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後醍醐天皇

索引 後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

400 関係: 埼玉県立歴史と民俗の博物館じゅん子内親王即位千種忠顕南北朝時代 (日本)南朝 (日本)古代史料参議名和長年吉川弘文館吉田定房吉田兼倶吉見氏吉野吉野神宮吉野町吉野行宮吉野郡吉良尊義坊門清忠堀口貞満増鏡大宰帥大和国大内裏大神景光大聖院 (京都市)大覚寺大覚寺統大正大河ドラマ大日本史大日本史料天台座主天子摂関御影天和 (日本)天皇天皇陵天龍寺太平記太平記 (NHK大河ドラマ)女御奈良県如意輪寺妙法院嫡流宮中三殿宮内庁官寺...宗良親王宇多天皇宇津峰宮安徳天皇寛永尊経閣文庫尊良親王小田治久山賊王岡見正雄岩波新書岩波書店崩御崇徳天皇上横手雅敬両統迭立中宮中公新書中公文庫中先代の乱常福寺 (那珂市)世良親王万寿寺万里小路宣房三千院三種の神器三木一草一乗院一条内経一条兼良九州九条房実平凡社平等院平田俊春平親宗平泉澄京都京都府二条為世二条道平二条河原の落書五辻家経五辻宗親五辻忠子五辻忠継五辻雅継井伊谷宮亀山天皇今出川兼季仮名交じり文延喜・天暦の治延元延暦寺建武 (日本)建武の新政建武中興十五社建武年中行事建武式目廃帝伏見宮貞成親王伯耆国住吉大社住吉行宮征夷大将軍征西大将軍徳治後の三房後宇多天皇後三条天皇後二条天皇後伏見天皇後土御門天皇後嵯峨天皇後鳥羽天皇後藤丹治後村上天皇保暦間記応安応永北畠師親北畠師重北畠顕家北畠親房北陸朝廷北条氏北朝 (日本)バンデット -偽伝太平記-嘉元嘉暦和田英松催馬楽ゴダイゴ円観内大臣内閣文庫准后八代宮八代国治公卿補任公家六条有房六波羅探題典侍元亨元弘元弘の乱元徳元応兵藤裕己光厳天皇光明天皇光文社勾当内侍国史大系国史大辞典 (昭和時代)国立歴史民俗博物館四条隆資四条貞子皇后皇太子皇居現代琴浦町神奈川県神皇正統記神楽祥子内親王笠置山 (京都府)笠置町第二次世界大戦箱根・竹ノ下の戦い紫衣網野善彦總持寺群書類従絃上無文元選異形コレクション片岡仁左衛門 (15代目)相楽郡白河天皇隠岐諸島花山院花山院師継花園天皇鎌倉鎌倉宮鎌倉幕府鎌倉時代遠江国聖助法親王聖護院荘厳浄土寺青蓮院静尊法親王順徳天皇西園寺きつ子西園寺実兼西園寺実氏西園寺家西園寺公経西園寺禧子饗庭氏直親王親王宣下親政高等学校講談社学術文庫譲位護良親王貴族鳥取県足利尊氏足利義政鶴見区 (横浜市)鷹司冬平鷹司冬教践祚近衛基嗣近衛経忠船上山興福寺阿野廉子赤松則村関白藤原成親邦良親王醍醐天皇醍醐寺至文堂金崎宮院号院宣院政陸奥国NHK出版暦応掌侍恒良親王恒性皇子東大寺東伯郡東慶寺村上天皇村松剛桜井好朗桜井英治森茂暁楠木正成横浜市橋本実俊正安正中 (元号)正中の変正応正倉院正親町実明正慶歴史漫画比叡山永積安明永正江戸時代沢田ひろふみ河内国河内祥輔治天の君法仁入道親王法勝寺洞院実世洞院実雄洞院実泰洞院佶子洞院公賢洞院公泰津守氏活火山清浄光寺湊川の戦い源通子満良親王持明院保藤持明院統朝令暮改朝廷朝松健木寺宮康仁親王有職故実成良親王明治明治維新昭和斎宮新宣陽門院新人物往来社新田義貞方広寺 (浜松市)文保文観文部科学省日野俊基日野資朝日本の歴史日本古典文学大系日本学協会摂津国播磨国悪党懐良親王懽子内親王教科用図書教科用図書検定慈照寺承久の乱所功時事通信社1068年10月11日11月22日 (旧暦)11月26日11月2日 (旧暦)1288年12月15日12月20日 (旧暦)12月9日 (旧暦)1302年1303年1304年1307年1308年1318年1319年1321年1324年1326年1329年1331年1332年1333年1334年1335年1336年1339年1371年1408年1510年1625年1681年1869年1872年1884年1889年1890年1892年1915年1920年1920年代1934年1937年1939年1970年1981年1983年1987年1993年1月27日1月29日 (旧暦)2004年2005年2007年2008年2月23日 (旧暦)2月26日 (旧暦)2月29日 (旧暦)3月29日3月29日 (旧暦)4月26日 (旧暦)4月28日 (旧暦)4月30日8月15日 (旧暦)8月16日 (旧暦)8月26日 (旧暦)8月29日 (旧暦)8月9日 (旧暦)9月18日9月19日9月8日 (旧暦) インデックスを展開 (350 もっと) »

埼玉県立歴史と民俗の博物館

埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたまけんりつれきしとみんぞくのはくぶつかん)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の大宮公園内にある、歴史と民俗、美術の総合博物館である。前身は1971年に現在地に開館した埼玉県立博物館で、2006年に埼玉県立民俗文化センターと統合して現名称となった。.

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じゅん子内親王

珣子内親王(じゅんしないしんのう、延慶4年2月23日(1311年3月13日) - 延元2年5月12日(1337年6月11日))は、後醍醐天皇の中宮。後伏見天皇の第一皇女。母は広義門院。天皇の正妻の子として重く扱われた。女院号は新室町院。 元弘3年(1333年)に後醍醐天皇に入内。建武2年(1335年)、幸子内親王を生む。延元2年(1337年)、27歳で薨去。.

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即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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千種忠顕

千種 忠顕(ちぐさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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古代

古代(こだい、)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である。古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。.

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史料

史料(しりょう、Quellen、Source, historical materials)は、歴史を考察する上で手がかりになるもののことで、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含む。歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるあらゆるものが史料である(紙の代わりに古くは木簡・竹簡、粘土板、石板などにも書かれたが、これらは伝世品であれば「文献」と言い、出土品なら遺物と言いわけるのが一般的である)。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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名和長年

名和 長年(なわ ながとし)は、日本の南北朝時代の武将。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。 長年が発給した文書は現存数が少なく、その他の長年、及び名和氏に関する史料も少ない。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉田定房

吉田 定房(よしだ さだふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。.

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吉田兼倶

吉田 兼倶(よしだ かねとも)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。本姓は卜部氏。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者。.

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吉見氏

吉見氏(よしみし)は、日本の氏族。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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吉野神宮

拝殿 吉野神宮(よしのじんぐう)は、奈良県吉野郡吉野町に鎮座する、後醍醐天皇を祭神とする神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣大社である。旧社名 吉野宮。.

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吉野町

吉野山の紅葉 吉野町(よしのちょう)は、奈良県中部に位置する町。桜で有名な吉野山があり、近隣の吉野山地(紀伊山地)から切り出される吉野杉・檜の集散地でもある。2012年に「日本で最も美しい村」連合に加盟。.

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吉野行宮

吉野朝宮跡(妙法殿) 吉野行宮(よしののあんぐう/よしのあんぐう)とは、大和国吉野山山中(現在の奈良県吉野町大字吉野山)にあった南朝の行宮。.

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吉野郡

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吉良尊義

吉良 尊義(きら たかよし)は、南北朝時代の武将。後期東条吉良(下吉良)氏初代。三河国東条城主。.

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坊門清忠

坊門 清忠(ぼうもん きよただ)は、鎌倉時代から南北朝時代初期にかけての公卿。従三位坊門基輔の孫、左中将坊門俊輔の子。後醍醐天皇の古参の側近として建武政権下で活躍し、南北朝分立後は南朝に仕えた。.

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堀口貞満

堀口 貞満(ほりぐち さだみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。清和源氏の一門で上野国に土着した新田氏の支族。上野国新田郡(新田荘)の東南端にある堀口郷(現在の群馬県太田市堀口町)を支配していた。.

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増鏡

『増鏡』(ますかがみ)は、歴史物語。成立は南北朝時代と推定される。作者は未詳だが、二条良基説や洞院公賢説、四条家関係者説などがある。いわゆる「四鏡」の成立順では最後に位置する作品である。内容的には最も新しい時代を扱っている。.

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大宰帥

大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、大宰府の長官。唐名は都督、和名は「おほみこともちのかみ」。律令制において西海道の9国2島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者となった。9世紀以降は親王の任官で、大宰府に赴任しないことが慣例となり、実権は次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)及び大宰大弐(だざいのだいに)に移った。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大内裏

平安京大内裏の位置 平安京大内裏(平安宮) 大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。別名平安宮。.

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大神景光

大神 景光(おおが の かげみつ、文永10年(1273年)-文和3年/正平9年11月8日(1354年12月22日))は、鎌倉時代後期・南北朝時代の楽人。家名により、山井 景光(やまのい かげみつ)とも称する。大神景政の子。子に大神景朝・景茂ら。 大神氏は古代豪族の大神氏の末裔で代々音楽をもって朝廷に仕えてきた地下人の家系である。11世紀に奈良を拠点に舞を家業とする家(奈良方)と京都を拠点に笛を家業とする家(京方)に分かれ、京方の嫡流は後に山井家(やまのいけ)と称した。 左近将監を務め、嘉元3年(1305年)に笛一者(宮廷楽人の笛の第一人者)の戸部政多の死を受けて、笛二者から笛一者に昇った。笛に対する自信と山井家の嫡流の当主としたの自負から、一族や他流の者と対立した。正和3年(1314年)に開かれた四条貞子(西園寺実氏の室)の13回忌の際に行われる奏楽の演者を巡って論争を行い、貞子の曾孫にあたる伏見上皇の激怒を買って出仕を差し止められた(『公衡公記』正和4年4月7日条)。 後醍醐天皇が即位すると、正式な御師であった藤井嗣実とともに出仕して天皇に笛を教授した(東宮時代からの御師粟田口嗣房は即位直前に没していた)。元徳3年(1331年)、天皇は名笛柯亭にて荒序の曲を演奏した際に功労として雅楽頭に任ぜられた。更に貞和3年(1347年)、光明天皇に対しても万秋楽の秘説を伝授している。この時、従五位上安芸守であった。また、笙にも秀でていて同じ頃に天皇に笙の秘曲も伝授している。この年、景光の楽曲を聴いた洞院公賢は景光は今年で75歳になるがその吹く笛は絶妙であると称賛している。 唐楽・高麗楽の笛譜を集成した『註大家龍笛要録譜』(『龍笛要録譜』)の著者として知られ、他にも多くの笛に関する著作を著したと伝えられているが現存しているものは少ない。.

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大聖院 (京都市)

大聖院(だいしょういん)は、京都府京都市右京区にある真言宗御室派の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。.

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大覚寺

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

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大日本史

『大日本史』(だいにほんし)は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。 『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。.

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大日本史料

『大日本史料』(だいにほんしりょう)は、1901年(明治34年)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集である。 六国史(『日本書紀』 - 『日本三代実録』)の後、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく編纂が始まった。 平安時代の宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要な出来事について年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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天子摂関御影

天子摂関御影(てんしせっかんみえい)は、平安時代後期から鎌倉時代に及ぶ天皇・摂関・大臣の肖像を描き連ねた画巻(絵巻)。似絵の主要作品の1つ。曼殊院門跡に伝来したが、明治11年(1878年)皇室に献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。全4巻。各巻ともに紙本着色で、縦幅は約29cm。天皇摂関大臣影(てんのうせっかんだいじんえい)とも。.

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天和 (日本)

天和(てんな、てんわ)は日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

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天龍寺

亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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太平記 (NHK大河ドラマ)

『太平記』(たいへいき)は、NHKで1991年に放送された第29作目の大河ドラマである。放送期間は1991年1月6日 - 12月8日で、全49回。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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奈良県

奈良県(ならけん)は、日本の都道府県の一つ。本州中西部、紀伊半島内陸部、近畿地方の中南部に位置する県である。 令制国の大和国の領域を占め、県庁所在地は奈良市。北西部の盆地部を除き、険しい山々がそびえている。都道府県面積は全国で8番目に狭く内陸8県では最も狭いが、最小の香川県の約2倍でもある。.

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如意輪寺

如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。.

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妙法院

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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宮中三殿

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

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官寺

官寺(かんじ)とは、国家の監督を受ける代わりにその経済的保障を受けていた寺院のこと。寺格の一つ。広義では、朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指し、狭義では食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、運営が行われている寺院のことを指す。 一般的には大寺(だいじ・官大寺(かんだいじ))と同義と考えられているが、国分寺・国分尼寺も官寺の定義に該当するため、官寺に含んで考えられる事も多い。また、これよりも小規模な有封寺(有食封寺)・諸寺と言った寺院も存在した。更に皇室の私寺的色彩の強い勅願寺や有力な貴族・豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けた定額寺も官寺に准じて扱われることがある。.

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宗良親王

宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、応長元年(1311年)/正和元年(1312年) - 元中2年/至徳2年8月10日( 1385年9月14日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

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宇津峰宮

宇津峰宮(うづみねのみや、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。諱・系譜ともに不詳であるものの、近世の俗書においては、後醍醐天皇の孫で、中務卿尊良親王の王子に当たるという守永親王(もりながしんのう)に比定されることが多い。宮号は、北畠顕信に奉じられて陸奥宇津峰城に拠ったことに由来する。.

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安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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尊経閣文庫

尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)は、東京都目黒区駒場にある加賀藩主前田家の文庫。.

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尊良親王

尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう、1310年(延慶3年)? - 1337年4月7日(延元2年 / 建武4年3月6日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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小田治久

小田 治久(おだ はるひさ、1283年2月10日(弘安6年1月12日) - 1353年1月16日(正平7年/文和元年12月11日)安田、1990年、p.111。『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「」の項(執筆:山田邦明)より。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収))「」の項より。『世界大百科事典 第2版』「小田治久」の項(執筆:網野善彦)より。コトバンク版は。)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。小田氏の第8代当主。官位は宮内権少輔。尾張権守。常陸介。初名は小田高知(おだ たかとも)。子に小田孝朝がいる。.

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山賊王

『山賊王』(さんぞくおう)は、沢田ひろふみによる少年漫画。講談社の『マガジンGREAT』および『マガジンイーノ』(連載中に誌名変更)において2000年から2009年にかけて連載された。単行本は全13巻。.

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岡見正雄

岡見 正雄(おかみ まさお、1913年7月30日 - 1990年2月6日)は、国文学者。.

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岩波新書

岩波新書(いわなみしんしょ)は、1938年(昭和13年)11月20日に岩波書店が創刊した新書赤版として。創刊の辞は、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と引用されている。シリーズである。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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上横手雅敬

上横手 雅敬(うわよこて まさたか、1931年(昭和6年)3月7日 - )は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。専門は日本中世政治史、日本中世社会史。文学博士(京都大学、1971年)(学位論文「日本中世政治史研究」)。和歌山県出身。.

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両統迭立

両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。 日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中公新書

中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベルの1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。.

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中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

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中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

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常福寺 (那珂市)

常福寺(じょうふくじ)は、茨城県那珂市瓜連にある浄土宗の寺院。山号は草地山。院号は蓮華院。本尊は阿弥陀如来。.

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世良親王

世良親王(よよししんのう/ときながしんのう、? - 元徳2年9月17日(1330年10月29日))は、鎌倉時代後期の皇族。後醍醐天皇の皇子。母は橋本実俊の娘遊義門院一条局。官職は大宰帥。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。 亀山上皇の皇女昭慶門院に養育され、北畠親房が乳父となった。兄の尊良親王よりも聡明で父後醍醐天皇の期待をかけられていたが、早世してしまった。死に先立ち居所を禅院(現在の京都嵐山臨川寺)とし、昭慶門院から継承された所領を寄進した。 Category:日本の親王 Category:鎌倉時代の男性皇族 Category:後醍醐天皇の子女 Category:14世紀生 Category:1330年没.

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万寿寺

万寿寺(まんじゅじ)は、京都市東山区にある東福寺の塔頭である。かつては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに京都五山のひとつとして栄えた。非公開のため拝観はできない。.

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万里小路宣房

万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代の公卿。従三位・万里小路資通の子。.

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三千院

三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。 京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。.

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三種の神器

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。中でも八尺瓊勾玉・草薙剣は併せて剣璽と称される。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。.

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三木一草

三木一草(さんぼくいっそう)は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名にちなむ。 4人に共通する点は、.

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一乗院

一乗院(いちじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。天禄元年 (970年) 、興福寺別当定昭によって建立される。.

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一条内経

一条 内経(いちじょう うちつね、正応4年7月17日(1291年8月12日) - 正中2年10月1日(1325年11月7日))は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。父は内大臣一条内実、母は内実の父である一条家経の異母妹(すなわち内実の叔母)。妻は西園寺公顕の娘。号は芬陀利華院関白(ふんだりかいん かんぱく)。 正安元年(1301年)に元服して翌年に公卿に列する。嘉元2年(1304年)、父の急死によって14歳で一条家を継いだ。『玉葉和歌集』以下の勅撰和歌集や『文保御百首』・『続現葉集』などに採録される優れた歌人であったが、政治的な才には乏しかったという。それでも文保2年(1318年)には従一位関白・藤氏長者に昇ったが、35歳の若さで病死する。法号は、芬陀利華院。 一条家の菩提所として東福寺に芬陀院(ふんだいん)を建立した。 Category:摂関 Category:鎌倉時代の公家 Category:鎌倉時代の歌人 うちつね うちつね Category:1291年生 Category:1325年没.

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一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

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九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.

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九条房実

九条 房実(くじょう ふさざね)は鎌倉時代の公卿。摂家九条家の8代当主。後一音院関白と号す。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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平等院

平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。.

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平田俊春

平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1994年11月14日)は、日本の歴史学者。防衛大学校名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。.

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平親宗

平 親宗(たいら の ちかむね、天養元年(1144年) - 正治元年7月17日(1199年8月10日))は、平安時代末期の公卿。桓武平氏高棟王流、贈左大臣・平時信の次男。高倉天皇の外叔父。官位は正二位・中納言。.

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平泉澄

平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月15日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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二条為世

二条 為世(にじょう ためよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿・歌人。歌道二条派の祖二条為氏の長男。極官が権大納言だったので藤大納言とも呼ばれた。.

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二条道平

二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。.

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二条河原の落書

二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、室町幕府問注所執事の町野氏に伝わる『建武年間記(建武記)』に収録されている文である。88節に渡り、建武の新政当時の混乱する政治・社会を批判、風刺した七五調の文書。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。.

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五辻家経

五辻 家経(いつつじ いえつね)は平安時代末期の公卿。正二位中納言。五辻中納言と号す。父は左大臣藤原兼雅、母は平清盛の娘。花山院家の分家である五辻家の始祖と見なされている。.

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五辻宗親

五辻 宗親(いつつじ むねちか)は鎌倉時代中期から後期の公卿。参議五辻忠継の二男。参議正二位。子には従三位右兵衛督に至った親氏、宗経、長親、具忠、俊継、長俊、俊宗、行親、宗子(邦良親王の生母)がいる。.

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五辻忠子

五辻 忠子(いつつじ ちゅうし、文永5年(1268年) - 元応元年11月15日(1319年12月27日))は、鎌倉時代の貴族。後宇多天皇の後宮、女院。後醍醐天皇の母。参議五辻忠継の娘で、母は皇后宮亮平高輔の娘。花山院師継の養女。院号は談天門院。.

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五辻忠継

五辻 忠継(いつつじ ただつぐ)は鎌倉時代中期の公卿。従三位、参議、美濃権守。非参議正三位五辻雅継の二男。母は雅楽頭安倍春元の娘。 後醍醐天皇の実外祖父である。.

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五辻雅継

五辻 雅継(いつつじ まさつぐ)は鎌倉時代初期の公卿。非参議正三位。中納言五辻家経の二男。母は権大納言藤原成親の娘。.

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井伊谷宮

井伊谷宮(いいのやぐう)は、静岡県浜松市北区の井伊谷にある神社である。旧社格は官幣中社。建武中興十五社の一社である。 後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀る。元中2年(1385年)8月10日に73歳で歿した地と伝えられ(他説もある)、社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。神紋の李花紋は、歌人としても有名であった宗良親王の家集の題名に因むものである。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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今出川兼季

今出川 兼季(いまでがわ かねすえ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。従一位、太政大臣(右大臣)。今出川、または菊亭と号す。 法華宗陣門流の門祖日陣は娘の妙菊を通して孫にあたる。今出川の号は領有していた今出川殿による。今出川殿はもともとは次兄公顕が領し、公顕も今出河を号していたが、兼季が殿邸を相続した。また、別号を菊亭と称したが、これは兼季が菊を好んで邸の庭に植えたからとも、菊亭という名の西園寺家領の殿邸を兼季が伝領したためともいわれている。 父実兼より、次兄公顕の継嗣とされ、兼季の後は公顕の子の実顕を嫡子とするように定められていた。しかし、兼季に実子実尹が生まれ(母は公顕の娘)、一方で実顕が兼季よりも先に早世し、実顕の子公冬も南朝に仕えたため、兼季が今出川殿を相続し、兼季の子孫が今出川家を称するようになった。.

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仮名交じり文

仮名交じり文(かなまじりぶん)とは、漢字を主体としてこれに仮名を含めて書かれた文章。.

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延喜・天暦の治

延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)とは、平安時代中期(10世紀)の第60代醍醐、その皇子の第62代村上両天皇の治世を聖代視した呼称。延喜は醍醐の、天暦は村上の元号である。延喜の治および天暦の治も参照のこと。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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建武中興十五社

建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。これらの神社は「建武中興十五社会」を結成している。.

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建武年中行事

建武年中行事(けんむねんちゅうぎょうじ)は、後醍醐天皇によって書かれた有職故実書、全3巻。建武元年(1334年)成立とされるが、天皇が吉野へ逃れた延元2年(1337年)成立説(木藤才蔵説)もある。仮名年中行事・和字年中行事など多くの異名がある。 天皇が立太子以来20年余りの宮中生活の中で経験した多くの宮中における朝儀・公事の内容・作法について記したもの。正月の四方拝から年末の追儺・節折までの宮中行事を月ごとに和文で記述している。建武の新政の開始に伴い、朝儀の再興を意図して書かれたと考えられている。天皇独自の行事などに関する記述もあり、北朝においても尊重される(『園太暦』観応2年12月条)など、後世に大きな影響を与えた。 和田英松の注解で『建武年中行事』(校訂解説所功、講談社学術文庫、1989年、再版1991年)がある。 Category:日本の制度史 Category:南北朝時代 (日本) Category:室町時代の文化 Category:有職故実書.

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建武式目

建武式目(けんむしきもく、建武式目条々)は、建武3年11月7日(1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目である。御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。.

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廃帝

廃帝(漢音:はいてい、呉音:はいたい)は、東アジアの王朝において、内部抗争などにより廃位されたため、諡号や廟号を持たない皇帝の呼称。.

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伏見宮貞成親王

伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう、応安5年3月5日(1372年4月9日) - 康正2年8月29日(1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどう しんのう)。太上法皇としての院号は後崇光院(ごすこう いん)。 現在の皇室と旧皇族11宮家の最後の共通の男系祖先として知られる。著作に『看聞日記』『椿葉記』がある。.

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伯耆国

伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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住吉大社

住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。.

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住吉行宮

住吉行宮(すみよしのあんぐう/すみよしあんぐう)は、南北朝時代の南朝の行宮(天皇の仮の御所)の1つ。大阪府大阪市住吉区墨江に所在したとされ、行宮跡伝承地は国の史跡に指定されている。 行宮とした天皇、行宮とされた期間は次の通り。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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征西大将軍

征西大将軍(せいせいたいしょうぐん/ 征西将軍(せいせいしょうぐん))は、奈良・平安時代に九州や四国地方を平定するために天皇(朝廷)から任命された将軍。征戎将軍ともいう。 六国史では、続日本紀養老4年(720年)7月3日条に「征西将軍以下抄士(かじとり)に至るまでそれぞれ物を賜う」とあり、これが「征西将軍」の初見である。 また、日本紀略天慶4年(941年)5月19日条には、瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を征伐するために藤原忠文を征西大将軍に任じるとある。後に南北朝時代に南朝方が、離反した足利尊氏を征伐するために延元元年(1336年)後醍醐天皇の皇子の懐良親王を任命し、さらに正平(1366年)頃には後村上天皇の皇子の良成親王を任命した。.

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徳治

徳治(とくじ)は、日本の元号の一つ。嘉元の後、延慶の前。1306年から1307年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇、花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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後の三房

後の三房(のちのさんぼう)は、鎌倉時代末期より南北朝時代にかけて、後醍醐天皇の側近として仕えた、北畠親房・万里小路宣房・吉田定房の3人を指す。 File:Kitabatake_Chikafusa.svg|北畠親房 File:Madenokoji Nobufusa.jpg|万里小路宣房 File:Yoshida Sadafusa.jpg|吉田定房.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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後藤丹治

後藤 丹治(ごとう たんじ、1897年3月28日 - 1963年5月1日)は、国文学者。 三重県出身。京都帝国大学卒。東京帝国大学史料編纂官補、立命館大学教授、1954年大阪学芸大学教授。1957年定年退官。中世の戦記物語や近世の読本を研究した。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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保暦間記

『保暦間記』(ほうりゃくかんき)は日本の中世、南北朝時代に成立した歴史書。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を研究する上での基本史料である。成立は14世紀半ば、延文元年(1356年)以前。作者は不明であるが、南北朝時代の足利方の武士と推定されている。『群書類従』第26輯雑部所収。 保元元年(1156年)の保元の乱に始まり、暦応2年(1339年)後醍醐天皇崩御までを記述し、この「保元から暦応まで」が書名の由来となっている。『吾妻鏡』の記載が終了する文永3年(1266年)以降の鎌倉時代に起こった事件の概要を研究するうえで貴重な史料であり、「和田合戦」、「承久の乱」、「宝治合戦」、「二月騒動」、「霜月騒動」など、現在使用されている鎌倉時代の事件名称の多くは本書の記述に由来する。 源頼朝の死について、建久10年(1199年)に、相模川橋供養の帰路、八的ヶ原(やまとがはら:現在の辻堂および茅ヶ崎の広域名)で源義経らの亡霊を、稲村ヶ崎海上に安徳天皇の亡霊を見て、鎌倉で気を失い病に倒れたと記しているが、実際の死因については諸説ある。.

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応安

応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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北畠師親

北畠 師親(きたばたけ もろちか)は、鎌倉時代中期から後期の公卿。正二位権大納言北畠雅家の子。北畠師重の父、北畠親房、護良親王の祖父にあたる。.

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北畠師重

北畠 師重(きたばたけ もろしげ)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言北畠師親の子で、母は法勝寺執行宗顕法印の女である。北畠親房の父。北畠家は代々大覚寺統への忠誠に篤く、師重も後宇多院の側近として仕えた。.

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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

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北畠親房

北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。.

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北陸朝廷

北陸朝廷(ほくりくちょうてい)は、南北朝時代に南朝方武将の擁立や僭称により北陸に存在したと考えられる朝廷のことである。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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バンデット -偽伝太平記-

『バンデット -偽伝太平記-』(バンデット ぎでんたいへいき)は、河部真道による日本の漫画作品。南北朝時代(鎌倉時代後期から室町時代初期)の騒乱を記した『太平記』を題材にした漫画で、講談社の『モーニング』にて2016年45号(2016年10月6日発売)から2017年48号(2017年10月26日発売)まで連載していた(全52話)。題字は平田弘史による。なお、バンデット (bandit) は山賊の意味だが、本作では『太平記』の時代に見られる悪党を指している。.

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嘉元

嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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嘉暦

嘉暦(かりゃく)は、日本の元号の一つ。正中の後、元徳の前。1326年から1329年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時、北条貞顕、北条守時。.

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和田英松

和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日)は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。.

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催馬楽

鍋島本「催馬楽曲譜」 催馬楽(さいばら)とは、平安時代に隆盛した古代歌謡。元来存在した各地の民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡である秋澤(2010)p.65。管絃の楽器と笏拍子で伴奏しながら歌われた「歌いもの」の一つであり、多くの場合遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われた増本(1990)p.108多田(2004)。語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などもあるが定かではない。.

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ゴダイゴ

GODIEGO(ゴダイゴ)は、1975年 に結成された日本のバンド。日本のプログレッシブロックバンドの草分け的存在。1970年代後半から1980年代前半にかけてヒット曲を連発し、日本の音楽界に多大なる影響を与えた。2006年に恒久的な再始動を宣言し、2017年11月現在も活動中。.

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円観

円観(えんかん、1281年9月1日(弘安4年閏7月17日) - 1356年4月2日(正平11年/延文元年3月1日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての天台宗の僧。字は慧鎮(えちん)。常用漢字を使って恵鎮と書かれることも多い。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の5帝に戒を授けたために「五国大師」の異名を得た。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内閣文庫

内閣文庫(ないかくぶんこ)は、明治以降内閣によって保管されてきた古書・古文書のコレクションである。現在は内閣府所管の独立行政法人国立公文書館に移管され、同館が所蔵している。江戸幕府から受け継いだ蔵書を中核として明治政府が収集した各種の資料を加えたもので、貴重な国書・漢籍を多数含み、総冊数は約49万冊にのぼる。 かつては文庫自身が固有の庁舎と専従の職員を抱えて存在していたが、後に新設された国立公文書館に統合されてその一課となり、現在では組織単位としても廃止された。このため内閣文庫の名は現在国立公文書館所蔵のコレクションの名前として存続しているのみである。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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八代宮

八代宮(やつしろぐう)は、熊本県八代市にある神社である。旧社格は官幣中社。.

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八代国治

戦前『吾妻鏡』研究の代表作 八代国治『吾妻鏡の研究』 八代 国治(やしろ くにじ、1873年1月2日 - 1924年4月2日)は、明治・大正期の歴史学者。長慶天皇在位の結論を出したことで知られている。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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六条有房

六条 有房 (ろくじょう ありふさ)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。太政大臣・久我通光の孫にして、左中将・六条通有の子。庶流出身で、父と同様に昇進は難渋したが、後宇多上皇の厚遇を得て内大臣に昇った。六条家2代当主。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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典侍

典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。 長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。准位では、従四位であったが、実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。なお、「藤典侍」、「源典侍」や「大納言典侍」などと、前に姓や、父親の官職名を付けて称する者が多かった。.

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元亨

元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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元徳

元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.

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元応

元応(げんおう)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1320年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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兵藤裕己

兵藤 裕己(ひょうどう ひろみ、1950年10月3日 - )は、日本中世文学、芸能研究者、学習院大学教授。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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光文社

株式会社光文社(こうぶんしゃ)は、日本の出版社。.

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勾当内侍

勾当内侍(こうとうのないし、生没年不詳)は、南北朝時代の女性である。本名は不詳。公家の世尊寺家の一族で、一条経尹あるいは一条行尹の娘、または一条行房の娘もしくは妹ともいう。『太平記』に新田義貞の妻の一人正妻は安東氏の娘。として登場する。.

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国史大系

国史大系(こくしたいけい)は、日本史を研究する上での基礎史料たる古典籍を集成し、校訂を加えて刊行した叢書である。その編纂は3次に亙って行われた。.

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国史大辞典 (昭和時代)

國史大辭典(こくしだいじてん)とは、昭和54年(1979年)から平成9年(1997年)にかけて吉川弘文館から刊行された、日本で最大級の歴史百科事典である。四六倍判で全15巻(17冊)、総収録項目数は54000余である。各巻は平均して1000ページ、うち平均150ページは原色図版など。第45回菊池寛賞を受賞した。 2010年7月1日よりデジタル版「国史大辞典」が、インターネット百科事典「ジャパンナレッジ」の新しいコンテンツとして公開された。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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四条隆資

四条 隆資(しじょう たかすけ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。南朝の実務における中心人物であり、最後は後村上天皇を守るために自ら足利軍と戦って戦死した。.

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四条貞子

四条 貞子(しじょう さだこ、藤原貞子(ふじわら の さだこ)、建久7年(1196年) - 正安4年10月1日(1302年10月22日))は、鎌倉時代の貴族女性で、西園寺実氏の正室。父は権大納言四条隆衡、母は坊門信清の女。同母弟に隆親、姉妹に灑子(儷子とも、二条良実室)、親子(西園寺公基室)がいる。准三宮。北山准后、今林准后といわれた。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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現代

代(げんだい)は、その時代が言及される時点において、現に今、進行している時代である。.

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琴浦町

大山滝 琴浦町(ことうらちょう)は、鳥取県の中央に位置する日本海に面した町。.

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神奈川県

奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300メートル (m) ほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位、人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位である。県内総生産も東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位となっている。県内の政令指定都市数は3つと日本最多で、面積は第43位の規模である(平成19年度面積)、国土地理院。。.

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神皇正統記

『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。.

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神楽

巫女神楽 神楽(かぐら)は、日本の神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞。.

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祥子内親王

祥子内親王(しょうし(さちこ)ないしんのう、生没年不詳)は、鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)にかけての皇族、歌人。後醍醐天皇第2皇女、母は阿野廉子(新待賢門院)。後村上天皇の同母姉妹。伊勢斎宮(最後の斎宮として知られる)。.

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笠置山 (京都府)

置山(かさぎやま)は、京都府相楽郡笠置町にある標高288mの山である。.

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笠置町

置町(かさぎちょう)は、京都府相楽郡にある町である。郵便番号は619-1303。2017年5月1日現在の人口は1,298人。 「わかさぎのはばたくまち 美しい自然と史跡に恵まれた心ふれあう町」を町の標語に掲げている。町の特産品は、キジ肉、シイタケ。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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箱根・竹ノ下の戦い

箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日(ユリウス暦)(建武2年12月11日)に、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、参集した軍勢との間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。.

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紫衣

紫衣(しい、しえ)は、紫色の衣服である。前近代の日本や中国では、高官が身に付けるべき高貴な色とされた。原則として庶民や低い位の官吏には着用できなかったが、特に許されることがあり、名誉とされた。.

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網野善彦

網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の歴史学者。専攻は中世日本史。.

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總持寺

總持寺(そうじじ)は、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院である。1911年に石川県鳳至郡門前町から現在地に移転。山号は諸嶽山(しょがくさん。本尊は釈迦如来。寺紋は五七桐紋。.

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群書類従

『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.

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絃上

絃上(げんじょう/けんじょう)とは、 村上天皇遺愛の琵琶の名器。その後中世ごろから剣璽と並ぶ皇位継承を象徴する品物(累代御物)として、宮中において重く扱われ、皇室第一の宝物とされた。一説に玄象・玄上とも書き、また玄象は仁明天皇遺愛の琵琶、絃上は村上天皇の御物にして両者は別であるともする(醍醐天皇の御物とする説もある)。 平安時代中期(一条天皇以降か)に従来の御衣や笏に加えて楽器類が累代御物の中に数えられるようになった。三条天皇から後一条天皇への譲位を記した『小右記』長和5年正月29日条には累代の「琵琶」が他の小道具とともに新帝に渡されたとあり、この琵琶が絃上であったとみられている。二条天皇に仕えた中原有安は絃上を弾くにあたって厳重に精進潔斎をしてから弾くものだと説いている(『胡琴教録』)。従って、内裏の中から外に持ち出すことが禁じられ、演奏が出来るのは天皇の許しがあった者だけ、例え天皇自身であったとしても秘曲の伝授など限られた時にしか弾けなかった。だが、後鳥羽上皇は元久2年(1205年)の土御門天皇の朝覲行幸と建暦元年(1211年)の順徳天皇の朝覲行幸の際に強引に内裏から自らの御所に絃上に持ち出して演奏した(本来、朝覲行幸は子の天皇が親である院のために楽曲を演奏するのが慣例であった)。また、院近臣で琵琶の達人である二条定輔がその師である藤原師長ですら2度しか許されなかった絃上を3度にわたって演奏の許しを得たのも後鳥羽上皇の時代である。 時代が下り、後深草天皇は幼少時から琵琶を習ってきたが、諸事情で琵琶の秘曲の伝授を受けられずに退位をせざるを得なかった。ところが、弟の亀山天皇が皇太子に決まってから琵琶の習得を始め、わずか数年で絃上にて秘曲「啄木」の伝授を受けるに至った。後深草天皇は御琵琶始の儀で絃上を用いたものの、秘曲の伝授の場でも絃上で行いたいと願ったところ、内裏からの持ち出し禁止を理由に亀山天皇に阻まれた。亀山天皇の絃上使用は皇位継承を巡る兄院との対抗関係から自身の権威づけを図る意図があったとみられている。ところが、花園天皇の時代である正和5年(1316年)に絃上が行方不明になり、次の後醍醐天皇は絃上がないまま即位した。治天の君である後宇多法皇の意向を受けた六波羅探題の武士が盗んだ犯人を捕らえ、転売されていた絃上が3年ぶりに内裏に戻った。後醍醐天皇は持明院統に対する牽制から「啄木」などの秘曲伝授の時だけでなく、元亨3年(1323年)の御会でも絃上を演奏している。.

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無文元選

無文元選(むもんげんせん、元亨3年2月15日(1323年3月22日) - 明徳元年/元中7年閏3月22日(1390年5月7日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。父は後醍醐天皇。勅諡号は聖鑑国師・円明大師。 父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家し、明窓宗鑑・雪村友梅などに師事した。1343年、中国の元に渡ることを志し、博多聖福寺の無隠元晦(むいんげんかい)に参禅した。その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国した後は、教化のため各地を巡国し、遠江国方広寺などを開創している。 Category:室町・安土桃山時代の男性皇族 Category:後醍醐天皇の子女 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:1323年生 Category:1390年没.

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異形コレクション

『異形コレクション』(いぎょうコレクション)は、作家井上雅彦が監修するホラーアンソロジーのシリーズである。 常に完全書き下ろしで、国内外の作家から、30巻「蒐集家」から36巻「進化論」までは一般読者からの投稿作品も掲載されている。 文庫サイズで、1巻から15巻までは廣済堂から、16巻からは光文社より刊行されている。 また、同じ光文社・カッパ・ノベルスから「異形コレクション・綺賓館(きひんかん)」というシリーズが刊行されており、こちらは書き下ろし作品と再録作品が半々で収録されている。他に徳間書店からは「異形ミュージアム」、角川書店からは「タロット・ボックス」という作品も数冊刊行されている。 本来の巻数表記はローマ数字だが、本項では通常のアラビア数字を代用する。.

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片岡仁左衛門 (15代目)

十五代目 片岡 仁左衛門(じゅうごだいめ かたおか にざえもん 1944年3月14日 - )は、日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡「片岡仁左衛門」の当代。屋号は松嶋屋。定紋は七つ割丸に二引、替紋は追っかけ五枚銀杏。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名及び旧芸名は片岡 孝夫(かたおか たかお)。半世紀近くにわたって本名のまま舞台に立ち続けていたので、大名跡「仁左衛門」を襲名した今日でも「孝夫」と呼ぶ人は多い。.

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相楽郡

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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隠岐諸島

島前 隠岐諸島(おきしょとう)は、島根半島の北方約50kmにある諸島。隠岐群島(おきぐんとう)、隠岐島(おきのしま)とも呼ばれる。現在は島根県隠岐郡に所属。山陰地方では今でも隠岐諸島を指して隠岐国(おきのくに)と呼ぶ場合がある。 当諸島は、島前(どうぜん)と島後(どうご)に分かれている。.

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花山院

花山院(かざんいん)は、平安京左京一条四坊三町(現在の京都御苑敷地内)にあった邸宅。花山法皇の後院となった後に、花山院家の所有となり、明治維新による東京奠都まで存続した。 当初は清和天皇皇子貞保親王の邸宅であったとされている。後に藤原忠平の邸宅となり、外曾孫の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子礼を執り行った。冷泉天皇の子・花山天皇は出家後にここを後院とした。1008年(寛弘5年)、ここで崩御したことにより、追号が「花山院」とされた。 その後、三条天皇皇后の藤原娍子とその子敦儀親王らが入ったが、1014年(長和3年)に火災で焼失した。その後、再建されて藤原頼通から師実に継承されて後冷泉天皇皇后の藤原寛子が居住したが、後に師実が改築して同母兄の藤原定綱に譲り、定綱はこれを師実の子で自分の娘婿でもあった藤原家忠に譲った。家忠は「花山院」と号し、その子孫は花山院流と呼ばれて、その宗家である花山院家が代々花山院を領した。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇が足利尊氏によって花山院に幽閉された後、壊れた築地から秘かに脱出して吉野に向かったことが、『太平記』などに書かれている。 何度も火災に遭いながらも、そのたびに再建されて明治に至ったが、東京奠都によってその歴史的役目を終えて取り壊された。ちなみに、京都御苑内にある宗像神社は、かつての花山院の邸内社であった。.

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花山院師継

花山院 師継(かざんいん もろつぐ、貞応元年(1222年) - 弘安4年4月9日(1281年4月28日))は鎌倉時代の公卿。花山院忠経の四男。兄に花山院定雅がいる。母は葉室宗行の娘。子に花山院師信、娘(西園寺実兼妻)。養女に後醍醐天皇の生母談天門院がいる。正二位。権大納言。.

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花園天皇

花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。 伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子。鎌倉時代の二つの皇統のうち持明院統に属する。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉宮

鎌倉宮(かまくらぐう)は、 神奈川県鎌倉市二階堂にある神社である。 護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮(おおとうのみや、またはだいとうのみや)。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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聖助法親王

聖助法親王(しょうじょほっしんのう)は、日本の南北朝時代の法親王。年代は前後するものの、ほぼ同時代に同名の法親王が南朝方と北朝方の双方にいた。.

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聖護院

本堂 宸殿 聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。 日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。.

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荘厳浄土寺

荘厳浄土寺歌碑と石碑 荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)は、大阪府大阪市住吉区にある、真言律宗の寺院。山号は朝日山。.

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青蓮院

宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.

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静尊法親王

静尊法親王(じょうそんほっしんのう、生没年不詳)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての法親王。後醍醐天皇の皇子で、母は参議正三位藤原実俊の娘遊義門院一条局。同母の兄弟に世良親王がいる。 出家して聖護院に入り、元弘の乱では1332年但馬国に配流となり、但馬国守護太田守延に預けられた。翌1333年千種忠顕が京に攻め込むと、太田守延とともにそれに加わり、静尊法親王はその大将となった。足利軍と戦ったが敗れ、その後の消息については不明である。 Category:日本の親王 Category:室町・安土桃山時代の男性皇族 Category:後醍醐天皇の子女 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:生年不明 Category:没年不明.

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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西園寺きつ子

西園寺 姞子(さいおんじ きつし、嘉禄元年(1225年) - 正応5年9月9日(1292年10月20日))は、後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后。西園寺実氏の長女で、母は四条隆衡の娘・四条貞子(北山准后)。後深草・亀山両天皇の生母、女院。院号は大宮院(おおみやいん)。法名は遍智覚(へんちかく)。.

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西園寺実兼

西園寺 実兼(さいおんじ さねかね/さねかぬ)は、鎌倉時代後期の公卿。従一位太政大臣。西園寺入道前相国、又は北山入道相国と号す。父は太政大臣西園寺公相、母は大外記中原師朝の娘。.

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西園寺実氏

西園寺 実氏(さいおんじ さねうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。従一位太政大臣。常盤井相國と号す。父は准三宮太政大臣西園寺公経。旧字で實氏。.

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西園寺家

西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)にちなむ。家紋は左三つ巴を使用。.

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西園寺公経

小倉百人一首より 西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。 小倉百人一首では入道前太政大臣。.

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西園寺禧子

西園寺 禧子(さいおんじ きし、藤原 禧子(ふじわら の きし)、 嘉元元年(1303年) - 元弘3年10月12日(1333年11月19日))は、鎌倉時代後期の女性。第96代後醍醐天皇の中宮。女院号は始め北朝側より礼成門院(れいせいもんいん)と称されるが、のちにそれは廃され、死後に改めて南朝側より後京極院(ごきょうごくいん)の号を追贈された。.

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饗庭氏直

饗庭 氏直(あえば うじなお/うじただ)は、南北朝時代の武将。足利尊氏の側近くに仕えた寵童として知られ、『太平記』では「容貌当代無双の児」と評されている。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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親王宣下

親王宣下(しんのうせんげ)、または内親王宣下(ないしんのうせんげ)とは、皇族の子女に親王および内親王の地位を与えることである。ここでは、主に日本の皇室について記載する。 明治時代以前には、たとえ天皇の子女であっても親王宣下を受けない限り、親王および内親王を名乗ることはできなかった(参考:良岑安世・源高明・以仁王)。逆に、世襲親王家の当主など天皇の孫以下の世代に相当する皇族であっても、親王宣下を受けて親王および内親王となることもあった。 親王宣下が始まったのは淳仁天皇以後である。 たとえば、以仁王、後西天皇の皇女貞宮、後世の比丘尼御所は宣下がなかったので、諸王である。 これに対して、孫王であっても宣下を賜れば親王であり、その最初は小一条院の子敦貞、敦元の2王および儇子、嘉子の2王女である。2王は三条天皇の皇子に準じて親王であり、2王女は天皇の養女として内親王の宣下があった。 この制度によって親王宣下を受けた者で、最後の生存者は1945年(昭和20年)5月に薨去した閑院宮載仁親王である。最後に親王宣下を受けた人物は1886年(明治19年)5月に宣下を受けた東伏見宮依仁親王、親王宣下を受けた最も若い人物は1875年(明治8年)1月生の華頂宮博厚親王である。 現代では皇室典範により、嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫が親王及び内親王であると定められており、皇族は生まれながらにして地位が決まっているため、親王宣下という形で王などの皇族に親王位を与える制度はなくなっている。ただし、王が天皇に即位した場合、その天皇の兄弟姉妹たる王及び女王に親王及び内親王の地位を与えるものとすることが皇室典範第7条に定められている。 Category:身位 *しんのうせんけ.

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親政

親政(しんせい)とは、君主(国王・皇帝・天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態(君主制の一形式)のことである。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高等学校

等学校(こうとうがっこう)は、日本における後期中等教育段階の学校。略して高校(こうこう)と呼ばれている。その名称から誤解されることもあるが、高等教育(ISCEDレベル5)を行う学校ではなく、後期中等教育段階(ISCEDレベル3)に相当する学校である。 1948年に発足した新制の高等学校は旧制の中学校、高等女学校、実業学校を改組再編したものである 国立教育政策研究所 2018年月14日閲覧。高等学校は中学校の教育を基礎とし、中学校の課程を修了した生徒に高度な普通教育および専門教育を施すことを目的とする。主に市民としての総合的な基礎教養、大学・専門学校など高等教育機関への進学準備、また就職に向けての技術・技能の習得の教育を行う。 新制の高等学校は小学区制・総合制・男女共学を原則としたものの前二者は実施には至らなかった。1990年代以降は中高一貫制の導入、単位制の実施、総合課程の導入など教育の多様化・柔軟化がみられる。 日本の高等学校の制度上の正式な英語表記はUpper Secondary Schoolである。一般には米国式のhigh schoolとの訳や、Senior high schoolとの訳(中学校のJunior high Schoolに対応した訳)もみられる。 なお、日本において学制改革後の1950年(昭和25年)まで存在した高等学校については、旧制高等学校を参照。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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鳥取県

鳥取県(とっとりけん)は、日本の県の一つである。中国地方の日本海側、いわゆる山陰地方の東側を占め、東は兵庫県、西は島根県、南は中国山地を挟んで岡山県・広島県に隣接し、西日本または中国地方有数の豪雪地帯でもある。また鳥取県は全国47都道府県中面積は7番目に小さく、人口は最も少ない。市の数も最も少なく、4市である。県庁所在地は県東部の鳥取市である。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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鶴見区 (横浜市)

見区(つるみく)は、神奈川県横浜市を構成する18の行政区の一つ。横浜市で初めて出来た区の一つでもある。.

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鷹司冬平

鷹司 冬平(たかつかさ ふゆひら 、 建治元年(1275年) - 嘉暦2年1月19日(1327年2月11日))は、鎌倉時代後期の公卿、歌人。後照念院関白と号す。 延慶元年11月10日(1308年12月22日) - 延慶4年3月15日(1311年4月4日)に摂政を務めた後、同年同日 - 正和2年7月12日(1313年8月4日)、正和4年9月22日(1315年10月20日) - 正和5年8月23日(1316年9月10日)、正中元年12月27日(1325年1月12日) - 嘉暦2年1月19日(1327年2月11日)の3回にわたって関白を歴任した。.

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鷹司冬教

鷹司 冬教(たかつかさ ふゆのり)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。鷹司基忠の三男だが、兄・冬平の養子となる。号は後円光院関白。.

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践祚

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.

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近衛基嗣

近衛基嗣(このえ もとつぐ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての日本の公卿。.

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近衛経忠

近衛 経忠(このえ つねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。関白近衛家基の孫にして、関白近衛家平の子であり、弟に覚実がいる。従弟基嗣との家門争いに敗れ、南朝に仕えた。号に後猪熊関白、堀河関白など。.

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船上山

船上山(せんじょうさん)は、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高687メートルの山である。.

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興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.

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阿野廉子

阿野 廉子(あの れんし/やすこ/かどこ、正安3年(1301年) - 正平14年/延文4年4月29日(1359年5月26日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての後宮・女院。後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母である。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。 父は右近衛中将・阿野公廉、母は不詳だが、後に洞院公賢の養女となった。実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている。.

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赤松則村

赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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藤原成親

藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。.

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邦良親王

北白川陵) 邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう、正安2年(1300年) - 正中3年3月20日(1326年4月23日))は、大覚寺統の後二条天皇の第一皇子。叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく薨去する。木寺宮家の祖となった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇#皇子の読みを参照。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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醍醐寺

醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。.

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至文堂

至文堂(しぶんどう)は、日本の出版社である。.

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金崎宮

金崎宮(かねがさきぐう)は、福井県敦賀市にある神社である。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社である。.

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院号

院号(いんごう)は、下に「院」の字が付く称号である。院(邸宅・寺院)に関係する、もしくは、歴史的には院に関係した。.

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院宣

院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。 『法曹至要抄』によれば、養老律詐偽律の解釈を巡る明法家の先例の学説として「太上天皇宣」の偽造は詔書と同一の罪に当たるとする説を挙げており早くから知られていた可能性があるが、院宣に関する記録の初見は延長7年(927年)の宇多上皇が伊勢神宮に宣旨を下されたことを受けて神宮側がその指示を神郡に向けて発した「延長七年大神宮勘注」(『大日本史料』一之六)である。院宣の重要度は、天皇の宣旨と同等、またはそれ以上とされていた。平安時代後期に院政が始まると、治天の君(院政を行う上皇)は、院宣や院庁下文を発給することで、自らの政治意思を明示・具現化していった。 院庁下文が、詔勅や太政官符などの政府として最終決定意思を表示する文書と、同等の効力が認められていたのに対し、院宣は形式の面でも効力の面でも、簡易なものとして発給されていた。すなわち、政府の重要事項については院庁下文で対応し、より即効的または柔軟な対応が必要なときは院宣を発給していたのである。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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NHK出版

株式会社NHK出版(エヌエイチケイしゅっぱん、NHK Publishing, Inc.)は、1931年(昭和6年)に設立された日本の出版社である。日本放送協会 (NHK) の関連会社で、2010年までの旧社名は日本放送出版協会(にっぽんほうそうしゅっぱんきょうかい)であった。.

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暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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掌侍

掌侍(ないしのじょう)とは、律令制における女官の1つ。本来は内侍司の判官だったが、後に尚侍・典侍とともに後宮全体の実務を取り仕切る立場となった。掌侍の第一臈を特に勾当内侍(こうとうのないし)といった。.

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恒良親王

恒良親王(つねよししんのう、つねながしんのう、正中元年(1324年) - 延元3年/建武5年4月13日(1338年5月3日))は、後醍醐天皇の皇子。母は後醍醐の寵姫阿野廉子。成良親王、義良親王の同母兄。後醍醐天皇と足利尊氏との内戦の中で、一時的に天皇となる。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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恒性皇子

恒性皇子(こうしょう(つねなり)おうじ、嘉元3年(1305年) - 元弘3年/正慶2年5月10日(1333年6月22日))は、鎌倉時代の皇族。後醍醐天皇の皇子。母親は源親子、義母は大叔母でもある憙子内親王(昭慶門院)。別名は大覚寺宮、越中宮。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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東伯郡

鳥取県東伯郡の位置(1.三朝町 2.湯梨浜町 3.琴浦町 4.北栄町 薄黄:後に他郡に編入された区域) 東伯郡(とうはくぐん)は、鳥取県の郡。名称は伯耆国の東部であることに由来している。 以下の4町を含む。.

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東慶寺

東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった寺を指して御所と呼ぶものの初出は1667年(寛文7年)の銅製燈明蓋の銘文であり「鎌倉御所之塔頭二老海珠庵」とある(井上禅定1955 p.39)。現存する中で最古の寺法離縁状は1738年(元文3年)のものであるが、そこでも寺を指して「松ヶ岡御所様」と記している(高木侃2012 p.26)。。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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村松剛

村松 剛(むらまつ たけし、1929年3月23日 - 1994年5月17日)は日本の評論家、フランス文学者。筑波大学名誉教授。立教大学、京都産業大学、筑波大学、杏林大学の各教授を歴任。 女優の村松英子は妹。.

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桜井好朗

桜井 好朗(さくらい よしろう、1931年9月17日 - 2014年5月8日)は、日本中世史・文学研究者、椙山女学園大学名誉教授、黄塵草堂桜井私塾長。 愛知県瀬戸市生まれ。1954年名古屋大学文学部史学科卒業。1977年「神々の変貌」で名古屋大学文学博士。豊田工業高等専門学校助教授、椙山女学園大学教授、名誉教授。1997年から2000年代前半に佛教大学文学部教授を務めた。 1982年「中世日本文化の形成-神話と歴史叙述で芸術選奨文部大臣賞受賞。中世文化史を専攻し、隠者、宗教、芸能など対象は幅広く、塚本邦雄など現代歌人についても論考がある。筆名・花井純一郎で詩歌も作った。.

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桜井英治

桜井 英治(さくらい えいじ、1961年11月 - )は、日本の歴史学者、東京大学教授。専門は日本中世史・流通経済史。茨城県出身。.

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森茂暁

森 茂暁(もり しげあき、1949年9月9日 - )は、日本の歴史学者。福岡大学教授 。専門は中世日本の政治と文化。文学博士(1985年、九州大学にて取得)。.

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楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

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横浜市

横浜市(よこはまし)は、関東地方南部、神奈川県の東部に位置する都市で、同県の県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、四国地方に匹敵するおおよそ373万人であり1府37県の人口を上回る。人口集中地区人口も東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、泉区、栄区の全域と瀬谷区、港南区の一部)。 幕末以降(詳しくは後述)から外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。関東大震災後は政府による積極的な振興政策により、京浜工業地帯の中核都市となった。.

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橋本実俊

橋本 実俊(はしもと さねとし、橋本實俊)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。橋本家の祖。.

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正安

正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.

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正中 (元号)

正中(しょうちゅう)は、日本の元号の一つ。元亨の後、嘉暦の前。1324年から1326年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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正中の変

正中の変(しょうちゅうの へん)は、鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた、後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件。この年は12月9日に改元あって正中元年となったため、日本史の上ではこの改元後の元号をとって「正中の変」と呼んでいる。.

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正応

正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.

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正倉院

正倉院正倉 正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

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正親町実明

正親町 実明(おおぎまち さねあきら)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣洞院公守の次男。左大臣洞院実泰の異母弟。羽林家に属する正親町家の始祖。正二位権大納言。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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歴史漫画

歴史漫画(れきしまんが)は、漫画作品をテーマ別に分類したもののひとつ。歴史上の出来事や人物などを題材としたもの。なお、教育的意図をもって歴史を扱った漫画に関しては学習漫画を参照のこと。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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永積安明

永積 安明(ながづみ やすあき、1908年2月6日 - 1995年1月1日)は、国文学者。神戸大学名誉教授。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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沢田ひろふみ

沢田 ひろふみ(さわだ ひろふみ、1964年9月12日 - )は、日本の漫画家。青森県中津軽郡相馬村(現・弘前市)出身。2004年、『遮那王義経』で第28回講談社漫画賞少年部門を受賞している。現在は歴史漫画を連載しているが、時代劇に興味を持つきっかけとなったのは、小島剛夕作画の『子連れ狼』の漫画版を見てとのこと。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河内祥輔

河内 祥輔(こうち しょうすけ、1943年10月 - )は、日本の歴史学者。北海道大学名誉教授、元法政大学文学研究科教授。中世史専攻。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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法仁入道親王

法仁入道親王(ほうにんにゅうどうしんのう、正中2年(1325年) - 文和元年/正平7年10月25日(1352年12月2日))は、南北朝時代の入道親王。父は後醍醐天皇。母は権大納言三位局道子。俗名は躬良。 1334年(建武元年)親王宣下を受け、1338年(暦応元年/延元3年)仁和寺大聖院で出家し、法守法親王から灌頂を受けた。翌1339年(暦応2年/延元4年)二品に叙せられ、六勝寺検校に就任した。.

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法勝寺

京都市勧業館にあった法勝寺の模型(現在は京都市平安京創生館に移設) 法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河(現在の岡崎公園、京都市動物園周辺)にあった、六勝寺のひとつである。 白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。.

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洞院実世

洞院 実世(とういん さねよ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣洞院公賢の子にして、実夏の庶兄に当たる。北畠親房・四条隆資・二条師基とともに、南朝の重鎮として政務を指導した公家大将である。.

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洞院実雄

洞院 実雄(とういん さねお)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。洞院家の祖。従一位左大臣。山階左大臣と号す。 娘3人がそれぞれ3人の天皇(亀山天皇、後深草天皇、伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父となった。.

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洞院実泰

洞院 実泰(とういん さねやす)は鎌倉時代後期の公卿。従一位左大臣。洞院左大臣または後山本左府と号す。父は太政大臣洞院公守。母は従三位平親継の娘。子に公賢、公敏、実守らがいる。.

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洞院佶子

洞院 佶子(とういん きつし、藤原 佶子(ふじわら の きつし)、寛元3年(1245年) - 文永9年8月9日(1272年9月2日))は、鎌倉時代の女性。亀山天皇の皇后で、後宇多天皇の生母。女院号は京極院(きょうごくいん)。.

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洞院公賢

洞院 公賢(とういん きんかた、正応4年8月(1291年) - 延文5年/正平15年4月6日(1360年4月21日))は、南北朝時代の公家。正式な名乗りは藤原公賢。父は左大臣洞院実泰。母は実泰の叔父にあたる小倉公雄の娘・季子。洞院家は藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。.

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洞院公泰

洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。左大臣洞院実泰の三男だが、後宇多法皇の養子となる。公賢・公敏の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。冷泉(れいぜい)と号した。.

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津守氏

津守氏(つもりうじ)は、「津守」を氏の名とする氏族。 住吉大社(大阪府大阪市住吉区)の歴代宮司の一族で、古代以来の系譜を持つ氏族である。.

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活火山

活火山(かつかざん、かっかざん)とは、国際的には一般に過去1万年以内(ほぼ第四紀完新世に相当)に噴火したことがある火山のこと。 日本の火山噴火予知連絡会・気象庁による定義でも「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」とされており、この定義による2017年現在の日本の活火山数は111である 気象庁 2017年6月20日。.

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清浄光寺

清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。.

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湊川の戦い

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。.

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源通子

源 通子(みなもと の つうし、生年未詳 - 承久3年(1221年)8月)は、第83代土御門天皇の後宮で第88代後嵯峨天皇の生母。父は参議正四位下左近衛中将源通宗(源通親の長男、贈従一位左大臣)。 典侍となり、土御門天皇の寵愛を受けた。建暦元年(1211年)春子女王、建保元年(1213年)覚子内親王(准三宮、正親町院)、建保2年(1214年)仁助法親王、建保4年(1216年)静仁法親王、承久2年(1220年)邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を産む。承久3年(1221年)8月、死去。後嵯峨天皇の即位により仁治3年(1243年)7月11日、贈皇太后。.

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満良親王

満良親王(みつよししんのう/みつながしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝皇族。後醍醐天皇の第十一皇子で、母は参議五辻宗親の女・中納言典侍親子である。花園宮(はなぞののみや)と号し、土佐南軍の統率に当たった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。.

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持明院保藤

持明院 保藤(じみょういん やすふじ、建長6年(1254年) - 康永元年/興国3年9月26日(1342年10月26日))は、鎌倉時代の貴族・公卿。正二位・権中納言。生年は建長3年(1251年)説もある。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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朝令暮改

朝令暮改(ちょうれいぼかい、朝令夕改とも言う、中国語:、、)とは、法令等がすぐに変更されて一定しないこと。朝令夕改、朝改暮変ともいわれる。清時代の王念孫『讀書雜志』漢書四では『漢紀』で「朝令而暮改、改、本作得、言急徵暴賦、朝出令而暮已得、非謂其朝令而暮改也」と「令」を「得」とするのが正しいとするなど表記は各説ある。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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朝松健

朝松 健(あさまつ けん、1956年4月10日 - )は、北海道札幌市生まれの小説家、怪奇小説家。本名、松井克弘。ペンネームの由来は作家アーサー・マッケンから。妻は魔女思想家の松尾未来。 密教立川流と室町時代をベースにした小説を精力的に発表している。またクトゥルフ神話についてのアンソロジー編纂についても内外から高い評価を得ている。.

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木寺宮康仁親王

木寺宮康仁親王(きでらのみや やすひとしんのう、元応2年(1320年) - 正平10年4月29日(1355年6月10日))は、南北朝時代の皇族。大覚寺統の後二条天皇の孫。後醍醐天皇の皇太子であった邦良親王の子。持明院統の光厳天皇の皇太子となるがのち廃嫡。官職は中務卿。後に木寺宮家を起こす。禅林寺宮とも号す。.

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有職故実

有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.

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成良親王

成良親王(なりよししんのう、なりながしんのう、嘉暦元年(1326年) - 興国5年/康永3年1月6日(1344年1月21日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は阿野廉子。同母兄弟に恒良親王、義良親王(後村上天皇)がいる。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

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新宣陽門院

新宣陽門院(しんせんようもんいん、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族・女院・女流歌人。近世の南朝系図では、後村上天皇第一皇女で中宮・顕子(北畠親房の女)所生の憲子内親王(けんしないしんのう)に比定するが、それを裏付ける史料はない。近年は後醍醐天皇皇女に比定する説も有力である(後述)。 院号宣下以前には、一品宮(いっぽんのみや)・一品内親王と称した。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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方広寺 (浜松市)

方広寺、方廣寺(ほうこうじ)は、静岡県浜松市北区にある寺院で臨済宗方広寺派の大本山である。山号は深奥山(じんのうざん)、寺号は詳しくは方広萬寿禅寺と称する。別称、奥山半僧坊。本尊は釈迦如来。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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文観

文観(もんかん、弘安元年(1278年) - 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代の僧。小野僧正。殊音上人、弘真。醍醐座主。「文観」という僧名と「殊音上人」という上人号は「文殊」菩薩と「観音」菩薩に因むものという。 正安2年(1302年)には般若寺の律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律を学ぶ。正和5年(1316年)に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。邪教とされていた真言宗立川流の僧としても知られ、円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。 後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。元亨4年(1324年)には般若寺に文殊菩薩像を造り、嘉暦元年(1326年)から後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪となる。 正慶2年 / 元弘3年(1333年)に元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り東寺長者となり、建武の新政で栄華を極めた。しかし、高野山の僧らは文観と立川流を危険視し、1335年(建武2年)に立川流の僧の多くを殺害、書物を灰燼に帰するといった大規模な弾圧を加えた。文観自身もこの時期に東寺長者の地位をはく奪され甲斐国へ流された。その後京都へ戻り、南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となる。河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没、享年80。 、河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。.

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文部科学省

文部科学省(もんぶかがくしょう、略称:文科省(もんかしょう)、Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology、略称:MEXT)は、日本の行政機関の一つである。 「教育の振興および生涯学習の推進を中核とした豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成、学術、スポーツおよび文化の振興並びに科学技術の総合的な振興を図るとともに、宗教に関する行政事務を適切に行うこと」を任務とする(文部科学省設置法3条)。 中央合同庁舎第7号館東館に所在している。2004年(平成16年)1月から2008年(平成20年)1月までの期間、新庁舎への建替え・移転のため丸の内の旧三菱重工ビルを「文部科学省ビル」と改称して仮庁舎としていた(その後、同ビルは丸の内二丁目ビルに改称され、みずほフィナンシャルグループの本社を経て、現在は東京商工会議所として使用されている)。.

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日野俊基

日野 俊基(ひの としもと、生年不詳 - 元弘2年/正慶元年6月3日(1332年6月26日))は、鎌倉時代末期の廷臣。刑部卿・日野種範の子。子に俊業・俊孝がいる。官位は従四位下・右中弁、贈従三位。.

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日野資朝

日野 資朝(ひの すけとも)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言・日野俊光の次男。.

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日本の歴史

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。 各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照。.

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日本古典文学大系

日本古典文学大系(にほんこてんぶんがくたいけい)は1967年までに、また新日本古典文学大系は2005年までに岩波書店が出版した日本の古典文学を対象とした全集である。.

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日本学協会

日本学協会は、日本学に関する研究・普及を行う財団法人であり、雑誌『日本』、学術誌『藝林』の発行、講演会の開催、図書の刊行などの事業を行っている。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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悪党

悪党(あくとう)は、.

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懐良親王

懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.

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懽子内親王

懽子内親王(きんし(よしこ)ないしんのう、正和4年10月16日(1315年11月13日) - 正平17年5月7日(1362年5月30日))は、鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)にかけての皇族、歌人。後醍醐天皇第2皇女、母は中宮・西園寺禧子(後京極院)。伊勢斎宮、のち光厳上皇妃、女院。院号は宣政門院。 元応元年(1319年)6月26日、内親王宣下。同年10月、一品に叙される。正中2年(1325年)8月16日、裳着。元徳2年12月19日(1331年2月4日)、16歳で父後醍醐天皇の斎宮に卜定。翌元弘元年(同じく1331年)1月、准三宮。同年8月20日、野宮に入る。まもなく元弘の変で後醍醐天皇が退位、隠岐へ配流のため、同年斎宮退下。元弘3年(1333年)12月、光厳上皇の後宮に19歳で入内。建武2年(1335年)2月2日、院号宣下。延元4年(1340年)5月29日、保安寺に入り出家。正平17年(1362年)5月7日、48歳で崩御。 『新千載和歌集』等に、懽子内親王(宣政門院)の詠歌が残っている。.

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教科用図書

教科用図書(きょうかようとしょ)は、日本の学校教育法に基づいて、初等教育・中等教育において主たる教材として使用される図書のことである。「教科書」とも呼ばれるが、「教科書」には「教科書に準ずるもの」として「地図」が含まれること(この場合の「地図」は、「教科書」として法令上みなされている)、また、一部に「教科書以外の教科用図書」(この場合の図書は「教科書」とはされていない)が使用されていることに留意を要する。.

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教科用図書検定

教科用図書検定(きょうかようとしょけんてい)とは、小学校・中学校・中等教育学校・高等学校並びに特別支援学校の小学部・中学部・高等部で使用される教科用図書(教科書)の内容が教科用図書検定基準に適合するかどうかを文部科学大臣(文部科学省)が検定する制度のこと(学校教育法第21条・第40条・第51条・第51条の9第1項・第76条・第107条など)。教科書検定(きょうかしょけんてい)とも呼ばれる。 学校教育法で、これらの課程(学校)においては「文部科学大臣の検定を経た教科用図書(文部科学省検定済教科書)又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書(文部科学省著作教科書)を使用しなければならない」と定められている。 ただし、高等学校、中等教育学校の後期課程、盲学校、聾学校、養護学校、種種の学校の特殊学級においては文部科学省検定済教科書・文部科学省著作教科書が存在していなかったり、教育で使用するのが適当でなかったりする場合は条件に応じて、他の適切な教科用図書を使用することもできる(学校教育法第107条、学校教育法施行規則第58条・第65条の10第3項・第73条の16第2項・第73条の12・第73条の19・第73条の20)。.

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慈照寺

東山慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。 室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。 山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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所功

所 功(ところ いさお、1941年(昭和16年)12月12日 - )は、日本の法学者、歴史学者、法制史学者。専門は日本法制史。学位は法学博士(慶應義塾大学・1986年)。京都産業大学名誉教授。公益財団法人モラロジー研究所教授(研究主幹)。麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授。京都産業大学日本文化研究所客員教授。皇学館大学特別招聘教授。.

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時事通信社

株式会社時事通信社(じじつうしんしゃ、Jiji Press Ltd.)は、1945年11月に創立された日本の通信社である国際地域研究センター『世界のメディア』p90。同盟通信社の法人サービス部門が母体。国内78カ所、海外28カ所の支社や支局を有する。 以前は略語に JP (JijiPress) を使用していたが、現在は Jiji を使用している。.

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1068年

記載なし。

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10月11日

10月11日(じゅうがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から284日目(閏年では285日目)にあたり、年末まであと81日ある。.

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11月22日 (旧暦)

旧暦11月22日は旧暦11月の22日目である。六曜は友引である。.

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11月26日

11月26日(じゅういちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日ある。.

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11月2日 (旧暦)

旧暦11月2日(きゅうれきじゅういちがつふつか)は旧暦11月の2日目である。六曜は赤口である。.

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1288年

記載なし。

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12月15日

12月15日(じゅうにがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から349日目(閏年では350日目)にあたり、年末まであと16日ある。.

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12月20日 (旧暦)

旧暦12月20日(きゅうれきじゅうにがつはつか)は、旧暦12月の20日目である。六曜は先勝である。.

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12月9日 (旧暦)

旧暦12月9日(きゅうれきじゅうにがつここのか)は、旧暦12月の9日目である。六曜は友引である。.

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1302年

記載なし。

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1303年

記載なし。

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1304年

記載なし。

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1307年

記載なし。

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1308年

記載なし。

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1318年

記載なし。

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1319年

記載なし。

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1321年

記載なし。

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1324年

記載なし。

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1326年

記載なし。

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1329年

記載なし。

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1331年

記載なし。

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1332年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1334年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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1336年

記載なし。

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1339年

記載なし。

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1371年

記載なし。

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1408年

記載なし。

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1510年

記載なし。

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1625年

記載なし。

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1681年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1872年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1889年

記載なし。

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1890年

記載なし。

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1892年

記載なし。

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1915年

記載なし。

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1920年

記載なし。

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1920年代

1920年代(せんきゅうひゃくにじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1920年から1929年までの10年間を指す十年紀。.

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1934年

記載なし。

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1937年

記載なし。

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1939年

記載なし。

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1970年

記載なし。

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1981年

この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.

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1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

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1987年

この項目では、国際的な視点に基づいた1987年について記載する。.

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1993年

この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.

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1月27日

1月27日(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から27日目に当たり、年末まであと338日(閏年では339日)ある。.

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1月29日 (旧暦)

旧暦1月29日は旧暦1月の29日目である。年によっては1月の最終日となる。六曜は大安である。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

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2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

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2月23日 (旧暦)

旧暦2月23日は旧暦2月の23日目である。六曜は赤口である。.

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2月26日 (旧暦)

旧暦2月26日は旧暦2月の26日目である。六曜は先負である。.

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2月29日 (旧暦)

旧暦2月29日は旧暦2月の29日目である。年によっては2月の最終日となる。六曜は赤口である。.

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3月29日

3月29日(さんがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。.

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3月29日 (旧暦)

旧暦3月29日は旧暦3月の29日目である。年によっては3月の最終日となる。六曜は先勝である。.

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4月26日 (旧暦)

旧暦4月26日は旧暦4月の26日目である。六曜は大安である。.

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4月28日 (旧暦)

旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。.

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4月30日

4月30日(しがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から120日目(閏年では121日目)にあたり、年末まではあと245日ある。4月の最終日である。誕生花はナシ、ムラサキハナナ。.

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8月15日 (旧暦)

旧暦8月15日は旧暦8月の15日目である。六曜は仏滅である。.

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8月16日 (旧暦)

旧暦8月16日は旧暦8月の16日目である。六曜は大安である。.

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8月26日 (旧暦)

旧暦8月26日は旧暦8月の26日目である。六曜は先負である。.

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8月29日 (旧暦)

旧暦8月29日は旧暦8月の29日目である。年によっては8月の最終日となる。六曜は赤口である。.

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8月9日 (旧暦)

旧暦8月9日(きゅうれきはちがつここのか)は、旧暦8月の9日目である。六曜は仏滅である。.

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9月18日

9月18日(くがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から261日目(閏年では262日目)にあたり、年末まであと104日ある。.

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9月19日

9月19日(くがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から262日目(閏年では263日目)にあたり、年末まであと103日ある。.

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9月8日 (旧暦)

旧暦9月8日は旧暦9月の8日目である。六曜は仏滅である。.

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