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後花園天皇

索引 後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

174 関係: 即位右京区大炊御門信子大炊御門信宗大聖寺 (京都市)天皇天皇陵太上天皇太閤女院嫡流孝謙天皇宝徳室町幕府室町時代宮中三殿宮内庁安禅寺寛正小川宮崩御崇光天皇左大臣上京区両統迭立中風常照皇寺常盤井宮常盤井宮全明親王三種の神器三条実量一条兼良一条教房享徳京都市京都府庭田幸子庭田経有康正二条持基二条持通亀山天皇伏見宮伏見宮貞常親王伏見宮貞成親王伯夷・叔斉征夷大将軍後南朝後小松天皇後二条天皇...後土御門天皇後円融天皇応仁応仁の乱応永土一揆土御門内裏ワラビ嘉吉嘉吉の乱出家典侍光厳天皇光仁天皇勅撰和歌集皇室皇居皇位継承火葬禁闕の変称光天皇細川勝元続柄綸旨猶子猿楽畠山政長花の御所韻文行宮親王宣下親族高辻継長譲位足利義満足利義政足利義教鷹司房平践祚蹴鞠近世近衛房嗣赤松氏関白闘鶏長禄長禄の変長禄・寛正の飢饉院政椿葉記正長永享永享の乱清水寺漢詩持明院統朝敵木寺宮木寺宮邦康親王戒名明仁明徳の和約明治新続古今和歌集新撰菟玖波集文安文徳天皇文明 (日本)日野富子摂政11月18日 (旧暦)12月21日 (旧暦)12月27日 (旧暦)12月3日1419年1422年1425年1428年1429年1430年1433年1439年1441年1443年1444年1447年1449年1452年1455年1457年1460年1461年1462年1464年1467年1470年1471年1869年1月18日1月21日1月23日1月24日1月2日 (旧暦)1月3日 (旧暦)2月 (旧暦)2月17日 (旧暦)2月19日 (旧暦)2月5日 (旧暦)3月10日6月18日 (旧暦)7月10日7月17日 (旧暦)7月19日 (旧暦)7月20日 (旧暦)7月25日 (旧暦)7月28日 (旧暦)8月21日8月27日9月20日 (旧暦)9月28日 (旧暦)9月5日 (旧暦)9月7日 インデックスを展開 (124 もっと) »

即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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右京区

右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつ。市内西北部に位置し、旧京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。 区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。 区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれた。.

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大炊御門信子

大炊御門 信子(おおいのみかど のぶこ、応永18年(1411年) - 長享2年4月28日(1488年6月8日))は、後花園天皇の下臈。女院号は嘉楽門院(からくもんいん)。右馬助藤原孝長女で大炊御門信宗の猶子。子に後土御門天皇・観心女王。 初め、非参議和気郷成の猶子となり、郷子と呼ばれる。その後、和気保家(郷成の子)の猶子となる。後花園天皇の寵愛を受けて宮中に召され、大炊御門信宗の猶子となって宮中に上がり「伊与」と号した。嘉吉2年(1441年)に儲君成仁親王(後土御門天皇)を生んだことから、准后とされ居住していた正親町東洞院殿より「東洞院殿」と呼ばれた。後土御門天皇即位後、女院とする話がたびたび上がるが実父の身分の低さが障害となり実現しなかった。文明13年(1481年)に重篤に陥ったことから急遽、7月26日になって嘉楽門院の称号が授けられたが、程なく快方に向かった。ただし、その後も『御湯殿上日記』などには「東洞院殿」という称号は登場しても「女院」の敬称はほとんど用いられていない。78歳で没した。 なお、実父の右馬助藤原孝長を『尊卑分脈』でたどると以下の通り。.

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大炊御門信宗

大炊御門 信宗(おおいのみかど のぶむね)は、室町時代の公卿。 応永25年(1418年)1月従三位となり、公卿に列する。応永26年(1419年)3月陸奥権守を兼任。応永28年(1421年)正三位権中納言、応永32年(1425年)従二位権大納言に叙任される。永享元年(1429年)右近衛大将を兼ね、さらに左近衛大将に転じる。永享4年(1432年)1月正二位に昇り、8月内大臣に任じられたが、11月左大将を辞任し、翌年(1433年)10月内大臣を辞任した。嘉吉2年(1442年)1月従一位に昇叙。享徳2年(1453年)に出家したが、その後の消息は明らかでない。 後土御門天皇の養外祖父であることから、文明12年(1480年)1月26日に太政大臣を追贈された。『宣胤卿記』によれば、当日は信宗の十三年忌に当たるという。 のふむね Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:1391年生 Category:1468年没.

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大聖寺 (京都市)

大聖寺(だいしょうじ)は、京都市上京区にある寺院。花の御所、すなわち室町幕府の跡地の一部を占める。宗旨は臨済宗系の単立。山号は岳松山。本尊は釈迦如来。御寺御所とも称する、天皇家ゆかりの尼門跡寺院である。非公開のため拝観不可。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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太閤

太閤(たいこう)、正式名称太閤下は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指す。敬称は「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。 また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という。.

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.

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宝徳

宝徳(ほうとく)は、日本の元号の一つ。文安の後、享徳の前。1449年から1451年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮中三殿

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居にある、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。吹上御苑の東南にある。.

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

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安禅寺

安禅寺(あんぜんじ)は各地にある寺。.

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寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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小川宮

小川宮(おがわのみや/こかわのみや、応永11年6月28日(1404年8月4日) - 応永32年2月16日(1425年3月6日))は、室町時代の日本の皇族。後小松天皇の第2皇子。母は日野西資国の娘・光範門院日野西資子。同母兄弟に、兄の称光天皇、妹の理永女王がいる。諱は伝わらず『本朝皇胤紹運録』はただ「皇子」とのみ記す中世の皇族が諱を命名される契機としては、元服と親王宣下のふたつがある。親王宣下に際して命名されるのは、皇后を母とする皇子など、将来の天皇として嘱望されている皇族の場合が多い。極端な例としては、生後16日で親王宣下を受けた後深草天皇、生後26日で親王宣下を受けた安徳天皇などがある。この場合は乳児であっても親王宣下と同時に諱が命名され、その後10歳から15歳ほどで元服する。親王になれる見込みのない不遇の皇族の場合は、元服の際にはじめて諱が命名される。23歳になってはじめて元服を遂げ諱を命名された後嵯峨天皇、40歳で元服した後崇光院などの例がある。さらに、元服を遂げることができなければ、諱を持たないまま一生を終えることになる。。追号は竜樹寺宮。 称光天皇の儲君に治定され、その後継者とされていた 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.168が、元服直前に薨去した。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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崇光天皇

崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))は、南北朝時代の北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日(1348年11月18日) - 正平6年11月7日(1351年11月26日))。諱を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上京区

沂高校 京都市歴史資料館 京極小学校、左手に二宮金次郎の像が現存している 上京区(かみぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。.

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両統迭立

両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。 日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。.

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中風

中風(ちゅうふう、地方によって「ちゅうぶ」、「ちゅうぶう」、「ちゅうふ」などと呼ぶところもある)は、現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉として用いられている。中気、卒中また俗に「よいよい」ともいう。.

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常照皇寺

常照皇寺(じょうしょうこうじ)は、京都府京都市右京区京北井戸町にある臨済宗天龍寺派の寺院。本尊は釈迦如来。詳名は大雄名山万寿常照皇寺(だいおうめいざん まんじゅじょうしょうこうじ)。かつては常照寺(じょうしょうじ)と呼ばれていた。.

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常盤井宮

常盤井宮(ときわいのみや)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した宮家。世襲宮家の体裁を最初に備えた宮家であると規定される。始祖は亀山天皇(法皇)の皇子・恒明親王。.

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常盤井宮全明親王

常盤井宮全明親王(ときわいのみやまたあきらしんのう、永享11年(1439年) - 大永元年12月7日(1522年1月4日))は室町時代の皇族。常盤井宮家5代当主。4代・直明王の子で、兄弟に勧修寺に入った恒弘法親王がいる。 後崇光院の猶子となり、永享11年4月に親王宣下を受け、3年後の嘉吉2年(1442年)には弾正尹に補任された(『砂巖』)。この時代には珍しく長命を保ち、大永元年に83歳で薨去したが、先祖伝来の館・常盤井殿が応仁元年(1467年)6月に兵火にあい全焼するなど、政治の混乱に翻弄され、不遇な生涯であった。.

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三種の神器

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。中でも八尺瓊勾玉・草薙剣は併せて剣璽と称される。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。.

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三条実量

三條 實量(さんじょう さねかず)は、日本の室町時代の公卿。.

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一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

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一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。 永享10年(1437年)元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍足利義教(第6代将軍)から偏諱を受け教房と名乗る(弟の教賢(きょうけん、僧)も同様である)。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、応仁2年(1468年)一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父兼良の下向を誘ってみたり、父が帰洛した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。長男の政房は既に応仁の乱の中で戦死していたため、家督は40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継いだ。 尚、次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。 File:Tomb of Ichijo Norifusa.jpg|一条教房墓(高知県四万十市).

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享徳

享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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庭田幸子

庭田 幸子(にわた ゆきこ、元中7年(1390年) - 文安5年4月13日(1448年5月24日))は、室町時代の女性。初名は経子。女房名は今参局、二条局、南御方。院号は敷政門院。父は庭田経有、母は飛鳥井雅冬の娘の善照房。後崇光院伏見宮貞成親王の仕女であるが、親王の『看聞日記』をみるかぎり他に親王の妻に当たる女性はなく、事実上の正室格であったとみられる。二男五女の母で、現在の皇室の先祖に当たる後花園天皇が第一皇子、旧皇族11宮家の先祖に当たる伏見宮貞常親王は第二皇子である(即ち女性としては皇室と旧皇族11宮家の最後の共通先祖に当たる)。 永享6年(1434年)3月16日、従三位に叙任、この時に名を経子とする。文安元年(1444年)4月26日、准三后となり、幸子と改名。文安5年(1448年)3月4日に院号宣下、同年4月13日に59歳で薨去。 ゆきこ Category:女院 Category:1390年生 Category:1448年没 ゆきこ.

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庭田経有

庭田 経有(にわた つねあり)は、室町時代前期の公家。権大納言庭田重資の子。姉資子が崇光天皇の典侍として伏見宮栄仁親王を生んで以来、宮家との関わりが深く、その家司を務めた。後花園天皇の外祖父に当たる。 詳しい経歴は不明であるが、叙爵を受けた後、正平19年/貞治3年(1364年)1月正五位下に叙され、間もなく従四位下・右少将に至る。伏見宮家司を務め、その御領である近江山前北荘を拝領した。応永5年(1398年)5月栄仁親王の落飾に先立ち出家。法名を明堯という。同19年(1412年)5月15日に卒し、伏見に葬られた。享年は60代か。 後花園天皇の外祖父に当たることから、33年忌の文安元年(1444年)5月6日に左大臣・従一位を追贈されたが、当時は出家した人物への贈官は希有な例とされた。『新続古今和歌集』に1首入集した歌人である他、琵琶も嗜んでいる。また、日記の自筆断簡(応永5年5月18日~26日記)が宮内庁書陵部所蔵の伏見宮御記録の中に現存する。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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二条持基

二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。.

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二条持通

二条 持通(にじょう もちみち)は、日本の室町時代の公卿。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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伏見宮

伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。 第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。 昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになったことにともない、第26代博明王が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき皇籍離脱した11宮家(旧皇族)はいずれもこの伏見宮の系統である。.

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伏見宮貞常親王

伏見宮貞常親王(ふしみのみや さだつねしんのう)は、室町時代の皇族。二品式部卿。世襲親王家、伏見宮第4代当主。.

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伏見宮貞成親王

伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう、応安5年3月5日(1372年4月9日) - 康正2年8月29日(1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどう しんのう)。太上法皇としての院号は後崇光院(ごすこう いん)。 現在の皇室と旧皇族11宮家の最後の共通の男系祖先として知られる。著作に『看聞日記』『椿葉記』がある。.

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伯夷・叔斉

伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、古代中国・殷代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。 一説には二人の姓は子、氏は墨胎、伯夷の諱は允・字は公信、叔斉の諱は致・字は公達で、夷・斉はそれぞれの諡であるとされる。なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後円融天皇

後円融天皇(ごえんゆうてんのう、延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日))は、南北朝時代の北朝第5代天皇(在位:応安4年3月23日(1371年4月9日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日))。諱は緒仁(おひと)という。.

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応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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土一揆

土一揆(つちいっき・どいっき)は、室町時代中期から後期にかけて発生した民衆の政治的要求活動をいう。.

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土御門内裏

土御門内裏(つちみかどのだいり)は、平安時代の後期、平安京左京1条3坊9町に存在した里内裏。鳥羽天皇から3代の天皇の里内裏として用いられた。土御門烏丸殿、土御門室町殿とも。現在の京都市上京区鷹司町付近にあたる。 元は源師時の邸宅であったが、治天の君白河院の近臣であった蔵人頭藤原顕隆の提案で新たな里内裏として改築が行われた。その際に「屋舎如大内」(『台記』久安3年3月22日条)、すなわち大内裏を模倣して造作され、配置や建物の名称も大内裏のものをそのまま採用した。 永久5年11月10日(1117年12月5日)、鳥羽天皇が初めてこの内裏に入り、保安4年(1123年)にはここで崇徳天皇へ譲位し、そのまま内裏として用いられた。保延4年11月24日(1138年12月27日)に火災で焼失。再建されて、2年後の保延6年11月より再び内裏となり、永治1年(1141年)には同所にて崇徳天皇から弟の近衛天皇に位が譲られた。その後も近衛天皇の内裏であったが、久安4年6月26日(1148年7月13日)に再度焼失した。仁平2年(1152年)頃から再建が開始されたが、途中で暴風雨による災害、近衛天皇の崩御、保元の乱などによって中止と再開を繰り返した。保元の乱後、後白河天皇は久しく再建されていなかった大内裏の再建を打ちだし、土御門内裏の再建の方は中止されてそのまま廃された。.

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ワラビ

ワラビ(蕨、学名:Pteridium aquilinum)はシダ植物の1種。コバノイシカグマ科。かつてはイノモトソウ科に分類されていた。草原、谷地、原野などの日当たりのよいところに群生している。酸性土壌を好む。山菜のひとつに数えられている。 春から初夏にまだ葉の開いてない若芽(葉)を採取しスプラウトとして食用にするほか、根茎から取れるデンプンを「ワラビ粉」として利用する。ただし、毒性があるため生のままでは食用にできない。伝統的な調理方法として、熱湯(特に木灰、重曹を含む熱湯)を使ったあく抜きや塩漬けによる無毒化が行われる。 この名は同時にシダ類の代表的な名として流用され、たとえばイヌワラビ、クマワラビ、コウヤワラビなどがある。また、アイヌ語でもワラビを「ワランビ」「ワルンベ」などと呼称しており、日本語由来の言葉と考えられている。.

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嘉吉

嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.

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嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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典侍

典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。 長官は、尚侍であったが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に長官となった。准位では、従四位であったが、実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。なお、「藤典侍」、「源典侍」や「大納言典侍」などと、前に姓や、父親の官職名を付けて称する者が多かった。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光仁天皇

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.

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勅撰和歌集

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、天皇や上皇の命により編集された歌集のことである。古今和歌集(延喜5年(905年)成立)に始まり、新続古今和歌集(永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」という。このほかに南朝で編纂された新葉和歌集を準勅撰集とする。 また編集時期による分類として、三代集(古今集・ 後撰和歌集・拾遺集)・八代集(古今集から新古今集)・十三代集(新勅撰集から新続古今集)とする。(三代集と八代集の対象は重複していることに注意).

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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皇位継承

1928年(昭和3年)11月、即位の礼の時の昭和天皇 皇位継承(こういけいしょう)は、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。.

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火葬

火葬(かそう)とは、葬送の一手段として遺体を焼却することである。また、遺体の焼却を伴う葬儀全体も指す。 火葬を行う施設や建築物を火葬場と呼ぶ。.

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禁闕の変

禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。 「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。.

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称光天皇

光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.59(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇(在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。.

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細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

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続柄

続柄の関係図 続柄(つづきがら)とは、血縁関係あるいは婚姻関係を指す語である。俗に「ぞくがら」と読まれることもある。 血族と姻族、直系と傍系、尊属と卑属の意味や親等については「親族」を参照。 本項目において「親族」とは、民法第725条「親族の範囲」で定める「法定親族」を指す。.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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猿楽

猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.

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畠山政長

山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚長)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。.

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花の御所

花の御所(はなのごしょ)は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称()であり、敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた。京都御所()がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した。.

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韻文

韻文(いんぶん)とは、聴覚に一定の定まった形象を感覚させる一定の規則(韻律)に則って書き表された文章。散文の反意語。多く詩において用いられる。 一定のリズムを持ち、暗誦されるのに適しているため、古代から神話や歴史の叙述に用いられてきた。俳句、和歌、漢詩、連歌、連句、四行詩、脚韻詩などの韻文詩なども韻文に含まれる。.

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行宮

行宮(あんぐう(かりみや))とは、皇帝もしくは天皇の、行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事を言われる。他に行在所(あんざいしょ)、御座所(ござしょ)、頓宮(とんぐう)とも。 日本の行宮の初出は、神武天皇が東征(神武東征)のとき、吉備国に行宮を建ててこれに居たというものである。すなわち高島宮である。 また、神社によっては行宮を持つものもある。.

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親王宣下

親王宣下(しんのうせんげ)、または内親王宣下(ないしんのうせんげ)とは、皇族の子女に親王および内親王の地位を与えることである。ここでは、主に日本の皇室について記載する。 明治時代以前には、たとえ天皇の子女であっても親王宣下を受けない限り、親王および内親王を名乗ることはできなかった(参考:良岑安世・源高明・以仁王)。逆に、世襲親王家の当主など天皇の孫以下の世代に相当する皇族であっても、親王宣下を受けて親王および内親王となることもあった。 親王宣下が始まったのは淳仁天皇以後である。 たとえば、以仁王、後西天皇の皇女貞宮、後世の比丘尼御所は宣下がなかったので、諸王である。 これに対して、孫王であっても宣下を賜れば親王であり、その最初は小一条院の子敦貞、敦元の2王および儇子、嘉子の2王女である。2王は三条天皇の皇子に準じて親王であり、2王女は天皇の養女として内親王の宣下があった。 この制度によって親王宣下を受けた者で、最後の生存者は1945年(昭和20年)5月に薨去した閑院宮載仁親王である。最後に親王宣下を受けた人物は1886年(明治19年)5月に宣下を受けた東伏見宮依仁親王、親王宣下を受けた最も若い人物は1875年(明治8年)1月生の華頂宮博厚親王である。 現代では皇室典範により、嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫が親王及び内親王であると定められており、皇族は生まれながらにして地位が決まっているため、親王宣下という形で王などの皇族に親王位を与える制度はなくなっている。ただし、王が天皇に即位した場合、その天皇の兄弟姉妹たる王及び女王に親王及び内親王の地位を与えるものとすることが皇室典範第7条に定められている。 Category:身位 *しんのうせんけ.

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親族

親族(しんぞく)とは、血縁関係または婚姻関係で繋がりを有する者の総称である。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高辻継長

辻 継長(たかつじ つぎなが、応永21年(1414年)-文明7年7月3日(1475年8月4日))は、室町時代中期の公卿。高辻長郷の子。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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鷹司房平

鷹司 房平(たかつかさ ふさひら)は、日本の室町時代の公卿。.

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践祚

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.

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蹴鞠

談山神社のけまり祭 蹴鞠(けまり/しゅうきく)とは、平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技である。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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近衛房嗣

近衛 房嗣(このえ ふさつぐ)は、日本の室町時代の公卿。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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闘鶏

鶏(ベトナム) 闘鶏(とうけい)は、鶏と鶏が戦う競技。チキンファイトともいう。通常、戦うのは雄鶏同士である。脚に小型の刃物を括り付けて戦わせることもある。.

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長禄

長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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長禄の変

長禄の変(ちょうろくのへん)は、室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って、神璽を持ち去った事件。.

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長禄・寛正の飢饉

長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)は、長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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椿葉記

椿葉記(ちんようき)とは、室町時代に伏見宮貞成親王(後崇光院)が著した伏見宮家の家譜。全1巻。南北朝時代後半の北朝及び室町時代の皇室史に関する歴史書として価値を有している。.

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正長

正長(しょうちょう)は、日本の元号の一つ。応永の後、永享の前。1428年の期間を指す。この時代の天皇は称光天皇、後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

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永享の乱

永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.

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清水寺

清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。.

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漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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朝敵

朝敵(ちょうてき)は、日本において天皇とその朝廷に敵対する勢力を意味する呼称である。.

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木寺宮

木寺宮(きでらのみや)は、鎌倉時代から室町時代中期にかけて存続した宮家。常盤井宮家に次いで、世襲親王家の体裁を備えていた。始祖は後二条天皇の皇子である皇太子邦良親王、初代はその嫡男の康仁親王。称号の由来は、邦良親王以下の代々の殿宅が洛西の葛野郡木寺(仁和寺付近)にあったことによるという。経済的に衰微した後は、遠江国に移ったともいわれる。.

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木寺宮邦康親王

木寺宮邦康親王(きでらのみや くにやすしんのう)は、室町時代の皇族。後二条天皇皇子邦良親王の玄孫で、木寺宮世平王の末子。木寺宮家5代当主。兄に承道法親王・明仁法親王、子に静覚法親王(師熙親王)らがいる。 祖父邦恒王、父世平王がともに親王宣下を受けずに失脚・早世し、大覚寺統の嫡流を汲む木寺宮家は断絶に瀕していた。しかし、永享年間に後光厳院流の皇胤が払底したため、兄の承道・明仁が後小松上皇の猶子となり相次いで門跡を継承。享徳2年(1453年)12月子の師熙も後花園天皇の猶子として仁和寺に入室した。康正元年(1455年)2月、既に40歳に達していた邦康はようやく後崇光院の猶子として親王宣下を蒙った。ただ、立親王には特別な事情があったらしく、邦康は宣旨を「密儀内々に伝え進らすべし」と要請している。同年10月には元服、同時に三品・中務卿に叙任された。 同じ大覚寺統の常盤井宮家と比較しても、当主が40歳まで出家や元服をせずに冷遇されていたのは異例で、当時の公家社会では無名の存在であったことが窺える。親王宣下で日の目を見たのも一時に終わり、その後の事績は判然としない。文明4年(1472年)8月、三品中務卿として源満仲に従二位を追贈する旨の位記を伝宣しているのが恐らく終見であろう『多田院文書』文明4年8月17日付故源満仲追贈位記。従って、栗原信充の『木寺宮系抜書』に文明3年6月12日(1471年6月30日)薨去とあるのは誤りである。。程なく木寺宮家は京都での消息が途絶え、宮家としては廃絶した。子孫は遠江に下向したとの説もある。.

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戒名

戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。 上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。 また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)ともいった。 また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。とは言うものの、故人の社会的地位始め社会貢献度、またお寺への貢献度などによるため、高額を払ったからといって、高い位の戒名をもらえるわけではない。 一般にカナ文字を用いないため、転じて、「漢字のみの縦書き文字列」の俗的表現として用いられることがあり、特に新聞・雑誌編集においてカナ文字を含まない見出しをこう称し、読者に不快感を催しかねない表現とされる。; 戒名を用いない宗旨.

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明仁

明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は日本の第125代天皇(在位: 1989年(昭和64年)1月7日 - )である代数は皇統譜による。。現時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇(きんじょうてんのう)、または敬称をつけて天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれることが多い。 昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。 御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)。 日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。.

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明徳の和約

明徳の和約(めいとくのわやく)は、明徳3年/元中9年(1392年)に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について結ばれた協定。明徳の和談、元中一統とも。 この和約に従って同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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新続古今和歌集

『新続古今和歌集』(しんしょくこきんわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。二十一代集の最後にあたる。.

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新撰菟玖波集

『新撰莬玖波集』(しんせんつくばしゅう)は、室町時代後期の准勅撰連歌撰集。20巻。句数は約2000句。 大内政弘の発願により、宗祇を中心として、猪苗代兼載・宗長・肖柏らの協力により撰集され、1495年(明応4年)に成立した。心敬・宗砌・後土御門天皇・専順・大内政弘など約250人の句を集めた有心連歌の集大成である。.

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文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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文徳天皇

文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年8月(827年) - 天安2年8月27日(858年10月7日))は、平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年3月19日(850年5月4日) - 天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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日野富子

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍足利義尚の母。従一位。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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11月18日 (旧暦)

旧暦11月18日は旧暦11月の18日目である。六曜は仏滅である。.

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12月21日 (旧暦)

旧暦12月21日は旧暦12月の21日目である。六曜は友引である。.

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12月27日 (旧暦)

旧暦12月27日は旧暦12月の27日目である。六曜は友引である。.

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12月3日

12月3日(じゅうにがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から337日目(閏年では338日目)にあたり、年末まであと28日ある。.

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1419年

記載なし。

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1422年

記載なし。

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1425年

記載なし。

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1428年

記載なし。

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1429年

記載なし。

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1430年

記載なし。

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1433年

記載なし。

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1439年

記載なし。

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1441年

記載なし。

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1443年

記載なし。

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1444年

記載なし。

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1447年

記載なし。

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1449年

記載なし。

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1452年

記載なし。

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1455年

記載なし。

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1457年

記載なし。

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1460年

記載なし。

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1461年

記載なし。

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1462年

記載なし。

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1464年

記載なし。

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1467年

記載なし。

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1470年

記載なし。

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1471年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1月18日

1月18日(いちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から18日目に当たり、年末まであと347日(閏年では348日)ある。.

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1月21日

1月21日(いちがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から21日目に当たり、年末まであと344日(閏年では345日)ある。.

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1月23日

1月23日(いちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から23日目に当たり、年末まであと342日(閏年では343日)ある。誕生花は、スノーフレークなど。.

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1月24日

1月24日(いちがつにじゅうよっか、いちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から24日目に当たり、年末まであと341日(閏年では342日)ある。.

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1月2日 (旧暦)

旧暦1月2日(きゅうれきいちがつふつか)は、旧暦1月の2日目である。六曜は友引である。.

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1月3日 (旧暦)

旧暦1月3日(きゅうれきいちがつみっか)は旧暦1月の3日目である。六曜は先負である。.

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2月 (旧暦)

旧暦2月(きゅうれきにがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から2番目の月である。 春分を含む月が2月となる。新暦では2月下旬から4月上旬ごろに当たる。 2月の別名は如月(きさらぎ)である。名前の由来は2月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、2月29日までで2月30日は存在しない年もある。 なお、琉球方言では旧暦の2月から、沖縄地方の梅雨入り前までの時期を「うりずん」(「潤い初め」の意味)と呼ぶ。.

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2月17日 (旧暦)

旧暦2月17日は旧暦2月の17日目である。六曜は赤口である。.

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2月19日 (旧暦)

旧暦2月19日は旧暦2月の19日目である。六曜は友引である。.

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2月5日 (旧暦)

旧暦2月5日(きゅうれきにがついつか)は旧暦2月の5日目である。六曜は赤口である。.

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3月10日

3月10日(さんがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から69日目(閏年では70日目)にあたり、年末まであと296日ある。.

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6月18日 (旧暦)

旧暦6月18日は旧暦6月の18日目である。六曜は大安である。.

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7月10日

7月10日(しちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から191日目(閏年では192日目)にあたり、年末まであと174日ある。誕生花はグロキシニア、マツバボタン。.

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7月17日 (旧暦)

旧暦7月17日は、旧暦7月の17日目である。六曜は大安である。.

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7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.

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7月20日 (旧暦)

旧暦7月20日(きゅうれきしちがつはつか)は、旧暦7月の20日目である。六曜は友引である。.

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7月25日 (旧暦)

旧暦7月25日は旧暦7月の25日目である。六曜は先勝である。.

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7月28日 (旧暦)

旧暦7月28日は旧暦7月の28日目である。六曜は仏滅である。.

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月27日

8月27日(はちがつにじゅうななにち、はちがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から239日目(閏年では240日目)に当り、年末まであと126日ある。.

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9月20日 (旧暦)

旧暦9月20日(きゅうれきくがつはつか)は旧暦9月の20日目である。六曜は仏滅である。.

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9月28日 (旧暦)

旧暦9月28日は旧暦9月の28日目である。六曜は赤口である。.

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9月5日 (旧暦)

旧暦9月5日(きゅうれきくがついつか)は旧暦9月の5日目である。六曜は先勝である。.

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9月7日

9月7日(くがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から250日目(閏年では251日目)にあたり、年末まであと115日ある。.

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