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右大臣

索引 右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

1431 関係: 南朝 (日本)南方紀伝右大臣 (源氏物語)参議吉川弘文館吉備真備吉田宗房堀河天皇多治比嶋大宝 (日本)大宝律令大宮季衡大中臣清麻呂大乗院寺社雑事記大乗院日記目録大久保利通大伴御行大伴長徳大化大納言大炊御門家孝大炊御門家信 (江戸時代の公卿)大炊御門師経大炊御門信量大炊御門経名大炊御門経孝大炊御門経久大炊御門経光大臣 (日本)大永天平天平宝字天平勝宝天平神護天平感宝天徳 (日本)天応 (日本)天和 (日本)天禄天長天暦天正天武天皇天永天明天文 (元号)天慶天承天智天皇太保...太政大臣太政官孝徳天皇孝謙天皇孝明天皇宝亀宝暦宝永官位宇多天皇安徳天皇安和安永 (元号)安政寛平寛延寛弘寛徳寛保寛喜寛和寛元寛正寛永寛治寛文寛政岩倉具視崇徳天皇崇光天皇左大臣丞相師守記中御門天皇中納言中臣金中院通躬万治三公三条天皇三条季晴三条実万三条実冬三条実秀三条実美三条実行三条実顕三条実親三条実香三条実起三条実量三条実治三条実房三条公富三条公冬三条公頼三条公敦三条西実条三条西公条一条天皇一条実経一条実良一条家経一条忠良一条冬経一条内基一条兼冬一条兼香一条兼良一条道香一条輝良一条房通一条昭良一条教輔一条教房九条尚実九条尚忠九条尚経九条師教九条幸家九条忠基九条忠家九条忠教九条兼孝九条兼実九条兼晴九条経教九条道家九条道房九条道教九条輔実九条良輔九条満家九条房実九条政基九条教実九条教嗣平城天皇乾元 (日本)久安久我広通久我具通久我豊通久我長通久我通博久我通兄久我通相久我通言久我惟通享徳享保享禄康平康保康和康正康永二条吉忠二条天皇二条宗基二条宗熙二条尚基二条尹房二条師基二条師忠二条師嗣二条師良二条康道二条冬実二条兼基二条光平二条綱平二条道平二条道良二条良基二条良実二条治孝二条持基二条持通二条昭実二条斉信二条斉敬二条政嗣二条教頼二条晴良亀山天皇今出川実直今出川公彦今出川公直今出川公行今出川公規今出川公興今出川兼季今出川経季今出川教季今出川晴季仁孝天皇仁安 (日本)仁平仁和仁和寺仁治仁明天皇仲恭天皇延宝延久延享延徳延喜延元延長 (元号)延暦延文延慶 (日本)建久建徳建保建長建暦建武 (日本)建永建治伏見天皇弘仁弘化弘和弘長弘治 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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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南方紀伝

南方紀伝(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。.

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右大臣 (源氏物語)

右大臣(うだいじん・みぎのおとど)とは、源氏物語に登場する架空の人物。源氏物語の作中世界において右大臣の地位についた人物は何人か存在するが、人物として単に「右大臣」というときには桐壺巻において右大臣として登場した朱雀帝の外祖父にあたる人物のことをいう。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉備真備

吉備 真備(きび の まきび)は、日本の奈良時代の学者・公卿。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。氏姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は勲二等。.

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吉田宗房

吉田 宗房(よしだ むねふさ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。内大臣吉田定房の長男。.

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堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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多治比嶋

多治比 嶋(たじひ の しま)は、日本の飛鳥時代の貴族。宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる。摂津大夫・多治比古王(丹比麻呂)の子。姓は公のち真人。名は志麻・志摩ともいう。正二位・左大臣。.

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大宝 (日本)

大宝(たいほう、だいほう、正字体:大寶)は、日本の元号のひとつで慶雲の前。701年 - 704年の期間を指す。この時代の天皇は文武天皇。 大宝年間には完成した大宝律令が施行され、都城としての藤原京や遣唐使派遣ならび、元号制定も律令国家成立の一環として行われた。『日本書紀』に拠れば、大宝以前にも大化(645年 - 650年)、白雉(650年 - 654年)、1年だけ存在した朱鳥(686年)などの年号があったとされるが、日本における元号制度は断絶状態にあり、「大宝」の改元により元号使用は再開される。以降、元号制度は途切れることなく現在に至るまで続いている。.

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大宝律令

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。.

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大宮季衡

大宮 季衡(おおみや すえひら、正応2年(1289年) - 興国7年/貞和2年5月25日(1346年6月15日))は、鎌倉時代後期の公卿。西園寺公衡の長男、母は左馬頭藤原光保女。法名は空勝。子に大宮氏衡、大宮公名がいる。従一位・右大臣。 侍従、左近衛少将、上野介、播磨介等を経て延慶元年(1308年)に従三位に叙せられ、公卿に列する。延慶2年(1309年)に正三位・左近衛中将。延慶3年(1310年)には従二位・参議、まもなく権中納言。正和2年(1312年)には正二位、文保2年(1318年)には権大納言となる。さらに妹・西園寺寧子の産んだ量仁親王が後醍醐天皇の皇太子となった嘉暦元年(1326年)には大納言となり、元徳2年(1330年)には従一位。量仁親王が即位(光厳天皇)した翌元徳3年(1331年)には天皇の外叔父として内大臣、次いで正慶元年(1332年)には右大臣となる。官位・官職共に異母弟の実衡を越すが、まもなく鎌倉幕府滅亡直前の正慶2年(1333年)3月に出家した。.

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大中臣清麻呂

大中臣 清麻呂(おおなかとみ の きよまろ、大宝2年(702年) - 延暦7年7月28日(788年9月6日))は、奈良時代の公卿。名は清万呂・浄万呂とも書く。氏姓は中臣朝臣のち大中臣朝臣。中納言・中臣意美麻呂の七男。官位は正二位・右大臣。.

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大乗院寺社雑事記

大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)は、興福寺大乗院で室町時代に門跡を務めた、尋尊・政覚・経尋が三代に渡って記した日記。約190冊。原本は1450年(宝徳2年)から1527年(大永7年)までが現存しており、国立公文書館が所蔵し、重要文化財に指定されている。尋尊の書いた部分は特に「尋尊大僧正記」「尋尊大僧正記補遺」などとも呼ばれ、応仁の乱前後の根本史料とされている。またほとんどの項に紙背文書があり、あわせて貴重な資料となっている。.

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大乗院日記目録

『大乗院日記目録』(だいじょういんにっきもくろく)は、奈良興福寺の門跡寺院である大乗院に伝来した日記類を、第27代門跡尋尊が編集した書物。全4巻。記録された範囲は1065年(康平3年/治暦元年)から1504年(文亀3年/永正元年)までにおよぶ。原本は国立公文書館内閣文庫蔵。1428年(正長元年)に起こった正長の土一揆などの大事件に関する記述がある。.

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大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。 初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。.

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大伴御行

大伴 御行(おおとも の みゆき)は、日本の飛鳥時代中期から後期にかけての豪族。姓は連、後に宿禰。右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言。贈正広弐・右大臣。 『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」のモデルといわれる。.

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大伴長徳

大伴 長徳(おおとも の ながとこ、生年不詳 - 白雉2年(651年)7月)は、飛鳥時代の豪族。姓は連。別名馬飼・馬養(うまかいとも)。大徳冠大伴咋(おおとものくい)の子。弟に大伴馬来田・吹負。大紫冠・右大臣。 632年(舒明天皇4年)第1回の遣隋使とそれに伴った唐使高表仁(こう ひょうにん)を難波で出迎え、642年(皇極天皇元年)舒明天皇の殯宮では誄(しのびごと)を蘇我蝦夷に代わって奏上している。645年(大化元年)の大化の改新では中大兄皇子側であったようである。649年(大化5年)には大紫位・右大臣に任じられている。.

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大化

大化(たいか)は、日本で最初の元号。西暦でいう645年から650年までの期間を指す。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大炊御門家孝

大炊御門 家孝(おおいのみかど いえたか、延享4年1月25日(1747年3月6日) - 寛政11年5月13日(1799年6月16日))は、江戸時代中期の公卿。桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の四朝にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。父は内大臣大炊御門経秀。母は左大臣醍醐冬熙の娘。室は右大臣三条季晴の娘、継室に対馬府中藩主宗義蕃の娘。子に大炊御門経久、娘に対馬府中藩主宗義功室、小浜藩主酒井忠貫室がいる。 寛延元年(1748年)に叙爵してから、清華家当主として速いスピードで昇進し、左近衛権少将・右近衛権中将をへて、宝暦6年(1756年)に従三位に達し公卿に列する。その後も権中納言・権大納言・踏歌節会外弁を歴任し、天明元年(1781年)より右近衛大将・右馬寮御監となるも、天明2年(1782年)からは右近衛大将を辞職して、皇太后近衛維子の皇太后宮権大夫に転じた。しかし翌年には維子皇太后が崩御したため、職を辞している。天明7年(1787年)に内大臣となり、天明8年(1788年)には踏歌節会内弁をつとめた。寛政元年(1789年)に内大臣を辞職し、従一位を授与された。寛政4年(1793年)には再度内大臣に任じられたが、すぐに辞職している。寛政8年(1796年)には右大臣となったが、同年のうちに辞職した。.

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大炊御門家信 (江戸時代の公卿)

大炊御門 家信(おおいのみかど いえこと『平成新修旧華族家系大成』(霞会館発行)による読み方、文政元年6月8日(1818年7月10日) - 明治18年(1885年)8月30日)は、江戸時代末期の公卿。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三朝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで進む。父は右大臣大炊御門経久。兄に侍従大炊御門経長、左近衛権中将大炊御門経尚がいる。室は松下威久の娘。子に大炊御門経宣、師前(子に一条実孝)、幾麿、綾小路家政(綾小路家養子)がいる。.

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大炊御門師経

大炊御門 師経(おおいのみかど もろつね)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、左大臣・藤原経宗の子。官位は右大臣・正二位。大炊御門家4代当主。.

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大炊御門信量

大炊御門 信量(おおいのみかど のぶかず、嘉吉2年(1442年) - 長享元年8月4日(1487年8月22日))は、室町時代の公卿。後花園天皇(102代)と後土御門天皇(103代)の二帝に仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。実父は右大臣三条実量、養父は内大臣大炊御門信宗。妻は正親町持季の娘。子は右大臣大炊御門経名。 長禄元年(1457年)に従三位となり、公卿に列する。以降累進して、権中納言・権大納言・右近衛大将・左近衛大将を経て、文明11年(1479年)に内大臣となる。翌年従一位となり、左近衛大将を辞した。文明15年(1483年)に右大臣に任じられた。 Category:室町・安土桃山時代の公家 のふかす Category:三条家 Category:1442年生 Category:1487年没.

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大炊御門経名

大炊御門 経名(おおいのみかど つねな、文明12年(1480年) - 天文22年3月24日(1553年5月6日))は、室町時代後期の公卿。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣に昇った。父は右大臣大炊御門信量。母は権大納言正親町持季の娘。 文明16年(1484年)叙爵。その後、左近衛少将・左近衛中将・権中納言を経て、永正7年(1510年)には権大納言となった。この職にある際の永正8年(1511年)加賀国へ下向している。おそらく他の公卿と同様に経済的理由によると思われる。永正12年(1515年)に帰洛。右近衛大将に任じられて再び朝廷政務に復帰した。永正15年(1518年)内大臣に任じられる。さらに大永元年(1521年)には右大臣に昇格した。翌年に従一位を授与された。大永3年(1523年)に右大臣を辞する。天文11年(1542年)出家し、自性院と号した。天文22年(1553年)に薨去、嗣子がいないために大炊御門家は一時断絶となるが、その後、中山孝親の子の経頼が相続した。.

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大炊御門経孝

大炊御門 経孝(おおいのみかど つねたか、慶長18年12月14日(1614年1月23日)- 天和2年6月26日(1682年7月30日))は、江戸時代前期の公卿。後水尾天皇(108代)から霊元天皇(112代)の4代にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。大炊御門経頼の次男。母は吉良義康の娘。異母兄に大炊御門頼国、異父兄に今川直房がいる。初名、経敦。子女に大炊御門経光、諏訪忠晴養女(最上義雅室)、大久保忠高継室、花山院定誠室。後光福寺と号した。 兄の頼国が猪熊事件に関与したとして硫黄島に配流されたために大炊御門家を相続する。慶長19年(1614年)に叙爵。以降累進し、寛永8年(1631年)に従三位となり、公卿に列した。その後、権中納言・踏歌節会外弁・権大納言・右近衛大将など要職を歴任し、明暦2年(1656年)には内大臣に就任。さらに寛文3年(1663年)には右大臣となり、寛文10年(1670年)従一位、左大臣となるが、寛文11年に職を辞した。 つねたか Category:江戸時代の公家 Category:1614年生 Category:1682年没.

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大炊御門経久

大炊御門 経久(おおいのみかど つねひさ、天明元年9月16日(1781年11月1日) - 安政6年7月10日(1859年8月8日))は、江戸時代後期の公卿。光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三朝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで進む。父は右大臣大炊御門家孝。母は右大臣三条季晴の娘。室は権大納言中山忠尹の娘・尹子。子に侍従大炊御門経長、右近衛中将経尚、右大臣家信、今城経明(今城家養子)がいる。 天明2年(1782年)に叙爵してから清華家当主として早いスピードで昇進し、侍従・右近衛権少将・右近衛権中将などを歴任し、寛政元年(1789年)に従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言、権大納言、踏歌節会外弁・内弁を経て、文政4年(1821年)には右近衛大将・右馬寮御監となる。文政7年(1824年)に従一位内大臣となるも同年辞職。その後長く政界を離れていたが、安政4年(1857年)に右大臣に就任している。.

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大炊御門経光

大炊御門 経光(おおいのみかど つねみつ、寛永15年8月8日(1638年9月15日) - 宝永元年9月6日(1704年10月4日))は、江戸時代前期の公卿。おもに後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)・霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)に仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。父は従一位左大臣大炊御門経孝。母は家女房。正室は細川立孝の娘。子に内藤義竜(内藤義恭猶子)、娘(鷲尾隆長室)、養子に大炊御門信名(近衛基熙の次男)がいる。 正保2年(1645年)に叙爵。以降累進し、万治2年(1659年)従三位にすすんで公卿に列した。万治3年(1660年)に権中納言。寛文3年(1663年)に正三位権大納言・神宮伝奏となる。寛文4年(1664年)には踏歌節会外弁。延宝3年(1675年)には右近衛大将となり、延宝6年(1678年)まで在職。延宝5年(1677年)には内大臣となり、天和元年(1681年)まで在職した。延宝8年(1680年)には踏歌節会内弁。元禄3年(1690年)右大臣に任じられるが、翌年辞職。元禄5年(1692年)には従一位に昇進。宝永元年(1704年)には左大臣になるもすぐに辞職した。 Category:江戸時代の公家 つねみつ Category:1638年生 Category:1704年没.

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大臣 (日本)

大臣は、重要な国務に携わる高官。時代や制度により、その内実と読みが変遷する。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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天平

天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.

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天平宝字

天平宝字(てんぴょうほうじ、正字体:天平寶字)は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。.

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天平勝宝

天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.

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天平神護

天平神護(てんぴょうじんご)は、日本の元号の一つ。天平宝字の後、神護景雲の前。765年から767年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。.

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天平感宝

天平感宝(てんぴょうかんぽう、正字体:天平感寶)は、日本の元号の一つ。天平の後、天平勝宝の前。日本で初めて使われた四文字年号でもある。この時代の天皇は聖武天皇。 749年のことであるが、同年のうちに天平勝宝に改元されたため、後に書かれた書物では天平感宝の元号が使われることはない。『正倉院文書』や木簡には「天感」「感宝」と省略されている例が見られる。.

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天徳 (日本)

天徳(てんとく)は、日本の元号の一つ。天暦の後、応和の前。957年から961年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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天応 (日本)

天応(てんおう、正字体:天應)は、日本の元号の一つ。宝亀の後、延暦の前。西暦の781年から782年に相当する。この時代の天皇は光仁天皇、桓武天皇。.

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天和 (日本)

天和(てんな、てんわ)は日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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天禄

天禄(てんろく)は、日本の元号の一つ。安和の後、天延の前。西暦の970年から973年までに対応する。この時代の天皇は円融天皇。.

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天長

天長(てんちょう)は、日本の元号の一つ。弘仁の後、承和の前。824年から834年までの期間を指す。この時代の天皇は淳和天皇、仁明天皇。.

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天暦

天暦(てんりゃく)は、日本の元号の一つ。天慶の後、天徳の前。947年から957年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天永

天永(てんえい)は、日本の元号の一つ。天仁の後、永久の前。1110年から1112年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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天慶

天慶(てんぎょう、てんけい、てんきょう)は、日本の元号の一つ。承平の後、天暦の前。938年から947年までの期間を指す。この時代の天皇は朱雀天皇、村上天皇。.

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天承

天承(てんしょう)は、日本の元号の一つ。大治の後、長承の前。1131年の期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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太保

太保(たいほ)は中国の古代より使われた官職名。天子のもりやく。 『漢書』百官公卿表上によれば周においては太師、太傅、太保が三公と呼ばれ、天子を助け導き国政に参与する職であったとされる。 漢においては前漢の平帝代の元始元年(西暦1年)、幼くして王莽らに擁立されて即位した平帝の補佐と教育のため太師、太傅、太保が置かれた。金印紫綬で、地位は大司馬、大司徒、大司空の三公より高く、太保は太師、太傅、太保の中で最も地位が低かった。太師、太傅、太保および少傅の四官を四輔と呼んだ。 前漢末および新の後は太保は置かれなかったが、晋において再度太師、太傅、太保を置いた。 それ以降の王朝でも太師、太傅、太保が置かれたが、総じてふさわしい者が居なければ空位とする名誉職であった。北魏では太師、太傅、太保を三師と呼んでいる。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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太政官

太政官.

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孝徳天皇

孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。.

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.

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孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.

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宝亀

宝亀(ほうき、正字体:寶龜)は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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宝永

宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

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安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.

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安和

安和(あんな)は、日本の元号の一つ。康保の後、天禄の前。968年から970年までの期間を指す。この時代の天皇は冷泉天皇、円融天皇。.

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安永 (元号)

安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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寛平

寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。.

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寛延

寛延(かんえん)は日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前。1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。.

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寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

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寛徳

寛徳(かんとく)は、日本の元号の一つ。長久の後、永承の前。1044年から1045年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇、後冷泉天皇。.

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寛保

寛保(かんぽう、かんぽ)は日本の元号の一つ。元文の後、延享の前。1741年から1744年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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寛喜

寛喜(かんぎ、かんき)は、日本の元号の一つ。安貞の後、貞永の前。1229年から1231年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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寛和

寛和(かんな)は、日本の元号の一つ。永観の後、永延の前。985年から987年までの期間を指す。この時代の天皇は花山天皇、一条天皇。.

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寛元

寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.

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寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛治

寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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崇光天皇

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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丞相

丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.

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師守記

師守記(もろもりき)は、日本の南北朝時代の日記。筆者は公家の中原師守。紙背は全て紙背文書。国立国会図書館に64巻が所蔵されている。 記述は暦応2年(1339年)から応安7年(1374年)にまで及んでいるが、所々に欠落があり、貞和5年(1349年)以降は顕著となる。また筆者の師守は応安3年(1370年)前後に没したと言われており、文脈や筆跡もその前後で相違が見られるので、応安以降の記述は別人の手によるものである可能性がある。 中原氏は代々外記を世襲した家柄で、筆者の師守も北朝で権少外記の役職にあったため、北朝の朝議や記録所関係の記述が精細である。 師守は外記に就任する前は大炊頭にあり、役職の関係から大炊寮領を統治しており、大炊寮を中心に、公領の経営やそこで起こった出来事に関する記述も多々ある。 師守の兄中原師茂は権大外記の役職にあり、師守は兄師茂を「家君」と称し、師茂の視点から書かれたような記述が多く散見される。そのため「師茂記」とも呼ばれることがある。 南北朝の戦争、公武間の軍事、また巷間での出来事に関する記述まで豊富な情報が収められているので、『園太暦』と並び、南北朝時代の一級史料として、貴重な扱いを受けている。『太平記』の研究においても、『園太暦』と並び貴重、有用な史料として重用される。.

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中御門天皇

中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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中臣金

中臣 金(なかとみ の かね、生年不詳 - 天武天皇元年8月25日(672年9月24日))は、飛鳥時代の官人。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は連。父は中臣糠手子(なかとみのぬかてこ)。鎌足の従兄弟にあたる。天智天皇、大友皇子(弘文天皇)に重臣としてつかえ、壬申の乱で敗れて処刑された。右大臣。.

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中院通躬

中院 通躬(なかのいん みちみ)は江戸時代中期の公卿、歌人。中院家(家格は大臣家)第18代当主。.

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万治

万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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三公

三公(さんこう)とは、中国およびその影響を受けた東アジア諸国の前近代の官制において、最高位に位置する3つの官職をいう。その起源は周王朝に始まるといわれる。.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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三条季晴

三条 季晴(さんじょう すえはる、享保18年10月22日(1733年11月28日) - 天明元年11月28日(1782年1月11日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の四朝にわたって仕え、官位は従一位右大臣となった。父は右大臣三条実顕。母は権大納言三条公充の娘。妻は彦根藩主井伊直定の娘。子に右大臣三条実起、左近衛佐武者小路実純、娘に右大臣大炊御門家孝室がいる。号は後誠心院。 享保20年(1735年)に叙爵。以降、三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛延3年(1750年)に従三位に達し公卿に列する。権中納言・権大納言・踏歌節会外弁を経て、明和7年(1770年)に正二位内大臣。安永元年(1772年)には従一位となる。安永8年(1779年)には右大臣となるもすぐに辞職する。天明元年(1781年)に薨去。享年49。.

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三条実万

三条 実万(さんじょう さねつむ、三條實萬)は、幕末の公卿。明治時代の元勲・三条実美の父。.

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三条実冬

三條 實冬(さんじょう さねふゆ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。.

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三条実秀

三条 実秀(さんじょう さねひで、慶長3年(1598年)‐寛文11年8月25日(1671年9月27日))は、江戸時代前期の公卿。 後陽成天皇(108代)から後西天皇(111代)までの四代にわたって仕え、従一位左大臣まで昇っている。父は権大納言三条公広。母は権中納言正親町三条公仲の娘。正室は権大納言日野資勝の娘。子に右大臣三条公富、延岡藩主内藤義概室がいる。 慶長9年(1604年)に叙爵してから累進し、元和元年(1615年)に左近衛中将となったのを機に元服した。元和5年(1619年)に従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言・権大納言・踏歌節会外弁などを歴任。慶安元年(1648年)に内大臣に任ぜられた。同年辞職。承応元年(1652年)から翌年にかけて右大臣を務めた。明暦3年(1657年)に従一位に叙せられ、万治3年(1660年)から翌年にかけて左大臣を務める。 長寿によって清華家の出世コースを順調にたどっていくことができた人物であった。.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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三条実行

三条 実行(さんじょう さねゆき)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公実の次男。三条家の始祖。.

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三条実顕

三条 実顕(さんじょう さねあき、宝永5年5月29日(1708年7月16日) - 安永元年12月19日(1773年1月11日))は、江戸時代中期の公卿。主に中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三代にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで進んでいる。父は左近衛中将三条公兼。母は内大臣広幡豊忠の娘。妻は三条公充の娘。子に右大臣三条季晴、権大納言河鰭実祐(河鰭季満養子)、権大納言中山忠尹室、養子に権大納言三条西延季がいる。初名は利季。 正徳4年(1714年)に叙爵。享保4年(1719年)に叔父である三条公充の養子に入った。三条家の嫡男として早いスピードで昇進し、侍従・左近衛中将・権中納言・踏歌節会外弁・権大納言などをへて、寛延2年(1749年)に右近衛大将、内大臣となった。翌年辞職。宝暦4年(1754年)には従一位・右大臣に任じられるも辞職する。.

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三条実親

三条 実親(さんじょう さねちか)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。従一位右大臣。白川、又は後三条と号す。太政大臣三条公房の長男。.

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三条実香

三条 実香(さんじょう さねか、文明元年(1469年) - 永禄2年2月25日(1559年4月2日))は室町時代の公卿。三条公敦の子。子には三条公頼、三条香子(伏見宮貞敦親王室、伏見宮邦輔親王母)がいる。号は後浄土寺。法名は諦空。.

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三条実起

三条 実起(さんじょう さねおき、宝暦6年11月14日(1756年12月5日) - 文政6年9月7日(1823年10月10日))は、江戸時代後期の公卿。主に桃園天皇(116代)から光格天皇(119代)にわたって朝廷に仕え、官位は従一位右大臣まで昇っている。父は右大臣三条季晴。母は彦根藩主井伊直定娘。妻は彦根藩主井伊直幸の養女(徳島藩主蜂須賀宗鎮の娘)。息子に内大臣三条公修、右近衛権少将押小路実茂(押小路公岑養子)、鹿園空晁(興福寺喜多院住職)。娘に沖君(権大納言滋野井公敬室)。養子として左大臣二条治孝の子女数名がいる。 宝暦7年(1757年)に従五位上に叙爵。その後清華家三条家の当主として早いスピードで昇進し、明和元年(1764年)には従三位に達して公卿に列する。左近衛中将・踏歌節会外弁・権中納言・権大納言などを歴任し、寛政4年(1792年)には右近衛大将・右馬寮監となる。寛政8年(1796年)に内大臣となるも翌年には辞した。文化11年(1814年)に右大臣になるも同年中に辞す。その後は「転法輪前右大臣」と称された。文政6年(1823年)に薨去。享年68。.

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三条実量

三條 實量(さんじょう さねかず)は、日本の室町時代の公卿。.

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三条実治

三条 実治(さんじょう さねはる、慶安3年12月6日(1651年2月6日)‐享保9年8月12日(1724年9月28日))は、江戸時代前期から中期の公卿。 おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三代にわたり仕え、従一位左大臣まで昇る。初名は季房・実通といった。実治は元禄2年(1689年)から薨去までの名前。号は暁心院観照。父は右大臣三条公富。母は不詳。子に左近衛中将三条公兼・権大納言三条公充、娘に彦根藩主井伊直通室がいる。 明暦元年(1655年)に叙爵。清華家三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛文8年(1668年)には従三位となり公卿に列している。権中納言、権大納言、神宮伝奏、踏歌節会外弁などを歴任。天和3年(1683年)には霊元天皇中宮鷹司房子の中宮大夫となり、貞享2年(1685年)には右近衛大将を兼務。貞享4年(1687年)に中宮大夫を辞した。元禄6年(1693年)に内大臣に就任したが、同年のうちに右近衛大将と内大臣を辞職。さらに宝永元年(1704年)には右大臣となったが、やはりすぐに辞職している。宝永2年(1705年)に従一位を授与された。正徳5年(1715年)に左大臣となったが、やはりすぐに辞職。享保9年(1724年)に薨去した。享年75。.

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三条実房

三条 実房(さんじょう さねふさ)は平安時代末期および鎌倉時代の公卿。左大臣正二位。三条入道左府と号す。父は内大臣三条公教。母は権中納言藤原清隆の娘。室は左大臣藤原経宗の娘。子に公房、公宣、公氏、公俊などがおり、子孫から多くの三条家庶流が生まれた。.

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三条公富

三条 公富(さんじょう きんとみ、元和6年1月2日(1620年2月15日) - 延宝5年6月12日(1677年7月11日))は、江戸時代前期の公卿。おもに明正天皇(109代)・後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)・霊元天皇(112代)の四代にわたって仕え、従一位右大臣に叙任された。父は左大臣三条実秀。母は権大納言日野資勝娘。妹に延岡藩主内藤義概室がいる。妻は対馬府中藩主宗義成の娘・勝。子に左大臣三条実治。女子に法雲院(土佐藩主山内豊昌室)、高槻藩主永井直時室らがいる。号は唯心院。 寛永4年(1627年)に従五位上に叙爵してから清華家嫡男として速いスピードで昇進し、寛永14年(1637年)左近衛中将に叙されるとともに元服。寛永16年(1639年)には従三位権中納言となり、公卿に列した。権大納言・踏歌節会外弁・右近衛大将などを歴任。明暦2年(1656年)に内大臣に叙せられ、万治元年(1658年)までつとめた。寛文4年(1664年)に右大臣に任ぜられるも翌年辞職。寛文12年(1672年)に従一位を授与された。.

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三条公冬

三條 公冬(さんじょう きんふゆ)は、日本の室町時代の公卿。初名は公量(きんかず)。.

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三条公頼

三条 公頼(さんじょう きんより、1495年(明応4年) - 1551年9月30日(天文20年9月1日))は、戦国時代の公卿。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の流れを汲む閑院流嫡流の三条家の当主。太政大臣三条実香の子。官位は従一位左大臣。後龍翔院左大臣を号す。.

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三条公敦

三条 公敦(さんじょう きんあつ)は、室町時代から戦国時代の公卿。 左近衛中将・尾張権守・権中納言・権大納言などを経て、文正元年(1466年)に右近衛大将、文明7年(1475年)には左近衛大将、内大臣となった。さらに文明8年(1476年)には従一位、文明11年(1479年)に右大臣に任じられるも翌年には辞職。文明13年(1481年)、43歳で出家した。 きんあつ Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1439年生 Category:1507年没.

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三条西実条

三条西 実条(さんじょうにし さねえだ、旧字体:三條西 實條 )は、安土桃山時代から江戸時代初期の公家。三条西家(家格は大臣家)当主。祖父は三条西実枝。.

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三条西公条

三条西 公条(さんじょうにし きんえだ)は、戦国時代の公卿・歌人・和学者。孫に三条西公国、外孫に中院通勝、玄孫に春日局が、甥に九条稙通がいる。称名院と号する。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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一条実経

一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。 九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。.

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一条実良

一条 実良(いちじょう さねよし、天保6年2月28日(1835年3月26日) - 慶応4年4月24日(1868年5月16日))は江戸時代後期の公家。一条忠香の子で、母は伏見宮邦家親王第2王女順子女王。昭憲皇太后(明治天皇皇后)の異母兄。妻は近衛忠煕の娘総子。子に良子(一条実輝の妻)、一条忠貞は養子。法号は華厳光寺。横浜港の閉鎖などを建言する。慶応3年(1867年)12月に王政復古の大号令が発せられ、公武合体派であることを理由に参内を停止された。.

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一条家経

一条 家経(いちじょう いえつね、宝治2年12月6日(1248年12月22日) - 永仁元年12月11日(1294年1月8日))は鎌倉時代の公卿。一条家の祖・摂関従一位左大臣一条実経の子。正字では一條家經。号に後光明峯寺関白。.

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一条忠良

一条 忠良(いちじょう ただよし、安永3年3月22日(1774年5月2日) - 天保8年6月3日(1837年7月5日))は、江戸時代の公卿。 一条輝良の子で、大勝寺と号す。正室は肥後熊本藩主細川斉茲女富子。子に一条実通、一条忠香、久我建通、一条秀子(徳川家定室)、知君(寛彰院。池田斉輝室)、通子(松平頼学室)、崇子(鷹司輔熙室)らがいる。 天明3年(1783年)従三位となり(のち寛政11年(1799年)には従一位となった)、内大臣、右大臣、左大臣を歴任。文化11年(1814年)には、関白となった。のち文政6年(1823年)関白を辞めたが、同11年(1828年)准三后となっている。 Category:摂関 Category:江戸時代の公家 たたよし たたよし Category:1774年生 Category:1837年没.

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一条冬経

一条 冬経 (いちじょう ふゆつね )は、江戸時代中期の公卿。霊元天皇の第一の側近であり、近衛基熙と権勢を争った。初名は内房(うちふさ)、晩年には兼輝(かねてる)と称する。官位は従一位・関白及び摂政。円成寺と号した。父は、右大臣一条教輔。.

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一条内基

一条 内基(いちじょう うちもと名の読みは「うちもと」と思われるが、土佐滞在中に偏諱を与えた内政の名の読みは「ただまさ」である。、天文17年(1548年) - 慶長16年7月2日(1611年8月9日))は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけての公家である。本能寺の変が起きた時の関白。藤原北家摂関家一条家当主。号は自浄心院・翫月など。一字名は杏。.

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一条兼冬

一条 兼冬(いちじょう かねふゆ、享禄2年(1529年) - 天文23年2月1日(1554年3月14日)は、戦国時代の公家。一条家当主。父は一条房通で母は一条冬良の娘。弟に一条内基、義弟に土佐一条氏を継いだ一条兼定。.

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一条兼香

一条 兼香(いちじょう かねよし/かねか、元禄5年12月16日(1693年1月12日)-寛延4年8月2日(1751年9月21日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇の側近として活躍し、従一位関白左大臣・太政大臣を歴任して14年にわたって朝廷の中枢にあった。「後円成寺」と号する。.

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一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

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一条道香

一条 道香(いちじょう みちか、享保7年10月10日(1722年11月18日) - 明和6年9月5日(1769年10月4日))は江戸時代の公卿。一条兼香の子。母は家女房。正室は池田政純の娘、静子(池田継政の養女)。子は一条輝良、八代君(徳川治保室)、真君(久我信通室)、教君(三宝院継)らが、他に早世した2男4女がいる。号は得成寺。藤氏長者。八代君は江戸幕府15代征夷大将軍徳川慶喜の曾祖母であるため、道香は慶喜の高祖父に当たる。.

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一条輝良

一条 輝良(いちじょう てるよし、宝暦6年11月7日(1756年11月28日) - 寛政7年10月14日(1795年11月25日))は、江戸時代の公卿。一条道香の子。正室は徳川重倫の娘懿姫。子に一条忠良 、西園寺実韶、和子(鶴君、三条公修室)、輝子(壽美君、伏見宮貞敬親王御息所)がいる。 明和8年(1771年)に内大臣となり、以後、右大臣、左大臣を歴任し、寛政3年(1791年)に関白になった。 Category:摂関 Category:江戸時代の公家 てるよし てるよし Category:1756年生 Category:1795年没.

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一条房通

一条 房通(いちじょう ふさみち、永正6年(1509年) - 弘治2年10月30日(1556年12月1日))は、戦国時代の公卿・関白。土佐一条氏第2代当主一条房家の次男。大叔父の一条冬良の婿養子になった。子に兼冬・内基、養子に兼定(実子とする説もある)がいる。妻は冬良の娘。官位は従一位左大臣、内覧。 永正14年(1517年)4月30日に9歳で元服。正五位に叙せられる。同年に従四位上、右少将・左中将に叙せられ、翌永正15年(1518年)には従三位に叙任。 天文14年(1545年)6月2日には養父・冬良と同じく関白にもなった(-天文17年(1548年)12月27日)。土佐一条氏からの関白就任は、冬良の兄、そして房通自身にとって祖父でもある初代当主教房以来2度目である。また、実家の土佐一条氏では一条房基、兼定と幼い当主が続いたために、土佐国に下向して当主代理として政務をとっていた時期がある。 弘治2年(1556年)、48歳で死去した。 Category:摂関 Category:室町・安土桃山時代の公家 ふさみち ふさみち ふさみち Category:1509年生 Category:1556年没.

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一条昭良

一条 昭良(いちじょう あきよし)は、江戸時代前期の公卿。 後陽成天皇の第九皇子。五摂家のひとつ一条家の養子になり第14代目当主となる。これにより一条家は皇別摂家となった。.

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一条教輔

一条教輔(いちじょう のりすけ)は江戸時代前期の公卿。名は始め伊実、次いで教良。父は一条昭良(後陽成天皇第9皇子)。正室は備前国岡山藩主池田光政の娘(徳川家光養女)・通姫。正二位・右大臣。弟に醍醐家初代の冬基、子に従一位・摂政・関白冬経(兼輝)がある。.

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一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。 永享10年(1437年)元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍足利義教(第6代将軍)から偏諱を受け教房と名乗る(弟の教賢(きょうけん、僧)も同様である)。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、応仁2年(1468年)一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父兼良の下向を誘ってみたり、父が帰洛した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。長男の政房は既に応仁の乱の中で戦死していたため、家督は40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継いだ。 尚、次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。 File:Tomb of Ichijo Norifusa.jpg|一条教房墓(高知県四万十市).

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九条尚実

九条 尚実(くじょう なおざね、享保2年6月21日(1717年7月29日)- 天明7年9月22日(1787年11月1日))は、江戸時代中期の公家。関白輔実の三男。母は後西天皇の第十皇女益子内親王。同母兄に師孝、幸教が、同母姉に尾張藩主徳川吉通の正室となった輔姫がいる。子に道前、松殿忠孝がいる。 はじめは尭厳と名乗り、門跡である随心院に入り、権僧正に任じられる。兄幸教の子稙基が死亡したため、寛保3年(1743年)5月9日に還俗し、九条家を継ぐ。延享元年(1744年)4月13日従三位に叙せられる。宝暦事件では関白一条道香、近衛内前、鷹司輔平ら摂関家公卿と協力し、桃園天皇側近の尊皇論者である清華家以下の公家を失脚させ、摂関家の優位性を保つことに成功した。宝暦9年(1759年)から安永7年(1778年)にかけて左大臣を務め、同年から安永8年(1779年)まで後桃園天皇の関白を務める。 同年後桃園天皇が22歳の若さで崩御する。生まれたばかりの皇女欣子内親王を新帝の后とする事で公卿の意見は一致したが、後桜町上皇と長老格の前関白近衛内前は、当時あった四宮家の中で最も格式が高い伏見宮家の嘉禰宮を推した。これに対し、尚実は最も皇統に近い閑院宮家の師仁王を推した。10日余りの論争の末、閑院宮家の師仁王が新帝として擁立されることになり、諱を兼仁と改めて即位した。その後、尚実は光格天皇の下で摂政、関白、太政大臣を務め、准三后に叙せられた。 Category:摂関 Category:江戸時代の公家 Category:真言宗の僧 Category:真言宗善通寺派 Category:還俗した人物 なおさね なおさね Category:1717年生 Category:1787年没.

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九条尚忠

九条 尚忠(くじょう ひさただ、寛政10年7月25日(1798年9月5日) - 明治4年8月21日(1871年10月5日))は、江戸時代後期から明治時代の公家。官位は従一位・関白。 昭和天皇の曽祖父である。.

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九条尚経

九条 尚経(くじょう ひさつね、応仁2年11月25日(1469年1月7日) - 享禄3年7月8日(1530年8月1日))は、室町時代・戦国時代の公卿。九条家第15代目当主。九条政基の長男。母は従三位智子(姓不明)。異母弟に細川澄之らがいる。室は保子(三条西実隆の娘)。子に九条稙通・花山院家輔(花山院忠輔養子)・尋円(興福寺別当)・経子(二条尹房室)、大岡善吉がいる。後慈眼院と号す。法名は行智。道号は花渓。「尚」の字は、将軍足利義尚より偏諱を賜ったものである。 九条家が最も没落した時期の当主で、明応5年(1496年)、父とともに家司唐橋在数を殺害し、勅勘に処せられた。その後許され、文亀元年(1501年)関白・藤氏長者となる。永正3年(1506年)に左大臣となり、同11年(1514年)には従一位に叙せられる。享禄3年(1530年)、63歳で死去し、東福寺で葬礼が行われた。 日記『後慈眼院殿記』及び有職故実書『後慈眼院尚経公装束抄』を著した。.

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九条師教

九条 師教(くじょう もろのり)は、鎌倉時代後期の公卿。関白九条忠教の一男で、母は西園寺公相の女。正室は亀山天皇皇女(欠名)で、子に道教・覚尊(興福寺別当)がいる他、実弟房実を養子とした。号に己心院。浄土寺摂政。.

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九条幸家

九条 幸家(くじょう ゆきいえ)は、江戸時代初期の公家。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。関白・左大臣に昇った。初名は忠栄(ただひで)。また一字名として「匀」とも。.

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九条忠基

九条 忠基(くじょう ただもと、興国6年/貞和元年(1345年)- 応永4年12月20日(1398年1月8日))は、南北朝時代の公卿。従一位。関白。父は九条経教、母は内大臣三条実忠の娘。弟に九条教嗣、九条満教の他尊経、孝円、経覚、仁意がいる。異母弟九条満教を養子にした。 正平12年/延文2年(1357年)従三位に叙せられる。左大臣などを歴任した後、天授元年/永和元年(1375年)12月27日従一位関白に就任、天授5年/康暦元年(1379年)8月22日辞職。応永4年(1397年)12月20日薨去。.

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九条忠家

九条 忠家(くじょう ただいえ)は鎌倉時代の公卿。摂政関白左大臣・九条教実の長男。官位は従一位・摂政関白右大臣。号に一音院関白。.

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九条忠教

九条 忠教(くじょう ただのり、宝治2年(1248年) - 正慶元年/元弘2年12月6日(1332年12月24日))は鎌倉時代の公卿、従一位・関白、通称に報恩院関白。父は九条忠家。母は三条公房の娘。室は二条道良の娘、西園寺公相の娘、藤原有時の娘、二条道良の娘。子に九条師教、九条房実、尊覚(興福寺別当)、教寛(東大寺別当)、二条兼基室(禖子)。.

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九条兼孝

九条 兼孝(くじょう かねたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての関白。九条家第17代目当主。同家第15代当主の九条尚経は曽祖父にあたる。後月輪と号した。.

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九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。.

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九条兼晴

九条 兼晴(くじょう かねはる、寛永18年2月6日(1641年3月17日) - 延宝5年11月12日(1677年12月6日))は江戸時代前期の公卿。九条家第20代当主。父は左大臣鷹司教平。母は権大納言冷泉為満の娘。兄弟に鷹司房輔・鷹司信子(徳川綱吉正室)・鷹司房子(霊元天皇中宮)らがいる。正室は九条道房の娘九条待姫。号は後往生院。 子に九条輔実・二条綱平(二条光平養子)・本願寺光澄(本願寺光常養子)らがいる。.

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九条経教

九条 経教(くじょう つねのり、元弘元年/元徳3年(1331年) - 応永7年5月21日(1400年6月13日))は、南北朝時代の公家。関白二条道平の子で関白九条道教の養子となった。官位は従一位・関白・左大臣。.

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九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

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九条道房

九条 道房(くじょう みちふさ、慶長14年8月13日 (1609年9月11日) - 正保4年1月10日 (1647年2月14日))は、江戸時代前期の公家。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。摂政・左大臣に昇った。初名は忠象(ただかた)。徳川家光の甥にあたる。 九条幸家の次男として生まれる。母は豊臣完子。元和元年(1615年)従三位に叙せられ、以後も昇進を続ける。 正保4年(1647年)に摂政となるが、その5日後に薨去した。享年39。 正室は鶴姫(松平忠直の娘)。なお、道房と鶴姫は従兄妹である(母親同士が異父姉妹)。 子は5女があり、婿養子九条兼晴の正室待姫のほか、愛姫(浅野綱晟室)、令姫(東本願寺常如光晴室)、梅姫(松平綱賢室)、八代姫(浅野綱晟継室)。.

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九条道教

九條 道教(くじょう みちのり)は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿。.

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九条輔実

九条 輔実(くじょう すけざね、寛文9年6月16日(1669年7月13日) - 享保14年12月12日(1730年1月30日))は江戸時代中期の摂政・関白。左大臣九条兼晴の長男。母は九条道房の娘・九条待姫。正室は益子内親王(後西天皇皇女)。 子に九条師孝、九条幸教(師孝の養子)、九条輔子(徳川吉通正室)、九条尚実らがいる。号は後洞院。 絵画が得意で、京都上善寺の弁天十五童子は彼の遺作といわれている。.

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九条良輔

九条 良輔(くじょう よしすけ、文治元年9月20日(1185年10月15日) - 建保6年11月11日(1218年11月30日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。摂政関白・九条兼実の四男。官位は従一位・左大臣。八条と号す。.

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九条満家

九条 満家(くじょう みついえ、応永元年(1394年) - 文安6年5月4日(1449年5月25日))は、室町時代の関白。関白・九条経教の三男。兄に九条忠基、九条教嗣、弟に孝円、道尊、孝信、経覚らがいる。室に唐橋在豊女らが、子に政忠・政基・尋実(興福寺)がいる。号は後三縁院。.

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九条房実

九条 房実(くじょう ふさざね)は鎌倉時代の公卿。摂家九条家の8代当主。後一音院関白と号す。.

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九条政基

九条 政基(くじょう まさもと、文安2年5月7日(1445年6月12日) - 永正13年4月4日(1516年5月5日))は、室町時代末期から戦国時代初期の公家。関白・九条満家の子。従一位・関白・左大臣・准三宮。「政」の字は足利義政から偏諱を受けたものである。慈眼院と号す。.

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九条教実

九条 教実(くじょう のりざね、承元5年1月5日(1211年1月21日) - 文暦2年3月28日(1235年4月23日))は、鎌倉時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・九条道家の長男。官位は従一位摂政関白左大臣。通称に洞院摂政(とういん せっしょう)、洞院殿など。.

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九条教嗣

九條 教嗣(くじょう のりつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)から室町時代にかけての公卿。.

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平城天皇

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.

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乾元 (日本)

乾元(けんげん)は、日本の元号の一つ。正安の後、嘉元の前。1302年の期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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久我広通

久我 広通(こが ひろみち、寛永3年4月5日(1626年4月30日) - 延宝2年4月13日(1674年5月18日))は、江戸時代前期の公卿。おもに明正天皇(109代)・後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)の三代に仕え、官位は正二位内大臣まで昇った。父は久我通前(正三位権中納言)。母は堀秀治(高田藩主)の娘。正室に伏見宮貞清親王王女・梅子女王。子に久我通名(従三位権中納言)、久我通誠(従一位内大臣)。娘に四辻季輔(正四位下左近衛権中将)室。 寛永4年(1627年)に叙爵。以降累進して、寛永19年(1642年)に従三位に達して公卿に列した。官職も侍従・左近衛少将・右近衛中将・踏歌節会外弁・権中納言・権大納言・右近衛大将・神宮伝奏・踏歌節会内弁などを歴任して、寛文元年(1661年)内大臣となった。寛文3年(1663年)に内大臣を辞職した。延宝2年(1674年)に薨去。享年49。生年については寛永元年(1624年)説もあり。.

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久我具通

久我 具通(こが ともみち)は、室町時代の公卿。従一位太政大臣。久世太政大臣と号す。父は太政大臣久我通相。母は権大納言葉室長隆の娘。.

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久我豊通

久我 豊通(こが とよみち)は、日本の室町時代から戦国時代にかけての公卿。.

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久我長通

久我 長通(こが ながみち)は鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。後中院太政大臣と号す。従一位太政大臣。父は太政大臣久我通雄、母は源仲基の娘。子は太政大臣に至った久我通相。.

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久我通博

久我 通博(こが みちひろ)は、日本の室町時代の公卿。文明5年(1473年)までの名は、通尚(みちなお)。.

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久我通兄

久我 通兄(こが みちえ、宝永6年11月4日(1709年12月4日) - 宝暦11年5月19日(1761年6月21日))は、江戸時代中期の公卿 デジタル版 日本人名大辞典+Plus。号は含華光院。おもに中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。父は右大臣久我惟通。母は左近衛少将細川綱利(熊本藩主)の養女(細川利重(熊本新田藩主)の娘)。息子に権大納言久我敏通・左近衛少将中院通維・権中納言東久世通積がいる。娘に左近衛権少将細川重賢(熊本藩主)の室、権大納言千種有政の室、修理大夫酒井忠貫(小浜藩主)の室がいる。 享保3年(1718年)叙爵して以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛中将を経て、享保9年(1724年)には従三位となり公卿に列する。権中納言を経て、享保16年(1731年)権大納言、享保17年(1732年)踏歌節会外弁となる。寛保元年(1741年)武家伝奏に就任。寛延3年(1750年)に武家伝奏を辞職し、右近衛大将・右馬寮御監に転じた。さらに同年のうちに内大臣に任じられている。宝暦4年(1754年)には従一位となり、さらに右大臣へと進む。しかし翌年には辞職した。子の久我敏通とともに徳大寺家お抱えの学者竹内敬持に入門し垂加神道や尊王論を学んだ。.

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久我通相

久我通相(こが みちまさ)は南北朝時代の公卿。従一位太政大臣。千種太政大臣、または中院と号す。父は太政大臣久我長通。母は参議園基顕の娘。.

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久我通言

久我 通言(こが みちのぶ、長享元年〈1487年〉 - 天文12年〈1543年〉2月)は、室町時代後期の公卿。 戦乱期の後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。道号は柏仲。父は右大臣久我豊通(とよみち)。妻は徳大寺実淳の娘。子に権大納言久我邦通、徳大寺公維、西園寺実宣室。養女に慶子(細川高基の娘、近衛稙家政所)、養子に権大納言久我晴通(近衛稙家の実弟)がいる。 長享3年(1489年)に叙爵して以降累進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、文亀2年(1502年)従三位となり公卿に列する。永正3年(1506年)に権中納言、永正11年(1514年)に権大納言、大永元年(1521年)に右近衛大将となる。大永3年(1523年)には内大臣に任じられる。大永4年(1524年)に右近衛大将を辞職し、享禄元年(1528年)に右大臣となる。天文4年(1535年)に従一位となるが、翌年に父豊通が没し、悲観して50歳で出家して朝廷を去った。 子の邦通が若くして薨去したあとには近衛家から晴通を養子として迎え、跡を継がせている。 Category:室町・安土桃山時代の公家 みちのふ Category:1487年生 Category:1543年没.

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久我惟通

久我惟通(こが これみち、貞享4年10月30日(1687年12月4日) - 寛延元年9月29日(1748年10月21日))は、江戸時代中期の公卿。主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。初名は輔通。父は内大臣久我通誠。母は権大納言千種有維の娘。妻は熊本藩主細川綱利の養女(熊本新田藩主細川利重の娘)。子に右大臣久我通兄がいる。 元禄6年(1693年)に叙爵し、以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、元禄15年(1702年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言を経て正徳元年(1711年)に神宮伝奏となる。正徳4年(1714年)に権大納言に任じられる。享保12年(1727年)右近衛大将・右馬寮御監に就任する。享保15年(1730年)には右近衛大将を辞職して内大臣に転じる。元文元年(1736年)まで務めた。延享2年(1745年)に右大臣に任ぜられるも辞した。.

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享徳

享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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享禄

享禄(きょうろく)は、日本の元号の一つ。大永の後、天文の前。1528年から1531年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。.

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康平

康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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康保

康保(こうほう)は、日本の元号の一つ。応和の後、安和の前。964年から968年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇、冷泉天皇。.

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康和

康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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康永

康永(こうえい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。暦応の後、貞和の前。1342年から1344年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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二条吉忠

二条 吉忠(にじょう よしただ)は、江戸時代中期の公卿。関白左大臣二条綱平の子で、母は霊元天皇皇女・栄子内親王である。安祥院と号する。「吉」の字は将軍徳川綱吉からの偏諱。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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二条宗基

二条 宗基(にじょう むねもと、享保12年5月20日(1727年7月8日) - 宝暦4年1月18日(1754年2月9日))は江戸時代の公卿。父は九条幸教。養父は二条宗熙。母は徳川三千君(尾張藩四代藩主徳川吉通の長女)。子に二条重良、二条治孝、五千姫(基子。本願寺文如室)がいる。号は後敬心院。元文4年(1739年)正月、将軍家より諱を得るという二条家の伝統に則り、養父同様、将軍徳川吉宗から偏諱(「宗」の字)を授かる。昭和天皇は宗基の来孫に当たる。.

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二条宗熙

二条 宗煕(にじょう むねひろ、享保3年11月6日(1718年12月27日) - 元文3年6月18日(1738年8月3日))は江戸時代の公卿。父は二条吉忠。母は家女房。異母姉に二条舎子がいる。二条宗基は養子(九条幸教男)。従二位。号は常観喜院。「宗」の字は将軍徳川吉宗からの偏諱。.

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二条尚基

二条 尚基(にじょう ひさもと)は室町時代の公卿。二条政嗣の子。母は広橋兼郷の猶子、兼子。子は二条尹房。号は後如法寿院。正二位。.

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二条尹房

二条 尹房(にじょう ただふさ)は、戦国時代の公家。二条家第13代目当主。父は関白二条尚基。母は家女房。.

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二条師基

二条 師基(にじょう もろもと、正安3年(1301年) - 正平20年/貞治4年1月26日(1365年2月17日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった。.

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二条師忠

二条師忠(天子摂関御影より) 二条 師忠(にじょう もろただ、建長6年(1254年) - 興国2年/暦応4年1月14日(1341年1月31日))は、鎌倉時代の公卿。関白二条良実の三男。兄道良の早世により二条家を継ぐ。子に二条冬通が、弟で養継嗣に二条兼基がいる。従一位関白左大臣。号に香園院関白。.

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二条師嗣

二條 師嗣(にじょう もろつぐ)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての公卿。.

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二条師良

二条 師良(にじょう もろよし、貞和元年(1345年)- 永徳2年/弘和2年5月1日(1382年6月12日))は、南北朝時代の公卿。従一位。関白。左大臣。二条良基の嫡男。 北朝の後光厳天皇、後円融天皇の2代にわたって関白を務める。晩年に発狂した。.

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二条康道

二条 康道(にじょう やすみち)は、江戸時代前期の公卿・藤氏長者。藤原氏摂関家二条家の第16代当主。摂政・左大臣に昇った。関白九条幸家の長男。母は豊臣完子。養父は大叔父二条昭実。九条道房、松殿道基らの兄。幼名は松鶴。 慶長18年(1613年)、正五位下に叙せられて元服し、徳川家康より「康」の字を贈られて康道と名乗る(これ以降斉敬の代まで徳川将軍家から偏諱を賜るようになった)。 寛文6年(1666年)、薨去。享年60。 正室は貞子内親王(後陽成天皇皇女、後水尾天皇同母妹)。子女に二条光平、瑞照院日通(瑞龍寺三世)、華山仙禅師(慈受院五世)がいた。.

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二条冬実

二条 冬実(にじょう ふゆざね)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿。関白二条師基の孫にして、関白二条教基の子。父祖と同様、南朝に仕えた。河内玉櫛荘(大阪府東大阪市)を本拠とし、玉櫛(たまくし)と号する。.

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二条兼基

二条 兼基(にじょう かねもと)は、鎌倉時代の公卿。関白二条良実の子。兄師忠の養子となり二条家を継ぐ。正室は従一位禖子(九条忠教の娘)。子に二条道平らがいる。従一位。号に光明照院関白。.

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二条光平

二条 光平(にじょう みつひら、寛永元年12月13日(1625年1月21日) - 天和2年11月12日(1682年12月10日))は、江戸時代前期の公卿。摂政二条康道の子。母は貞子内親王(後陽成天皇の皇女、後水尾天皇同母妹)。正室は賀子内親王(後水尾天皇第六皇女、明正天皇同母妹)。子に甲府藩主徳川綱重室がおり、二条綱平(再従弟九条兼晴の子)を養子とした。「光」の字は将軍徳川家光(綱重の父)からの偏諱。.

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二条綱平

二条 綱平(にじょう つなひら、寛文12年4月13日(1672年5月10日) - 享保17年2月6日(1732年3月2日))は江戸時代の関白。父は九条兼晴。母は家女房。養父は二条光平。号は敬信院。子に吉忠がいる。室は栄子内親王(霊元天皇第三皇女、母は中宮鷹司房子)。「綱」の字は将軍徳川家綱からの偏諱、「平」は養父・光平の1字である。.

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二条道平

二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。.

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二条道良

二条 道良(にじょう みちなが、天福2年(1234年) - 正元元年11月8日(1259年12月22日))は、鎌倉時代の公卿。関白二条良実の長男。母は四条隆衡の娘、灑子。左大臣にまで進むが、父に先立って早世。二条家は弟の師忠が継いだ。.

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二条良基

二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。 最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度(理由は後述))にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。.

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二条良実

二条 良実(にじょう よしざね)は、鎌倉時代中期の公卿。通称は福光園関白(ふっこうえん かんぱく)。極位極官は従一位関白左大臣。 摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経、子に左大臣二条道良、権大納言二条教良、関白左大臣二条師忠、非参議二条経通、摂政左大臣二条兼基がいる。.

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二条治孝

二条 治孝(にじょう はるたか、宝暦4年9月15日(1754年10月30日) - 文政9年10月6日(1826年11月5日))は江戸時代後期の公卿。父は二条宗基。母は家女房。正室は嘉姫(水戸藩5代藩主徳川宗翰の娘)。側室に信子(権大納言樋口基康の娘)。子女は二条斉通、九条輔嗣、西園寺寛季、二条斉信、九条尚忠(輔嗣養子)、隆子(乗蓮院、徳川治国室)、親子(本願寺本如光摂室)、保子(徳川斉敦正室)、福子(黒田斉清正室)、千万(鍋島直与継室)、最子(松平頼縄継室)など。其の他にも夭折した子女がいる。号は法寿金剛院。「治」の字は将軍徳川家治からの偏諱。 昭和天皇の高祖父である。.

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二条持基

二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。.

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二条持通

二条 持通(にじょう もちみち)は、日本の室町時代の公卿。.

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二条昭実

二条 昭実(にじょう あきざね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。関白、准三宮。摂関家二条家の当主。織田信長の養女・実娘を娶ったのをはじめ、豊臣秀吉・徳川家康など天下人との接触が多かった。.

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二条斉信

二条 斉信(にじょう なりのぶ、天明8年3月5日(1788年4月10日) - 弘化4年4月26日(1847年6月9日))は江戸時代後期の公卿。父は二条治孝。母は徳川宗翰女。子は二条斉敬、二条広子(有栖川宮幟仁親王妃)など。号は成徳院。室は徳川従子(徳川治紀長女)。「斉」の字は将軍徳川家斉からの偏諱。.

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二条斉敬

二条 斉敬(にじょう なりゆき、文化13年9月12日(1816年11月1日) - 明治11年(1878年)12月5日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての公卿。藤原北家摂関家の二条家当主。日本史上最後の関白であり、人臣としては最後の摂政。.

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二条政嗣

二条 政嗣(にじょう まさつぐ)は、室町時代の公卿。関白・二条持通の長男。正室は従三位兼子(権中納言広橋兼郷の猶子)。従一位。如法寿院関白と号する。.

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二条教頼

二条 教頼(にじょう のりより)は、南北朝時代の公卿・歌人。系譜は明らかでないが、関白左大臣二条師基の子にして、関白左大臣二条教基の弟と推定される。あるいは教忠や教嗣(のりつぐ)と同一人か。南朝に仕えた。.

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二条晴良

二条 晴良(にじょう はるよし / はれよし)は、戦国時代・安土桃山時代の公卿・藤氏長者。二条家第14代目当主。父は関白・二条尹房。母は九条尚経の長女・経子。後明珠院と号す。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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今出川実直

今出川 実直(いまでがわ さねなお)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿。 延文3年/正平13年(1358年)に従三位となり、公卿に列する。その後は周防権守・参議・権中納言・権大納言・内教坊別当・左近衛大将などを歴任。応永元年(1394年)に内大臣を経ずして右大臣に任官。翌年官職を辞すも従一位を授与される。 応永3年(1396年)5月に兄公直が嗣子無く薨去し、家督を継ぐも、同年同月中に後を追うように実直も薨去した。子の公行が今出川家の名跡を継いだ。 さねなお Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1342年生 Category:1396年没.

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今出川公彦

今出川 公彦(いまでがわ きんひこ、永正3年(1506年) - 天正6年1月23日(1578年3月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。菊亭家は別号を今出川家とも称した。 後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)・正親町天皇(106代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。父は権大納言今出川季孝。子に右大臣今出川晴季、興福寺大僧正空慶がいる。 永正4年(1507年)に叙爵。以降累進して、侍従・左近衛中将を経て、永正15年(1518年)に従三位・参議となり、公卿に列する。権中納言・踏歌節会外弁を経て、大永5年(1525年)権大納言に就任する。大永6年(1526年)から天文元年(1532年)まで神宮伝奏を務めた。天文8年(1539年)に右近衛大将、さらに天文11年(1542年)には左近衛大将へと昇進。天文12年(1543年)内大臣に任命される。同年に左近衛大将を辞職。天文14年(1545年)には右大臣、天文15年(1546年)には左大臣を拝命するも翌年に辞職。天文16年(1547年)に従一位を授与された。永禄2年(1559年)に出家。.

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今出川公直

今出川 公直(いまでがわ きんなお、建武2年(1335年) - 応永3年(1396年)5月)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿。後村上天皇(97代)から後小松天皇(100代)にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。父は権大納言今出川実尹。母は為基朝臣の娘。弟に右大臣今出川実直がいる。 延元2年/建武4年(1337年)叙爵。以降、侍従・左近衛少将・備後介・左近衛中将などを経て、正平4年/貞和5年(1349年)に従三位となり公卿に列する。その後も参議や権中納言・検非違使別当を経て、正平14年/延文4年(1359年)に権大納言に就任する。その後も大納言・右近衛大将・内教坊別当などを経て、天授3年/永和3年(1377年)に内大臣拝命。弘和元年/永徳元年(1381年)には従一位へと進む。応永元年(1394年)には右大臣に任じられたがすぐに辞す。その翌年に左大臣となるもやはりすぐに辞している。.

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今出川公行

今出川 公行(いまでがわ きんゆき)は、南北朝時代から室町時代の公卿。 永徳元年/弘和元年(1381年)に従三位に叙され、公卿に列する。その後、参議・備後権守・権中納言を経て、応永2年(1395年)に権大納言に就任。応永6年(1399年)に右近衛大将を兼務。応永9年(1402年)に右近衛大将は辞すも内大臣へ栄転する。応永10年(1403年)に右大臣を拝命。応永16年(1409年)には従一位を授与された。 応永18年(1411年)には左大臣に就任し、応永25年(1418年)まで務めた。この間応永21年(1413年)12月19日に称光天皇の即位があったが、公行は内弁を仰せつかっていた。都合があって再三にわたり辞退したが後小松上皇の奉行である勧修寺経興を通して厳しく指示があったためやむなく用意していたところ、将軍義持が右大将九条満教を内弁に推挙したため、満教は右大将から右大臣に進み内弁となった。それまでの右大臣鷹司冬家は辞職する羽目に陥り、公行は内弁の役から放たれてしまう。.

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今出川公規

今出川 公規(いまでがわ きんのり、寛永15年1月12日(1638年2月25日) - 元禄10年10月26日(1697年12月8日))は、江戸時代前期の公卿。後光明朝(110代)から東山朝(113代)の四朝にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。父は内大臣徳大寺公信。母は長州藩主毛利秀就の養女(岩国藩主吉川広正の娘)。養父は右大臣今出川経季。室に丸亀藩主京極高和の娘。息子に右大臣今出川伊季、娘に水戸藩主徳川綱条室、常陸府中藩主松平頼明室がいる。 正保2年(1645年)に叙爵。以降清華家当主として早い速度で昇進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、万治2年(1659年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言を経て、寛文4年(1664年)に権大納言。延宝6年(1678年)には右近衛大将に補され、さらにその翌年には右馬寮御監を兼務。天和3年(1683年)からその翌年にかけては内大臣の地位にあった。元禄5年(1692年)からその翌年にかけては右大臣をつとめる。元禄7年(1694年)に従一位に進む。 きんのり きんのり Category:江戸時代の公家 Category:1638年生 Category:1697年没.

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今出川公興

今出川 公興(いまでがわ きんおき、文安2年(1445年)野島寿三郎『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年、p.80/文安3年(1446年) - 永正11年2月4日(1514年2月28日))は、室町時代の公卿。父は左大臣今出川教季。主に後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)の二帝にわたり仕え、官位は従一位左大臣まで進む。母は権中納言高倉永豊の娘。初名は公尚(きんなお)。子に今出川季孝。 文明5年(1473年)に従三位・左近衛中将となり、公卿に列する。文明6年(1474年)に公興と改名する。文明7年(1475年)に権中納言に任ぜられ、文明8年(1476年)には正三位に進む。文明12年(1480年)に権大納言となる。延徳元年(1489年)には従二位に進み、右近衛大将・内大臣に任ぜられる。延徳2年(1490年)には正二位に進む。延徳3年(1491年)に辞したが、明応4年(1495年)には従一位に進む。明応5年(1496年)に右大臣となる。明応6年(1497年)には左大臣へ昇格し、永正2年(1505年)まで同職にあった。.

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今出川兼季

今出川 兼季(いまでがわ かねすえ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。従一位、太政大臣(右大臣)。今出川、または菊亭と号す。 法華宗陣門流の門祖日陣は娘の妙菊を通して孫にあたる。今出川の号は領有していた今出川殿による。今出川殿はもともとは次兄公顕が領し、公顕も今出河を号していたが、兼季が殿邸を相続した。また、別号を菊亭と称したが、これは兼季が菊を好んで邸の庭に植えたからとも、菊亭という名の西園寺家領の殿邸を兼季が伝領したためともいわれている。 父実兼より、次兄公顕の継嗣とされ、兼季の後は公顕の子の実顕を嫡子とするように定められていた。しかし、兼季に実子実尹が生まれ(母は公顕の娘)、一方で実顕が兼季よりも先に早世し、実顕の子公冬も南朝に仕えたため、兼季が今出川殿を相続し、兼季の子孫が今出川家を称するようになった。.

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今出川経季

今出川 経季(いまでがわ つねすえ、文禄3年11月20日(1594年12月31日) - 慶安5年2月9日(1652年3月18日))は、江戸時代前期の公卿。菊亭 経季(きくてい つねすえ)ともいう。主に後陽成朝(107代)から後光明朝(110代)にわたる四朝に仕え、官位は正二位右大臣まで昇る。初名は宣季。父は権中納言今出川(菊亭)季持。母は権大納言中山親綱の娘。室は氏家行広の娘(京極高次の養女)。徳大寺公信の子を養子に迎えたのが右大臣今出川(菊亭)公規。 慶長3年(1598年)に叙爵。以降累進して侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、慶長18年(1613年)に従三位となり公卿に列する。元和5年(1619年)に権大納言就任。寛永3年(1626年)に後水尾天皇第二皇子高仁親王の誕生に伴い、その親王家勅別当に任じられる。寛永4年(1627年)に権大納言を辞すが、寛永15年(1638年)に権大納言に再任され、右近衛大将に任官している。翌年両職を辞したのち、正保元年(1644年)には武家伝奏となる。慶安2年(1649年)には後水尾上皇の院別当に転じた。慶安5年(1652年)に右大臣に任じられたが、同年中に死去。享年59。.

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今出川教季

今出川 教季(いまでがわ のりすえ)は、室町時代から戦国時代の公卿。 今出川実富の次男として生まれるが、初めは慈雲院(妙心寺内)に入れられていたようである松薗斉「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に-」(『愛知学院大学人間文化研究所紀要・人間文化』25、2010年、p.3、参考史料は『看聞日記』)。。史料によれば、教季が生まれる前の応永28年(1421年)には当時流行りの疫病によって祖父・公行や兄・公富が既に亡くなっており、そして正長元年(1428年)には父・実富までもが相次いで死去したため、家の中核である左馬寮領が他家に分け与えられたり、家芸である琵琶の楽器や楽譜が本家筋の西園寺家に接収されかけたりと、今出川家は断絶の危機を迎えていたが、同じく1428年に将軍が足利義持から足利義教に代替わりし、今出川家と関係の深い伏見宮貞成親王の子・彦仁王が後花園天皇として即位したことが影響して、永享5年(1433年)頃には、当時9歳の教季に家督の相続が許された。 やがて永享7年(1435年)、将軍・義教の後見の下で元服し、教季と名乗る。「教」の字は義教から偏諱を受けたものと考えられ、これが今出川家歴代当主の中で初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受けた事例である。 その翌年の永享8年(1436年)に叙爵。以降累進して左近衛少将・左近衛中将・美濃権守を経て文安3年(1446年)に従三位となり、公卿に列する。参議・権中納言を経て、宝徳2年(1450年)に権大納言に任じられる。寛正元年(1460年)までの10年間にわたり権大納言に在職した。その間の長禄2年(1458年)には内教坊別当と親王家勅別当を兼務している。さらに寛正4年(1463年)には権大納言に再任している。同年右近衛大将に任官。寛正6年(1465年)内大臣に任じられるも、文正元年(1466年)に辞す。応仁元年(1467年)従一位を授与される。文明12年(1480年)に右大臣。さらに文明13年(1481年)には左大臣に任じられるもその翌年に官職を辞す。.

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今出川晴季

今出川 晴季(いまでがわ はるすえ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公卿。菊亭 晴季(きくてい はるすえ)としても知られる。.

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仁孝天皇

仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇(在位:文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。.

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仁安 (日本)

仁安(にんなん、にんあん)は、日本の元号の一つ。永万の後、嘉応の前。1166年から1168年までの期間を指す。この時代の天皇は六条天皇、高倉天皇。.

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仁平

仁平(にんぺい、にんぴょう)は、日本の元号の一つ。久安の後、久寿の前。1151年から1153年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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仁和

仁和(にんな)は、日本の元号の一つ。元慶の後、寛平の前。885年から889年までの期間を指す。この時代の天皇は光孝天皇、宇多天皇。.

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

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仁治

仁治(にんじ)は、日本の元号の一つ。延応の後、寛元の前。1240年から1242年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇、後嵯峨天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時、北条経時。.

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仁明天皇

仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.

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仲恭天皇

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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延久

延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.

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延享

延享(えんきょう)は日本の元号の一つ。寛保の後、寛延の前。1744年から1748年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇、桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。.

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延徳

延徳(えんとく)は、日本の元号の一つ。長享の後、明応の前。1489年から1491年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚、足利義材。.

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延喜

延喜(えんぎ)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。 この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたが、のちにこれを延喜の治と呼ぶようになり、「天暦の治」とともに理想的な治世として賞賛されるようになった。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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延長 (元号)

延長(えんちょう)は、日本の元号の一つ。延喜の後、承平の前。923年から931年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇、朱雀天皇。.

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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延文

延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年から1360年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。.

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延慶 (日本)

延慶(えんきょう、えんぎょう、えんけい)は、日本の元号の一つ。徳治の後、応長の前。1308年から1310年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、守邦親王、執権は北条師時。.

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建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

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建徳

建徳(けんとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。正平の後、文中の前。1370年から1372年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後光厳天皇・後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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建保

建保(けんぽう)は、日本の元号の一つ。建暦の後、承久の前。1213年から1218年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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建長

建長(けんちょう)は、日本の元号の一つ。宝治の後、康元の前。1249年から1256年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、宗尊親王、執権は北条時頼。.

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建暦

建暦(けんりゃく)は、日本の元号の一つ。承元の後、建保の前。1211年から1214年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府征夷大将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建永

建永(けんえい)は、日本の元号の一つ。元久の後、承元の前。1206年から1207年の期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府征夷大将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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建治

建治(けんじ)は、日本の元号の一つ。文永の後、弘安の前。1275年から1277年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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弘仁

弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.

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弘化

弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.

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弘和

弘和(こうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。天授の後、元中の前。1381年から1384年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇・後亀山天皇、北朝方が後円融天皇・後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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弘長

弘長(こうちょう)は、日本の元号の一つ。文応の後、文永の前。1261年から1263年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.

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弘治 (日本)

弘治(こうじ)は、日本の元号の一つ。天文の後、永禄の前。1555年から1558年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。.

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弘文天皇

弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳大寺実定

徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)として知られる。.

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徳大寺実祖

徳大寺 実祖(とくだいじ さねみ)は、江戸時代中期から後期の公卿。 西園寺公晃の次男(三男とも)として京都に生まれた。宝暦7年(1757年)に叙爵。宝暦10年(1760年)に徳大寺家に養子に入った。その後、侍従・右近衛権少将・左近衛権中将を経て、安永2年(1773年)に権中納言、安永3年(1774年)に後桜町上皇の院御厩別当となる。安永5年(1776年)には踏歌節会外弁をつとめる。安永8年(1779年)に権大納言就任。天明6年(1786年)に大歌所別当となる。寛政6年(1794年)に光格天皇の中宮欣子内親王の中宮大夫に就任。寛政9年(1797年)には右近衛大将・右馬寮御監に転じた。寛政10年(1798年)内大臣に任ぜられるも辞す。寛政12年(1800年)に従一位を授与された。文化12年(1815年)右大臣に任じられるも辞す。 さねみ さねみ Category:江戸時代の公家 Category:1753年生 Category:1819年没.

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徳大寺公孝

徳大寺 公孝(とくだいじ きんたか)は鎌倉時代の公卿。徳大寺太政大臣と号する。従一位太政大臣。母は太政大臣大炊御門頼実の息男で正二位行中納言に至った藤原頼平の女である。.

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徳大寺公俊

徳大寺 公俊(とくだいじ きんとし、応安4年/建徳2年1月7日(1371年1月24日) - 正長元年6月19日(1428年7月31日))は室町時代の公卿。父は徳大寺実時。号は後野宮。法名は常俊。.

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徳大寺公信

徳大寺 公信(とくだいじ きんのぶ、慶長11年7月15日(1606年8月18日) - 貞享元年7月21日(1684年8月31日))は、江戸時代初期から前期の公卿。後水尾天皇(108代)から霊元天皇(112代)に至るまでの五帝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。父は権中納言徳大寺実久。母は右大臣織田信長の娘(月明院)。室は長州藩主毛利秀就の養女(岩国藩主吉川広正の娘)。子に内大臣徳大寺実維、右大臣今出川公規(今出川家養子)がいる。 慶長17年(1612年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従や左近衛中将を経て、寛永3年(1616年)には従三位となり公卿に列した。その後も権中納言や踏歌節会外弁を経て、寛永16年(1639年)には正二位権大納言となり、寛永17年(1640年)には神宮伝奏となる。明暦元年(1655年)に内大臣に任じられるも翌年に辞す。万治3年(1660年)には右大臣となり、その翌年に従一位を授与された。寛文8年(1668年)には左大臣へと昇進したが、翌年に辞職した。延宝3年(1675年)、70歳の時に出家して朝廷への出仕をやめた。貞享元年(1684年)79歳の長命で薨去した(天和元年(1681年)薨去説もある).

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徳大寺公純

徳大寺 公純(とくだいじ きんいと)は、幕末期の公卿(権大納言後に内大臣・右大臣)。従一位。鷹司政通の子。母は徳川治紀の娘・鄰姫。徳大寺実堅の養子。子には徳大寺実則(宮内大臣)、西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)、末弘威麿(財団法人立命館理事)、住友友純(15代住友吉左衛門)、中院通規、福子(加藤泰秋室)、永(相良頼基室)、中子(相良頼紹室)、照子(阿部正功室)らがいる。なお、公純はなぜか生前には正式な婚姻を行わなかったために、これらの子供達はいずれも庶子扱いとされている。 幼名は祐君。1850年、権大納言となる。1857年に議奏となった。 1858年、通商条約勅許問題が起こると、条約勅許に反対したため、井伊直弼による安政の大獄で「悪謀企策の者」として逮捕され、謹慎50日間を命じられた。しかし1ヶ月間で罪を許されている。 その後は公武合体運動を推進して二条斉敬らと共に活躍したが、和宮の徳川家茂降嫁に関しては反対の立場を取ったため、幕府から圧力を受けて失脚している。その後、復帰して執政となった。こうした政治的変動の中で公純も命を狙われており、1863年には家臣・滋賀右馬允が公武合体に反対する浪士達に殺害されている。 明治以後も攘夷派公家としての矜持を保ち、京都に留まった。たとえ身内の者であっても洋装の客に対しては決して会おうとはしなかった。ただし、それはあくまでも自分自身の信念の問題であると考えていたらしく、息子・西園寺公望のフランス留学実現に陰で奔走したのは公純であったと言われている。 1883年、63歳で薨去した。 きんいと Category:鷹司家 Category:幕末の公家 Category:日本の華族 Category:山城国の人物 Category:1821年生 Category:1883年没.

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徳大寺公継

徳大寺 公継(とくだいじ きんつぐ、安元元年(1175年) - 嘉禄3年1月30日(1227年2月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。後鳥羽天皇(82代)・土御門天皇(83代)・順徳天皇(84代)・仲恭天皇(85代)・後堀河天皇(86代)の五朝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。初名は公嗣。父は左大臣徳大寺実定。母は上西門院女房備後(『尊卑分脈』公継条)。室は三条実房の娘。子に太政大臣徳大寺実基、徳大寺実嗣がいる。野宮左大臣と号す。日記に『宮槐記』がある。 寿永2年(1183年)12月に叙爵して以降累進して、侍従・備前介・右近衛少将・右近衛中将などをへて、建久元年(1190年)参議となり、公卿に列する。公継の兄二人は早世し、自身も病気がちとなった父の実定が自身の左大臣辞任と引き換えに残された公継の参議任官を後白河法皇や九条兼実らに乞うて認められたものという。建久6年(1195年)後鳥羽天皇の中宮九条任子の中宮大夫となる。伊予権守・権中納言・左衛門督・検別当などをへて、建仁2年(1202年)には皇太子守成親王(のちの順徳天皇)の春宮権大夫となる。同年、正式な中納言となる。元久元年(1204年)に権大納言、さらに建永元年(1206年)大納言となった。さらに正式な春宮大夫となる。承元元年(1207年)右近衛大将に任じられる。承元3年(1209年)、正二位内大臣となる。承元4年(1210年)に右近衛大将を辞し、建暦元年(1211年)右大臣となり、建保3年(1215年)に辞職した。承久3年(1221年)に更任、貞応3年(1224年)、一上となし、ついで左大臣に任じた。嘉禄元年(1225年)、従一位に叙され、同3年(1227年)、薨じた。 『古今著聞集』の情報源として、徳大寺公継のサロンが大きく関わっていたと言われている。.

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徳大寺公能

徳大寺 公能(とくだいじ きんよし)は平安時代後期の公卿。右大臣正二位右大将。大炊御門右大臣と号す。父は徳大寺実能、母は藤原顕隆の女。.

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徳大寺公有

徳大寺 公有(とくだいじ きんあり、応永29年2月5日(1422年2月26日) - 文明18年1月26日(1486年3月2日))は、室町時代の公卿。称光天皇(101代)・後花園天皇(102代)・後土御門天皇(103代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。号は後野宮。父は権大納言徳大寺実盛。母は右兵衛督持明院基親の娘。子に太政大臣徳大寺実淳、空覚(興福寺別当)。娘に右大臣三条公敦室、足利義尚室、細川教春室、権中納言烏丸益光室などがいる。 応永31年(1424年)に叙爵。左近衛少将・讃岐権介・左近衛中将・相模権介を経て、永享9年(1437年)に参議となり、公卿に列する。その後、近江権介・権中納言を経て、文安3年(1446年)には権大納言に就任した。文安5年(1448年)に造営上卿となり、享徳3年(1454年)には左近衛大将・左馬寮御監に任じられる。寛正元年(1460年)内大臣拝命、同年左近衛大将を辞し、寛正2年(1461年)には右大臣に任じられた。寛正5年(1464年)に右大臣を辞す。文正元年(1466年)従一位に進み、文明4年(1472年)51歳で出家して引退した。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

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徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。 徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男流産した兄がいたため次男とみなされることもある。だが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっていたためどちらも将軍後継者としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。.

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徳川家重

増上寺の墓所にある家重の石塔 徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。.

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徳川家治

徳川 家治(とくがわ いえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) - 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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後堀河天皇

後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。.

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後奈良天皇

後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後亀山天皇

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり)。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後円融天皇

後円融天皇(ごえんゆうてんのう、延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日))は、南北朝時代の北朝第5代天皇(在位:応安4年3月23日(1371年4月9日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日))。諱は緒仁(おひと)という。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後光明天皇

後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は、江戸時代前期の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮(すがのみや)、諱を紹仁(つぐひと)という。儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

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後西天皇

後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)は、江戸時代の第111代天皇(在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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後柏原天皇

後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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後桜町天皇

後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年4月28日(1770年5月23日))。江戸時代、また今上天皇までで最後の女性天皇。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。という。.

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後桃園天皇

後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。 なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

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後朱雀天皇

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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保安 (元号)

保安(ほうあん、ほあん)は、日本の元号の一つ。元永の後、天治の前。1120年から1123年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇、崇徳天皇。.

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保延

保延(ほうえん)は、日本の元号の一つ。長承の後、永治の前。1135年から1141年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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応安

応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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応保

応保(おうほう)は、日本の元号の一つ。永暦の後、長寛の前。1161年から1162年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.

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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

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北畠顕信

北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝で従一位・右大臣に任ぜられたともされる。.

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北畠顕能

北畠 顕能(きたばたけ あきよし)は、南北朝時代の公卿・武将。准三后北畠親房の三男で、顕家や顕信の弟とするのが通説だが、一説には中院貞平の子で、親房の養子になったともいう。建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した。伊勢北畠氏の祖。.

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園太暦

『園太暦』(えんたいりゃく)は、“中園太政大臣”と称された南北朝時代の公卿・洞院公賢の日記。『中園相国記』とも。南北朝時代における基本史料。 著者の洞院公賢は、太政大臣という高官に就き、また有職故実に通じていたために、天皇や公卿からの相談も多く、この時期における朝廷の動きについて詳細に記している。記載時期は、延慶4年(1311年)2月から延文5年(1360年)3月にわたり、123巻から成る。大半は散逸したものの、自筆原本も一部現存している(重要文化財)。また、甘露寺親長や三条西実隆(親長の甥)による抄本も残されている。 公賢没後、子実夏より三代を経て公数に至り家門断絶となったが、公数在世中に家の記録を順次売却して家計を維持していた。『園太暦』も文明14年(1482年)元月に中院通秀へ1000余疋をもって譲渡された。その通秀の日記『十輪院入道内府記』によると、当時の現存状況は次の通りであった。.

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僕射

僕射(ぼくや)は、中国の官名。戦国時代には各政府機関のほとんどが設置した次官であった。漢以後、僕射という名称は尚書令の次官である尚書僕射にしか使われなくなる。 隋・唐・五代・宋・金・遼では、皇帝が尚書令に就任したため、尚書僕射が尚書省の実質的長官になる。そしてこの時代、尚書僕射は宰相とほぼ同意に使われた。 日本でも左大臣右大臣の唐名として用いられた。大坂冬の陣直前の方広寺鐘銘事件では幕府側の林羅山が「『右僕射源朝臣』は『源朝臣(徳川家康)を射る』という意味だ」と因縁を付けている。 Category:中国の官名.

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嘉元

嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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嘉禎

嘉禎(かてい)は、日本の元号の一つ。文暦の後、暦仁の前。1235年から1237年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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嘉禄

嘉禄(かろく)は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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嘉慶 (日本)

嘉慶(かけい、かきょう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。至徳の後、康応の前。1387年から1388年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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和銅

和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。.

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唐名

唐名(とうめい、とうみょう、からな)は、日本の律令制下の官職名・部署名を、同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたものである。.

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冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内閣

内閣(ないかく)は、イギリスや日本などの議院内閣制の国家において、国の行政権を担当する合議体の執行機関である。なお、「内閣」は "Cabinet" の訳にあてられるが、行政権を担わない場合には大統領顧問団と訳される場合もある(#概説を参照)。.

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准大臣

准大臣(じゅんだいじん)とは、日本の朝廷において、大臣に准ずる待遇のこと。またその称号、およびその称号を与えられた者。唐名は儀同三司(ぎどうさんし)。 准大臣という官職は存在しない。三位以上の公卿に大臣の下・大納言の上の席次を与えて朝議に参加させる待遇を意味し、本来は「大臣に准ず」と文として読むのが正しかった。これが後代になると准大臣宣下が昇進過程に加えられ、更に時代が下ると実質上の極官として扱われるようになることから、制度上は待遇に過ぎない准大臣が実際には官職と同様に扱われるようになっていった。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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六条天皇

六条天皇(ろくじょうてんのう、長寛2年旧11月14日(1164年12月28日) - 安元2年旧7月17日(1176年8月23日))は日本の第79代天皇(在位:永万元年旧6月25日(1165年8月3日) - 仁安3年旧2月19日(1168年4月9日))。諱を順仁(のぶひと)という。.

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元久

元久(げんきゅう)は、日本の元号の一つ。建仁の後、建永の前。1204年から1206年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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元亨

元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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元仁

元仁(げんにん)は、日本の元号の一つ。貞応の後、嘉禄の前。1224年の期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条泰時。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元徳

元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.

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元応

元応(げんおう)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1320年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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元正天皇

元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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元文

元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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元慶

元慶(がんぎょう、げんけい)は、日本の元号の一つ。貞観の後、仁和の前。877年から885年までの期間を指す。この時代の天皇は陽成天皇、光孝天皇。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光孝天皇

光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.

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光仁天皇

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.

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光格天皇

光格天皇御胞塚、光格天皇の胞衣を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内 光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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勧修寺尹豊

勧修寺 尹豊(かじゅうじ ただとよ、文亀3年(1503年) - 文禄3年2月1日(1594年3月22日))は、安土桃山時代の公家(公卿)。 堂上家である勧修寺家(名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)の第12代当主。.

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国史大系

国史大系(こくしたいけい)は、日本史を研究する上での基礎史料たる古典籍を集成し、校訂を加えて刊行した叢書である。その編纂は3次に亙って行われた。.

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四条天皇

四条天皇(しじょうてんのう)は、鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。 後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮・竴子(藻璧門院、竴は「立尊」)。.

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石上宅嗣

石上 宅嗣(いそのかみ の やかつぐ、天平元年(729年) - 天応元年6月24日(781年7月23日))は、奈良時代後期の公卿・文人。姓は石上朝臣、のち物部朝臣、石上大朝臣。左大臣・石上麻呂の孫。中納言・石上乙麻呂の子。官位は正三位・大納言、贈正二位。.

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石上麻呂

石上 麻呂(いそのかみ の まろ、舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月22日))は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。麻呂は麿とも書く。氏姓は物部連、のち物部朝臣、石上朝臣。大華上・物部宇麻乃の子。官位は正二位・左大臣、贈従一位。 壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)の側につき、皇子の自殺まで従った。のちに赦されて遣新羅大使となり、その後法官の仕事につき、筑紫総領になった。701年に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、右大臣、左大臣に任じられた。717年で死去するまでの数年は太政官の最高位者であった。 なお、『竹取物語』においてかぐや姫に求婚する5人の貴族の一人である「石上まろたり」のモデルであるとされる。.

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神王

王(みわおう、天平9年(737年) - 延暦25年4月24日(806年5月15日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。二品・志貴皇子の孫。榎井王の子。官位は従二位・右大臣、贈正二位。吉野大臣と号した。.

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称制

制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と鸕野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。日本の場合、摂政と似ているが、摂政の場合は天皇が同時に存在しているが、称制の場合は天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである。.

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称光天皇

光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。.

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紀船守

紀 船守(き の ふなもり、天平3年(731年) - 延暦11年4月2日(792年4月27日))は、奈良時代の公卿。従七位下・紀猿取の子。官位は正三位・大納言、贈正二位・右大臣。.

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続史愚抄

続史愚抄(ぞくしぐしょう)は、江戸時代後期に権大納言柳原紀光によって記された編年体歴史書。全81冊。亀山天皇が譲位を受けた正元元年(1259年)から、後桃園天皇が崩御した安永8年(1779年)までの33代521年間を記す。体裁としては、六国史及び『百錬抄』を継承する形となっているが、構想としてはそこから遡って六国史最後の『日本三代実録』の巻末にあたる仁和3年(887年)とつなげる意図を有していたことは紀光自身の自序に記され、また朱雀天皇・三条天皇の時代を記した草稿も現存している。 父・柳原光綱は六国史以後、正史が完成しなかったことを嘆いてその続編を編纂することを意図していたが果たせずに死去、紀光はその遺志を継ぐ形で安永6年(1777年)から執筆を始めた。ところが、天明8年(1789年)になって突如勅勘解官処分を受け、その後許されたものの以後は出仕せずに歴史書の編纂に務めた。寛政5年(1793年)には中清書本が成立、寛政10年(1798年)に清書本81冊が完成した。その後、清書本の校訂・浄書最中の寛政12年(1800年)に紀光が急死したために完成には至らなかった。 漢文の編年体形式を採用し、天皇1代ごとに在位期間中にあった出来事を年月日順に掲載している。天皇の動静や朝儀公事、摂関大臣の人事や社寺・災害など公家社会を中心として幅広い分野に関して記されている。記載内容は簡潔であるが、依拠史料を注記しており、必要に応じて按文とその考拠を明らかにするなど、その史料としての評価は高い。また、南北朝時代については、柳原家が仕えていた北朝正統論に基づいて記されている。 紀光自身の自筆清書本は火災によって失われたものの、その転写本が宮内庁書陵部・内閣文庫に伝えられている他、焼失前に『国史大系』の底本としても用いられている。また、紀光自筆のものとしては中清書本が全部(正親町天皇以前29冊は岩瀬文庫、後陽成天皇以後19冊は宮内庁書陵部)に残されている他、岩瀬文庫には東山天皇までの草稿本28冊と後花園天皇までの未完の最終浄書本46冊が現存している(これは柳原家の旧蔵文書が同文庫に保管されていることによる)。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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相国

相国(しょうこく)は漢代に於ける廷臣の最高職。現代では元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に類似する。この官職は、戦国時代以前から「相邦」と呼称されていたが(例:秦の呂不韋)、劉邦(高祖)が帝位に即いたことで、避諱に触れることとなるので、「邦」と同じ意味を持つ「国」の字が用いられることとなった。 研究者によっては、鎌田重雄のように春秋戦国時代に相邦の権威が高まり、君主権を干犯しかねない状況が相次いだので、副宰相というべき「丞相」が設けられ、これが宰相を指すことになっていったという説もあるが、詳細は不明である。 相国として初めてこの職に就いたのが高祖の功臣の筆頭とされた蕭何であり、次いで就任したのが、蕭何に次ぐ功臣とされた曹参であったことから、相国職はこの二人に匹敵するだけの功績のあるものしか就任出来ない、否この二人だけのものである、とする考えが、ある種の不文律として漢代を通じて存在することとなった。そのため、呂雉の甥で後事を託され謀反を起こして殺害された呂産を例外とすれば、後漢の末に董卓が相国に就任するまでは、ある種の永久欠番のようなものとなっていた。つまり、相国の名称がこの二人の代名詞となっていたのである。『史記』に於いて、蕭何と曹参それぞれの伝記が『蕭相国世家』、『曹相国世家』と呼称されているのはこのことによる。 この職は日本にも律令制やそれに伴う文物とともに輸入され、日本の律令制度下に於ける太政官の最高職である太政大臣の唐名となった。平清盛が「入道相国」と呼ばれたり、足利義満が京都御所の近くに立てた寺の名前が「相国寺」であるのも、歴代の徳川将軍の位牌に「正一位大相国○○院殿」と記されているのも、彼らが生前に太政大臣に就任、若しくは死後に朝廷からこの官位を贈られたからである。 しようこく.

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白雉

白雉(はくち)は、日本の元号のひとつで大化の後。西暦で650年から654年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

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花山院定好

花山院 定好(かざんいん さだよし、慶長4年10月11日(1599年11月28日) - 延宝元年7月4日(1673年8月15日))は江戸時代前期の公卿。藤原北家師実流の花山院家(清華家)の21代当主。おもに後水尾天皇(108代)から後西天皇(111代)の4代に仕えた。最終官位は従一位左大臣。 父は左大臣花山院定凞。母は朝倉義景の娘。兄に猪熊事件で蝦夷地に配流された花山院忠長がいる。正室は関白鷹司信尚の姫。子に花山院忠広、花山院定教、花山院定誠がいる。 慶長16年(1611年)に元服し侍従に叙爵。以降累進し、寛永8年(1631年)権大納言に任じられ、寛永20年(1643年)まで務めた。慶安2年(1649年)には内大臣となったがすぐに辞職。承応2年(1653年)から翌年にかけて右大臣、万治3年(1660年)に従一位に上り、寛文元年(1661年)から寛文3年(1663年)にわたって左大臣をつとめた。延宝元年(1673年)に薨去。享年73。.

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花山院定熙

花山院定煕(かざんいん さだひろ)は、日本の安土桃山時代から江戸時代にかけての公卿。旧名家雅(いえまさ)。改名は慶長7年12月28日(1603年2月8日)。.

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花山院定雅

花山院 定雅(かざんいん さだまさ)は鎌倉時代の公卿。右大臣・正二位・左近衛大将。花山院忠経の三男。粟田口入道右大臣、または後花山院入道前右大臣と号する。.

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花山院家厚

花山院 家厚(かざんいん いえあつ、寛政元年3月28日(1789年4月23日) - 慶応2年8月20日(1866年9月28日))は、江戸時代後期の公卿。光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。父は右大臣花山院愛徳。母は内匠頭蜂須賀重隆の娘。子に右近衛少将花山院家威、侍従花山院家正、左近衛権中将花山院家理、梅(飛鳥井雅典室)などがいる。 寛政4年(1792年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・右近衛権少将を経て、寛政10年(1798年)に従三位右近衛権中将となり、公卿に列する。その後も踏歌節会外弁や権中納言を経て、文化6年(1809年)恵仁親王(のちの仁孝天皇)の立太子に伴い、その春宮権大夫となる。文化11年(1814年)権大納言に任じられる。文化14年(1817年)、皇太子恵仁親王の即位に伴い、春宮権大夫を辞職の上、譲位して院政を開始した光格上皇の院執権に転じた。天保5年(1834年)右近衛大将・右馬寮御監に任じられる。弘化4年(1847年)には内大臣に任じられる。しかし同年任職を辞した。嘉永元年(1848年)には従一位を授与され、安政6年(1859年)には右大臣に任じられ、同年踏歌節会内弁を務めた。文久2年(1862年)に右大臣を辞した。 絵画にも造詣が深く、狩野派の絵画をよく描いたという。.

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花山院家定

花山院 家定(かざんいん いえさだ)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位右大臣。金光院入道右大臣と号す。父は権大納言花山院家教。子に花山院良定、花山院経定、花山院長定等がいる。.

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花山院家輔

花山院 家輔(かざんいん いえすけ)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。.

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花山院常雅

花山院 常雅(かざんいん ときまさ、元禄13年2月3日(1700年3月23日) - 明和8年2月16日(1771年3月31日))は江戸時代中期の公卿。清華家の花山院家当主。.

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花山院忠経

花山院 忠経(かざんいん ただつね)は平安時代末期から鎌倉時代の公卿。右大臣・正二位・右近衛大将。花山院右大臣と号する。左大臣藤原兼雅の長男。.

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花山院通定

花山院 通定(かざんいん みちさだ、生年不詳-応永7年4月14日(1400年5月8日 ))は、南北朝時代・室町時代の公卿。光明天皇(北朝2代)から後小松天皇(100代)にわたって北朝のち統一朝廷に仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。父は権大納言花山院兼定。母は権大納言九条光経の娘。 興国7年/貞治2年(1346年)に叙爵して以降累進し、侍従・左近衛中将を経て、建徳元年/応安3年(1370年)従三位となり、公卿に列する。その後も伊予介・権中納言を経て、弘和元年/永徳元年(1381年)権大納言に任じられる。元中7年/明徳元年(1390年)右近衛大将を兼務。応永元年(1394年)内大臣に任じられる。応永2年(1395年)右近衛大将を辞す。右大臣に任じられ、従一位に進む。後に出家している。.

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花山院通雅

花山院 通雅(かざんいん みちまさ)は、鎌倉時代中期の公卿。右大臣花山院定雅の長男。後花山院太政大臣と号す。.

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花山院政長

花山院 政長(かざんいん まさなが)は、日本の室町時代から戦国時代にかけての公卿。「政」の字は室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものである。.

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花山院愛徳

花山院 愛徳(かざんいん よしのり)は、江戸時代中期から後期の公卿。能書家でもあった。 権大納言中山栄親の次男として生まれる。宝暦9年(1759年)に叙爵。明和6年(1769年)に中山家から花山院家に養子に入った。その後、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、安永3年(1774年)に従三位権中納言となり、公卿に列する。同年、踏歌節会外弁。天明5年(1785年)には権大納言に任命される。寛政11年(1799年)には右近衛大将・右馬寮御監となり、文化11年(1814年)に内大臣に任命された。翌年に内大臣を辞すが、従一位を授与される。文政3年(1820年)右大臣に任じられるも同年に辞職した。 よしのり Category:花山院流中山家 Category:江戸時代の公家 Category:日本の能書家 Category:1755年生 Category:1829年没.

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花園天皇

花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。 伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の二つの皇統のうち持明院統に属する。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

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菅原道真

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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養老

養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.

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養老律令

養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。.

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西園寺実俊

西園寺 実俊(さいおんじ さねとし、建武2年(1335年) - 元中6年/康応元年7月6日(1389年7月28日))は、南北朝時代の公卿。西園寺公宗の長男、母は典侍日野名子(日野資名の娘、『竹向きが記』の作者)。初名は実名(さねかた)。従一位右大臣。 父西園寺公宗は建武2年(1335年)、北条氏と謀った後醍醐天皇の暗殺計画に失敗して同年8月2日に処刑されており、実俊はその後に生まれ、探索の眼を逃れて養育された。このとき、西園寺家の家督は暗殺計画を密告した叔父公重に渡っている。実俊は北朝のもとで建武4年(1337年)従五位下となり、暦応3年(1340年)、母名子とともに西園寺家北山第に入った。康永3年(1344年)に従三位、貞和5年(1349年)正三位権中納言となる。叔父公重が文和2年(1353年)南朝に仕えたため、実俊が家督を相続し、同年権大納言となった。貞治3年(1364年)内大臣、貞治5年(1366年)右大臣。永和元年(1375年)従一位。康応元年(1389年)6月8日出家、同年7月6日に55歳で薨去した。.

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西園寺実益

西園寺実益(さいおんじ さねます、永禄3年(1560年) - 寛永9年3月12日(1632年5月1日))は、安土桃山時代から江戸時代前期の公卿。正親町天皇(106代)・後陽成天皇(107代)・後水尾天皇(108代)の三朝にわたり朝廷に奉仕し、官位は従一位右大臣まで昇った。父は左大臣西園寺公朝。母は内大臣万里小路秀房の娘。妻は久我晴通の娘。子に内大臣西園寺公益がいる。 永禄4年(1561年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、元亀3年(1572年)に従三位となり公卿に列する。その後も権中納言・権大納言を経て、天正8年(1580年)に右近衛大将に就任した。以降慶長8年(1603年)までの長きにわたり右近衛大将に在職した。慶長4年(1599年)には神宮伝奏を兼務する。慶長16年(1611年)に再度右近衛大将となり、慶長19年(1614年)にはそれを辞して新たに内大臣に転じた。元和3年(1617年)に従一位へと進み、元和4年(1618年)に内大臣を辞職。元和6年(1620年)には右大臣となるも翌年に辞職している。.

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西園寺実遠

西園寺 実遠(さいおんじ さねとお、永享6年(1434年)‐明応4年11月25日(1495年12月11日))は、室町時代の公卿、歌人。後花園天皇(102代)と後土御門天皇(103代)の二帝に仕え、従一位左大臣まで昇った。父は太政大臣西園寺公名。子に右大臣西園寺公藤がいる。 嘉吉2年(1442年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、左近衛中将・讃岐介をへて文安5年(1448年)には従三位となり公卿に列する。その後も権中納言・権大納言・右近衛大将などを経て、文正元年(1466年)に内大臣に任じられた。応仁元年(1467年)に従一位となり、内大臣を辞職。文明13年(1481年)に右大臣に任じられ、さらに文明15年(1483年)には左大臣に昇り、長享元年(1487年)まで務めた。 和歌や書をよくし、和歌集「新莵玖波知集」を著した。.

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西園寺実氏

西園寺 実氏(さいおんじ さねうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。従一位太政大臣。常盤井相國と号す。父は准三宮太政大臣西園寺公経。旧字で實氏。.

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西園寺実永

西園寺 実永(さいおんじ さねなが、天授3年/永和3年(1377年)‐永享3年10月9日(1431年11月13日))は、室町時代の公卿。後小松天皇(100代)・称光天皇(101代)の二代にわたり仕え、従一位右大臣まで昇った。父は権大納言西園寺公永。子に太政大臣西園寺公名がいる。初名は実村といった。 明徳4年(1393年)に参議となり、公卿に列する。応永2年(1395年)には権中納言となる。応永6年(1399年)には権大納言。応永22年(1415年)には右近衛大将となる。応永26年(1419年)には内大臣に任命された。翌年、右大臣に転任するも辞職する。応永28年(1421年)に従一位を授与された。 さねなか Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1377年生 Category:1431年没.

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西園寺実晴

西園寺実晴(さいおんじさねはる、慶長6年(1601年) - 寛文13年1月11日(1673年2月27日))は江戸時代の公卿。内大臣西園寺公益の子。礼学・絵画を好み、1667年左大臣まで上った。.

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西園寺公基

西園寺 公基(さいおんじ きんもと)は、鎌倉時代の公卿。右大臣正二位。京極、または万里小路と号す。父は太政大臣西園寺実氏。弟に太政大臣西園寺公相がいる。姉西園寺公子は後深草天皇の中宮。.

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西園寺公相

西園寺 公相(さいおんじ きんすけ)は、鎌倉時代の公卿。従一位太政大臣。冷泉相国と号す。太政大臣西園寺実氏の二男。西園寺家では初めて左大臣に任ぜられた。.

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西園寺公衡

西園寺 公衡(さいおんじ きんひら)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。竹林院左大臣、または竹中と号する。父は太政大臣西園寺実兼。母は内大臣中院通成の娘顕子。.

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西園寺公顕

西園寺 公顕(さいおんじ きんあき)は、鎌倉時代後期の公卿。今出川右府と号す。 主に伏見天皇(92代)から花園天皇(95代)までの四帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。父は西園寺実兼。母は花山院師継の娘。兄に西園寺公衡、弟に今出川兼季がいる。娘・西園寺婉子は二条道平の正室。西園寺家領今出河殿を伝領したため、今出河と号した。.

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西園寺公藤

西園寺 公藤(さいおんじ きんふじ、康正元年(1455年)‐永正9年6月19日(1512年7月31日))は、室町時代の公卿。後土御門天皇(103代)後柏原天皇(104代)の二帝に仕え、官位は正二位右大臣まで昇った。父は左大臣西園寺実遠。子に左大臣西園寺実宣がいる。 文明14年(1482年)に従三位となり、公卿に列する。文明17年(1485年)に権中納言。延徳元年(1489年)に権大納言となる。明応6年(1497年)右近衛大将。文亀元年(1501年)内大臣、左近衛大将となる。文亀4年に左近衛大将を辞職。永正3年(1506年)には右大臣となるも翌年辞職。永正9年(1512年)に中風で薨去。享年58。.

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西園寺公重

西園寺 公重(さいおんじ きんしげ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。内大臣西園寺実衡の次男にして、権大納言西園寺公宗の異母弟。子に実長・女子(長慶天皇中宮)などがいる。竹林院・北山と号する。.

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西園寺公朝

西園寺公朝(さいおんじ きんとも、永正12年(1515年)‐天正18年6月22日(1590年7月23日))は、室町時代から安土桃山時代の公卿。後奈良天皇(105代)・正親町天皇(106代)の二帝にわたり仕えた。最終官位は従一位左大臣。父は左大臣西園寺実宣。母は内大臣正親町三条実望の娘。妻に内大臣万里小路秀房の娘。子に右大臣西園寺実益、左大臣花山院定熙がいる。 享禄2年(1529年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで累進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、天文5年(1536年)には従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言・権大納言・右近衛大将などを経て、天文22年(1553年)に内大臣および左近衛大将に任じられる。天文23年(1554年)には右大臣となる。弘治3年(1557年)には左大臣に転じる。以降戦乱期に20年近くにわたり左大臣に在職する。永禄元年(1558年)に左近衛大将を辞す。翌年に従二位へ進み、踏歌節会内弁をつとめた。天正4年(1576年)に左大臣辞職。.

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西園寺賞季

西園寺賞季(さいおんじ よしすえ、寛保3年8月12日(1743年9月29日) - 寛政11年12月22日(1800年1月16日))は、江戸時代中期の公卿。桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の四帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。父に内大臣西園寺公晃。母は内大臣今出川伊季の娘。妻は広幡長忠の娘(近衛内前の猶子)。実子に従五位上西園寺公兼、左近衛少将西園寺公氏、娘(権中納言野宮定業室)、宝珠院(長州藩主毛利匡芳室)がいる。養子に左近衛中将西園寺実韶(一条輝良の子)、権中納言西園寺寛季(二条治孝の子)がいる。 寛延元年(1748年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで累進して、宝暦6年(1756年)に従三位に達して公卿に列した。その後、権中納言・権大納言を経て、明和元年(1764年)には大歌所別当や踏歌節会外弁に補された。明和5年(1768年)には皇太子英仁親王(のちの後桃園天皇)の春宮大夫となるも、明和7年(1770年)の親王の践祚とともに辞す。安永4年(1775年)内大臣に任じられた。寛政2年(1790年)従一位に叙される。寛政8年(1796年)に右大臣に任じられるも辞した。 男子には実子の公兼、公氏と養子の実韶の三人がいたが、相次いで先立たれている。西園寺家の相続人がいなくなったために、左大臣二条治孝の三男の寛季を養子に迎えて西園寺家を相続させた。.

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西園寺致季

西園寺 致季(さいおんじ むねすえ、天和3年11月9日(1683年12月26日) - 宝暦6年7月4日(1756年7月30日))は、江戸時代中期の公卿。長寿で、霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)の四朝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。 父は権中納言西園寺実輔。母は家女房。子に内大臣西園寺公晃、権大納言飛鳥井雅香、権大納言小倉宣季、権大納言今出川誠季、権大納言橋本実理、参議大宮貞季。 貞享2年(1685年)に叙爵してから清華家として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、元禄9年(1696年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言・権大納言・宝永3年(1706年)から宝永5年(1708年)にわたってと正徳2年(1712年)から正徳3年(1713年)にわたっての二度にわたり神宮伝奏をつとめた。この間踏歌節会外弁をつとめる。享保9年(1724年)右近衛大将となる。享保13年(1728年)には内大臣。翌年従一位を授与された。元文3年(1738年)には右大臣。延享2年(1745年)には左大臣となったが同年中に辞職している。.

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観応

観応(かんのう、かんおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇・後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。.

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訓読み

訓読み(くんよみ)とは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもの。一般にひらがなで表記される。字訓(じくん)または単に訓(くん)ともいう。漢字の中国語における発音に由来する「音読み」と対照される。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

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豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

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貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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貞元 (日本)

貞元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。天延の後、天元の前。976年から978年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

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貞観 (日本)

貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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贈位

贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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鷹司基忠

鷹司 基忠(たかつかさ もとただ)は鎌倉時代初期から後期にかけての公卿、歌人。従一位、関白、太政大臣。号に円光院関白、円光院入道関白。.

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鷹司師平

鷹司師平(たかつかさ もろひら)は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿。.

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鷹司忠冬

鷹司 忠冬(たかつかさ ただふゆ、永正6年(1509年) - 天文15年4月12日(1546年5月11日))は、戦国時代の公家。従一位関白。父は鷹司兼輔。母は正親町三条公治の娘。 なお、忠冬には嗣子が無かったため鷹司家は断絶したが、天正7年(1579年)に二条晴良の子信房が名跡を継いで再興した。 Category:摂関 Category:室町・安土桃山時代の公家 たたふゆ たたふゆ Category:1509年生 Category:1546年没.

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鷹司信尚

鷹司 信尚(たかつかさ のぶひさ、天正18年4月14日(1590年5月17日) - 元和7年11月19日(1621年12月31日))は、江戸時代初期の公卿。父は鷹司信房。母は継室である佐々輝子。兄弟姉妹に鷹司孝子、松平信平、子は鷹司教平、娘(花山院定好室)。後陽成天皇第三皇女の清子内親王は室。従一位。号は景皓院。.

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鷹司冬家

鷹司 冬家(たかつかさ ふゆいえ)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての公卿。.

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鷹司冬平

鷹司 冬平(たかつかさ ふゆひら 、 建治元年(1275年) - 嘉暦2年1月19日(1327年2月11日))は、鎌倉時代後期の公卿、歌人。後照念院関白と号す。 延慶元年11月10日(1308年12月22日) - 延慶4年3月15日(1311年4月4日)に摂政を務めた後、同年同日 - 正和2年7月12日(1313年8月4日)、正和4年9月22日(1315年10月20日) - 正和5年8月23日(1316年9月10日)、正中元年12月27日(1325年1月12日) - 嘉暦2年1月19日(1327年2月11日)の3回にわたって関白を歴任した。.

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鷹司冬通

鷹司冬通(たかつかさ ふゆみち)は、日本の南北朝時代の公卿。.

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鷹司冬教

鷹司 冬教(たかつかさ ふゆのり)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。鷹司基忠の三男だが、兄・冬平の養子となる。号は後円光院関白。.

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鷹司兼平

鷹司 兼平(たかつかさ かねひら)は、鎌倉時代中期の公卿。従一位、関白、太政大臣。鷹司家の祖。通称は照念院関白(しょうねんいん かんぱく)。関白近衛家実の四男。 暦仁元年(1238年)従二位権大納言兼右近衛大将となる。その後右大臣、左大臣を歴任。建長4年(1252年)摂政・藤氏長者宣下を賜り、太政大臣に任じられた。同6年(1254年)関白となる。一旦辞任するが建治元年(1275年)に再度摂政・藤氏長者となった。正応3年(1290年)出家し、覚理と号する。永仁2年(1294年)に智恵光院を開山するが、間もなく薨去。兼平は前後23年の長きにわたって摂関の任にあった。 能書家としても著名。日記に『称念院関白記(兼平公記)』、有職故実書に『照念院殿装束抄』がある。勅撰和歌集には4首入集している。 後深草院二条が綴った『とはずがたり』に登場する「近衛大殿」はこの兼平のことだと考えられている。.

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鷹司兼忠

鷹司兼忠(たかつかさ かねただ)は、日本の鎌倉時代の公卿。従一位関白左大臣。号に歓喜苑摂政。兄基忠の養子となり、基忠の長男冬平を自身の養子とした。.

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鷹司兼熙

鷹司 兼煕(たかつかさ かねひろ、万治2年12月5日(1660年1月17日) - 享保10年11月20日(1725年12月24日))は、江戸時代前期の公家、関白。主に霊元天皇と東山天皇の在位中の朝廷政治の中枢として活躍した。.

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鷹司兼輔

鷹司 兼輔(たかつかさ かねすけ)は、日本の室町時代から戦国時代にかけての公卿。.

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鷹司輔平

鷹司 輔平(たかつかさ すけひら)は、江戸時代中期の公家。藤氏長者。従一位、関白。幼名は淳宮。 東山天皇の皇孫。五摂家のひとつ鷹司家の養子になり、第21代当主となる。以降鷹司家は皇別摂家となった。.

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鷹司輔煕

鷹司 輔煕(たかつかさ すけひろ、名の表記は輔凞、輔熈とも)は、江戸時代末期(幕末)の公卿。孝明天皇時代の関白、藤原氏摂関家鷹司家の当主。諱は曽祖父輔平と祖父政煕から1字ずつとって輔煕、出家時の法名は随楽(ずいらく)を称した。父は関白鷹司政通。嫡母は水戸藩主徳川治紀の四女・清子。.

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鷹司房平

鷹司 房平(たかつかさ ふさひら)は、日本の室町時代の公卿。.

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鷹司房輔

鷹司 房輔(たかつかさ ふさすけ、寛永14年4月30日(1637年6月22日) - 元禄13年1月11日(1700年3月1日))は江戸時代の公卿。父は鷹司教平。母は冷泉為満女。側室は毛利秀就の娘・竹。兄弟には鷹司信子、鷹司房子、九条兼晴。子に鷹司兼熙、西園寺実輔(西園寺安姫の婿に入る)、鷹司輔信、一条兼香がいる。従一位(1672年(寛文12年)1月5日叙)。.

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鷹司政平

鷹司 政平(たかつかさ まさひら)は、日本の室町時代の公卿。「政」の字は室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものである。.

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鷹司政通

鷹司 政通(たかつかさ まさみち)は、江戸時代の公家、政治家。父は関白・鷹司政煕、母は正室・蜂須賀儀子。正室は徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。.

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鷹司教平

鷹司 教平(たかつかさ のりひら、慶長14年1月10日(1609年2月14日) - 寛文8年10月3日(1668年11月7日))は江戸時代の公卿。父は鷹司信尚。母は後陽成天皇第三皇女清子内親王。正室は文智女王。側室に冷泉為満の娘がいる。子に鷹司房輔、九条兼晴、鷹司信子(徳川綱吉正室)、鷹司房子(霊元天皇の中宮)、俊海(九条兼晴猶子)らがいる。号は一致院。一字名は雲・謙・公。権大納言左大将。従一位(1655年(承応4年)1月29日叙)。.

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黒板勝美

黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年9月3日 - 1946年12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及に努める。.

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近衛基実

近衞 基実(このえ もとざね)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。通称は六条摂政(ろくじょう せっしょう)。五摂家の一つとなった近衞家の祖。.

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近衛基平

近衛 基平(このえ もとひら)は、鎌倉時代中期の公卿。従一位、関白、左大臣。号に深心院、西谷がある。通称は深心院関白(しんしんいん かんぱく)。摂政近衛兼経の長男。 日記に「深心院関白記」がある。.

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近衛基嗣

近衛基嗣(このえ もとつぐ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての日本の公卿。.

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近衛基前

近衛 基前(このえ もとさき)は江戸時代後期の公卿。父は近衛経熙。母は有栖川宮職仁親王の女である董子。「基」の字を与えた広幡基豊は猶子とみられる。.

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近衛基熙

近衞 基熙(このえ もとひろ)は、江戸時代前・中期の公卿。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主。.

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近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛家基

近衛 家基(このえ いえもと)は、鎌倉時代後期の公卿。近衛基平の長男。右大臣、関白等を歴任した。号に近衛関白。.

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近衛家実

近衞 家実(このえ いえざね)は、鎌倉時代前期の公卿。関白近衛基通の一男で、母は坊城顕信の女・顕子。子には兼経・鷹司兼平などがいる。晩年六条猪隈小路に猪隈殿を構えたことに因み、猪隈関白(いのくま かんぱく)と呼ばれた。.

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近衛家平

近衛 家平(このえ いえひら)は、鎌倉時代後期の公卿。号に岡本関白。.

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近衛家久

近衛 家久(このえ いえひさ)は、江戸時代中期の公家・公卿、関白、太政大臣、准三宮。父は近衛家熙。母は霊元天皇第二皇女の憲子内親王。伯母に近衛熙子(6代将軍徳川家宣御台所)。.

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近衛家熙

近衞 家熈(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。.

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近衛家通

近衛 家通(このえ いえみち)は鎌倉時代初期の公卿。関白・近衛家実の長男。官位は正二位・左大臣。.

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近衛尚嗣

近衛 尚嗣(このえ ひさつぐ)は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。法号は大元。.

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近衛尚通

近衛 尚通(このえ ひさみち)は、戦国時代の公卿、関白。父は近衛政家。母は家女房であった越前国の加治能登入道の娘・俊子(北小路俊宣養女)。妻は徳大寺実淳の娘・維子。子に近衛稙家、久我晴通、大覚寺義俊、慶寿院(足利義晴室)、近衛殿(北条氏綱室)ら。猶子に足利義輝、足利義昭(共に慶寿院の子)。 文明14年(1482年)に元服、当時の室町幕府の将軍であった足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る。延徳2年(1490年)に右大臣に就任、以降は関白に二度就く。その後永正11年(1514年)に太政大臣、同16年(1519年)に准三宮となった。天文2年(1533年)に出家し、大証と号した。天文13年(1544年)、薨去。日記『後法成寺関白記』を残した。.

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近衛忠煕

近衛 忠煕(このえ ただひろ、文化5年7月14日(1808年9月4日) - 明治31年(1898年)3月18日)は、幕末の公卿。公武合体派として活動した。翠山と号す。.

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近衛信尋

近衞 信尋(このえ のぶひろ)は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。 後陽成天皇の第四皇子。五摂家のひとつ近衛家の養子になり、第19代目当主となる。これにより近衛家は皇別摂家となった。.

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近衛内前

近衛 内前(このえ うちさき)は、江戸時代中期の公家、関白、太政大臣。父は近衛家久、母は満君(島津吉貴娘)。猶子の広幡前豊・前秀父子には「前」の字を与えている。.

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近衛兼嗣

近衞 兼嗣(このえ かねつぐ)は、日本の南北朝時代(北朝)の公卿。.

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近衛兼経

近衛 兼経(このえ かねつね、承元4年(1210年) - 正元元年5月4日(1259年5月27日)) は、鎌倉時代の公卿。従一位・摂政 関白・太政大臣・藤原氏長者。通称は岡屋関白(おかのや かんぱく)。父は関白太政大臣の近衛家実。母は表向きには権中納言源雅頼(村上源氏)の女ということになっているが、実は兵部大輔藤原季定の女。正室は九条道家の女・仁子。子に関白左大臣近衛基平。 貞応元年(1222年)元服、正五位下侍従に任じられて昇殿禁色を許される。2年後に異母兄の左大臣近衛家通が急死したために後継者に立てられ、従三位権中納言となる。安貞元年(1227年)に内大臣、寛喜3年(1231年)に右大臣、嘉禎元年(1235年)に左大臣となる。嘉禎3年(1237年)に九条道家の娘・仁子を娶って長年不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られた。暦仁元年(1238年)に左大臣を辞すが引き続き摂政を務める。翌年には従一位に叙せられる。仁治元年(1240年)に四条天皇元服加冠のための太政大臣に任じられ、元服の儀が終わる翌年まで務めた。 仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御すると後嵯峨天皇の関白に転じるが、西園寺公経の圧力によって二条良実にその地位を譲った。後に義父とともに関東申次に就任する。道家が失脚すると兼経も巻き添えをくらって関東申次を解任されるが、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で宝治元年(1247年)に後深草天皇の摂政に再任される。建長4年(1252年)に異母弟の鷹司兼平に摂政を譲り、正嘉元年(1257年)に出家して法名を真理(しんり)と号して余生を宇治岡屋荘で過ごした。 日記に『岡屋関白記』がある。.

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近衛前久

近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。.

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近衛稙家

近衛 稙家(このえ たねいえ)は、戦国時代の公家・関白。藤原北家摂家近衛家15代当主。.

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近衛経平

近衛 経平(このえ つねひら)は、鎌倉時代後期の公卿。近衛家基の長男。.

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近衛経忠

近衛 経忠(このえ つねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。関白近衛家基の孫にして、関白近衛家平の子であり、弟に覚実がいる。従弟基嗣との家門争いに敗れ、南朝に仕えた。号に後猪熊関白、堀河関白など。.

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近衛経熙

近衛 経熙(このえ つねひろ)は江戸時代中期の公家、父は近衛内前、養母は尾張藩主・徳川宗春の娘・勝子(実母は家女房)。官位は従一位・右大臣。.

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近衛道嗣

近衛道嗣(このえ みちつぐ)は、日本の南北朝時代の公卿。.

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近衛道経

近衞 道經(このえ みちつね)は、日本の平安時代から鎌倉時代にかけての公卿。.

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近衛房嗣

近衛 房嗣(このえ ふさつぐ)は、日本の室町時代の公卿。.

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近衛政家

近衛 政家(このえ まさいえ、文安元年(1444年) - 永正2年6月19日(1505年7月20日))は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての公家。関白、太政大臣。藤原北家摂家近衛家13代当主。一字名は霞。号は後法興院。.

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近衛教基

近衛 教基(このえ のりもと)は、室町時代の公卿。関白近衛房嗣の一男で、母は家女房播磨局(父不詳)。聖護院道興・関白政家の兄。父から家督を継いで右大臣に至ったが、摂関に昇ることなく早世した。後九条と号する。.

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霊元天皇

霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.

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阿倍御主人

阿倍 御主人(あべ の みうし)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は布勢・普勢(ふせ)ともされ、阿倍普勢(あべのふせ)の複姓で記される場合もある。姓は臣のち朝臣。左大臣・阿倍内麻呂の子で、子に広庭・人主がいた。 672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方の功臣。天武天皇の時代から政治に携わり、持統・文武朝の代に高い地位にあり、晩年には右大臣として太政官の頂点の座にあった。官位は従二位・右大臣。 平安時代初期に成立した『竹取物語』に登場する「右大臣あべのみうし」のモデルである。.

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蘇我倉山田石川麻呂

SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ、生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日))は、飛鳥時代の豪族。 名称は「蘇我倉山田麻呂」「倉山田臣」「山田臣」「山田大臣」などとも。 蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。兄弟に日向・赤兄・連子・果安。.

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蘇我連子

蘇我 連子(そがのむらじこ、男性、推古天皇19年(611年)? - 天智天皇3年(664年5月))は、飛鳥時代の日本の豪族。名前は連、または武羅自、牟羅志とも書かれる。氏姓は蘇我朝臣。蘇我倉麻呂(蘇我雄正)の子。冠位は大紫。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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藤原基経

藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.

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藤原定方

藤原 定方(ふじわら の さだかた、貞観15年(873年) - 承平2年8月4日(932年9月11日))は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。内大臣・藤原高藤の次男。醍醐天皇の外叔父。官位は従二位・右大臣、贈従一位。三条右大臣と号する。.

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藤原実頼

藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠平の長男。 村上天皇の時に左大臣として右大臣の弟・師輔と共に朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たる事ができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。.

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藤原実資

藤原 実資(ふじわら の さねすけ)は、平安時代の公卿。 藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。.

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藤原家忠

藤原 家忠(ふじわら の いえただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。.

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藤原宗忠

藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。別名、中御門宗忠。 日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音楽の才があり、管弦や笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされるが現存しない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。.

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藤原宗輔

藤原 宗輔(ふじわら の むねすけ)は、平安時代後期の公卿。右大臣藤原俊家の嫡男で後年中御門家の祖とされた権大納言藤原宗俊の子。堀河または京極と号する。「蜂飼大臣(はちかいおとど)」の異名で『今鏡』『十訓抄』にも登場する。.

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藤原不比等

藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。.

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藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

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藤原師尹

藤原 師尹(ふじわら の もろただ)は、平安時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・藤原忠平の五男。官位は正二位・左大臣。小一条流の祖。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原三守

藤原 三守(ふじわら の ただもり/みもり)は、平安時代初期の公卿。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の曾孫。阿波守・藤原真作の五男『続日本後紀』承和7年7月7日条。官位は従二位・右大臣、贈従一位。後山科大臣と号す。.

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藤原仲平

藤原 仲平(ふじわら の なかひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政関白・藤原基経の二男。官位は正二位・左大臣。左京一条にある枇杷第を伝領した事から、枇杷左大臣と呼ばれる。.

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藤原仲麻呂

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。名は仲麿『尊卑分脈』『公卿補任』または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣藤原武智麻呂の次男。官位は正一位太師。恵美大臣とも呼ばれた。.

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藤原伊尹

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男。 妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病気により早逝した。孫に書家として名高い藤原行成がおり、子孫は世尊寺家として書道を世業とした。.

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藤原俊家

藤原 俊家(ふじわら の としいえ)は平安時代中期の公卿、歌人。右大臣藤原頼宗の次男。正二位・右大臣。大宮右大臣と号す。中御門流の祖であり、子孫からは中御門家(松木家)・持明院家を始めとして、9家の堂上家(羽林家)を出した。.

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藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。.

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藤原忠平

貞信公(百人一首より) 藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。.

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藤原在衡

藤原 在衡(ふじわら の ありひら)は、平安時代中期の公卿。藤原北家魚名流、中納言・藤原山蔭の孫。大僧都・如無の子、叔父の但馬介・藤原有頼の養子。官位は従二位・左大臣、贈従一位。粟田左大臣、あるいは万里小路大臣と称す。.

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藤原園人

藤原 園人(ふじわら の そのひと)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈正一位・左大臣。前山科大臣(さきのやましなのおとど)とも称された。.

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藤原冬嗣

藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。.

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藤原内麻呂

藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、大納言・藤原真楯の三男。官位は従二位・右大臣。 桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。.

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藤原公季

藤原 公季(ふじわら の きんすえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・師輔の十一男(十二男とも)。官位は従一位、太政大臣、贈正一位。閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。閑院流の祖。.

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藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

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藤原兼雅

藤原 兼雅(ふじわら の かねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院太政大臣・藤原忠雅の長男。官位は従一位・左大臣。後花山院左大臣と号す。花山院家4代。.

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藤原継縄

藤原 継縄(ふじわら の つぐただ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の孫。右大臣・藤原豊成の次男。官位は正二位・右大臣、贈従一位。桃園右大臣あるいは中山を号す。.

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藤原緒嗣

藤原 緒嗣(ふじわら の おつぐ)は平安時代の政治家。藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左大臣、贈従一位。山本大臣と号す。.

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藤原経宗

藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、藤原経実の四男(あるいは五男)。官位は従一位・左大臣・左大将。.

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藤原為光

藤原 為光(ふじわら の ためみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の九男。官位は従一位・太政大臣、贈正一位。法住寺の建立で知られる。.

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藤原田麻呂

藤原 田麻呂(ふじわら の たまろ)は、奈良時代の公卿。名は太満侶とも記される。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の五男『続日本紀』延暦2年3月19日条。官位は従二位・右大臣、贈正二位。号は蜷淵大臣。.

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藤原百川

藤原 百川(ふじわら の ももかわ)は、奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。.

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藤原隆忠

藤原 隆忠(ふじわら の たかただ、長寛元年(1163年) - 寛元3年5月22日(1245年6月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。摂政・松殿基房の長男だが、傍流とされたため、「松殿」は名乗らずに大覚寺左大臣と号した。官位は従一位・左大臣。.

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藤原道兼

藤原 道兼(ふじわら の みちかね)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。官位は正二位・関白、右大臣、贈正一位、太政大臣。同母の弟妹に詮子、道長らがいる。 父・兼家の意を受けて花山天皇を唆して出家・退位させる(寛和の変)。一条天皇が即位すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。兼家が死去すると道兼の期待に反して長兄・道隆が関白となった。5年後に道隆が病死すると、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死した。そのため「七日関白」と呼ばれる。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原頼実

藤原 頼実(ふじわら の よりざね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、左大臣・藤原経宗の長男。官位は従一位・太政大臣。六条または中山を号す。大炊御門家3代当主。.

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藤原頼宗

藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。.

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藤原頼忠

藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)は、平安時代中期の公卿。藤原実頼の次男。 円融・花山両天皇の関白で、後に太政大臣となる。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位とともに関白を辞し、失意のうちに薨御した。.

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藤原顕忠

藤原 顕忠(ふじわら の あきただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原時平の次男。官位は従二位・右大臣。贈正二位。富小路右大臣と号す。.

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藤原顕光

藤原 顕光(ふじわら の あきみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の長男。官位は従一位・左大臣。 父・兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟・兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。.

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藤原豊成

藤原 豊成(ふじわら の とよなり)は、奈良時代の貴族。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男。官位は従一位・右大臣。別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど)。.

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藤原良世

藤原 良世(ふじわら の よしよ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の八男。官位は従二位・左大臣、贈従一位。致仕大臣と号した。.

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藤原良相

藤原 良相(ふじわら の よしみ/よしあう)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の五男。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条大臣と号す。文徳天皇の外叔父。.

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藤原良房

東三条殿跡・藤原良房が創設、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公 、国公は美濃公。 皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。.

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藤原恒佐

藤原 恒佐(ふじわら の つねすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原良世の七男。官位は正三位・右大臣、贈正二位。一條右大臣または土御門右大臣と号す。.

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藤原武智麻呂

藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等の長男。藤原南家の祖。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。.

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藤原氏宗

藤原 氏宗(ふじわら の うじむね)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。.

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藤原永手

藤原 永手(ふじわら の ながて)は、奈良時代の公卿。藤原北家、参議・藤原房前の次男。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。長岡大臣と称する。.

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藤原済時

藤原 済時(ふじわら の なりとき)は、平安時代中期の公卿。左大臣・藤原師尹の次男。官位は正二位・大納言、左大将、贈右大臣。.

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藤原是公

藤原 是公(ふじわら の これきみ)は、奈良時代後期の公卿。初名は黒麻呂。藤原南家、武部卿・藤原乙麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈従一位。牛屋大臣と称された。.

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藤原教通

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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醍醐冬熙

醍醐 冬熙(だいご ふゆひろ)は、江戸時代中期の公卿。主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の四帝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。初名は冬実(ふゆざね)・昭尹(あきただ)。一字名は召。号は後信性普明寺。.

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醍醐経胤

醍醐 経胤(だいご つねたね)は、江戸時代中期の公卿。中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の五帝にもわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。初名は兼潔(かねきよ)。号は妙観寺。父は左大臣・醍醐冬熙後陽成天皇の男系の曾孫。母は対馬府中藩主・宗義真の娘・お家。.

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長寛

長寛(ちょうかん)は、日本の元号の一つ。応保の後、永万の前。1163年から1164年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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長屋王

長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ、天武天皇5年(676年)/天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。.

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長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

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長徳

長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

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長慶天皇

長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。諱は寛成(ゆたなり)。 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。.

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陽成天皇

陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(868年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。.

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暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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松殿基房

松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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桜町天皇

桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日(1747年6月9日))。幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。.

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桃園天皇

桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、諱を遐仁(とおひと)という。.

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.

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橘諸兄

橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。.

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橘氏公

橘 氏公(たちばな の うじきみ、延暦2年(783年) - 承和14年12月19日(848年2月1日))は、平安時代前期の公卿。参議・橘奈良麻呂の孫。内舎人・橘清友の七男『続日本後紀』承和14年12月19日条。仁明天皇の外叔父。官位は従二位・右大臣、贈従一位。井手右大臣と称される。.

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正安

正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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正保

正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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正応

正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.

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正嘉

正嘉(しょうか)は、日本の元号の一つ。康元の後、正元の前。1257年から1258年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.

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正和

正和(しょうわ)は、日本の元号の一つ。応長の後、文保の前。1312年から1317年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条宗宣、北条煕時、北条基時、北条高時。.

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正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.

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正長

正長(しょうちょう)は、日本の元号の一つ。応永の後、永享の前。1428年の期間を指す。この時代の天皇は称光天皇、後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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正暦

正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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正治

正治(しょうじ)は、日本の元号の一つ。建久の後、建仁の前。1199年から1200年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼朝(死後は空位)。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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武家官位

武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。.

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永久 (元号)

永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

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永仁

永仁(えいにん)は、日本の元号の一つ。正応の後、正安の前。1293年から1298年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇、後伏見天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時。.

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永保

永保(えいほう、えいほ)は、日本の元号の一つ。承暦の後、応徳の前。1081年から1083年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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永和 (日本)

永和(えいわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。応安の後、康暦の前。1375年から1379年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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永暦

永暦(えいりゃく)は、日本の元号の一つ。平治の後、応保の前。1160年から1161年の期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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永承

永承(えいしょう)は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1052年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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治安 (元号)

治安(じあん、ちあん)は、日本の元号の一つ。寛仁の後、万寿の前。1021年から1023年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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洞院実守

洞院 実守(とういん さねもり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。左大臣洞院実泰の四男で、母は高倉永康の女・康子。庶兄公賢の養子となり、父から家門継承を期待されるも達せられず、南北朝間を往来した。.

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洞院実世

洞院 実世(とういん さねよ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣洞院公賢の子にして、実夏の庶兄に当たる。北畠親房・四条隆資・二条師基とともに、南朝の重鎮として政務を指導した公家大将である。.

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洞院実熙

洞院 実熙(とういん さねひろ)は、室町時代前期の公卿。内大臣洞院満季の子。初名は実博(読み同じ)。.

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洞院実雄

洞院 実雄(とういん さねお)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。洞院家の祖。従一位左大臣。山階左大臣と号す。 娘3人がそれぞれ3人の天皇(亀山天皇、後深草天皇、伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父となった。.

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洞院実泰

洞院 実泰(とういん さねやす)は鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。洞院左大臣または後山本左府と号す。父は太政大臣洞院公守。母は従三位平親継の娘。子に公賢、公敏、実守らがいる。.

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洞院公定

洞院 公定(とういん きんさだ)は、南北朝時代の公家。従一位左大臣。後中園左大臣と号す。父は内大臣洞院実夏。祖父は洞院公賢。養子に洞院実信(正親町忠季の子)、洞院満季(洞院実信の子)がいる。.

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洞院公賢

洞院 公賢(とういん きんかた、正応4年8月(1291年) - 延文5年/正平15年4月6日(1360年4月21日))は、南北朝時代の公家。正式な名乗りは藤原公賢。父は左大臣洞院実泰。母は実泰の叔父にあたる小倉公雄の娘・季子。洞院家は藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。.

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洞院公泰

洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。左大臣洞院実泰の三男だが、後宇多法皇の養子となる。公賢・公敏の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。冷泉(れいぜい)と号した。.

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淳仁天皇

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.

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淳和天皇

淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) - 天長10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。.

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清原夏野

清原 夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の宗室・貴族・政治家。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。.

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清和天皇

清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日) - 貞観18年11月29日(876年12月18日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。.

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源多

源 多(みなもと の まさる、天長8年(831年) - 仁和4年10月17日(888年11月24日))は、平安時代初期から前期にかけての公卿。仁明天皇の皇子(仁明第一源氏)。.

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源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.

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源師房

源 師房(みなもと の もろふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。.

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源常

源 常(みなもと の ときわ)は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第三源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。東三条左大臣とも呼ばれる。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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源光 (公卿)

源 光(みなもと の ひかる、承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日))は、平安時代の公卿。仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条右大臣を号す。.

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源顕房

源 顕房(みなもと の あきふさ)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。.

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源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

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源能有

源 能有(みなもと の よしあり)は、平安時代前期の公卿。文徳天皇の皇子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。号は近院大臣。.

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源重信

源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿。宇多天皇の皇子である式部卿・敦実親王の四男。官位は正二位・左大臣、贈正一位。六条左大臣と号す。.

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源雅定

源 雅定(みなもと の まささだ)は平安時代後期の公卿、歌人。中院右大臣と号す。右大臣、正二位、左近衛大将。源雅実の次男。.

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源雅実

源 雅実(みなもと の まさざね)は、平安時代後期の公卿。源顕房の長男。久我家の祖。源氏初の太政大臣まで昇進したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。『久我相国記』を著す。.

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源雅信

源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.

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源有仁

源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公家。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。従一位左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。.

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持統天皇

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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朱雀天皇

朱雀天皇(すざくてんのう、延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)、在位:延長8年11月22日(930年12月14日) - 天慶9年4月13日(946年5月16日))は第61代天皇。諱は寛明(ゆたあきら)。 第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。.

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明徳

明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.

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明応

明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.

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明正天皇

明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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昌泰

昌泰(しょうたい)は、日本の元号の一つ。寛平の後、延喜の前。898年から901年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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新葉和歌集

『新葉和歌集』(しんようわかしゅう)は、南北朝時代に成立した准勅撰和歌集。撰者は宗良親王。弘和元年/永徳元年(1381年)12月3日奏覧。新葉集とも。.

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文室大市

文室 大市(ふんや の おおち、慶雲元年(704年) - 宝亀11年11月28日(780年12月28日)は、奈良時代の皇族・公卿。はじめ大市王を名乗るが、文室真人姓を賜与され臣籍降下。名は邑知・邑珍とも記される。天武天皇の孫。一品・長皇子の七男。官位は正二位・大納言。.

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文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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文中

文中(ぶんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建徳の後、天授の前。1372年から1375年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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文久

文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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文徳天皇

文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年8月(827年) - 天安2年8月27日(858年10月7日))は、平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年3月19日(850年5月4日) - 天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文武天皇

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.

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文永

文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.

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文治

文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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斉衡

斉衡(さいこう)は、日本の元号の一つ。仁寿の後、天安の前。854年から857年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。.

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斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.

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日本紀略

日本紀略(にほんきりゃく)は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。編者不詳。漢文、編年体、全34巻。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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慶安

慶安(けいあん)は日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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扶桑略記

『扶桑略記』第21巻 『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。 内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。.

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承平 (日本)

承平(じょうへい、しょうへい)は、日本の元号の一つ。延長の後、天慶の前。931年から938年までの期間を指す。この時代の天皇は朱雀天皇。.

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承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

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承保

承保(じょうほ、じょうほう)は、日本の元号の一つ。延久の後、承暦の前。1074年から1076年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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承応

承応(じょうおう)は日本の元号の一つ。慶安の後、明暦の前。1652年から1655年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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承和 (日本)

承和(じょうわ、しょうわ)は、日本の元号の一つ。天長の後、嘉祥の前。834年から848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁明天皇。.

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承元

承元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。建永の後、建暦の前。1207年から1210年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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承暦

承暦(じょうりゃく、しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。承保の後、永保の前。1077年から1080年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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1012年

記載なし。

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1017年

記載なし。

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1021年

記載なし。

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1046年

記載なし。

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1047年

記載なし。

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1060年

記載なし。

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1065年

記載なし。

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1069年

記載なし。

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1077年

記載なし。

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1080年

記載なし。

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1082年

記載なし。

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1083年

記載なし。

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1094年

記載なし。

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10月10日

10月10日(じゅうがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から283日目(閏年では284日目)にあたり、年末まであと82日ある。.

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10月10日 (旧暦)

旧暦10月10日(きゅうれきじゅうがつとおか)は、旧暦10月の10日目である。六曜は先勝である。.

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10月12日

10月12日(じゅうがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から285日目(閏年では286日目)にあたり、年末まであと80日ある。.

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10月13日

10月13日(じゅうがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から286日目(閏年では287日目)にあたり、年末まであと79日ある。.

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10月14日 (旧暦)

旧暦10月14日(きゅうれきじゅうがつじゅうよっか)は、旧暦10月の14日目である。六曜は大安である。.

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10月15日 (旧暦)

旧暦10月15日は旧暦10月の15日目である。六曜は赤口である。.

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10月16日

10月16日(じゅうがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から289日目(閏年では290日目)にあたり、年末まであと76日ある。.

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10月16日 (旧暦)

旧暦10月16日は旧暦10月の16日目である。六曜は先勝である。.

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10月17日

10月17日(じゅうがつじゅうななにち、じゅうがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から290日目(閏年では291日目)にあたり、年末まであと75日ある。.

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10月17日 (旧暦)

旧暦10月17日は旧暦10月の17日目である。六曜は友引である。.

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10月18日 (旧暦)

旧暦10月18日は旧暦10月の18日目である。六曜は先負である。.

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10月19日

10月19日(じゅうがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から292日目(閏年では293日目)にあたり、年末まであと73日ある。.

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10月1日

10月1日(じゅうがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。.

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10月20日

10月20日(じゅうがつはつか、じゅうがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から293日目(閏年では294日目)にあたり、年末まであと72日ある。.

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10月20日 (旧暦)

旧暦10月20日(きゅうれきじゅうがつはつか)は、旧暦10月の20日目である。六曜は大安である。.

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10月22日 (旧暦)

旧暦10月22日は旧暦10月の22日目である。六曜は先勝である。.

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10月23日

10月23日(じゅうがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から296日目(閏年では297日目)にあたり、年末まであと69日ある。.

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10月23日 (旧暦)

旧暦10月23日は旧暦10月の23日目である。六曜は友引である。.

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10月24日

10月24日(じゅうがつにじゅうよっか、じゅうがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から297日目(閏年では298日目)にあたり、年末まであと68日ある。.

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10月25日

10月25日(じゅうがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から298日目(閏年では299日目)にあたり、年末まであと67日ある。.

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10月26日

10月26日(じゅうがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から299日目(閏年では300日目)にあたり、年末まであと66日ある。.

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10月27日

10月27日(じゅうがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から300日目(閏年では301日目)にあたり、年末まであと65日ある。.

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10月29日

10月29日(じゅうがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から302日目(閏年では303日目)にあたり、年末まであと63日ある。.

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10月29日 (旧暦)

旧暦10月29日は旧暦10月の29日目である。年によっては10月の最終日となる。六曜は友引である。.

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10月2日

10月2日(じゅうがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から275日目(閏年では276日目)にあたり年末まであと90日ある。.

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10月2日 (旧暦)

旧暦10月2日(きゅうれきじゅうがつふつか)は、旧暦10月の2日目である。六曜は大安である。.

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10月3日

10月3日(じゅうがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から276日目(閏年では277日目)にあたり、年末まであと89日ある。.

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10月4日

10月4日(じゅうがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から277日目(閏年では278日目)にあたり、年末まであと88日ある。.

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10月4日 (旧暦)

旧暦10月4日(きゅうれきじゅうがつよっか)は旧暦10月の4日目である。六曜は先勝である。.

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10月5日

10月5日(じゅうがついつか)はグレゴリオ暦で年始から278日目(閏年では279日目)にあたり、年末まであと87日ある。.

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10月5日 (旧暦)

旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。.

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10月6日 (旧暦)

旧暦10月6日(きゅうれきじゅうがつむいか)は旧暦10月の6日目である。六曜は先負である。.

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10月7日 (旧暦)

旧暦10月7日(きゅうれきじゅうがつなのか)は旧暦10月の7日目である。六曜は仏滅である。.

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10月8日

10月8日(じゅうがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から281日目(閏年では282日目)にあたり、年末まであと84日ある。.

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10月8日 (旧暦)

旧暦10月8日(きゅうれきじゅうがつようか)は、旧暦10月の8日目である。六曜は大安である。.

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10月9日 (旧暦)

旧暦10月9日(きゅうれきじゅうがつここのか)は、旧暦10月の9日目である。六曜は赤口である。.

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1100年

記載なし。

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1112年

記載なし。

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1115年

記載なし。

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1123年

記載なし。

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1132年

記載なし。

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1137年

記載なし。

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1138年

記載なし。

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1149年

記載なし。

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1150年

記載なし。

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1154年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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1157年

記載なし。

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1160年

記載なし。

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1161年

記載なし。

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1164年

記載なし。

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1166年

記載なし。

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1186年

記載なし。

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1189年

記載なし。

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1190年

記載なし。

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1198年

記載なし。

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1199年

記載なし。

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11月10日

11月10日(じゅういちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から314日目(閏年では315日目)にあたり、年末まであと51日ある。.

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11月11日 (旧暦)

旧暦11月11日は旧暦11月の11日目である。六曜は先負である。.

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11月13日

11月13日(じゅういちがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から317日目(閏年では318日目)にあたり、年末まであと48日ある。.

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11月14日

11月14日(じゅういちがつじゅうよっか、じゅういちがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から318日目(閏年では319日目)にあたり、年末まであと47日ある。誕生花は松、アルストレメリア(百合水仙)、サフラン。.

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11月14日 (旧暦)

旧暦11月14日は旧暦11月の14日目である。六曜は赤口である。.

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11月15日 (旧暦)

旧暦11月15日は旧暦11月の15日目である。六曜は先勝である。.

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11月17日

11月17日(じゅういちがつじゅうななにち、じゅういちがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から321日目(閏年では322日目)にあたり、年末まであと44日ある。 毎年この日ごろしし座流星群が観測できる。.

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11月17日 (旧暦)

旧暦11月17日は旧暦11月の17日目である。六曜は先負である。.

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11月18日

11月18日(じゅういちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から322日目(閏年では323日目)にあたり、年末まであと43日ある。.

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11月18日 (旧暦)

旧暦11月18日は旧暦11月の18日目である。六曜は仏滅である。.

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11月1日

11月1日(じゅういちがつついたち)はグレゴリオ暦で始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。.

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11月1日 (旧暦)

旧暦11月1日(きゅうれきじゅういちがつついたち)は旧暦11月の1日目である。六曜は大安である。.

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11月20日

11月20日(じゅういちがつはつか、じゅういちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から324日目(閏年では325日目)にあたり、年末まであと41日ある。.

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11月20日 (旧暦)

旧暦11月20日は旧暦11月の20日目である。六曜は赤口である。.

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11月21日

11月21日(じゅういちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から325日目(閏年では326日目)にあたり、年末まであと40日ある。.

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11月21日 (旧暦)

旧暦11月21日は旧暦11月の21日目である。六曜は先勝である。.

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11月22日

11月22日(じゅういちがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から326日目(閏年では327日目)にあたり、年末まであと39日ある。.

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11月22日 (旧暦)

旧暦11月22日は旧暦11月の22日目である。六曜は友引である。.

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11月24日

11月24日(じゅういちがつにじゅうよっか、じゅういちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から328日目(閏年では329日目)にあたり年末まであと37日ある。.

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11月25日

11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。.

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11月26日

11月26日(じゅういちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日ある。.

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11月26日 (旧暦)

旧暦11月26日は旧暦11月の26日目である。六曜は赤口である。.

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11月27日

11月27日(じゅういちがつにじゅうしちにち、じゅういちがつにじゅうななにち)はグレゴリオ暦で年始から331日目(閏年では332日目)にあたり、年末まであと34日ある。.

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11月27日 (旧暦)

旧暦11月27日は旧暦11月の27日目である。六曜は先勝である。.

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11月28日

11月28日(じゅういちがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から332日目(閏年では333日目)にあたり、年末まであと33日ある。.

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11月28日 (旧暦)

旧暦11月28日は旧暦11月の28日目である。六曜は友引である。.

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11月29日

11月29日(じゅういちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から333日目(閏年では334日目)にあたり、年末まであと32日ある。.

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11月2日

11月2日(じゅういちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から306日目(閏年では307日目)にあたり、年末まであと59日ある。.

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11月2日 (旧暦)

旧暦11月2日(きゅうれきじゅういちがつふつか)は旧暦11月の2日目である。六曜は赤口である。.

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11月30日 (旧暦)

旧暦11月30日は旧暦11月の30日目である。年によっては11月の最終日となる。六曜は仏滅である。.

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11月3日 (旧暦)

旧暦11月3日(きゅうれきじゅういちがつみっか)は、旧暦11月の3日目である。六曜は先勝である。.

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11月4日

11月4日(じゅういちがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から308日目(閏年では309日目)にあたり、年末まであと57日ある。.

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11月5日

11月5日(じゅういちがついつか)はグレゴリオ暦で年始から309日目(閏年では310日目)にあたり、年末まであと56日ある。.

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11月6日

11月6日(じゅういちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から310日目(閏年では311日目)にあたり、年末まであと55日ある。.

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11月7日

11月7日(じゅういちがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から311日目(閏年では312日目)にあたり、年末まであと54日ある。.

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11月7日 (旧暦)

旧暦11月7日(きゅうれきじゅういちがつなのか)は旧暦11月の7日目である。六曜は大安である。.

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11月8日

11月8日(じゅういちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から312日目(閏年では313日目)にあたり、年末まであと53日ある。.

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11月8日 (旧暦)

旧暦11月8日は旧暦11月の8日目である。六曜は赤口である。.

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11月9日

11月9日(じゅういちがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から313日目(閏年では314日目)にあたり、年末まであと52日ある。.

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11月9日 (旧暦)

旧暦11月9日は旧暦11月の9日目である。六曜は先勝である。.

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1205年

記載なし。

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1207年

記載なし。

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1208年

記載なし。

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1209年

記載なし。

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1211年

記載なし。

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1215年

記載なし。

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1218年

記載なし。

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1219年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1225年

記載なし。

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1227年

記載なし。

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1231年

記載なし。

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1235年

記載なし。

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1236年

記載なし。

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1238年

記載なし。

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1240年

記載なし。

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1244年

記載なし。

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1247年

記載なし。

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1252年

記載なし。

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1254年

記載なし。

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1255年

記載なし。

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1257年

記載なし。

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1258年

記載なし。

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1261年

記載なし。

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1265年

記載なし。

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1269年

記載なし。

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1271年

記載なし。

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1276年

記載なし。

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1288年

記載なし。

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1289年

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1292年

記載なし。

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1297年

記載なし。

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1299年

記載なし。

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12月

12月(じゅうにがつ)は、グレゴリオ暦で年の第12の月(最後の月)に当たり、31日ある。 日本では、旧暦12月を「師走」、「師馳」(しわす・しはす)又は「極月」(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)と呼んできた。 今では「師走」及び「極月」は、新暦12月の別名としても用いられる。 英語での月名 December は、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来している。 実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で(そのため年末の2月は日数が少ない)、3月から数えて10番目という意味である。 グレゴリオ暦の12月1日はその年の9月1日と同じ曜日になる(→365日)。 明治時代に日本が太陰暦から太陽暦に変更した際に、政府が年末の給料を削減するために12月の日数を2日とした(明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とした)。.

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12月 (旧暦)

旧暦12月(きゅうれきじゅうにがつ)は、太陰太陽暦である中国、日本の旧暦の年初から12番目の月である。 天保暦よりも前の和暦などでは、大寒を含む月を12月とする。グレゴリオ暦では12月下旬から2月上旬ごろに当たる。東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、月の末日が29日である年もある。.

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12月10日 (旧暦)

旧暦12月10日(きゅうれきじゅうにがつとおか)は、旧暦12月の10日目である。六曜は先負である。.

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12月11日

12月11日(じゅうにがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から345日目(閏年では346日目)にあたり、年末まであと20日ある。.

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12月13日

12月13日(じゅうにがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から347日目(閏年では348日目)にあたり、年末まであと18日ある。.

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12月13日 (旧暦)

旧暦12月13日は旧暦12月の13日目である。六曜は赤口である。.

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12月14日 (旧暦)

旧暦12月14日(きゅうれきじゅうにがつじゅうよっか)は、旧暦12月の14日目である。六曜は先勝である。.

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12月15日

12月15日(じゅうにがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から349日目(閏年では350日目)にあたり、年末まであと16日ある。.

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12月15日 (旧暦)

旧暦12月15日は旧暦12月の15日目である。六曜は友引である。.

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12月16日 (旧暦)

旧暦12月16日は旧暦12月の16日目である。六曜は先負である。.

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12月17日 (旧暦)

旧暦12月17日は旧暦12月の17日目である。六曜は仏滅である。.

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12月18日

12月18日(じゅうにがつ じゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から352日目(閏年では353日目)にあたり、年末までは、あと13日となる。.

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12月19日 (旧暦)

旧暦12月19日は旧暦12月の19日目である。六曜は赤口である。.

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12月20日 (旧暦)

旧暦12月20日(きゅうれきじゅうにがつはつか)は、旧暦12月の20日目である。六曜は先勝である。.

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12月21日

12月21日(じゅうにがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から355日目(閏年では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。.

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12月21日 (旧暦)

旧暦12月21日は旧暦12月の21日目である。六曜は友引である。.

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12月22日 (旧暦)

旧暦12月22日は旧暦12月の22日目である。六曜は先負である。.

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12月23日

12月23日(じゅうにがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から357日目(閏年では358日目)にあたり、年末まであと8日ある。.

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12月23日 (旧暦)

旧暦12月23日は旧暦12月の23日目である。六曜は仏滅である。.

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12月24日

12月24日(じゅうにがつにじゅうよっか、じゅうにがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から358日目(閏年では359日目)にあたり、年末まであと7日ある。.

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12月24日 (旧暦)

旧暦12月24日(きゅうれきじゅうにがつにじゅうよっか)は、旧暦12月の24日目である。六曜は大安である。.

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12月25日

12月25日(じゅうにがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から359日目(閏年では360日目)にあたり、年末まであと6日ある。この日はクリスマスである。.

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12月25日 (旧暦)

旧暦12月25日は旧暦12月の25日目である。六曜は赤口である。.

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12月26日

12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。.

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12月26日 (旧暦)

旧暦12月26日は旧暦12月の26日目である。六曜は先勝である。.

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12月27日 (旧暦)

旧暦12月27日は旧暦12月の27日目である。六曜は友引である。.

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12月28日

12月28日(じゅうにがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から362日目(閏年では363日目)にあたり、年末まであと3日ある。.

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12月28日 (旧暦)

旧暦12月28日は旧暦12月の28日目である。六曜は先負である。.

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12月29日

12月29日(じゅうにがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から363日目(閏年では364日目)にあたり、年末まであと2日ある。.

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12月2日 (旧暦)

旧暦12月2日(きゅうれきじゅうにがつふつか)は旧暦12月の2日目である。六曜は先勝である。.

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12月30日

12月30日(じゅうにがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から364日目(閏年では365日目)にあたり、年末まであと1日ある(小晦日)。.

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12月31日

12月31日(じゅうにがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦において年始・1月1日から365日目(閏年においては366日目)にあたり、12月の末日、1年の最終日(大晦日)である。この日の23時59分を過ぎると翌日0時0分から翌年1月1日となる。.

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12月3日 (旧暦)

旧暦12月3日(きゅうれきじゅうにがつみっか)は旧暦12月の3日目である。六曜は友引である。.

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12月4日 (旧暦)

旧暦12月4日(きゅうれきじゅうにがつよっか)は旧暦12月の4日目である。六曜は先負である。.

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12月5日

12月5日(じゅうにがついつか)はグレゴリオ暦で年始から339日目(閏年では340日目)にあたり、年末まであと26日ある。.

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12月5日 (旧暦)

旧暦12月5日(きゅうれきじゅうにがついつか)は旧暦12月の5日目である。六曜は仏滅である。.

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12月8日

12月8日(じゅうにがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から342日目(閏年では343日目)にあたり、年末まであと23日ある。.

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12月8日 (旧暦)

旧暦12月8日(きゅうれきじゅうにがつようか)は、旧暦12月の8日目である。六曜は先勝である。.

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12月9日 (旧暦)

旧暦12月9日(きゅうれきじゅうにがつここのか)は、旧暦12月の9日目である。六曜は友引である。.

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1300年

記載なし。

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1302年

記載なし。

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1306年

記載なし。

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1309年

記載なし。

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1314年

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1316年

記載なし。

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1317年

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1318年

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1319年

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1322年

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1323年

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1324年

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1330年

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1331年

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1332年

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1333年

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1334年

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1335年

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1337年

記載なし。

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1339年

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1340年

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1343年

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1347年

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1349年

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1352年

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1353年

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1360年

記載なし。

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1363年

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1366年

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1367年

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1370年

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1371年

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1372年

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1375年

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1378年

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1381年

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1388年

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1394年

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1395年

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1396年

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1399年

記載なし。

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1403年

記載なし。

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1411年

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1415年

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1418年

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1419年

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1420年

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1421年

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1423年

記載なし。

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1424年

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1429年

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1438年

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1446年

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1454年

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1455年

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1457年

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1462年

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1464年

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1466年

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1468年

記載なし。

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1475年

記載なし。

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1476年

記載なし。

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1479年

記載なし。

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1480年

記載なし。

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1481年

記載なし。

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1483年

記載なし。

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1487年

記載なし。

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1490年

記載なし。

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1497年

記載なし。

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1499年

記載なし。

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1500年

15世紀最後の年である。.

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1501年

金曜日から始まる。16世紀最初の年。.

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1506年

記載なし。

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1507年

記載なし。

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1515年

記載なし。

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1518年

記載なし。

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1521年

記載なし。

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1523年

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1528年

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1536年

ユリウス暦の.

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1538年

記載なし。

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1541年

記載なし。

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1542年

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1543年

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1545年

記載なし。

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1546年

記載なし。

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1547年

記載なし。

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1553年

記載なし。

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1554年

記載なし。

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1557年

記載なし。

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1574年

記載なし。

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1576年

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1577年

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1578年

記載なし。

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1579年

記載なし。

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1585年

記載なし。

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1595年

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1599年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1603年

記載なし。

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1605年

記載なし。

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1607年

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1612年

記載なし。

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1614年

記載なし。

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1620年

記載なし。

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1621年

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1623年

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1629年

記載なし。

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1633年

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1640年

記載なし。

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1642年

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1647年

記載なし。

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1652年

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1653年

記載なし。

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1654年

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1655年

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1660年

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1661年

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1663年

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1664年

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1665年

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1671年

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1678年

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1680年

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1683年

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1691年

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1693年

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1704年

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1705年

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1708年

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1709年

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1715年

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1722年

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1726年

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1737年

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1738年

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1741年

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1745年

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1746年

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1749年

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1751年

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1754年

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1755年

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1760年

記載なし。

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1761年

記載なし。

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1779年

記載なし。

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1780年

記載なし。

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1786年

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1787年

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1791年

記載なし。

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1796年

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1797年

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1814年

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1815年

記載なし。

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1816年

記載なし。

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1820年

記載なし。

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1822年

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1824年

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1847年

記載なし。

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1857年

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1859年

記載なし。

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1862年

記載なし。

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1864年

記載なし。

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1866年

記載なし。

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1867年

記載なし。

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1868年

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1869年

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1871年

記載なし。

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1878年

記載なし。

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1883年

記載なし。

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1885年

記載なし。

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1月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より1月 1月(いちがつ)はグレゴリオ暦で年の第1の月に当たり、31日ある。 日本では旧暦1月を睦月(むつき)と呼び、現在では新暦1月の別名としても用いる。睦月という名前の由来には諸説ある。最も有力なのは、親族一同集って宴をする「睦び月(むつびつき)」の意であるとするものである。他に、「元つ月(もとつつき)」「萌月(もゆつき)」「生月(うむつき)」などの説がある。 1月はその年の10月と同じ曜日で始まるのと同じである。平年の場合。 英語の January は、ローマ神話の出入り口とドアの神ヤヌスにちなむ。年の入り口にあたることから、ヤヌスの月となった。.

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1月 (旧暦)

旧暦1月(きゅうれきいちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から1番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、雨水を含む月を1月とする。新暦では1月下旬から3月上旬ごろに当たる。 1月の別名は睦月(むつき)である。名前の由来は1月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、1月29日までで1月30日は存在しない年もある。.

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1月10日

1月10日(いちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から10日目に当たり、年末まであと355日(閏年では356日)ある。誕生花は、スノードロップ。.

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1月10日 (旧暦)

旧暦1月10日(きゅうれきいちがつとおか)は、旧暦1月の10日目である。六曜は仏滅である。.

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1月11日 (旧暦)

旧暦1月11日は旧暦1月の11日目である。六曜は大安である。.

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1月12日

1月12日(いちがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から12日目に当たり、年末まであと353日(閏年では354日)ある。誕生花はキンセンカ、スイートアリッサム、ラケナリア。.

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1月12日 (旧暦)

旧暦1月12日は旧暦1月の12日目である。六曜は赤口である。.

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1月13日

1月13日(いちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から13日目に当たり、年末まであと352日(閏年では353日)ある。誕生花はカトレア、スイセン、ベゴニア、サザンクロス。.

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1月13日 (旧暦)

旧暦1月13日は旧暦1月の13日目である。六曜は先勝である。.

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1月14日 (旧暦)

旧暦1月14日(きゅうれきいちがつじゅうよっか)は、旧暦1月の14日目である。六曜は友引である。.

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1月15日

1月15日(いちがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から15日目に当たり、年末まであと350日(閏年では351日)ある。誕生花はオンシジューム、白いスミレ、黄色のチューリップ、サンザシ、トゲ。.

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1月15日 (旧暦)

旧暦1月15日は旧暦1月の15日目である。六曜は先負である。.

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1月16日

1月16日(いちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から16日目に当たり、年末まであと349日(閏年では350日)ある。誕生花はデンドロビューム、ラッパズイセン、ジンチョウゲ、黄色のヒヤシンス。.

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1月16日 (旧暦)

旧暦1月16日は、旧暦1月の16日目である。六曜は仏滅である。.

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1月17日

1月17日(いちがつじゅうななにち、いちがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から17日目に当たり、年末まであと348日(閏年では349日)ある。.

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1月17日 (旧暦)

旧暦1月17日は旧暦1月の17日目である。六曜は大安である。.

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1月18日

1月18日(いちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から18日目に当たり、年末まであと347日(閏年では348日)ある。.

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1月18日 (旧暦)

旧暦1月18日は旧暦1月の18日目である。六曜は赤口である。.

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1月19日

1月19日(いちがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)ある。.

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1月1日

1月1日(いちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。誕生花は松(黒松)、または福寿草。 キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる。.

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1月1日 (旧暦)

旧暦1月1日(きゅうれきいちがつついたち)は、旧暦1月の1日目である。六曜は先勝である。.

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1月20日 (旧暦)

旧暦1月20日(きゅうれきいちがつはつか)は、旧暦1月の20日目である。六曜は友引である。.

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1月21日

1月21日(いちがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から21日目に当たり、年末まであと344日(閏年では345日)ある。.

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1月21日 (旧暦)

旧暦1月21日は旧暦1月の21日目である。六曜は先負である。.

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1月22日 (旧暦)

旧暦1月22日は旧暦1月の22日目である。六曜は仏滅である。.

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1月24日

1月24日(いちがつにじゅうよっか、いちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から24日目に当たり、年末まであと341日(閏年では342日)ある。.

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1月24日 (旧暦)

旧暦1月24日は旧暦1月の24日目である。六曜は赤口である。.

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1月25日

1月25日(いちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から25日目にあたり、年末まであと340日(閏年では341日)ある。.

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1月25日 (旧暦)

旧暦1月25日は旧暦1月の25日目である。六曜は先勝である。.

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1月26日

1月26日(いちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から26日目に当たり、年末まであと339日(閏年では340日)ある。.

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1月26日 (旧暦)

旧暦1月26日は旧暦1月の26日目である。六曜は友引である。.

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1月27日

1月27日(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から27日目に当たり、年末まであと338日(閏年では339日)ある。.

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1月27日 (旧暦)

旧暦1月27日は旧暦1月の27日目である。六曜は先負である。.

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1月28日

1月28日(いちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から28日目に当たり、年末まであと337日(閏年では338日)ある。.

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1月28日 (旧暦)

旧暦1月28日は旧暦1月の28日目である。六曜は仏滅である。.

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1月29日

1月29日(いちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から29日目に当たり、年末まであと336日(閏年では337日)ある。.

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1月29日 (旧暦)

旧暦1月29日は旧暦1月の29日目である。年によっては1月の最終日となる。六曜は大安である。.

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1月2日

1月2日(いちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から2日目に当たり、年末まであと363日(閏年では364日)ある。誕生花は孟宗竹、または蝋梅。.

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1月2日 (旧暦)

旧暦1月2日(きゅうれきいちがつふつか)は、旧暦1月の2日目である。六曜は友引である。.

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1月31日

1月31日(いちがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から31日目に当たり、年末まであと334日(閏年では335日)ある。1月の最終日である。.

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1月4日 (旧暦)

旧暦1月4日(きゅうれきいちがつよっか)は旧暦1月の4日目である。六曜は仏滅である。.

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1月5日

1月5日(いちがついつか)はグレゴリオ暦で年始から5日目に当たり、年末まであと360日(閏年では361日)ある。誕生花はミスミソウ。.

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1月5日 (旧暦)

旧暦1月5日(きゅうれきいちがついつか)は旧暦1月の5日目である。六曜は大安である。.

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1月6日

1月6日(いちがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から6日目にあたり、年末まであと359日(閏年では360日)ある。誕生花はユズリハ。.

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1月7日

1月7日(いちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から7日目に当たり、年末まであと358日(閏年では359日)ある。誕生花はチューリップ(白)。.

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1月7日 (旧暦)

旧暦1月7日(きゅうれきいちがつなのか)は、旧暦1月の7日目である。六曜は先勝である。.

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1月8日

1月8日(いちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から8日目に当たり、年末まであと357日(閏年では358日)ある。誕生花はアザレア。.

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1月8日 (旧暦)

旧暦1月8日(きゅうれきいちがつようか)は、旧暦1月の8日目である。六曜は友引である。.

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1月9日

1月9日(いちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から9日目に当たり、年末まであと356日(閏年では357日)ある。誕生花はパンジー。.

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1月9日 (旧暦)

旧暦1月9日(きゅうれきいちがつここのか)は、旧暦1月の9日目である。六曜は先負である。.

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2月 (旧暦)

旧暦2月(きゅうれきにがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から2番目の月である。 春分を含む月が2月となる。新暦では2月下旬から4月上旬ごろに当たる。 2月の別名は如月(きさらぎ)である。名前の由来は2月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、2月29日までで2月30日は存在しない年もある。 なお、琉球方言では旧暦の2月から、沖縄地方の梅雨入り前までの時期を「うりずん」(「潤い初め」の意味)と呼ぶ。.

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2月10日 (旧暦)

旧暦2月10日(きゅうれきにがつとおか)は、旧暦2月の10日目である。六曜は大安である。.

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2月12日

2月12日(にがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。.

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2月12日 (旧暦)

旧暦2月12日(きゅうれき 2がつ12にち)、は旧暦2月の12日目である。六曜は先勝である。.

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2月13日

2月13日(にがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から44日目にあたり、年末まであと321日(閏年では322日)ある。.

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2月13日 (旧暦)

旧暦2月13日は旧暦2月の13日目である。六曜は友引である。.

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2月14日

2月14日(にがつじゅうよっか、にがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から45日目にあたり、年末まであと320日(閏年では321日)ある。.

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2月14日 (旧暦)

旧暦2月14日は旧暦2月の14日目である。六曜は先負である。.

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2月15日

2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。.

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2月16日

2月16日(にがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から47日目にあたり、年末まであと318日(閏年では319日)ある。.

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2月16日 (旧暦)

旧暦2月16日は旧暦2月の16日目である。六曜は大安である。.

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2月17日

2月17日(にがつじゅうななにち、にがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)ある。.

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2月17日 (旧暦)

旧暦2月17日は旧暦2月の17日目である。六曜は赤口である。.

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2月18日

2月18日(にがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から49日目にあたり、年末まであと316日(閏年では317日)ある。.

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2月19日

2月19日(にがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から50日目にあたり、年末まであと315日(閏年では316日)ある。.

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2月19日 (旧暦)

旧暦2月19日は旧暦2月の19日目である。六曜は友引である。.

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2月1日

2月1日(にがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から32日目にあたり、年末まであと333日(閏年では334日)ある。.

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2月1日 (旧暦)

旧暦2月1日(きゅうれきにがつついたち)は旧暦2月の1日目である。六曜は友引である。.

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2月21日

2月21日(にがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から52日目にあたり、年末まであと313日(閏年では314日)ある。.

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2月21日 (旧暦)

旧暦2月21日は旧暦2月の21日目である。六曜は仏滅である。.

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2月22日

2月22日(にがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から53日目にあたり、年末まであと312日(閏年では313日)ある。.

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2月22日 (旧暦)

旧暦2月22日は旧暦2月の22日目である。六曜は大安である。.

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2月23日

2月23日(にがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から54日目にあたり、年末まであと311日(閏年では312日)ある。.

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2月23日 (旧暦)

旧暦2月23日は旧暦2月の23日目である。六曜は赤口である。.

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2月24日

2月24日(にがつにじゅうよっか、にがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から55日目にあたり、年末まであと310日(閏年では311日)ある。グレゴリオ暦では、閏年の場合に限り、閏日とも呼ばれる。詳細は閏日の項を参照。.

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2月24日 (旧暦)

旧暦2月24日は旧暦2月の24日目である。六曜は先勝である。.

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2月25日

2月25日(にがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から56日目にあたり、年末まであと309日(閏年では310日)ある。.

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2月26日

2月26日(にがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から57日目にあたり、年末まであと308日(閏年では309日)ある。.

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2月26日 (旧暦)

旧暦2月26日は旧暦2月の26日目である。六曜は先負である。.

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2月27日

2月27日(にがつにじゅうななにち、にがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から58日目にあたり、年末まであと307日(閏年では308日)ある。.

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2月27日 (旧暦)

旧暦2月27日は旧暦2月の27日目である。六曜は仏滅である。.

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2月28日

2月28日(にがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦においては年始から59日目にあたり、年末まであと306日(閏年では307日)ある。平年では、この日が2月の末日になる。 日本においては冬であり、本朝七十二候においては多く「霞始めてたなびく」(「かすみが たなびき始める」)に当たる。誕生花はフリージア(アヤメ水仙)とされる。.

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2月29日

2月29日(にがつにじゅうくにち)は、太陽暦であるグレゴリオ暦の閏日2月24日を閏日とする地域もある。。年始から60日目に当たり、年末まであと306日である。閏日が入れられる年を閏年と言い、西暦で4の倍数の年十二支においては、子年・辰年・申年のいずれかに当たる。がこれに当たる。但し、西暦で100の倍数の年は、400で割り切れる年だけに存在し、400で割り切れない年には存在しない。.

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2月2日

2月2日(にがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から33日目に当たり、年末まであと332日(閏年では333日)ある。.

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2月3日

2月3日(にがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。.

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2月3日 (旧暦)

旧暦2月3日(きゅうれきにがつみっか)は旧暦2月の3日目である。六曜は仏滅である。.

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2月4日

2月4日(にがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から35日目に当たり、年末まであと330日(閏年では331日)ある。.

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2月4日 (旧暦)

旧暦2月4日(きゅうれきにがつよっか)は旧暦2月の4日目である。六曜は大安である。.

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2月5日

2月5日(にがついつか)はグレゴリオ暦で年始から36日目に当たり、年末まであと329日(閏年では330日)ある。.

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2月5日 (旧暦)

旧暦2月5日(きゅうれきにがついつか)は旧暦2月の5日目である。六曜は赤口である。.

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2月6日

2月6日(にがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から37日目に当たり、年末まであと328日(閏年では329日)ある。.

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2月6日 (旧暦)

旧暦2月6日(きゅうれきにがつむいか)は、旧暦2月の6日目である。六曜は先勝である。.

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2月7日

2月7日(にがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から38日目に当たり、年末まであと327日(閏年では328日)ある。.

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2月7日 (旧暦)

旧暦2月7日(きゅうれきにがつなのか)は旧暦2月の7日目である。六曜は友引である。.

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2月8日

2月8日(にがつようか)はグレゴリオ暦で年始から39日目にあたり、年末まであと326日(閏年では327日)ある。.

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2月8日 (旧暦)

旧暦2月8日(きゅうれきにがつようか)は、旧暦2月の8日目である。六曜は先負である。.

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2月9日

2月9日(にがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から40日目にあたり、年末まであと325日(閏年では326日)ある。.

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2月9日 (旧暦)

旧暦2月9日(きゅうれきにがつここのか)は、旧暦2月の9日目である。六曜は仏滅である。.

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3月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より3月 3月(さんがつ)は、グレゴリオ暦で年の第3の月に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で、これに対する異論は特にない。 ヨーロッパ諸言語での呼び名であるmars,marzo,Marchなどはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するMartiusから取ったもの。 古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。閏年の日数調整を2月に行うのは、当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残である。 3月はその年の11月と同じ曜日で始まり、平年には2月と同じとなる。.

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3月 (旧暦)

旧暦3月(きゅうれきさんがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から3番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、穀雨を含む月を3月とする。新暦では3月下旬から5月上旬ごろに当たる。 3月の別名は弥生(やよい)である。名前の由来は3月を参照のこと。異名は「きしゅん(季春)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、3月29日までで3月30日は存在しない年もある。.

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3月10日

3月10日(さんがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から69日目(閏年では70日目)にあたり、年末まであと296日ある。.

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3月10日 (旧暦)

旧暦3月10日は旧暦3月の10日目である。六曜は赤口である。.

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3月11日

3月11日(さんがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から70日目(閏年では71日目)にあたり、年末まであと295日ある。 日本では2011年に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、東北地方や関東地方の太平洋沿岸等を巨大な津波が襲った。.

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3月11日 (旧暦)

旧暦3月11日は旧暦3月の11日目である。六曜は先勝である。.

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3月12日

3月12日(さんがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から71日目(閏年では72日目)にあたり、年末まであと294日ある。.

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3月12日 (旧暦)

旧暦3月12日は旧暦3月の12日目である。六曜は友引である。.

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3月13日 (旧暦)

旧暦3月13日は旧暦3月の13日目である。六曜は先負である。.

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3月14日

3月14日(さんがつじゅうよっか、さんがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から73日目(閏年では74日目)に当たり、年末まであと292日ある。.

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3月15日

3月15日(さんがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から74日目(閏年では75日目)にあたり、年末まであと291日ある。.

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3月16日

3月16日(さんがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から75日目(閏年では76日目)にあたり、年末まであと290日ある。.

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3月16日 (旧暦)

旧暦3月16日は旧暦3月の16日目である。六曜は赤口である。.

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3月17日

3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。.

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3月17日 (旧暦)

旧暦3月17日は旧暦3月の17日目である。六曜は先勝である。.

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3月18日

3月18日(さんがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から77日目(閏年では78日目)にあたり、年末まであと288日ある。誕生花にはアネモネなどがある。.

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3月18日 (旧暦)

旧暦3月18日は旧暦3月の18日目である。六曜は友引である。.

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3月19日

3月19日(さんがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から78日目(閏年では79日目)にあたり、年末まであと287日ある。.

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3月19日 (旧暦)

旧暦3月19日は旧暦3月の19日目である。六曜は先負である。.

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3月1日

3月1日(さんがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から60日目(閏年では61日目)にあたり、年末まであと305日ある。.

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3月21日 (旧暦)

旧暦3月21日は旧暦3月の21日目である。六曜は大安である。.

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3月23日 (旧暦)

旧暦3月23日は旧暦3月の23日目である。六曜は先勝である。.

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3月24日

3月24日(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から83日目(閏年では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。.

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3月24日 (旧暦)

旧暦3月24日は旧暦3月の24日目である。六曜は友引である。.

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3月25日

3月25日(さんがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から84日目(閏年では85日目)にあたり、年末まであと281日ある。.

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3月25日 (旧暦)

旧暦3月25日は旧暦3月の25日目である。六曜は先負である。.

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3月26日

3月26日(さんがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から85日目(閏年では86日目)にあたり、年末まであと280日ある。.

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3月26日 (旧暦)

旧暦3月26日は旧暦3月の26日目である。六曜は仏滅である。.

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3月27日

3月27日(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から86日目(閏年では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。.

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3月27日 (旧暦)

旧暦3月27日は旧暦3月の27日目である。六曜は大安である。.

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3月28日

3月28日(さんがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から87日目(閏年では88日目)にあたり、年末まであと278日ある。.

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3月28日 (旧暦)

旧暦3月28日は旧暦3月の28日目である。六曜は赤口である。.

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3月29日

3月29日(さんがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。.

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3月29日 (旧暦)

旧暦3月29日は旧暦3月の29日目である。年によっては3月の最終日となる。六曜は先勝である。.

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3月2日

3月2日(さんがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から61日目(閏年では62日目)にあたり、年末まであと304日ある。.

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3月2日 (旧暦)

旧暦3月2日(きゅうれきさんがつふつか)は旧暦3月の2日目である。六曜は仏滅である。.

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3月30日

3月30日(さんがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から89日目(閏年では90日目)にあたり、年末まであと276日ある。.

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3月30日 (旧暦)

旧暦3月30日は旧暦3月の30日目である。年によっては3月の最終日となる。六曜は友引である。.

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3月3日

3月3日(さんがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から62日目(閏年では63日目)にあたり、年末まであと303日ある。誕生花は花桃。.

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3月3日 (旧暦)

旧暦3月3日(きゅうれきさんがつみっか)は旧暦3月の3日目である。六曜は大安である。.

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3月4日 (旧暦)

旧暦3月4日(きゅうれきさんがつよっか)は旧暦3月の4日目である。六曜は赤口である。.

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3月5日

3月5日(さんがついつか)はグレゴリオ暦で年始から64日目(閏年では65日目)にあたり、年末まであと301日ある。.

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3月5日 (旧暦)

旧暦3月5日(きゅうれきさんがついつか)は旧暦3月の5日目である。六曜は先勝である。.

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3月6日

3月6日(さんがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から65日目(閏年では66日目)にあたり、年末まであと300日ある。.

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3月6日 (旧暦)

旧暦3月6日(きゅうれきさんがつむいか)は旧暦3月の6日目である。六曜は友引である。.

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3月7日

3月7日(さんがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から66日目(閏年では67日目)にあたり、年末まであと299日ある。.

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3月8日

3月8日(さんがつようか)はグレゴリオ暦で年始から67日目(閏年では68日目)にあたり、年末まであと298日ある。.

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3月9日 (旧暦)

旧暦3月9日は旧暦3月の9日目である。六曜は大安である。.

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4月

4月(しがつ)はグレゴリオ暦で年の第4の月に当たり、30日ある。 日本では、旧暦4月を卯月(うづき)と呼び、現在では新暦4月の別名としても用いる。卯月の由来は、卯の花が咲く月「卯の花月(うのはなづき)」を略したものというのが定説となっている。しかし、卯月の由来は別にあって、卯月に咲く花だから卯の花と呼ぶのだとする説もある。「卯の花月」以外の説には、十二支の4番目が卯であることから「卯月」とする説や、稲の苗を植える月であるから「種月(うづき)」「植月(うゑつき)」「田植苗月(たうなへづき)」「苗植月(なへうゑづき)」であるとする説などがある。他に「夏初月(なつはづき)」の別名もある。 日本では、新年度または新学期の時期として有名であり、学校・官公庁・会社などでは当月に入社式・入学式が行われ、前月の3月と同様に慌しくなる。世帯数や人口は少ないが、「卯月」という姓(名字)も存在する。4月は毎年7月と同じ曜日で始まり、閏年には1月とも同じとなる。 英語での月名、April はラテン語の Aprilis、ウェヌス(相当するギリシャの女神アフロディーテのエトルリア名 Apru より)に捧げられた月。.

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4月 (旧暦)

4月の別名は卯月(うづき)である。名前の由来は4月を参照のこと。異名は「もうか(孟夏)」。新暦では4月下旬から6月上旬ごろに当たる。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、4月29日までで4月30日は存在しない年もある。.

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4月10日

4月10日(しがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から100日目(閏年では101日目)にあたり、年末まではあと265日ある。誕生花はチューリップ、ベニバナアセビ。.

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4月10日 (旧暦)

旧暦4月10日(きゅうれきしがつとおか)は、旧暦4月の10日目である。六曜は先勝である。.

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4月11日 (旧暦)

旧暦4月11日は旧暦4月の11日目である。六曜は友引である。.

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4月12日

4月12日(しがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から102日目(閏年では103日目)にあたり、年末まではあと263日ある。誕生花はアンズ、カタクリ。.

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4月12日 (旧暦)

旧暦4月12日は旧暦4月の12日目である。六曜は先負である。.

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4月13日

4月13日(しがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から103日目(閏年では104日目)にあたり、年末まではあと262日ある。誕生花はクマガイソウ、エビネ。.

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4月14日

4月14日(しがつじゅうよっか、しがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から104日目(閏年では105日目)にあたり、年末まではあと261日ある。誕生花はドウダンツツジ、ハルジオン。.

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4月14日 (旧暦)

旧暦4月14日(きゅうれきしがつじゅうよっか)は、旧暦4月の14日目である。六曜は大安である。.

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4月15日

4月15日(しがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から105日目(閏年では106日目)にあたり、年末まではあと260日ある。誕生花はモクレン、タンポポ。.

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4月16日 (旧暦)

旧暦4月16日(きゅうれきしがつじゅうろくにち)は、旧暦4月の16日目である。六曜は先勝である。.

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4月17日

4月17日(しがつじゅうななにち、しがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から107日目(閏年では108日目)にあたり、年末まではあと258日ある。誕生花はハナビシソウ、ユスラウメ。.

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4月18日

4月18日(しがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から108日目(閏年では109日目)にあたり、年末まではあと257日ある。誕生花はアカツメクサ、ワスレナグサ。.

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4月18日 (旧暦)

旧暦4月18日は旧暦4月の18日目である。六曜は先負である。.

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4月19日

4月19日(しがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から109日目(閏年では110日目)にあたり、年末まではあと256日ある。誕生花はキショウブ、カリフォルニアポピー。.

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4月19日 (旧暦)

旧暦4月19日は旧暦4月の19日目である。六曜は仏滅である。.

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4月1日 (旧暦)

旧暦4月1日(きゅうれきしがつついたち)は旧暦4月の1日目である。六曜は仏滅である。.

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4月20日

4月20日(しがつはつか、しがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から110日目(閏年では111日目)にあたり、年末まではあと255日ある。誕生花はシバザクラ、ルピナス。.

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4月20日 (旧暦)

旧暦4月20日(きゅうれきしがつはつか)は、旧暦4月の20日目である。六曜は大安である。.

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4月21日

4月21日(しがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から111日目(閏年では112日目)にあたり、年末まではあと254日ある。誕生花はミヤコワスレ、ムルチコーレ。.

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4月22日

4月22日(しがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から112日目(閏年では113日目)にあたり、年末まではあと253日ある。誕生花はヤマツツジ、ホシクジャク。.

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4月23日 (旧暦)

旧暦4月23日は旧暦4月の23日目である。六曜は友引である。.

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4月24日

4月24日(しがつにじゅうよっか、しがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から114日目(閏年では115日目)にあたり、年末まではあと251日ある。誕生花はシャクヤク。.

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4月24日 (旧暦)

旧暦4月24日は旧暦4月の24日目である。六曜は先負である。.

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4月25日

4月25日(しがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から115日目(閏年では116日目)にあたり、年末まではあと250日ある。誕生花はシャガ、モッコウバラ。.

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4月26日

4月26日(しがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から116日目(閏年では117日目)にあたり、年末まではあと249日ある。この日には地球が元日の時から2天文単位(地球の公転軌道の直径分)動いたことになる。誕生花はスカビオサ、ミヤコワスレ。.

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4月26日 (旧暦)

旧暦4月26日は旧暦4月の26日目である。六曜は大安である。.

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4月27日

4月27日(しがつにじゅうななにち、しがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から117日目(閏年では118日目)にあたり、年末まではあと248日ある。誕生花はシラネアオイ、カルミヤ。.

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4月27日 (旧暦)

旧暦4月27日は旧暦4月の27日目である。六曜は赤口である。.

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4月28日

4月28日(しがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から118日目(閏年では119日目)にあたり、年末まではあと247日ある。誕生花は日本サクラソウ、ローズマリー。.

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4月28日 (旧暦)

旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。.

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4月29日 (旧暦)

旧暦4月29日(きゅうれきしがつにじゅうくにち)は、旧暦4月の29日目である。年によっては4月の最終日となる。六曜は友引である。.

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4月2日

4月2日(しがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から92日目(閏年では93日目)にあたり、年末まであと273日ある。誕生花はコデマリ、デイジー。.

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4月2日 (旧暦)

旧暦4月2日(きゅうれきしがつふつか)は旧暦4月の2日目である。六曜は大安である。.

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4月30日

4月30日(しがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から120日目(閏年では121日目)にあたり、年末まではあと245日ある。4月の最終日である。誕生花はナシ、ムラサキハナナ。.

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4月3日

4月3日(しがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から93日目(閏年では94日目)にあたり、年末まであと272日ある。誕生花はゼラニウム、ラナンキュラス。.

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4月5日

4月5日(しがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から95日目(閏年では96日目)にあたり、年末まであと270日ある。誕生花はカイドウ、コデマリ。.

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4月5日 (旧暦)

旧暦4月5日(きゅうれきしがついつか)は旧暦4月の5日目である。六曜は友引である。.

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4月6日 (旧暦)

旧暦4月6日(きゅうれきしがつむいか)は旧暦4月の6日目である。六曜は先負である。.

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4月7日

4月7日(しがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から97日目(閏年では98日目)にあたり、年末まではあと268日ある。誕生花はディモルフォセカ、サクラ。.

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4月8日

4月8日(しがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から98日目(閏年では99日目)にあたり、年末まではあと267日ある。誕生花はレンゲソウ、フジ。.

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4月9日

4月9日(しがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から99日目(閏年では100日目)にあたり、年末まではあと266日ある。誕生花はアカシア、ウォールフラワー。.

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4月9日 (旧暦)

旧暦4月9日(きゅうれきしがつここのか)は、旧暦4月の9日目である。六曜は赤口である。.

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5月10日

5月10日(ごがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から130日目(閏年では131日目)にあたり、年末まではあと235日ある。誕生花はカーネーション。.

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5月10日 (旧暦)

旧暦5月10日は旧暦5月の10日目である。六曜は友引である。.

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5月11日

5月11日(ごがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から131日目(閏年では132日目)にあたり、年末まではあと234日ある。誕生花はニセアカシア。.

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5月12日

5月12日(ごがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から132日目(閏年では133日目)にあたり、年末まではあと233日ある。誕生花はアスチルベ。.

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5月13日 (旧暦)

旧暦5月13日は旧暦5月の13日目である。六曜は大安である。.

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5月14日

5月14日(ごがつじゅうよっか、ごがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から134日目(閏年では135日目)にあたり、年末まではあと231日ある。誕生花はシラン。.

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5月14日 (旧暦)

旧暦5月14日は旧暦5月の14日目である。六曜は赤口である。.

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5月15日

5月15日(ごがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から135日目(閏年では136日目)にあたり、年末まではあと230日ある。誕生花はドクダミ。.

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5月16日 (旧暦)

旧暦5月16日は旧暦5月の16日目である。六曜は友引である。.

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5月17日

5月17日(ごがつじゅうななにち、ごがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から137日目(閏年では138日目)にあたり、年末まであと228日ある。誕生花はジャガイモ。.

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5月17日 (旧暦)

旧暦5月17日は旧暦5月の17日目である。六曜は先負である。.

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5月18日

5月18日(ごがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から138日目(閏年では139日目)にあたり、年末まではあと227日ある。誕生花はアヤメ。.

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5月19日

5月19日(ごがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から139日目(閏年では140日目)にあたり、年末まであと226日ある。誕生花はクルミ。.

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5月19日 (旧暦)

旧暦5月19日は旧暦5月の19日目である。六曜は大安である。.

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5月1日

5月1日(ごがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から121日目(閏年では122日目)にあたり、年末まであと244日ある。誕生花はプリムラ・ポリアンサ。.

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5月20日

5月20日(ごがつはつか、ごがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から140日目(閏年では141日目)にあたり、年末まではあと225日ある。誕生花はデルフィニウム。.

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5月21日

5月21日(ごがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から141日目(閏年では142日目)にあたり、年末まではあと224日ある。誕生花はボリジ。.

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5月23日

5月23日(ごがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から143日目(閏年では144日目)にあたり、年末まではあと222日ある。誕生花はアマドコロ。.

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5月24日

5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。誕生花はムギワラギク。.

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5月24日 (旧暦)

旧暦5月24日は旧暦5月の24日目である。六曜は仏滅である。.

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5月25日

5月25日(ごがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から145日目(閏年では146日目)にあたる。年末まで220日ある。誕生花はアスパラガス。.

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5月25日 (旧暦)

旧暦5月25日は旧暦5月の25日目である。六曜は大安である。.

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5月26日

5月26日(ごがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から146日目(閏年では147日目)にあたり、年末まではあと219日ある。誕生花はワサビ。.

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5月26日 (旧暦)

旧暦5月26日は旧暦5月の26日目である。六曜は赤口である。.

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5月27日

5月27日(ごがつにじゅうななにち、ごがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から147日目(閏年では148日目)にあたり、年末まではあと218日ある。誕生花はシロツメクサ。.

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5月28日 (旧暦)

旧暦5月28日は旧暦5月の28日目である。六曜は友引である。.

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5月29日

5月29日(ごがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から149日目(閏年では150日目)にあたり、年末まではあと216日ある。誕生花はナデシコ。.

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5月2日

5月2日(ごがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。誕生花はスズラン。.

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5月2日 (旧暦)

旧暦5月2日(きゅうれきごがつふつか)は旧暦5月の2日目である。六曜は赤口である。.

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5月30日

5月30日(ごがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から150日目(閏年では151日目)にあたり、年末まではあと215日ある。誕生花はオリーブ。.

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5月3日

5月3日(ごがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から123日目(閏年では124日目)にあたり、年末まではあと242日ある。誕生花はミズバショウ。.

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5月3日 (旧暦)

旧暦5月3日(きゅうれきごがつみっか)は、旧暦5月の3日目である。六曜は先勝である。.

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5月4日

5月4日(ごがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から124日目(閏年では125日目)にあたり、年末まではあと241日ある。誕生花はヤマブキ。.

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5月5日 (旧暦)

旧暦5月5日(きゅうれきごがついつか)は旧暦5月の5日目である。六曜は先負である。.

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5月7日

5月7日(ごがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から127日目(閏年では128日目)にあたり、年末まではあと238日ある。誕生花はボタン。.

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5月7日 (旧暦)

旧暦5月7日(きゅうれきごがつなのか)は旧暦5月の7日目である。六曜は大安である。.

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5月8日 (旧暦)

旧暦5月8日は旧暦5月の8日目である。六曜は赤口である。.

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5月9日 (旧暦)

旧暦5月9日は旧暦5月の9日目である。六曜は先勝である。.

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645年

記載なし。

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649年

記載なし。

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651年

記載なし。

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662年

記載なし。

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664年

記載なし。

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671年

記載なし。

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672年

記載なし。

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690年

記載なし。

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6月10日

6月10日(ろくがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から161日目(閏年では162日目)にあたり、年末まであと204日ある。誕生花はジャスミン、ラベンダー。.

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6月12日 (旧暦)

旧暦6月12日は旧暦6月の12日目である。六曜は大安である。.

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6月13日

6月13日(ろくがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から164日目(閏年では165日目)にあたり、年末まであと201日ある。誕生花はトケイソウ、クチナシ。.

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6月13日 (旧暦)

旧暦6月13日は旧暦6月の13日目である。六曜は赤口である。.

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6月14日 (旧暦)

旧暦6月14日は旧暦6月の14日目である。六曜は先勝である。.

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6月15日

6月15日(ろくがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から166日目(閏年では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。誕生花はタチアオイ、アジサイ。大西歯科医院.

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6月15日 (旧暦)

旧暦6月15日は旧暦6月の15日目である。六曜は友引である。.

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6月16日

6月16日(ろくがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から167日目(閏年では168日目)にあたり、年末まであと198日ある。誕生花はチューベローズ、カンパニュラ。.

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6月17日 (旧暦)

旧暦6月17日は旧暦6月の17日目である。六曜は仏滅である。.

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6月18日 (旧暦)

旧暦6月18日は旧暦6月の18日目である。六曜は大安である。.

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6月19日 (旧暦)

旧暦6月19日は旧暦6月の19日目である。六曜は赤口である。.

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6月1日

6月1日(ろくがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から152日目(閏年では153日目)にあたり、年末まであと213日ある。誕生花はマトリカリア、クレマチス。.

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6月1日 (旧暦)

旧暦6月1日(きゅうれきろくがつついたち)は旧暦6月の1日目である。六曜は赤口である。.

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6月20日 (旧暦)

旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。.

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6月21日 (旧暦)

旧暦6月21日は旧暦6月の21日目である。六曜は友引である。.

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6月22日

6月22日(ろくがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。誕生花はスイカズラ、アマリリス。.

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6月22日 (旧暦)

旧暦6月22日は旧暦6月の22日目である。六曜は先負である。.

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6月23日 (旧暦)

旧暦6月23日は旧暦6月の23日目である。六曜は仏滅である。.

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6月24日 (旧暦)

旧暦6月24日は旧暦6月の24日目である。六曜は大安である。.

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6月29日

6月29日(ろくがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から180日目(閏年では181日目)にあたり、年末まであと185日ある。誕生花はアガパンサス、ペラルゴニウム。.

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6月2日 (旧暦)

旧暦6月2日(きゅうれきろくがつふつか)は、旧暦6月の2日目である。六曜は先勝である。.

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6月30日

6月30日(ろくがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から181日目(閏年では182日目)にあたり、年末まであと184日ある。6月の最終日である。誕生花はビヨウヤナギ、ヘリオトロープ。.

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6月3日 (旧暦)

旧暦6月3日(きゅうれきろくがつみっか)は、旧暦6月の3日目である。六曜は友引である。.

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6月4日

6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。誕生花はイロマツヨイグサ、マツバギク。.

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6月5日

6月5日(ろくがついつか)はグレゴリオ暦で年始から156日目(閏年では157日目)にあたり、年末まであと209日ある。誕生花はハマナス、シラン。.

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6月8日

6月8日(ろくがつようか)はグレゴリオ暦で年始から159日目(閏年では160日目)にあたり、年末まではあと206日ある。誕生花はクチナシ、ジャスミン、タイサンボクなどとされる。.

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6月8日 (旧暦)

旧暦6月8日(きゅうれきろくがつようか)は、旧暦6月の8日目である。六曜は先勝である。.

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6月9日

6月9日(ろくがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から160日目(閏年では161日目)にあたり、年末まであと205日ある。誕生花はノバラ、ゴデチア。.

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6月9日 (旧暦)

旧暦6月9日(きゅうれきろくがつここのか)は、旧暦6月の9日目である。六曜は友引である。.

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700年

記載なし。

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701年

記載なし。

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703年

記載なし。

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704年

記載なし。

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708年

記載なし。

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720年

記載なし。

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721年

記載なし。

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724年

記載なし。

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734年

記載なし。

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737年

記載なし。

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738年

記載なし。

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743年

記載なし。

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749年

記載なし。

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757年

記載なし。

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758年

記載なし。

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760年

記載なし。

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764年

記載なし。

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766年

記載なし。

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771年

記載なし。

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781年

記載なし。

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782年

記載なし。

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783年

記載なし。

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789年

記載なし。

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790年

記載なし。

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792年

記載なし。

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796年

記載なし。

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798年

記載なし。

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7月 (旧暦)

旧暦7月(きゅうれきしちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から7番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、処暑を含む月を7月とする。新暦では7月下旬から9月上旬ごろに当たる。 7月の別名は文月(ふみづき/ふづき)である。名前の由来は7月を参照のこと。異名は「もうしゅう(孟秋)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、7月29日までで7月30日は存在しない年もある。.

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7月10日

7月10日(しちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から191日目(閏年では192日目)にあたり、年末まであと174日ある。誕生花はグロキシニア、マツバボタン。.

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7月10日 (旧暦)

旧暦7月10日(きゅうれきしちがつとおか)は、旧暦7月の10日目である。六曜は仏滅である。.

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7月11日

7月11日(しちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から192日目(閏年では193日目)にあたり、年末まであと173日ある。誕生花はハイビスカス、インパチェンス。.

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7月11日 (旧暦)

旧暦7月11日は旧暦7月の11日目である。六曜は大安である。.

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7月12日

7月12日(しちがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から193日目(閏年では194日目)にあたり、年末まであと172日ある。誕生花はゼニアオイ、パッションフラワー。.

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7月12日 (旧暦)

旧暦7月12日は旧暦7月の12日目である。六曜は赤口である。.

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7月13日

7月13日(しちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から194日目(閏年では195日目)にあたり、年末まであと171日ある。誕生花はホテイアオイ、ニチニチソウ。.

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7月13日 (旧暦)

旧暦7月13日は旧暦7月の13日目である。六曜は先勝である。.

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7月16日

7月16日(しちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から197日目(閏年では198日目)にあたり、年末まであと168日ある。誕生花はジンジャー、ツユクサ。.

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7月16日 (旧暦)

旧暦7月16日は、旧暦7月の16日目である。六曜は仏滅である。.

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7月17日 (旧暦)

旧暦7月17日は、旧暦7月の17日目である。六曜は大安である。.

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7月18日

7月18日(しちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から199日目(閏年では200日目)にあたり、年末まであと166日ある。誕生花はトルコキキョウ、ゲッカビジン。.

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7月19日

7月19日(しちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から200日目(閏年では201日目)にあたり、年末まであと165日ある。誕生花はトリカブト、ムギワラギク。.

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7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.

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7月1日

7月1日(しちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から182日目(閏年では183日目)にあたり、年末まであと183日ある。誕生花はアジサイ、ベゴニア。.

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7月1日 (旧暦)

旧暦7月1日(きゅうれきしちがつついたち)は旧暦7月の1日目である。六曜は先勝である。.

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7月20日

7月20日(しちがつはつか、しちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から201日目(閏年では202日目)にあたり、年末まであと164日ある。誕生花はナス、ルコウソウ。.

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7月20日 (旧暦)

旧暦7月20日(きゅうれきしちがつはつか)は、旧暦7月の20日目である。六曜は友引である。.

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7月24日

7月24日(しちがつにじゅうよっか、しちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から205日目(閏年では206日目)にあたり、年末まであと160日ある。誕生花はエンレイソウ、オシロイバナ。.

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7月24日 (旧暦)

旧暦7月24日は旧暦7月の24日目である。六曜は赤口である。.

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7月25日

7月25日(しちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から206日目(閏年では207日目)にあたり、年末まであと159日ある。誕生花はインパチェンス、スイセンノウ。.

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7月25日 (旧暦)

旧暦7月25日は旧暦7月の25日目である。六曜は先勝である。.

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7月26日

7月26日(しちがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から207日目(閏年では208日目)にあたり、年末まであと158日ある。誕生花はヒャクニチソウ、ヤマトナデシコ。.

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7月27日 (旧暦)

旧暦7月27日は旧暦7月の27日目である。六曜は先負である。.

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7月28日 (旧暦)

旧暦7月28日は旧暦7月の28日目である。六曜は仏滅である。.

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7月29日 (旧暦)

旧暦7月29日は旧暦7月の29日目である。年によっては7月の最終日となる。六曜は大安である。.

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7月2日 (旧暦)

旧暦7月2日(きゅうれきしちがつふつか)は旧暦7月の2日目である。六曜は友引である。.

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7月30日

7月30日(しちがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から211日目(閏年では212日目)にあたり、年末まであと154日ある。誕生花はニチニチソウ、ホウセンカ。.

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7月3日

7月3日(しちがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から184日目(閏年では185日目)にあたり、年末まではあと181日ある。誕生花はハス、バラ。.

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7月3日 (旧暦)

旧暦7月3日(きゅうれきしちがつみっか)は旧暦7月の3日目である。六曜は先負である。.

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7月4日

7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。誕生花はネジバナ、ハナギボシ。.

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7月5日

7月5日(しちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から186日目(閏年では187日目)にあたり、年末まであと179日ある。誕生花はアンスリウム、ロベリア。.

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7月5日 (旧暦)

旧暦7月5日(きゅうれきしちがついつか)は、旧暦7月の5日目である。六曜は大安である。.

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7月6日

7月6日(しちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から187日目(閏年では188日目)にあたり、年末まであと178日ある。誕生花はツユクサ、トキソウ。.

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7月7日 (旧暦)

旧暦7月7日(きゅうれきしちがつなのか)は旧暦7月の7日目である。六曜は先勝である。.

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7月8日

7月8日(しちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から189日目(閏年では190日目)にあたり、年末まであと176日ある。誕生花はホオズキ、クロユリ。.

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7月8日 (旧暦)

旧暦7月8日(きゅうれきしちがつようか)は、旧暦7月の8日目である。六曜は友引である。.

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7月9日 (旧暦)

旧暦7月9日(きゅうれきしちがつここのか)は、旧暦7月の9日目である。六曜は先負である。.

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806年

記載なし。

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812年

記載なし。

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813年

記載なし。

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819年

記載なし。

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821年

記載なし。

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825年

記載なし。

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832年

記載なし。

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837年

記載なし。

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838年

記載なし。

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840年

記載なし。

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844年

記載なし。

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848年

記載なし。

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857年

記載なし。

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867年

記載なし。

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870年

記載なし。

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872年

記載なし。

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881年

記載なし。

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882年

記載なし。

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888年

記載なし。

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891年

記載なし。

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896年

記載なし。

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897年

記載なし。

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899年

記載なし。

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8月

8月(はちがつ)は、グレゴリオ暦で年の第8の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦8月を葉月(はづき)と呼び、現在では新暦8月の別名としても用いる。葉月の由来は諸説ある。木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名である。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがある。また、「月見月(つきみづき)」の別名もある。 英語名 August は、ローマ皇帝アウグストゥスに由来する。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「6番目の月」を意味する "Sextilis" から自分の名に変更した。よく見かけられる通説に、彼がそれまで30日であった8月の日数を31日に増やし、その分を2月の日数から減らしたため2月の日数が28日となったというものがある。これは11世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコが提唱したものであり、8月の名称変更以前からすでに2月は短く、8月は長かった事を示す文献が複数発見されているため、この通説は現在では否定されている(詳細はユリウス暦を参照)。.

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8月 (旧暦)

旧暦8月(きゅうれきはちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から8番目の月である。 秋分を含む月が8月となる。新暦では8月下旬から10月上旬ごろに当たる。 8月の別名は葉月(はづき)である。名前の由来は8月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、8月29日までで8月30日は存在しない年もある。.

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8月10日

8月10日(はちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から222日目(閏年では223日目)にあたり、年末まであと143日ある。.

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8月11日

8月11日(はちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から223日目(閏年では224日目)にあたり、年末まであと142日ある。.

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8月11日 (旧暦)

旧暦8月11日は、旧暦8月の11日目である。六曜は赤口である。.

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8月12日 (旧暦)

旧暦8月12日は旧暦8月の12日目である。六曜は先勝である。.

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8月14日 (旧暦)

旧暦8月14日(きゅうれきはちがつじゅうよっか)は、旧暦8月の14日目である。六曜は先負である。.

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8月15日

8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。.

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8月16日

8月16日(はちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から228日目(閏年では229日目)にあたり、年末まであと137日ある。.

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8月16日 (旧暦)

旧暦8月16日は旧暦8月の16日目である。六曜は大安である。.

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8月17日

8月17日(はちがつじゅうななにち、はちがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から229日目(閏年では230日目)にあたり、年末まであと136日ある。.

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8月17日 (旧暦)

旧暦8月17日は旧暦8月の17日目である。六曜は赤口である。.

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8月19日

8月19日(はちがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から231日目(閏年では232日目)にあたり、年末まであと134日ある。.

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8月19日 (旧暦)

旧暦8月19日(きゅうれきはちがつじゅうくにち)は、旧暦8月の19日目である。六曜は友引である。.

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8月1日

8月1日(はちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から213日目(閏年では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。.

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8月1日 (旧暦)

旧暦8月1日(きゅうれきはちがつついたち)は旧暦8月の1日目である。六曜は友引である。.

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8月20日

8月20日(はちがつはつか、はちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から232日目(閏年では233日目)にあたり、年末まであと133日ある。.

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8月20日 (旧暦)

旧暦8月20日(きゅうれきはちがつはつか)は、旧暦8月の20日目である。六曜は先負である。.

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月21日 (旧暦)

旧暦8月21日は旧暦8月の21日目である。六曜は仏滅である。.

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8月22日

8月22日(はちがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から234日目(閏年では235日目)にあたり、年末まであと131日ある。.

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8月22日 (旧暦)

旧暦8月22日は旧暦8月の22日目である。六曜は大安である。.

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8月23日

8月23日(はちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から235日目(閏年では236日目)にあたり、年末まであと130日ある。.

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8月24日

8月24日(はちがつにじゅうよっか、はちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から236日目(閏年では237日目)にあたり、年末まであと129日ある。.

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8月24日 (旧暦)

旧暦8月24日(きゅうれきはちがつにじゅうよっか)は、旧暦8月の24日目である。六曜は先勝である。.

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8月25日

8月25日(はちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から237日目(閏年では238日目)にあたり、年末まであと128日ある。.

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8月25日 (旧暦)

旧暦8月25日は旧暦8月の25日目である。六曜は友引である。.

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8月26日

8月26日(はちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から238日目(閏年では239日目)にあたり、年末まであと127日ある。.

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8月26日 (旧暦)

旧暦8月26日は旧暦8月の26日目である。六曜は先負である。.

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8月27日

8月27日(はちがつにじゅうななにち、はちがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から239日目(閏年では240日目)に当り、年末まであと126日ある。.

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8月27日 (旧暦)

旧暦8月27日は旧暦8月の27日目である。六曜は仏滅である。.

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8月28日

8月28日(はちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から240日目(閏年では241日目)にあたり、年末まであと125日ある。.

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8月28日 (旧暦)

旧暦8月28日(きゅうれきはちがつにじゅうはちにち)は、旧暦8月の28日目である。六曜は大安である。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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8月29日 (旧暦)

旧暦8月29日は旧暦8月の29日目である。年によっては8月の最終日となる。六曜は赤口である。.

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8月2日 (旧暦)

旧暦8月2日(きゅうれきはちがつふつか)は旧暦8月の2日目である。六曜は先負である。.

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8月30日

8月30日(はちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から242日目(閏年では243日目)にあたり、年末まであと123日ある。.

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8月31日

8月31日(はちがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から243日目(閏年では244日目)にあたり、年末まであと122日ある。8月の最終日である。.

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8月3日

8月3日(はちがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から215日目(閏年では216日目)にあたり、年末まであと150日ある。.

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8月3日 (旧暦)

旧暦8月3日(きゅうれきはちがつみっか)は旧暦8月の3日目である。六曜は仏滅である。.

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8月4日

8月4日(はちがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から216日目(閏年では217日目)にあたり、年末まであと149日ある。.

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8月4日 (旧暦)

旧暦8月4日(きゅうれきはちがつよっか)は、旧暦8月の4日目である。六曜は大安である。.

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8月5日

8月5日(はちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から217日目(閏年では218日目)にあたり、年末まであと148日ある。.

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8月5日 (旧暦)

旧暦8月5日(きゅうれきはちがついつか)は旧暦8月の5日目である。六曜は赤口である。.

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8月6日

8月6日(はちがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から218日目(閏年では219日目)にあたり、年末まであと147日ある。.

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8月7日

8月7日(はちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から219日目(閏年では220日目)にあたり、年末まであと146日ある。.

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8月7日 (旧暦)

旧暦8月7日(きゅうれきはちがつなのか)は、旧暦8月の7日目である。六曜は友引である。.

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8月8日

8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.

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8月8日 (旧暦)

旧暦8月8日(きゅうれきはちがつようか)は、旧暦8月の8日目である。六曜は先負である。.

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8月9日

8月9日(はちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から221日目(閏年では222日目)にあたり、年末まであと144日ある。.

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8月9日 (旧暦)

旧暦8月9日(きゅうれきはちがつここのか)は、旧暦8月の9日目である。六曜は仏滅である。.

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901年

記載なし。

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913年

記載なし。

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914年

記載なし。

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924年

記載なし。

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932年

記載なし。

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933年

記載なし。

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937年

記載なし。

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938年

記載なし。

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944年

記載なし。

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947年

記載なし。

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960年

記載なし。

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965年

記載なし。

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966年

記載なし。

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968年

記載なし。

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969年

記載なし。

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970年

記載なし。

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971年

記載なし。

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977年

記載なし。

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978年

記載なし。

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986年

記載なし。

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991年

記載なし。

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994年

記載なし。

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995年

記載なし。

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996年

記載なし。

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9月10日

9月10日(くがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から253日目(閏年では254日目)にあたり、年末まであと112日ある。.

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9月11日 (旧暦)

旧暦9月11日は旧暦9月の11日目である。六曜は先勝である。.

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9月12日

9月12日(くがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から255日目(閏年では256日目)にあたり、年末まであと110日ある。.

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9月12日 (旧暦)

旧暦9月12日は旧暦9月の12日目である。六曜は友引である。.

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9月13日

9月13日(くがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から256日目(閏年では257日目)にあたり、年末まであと109日ある。.

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9月13日 (旧暦)

旧暦9月13日は旧暦9月の13日目である。六曜は先負である。.

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9月14日 (旧暦)

旧暦9月14日は旧暦9月の14日目である。六曜は仏滅である。.

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9月15日

9月15日(くがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から258日目(閏年では259日目)にあたり、年末まであと107日ある。.

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9月15日 (旧暦)

旧暦9月15日は旧暦9月の15日目である。六曜は大安である。.

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9月16日

9月16日(くがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から259日目(閏年では260日目)にあたり、年末まであと106日ある。.

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9月16日 (旧暦)

旧暦9月16日は旧暦9月の16日目である。六曜は赤口である。.

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9月17日

9月17日(くがつじゅうななにち、くがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から260日目(閏年では261日目)にあたり、年末まであと105日ある。.

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9月17日 (旧暦)

旧暦9月17日(きゅうれきくがつじゅうななにち、きゅうれきくがつじゅうしちにち)は、旧暦9月の17日目である。六曜は先勝である。.

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9月19日

9月19日(くがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から262日目(閏年では263日目)にあたり、年末まであと103日ある。.

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9月19日 (旧暦)

旧暦9月19日は旧暦9月の19日目である。六曜は先負である。.

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9月1日

9月1日(くがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から244日目(閏年では245日目)にあたり、年末まではあと121日ある。.

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9月21日

9月21日(くがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から264日目(閏年では265日目)にあたり、年末まであと101日ある。.

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9月22日

9月22日(くがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から265日目(閏年では266日目)にあたり、年末まであと100日ある。.

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9月23日

9月23日(くがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。.

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9月24日

9月24日(くがつにじゅうよっか、くがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から267日目(閏年では268日目)にあたり、年末まであと98日ある。.

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9月26日

9月26日(くがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から269日目(閏年では270日目)にあたり、年末まであと96日ある。.

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9月26日 (旧暦)

旧暦9月26日は旧暦9月の26日目である。六曜は仏滅である。.

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9月27日 (旧暦)

旧暦9月27日は旧暦9月の27日目である。六曜は大安である。.

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9月28日 (旧暦)

旧暦9月28日は旧暦9月の28日目である。六曜は赤口である。.

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9月29日

9月29日(くがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から272日目(閏年では273日目)にあたり、年末まであと93日ある。.

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9月29日 (旧暦)

旧暦9月29日は旧暦9月の29日目である。年によっては9月の最終日となる。六曜は先勝である。.

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9月2日

9月2日(くがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から245日目(閏年では246日目)にあたり、年末まではあと120日ある。.

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9月2日 (旧暦)

旧暦9月2日(きゅうれきくがつふつか)は旧暦9月の2日目である。六曜は仏滅である。.

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9月30日 (旧暦)

旧暦9月30日(きゅうれきくがつさんじゅうにち)は、旧暦9月の30日目である。年によっては9月の最終日となる。六曜は友引である。.

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9月3日

9月3日(くがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から246日目(閏年では247日目)にあたり、年末まであと119日ある。.

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9月4日

9月4日(くがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から247日目(閏年では248日目)にあたり、年末まであと118日ある。.

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9月4日 (旧暦)

旧暦9月4日(きゅうれきくがつよっか)は旧暦9月の4日目である。六曜は赤口である。.

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9月5日

9月5日(くがついつか)はグレゴリオ暦で年始から248日目(閏年では249日目)にあたり、年末まであと117日ある。.

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9月5日 (旧暦)

旧暦9月5日(きゅうれきくがついつか)は旧暦9月の5日目である。六曜は先勝である。.

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9月6日

9月6日(くがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から249日目(閏年では250日目)にあたり、年末まであと116日ある。.

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9月7日

9月7日(くがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から250日目(閏年では251日目)にあたり、年末まであと115日ある。.

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9月7日 (旧暦)

旧暦9月7日(きゅうれきくがつなのか)は旧暦9月の7日目である。六曜は先負である。.

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9月8日 (旧暦)

旧暦9月8日は旧暦9月の8日目である。六曜は仏滅である。.

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9月9日

9月9日(くがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から252日目(閏年では253日目)にあたり、年末まであと113日ある。.

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