当てて訳すため、両者の単語間には齟齬がある。この点では、他の西洋語も、ギリシア語の形を踏襲しているものの、事情はさして変わらない(apostolus、apôtre、Apostel、apostleなど)。なお、「使徒」という訳語は、漢訳聖書から継いだものである。 また、イスラム教においては、ラスール(rasūl, رسول)という語が同じく「使者」の意であり、キリスト教の使徒と似た意味に用いられて、訳語として「apostle」や「使徒」があてられている。.
使徒教父
使徒教父(しときょうふ、Αποστολικοί Πατέρες, Patres Apostolici, Apostolic Fathers)は、1世紀末から2世紀前半にかけての、新約聖書に収められた文書以外の、主要な文書を執筆した者達の総称『キリスト教大事典 改訂新版』484頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版。 そのまま語義をとれば「使徒時代の教父」となるが、実際にはその執筆された文書群は使徒後時代に位置づけられる。「使徒教父」の術語の起源は近世(17世紀後半)にあり、コテリエ(J.B.Cotelier)が1672年に使徒教父の著作集を出版したのが嚆矢となっている。 使徒教父文書として以下が挙げられる。.
徴姉妹
徴 姉妹(ちょう しまい、ハイ・バー・チュン、、)は、1世紀の交州(現在のベトナム北部など)で起こった反乱()の首謀者。徴側(ちょうそく、チュン・チャク、、生年不詳 - 建武19年(43年)4月)と徴弐(ちょうに、チュン・ニ、、生年不詳 - 建武19年(43年)4月)の姉妹を指す。.
後漢
後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.
後漢書
『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.
志賀島
志賀島の位置(赤色が東区) 海ノ中道上空からの志賀島(右)。他に能古島(左)と玄界島(右奥)も見える。 志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。.
匈奴
匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.
ナバテア王国
ナバテア王国は、紀元前2世紀前半頃にペトラ(現在のヨルダン西部)を中心に栄えたナバテア人<!-- ループリンク -->の王国。元来ペトラ周辺を拠点に活動していた遊牧民であったナバテア人はキャラバン貿易によって莫大な富を形成し、ペトラに先住していたエドム人を排除して定住生活を営むようになった。紀元前168年に建国され、キャラバン貿易の商隊路に沿う形で領土を広げていった。紀元前63年にハスモン朝イスラエルの内戦に介入するが、共和政ローマ介入によって最終的にローマ軍にペトラ目前まで攻め込まれ、ローマの属国となった。その後、アラビア半島西を通る交易ルートは紅海を通る海上ルートが主流になっていったためペトラの商業都市としての重要性が低下し、その衰退の勢いを止めることができないまま、106年にローマのアラビア・ペトラエア属州に組み込まれて消滅した。 交易の要衝に位置していたこともあり、ナバテア王国は周辺国家との交流が盛んであったと考えられており、当時のペトラは多数の外国人が居住する国際都市であったと考えられている。王国の収入は交易による関税収入が主であり、国民の多くは隊商活動に従事していたと考えられており、そのため王政ではあったものの商業貴族の権力が強かったとされる。国境を接するハスモン朝やローマ帝国、アッシリア、古代エジプトなどの周辺諸国からの文化的、宗教的影響を受けた。権力の誇示のために作られた岩窟墓であるエル・カズネを含むナバテア王国の遺跡群は世界遺産に指定されている。.
新しい!!: 1世紀とナバテア王国 · 続きを見る »
ペトラ
ペトラ(البتراء)は、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。2007年7月、新・世界七不思議に選出。.
ペトロ
ペトロ (שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה,,, )(生年不明 - 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストに従った使徒の一人。シモン・ペトロ、ペテロ、ケファともいわれる。聖人の概念をもつ全てのキリスト教諸教派(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)において聖人とされ、その記念日(聖名祝日)は6月29日(ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)である。 カトリック教会においては「使徒の頭」、正教会においてはペトルと呼ばれ、パウロ(パウェル)と並んで首座使徒の一人と捉えられている。.
マウレタニア
マウレタニアは古代の北アフリカの地中海沿岸に独立したベルベル人のマウリ部族の王国。西アルジェリア、北モロッコ、ジブラルタルを含む広大な地域を支配。その後はローマ帝国の支配下に入って、王国の歴史は閉じることとなる。この国に因み、ムーア人の呼称が生まれ、ムーア人が支配するモーリタニアはマウレタニアの後継を称して国号が付けられたが、ムーア人支配層以外には民族的な繋がりがなく、地理的には何の関係もない。マウリ人はギリシャ語の黒 mauros に由来すると示唆されている。 初期の記録にはフェニキアやカルタゴの植民地リクサス、ヴォルビリス、モガドール、シェラとの関連が記されている。.
新しい!!: 1世紀とマウレタニア · 続きを見る »
マサダ
マサダ(מצדה, Masada)は第一次ユダヤ戦争の遺跡で、イスラエル東部、死海西岸近くにある城址。「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」を意味する。.
ネルウァ
マルクス・コッケイウス・ネルウァ(Marcus Cocceius Nerva Caesar Augustus 35年11月8日 - 98年1月27日)は、第12代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の初代皇帝。 フラウィウス朝断絶後の混乱の中で皇帝に即位したが、老齢で跡継ぎが望めなかった為に腹心であるトラヤヌスを王朝の後継者とした。以降、トラヤヌスの親族達により帝位は継承されていった為、新王朝成立の重要な契機を与えた存在でありながら歴代君主と血縁関係にないという特異な立場を持つ事になった。 ネルウァはユリウス=クラウディウス朝最後の君主ネロ、及び続いて成立したフラウィウス朝に仕えて立身を果たした。ネロ帝の時代にはピソの陰謀を防いだ活躍で知られる。ネロ自害後の内乱ではフラウィウス朝を支持してウェスパシアヌス帝から71年の執政官に叙任され、その息子ティトゥスとドミティアヌスの代にも執政官に任命されるなど王朝の重臣として重用された。 ドミティアヌス暗殺後、元老院によってネルウァは皇帝に推挙された。それまで単に帝位を追認するだけの存在に成り下がっていた元老院の主導で皇帝選出が行われた初の事例となった。ネルウァ帝は既に65歳という当時ではかなりの高齢になっていた事から臨時的な皇帝就任と考えられ、主にドミティアヌス時代に迫害された人々の名誉回復に努めた。しかし軍の掌握については思うように進められず、軍の実力者であった将軍トラヤヌスを後継者にする事を交換条件に支配下に置いた。即位から15ヶ月後にネルウァ帝は病没し、トラヤヌスが義理の息子として帝位を継承した。 治世の短さに加えて人生の大半を占める即位前の記録が乏しいこともあり、ネルウァ帝についての評価は明確に定まっていない。よく見られる通俗的評価としては、自らの血縁でない人間に帝位を譲ったという逸話から「温厚で野心を持たない人物」と解釈される場合が多い。しかし近年は帝位を譲ったのは軍の圧力に屈した為であり、弱い皇帝権しか持つことができなかったという側面が強いと考えられている。とはいえ、先述した通りトラヤヌスとその血族による王朝設立に契機を与えたのは紛れも無くネルウァ帝であり、歴代君主から崇敬される王朝の祖であった。.
ネロ
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(, 37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus)は、ローマ帝国の第5代皇帝。.
バールベック
バールベック (بعلبك; Ba‘albakk、バアルバック)とは、レバノンの東部、ベイルートの北東約85km、ベカー高原の中央にある古代遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。 バールベックとは「ベカー高原の主神」を意味し、ここにフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来するといわれ、本来はフェニキア系の神々の聖地だったと考えられる。しかし後にギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター・ビーナス・バッカスと呼ばれるようになった。 遺跡はこれら三神をそれぞれ祀る三つの神殿から構成されている。世界でも有数のローマ神殿跡である。.
新しい!!: 1世紀とバールベック · 続きを見る »
バアル
シリアのパルミラにあるバアルの神殿(ベル神殿) バアル(: בַּעַל ba‘al、ウガリット語: b‘l)は、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」パルミラの遺跡 (1988), p. 49.
ポンペイ
ポンペイの想像図 アボンダンツァ通り ポンペイ(Pompeii、Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。79年8月24日の昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれる。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。この遺跡は、カンパニア州ナポリ県所属の基礎自治体(コムーネ)・ポンペイの市域に所在するが、現在のポンペイ市街は19世紀末に建設されたもので、その中心部は古代ローマ時代のポンペイとは少し離れている。 なお、イタリア語での発音は e にアクセントがあるため、「ポンペーイ」に近い。古典ラテン語ではeと最後のiが長母音なので、「ポンペーイイー」である。.
ポントス
ポントス地方 ポントス王国最大領域(ミトリダテス6世統治時期) ポントス(Πόντος)は、アナトリア地方の黒海南岸、特に南岸のうち東部の地方名である。ヘレニズム時代よりの歴史を有し、現在はトルコ共和国領内に属している。なお、ラテン語表記に基づきポントゥス(Pontus)とも呼ばれる。.
ポートランドの壺
リジナルの第一場面 ポートランドの壺 (ポートランドのつぼ)とは、西暦25年頃に古代ローマで作られたカメオ・ガラスの作品。イギリスの外交官によって18世紀にイタリアからイギリスに持ち込まれた。また、これをモデルにしてジョサイア・ウェッジウッドが1790年に作製した同名のジャスパーウェアもある。 2つの持ち手がついた壺の表面に、座ってくつろぐ人々が描かれている。 ウェッジウッドは、焼成時の装飾部分と壺本体の収縮率の差の調整やガラスの質感の再現に苦労したが、4年の歳月をかけて濃紺地に白いレリーフが浮かぶ見事な作品を完成させた。この作品はウェッジウッド美術館に所蔵されている。.
新しい!!: 1世紀とポートランドの壺 · 続きを見る »
メノーラー
ッパーとメノーラー メノーラー、メノラー( mənôrāh, menuroh, menorah)は「燭台」と訳される。 7枝(厳密には中央の1本は枝ではないので6枝)のものをいい、ハヌカーに用いられる8枝(左右に4本づつ枝が伸びて中央と合わせて9つ火皿がある)のものはハヌッキーヤーという。.
メコン川
メコン川(メコンがわ、Mekong River、แม่น้ำโขง(ラテン文字転写:Mae Nam Khong)、Sông Cửu Long/瀧九龍)は、東南アジアを流れる河川。東南アジアで最長、アジア全体でも7番目に長い川である。.
モエシア
モエシア属州の位置(120年頃のローマ帝国) モエシア(Moesia)は、古代ローマの属州であり、現在のセルビアとブルガリアの領域に位置した。古代の地理でいうとモエシアは、南はバルカン山脈(ハエモナ山、Haemus)とシャール山(スカルディス山、Scardus)、西はドリナ川(ドリヌス川、Drinus)、北はドナウ川(ダヌビウス川、Danubius) 、そして東は黒海(ユークシン、Euxine)に囲われていた。この地域の住民は主にトラキア人とイリュリア人であった。地名は、当地に住んでいたトラキア人のモエシ族(Moesi)に由来する。.
モザイク
モザイク(英語:mosaic、フランス語:mosaïque)は、小片を寄せあわせ埋め込んで、絵(図像)や模様を表す装飾美術の手法。石、陶磁器(タイル)、有色無色のガラス、貝殻、木などが使用され、建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾のために施される。この装飾方法は古くから世界的に見られ、宗教画や幾何学模様など様々なものが描かれており、歴史上、カテドラルの内部空間やモスクの外壁などの装飾手法として特に有名である。.
ヤムニア会議
ヤムニア会議(ヤムニアかいぎ)は、ユダヤ戦争終結後、紀元90年代にユダヤ教(主にファリサイ派)のラビたちによって行われ、マソラ本文(ユダヤ教のヘブライ語聖書)の定義と分類を決定した宗教会議。ヤムニアはヤブネのギリシア語名で現在のイスラエル南西部にあたる。.
新しい!!: 1世紀とヤムニア会議 · 続きを見る »
ヤコブ (イエスの兄弟)
主の兄弟ヤコブ(しゅのきょうだいヤコブ)(??年 - 62年)はナザレのイエスの異母兄または従兄あるいは実弟とされる人物である。日本ハリストス正教会では主の兄弟イヤコフと呼ぶ。義人ヤコブ(ぎじんヤコブ)とも呼ばれる。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。.
新しい!!: 1世紀とヤコブ (イエスの兄弟) · 続きを見る »
ユリウス・クラウディウス朝
ユリウス・クラウディウス朝(英語:Julio-Claudian dynasty)は、古代ローマ帝国の王朝で、初代皇帝アウグストゥスに始まる5人の皇帝(アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ)の治世を指す。 紀元前27年から紀元68年まで約100年間続いた。.
新しい!!: 1世紀とユリウス・クラウディウス朝 · 続きを見る »
ユーピテル
ユーピテル(Jūpiter, Juppiter, 古典綴 IVPPITER)は、ローマ神話の主神である。また最高位の女神であるユーノーの夫である。 時として女性化・女体化して女神となり、その姿がディアーナであるという言い伝えもある。 ユピテルまたはユッピテルとも表記され、英語読みのジュピターでも呼ばれている。.
ユダヤ属州
ユダヤ属州の位置 ユダヤ属州(Iudaea、יהודה、現代ヘブライ語:Yehuda、Ιουδαία)は、現代のパレスチナとイスラエルにあたる地区に設置されていたローマ帝国の属州である。名称は紀元前6世紀に存在したユダ王国にちなむ。なお、ラテン語の原音表記による「ユダエア属州」とも称される。 ユダ王国の後、この地域は、新バビロニア・アケメネス朝・セレウコス朝およびプトレマイオス朝・ハスモン朝の支配を受けてきた。第三次ミトリダテス戦争におけるローマの勝利(紀元前63年)以降、ローマはこの地域に干渉を始め、紀元前1世紀にハスモン朝がローマの保護国(クリエンテス)となり、やがてローマ帝国の属州となった。 ユダヤ属州では、3回の大きな内乱が発生した。第1次ユダヤ戦争(66年 - 70年)、キトス戦争(115年 - 117年)、バル・コクバの乱(132年 - 135年)である。バル・コクバの乱の後に、属州名がシリア・パレスティナ(:en:Syria Palestina)に改名された。.
ユダヤ人
ユダヤ人(יהודים、Jews、Djudios、ייִדן)は、ユダヤ教の信者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(血統)によって構成される宗教的民族集団である。 ムスリムやクリスチャンと同じで、ユダヤ人という人種・血統的民族が有る訳では無い。ヨーロッパでは19世紀中頃まで主として前者の捉え方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは後者の捉え方が広まった。ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている。2010年現在の調査では、全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。ヘブライ人やセム人と表記されることもある。 ユダヤ人はディアスポラ以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する少数派のエスニック集団として定着した。しかし、それらを総体的に歴史と文化を共有する一つの民族として分類することはできない。言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、一つの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている。 で追加された記述だが、出典が示されていない。古代のイスラエル人やセファルディムは(いわゆる「白人」ではないものの)主にコーカソイドのはずで、これを単に「有色人種」と説明するのは誤りではないにしても誤解を招きかねず、不適切であろう。また、アシュケナジムをハザール人と関連づけるのは(当該記事の記述によれば)諸説があり、広く受け入れられている説ではない。 「古代のイスラエル人は有色人種で、12支族の1支族ユダ族のユダヤ人は有色人種セファルディムで、白系ユダヤ人アシュケナジム(ヘブライ語でドイツを意味する)は8世紀頃、ハザール人のユダヤ教への改宗によって、ユダヤ人を名乗った。」 -->.
ユダヤ戦争
1世紀のパレスティナ ユダヤ戦争(ユダヤせんそう、המרד הגדול、アルファベット表記:ha-Mered Ha-Gadol)は、帝政ローマ期の66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争である長窪 pp291-292。.
ユダヤ教
ダビデの星 ユダヤ教(ユダヤきょう、יהדות)は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(יהוה)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。ただしメシア思想は、現在ではハバド・ルバヴィッチ派などを除いて中心的なものとなっていない。 『タナハ』(キリスト教の『旧約聖書』に当たる書物)が重要な聖典とされる。.
ヨハネ (使徒)
使徒ヨハネ(しとヨハネ)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。洗礼者ヨハネと区別するために特に「使徒ヨハネ」と呼んだり、ゼベダイの子ヨハネ、福音記者ヨハネと呼ぶこともある。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。 日本ハリストス正教会における呼称では教会スラヴ語から転写しイオアン。聖使徒福音者神学者イオアンとも呼ばれる。 正教会での記憶日は10月9日(修正ユリウス暦使用教会では9月26日)。カトリック教会での記念日は12月27日。.
新しい!!: 1世紀とヨハネ (使徒) · 続きを見る »
ヨハネによる福音書
『ヨハネによる福音書』(ヨハネによるふくいんしょ、Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιον Kata Iōannēn Euangelion、Evangelium Secundum Iohannem)は新約聖書中の一書。 『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書(イエス・キリストの言行録)の一つである。ルターは本福音書とパウロ書簡を極めて高く評価しており、その影響は現在のプロテスタント各派に及んでいる。.
新しい!!: 1世紀とヨハネによる福音書 · 続きを見る »
ヨハネの黙示録
『ヨハネの黙示録』(ヨハネのもくしろく Ἀποκάλυψις Ἰωάννου、Apocalypsis Iōannis、Revelation)は、『新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。 『ヨハネの黙示録』は、単に『黙示録』あるいは『ヨハネによる黙示録』、『神学者聖イオアンの黙示録』(日本ハリストス正教会)、『使徒聖ヨハネ黙示録』(天主公教会)、『ヨハネへの啓示』(ものみの塔聖書冊子協会)ともいわれる。 タイトルの「黙示」とはギリシャ語の「アポカリュプシス(Ἀποκάλυψις)」の訳であり、καλύπτω(覆う)に接頭辞のἀπό(離れて)が組み合わさったἀποκαλύπτω(明かす、明らかにする)という動詞に、-σιςという抽象名詞を作る接尾辞が付いた複合語である。英語では「Revelation」と言い、上記と同義のラテン語revēlātiō(暴露、すっぱ抜き)に由来する。『黙示録』はキリスト教徒の間でも、その解釈と正典への受け入れをめぐって多くの論議を呼びおこしてきた書物である。ヨハネの黙示録は2世紀に書かれたと言われているムラトリ正典目録に含まれており、A.D.397年に開催されたカルタゴ会議では、ヨハネの黙示録を含む27文書が正典として認められた。.
新しい!!: 1世紀とヨハネの黙示録 · 続きを見る »
ヨーロッパ
ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...
ヨーク
ヨーク(York、Yoke、Jork).
ラテン文学
ラテン文学は、ラテン語による文学のことである。.
ライン川
ライン川(ラインがわ、阿:Rhy、巴 / Rhein、Rijn、Rhin、Rhine、Rhenus)は、ヨーロッパを流れる川。 スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルクなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。 全長1,233km。そのうちドイツを流れるのは698kmである。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開していった。また、ドイツ語の名詞には男性名詞、女性名詞、中性名詞があるが、河川のほとんどは女性名詞であるのに対し、ライン川、マイン川、ネッカー川などごく少数の川だけは男性形であらわされる。そのこともあって、ドイツ人はこの川を「父なる川」と呼んでいる。ドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する国際河川の一つ。 下流地域は川幅が広く流れが穏やかなため、水運が盛んである。バーゼルから河口までのライン川流域圏はブルーバナナ(「太平洋ベルト」の西欧版)の一部を成す。また、産業革命の中心地のひとつとなったルール工業地帯もライン川とルール川に挟まれる形で位置しており、その充実した内陸水路と豊富な地下資源によって発達した。.
ラエティア
ラエティア(Raetia、古い文献での綴りは Rhaetia)は、ローマ帝国の属州である。その領域は、現在のスイス東部および中央部(ライン川上流やボーデン湖を含む)、ドイツのバイエルン州南部やドナウ川上流部、オーストリアのフォアアールベルク州、オーストリアとイタリアにまたがるティロル地方の大部分、およびイタリアのロンバルディア州の一部からなる。ローマ帝国時代のラエティアは、西はヘルウェティイ族の国に接し、東はノリクム、北はウィンデリキア(:en:Vindelicia)、南はガリア・キサルピナに接した。北側の国境線は、リーメス(ドイツから続く長城)の一部によってドナウ川沿いに166kmにわたって守られていた。ラエティアとイタリアとの間は、アルプス山脈をレッチェン峠(レージア峠)で越えるクラウディア・アウグスタ街道によって結ばれていた。.
リメス
ーマ帝国内のリメスの位置 リメス(Limes)は、ローマ帝国時代の防砦システムであり、ローマ領の境界線を示すものでもあった。リメスは、ローマ帝国全土に張り巡らされていたが、世界遺産に登録されたドイツのリメスが著名である。なお、長音読みのリーメス(Līmes)()と表記されることもある。.
リウィア
リウィア・ドルシッラ(Livia Drusilla, 紀元前58年1月30日 - 紀元29年)は、古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの妻で2代皇帝ティベリウスの母。またアウグストゥスの遺産の継承者でもあり、ユリア・アウグスタ(Julia Augusta)を名乗った。一般には単にリウィアと呼ばれる。.
ルー・ウォーレス
ルイス・"ルー"・ウォーレス(Lewis "Lew" Wallace、1827年4月10日-1905年2月15日)は、弁護士、州知事、南北戦争のときの北軍将軍、アメリカ合衆国の政治家および著作家であり、歴史小説『ベン・ハー』(Ben-Hur: A Tale of the Christ)を書いたことで最も良く記憶されている。.
新しい!!: 1世紀とルー・ウォーレス · 続きを見る »
ルキウス・アンナエウス・セネカ
ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃 - 65年 4月)は、ユリウス・クラウディウス朝時代(紀元前27年 - 紀元後68年)のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。 父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の白銀期を代表する人物と位置付けられる。.
新しい!!: 1世紀とルキウス・アンナエウス・セネカ · 続きを見る »
ルキウス・アエリウス・セイヤヌス
記録抹殺刑により彼の名が消されている ルキウス・アエリウス・セイヤヌス(, 紀元前20年 – 紀元後31年10月18日)は、古代ローマの親衛隊長官。セイアヌスとも表記される。第2代ローマ皇帝ティベリウスの信頼を獲得し、権勢を誇ったが、ティベリウスがカプリ島に隠遁した後、代理として元老院を牛耳り、また皇帝一族との婚姻、対立分子の排除を図ろうとする。これが皇帝権力の脅威と見られ、ティベリウスの奸計に陥り処刑された。.
新しい!!: 1世紀とルキウス・アエリウス・セイヤヌス · 続きを見る »
ローマ大火
ーマ大火(ローマたいか)は、西暦64年7月19日、皇帝ネロ時代のローマ帝国の首都ローマで起こった大火災を指す。.
ローマ帝国
ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.
ローマ市民権
ーマ市民権(ローマしみんけん)は、古代ローマ市民に与えられた諸権利。 具体的には、市民集会(民会)における選挙権・被選挙権(ローマの官職に就任する権利)、婚姻権、所有権、裁判権とその控訴権(ローマ法の保護下に入る)、ローマ軍団兵となる権利など。また人頭税や属州民税(資産の10%で凡そ収穫の33%程度)も課されない。.
新しい!!: 1世紀とローマ市民権 · 続きを見る »
ローマ内戦 (68年-70年)
ーマ帝国(69年) ローマ内戦 (68年-70年) では、68年から70年の間に起きたローマ帝国の内戦について記す。なお、ローマ皇帝として4人が次々と擁立された69年は特に「四皇帝の年」とも呼ぶ。この内戦を収めたウェスパシアヌスは、新たに皇帝となった(フラウィウス朝の始まり)。.
新しい!!: 1世紀とローマ内戦 (68年-70年) · 続きを見る »
ローマ皇帝
ーマ皇帝(ローマこうてい)とは、紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(Augustus)」の尊称を授与されたオクタウィアヌスと、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。「ローマ皇帝」というひとつの職位があるのではなく、多くの重要な職位を一人が集中して兼任した状態のことをいう。初代ローマ皇帝とされるオクタウィアヌスは、実際に様々な官職や権限を一身に集め、彼の後継者に同一の権限を与えた。オクタウィアヌス以降の歴代ローマ皇帝は、「Imperator Caesar Augustus」を自分の名前に付加することで、権限を集中した兼任者(つまり皇帝)が誰であるかを明確にしていた。.
ヴィマ・タクト
ヴィマ・タクト(Vima Takto、生没年不詳)は、クシャーナ朝の第2代君主。クジュラ・カドフィセスの子。ヴィマ・タクトゥ(Vima Taktu)とも表記される。また、『後漢書』にある閻膏珍(えんこうちん)が彼にあたるとされる。.
新しい!!: 1世紀とヴィマ・タクト · 続きを見る »
ヴェスヴィオ
ヴェスヴィオ山()は、イタリア・カンパニア州にある火山。ナポリから東へ約9kmのナポリ湾岸にある。現在は噴火していない。日本ではベスビオス火山、ヴェスヴィオス火山とも呼ばれることがある。 狭義のヴェスヴィオ山は、ソンマ山(1,132m)とよばれる外輪山が取り巻いた標高1281メートルの複合成層火山。英語からヴェスヴィアス、ラテン語からウェスウィウス、ヴェスヴィウスとも呼ばれる。イタリア語の発音をカタカナ表記すると「ヴェズーヴィオ」となる。ローマ人にとっては紀元前73年に剣闘士スパルタクスが仲間とともに立て籠もった山として記憶されていた石弘之 2012年 71ページ。.
新しい!!: 1世紀とヴェスヴィオ · 続きを見る »
トマス (使徒)
イエスに触れるトマス。ドゥッチオ・ディ・ブオニンセーニャ作。1308-1311頃。 使徒トマス(Thomas the Apostle, 生年不詳 - 72年12月21日)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。アラム語の原義は「双子」。彼に由来する男性名としても一般的に用いられている。ディディモ (Didymus) は「双子」をギリシャ語に訳したもの。ロシア正教会とその流れを汲む日本ハリストス正教会ではフォマ (Фома)。.
新しい!!: 1世紀とトマス (使徒) · 続きを見る »
トラヤヌス
マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス(ラテン語:マールクス・ウルピウス・ネルウァ・トライヤーヌス・アウグストゥス、53年9月18日 - 117年8月8日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:98年 - 117年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝である。文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア・パルティアで功績をあげ、ローマ帝国史上最大の版図を現出した。 イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝でもある。それまでは、首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか皇帝に選ばれたことはなかった。 トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。.
トラキア属州
トラキア属州(トラキアぞくしゅう、Θρᾴκη)は46年にローマ皇帝クラウディウスの命で属国のを併合して設立されたローマ帝国の属州である。.
新しい!!: 1世紀とトラキア属州 · 続きを見る »
トイトブルク森の戦い
トイトブルク森の戦い・要図 トイトブルク森の戦い(トイトブルクもりのたたかい、Clades Variana、Schlacht im Teutoburger Wald)は、紀元9年にゲルマン系の族長アルミニウスに率いられたゲルマン諸部族軍とローマ帝国の間で行われた戦いである。ゲルマン諸部族はゲルマニア総督(ライン方面総司令官)の配下のローマ軍団をほぼ全滅させた。トイトブルクの森の戦い、トイトブルクの戦いとも称される。なおドイツ語ではローマ軍総司令官の名を取ってウァルスの戦いと呼ばれる。 2009年、戦闘2000周年を迎えたドイツでは戦場跡で記念式典が行われた。.
新しい!!: 1世紀とトイトブルク森の戦い · 続きを見る »
トウ禹
鄧 禹(とう う、2年 - 58年)は、後漢の武将。字は仲華(ちゅうか)。南陽郡新野県(河南省南陽市新野県)の人(『後漢書』列伝6・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の筆頭に序せられる(『後漢書』列伝12)。.
ヘンリク・シェンキェヴィチ
ヘンリク・アダム・アレクサンデル・ピウス・シェンキェーヴィチ(, 1846年5月5日 - 1916年11月15日)は、ポーランドの小説家。リトフォス(Litwos )のペンネームもある。.
新しい!!: 1世紀とヘンリク・シェンキェヴィチ · 続きを見る »
ヘブライ語聖書
ヘブライ語聖書(ヘブライごせいしょ、(תַּנַ"ךְ、תּוֹרָה, נביאים ו(־)כתובים)) とは、ユダヤの「聖書」。タナハ、ミクラー。聖書ヘブライ語 (Biblical Hebrew) で書かれており、ユダヤ教の「聖書正典」である。 最初の5書(חֻמָשׁ, Pentateuch, 狭義の「トーラー」)とタナフ全体(トーラー、תּוֹרָה)は、「成文トーラー、成文律法(תּוֹרָה שֶׁ(־)בִּכְתָב, Written Torah, Written Law)」として、口伝トーラー(תּוֹרָה שֶׁ(־)בְּעַל־פֶּה, Oral Law)と主に「二重のトーラー (Dual Torah)」の一部とされる。「トーラー(תּוֹרָה)」は教え、指図、理論、学説の意味であり、算術(תּוֹרַת הַ(־)חֶשְׁבּוֹן)、論理学(תּוֹרַת הַ(־)הִגָּיוֹן)、認識論(תּוֹרַת הַ(־)הַכָּרָה)、のように一般名詞としてもつかわれる。口伝トーラーは「タルムード(「学び」)」の代名詞となった。 最初の5書は「フンマーシュ(Chumash(חֻמָשׁ), キリスト教的なニュアンスを含む用語では「五書 Pentateuch, モーセ五書 Five Books of Moses(חֲמִשָּׁה חֻמְשֵׁי תוֹרה))」である(特に日本語訳の「聖書(ביבליה)」自体がすでにキリスト教的ニュアンスを含んでいる)。本来のヘブライ語での「聖(קֹדֶשׁ, קָדוֹשׁ, קִדּוּשׁ)」とは特別な、特殊な、他と違う、献呈された、献納された、捧げられた、費やされた、といった意味である。 タナフは本来セーフェルー・トーラー (Sefer Torah) として巻物の形であった。 なお、「旧約聖書(Old Testament, הברית הישנה)」というのはキリスト教徒や彼らの影響を受けた異教徒の呼び方、考え方であり、ユダヤ教、つまりユダヤ人はキリスト教徒の言う「新約聖書」を認めないため(「古い契約」とも考えないため)、旧約聖書とは呼ばれない。.
新しい!!: 1世紀とヘブライ語聖書 · 続きを見る »
ブリタンニア
茶色がブリタニアの領域 ブリタンニア(Britannia)は、古代ローマが現在のイギリス南部に設置した属州の一つ。また属州の置かれた島(現在のグレートブリテン島)とその周辺の小群島をも指す。住民は主にケルト系ブリトン人で、属州化以降ローマ人やガリア人、ゲルマン人が主に兵士として渡来した。ローマの支配は40年から410年まで及び、現在のイングランド南部を中心にローマ化が進んだ。五賢帝の一人ハドリアヌスが北部からの蛮族の侵攻を食い止めるために築いたハドリアヌスの長城が有名である。.
新しい!!: 1世紀とブリタンニア · 続きを見る »
ブーディカ
isbn.
プリンケプス
プリンケプス(Prīnceps プリーンケプス)は、帝政ローマ初期の政治体制の中心人物に対して使われる称号。ラテン語で「指導者」もしくは「第一人者」を指し、日本語では元首、第一人者という訳語が使われることが多い。ローマ皇帝の地位を代表して指す称号として使われるため皇帝と意訳されることもある。 事実上ローマ皇帝を指す呼び名であったが、直接この称号は「皇帝」を意味しない。あくまでもレトリック上の呼び名である。事実上の帝政ローマの創設者オクタウィアヌス(アウグストゥス)がこの意味においてははじめて用いた。 以下、混乱をさけるため創設者の名を「オクタウィアヌス」で統一する。.
新しい!!: 1世紀とプリンケプス · 続きを見る »
パルティア
パルティア(、前247年-後224年)は古代イランの王朝。王朝の名前からアルサケス朝とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。前3世紀半ばに中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世(アルシャク1世)によって建国され、ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代以降、現在のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部にあたる、西アジアの広い範囲を支配下に置いた。前1世紀以降、地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、特にアルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシスの支配者アルダシール1世(在位:226年-240年)によって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わられた。.
パウロ
ャン・フーケによる絵、中央にパウロ パウロ(Παῦλοςラテン文字表記: ? - 65年?)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となり、キリスト教発展の基礎を作った。ユダヤ名でサウロ (שָׁאוּל、) とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。.
ピクト人
ピクト人(Picts)は、フォース川の北、ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族。.
ティトゥス
ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus, 39年12月30日 - 81年9月13日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:79年 - 81年)である。一般的にはティトゥスとして知られる。フラウィウス朝第2代の皇帝である。先帝ウェスパシアヌスの長男、母はフラウィア・ドミティラ、弟はドミティアヌス帝。.
ティトゥスの凱旋門
フォルム・ロマヌム内での位置(赤丸) ティトゥスの凱旋門(ティトゥスのがいせんもん、Arcus Titi,Arco di Tito)は、イタリア・ローマのフォルム・ロマヌムにある古代ローマ時代の凱旋門。82年、ローマ帝国第11代皇帝ドミティアヌスにより、先代皇帝でドミティアヌスの兄でもあるティトゥスのエルサレム攻囲戦等での戦功を称えるため建てられた。 この凱旋門は、16世紀以降に建てられることとなる凱旋門のスタイルの手本とされ、その中には有名なパリのエトワール凱旋門などがある。 中世、が、この凱旋門を砦に造り替えたA Let's Go City Guide: Rome, p. 76, Vedran Lekić, 2004; ISBN 1-4050-3329-0。また、近世において初めて復元作業が行われた建物のうちのひとつでもある。修復事業は、ローマ教皇ピウス7世のもとで1817年に建築家ラファエル・スターン(Raffaele Stern)が取り掛かり、が引き継いで、1821年に(建設時と異なる方式の)トラバーチンを用いた組積造にて完了した。 凱旋門に使われている円柱は、縦溝の有るものと無いものがあり、後者は19世紀の修復で造られたものである。.
新しい!!: 1世紀とティトゥスの凱旋門 · 続きを見る »
ティベリウス
ティベリウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Tiberius Julius Caesar、紀元前42年11月16日 - 紀元後37年3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 - 37年)。初代皇帝アウグストゥスの養子。養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。 なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。イエスの言葉である「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」(新約マタ 22:17-21、マコ12:14-17、ルカ 20:22-25)の「カエサル」とは、ティベリウスないし彼を含めた(皇帝の称号としての) カエサル(=ローマ皇帝)一般のことである。.
新しい!!: 1世紀とティベリウス · 続きを見る »
ディオニューソス
ヘレニズム時代の原物を模した2世紀のローマのディオニューソス像 ディオニューソス(ΔΙΟΝΥΣΟΣ, Διόνυσος, )は、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神である。この名は「若いゼウス」の意味(ゼウスまたはディオスは本来ギリシア語で「神」を意味する)。オリュンポス十二神の一柱に数えられることもある。 聖獣は豹、虎、牡山羊、牡牛、牡鹿、蛇、イルカ、狐、ロバで、聖樹は葡萄、蔦であり、先端に松笠が付き葡萄の蔓や蔦が巻かれたテュルソスの杖、酒杯、豊穣の角もその象徴となる。また、アメシストとの関係も深い。 日本語では長母音を省略してディオニュソス、デオニュソスとも呼ぶ。別名にバッコス(Βάκχος, Bakkhos)があり、ローマ神話ではバックス(Bacchus)と呼ばれ、豊穣神のリーベルと、エジプトではオシリスと同一視された。.
新しい!!: 1世紀とディオニューソス · 続きを見る »
フラウィウス朝
フラウィウス朝(フラウィウスちょう、Flavian dynasty)は、ローマ帝国の王朝。その名前は皇帝たちの属したフラウィウスの氏族名から。ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの三人が属する。 ドミティアヌス没後、帝位にはネルウァが就き、ローマは五賢帝時代を迎える。 ウェスパシアヌスはクラウディウス帝に見出され、ブリタンニア遠征などに従軍し、有能な軍人として知られていたが、ローマの中流階級の出身で、ネロ死後の皇位争奪戦の中で、皇位継承の候補者とは見なされていなかった。しかし68年にネロが帝位を追われ自殺、1年で皇帝が3度も変わる事態となった(四皇帝の年)。立て続きの政変に、国家は混乱を来すようになり、人々は有能な政治家、安定した政権を望むようになり、これが軍隊の支持を得て、かつ的はずれのない堅実な政策を取ると思われたウェスパシアヌスが皇位につく切っ掛けとなった。 ローマが混乱していた当時、ウェスパシアヌスはネロの命によりユダヤ戦争の平定を命じられており、これを終わらせることによって実力をつけ、シリア総督ムキアヌス、息子のティトゥスなどの補佐もあってローマに入り政権をとった。 フラウィウス朝はローマ皇帝が従来権威の由来としていたアウグストゥスの血統とは無縁であったが、混乱の後のウェスパシアヌスの統治はローマ市民に歓迎された。 ウェスパシアヌスの死後は長男のティトゥスが皇位につき、市民からの評判はよかったが、病に倒れ、治世は僅か2年と短かった。続いて次男のドミティアヌスが皇帝となるも彼はやがて公然と元老院などと敵対するようになり、財政においても失政を重ねたため、支持を失い、最終的に暗殺された。ティトゥス及びドミティアヌスの子は全て夭折しており、これをもってフラウィウス朝は断絶した。 その後、フラウィウス朝の血統はウェスパシアヌスの兄ティトゥス・フラウィウス・サビヌス2世の孫の一人ティトゥス・フラウィウス・クレメンスが、ウェスパシアヌスの孫娘(娘・小ドミティラの子フラウィア・ドミティラ(聖ドミティラ))との間に4男3女を儲けていたことで存続した。息子二人はそれぞれ、ウェスパシアヌス、ドミティアヌスと名乗ったが、子を残さずに死去した。別の息子で三男にティトゥス・フラウィウス・ティティアヌス(95年頃生誕)がおり、その息子がティトゥス・フラウィウス・クラウディウス・スルピキアヌス(137年頃 - 197年)である。 スルピキアヌスには以下の子女がいる。.
新しい!!: 1世紀とフラウィウス朝 · 続きを見る »
フェニキア
フェニキア(、ポイニーケー、Phoenices、、ポエニ、Phoenicia)は、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。 フェニキア人という名称は自称ではなく、ギリシア人による呼称である。ギリシア人は、交易などを目的に東から来た人々をこう呼んだ。フェニキアという名称は、の居住地がギリシャ語で Φοινίκη (Phoiníkē; ポイニケー)と呼ばれたことに由来している。その語源は不明であり、フェニキアがミュレックス(en)と呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としていたことから、「紫色」(または「緋色」)という意味のギリシア語を語源とする説も存在する。今日でも南部のサイーダなどの町中でこの貝殻の山を見ることができる。フェニキア人の母体となったとされるカナンという呼称も、アッカド語で染料を意味するキナッフに由来する。.
ドナウ川
ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、 ドイツ語: Donau )は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。 ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。.
ドミティアヌス
ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス(Titus Flavius Domitianus, 51年10月24日 - 96年9月18日)はローマ帝国の第11代皇帝である。在位81年から96年。フラウィウス朝最後の皇帝であり、ウェスパシアヌスとその妻ドミティリアの次男、先代皇帝ティトゥスの弟にあたる。.
新しい!!: 1世紀とドミティアヌス · 続きを見る »
ダマスカス
ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。アラビア語ではディマシュク(دمشق Dimashq)で、別名をシャーム(الشام al-sham)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。.
ベン・ハー
1880年の初版 『ベン・ハー』(Ben-Hur: A Tale of the Christ、副題『キリストの物語』)は、アメリカのルー・ウォーレスが1880年に発表した小説である。.
ベトナム
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.
和帝
和帝(わてい)は、中国の皇帝に贈られた諡の一つ。.
和帝 (漢)
和帝(わてい)は、後漢の第4代皇帝。諱は劉肇。章帝の子(四男)。生母は梁貴人。平原懐王劉勝、殤帝の父。 幼少時は継母の竇太后と竇憲ら竇一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。 鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ことに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。 外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護である班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。 文化面では、班固・班昭兄妹による『漢書』の編纂(永元4年(92年)の班固の死後、班昭が完成)、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。.
新しい!!: 1世紀と和帝 (漢) · 続きを見る »
アルミニウス (ゲルマン人)
アルミニウス立像(デトモルト) アルミニウス(ラテン語:Arminius, 紀元前16年 - 21年)は、帝政ローマ初期のゲルマン系の族長である。トイトブルク森の戦いやゲルマニクスとの戦いに於いて、ゲルマン諸部族のリーダー(ゲルマン全部族の統一には失敗したが)として戦い、ローマによるゲルマニア征服を阻止した。アルミニウスによるこれらの働きは古代ゲルマン部族、ローマ帝国の歴史に留まらず、後世ヨーロッパにも大きな影響を与えた。.
新しい!!: 1世紀とアルミニウス (ゲルマン人) · 続きを見る »
アルケラオス (カッパドキア王)
アルケラオス(希:Αρχέλαος、ラテン文字転記:Archelaos、? - 17年、在位:紀元前36年 - 17年)は、カッパドキアの最後の王である。.
新しい!!: 1世紀とアルケラオス (カッパドキア王) · 続きを見る »
アレクサンドリアのフィロン
アレクサンドリアのフィロン((ラテン語:Philon Alexandrinus、ヘブライ語:יוסף בןפילון האלכסנדרוני、紀元前20/30年? - 紀元後40/45年?)は、ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝時期にアレクサンドリアで活躍したユダヤ人哲学者。豊かなギリシア哲学の知識をユダヤ教思想の解釈に初めて適用した。ギリシア哲学を援用したフィロンの業績はユダヤ人には受け入れられず、むしろ初期キリスト教徒に受け入れられ、キリスト教思想のルーツの1つとなった。.
新しい!!: 1世紀とアレクサンドリアのフィロン · 続きを見る »
アンティオキア
アンティオキア(ギリシア語: Αντιόχεια)は、セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオキアが有名。『口語訳聖書』や、第三版までの『新改訳聖書』ではアンテオケと表記する。 シリアのアンティオキアは、古代の西シリア、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都、ローマ時代のシリア属州の州都として栄えた。シルクロードの出発点として知られる。一般に用いられる「アンティオキア」はヘレニズム時代以降のギリシャ語発音で、古典ギリシャ語読みの「アンティオケイア」が用いられることもある。ローマ時代はAntiochiaアンティオキーアと呼ばれた。なお現代音では「アンディオヒア」という表記が近い。.
新しい!!: 1世紀とアンティオキア · 続きを見る »
アンティオキアのイグナティオス
アンティオキアのイグナティオス(35年頃 - 107年?永眠年について、「107年」とするものと、「98年から117年の間」とするものがある。在位年間も諸説ある。)は、アンティオキアの第2代主教(司教)プロテスタントの出典:『キリスト教大事典』74頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版当時はまだ総主教制は形成されていない。。正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会などで聖人とされる。使徒教父の一人。 正教会では「神品致命者」という称号のほか、「捧神者」(ほうしんしゃ、Θεοφόρος, Богоносец)という称号を付されて呼ばれるΘεοφόρος(古典ギリシア語再建音:テオフォロス、現代ギリシア語転写:セオフォロス)につき、キリスト教大事典では「神を宿すもの」との訳をあてている。。イグナティウスと表記されることもある。.
新しい!!: 1世紀とアンティオキアのイグナティオス · 続きを見る »
アンフィテアトルム
アンフィテアトルム(ラテン語:amphitheatrum、英語:amphitheatre)は、円形劇場(えんけいげきじょう)を意味するラテン語である。古代ローマにおいて剣闘士競技などの見世物が行われた施設のこと。中央のアリーナと呼ばれる空間を観客席が取り囲み、全体としては楕円形の構造を持つ。イタリア、ローマ市内に残るコロッセオが有名。.
新しい!!: 1世紀とアンフィテアトルム · 続きを見る »
アフガニスタン
アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・中央アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。 パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。.
新しい!!: 1世紀とアフガニスタン · 続きを見る »
アウグストゥス
アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。.
新しい!!: 1世紀とアウグストゥス · 続きを見る »
インド
インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.
インド・パルティア王国
インド・パルティア王国は、1世紀頃現代のアフガニスタン、パキスタン、北インドを含む領域に、パルティア人の指導者ゴンドファルネスによって建設された王国。.
新しい!!: 1世紀とインド・パルティア王国 · 続きを見る »
イエス
イエス または Yes.
イエスの兄弟
イエスの兄弟では、イエス・キリストの兄弟について説明する。イエスの生前は、その教えを信じていなかったが、死後に教団に合流し、エルサレム教団の指導的立場を占めた。また、パウロの書簡から結婚もしていたことが分かる。.
新しい!!: 1世紀とイエスの兄弟 · 続きを見る »
イエス・キリスト
イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、Ίησοῦς Χριστός、יְהוֹשֻׁעַ/יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ, )は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているX.
新しい!!: 1世紀とイエス・キリスト · 続きを見る »
イスタンブール
イスタンブール(İstanbul 、Istanbul 、Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。.
新しい!!: 1世紀とイスタンブール · 続きを見る »
ウェスパシアヌス
ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus、9年11月17日 - 79年6月23日)は、ローマ帝国の皇帝。ユリウス・クラウディウス朝断絶後の四皇帝内乱の時代(68年6月 - 69年12月)に終止符を打ち、自らの血統に基づくフラウィウス朝を創始した。.
新しい!!: 1世紀とウェスパシアヌス · 続きを見る »
エリュトゥラー海案内記
『エリュトゥラー海案内記』(エリュトゥラーかいあんないき、Περίπλους τῆς Ἐρυθράς Θαλάσσης、 Periplus Maris Erythraei、Periplus of the Erythraean Sea)は、古代のインド洋近辺における海洋貿易についてギリシア語で記された航海案内書。10世紀の版がハイデルベルク大学図書館に、14・15世紀の写本が大英博物館に所蔵される。.
新しい!!: 1世紀とエリュトゥラー海案内記 · 続きを見る »
エル・カズネ
ル・カズネ(الخزنة Al Khazneh、宝物殿、The Treasury)は、古代ヨルダンの都市ペトラにおける最も精緻な建築物の一つである。この古代都市の、エド・ディル(الدير Ad Deir, 修道院、The Monastery)を含むその他ほとんどの建築物と同様に、この建造物もまた砂岩の岩肌を彫って造られたものである。エル・カズネは古代ギリシア建築の影響を受けており、貴重な観光地になっている。.
新しい!!: 1世紀とエル・カズネ · 続きを見る »
エルサレム
ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.
エルサレム教会
ルサレム教会(エルサレムきょうかい)は、イエス・キリストの死後、エルサレムで活動した弟子たちの教団。 アンティオキア教会を拠点としてギリシア語を話したパウロらユダヤ人の一派(ヘレニスト)は異邦人への伝道も行う立場から必ずしも律法(割礼や食物の禁忌)を強制しなかったため、割礼を行う習慣が無い地域におけるキリスト教への改宗者に対しても割礼や食餌規定の遵守など律法を厳格に遵守する立場のエルサレム教会と対立した(ナザレ派、原始エルサレム教会)。.
新しい!!: 1世紀とエルサレム教会 · 続きを見る »
オウィディウス
プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(Publius Ovidius Naso,; 紀元前43年3月20日 - 紀元後17年又は18年)は、帝政ローマ時代最初期の詩人の一人。共和政末期に生まれ、アウグストゥス帝治下で平和を享受し繁栄するローマにて詩作を行った。エレギーア形式で詠まれた『』や『』などの恋愛詩集や、叙事詩の形式で詠まれた『変身物語』などがよく知られている。『変身物語』は15巻12000行あまりの大作で、韻律としてヘクサメトロスを用い、神話伝説上の数々の変身譚を語る。一般にの集大成と受け取られている。 存命中から絶大な人気を博したオウィディウスであったが、紀元後8年にアウグストゥス帝の命により黒海に面した僻地に追放され、そこで生涯を閉じた。追放の理由はよくわかっておらず、文学史上最も不可解な事件の一つである。オウィディウス自身は追放の原因を「一つの詩歌と一つの過誤(carmen et error)に帰す」とだけ書いた。その言葉の選びようが意味深長であるからかえって、その意図するところをめぐって、後代の学者たちが膨大な議論を積み重ねることになった。 ラテン文学史上は「黄金の時代」の掉尾を飾る詩人とされる。オウィディウスの詩作品は後期古代から中世にかけての時代に多くの詩人に模倣され、西洋美術とに絶大な影響を与えた。ウェルギリウスやホラティウスよりは一世代若い世代に属する。彼らの時代から下ること数十年後の修辞学者クインティリアヌスはオウィディウスを最後のラテン恋愛悲劇作家と評したQuint.
新しい!!: 1世紀とオウィディウス · 続きを見る »
オケオ
(Óc Eo、អូរកែវ) は、ベトナムのメコンデルタ地方、アンザン省南部のトアイソン(Thoại Sơn)県にある考古学的な遺跡群。また今日において、オケオ市鎮はトアイソン県を構成する行政区画である。なお、クメール語で「オ・ケオ」は「水晶の運河」を意味する。 オケオには1世紀から7世紀にかけて、扶南国の最も賑わった港があったとされる。学問用語の「オケオ文化」は、この地で発掘された遺物によって特徴づけられる、古代のメコンデルタにおける文明の物質的痕跡(物質文化の項を参照)を指す。.
カリグラ
イウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(、12年8月31日 - 41年1月24日)は、第3代ローマ帝国皇帝(在位:37年 - 41年)。ユリウス・クラウディウス朝の皇帝の1人である。カリグラ(カリギュラとも表記)の名でよく知られている(幼少の頃に履いていた小さな軍靴に由来する愛称)。.
カレドニア
レドニア(Caledonia)は、古ラテン語でグレートブリテン島の北部を意味する地方の名称である。ローマ帝国が名付けたことに由来する。ほぼ現在のスコットランドにあたるが(スコットランドのラテン語名は「スコティア(Scotia)」)、カレドニアがさす地域の境界はかならずしも厳密でなく、ハドリアヌスの長城あるいはアントニヌスの城壁を境界とする場合もある。現在「カレドニア」という呼称は叙情的(romanitic)で詩的(poetic)な響きをもって使われる。 カレドニアという名称の語源はピクト人の一派でカレドゥニー族(カレドニア人とも)から来ていると考えられている。ダンケルドという都市名はカレドニア(ケルド)の砦(ダン)に由来している。 現在では、カレドニア造山帯やカレドニア運河、ニューカレドニアなどにその名を残している。.
カッパドキア
紀元前188年のカッパドキア カッパドキア(Cappadocia)はトルコの中央アナトリアの歴史的地域、あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。 古代の地理においてCappadocia (「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来、トルコ語:Kapadokya、ギリシア語:Καππαδοκία)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウロス山脈から黒海)までの全域をなしていた。この意味でのカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。だが、その境界を正確に定義することは不可能である。その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。.
新しい!!: 1世紀とカッパドキア · 続きを見る »
カプリ
プリ(Capri)は、イタリア共和国カンパニア州ナポリ県にある、人口約7200人の基礎自治体(コムーネ)。 ナポリ湾にある観光地として知られる島カプリ島にあるコムーネの一つである。.
カイサリア・マリティマ
リア・マリティマ、すなわち海辺のカイサリア(, ラテン語: Caesarea Maritima, ヘブライ語: קיסריה (Qisariyyah))はカイサリア・パレスティナ(, ラテン語: Caesarea Palaestina)とも呼ばれた都市で、ヘロデ大王が紀元前25年ごろからパレスティナのヤッフォのすぐ北に建設した。 もともと存在した「ストラトンの塔」(ラテン語: Turris Stratonis)という小要塞をもとに大増築し、都市とそれに付随する人工港湾まで建築した。紀元前13年には市民が入植し、パレスティナではもともと良港が少なかったため、カイサリアは重宝され、ユダヤ人やギリシャ人など多民族の混住地となった。ローマ帝国もカイサリアの海上交通の利便さに目をつけてここをユダヤ属州の首都とし、ローマ総督と軍隊の駐屯地とした。カイサリアは栄え、新約聖書の『使徒行伝』にも登場する。最初の異邦人キリスト教徒はこのカイサリアで誕生したのである。 フラウィウス・ヨセフスは著作『ユダヤ古代誌』および『ユダヤ戦記』で、カイサリアでユダヤ人虐殺が起きたことがユダヤ戦争の引き金となったと述べている。ローマ時代のカイサリアにはコロシアムやカエサルにささげられた神殿などがあったことが発掘によってわかっている。皇帝ヴェスパシアヌスはこの街を "Colonia Prima Flavia Augusta Caesarea" と名づけている。 130年代のバル・コクバの乱をローマ軍が鎮圧しエルサレムを破壊すると、カイサリアはパレスティナ第一の都市となり、初期のキリスト教の中心もエルサレムからカイサリアへ移った。4世紀の歴史家エウセビオスはこの街の大司教であり、オリゲネスもこの街に滞在して著作を書いている。 カイサリアは7世紀以降、ペルシア帝国やイスラム教徒の侵攻によって破壊されたが、なんとか存続し、12世紀の十字軍の時代には十字軍によって植民都市とされている。その後もイスラム教徒とキリスト教徒の攻防の地となったが、やがて放棄されて廃墟となった。 近くにはセドット・ヤム(Sedot Yam)、アラブ人のジスル・エッ・ザルカー(''Jisr ez-Zarqa'')、オール・アキバ(''Or 'Aqibha'') などの都市がある。.
新しい!!: 1世紀とカイサリア・マリティマ · 続きを見る »
ガイウス・プリニウス・セクンドゥス
イウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus、23年 – 79年8月24日)は、古代ローマの博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著した。一般には大プリニウスと呼ばれる。 甥に、文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)がおり、養子としている。.
新しい!!: 1世紀とガイウス・プリニウス・セクンドゥス · 続きを見る »
キリスト教
リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.
ギリシア哲学
リシア哲学(ギリシャ哲学)とは、かつて古代ギリシアで興った哲学の総称。現在でいう哲学のみならず、自然学(物理学)や数学を含む学問や学究的営為の総称である。 「哲学(ギリシャ語:Φιλοσοφία, philosophía, ピロソピア)」および「哲学者(ピロソポス)」という言葉を最初に用いたのはピタゴラスであると言われる。「哲学者」を含めた「知者(ソポス)」は「ソフィスト(ギリシャ語:σοφιστής, sophistés, ソピステス)」とも呼ばれ、詩人もこれに含まれた。 ディオゲネス・ラエルティオスはギリシア哲学の起源を、アナクシマンドロスから始まるイオニア学派(厳密にはミレトス学派)と、ピタゴラスから始まるイタリア学派(ピタゴラス教団のこと)に大別し、ソクラテス(ソクラテス学派)やプラトン(古アカデメイア学派)は前者の系譜で、パルメニデス、ゼノン(ともにエレア派)、エピクロス(エピクロス学派)らは後者の系譜であると主張している。さらにディオゲネス・ラエルティオスは、哲学には自然学・ 倫理学・論理学の三つの部門があり、まず自然学が発達し、次いでソクラテスが倫理学を加え、ゼノンが論理学を確立し、倫理学にはアカデメイア学派、キュレネ学派、エリス学派、メガラ学派、キュニコス学派、エレトリア学派、詭弁学派(ソフィストなど)、逍遙学派(ペリパトス学派)、ストア学派、エピクロス学派という10の学派があったとも主張している。.
新しい!!: 1世紀とギリシア哲学 · 続きを見る »
クラウディウス
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)は、ローマ帝国の第4代皇帝である。.
新しい!!: 1世紀とクラウディウス · 続きを見る »
クレメンス1世 (ローマ教皇)
レメンス1世(Papa Clemens I)もしくはローマのクレメンス(Clemens Romanus, Κλήμης Ρώμης, ? - 101年?)は、初代教会時代のローマ司教。のちにローマ教皇の第4代として列せられている(在位:91年? - 101年?)。英語名(Clement)からクレメントと呼ばれることもあり、また日本正教会では教会スラヴ語再建音からクリメントと転写される。 使徒教父の一人。カトリック教会、正教会、聖公会、ルーテル教会などで聖人。カトリック教会での記念日は11月23日。正教会での記憶日は12月8日(修正ユリウス暦では11月25日)。 正教会では神品致命者ロマの「パパ」クリメント(ロマの「パパ」=ローマ教皇のこと、鍵括弧は原文ママ)として記憶される。.
新しい!!: 1世紀とクレメンス1世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
クォ・ヴァディス
"Dirce chrześcijańska", 本項で扱う小説を題材としたヘンリク・シェミラツキの絵画である。 『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)は、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる、西暦1世紀のローマ帝国を舞台とした歴史小説である。一般には単に『クォ・ヴァディス』として知られる。「クォ・ヴァディス」とはラテン語で「(あなたは)どこに行くのか?」を意味し、新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36節からの引用でもある。.
新しい!!: 1世紀とクォ・ヴァディス · 続きを見る »
クシャーナ朝
ャーナ朝(クシャーナちょう、Kushan、貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。日本語表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝、クシャン帝国とも呼ばれる。.
新しい!!: 1世紀とクシャーナ朝 · 続きを見る »
クジュラ・カドフィセス
ュラ・カドフィセス(Kujula Kadphises、在位:紀元前1世紀前半 - 1世紀後半)は、大月氏の諸侯である貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)で、クシャーナ朝の初代君主。中国史書では丘就卻(きゅうしゅうきゃく)と記される他、カドフィセス1世と呼ばれる場合もある。.
新しい!!: 1世紀とクジュラ・カドフィセス · 続きを見る »
グノーシス主義
画像:Simple crossed circle.svg circular, harmonic cross グノーシス主義(グノーシスしゅぎ、Gnostizismus、Gnosticism)またはグノーシス(Γνῶσις)は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。英語の発音は「ノーシス」である。普通名詞としてのグノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する。グノーシス主義は、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向にあたる。 グノーシス主義は、地中海世界を中心とするもの以外に、イランやメソポタミアに本拠を置くものがあり、ヘレニズムによる東西文化のシンクレティズムの中から形成されたとみれる。代表的なグノーシス主義宗教にマニ教がある。.
新しい!!: 1世紀とグノーシス主義 · 続きを見る »
グラウピウス山の戦い
ラウピウス山の戦い(ラテン語:Montis Graupii pugna、英語:Battle of Mons Graupius)は帝政ローマ期の83年または84年にブリタンニア北部で行われたローマ軍とカレドニア人(ピクト人)との間の戦いである。ボウディッカを首謀者とした反乱と並ぶ規模のローマに対する反乱として知られる。「モンス・グラウピウスの戦い」とも呼ばれる。.
新しい!!: 1世紀とグラウピウス山の戦い · 続きを見る »
ケルン
ルン大聖堂内部 第二次世界大戦による荒廃 ケルン市の姉妹都市である京都市に寄贈された大聖堂飾り破風、京都市左京区岡崎公園 ケルン(Köln 、Kölle 、 )はドイツではベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次いで4番目に大きな都市である。ノルトライン=ヴェストファーレン州とヨーロッパでは1,000万人以上が住む大都市圏の一つである内では最大の都市である。ケルン市街地はライン川の両岸にまたがる。市内にはケルン大聖堂 (Kölner Dom) があり、カトリック教会のケルン大司教の拠点がある。ケルン大学(Universität zu Köln) は欧州でも最古で最大の大学の1つである。.
ケルト人
● - 紀元前400年 ケルト人(ケルトじん、Celt, Kelt, Celt では とも)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。 古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。 ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。 現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。.
ゲルマン
ルマン German.
ゲルマン人
1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。 ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族百科事典マイペディア、平凡社。。先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004。.
ゲルマニア・スペリオル
ルマニア・スペリオル属州の位置 ゲルマニア・スペリオル(Germania Superior)は、ローマ帝国の属州の一つである。日本語では上ゲルマニア、高地ゲルマニア、近ゲルマニアなどと訳される。東側にラエティア、西側にガリア・ルグドゥネンシス、北西にガリア・ベルギカおよびゲルマニア・インフェリオル(下ゲルマニア、低地ゲルマニア、遠ゲルマニア)、南はアルペス・ポエニナエの各属州およびイタリア本土と面していた。 ゲルマニア・スペリオルの領域は、現在のスイス西部、フランスのジュラ山脈やアルザス地域、およびドイツ南西部にあたる。州都はモグンティアクム(Moguntiacum、現マインツ)に置かれた。ライン川の中流域で、北の国境にはリメスが築かれた。.
新しい!!: 1世紀とゲルマニア・スペリオル · 続きを見る »
コロッセオ
ーマ中心部付近での位置(赤丸) コロッセウム(Colosseum, Colosseo コロッセオ)は、ローマ帝政期に造られた円形闘技場。英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場(Amphitheatrum Flavium)。現在ではイタリアの首都ローマを代表する観光地である。.
ゴルゴタの丘
園の墓」近くの丘。ここがゴルゴタの丘だという説もある。 ゴルゴタの丘(ゴルゴタのおか、גבעת הגולגולתא、Κρανίου Τόπος、Calvariae Locus)は、エルサレムの丘。 新約聖書においてイエス・キリストが十字架に磔にされたとされる。.
新しい!!: 1世紀とゴルゴタの丘 · 続きを見る »
ゴンドファルネス
ンドファルネス(GondopharnesまたはGondophares, ペルシア語形はヴィンダファルナ(Vindafarna 栄光ある勝利者)か?、在位:20年頃?)は、インド・パルティア王国の建設者とされている王。キリスト教の伝説において聖トマスの伝道に登場するインドの王として有名である。.
新しい!!: 1世紀とゴンドファルネス · 続きを見る »
シモン・マグス
聖霊を授けられる力を買おうとするシモン・マグス(右側黒服の人物) シモン・マグス(Simon Magus)は、聖書に登場する人物でグノーシス主義の開祖ともいわれる。別名は魔術師シモン。サマリア人。.
新しい!!: 1世紀とシモン・マグス · 続きを見る »
シュヴァルツヴァルト
ュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する森・山地。シュワルツワルトとも表記する。 総面積は約5180平方キロ。「シュヴァルツヴァルト」とは、ドイツ語で「黒い森」を意味する。森の多くは植林されたドイツトウヒの木であり、「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」という名称も、密集して生えるトウヒの木によって、暗く(黒く)見えることがその由来である。その他、低地においてはオークやブナも生育している。.
新しい!!: 1世紀とシュヴァルツヴァルト · 続きを見る »
シリア属州
リア(シュリア)属州の位置(120年頃のローマ帝国) シリア属州(provincia Syria)は、紀元前1世紀にシリア地方に設立されたローマ帝国の属州。紀元前64年にグナエウス・ポンペイウスがセレウコス朝を倒してローマに編入した。ローマ帝国および東ローマ帝国が7世紀の間にわたり支配していたが、637年にイスラム帝国に征服された。なお、ラテン語の原音表記による「シュリア属州」とも称される。.
ストラボン
トラボン。16世紀の彫刻画 ストラボン(Στράβων / Strábôn、Strabo, 紀元前63年頃 - 23年頃)は古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全17巻から成るギリシャ語で書かれた『』(または地理誌、Γεωγραφικά, Geōgraphiká)で知られる。この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。.
ストア派
トア派(Στωικισμός)はヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めにキティオンのゼノンによって始められた。破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人はこの種の衝動に苛まされることはない、と説いた, Stanford Encyclopedia of Philosophy.
ステファノ
ルン大聖堂のステンドグラス「聖ステファノの殉教」 バロックのボローニャ派に属するジャコモ・カヴェドーネ (en:Giacomo Cavedone) の作品 ステファノは、新約聖書の『使徒行伝』に登場するユダヤ人キリスト教徒(35年または36年頃没)。キリスト教における最初の殉教者、すなわち信仰のために自らの命を犠牲にする者であったとされている。ラテン語ではステファヌス、ギリシャ語ではステファノスないしはステパノスとも表記する。日本ハリストス正教会(正教会)では初致命者首輔祭聖ステファンと呼ばれている。 記憶日(記念日)は8月3日および12月26日。8月3日は、彼の遺体がホノリウス帝の治下で発見された日であるとされる。.
スキタイ
タイの騎兵 スキタイ(希: Σκύθαι (Skythai), 羅: Scythae)は紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイとも表記する。スキタイの居住地をスキティア(スキュティア)と呼ぶことからスキティア人(スキュティア人)ともいう。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。.
タナハ
タナハ(タナク、タナフ、תנ״ך、Tanakh)は、ユダヤ教の聖書のことであり、すなわちヘブライ語のヘブライ語聖書を指す言葉である。 ユダヤ教では聖書を3つの部分に分け、それぞれを以下のように呼ぶ。.
サカ
紀元前2世紀頃のサカ族(サカイ)の位置。(画像右上) サカ(Saka)は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ(Sakai)と呼んだ。また、中国の史書では塞(そく)と呼ばれる種族がサカにあたるとされるが異論もある。.
哀帝 (漢)
哀帝(あいてい)は、前漢の第12代皇帝。元帝の孫にあたる。『漢書』哀帝紀の賛によれば、下半身に障害があったようである。.
新しい!!: 1世紀と哀帝 (漢) · 続きを見る »
全能者ハリストス
全能者ハリストス(Παντοκράτωρ, Вседержи́тель もしくは Пантокра́тор)は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読みに由来する、日本正教会で用いられる転写)のイコンにおける主要な形式であり、ハリストスが天上の王であり審判者である事を示しているものである。デイシスの一部から発展した形式である。ギリシャ語からそのままパントクラトールと転写される事もある。ロシア語では"Спас Вседержитель"(救世主全能者)とも呼ばれる。 主に正教会で用いられるが、ビザンティン美術の影響を受けた西方教会においても用いられない訳ではない。また、「全能者ハリストス」はイコンの名として使われる事が多いが、全能者ハリストス(全能のキリスト)といった敬称そのものが使われる場面は、イコンに限定されない。また、「全能者」は至聖三者のうち、神父(かみちち)に対する称号でもある。.
新しい!!: 1世紀と全能者ハリストス · 続きを見る »
光武帝
光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.
前漢
前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.
倭
倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、.
王匡 (更始)
王 匡(おう きょう、? - 25年)は、中国の新代の武将。荊州江夏郡新市県(湖北省京山市)の人。緑林軍の創始者の1人。後に更始帝政権の重鎮となった。王莽の一族の王匡とは別人である。.
新しい!!: 1世紀と王匡 (更始) · 続きを見る »
王充
王 充(おう じゅう、建武3年(27年) - ?)は、後漢の文人、思想家。字は仲任。会稽郡上虞の出身。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』を著す。その著書において儒教に対しても厳しい批判を行なっていることから、北宋代以降は異端視されて省みられることがなかった。逆に1970年代の中華人民共和国での儒教批判運動の中では、孔子批判の先駆者として評価されたりもした。.
王莽
王莽が発行した貨幣。小刀を模した形状である 王 莽(おう もう)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。.
班固
班固 班 固(はん こ、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。.
班超
班 超(はん ちょう、32年 - 102年(建武9年 - 永元14年)は、中国後漢の軍人。字は仲升(ちゅうしょう)。雍州扶風郡平陵の人。封号は定遠侯。父は班彪、兄妹は兄の班固、妹の班昭。子は長男の班雄と三男の班勇(字:宜僚)ら、孫は(班雄の子)。歴史家一家に生まれたが、一人武人としての成功を望み、西域(現在の新疆ウイグル自治区あたり)から北匈奴やクシャーナ朝を追って後漢の勢力を広げ、その後は西域都護として長く西域を保持した。『後漢書』では「燕頷虎鬚」と描写される。.
班昭
班 昭(はん しょう、45年? - 117年?)は、中国・後漢の作家。中国初の女性歴史家。一名・姫。字は恵姫、または恵班。.
琅邪郡
琅邪郡(琅琊郡、瑯邪郡、瑯琊郡、琅玡郡、ろうや-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域に設置された。.
神
(かみ)は、信仰の対象として尊崇・畏怖 されるもの。 一般的には「古代ギリシア語:Θεός テオス、ラテン語:deus、Deus デウス、英:god、God」にあたる外来語の訳語として用いられるが、これらの意味と日本語における「神」は厳密には意味が異なるとされる。詳細は下記を参照。また、英語において、多神教の神々はGodではなく、頭文字を小文字にしてgod、複数形:gods、もしくはdeity、複数形:deitiesと区別する。.
神の子
本記事ではキリスト教における神の子(かみのこ、Ο Υιός του Θεού, Filius Dei,Sohn Gottes, Son of God, Сын Божий(正教会の出典) )の概念を主に扱う。 「神の子」はキリスト教において多義的である『キリスト教大事典 改訂新版』p224, 教文館、昭和52年 改訂新版第四版。.
福岡市博物館
福岡市博物館(ふくおかしはくぶつかん)は、福岡県福岡市早良区に位置する市立博物館である。.
新しい!!: 1世紀と福岡市博物館 · 続きを見る »
竇憲
竇 憲(とう けん、? - 92年)、字は伯度、扶風平陵(現在の陝西省咸陽市)の人。竇融の曾孫に当たり、後漢朝では外戚の地位を占め要職を歴任した。.
第二神殿
二神殿(だいにしんでん)とは、紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレムの神殿の丘に建っていたユダヤ人の重要な神殿(エルサレム神殿)である。それは紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設された。.
紀元
紀元(きげん)とは、ある出来事が起こった年を始点として、それから何年経過したかで時間を測定する、無限の紀年法である。.
紀元前
紀元前 (きげんぜん) は、紀年法において紀元(元年、すなわち1年)よりも前の年々を表現する方法である。1年の前年が紀元前1年であり、過去に遡るたびに紀元前2年、紀元前3年…と、数値の絶対値が増加する。 天文学などでは、紀元前を用いず、ゼロおよび負数を用いた西暦年数(西暦0年、西暦 -1年など)が用いられる。この場合はその年数が紀元前の年数とは1年だけずれることに特に注意が必要である(詳細は後節)。例えば、ユリウス通日の起点は紀元前4713年1月1日正午(世界時)であるが、これは西暦 -4712年1月1日正午(世界時)のことである。 現在の日本で単に「紀元前」と言った場合、通常は西暦(キリスト紀元)の紀元前を指す。西暦の紀元前であることを明示したいときは、西暦前、西暦紀元前、キリスト紀元前などと言う。 英語では「BC ~(年)」(BC:Before Christの略)といった形で使われるが、非キリスト教との関係から「BC」から 「BCE」(Before Common Eraの略) への切り替えが広がっている。(同時に、ADもCE( Common Era の略、「共通紀元」の意)に切り替わっていっている).
紀元前10年
紀元前10年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前10年 · 続きを見る »
紀元前14年
紀元前14年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前14年 · 続きを見る »
紀元前16年
紀元前16年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前16年 · 続きを見る »
紀元前1年
紀元前1年(きげんぜん1ねん)は、西暦(ユリウス暦)における紀元1年の前年に当たる。これは西暦に限らず通常の紀年法では、0年を設けないからである。ただし、分野によっては後節のように「西暦0年」と表現することがある。 なお、ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。.
紀元前20年
紀元前20年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前20年 · 続きを見る »
紀元前25年
紀元前25年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前25年 · 続きを見る »
紀元前27年
紀元前27年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前27年 · 続きを見る »
紀元前30年
紀元前30年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前30年 · 続きを見る »
紀元前42年
紀元前42年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前42年 · 続きを見る »
紀元前43年
紀元前43年。.
新しい!!: 1世紀と紀元前43年 · 続きを見る »
紀元前45年
紀元前45年は、ローマ暦の709年である。ユリウス暦が施行された年である。.
新しい!!: 1世紀と紀元前45年 · 続きを見る »
紀元前46年
紀元前46年は、ローマ暦の最後の年である。暦の調整のため、445日間あった。この年にユリウス暦が導入されたが、適用されたのは紀元前45年からである。.
新しい!!: 1世紀と紀元前46年 · 続きを見る »
紀元前4年
紀元前4年、又は西暦 -3年(マイナス3年)。 ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。詳細は「ユリウス暦」を参照。.
紀元前53年
紀元前53年は、ローマ暦の年である。.
新しい!!: 1世紀と紀元前53年 · 続きを見る »
紀元前63年
紀元前63年は、ローマ暦の年である。.
新しい!!: 1世紀と紀元前63年 · 続きを見る »
紀元前6年
紀元前6年。 ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。詳細は「ユリウス暦」を参照。.
紙
紙(かみ)とは、植物などの繊維を絡ませながら薄く平(たいら)に成形したもの。日本工業規格 (JIS) では、「植物繊維その他の繊維を膠着させて製造したもの」と定義されている。 白紙.
緑林軍
緑林軍(りょくりんぐん)は、中国の新代に活動した民間武装勢力。緑林兵とも言う。後世では、「緑林」は盗賊や山賊と同意の語として用いられている。.
甘英
英 (かん えい、ウェード・ジャイルズ記法:Kan Ying、生没年不詳)は、字は崇蘭。後漢の人。ローマに派遣された中国の軍事大使であり、紀元97年、西域都護であった班超の命によって、当時大秦と呼ばれていたローマとの国交を開く任務を託された。彼は、7万人の規模を持った班超の遠征軍の一員であり、甘英は軍と共に、パルティア王国の西の国境まで到達した。.
白馬寺
白馬寺(はくばじ).
白馬寺 (洛陽)
白馬寺山門 白馬寺(はくばじ、、)は、後漢の明帝の、仏教の中国伝来に関する感夢求法説話に基づいて、洛陽郊外に建立された仏教寺院。.
新しい!!: 1世紀と白馬寺 (洛陽) · 続きを見る »
隗囂
隗 囂(かい ごう、? - 33年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将、政治家。字は季孟。涼州天水郡成紀県(甘粛省静寧県)の人。叔父は隗崔。兄は隗義。子は隗恂、隗純。隴右に割拠した新末後漢初の群雄の1人で、蜀の公孫述と共に、光武帝(劉秀)の統一事業に立ちはだかった人物である。.
聖ソフィア聖堂
聖ソフィア聖堂、アギア・ソフィア聖堂は、叡智すなわち神を記憶するか、ソフィアの名を持つ聖人を記憶するキリスト教の聖堂。正教会の聖堂に多い。同名の大聖堂も本曖昧さ回避記事で扱う。.
新しい!!: 1世紀と聖ソフィア聖堂 · 続きを見る »
預言者
言者(よげんしゃ、prophet)とは、「自己の思想やおもわくによらず、霊感により啓示された神意 (託宣) を伝達し、あるいは解釈して神と人とを仲介する者。祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果す。」 本項ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教、バハーイー教における預言者について詳述する。.
西域
西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).
西域都護
西域都護(せいいきとご、さいいきとご)は、西域を統括することを示す中国の官名である。 前漢の地節2年(紀元前68年)、漢から西域に派遣されていた鄭吉が車師を屈服させると、漢は鄭吉を「護鄯善以西南道」(西域南道の監督役)とした。 その後、神爵3年(紀元前59年)に匈奴の日逐王を降伏させたことで、鄭吉は「護車師以西北道」にも併せて任じられ、西域の南北両道全てを統括することになり、「西域都護」(「都」は大きい、全て、という意味)と称されるようになった。これが西域都護の由来である。 西域都尉は加官であり、本官は騎都尉(官秩比二千石)や諫大夫(官秩比八百石)であった。副官として副校尉(官秩比二千石)が置かれ、丞1人、司馬2人、候2人、千人2人が属した。西域の中央部である烏塁城に幕府を置き、西域36国を鎮撫し、諸国に号令をかけた。 後漢においては漢が西域への軍事的影響力を保持できず、しばしば廃止と設置を繰り返した。.
西暦
西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.
馬援
援(ば えん、紀元前14年 - 49年)は中国新末期から後漢初期の武将。字は文淵。諡は忠成。兄に馬況・馬余・馬員、その娘(馬皇后)は後漢第2代明帝の皇后となった。子孫に後漢末期・三国時代の武将の馬騰・馬超父子がいる。.
論衡
『論衡』(ろんこう )は、中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書。実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判した。.
鮮卑
鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.
費長房 (後漢)
壺公と費長房(仙仏奇踪) 費長房(ひちょうぼう)は後漢の方士。汝南郡(現中華人民共和国河南省平輿県一帯)の出身であるが、生没年を含めて後漢時代の人という以外の大凡の生存年代も不明。 当初はとある市場の監視役人を務めていたが、市場の監視楼上から市中で売薬店を構える謫仙の壺公(ここう)が日没時に店先に吊した壺に跳び入る姿を目撃した事から壺公の許を訪れたところ、自分の秘密を目にし得た費に感心した壺公に連れられて壺中に入り、そこに建つ荘厳な御殿で美酒佳肴の饗応を受ける。その後、壺公から流謫も終わって人間界を去る事を聞かされると、自分も仙道を学びたいと思い、壺公の教唆に依って青竹を自身の身代わりに仕立て、縊死を装う事で家族の許を去り、壺公に就いて深山に入り修行する。修行は初め虎の群中に留め置かれ、次いで今にも千切れんとする縄に吊された大石の下に身を横たえるといった内容で、共に成果を修めるも最後に3匹の虫が蠢く臭穢な糞を食すよう求められて遂に上仙を断念し、壺公から地上の鬼神を支配出来る1巻の護符を授かって帰郷する。なお、山中での修行は僅か10日程であったが、地上での実歳月は10年以上を経るものであった。 帰郷後は治病に従事したり、壺公から授かった護符を使って東海地方(現山東省東南の海岸部)の水神である東海君や、人間に化けた鼈や狸を懲らしめる等、社公(地示)やあらゆる鬼神を使役懲罰し、また地脈の伸縮を自在に操る能力を有して瞬時にに赴いてを買ったり、1日の中で数千里(1里はおよそ550米)を隔たる複数処を往来したりしたが、後に護符を失った為に鬼神に殺された。晋代の葛洪は竹を自身の屍体に見せかけた費を尸解仙の例に挙げている。.
新しい!!: 1世紀と費長房 (後漢) · 続きを見る »
黒海
黒海(こっかい)は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。 黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアである。 黒海に面する有名な港湾には、イスタンブール(ビュザンティオン、コンスタンティノープル)から時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスンなどがある。.
迦葉摩騰
迦葉摩騰(かしょうまとう、、生没年不明)は、インド(中天竺)の仏教の僧侶。摂摩騰(しょうまとう)ともいう。 後漢時代に竺法蘭と共に中国に仏教をもたらした。伝説では、永平年間に空を飛び金色に輝く人(仏)の夢を見た明帝に派遣された蔡愔と西域で出会い、洛陽にやってきたという。永平11年(68年)には洛陽の白馬寺に住み、『四十二章経』を翻訳したと伝えられる。.
赤眉軍
赤眉軍(せきびぐん)は、新朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。.
閻立本
閻立本(えん りっぽん、生年不明 – 咸亨4年(673年))は中国の初唐の画家である。太宗に仕え、貴族ではあるが宮廷画家として活躍した。人物図・肖像画を得意とする。雍州万年(現在の西安市臨潼区)の人。.
董賢
董 賢(とう けん、前22年 - 前1年)は、その眉目秀麗なる容姿から前漢哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い自殺に追い込まれた。字は聖卿。.
鄭衆 (宦官)
鄭衆(てい しゅう、? - 114年)は、後漢の宦官。和帝と協力して外戚の竇憲を誅殺したことで知られる。後漢末まで国家の患いとなった外戚と宦官の対立は鄭衆にはじまる。 大司農になった後漢初の鄭衆とは無関係。.
新しい!!: 1世紀と鄭衆 (宦官) · 続きを見る »
長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.
雲台二十八将
雲台二十八将(うんだいにじゅうはっしょう)は、後漢の光武帝の天下統一を助けた28人の功臣である。.
新しい!!: 1世紀と雲台二十八将 · 続きを見る »
ISO 8601
ISO 8601は日付と時刻の表記に関する国際規格。最新版は2004年に発行されたISO 8601:2004 で、古い版としてISO 8601:2000 、ISO 8601:1988 があった。いずれも正式な題は Data elements and interchange formats – Information interchange – Representation of dates and times である。 ISO 8601の改定版として、ISO/DIS 8601:2016が提案されており、2018年に正式規格となる予定である。新規格はISO 8601-1(基本)とISO 8601-2(拡張)との2分冊となる。.
新しい!!: 1世紀とISO 8601 · 続きを見る »
揚雄
揚 雄(よう ゆう、紀元前53年(宣帝の甘露元年) - 18年(王莽の天鳳5年))は、中国前漢時代末期の文人、学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。字は子雲。また楊雄とも表記する。.
条支国
條支国(じょうしこく)は、中国の歴史書に登場する国名。西域に存在していたといわれる。 後漢書に班超の部下である甘英がたどり着いた国として登場する。この「條支国」は現在のシリアに存在していた国家だといわれている(一説にはカラケネ王国のことを指したものだという)。史記「大宛伝」には次のように記されている。「條支は西海に臨み、暑くて湿度が高い。田畑を耕してイネを植えている。大きな鳥がおり、その卵は甕のようだ」。ほかに、『旧唐書 巻194下 突厥伝』には「武徳三年、遣使貢條支巨卵。」という記述がある。このことから、條支は620年(武徳3年)前後に存在した異民族王朝の一つではないかとも考えられている。ただし、両者の記述の間には数百年の隔たりがあるため、果たして同一の対象を指したものなのかについては疑問の残るところである。 中国産の絹織物は当時のオリエント一帯を支配したパルティア王国やローマ帝国において非常に好まれた。甘英は一説にはローマ帝国と直接交易を行う道を求めて西進したとされるが、シリアまで到達した段階で中継貿易による利益が失われるのを恐れたパルティア人の案内人によってローマはまだ遥か彼方であると教えられ、やむなく引き返したという。 Category:シルクロード.
東北地方
東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.
楽浪郡
楽浪郡(らくろうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した、朝鮮半島北部の郡(植民地との見方も存在する一方で、完全に漢帝国が直轄する内地という見方も存在する)。真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。楽浪郡の住民は王氏が多く韓氏がこれに次ぎ、この二氏でかなりの率を占めていた。.
樊崇
樊 崇(はん すう、? - 27年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は細君。徐州琅邪郡の人。新代に蜂起した農民軍である赤眉軍の頭領である。なお、後漢の大司徒鄧禹の配下にも同姓同名の人物(驍騎将軍)が存在するが、これは別人である。.
殉教者
殉教者(じゅんきょうしゃ).
法言
『法言』(ほうげん)は、前漢の学者揚雄が『論語』の体裁を模して作った思想書である。作者の名を冠して『揚子法言』とも呼ぶ。.
洛陽市
洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.
港市国家
リアウ諸島(現インドネシア)のマレー式水上集落 港市国家(こうしこっか)は、近代以前の東南アジアにおいて出現した、港市が中心となって周辺海域を支配し、領域や人民よりも交易のネットワークに基盤を置く国家である。陸上交通に困難さをともなう地域においては特に、海上交通の要所に貿易港と集散地を兼ねた港市が形成され、そのなかでも外部の文明とのつながりの強い港市が中心となって周辺海域を支配する港市国家が成立した鈴木(1998)。「港市国家」の用語は、当初、和田久徳がマラッカ王国について構想した概念であったが、今日では交易中心の国家全般を指すようになっている。.
漢委奴国王印
漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。.
新しい!!: 1世紀と漢委奴国王印 · 続きを見る »
漢書
天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.
月氏
月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。 紀元前3世紀、秦帝国と北方民族。.
明帝 (漢)
明帝(めいてい)は、後漢の第2代皇帝。.
新しい!!: 1世紀と明帝 (漢) · 続きを見る »
昆陽の戦い
昆陽の戦い(こんようのたたかい、中国語:昆陽之戰)は、中国新代の地皇4年(西暦23年、または更始元年)豫州潁川郡の昆陽(現在の河南省平頂山市葉県)における新軍と緑林軍との間の戦いである。.
新
新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。 周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、 具体的な政策としては、古代の名称にあわせた地名や役職名の頻繁な改名、小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し、国家による安い金利での融資などを行った。また新貨幣を鋳造し(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国が専売制とするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。 遠征も繰り返しており、匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、 やがて赤眉・緑林の乱が起こり、更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、1代限りで滅んだ。 新から後漢への移り変わりは新末後漢初を参照。.
新末後漢初
新末後漢初(しんまつごかんしょ)は、中国で新朝(8年 - 23年)が滅びて光武帝により後漢(25年 - 220年)が栄えるまでの便宜的な時代区分。.
方言 (辞典)
『方言』(ほうげん)は、漢代中国の方言辞典。揚雄の著とされる。『揚子方言』(ようしほうげん)・『別国方言』(べっこくほうげん)とも呼ぶ。正式名称は『輶軒使者絶代語釈別国方言』(ゆうけんししゃ ぜつだいごしゃく べっこくほうげん)。.
新しい!!: 1世紀と方言 (辞典) · 続きを見る »
悦般
5世紀初頭、悦般と周辺諸国 Yuehban='''悦般'''、Rouran or Juan-Juan Khaganate=柔然、Kidarites=キダーラ朝、Xiyu City-Sutates=西域諸国 悦般(呉音:えちはん、漢音:えつはん、拼音:Yuèbān)は、5世紀に中央アジアに存在したテュルク系遊牧国家。北匈奴の子孫で、のちにエフタルになったとされる松田壽男『古代天山歴史地理学研究』。.
救世主
救世主(きゅうせいしゅ、Savior/saviour)とは、人々や世界を救済するとされる存在のこと。.
教皇
教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.
扶南国
扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家。.
更始帝
更始帝(こうしてい)は、新末後漢初の緑林軍による更始政権の皇帝。姓は劉、諱は玄。南陽郡蔡陽県(現在の湖北省棗陽市西南)の人。元来は前漢の宗室であり、祖父は蒼梧郡太守の劉利、父は劉子張で、光武帝劉秀の族兄に当たる。正室は趙萌の娘。側室は平林の豪族の娘・何氏と韓氏。子は劉求・劉歆・劉鯉(寿光侯)。孫は劉巡(求の子)、曾孫は劉姚(巡の子)。.
0
0 |- | Divisors || all numbers |- | Roman numeral || N/A |- | Arabic || style.
0年
0年(ゼロねん、れいねん)とは、ある時間枠の中で基点となる年、またはその前年を「0」で表した年数である。紀元、元号その他、ほとんどの紀年法には0年は存在しない。しかし、天文学では西暦0年を設定する(詳細は後節)。 また紀年法とは言えないが、今後の新しい時代の始まりとなりうる象徴的な出来事が起こった年を指す語として使用されることがある(詳細は後節)。.
100年
記載なし。
101年
記載なし。
102年
記載なし。
10年
記載なし。
110年
記載なし。
114年
記載なし。
117年
記載なし。
14年
記載なし。
17世紀
ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.
17年
記載なし。
180年
記載なし。
18年
記載なし。
1千年紀
紀元1千年紀(きげんいっせんねんき)は、西暦紀元による1番目の千年紀(ミレニアム)である。西暦元年から西暦1000年(1世紀から10世紀)に当たる。.
1年
1年は、西暦(ユリウス暦)による、平年(※)。ディオニュシウス・エクシグウスが西暦の起点(紀元)とした年である。西暦元年という場合、西暦1年のことである。紀元1年とも呼ぶ。 (※)ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。 なお、西暦1年(紀元1年)の前年を、通常は「紀元前1年」と呼ぶ。ただし、天文学やISO 8601(日付と時刻の表記に関する国際規格)では「西暦0年」としている。詳細は、「0年」を参照のこと。.
20年
記載なし。
21年
記載なし。
220年
記載なし。
22年
記載なし。
23年
記載なし。
25年
記載なし。
27年
記載なし。
28年
記載なし。
2年
2年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。詳細は「ユリウス暦」を参照。.
30年
記載なし。
32年
記載なし。
33年
記載なし。
35年
記載なし。
37年
記載なし。
40年
記載なし。
41年
記載なし。
45年
記載なし。
49年
記載なし。
54年
記載なし。
57年
記載なし。
58年
記載なし。
60年
記載なし。
61年
記載なし。
62年
記載なし。
65年
記載なし。
67年
記載なし。
6世紀
地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.
6年
6年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。詳細は「ユリウス暦」を参照。.
75年
記載なし。
80年
土曜日から始まる。.
8年
8年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 ユリウス暦制定直後の混乱により紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止した後、初めて4年に一度の閏日を置いた閏年であったと推定されている。詳細は「ユリウス暦」を参照。.
90年
記載なし。
91年
記載なし。
92年
記載なし。
9年
9年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。.